世界の墓
世界恩人巡礼大写真館 【English Version】

冒険家、スポーツ選手、落語家、棋士コーナー


★46名

●冒険家
アムンゼンの墓
ガガーリンの墓
バスコ・ダ・ガマの墓
コロンブスの墓
ロバート・スコットの墓
ロバート・ピアリーの墓
ダニエル・ブーンの墓
マルコ・ポーロの墓
リビングストンの墓
植村直己の墓
小野妹子の墓
ジョン万次郎の墓
白瀬矗の墓
大黒屋光太夫の墓
支倉常長の墓
間宮林蔵の墓

●落語家
安楽庵策伝の墓
5代目古今亭志ん生の墓
3代目古今亭志ん朝の墓
8代目桂文楽の墓
6代目三遊亭圓生の墓
三遊亭圓朝の墓
5代目柳家小さんの墓
初代林家三平の墓
7代目林家正蔵の墓
横山やすしの墓
●スポーツ、武道関係
植芝盛平の墓
サルコウの墓
ベーブ・ルースの墓
ルー・ゲーリックの墓
ヘンリー・チャドウィックの墓
ジョー・ディマジオの墓
アンディ・フグの墓
ジャイアント馬場の墓
当麻蹴速の墓
出羽海の墓
橋本真也の墓
双葉山の墓
力石徹の墓
力道山の墓


●棋士&チェス王者
天野宗歩の墓
大橋宗桂の墓
坂田三吉の墓
本因坊算砂の墓
本因坊秀策の墓

ボビー・フィッシャーの墓









★ロバート・スコット/Robert Falcon Scott 1868.6.6-1912.3.29 (南極 43歳)2008
Body frozen near the South Pole



全滅したスコット隊、南極点にて。後列左からウィルソン(動物学者、39歳)、スコット(隊長43歳)、エヴァンズ(水兵37歳、最初の死者)。
前列左からパワーズ(船上勤務から本隊に急遽抜擢、28歳)、オーツ(馬担当32歳、行方不明)。1912年1月18日の正午近くに撮影











スコット、パワーズ、ウィルソンの日記が発見され最後の様子が明らかになった

南極の絶景! 南極の山は高い。アンデス山脈に連なる山系だ






アルゼンチン最南端・ウシュアイア チリ南端・プンタアレナス

初日 2日目
本来ならスコット隊の終焉の地--南緯79度50分、東経178度の場所まで足を運んで墓参したかったけど、
さすがに今の僕にはそこまでの予算も装備もない。持参した方位磁石でスコットの墓の方向を調べ、
心を込めて遙拝することに。ところが!あまりに南すぎて、コンパスの針が回らなかった!これにはビックリ。
とにかく、太陽の位置や船の進行方向、周囲の地形をもとに方向を割り出し、スコットに感謝の言葉を捧げた!

赤い×印がスコットの遭難地。地図を見れば海岸の基地まであともう一息だったことが分かる…。
そして左上の青い×印は僕が巡礼したポイント。いつか本当に墓前まで行って手を合わせたい


●詳しくは『2008 南極・スコット巡礼』の特設ページへ!




★マルコ・ポーロ/Marco Polo 1254.9.15-1324.1.8 (イタリア、ヴェネチア 69歳)2002
Venezia, Italy

  
ポ−ロはヴェネチア生まれ
この教会にマルコ・ポーロの墓があると文献には書かれているが、入口には巨大な錠がかけられており入れなかった。付近の住人に何時ごろ開くのか尋ねると「ここ何十年か開いているのを見たことがない」との返事。ギャフン。いったい司祭たちは何処へ?

彼の名を有名にした『東方見聞録』が出た際に、彼のことを“ホラ吹き”と中傷する連中がいた。これに対するマルコの答えがいい!〜
「私は見たことの半分も話していない」



★ガガーリン/Yurii Gagarin 1934.3.9-1968.3.27 (ロシア、モスクワ 34歳)2005
Kremlin Wall, Moscow, Russian Federation

  

クレムリンの壁にガガーリンの墓碑は埋め込まれている。墓前にはカメラを持ち込めないので超望遠で激写!



★植村 直己/Naomi Uemura 1941.2.12-1984.2.13 (東京都、板橋区、乗蓮寺 43歳)2000

  
墓碑には詩人・草野心平の追悼文が刻まれている(乗蓮寺)
1970年、29歳で日本人初のエベレスト登頂に成功。さらにキリマンジャロ、マッキンリー、アコンカグア、エルブルーズを征服し、世界で初めて5大陸最高峰を制覇した。また、アマゾン川を筏で下り、37歳で北極圏1万2千キロを犬ぞりで単独走破し、北極点にも達した。しかし1984年、北米最高峰(6194m)のマッキンリー(アラスカ)の“冬期”単独登頂に世界で初めて成功したものの、下山中の2月16日、捜索機に手を振って応えたのを最後に消息を絶った。43歳の誕生日の2日後のことだった。
※命日は“手を振っていた日”ではなく、最後の交信があった2月13日とされた。
彼の亡骸はまだ見つかっていない。しかし、大勢の人が手を合わせに来るこの場所に、彼の魂は戻って来ていると僕は信じている!国民栄誉賞受賞。
「自然は征服するものではなく、学ぶものである」「自分の力で切り抜けられる時は、祈るよりも立ち向かうべきだと山は教えてくれた」(By植村直己)

※名前は干支の巳を取って役所に「直巳」と届けたんだけど、手違いで直己となったんだって。



★リビングストン/David Livingstone 1813.3.19-1873.5.1 (ロンドン、ウェストミンスター 60歳)2002
Westminster Abbey, London, England

  
英国人でアフリカ探検の第一人者リビングストンは、奴隷制度廃止を主張した先駆者でもある。アフリカを愛していた彼は欧米社会からの帰国の勧めを断り、そのままアフリカで生をまっとうした。死後、亡骸は英国に運ばれたが、本当はアフリカの大地に眠りたかったんじゃないかな…。現在はウェストミンスター寺院の入って右奥に眠っている。



★コロンブス/Christopher Columbus 1451.9.1-1506.5.20 (スペイン、セビリア 54歳)2005
Sevilla Cathedral, Sevilla, Andalucia, Spain

  

歴代のセビリア国王がコロンブスの棺を担いでいるとのこと!
※ドミニカ共和国にもコロンブスのものと伝えられる墓がある。




★バスコ・ダ・ガマ/Vasco da Gama 1469‐1524.12.24 (ポルトガル、リスボン 55歳)1994
Monastery of Jeronimos, Lisbon, Lisboa, Portugal

  

ヨーロッパから喜望峰を越えインドに至る新航路を発見した冒険野郎。168名で出航した一行のうち、無事に
ポルトガルに戻れたのは55名だった。リスボンの聖ジェロニモス修道院にバスコ・ダ・ガマの墓がある。



★大黒屋光太夫/Daikokuya Koudayu 1751-1828.4.15 (三重県、鈴鹿市、南若松墓地 77歳)2008









JR伊勢若松駅前の光太夫像 片足を少し前に出す小粋なポージング 町をあげての大歓迎 大黒屋光太夫記念館の前にも




神昌丸の模型。実物は体育館ほど
もある大きな船!(帆だけで25m)
なんと江戸時代中期に日本からペテルブルグまで行って帰ってきた!
帰国の翌年、光太夫と磯吉は11代将軍家斉の面前でロシア見聞を報告した
映画『おろしや国酔夢譚』使用
のエカテリーナ2世の衣装





光太夫の故郷にある千代崎港 今も漁師たちが次々と沖へ出ていた 光太夫も立ったであろう若松海岸



遭難の2年後、全員が死んだともの
と思われ故郷に建立された供養碑
うっすら“俗名光太夫”と見える
(2008)
若松海岸に立つ光太夫顕彰碑


 
こちらは東京都墨田区の回向院にある大黒屋光太夫供養碑。帆掛け舟の形をした大変珍しいお墓だ。こちらもまだ光太夫が生きていたのに全員遭難死したと早合点され建たったもの。光太夫の死後、江戸本郷の興安寺に墓が建てられたが、その後に無縁仏となり墓石の行方はわからないという。故郷の子孫も近年絶えたとのこと(2004)

三重県鈴鹿市に生まれる。1782年、光太夫(31歳)が船長を勤めた神昌丸(総員17名)は、江戸に向けて鈴鹿から米などの物資を運ぶ途中で暴風雨に合い、帆柱は折れ、櫨も失って操船不可能になり漂流する(ここで1人死亡)。7ヶ月後にアリューシャン列島のアムチトカ島に漂着した彼らは、島民らとラッコ等の海獣を狩猟して生を繋げる(厳しい寒さで7名が死亡)。何とか日本に帰国したい彼らは、ロシアの役人に陳情するため、4年後にカムチャツカに渡る(ここで3名死亡)。しかし、そこでは願いを聞き取られず、生き残りの6名は帰国嘆願書を携え、2年後にシベリア総督のいるイルクーツクに向かった。だがここでも良い返事は返ってこない。イルクーツクで知り合った植物学者キリル・ラクスマンは、彼らに深く同情し、かくなるうえは首都ペテルブルグで皇帝に直訴しようと提案する。1791年(40歳)、光太夫とラクスマンの2人は首都に到着。直訴の前に宮廷マナーやロシア語の読み書きを身につけ、女帝エカチェリナ2世との謁見を果たし、ついに帰国の許可と援助を得た(エカチェリナは鎖国中の日本との貿易を望んでいた)。イルクーツクに戻ると1名が病死しており、5人のうち2人はロシアに永住する道を選び(1人はロシア人と結婚していた)、光太夫を含め3名だけが帰国の途へつく。1792年、漂流から10年後に根室に帰着(根室で1名死亡)。2年後(43歳)、江戸に入った光太夫と磯吉(28歳、最後まで残った船員)は、悲惨なことに鎖国の禁を破った犯罪者として江戸番町の薬園に軟禁されてしまい、後半生を約30年間、軟禁生活のまま終えた(一度だけ鈴鹿に戻ることを許された光太夫だが、故郷では彼を死んだと思った妻が他の男と再婚していた…)。江戸時代に稀有な体験をした男たちだった。
※井上靖の小説『おろしや国酔夢譚』は彼らを描いたもの。

日本まで戻って来られたのに根室で病死した小市を憐れみ、故郷の人が地元に建てた供養碑



★小野 妹子/Imoko Ono (大阪府、南河内郡太子町、小野妹子墓)2005


 
大陸への渡航は難破・漂流が当たり前だった時代に2度も渡航した
勇気ある男。スーパー外交官にして華道池坊の始祖!
後の遣唐使船






科長(しなが)神社の参道から約120段の石段を登った高台にある
階段脇の石柱
登りきった所にあった妹子の墓。約15mの楕円形の古墳だ






古墳を撮影しているのは一緒に同行したNH○の取材クルー カメラさんと音響さん 一帯は推古天皇らが眠る「王陵の谷」。歴史ロマン爆発

時は589年!『隋』の文帝が後漢の崩壊以来、実に約370年ぶりとなる中国統一を果たした。超巨大帝国の誕生を受け周辺国には緊張が走る。朝鮮半島の三国、百済・新羅・高句麗は、隋の建国後すぐに使者を送って国交を結んだ。一方、日本は100年以上も中国と公式に交流を持っておらず、大陸の情報が極端に不足していた。大和政権の聖徳太子は、渡来した高僧から隋が高度な文明社会を築いていることを聞かされる。隋では政治に儒教を導入して役人に道徳を重んじさせ、法律と官僚制による優れた行政システムを持ち、首都長安では仏教芸術が花開いていることを知った。当時の日本は大豪族が一族の利益を最優先に互いに争い、民衆の暮らしは常に困窮しており、あまりに政治制度が立ち遅れていた。太子は先進国の隋と国交を結ぶことで、最先端の文化・技術を採り入れると共に、交流を通して日本の国際的地位を向上させようと思った。
 
そして600年、ついに太子は120年ぶりに使者を大陸に派遣する。隋の文帝は官僚の登用に際し、貴族が世襲制で就任していた伝統を廃して、真に優秀な人材を確保する為に、全ての人々に登用の機会を与える科挙(国家試験)を導入した人物。日本の政治システムを問われた使者は、大和政権に法令もなく政治的に未成熟だったことから、天皇の権威を全面に出す為に古来の日本神話を引き合いに出してしまう。文帝は呆れて「倭国(日本)の政治は道理にかなっていない。指導して改めさせねば」と語り、使者は外交関係を結んでもらえなかった。
日本にとって屈辱的とも言える、この第1回遣隋使の失態は『日本書紀』には記載されておらず、中国側の歴史書にのみ載っている。発奮した太子は603年に官僚制の基礎となる冠位十二階を、翌604年には十七条憲法を制定し、蘇我馬子と協力して606年には金色に輝く飛鳥大仏を造らせた。
もう以前の大和政権ではない。リベンジの体勢は整った。翌607年、太子は『日本書紀』に記されている“第1回”の遣隋使を派遣した。

小野妹子は近江国滋賀郡小野村出身。600年頃に聖徳太子に見出され、冠位十二階の中位・大礼(だいらい)という位に就く。小野氏が代々学問に優秀な一族であったことから、妹子は遣隋使の代表として選抜された。通訳は鞍作福利(くらつくりのふくり)。607年の遣隋使は、大阪の住吉津(住吉大社近辺)から出航し、瀬戸内海、玄界灘を経て黄海を北上し、大陸を西に進んで長安に至った。
妹子が謁見したのは、3年前に父(文帝)と兄を暗殺して2代皇帝に即位した暴君・煬帝(ようだい)。聖徳太子が記した国書の文面はこうだった。

「日出ずる処の天子、書を日没するところの天子に致す、つつがなきや云々」
“日が昇る東の国の天子(天皇)が、日が沈む西の国の天子(皇帝)に手紙を送ります。お元気ですか?”

これを読んだ煬帝は激怒。隋は朝鮮半島の高句麗、百済、新羅を属国扱いしていたが、島国日本はさらにその下の後進国と見なしていた。そんな国が対等に振舞うばかりか、隋を没落国家のように「日没する国」とは無礼千万。しかも「天子」という中国の皇帝にしか使われぬ尊い言葉を日本の王に使うとは何事か。煬帝は隋の外交官に「今後、無礼な蛮族の書はワシに見せるな」と命じるほど憤慨する。
妹子は処罰されそうになったが、このころ隋は高句麗への遠征で苦戦しており、「ここは高句麗の背後に位置する日本と手を結んだ方が得策」と、煬帝は友好姿勢をとることにした。太子の「これからは対等な関係で行くのでヨロシク」という目論見は見事成功した。

翌608年4月、煬帝は外交官・裴世清(はいせいせい)に妹子を日本まで送らせた。この時の隋の使節団は12人。難波津(大阪湾)から大和川を上り奈良桜井に上陸し、歓迎の飾り馬75頭に率いられて飛鳥に入り、8月に推古天皇に謁見して煬帝の国書を読み上げた--「倭王は海の彼方にいて、よく人民を治め、国内は安楽で、風俗は穏やかだと知った。遠く朝献して来た心を、朕は嬉しく思う」。天子ではなくあえて倭王と言うところに煬帝のプライドが垣間見える。
煬帝は妹子にも返書を持たせていたが、妹子は帰国途中で百済人の盗賊に奪われたと言って、これを朝廷に提出しなかった。隋の使節団や警護兵らと多数で行動していたはずなのに、彼1人が「奪われた」というのはあまりに不自然。これは返書の内容が日本をひどく属国扱いした内容だったり、大和政権に朝鮮系の渡来人が多くいたので彼らの隋への反感を考えて、嘘をついて破棄したと見るのが定説。推古天皇もこれを内心で察していたらしく、臣下たちが“返書紛失の大失態により妹子を流刑せよ”と騒ぐのを、勅命で「一切罪に問わない」と救った。

翌月、妹子を見送った裴世清が帰国する際に、見送り役として妹子が選ばれた(裴世清は“貴殿を送ってきたのに”と笑っただろう)。これが公的な第2次遣隋使となり、18名の留学生・学僧が「世界をこの目で見たい」と乗船している。その中には30年後に帰国して私塾を開き、藤原鎌足と中大兄皇子の師となる南淵請安(みなみぶちしょうあん)の顔もあった。
煬帝に宛てた2通目の国書は、煬帝が「天子」→「倭王」とした部分を「倭王」→「天皇」に変え、『東天皇敬白西皇帝』(東の天皇、西の皇帝に啓白す)とした。※古代日本では天皇を大王(おおきみ)と呼んでいたので、推古天皇が文字として「天皇」を使ったことから初代天皇とする説もある。

一年後、609年に妹子が帰国。遣隋使はその後も数回派遣されたが、隋の国内で煬帝の圧政に対する反乱が相次ぎ、9年後(618年)に煬帝は側近(近衛兵)に暗殺され隋は滅ぶ。遣隋使も614年が最終便となり、16年後(630年)の第1回遣唐使派遣まで大陸との交流が途絶えた。

帰国後の妹子は、冠位十二階の第5階大礼から第1階大徳まで華々しく昇進し、小豪族としては異例の大出世をした。後半生は聖徳太子が創建した京都・六角堂の守護を太子に命じられ、出家して名を「専務(せんむ)」と改める。
彼は太子が沐浴した池のほとりに暮らし、六角堂の仏前に、朝夕に花を供えた。これが華道の始まりとなり、坊舎が池の側にあったことから「池坊(いけのぼう)」と呼ばれるようになる。以後1400年間、池坊代々の家元が六角堂の住職を務めると共に「供花(くげ)」の習慣が受け継がれてゆく。室町期に12世専慶が立花の名手と称えられ、13世専応が『池坊専応口伝』を表し、一瓶の花を独立して観賞するという、生け花の理念を体系化した。
妹子によって六角堂は生け花の発祥地となり、『池坊華道』は華道界の一大流派に発展する。※境内の井戸が太子沐浴の池の名残。

季節風や海流の深い知識もなく、船体強度も弱かった飛鳥時代。遣唐使が12回のうち7回も難破漂流しているように、この時代に外洋へ出ることは死の覚悟をすることだった。死者・行方不明者が続出する大陸への渡航を2度も行なった妹子は、非常に勇気のある男だ。妹子のおかげで、大陸の進んだ文化を多く学ぶことが出来たし、未開の島国と思われていた日本の国際的地位は大きく向上した。

※小野一族は、平安期に歌人・小野小町や書家・小野道風を輩出している。

京都市中京区に残る六角堂(頂法寺)

太子が沐浴されたと伝えられる池跡。妹子の坊舎は
現在「池坊会館」(池坊総務所)になっている
華道発祥之地















華道家元 六角堂に向けて今も供花 池坊会館の3Fは華道の資料館だ かなり凶暴な白鳥らしい!(笑)



★ジョン万次郎/Jhon-Manjiro 1827.1.27-1898.11.12 (東京都、豊島区、雑司ヶ谷霊園 71歳)2007&08

2007 冬だったので17時もう真っ暗 2008 この時は花があってホッコリ 傍らには「贈正五位」と刻まれた巨大石碑

本名、中浜万次郎。高知(土佐)出身。1841年、14歳の時にカツオ漁に出て漂流し、米国の捕鯨船ジョン・ホーランド号に救助される。そのまま捕鯨船で働き、太平洋、大西洋、インド洋などを巡り、江戸時代の日本人でありながら世界を見た。1851年(24歳)、貯金で自ら捕鯨船を購入し帰国。土佐藩での取り調べは坂本龍馬の視野を広げ影響を与えた。その後、幕府や明治政府で英語を教えるなど要職を得、波乱の人生を閉じた。
※鎖国中に渡米したことから、彼は日本人で初めて鉄道や蒸気船に乗った人間となった。



★支倉 常長/Tunenaga Hasekura 1571-1622.7.1 (宮城県、仙台市、光明寺 51歳)2007








常長の墓は数カ所に伝えられている 常長に同行した宣教師の石碑が側に 墓前には常長を讃える、とてつもなく巨大な碑文があった

伊達政宗が派遣した慶長遣欧使節の正使。洗礼名はフェリペ・フランシスコ。1613年(42歳)、宮城県石巻市から出港。太平洋を横断してメキシコへ入り、そこから今度は大西洋を渡ってスペインに上陸。さらにイタリアまで進んで、なんと当時のローマ法王パウロ5世に謁見を果たした。イタリアでは公民権をおくられ貴族に列せられ、民衆からも厚い歓迎を受けたが、1620年(49歳)に帰国。ところが日本はキリシタンへの弾圧が吹き荒れており、仙台藩にかくまわれた常長は失意の中で病死したという。



★力石 徹/Tooru Rikiishi (東京都、文京区、護国寺) プロボクサー




 





在りし日の力石選手。デビュー以来13連続KOの快進撃!

僕が墓参した時、先に来てる青年がいた。彼はこう話しかけていた。
「たっぷり飲め力石。減量の心配は、もうねぇんだからよ」

1970年3月24日、力石徹選手(バンダム級)の告別式が特設リングの設けられた講談社講堂で執り行われた(喪主は寺山修司)。
追悼のテンカウントと読経の後は、追善試合やミュージカルまで上演された。全国から集まった弔問客は800人を超えたという。合掌。

※力石選手のファンの方で、彼の年齢(享年)をご存知の方がおられましたら、ぜひ当方までご連絡下さい。m(_ _)m




僕が墓地で見かけたのはこの選手かもしれない。髪型が特徴あるし…。考えすぎだろうか?



★力道山/Rikidouzan 1924.11.14-1963.12.15 (東京都、大田区、池上本門寺 39歳)1994

   

ここはプロレスファンの聖地エルサレム!猪木と馬場を育て上げた力道山の墓は、新日&ノア&全日ファン共通の御神所なのだ。

本名金信洛(キムシンラク)、北朝鮮・咸鏡南道生まれ。日本名は百田光浩。175cm116kg。3歳で父を亡くし、母の手で育てられる。体格の良さから大相撲の二所ノ関部屋にスカウトされて来日し、1940年に16歳で初土俵をふむ。力道山の名は同部屋に飾られた近衛文麿の揮毫「力心一道」に因むとも、朝鮮半島にある同名の山に因むともいわれている。
22歳で入幕をはたし、25歳の時に関脇に昇進するが、肺を病んで翌年自ら髷(まげ)を切り廃業。その後、進駐軍の慰問興行でプロレスを見てレスラーに転向する(彼をレスラーに誘ったのは“007ゴールドフィンガー”で帽子を使う殺し屋を演じたハロルド坂田。坂田が米国からレスラーを連れてきていた)。1951年(27歳)、元世界チャンピオン、ボビー・ブランズとのエキシビション・マッチでデビュー。翌年、武者修業のために渡米し約1年間に260戦以上をこなす。29歳、帰国後に日本プロレス協会を発足させる。30歳、柔道出身の木村政彦を破って初代日本ヘビー級王者となった後、31歳の時に元横綱東富士と組んでハワイ・タッグマッチ選手権を制覇。1956年(32歳)、遠藤幸吉と組んで有名なシャープ兄弟を破り、世界タッグマッチ王座を奪取!敗戦の影響で外国にコンプレックスを抱いていた日本人は、力道山が必殺技・空手チョップで戦勝国アメリカ人レスラーをなぎ倒すのを街頭テレビで見て拍手喝采した。
※36歳、ブラジル遠征中に移住日本人の中にいた17歳の猪木寛至をスカウト、少年はアントニオ猪木となった。彼は同じ日にデビューした5歳年上のジャイアント馬場とライバルになっていく。
1963年12月、赤坂キャバレー「ラテンクォーター」で口論となった暴力団員に登山ナイフで腹部を刺され入院、医療ミスや手術後の不養生が重なって腸閉塞を併発、7日後に39歳の若さで死去した。

「力道三は泣きません。涙が流れているだけです!」



★アンディ・フグ/Andy Hug 1964.9.7-2000.8.24 (京都府、北区、大徳寺芳春院 35歳)2003





この喪失感…!




若き日のフグ

“青い目のサムライ”アンディ・フグ。愛称鉄人。身長180cm、体重98kg。カカト落としや下段後ろ回し蹴り(フグトルネード)を得意とした。
急性前骨髄球性白血病により他界。彼は禅思想に傾倒していたので、京都の禅寺に分骨されている。(本墓はスイスにあるとのこと)
※自炊してご飯にバナナとヨーグルトをかけて食べていたらしい。味はともかく栄養価はバツグンだ。
※大徳寺芳春院は一般には非公開。




★ジャイアント馬場/Giant Baba 1938.1.23-1999.1.31 (兵庫県、明石市、本松寺 61歳)2005

馬場さんの実家は八百屋さんで有名
(新潟県三条市 2008)
兵庫の本松寺。布が巻かれていた

このお寺には宮本武蔵が
設計した名庭がある

菩提寺には馬場さんが生前に建てたお墓があるのですが、05年5月の時点では、まだ納骨されておられませんでした。
他界から6年も経っているんだけど、どうしちゃったのかな…(汗)


本名馬場正平(しょうへい)。元プロ野球選手。身長209cm、全盛期の体重は145kg。生涯に5769試合を行う。新人時代に
猪木と十数回対戦して全勝したが、馬場は一度も自分からその話をしなかった。ラスト・ファイトは1998年12月5日。


JR三条駅で見かけた白ポスト。「大人が変われば子どもも変わる」。
その通り!子供ではなく大人に訴えているのが素晴らしい



★植芝 盛平/Morihei Ueshiba 1883.12.14-1969.4.26(和歌山県、田辺市、高山寺 86歳)2001






50歳(1933) この圧倒的な存在感!ド迫力 最強お爺ちゃん 77歳(1960)

紀州・扇ケ浜公園の盛平像

合気道は相手の暴力を制するものであり、
生命の殺傷を目的としたものではない

合気道の創始者。出身は和歌山県田辺市。1900年、17歳で商人になるため上京し、親戚の文房具店で働く。夜間は天神真揚流で柔術を稽古。20歳、入隊して2年後に満州へ出征(日露戦争)。23歳、除隊後に帰郷。軍隊時代に柳生心眼流柔術の免許皆伝を受けた。20代後半の頃、地元の学者・南方熊楠が「神社合祀反対運動」を繰り広げ、これに激しく共鳴する。
1912年(29歳)、北海道へ開拓団のリーダーとして田辺の54戸と渡り、北端に白滝村(遠軽町)を建設した。1915年(32歳)、高名な大東流合気柔術の宗家・武田惣角と出会い、高弟となる。惣角は敵の攻撃から気を吸収して(受け流して)威力を封じる「合気」の使い手。37歳、自身が師範となって「植芝塾」を開く。盛平は日本古武道の各流派から長所を吸収し、身を守る為に全ての攻撃パターンを想定した上で、当身(あてみ)と関節技を軸に総合的防御術を生み出した。
1922年(39歳)、“ある時は空気のごとく、またある時は水の流れのごとく、相手の動きに応じて身体を預ける”とした自らの武術を「合気武道」と呼称。1924年(41歳)、宗教家・出口王仁三郎(大本教聖師)が満州に宗教国を建設する野望を持って渡航、これに随行した盛平は出口と共に中国当局に逮捕され死刑を宣告される(ギリギリで日本政府が救出)。

1927年(44歳)、軍部や財界の武道愛好家から「合気武道」が高く評価され、東京で講義する回数が増え、家族と共に上京する。1931年(48歳)、新宿に道場「合気会」(旧皇武会)を発足させた。 その後、イラスト付の教則本を著し、1941年には天覧演武を行なった。1942年(59歳)、公式に「合気道」と呼称。戦況悪化にともなって若い弟子たちは大半が出征し、道場はもぬけの殻となった。60歳、盛平は茨城県岩間町に転居し、農耕と武道の生活を開始する。同年、当地に合気神社を建立。戦前に入門した弟子達の中で、生きて帰ってきた者は殆どいなかった。

1953年(70歳)、弟子の藤平光一がハワイに合気道を紹介すると、そこから全米へ普及していった。1956年(73歳)、合気道が国際化へ歩み出したこともあって、盛平も再び動き始める。東京・高島屋の屋上での公開演武会を皮切りに、本格的に活動を再開。新たに戦後の弟子が続々と入門してきた。彼らは盛平の流れるように優美な動きや、合気道が勝利のみを求めるのではなく、倫理を重視する武道であることに引き付けられた。

70代半ばになると、当然ながら体力も衰えて以前のように素早く動けなくなったが、盛平はそのことを逆手に新たな技を練り上げていった。余分な動きは極限まで省略され、相手の呼吸を読み、軽く手でいなしたり、少し叩くだけで、若い巨体の弟子達は宙を舞った。
やがて、公開演武会だけでなく、映像でも盛平の「呼吸技」が伝えられるようになり、小柄な白髪の老人が腕一本、しかも触れるだけで大男を引っくり返す様子が“インチキ”“八百長”と疑う格闘家も出てきて、実際に勝負を挑んでコロコロと床を転がされ、即座に弟子入りということも少なくなかった。1960年(77歳)、このころ高弟の富木謙治が乱取法を創案し、従来は“形”しかなかった合気道に試合が導入されると、加速度的に世界中へ広まった。
※70代の盛平は、人差し指のみを壁につき、その腕に2人の柔道家(約150s)をぶら下がっても平然としていたという。

    「ドヒーッ!」吹っ飛ぶ弟子

1969年、正月15日の鏡開きの演武を最後に肝臓癌で他界。享年86歳。子の吉祥丸、さらに孫の守央が道主となって技が受け継がれている。1975年、国際合気道連盟設立。関係書籍は数十ヵ国語で出版され、和の精神を受け継いだ弟子は世界56ヶ国150万人に及んでいる。

「合気は他者と共に切磋琢磨し、自己の人格完成を目指す武道である」。盛平は心技体を磨き続け、ついに“天地人和合の道”に至ったという。「合気とは敵と戦い、敵を破る術ではない。世界を和合させ、人類を一家たらしめる道である」。この信念を基に、力に力で応えるのではなく、相手の攻撃を受け流し、戦わずに争いを解決する事を目指して合気道は発展していった。

「合気にてよろづの力を働かし、美しき世と安く和すべし」(植芝盛平)

※現在は、塩田剛三創設の戦前スタイルの「養神館合気道」、藤平光一創設の健康法重視の「心身統一合氣道」、小西康裕創設の「神道自然流」、富木謙治が試合形式を導入した「日本合気道協会」、望月稔による総合武道としての「養正館合気道」など諸派がある。
※合気道関係者は盛平を「開祖」と呼び、高弟は「翁先生」と呼んでいる。
※1988年に故郷田辺市で第5回国際合気道大会が開催され、扇ケ浜公園内に銅像が建てられた。


●全国の合気道場のリスト



★ベーブ・ルース/George Herman “Babe” Ruth 1895.2.6-1948.8.16 (USA、NY郊外 53歳)2000&09
Gate of Heaven Cemetery, Hawthorne, Westchester County, New York, USA











野球の神様 国民的英雄の墓にはキリストと野球少年が彫られている! ジョージ・ハーマン・ルースが本名






2000 ベーブの墓前は大賑わい 2009 前回あった木のバットが金属バットに進化! ベーブの野球選手カード!





2000 2009 ベーブに贈られた賛辞

ホームラン王ベーブ・ルースはNYヤンキースの選手だったので、置かれていた帽子もヤンキース。バットや
グラブなど色んな物があり、彼が国民に愛されているのが良く分かった。本名ジョージ・ハーマン・ルース。

少年時代は両親の手に負えないほどの悪ガキで7歳で矯正学校に送られた。ここで神父から野球を教えられ
以後の人生が激変する。彼の背番号3はルー・ゲーリックに続いて球団史上2番目の永久欠番となった。




★ルー・ゲーリック/Lou Gehrig 1903.6.19-1941.6.2 (USA、NY郊外 37歳)2000&09
Kensico Cemetery, Valhalla, Westchester County, New York, USA





めっちゃ優しい笑顔!! 眩しいほど緑が輝くルー・ゲーリックの墓 37年の人生は短すぎる







2000 2009 ヤンキースの旗や帽子があった

2130試合連続出場を果たした“鉄人”ルー・ゲーリック。1939年5月の試合でこの記録が中断されたのは、筋萎縮性側索硬化症という難病の為だった。2ヵ月後にヤンキースタジアムで引退式(史上初)が行われた際に、「私はこの世界で一番幸せな男です」とスピーチ、全米が泣いた。史上最年少で野球殿堂入りを果たし、背番号4はヤンキースの永久欠番(これもメジャー初)となる。引退の2年後、37歳の若さで生を閉じた。



★サルコウ/Ulrich Salchow 1877.8.7-1949.4.18 (スウェーデン、ストックホルム 71歳)2005
Norra begravningsplatsen (Northern Cemetery), Stockholm, Stockholms Lan, Sweden

 

左足を軸に後ろ向きに跳ぶ、スケートの代表的なジャンプ技“サルコー”の生みの親!
没後半世紀が経ち、かなり「侘び・さび」な墓になっとりマス。




★五代目 古今亭 志ん生/Shinsyou Kokontei 1890.6.28-1973.9.21 (東京都、文京区、還国寺 83歳)2000 落語家
★十代目 金原亭 馬生/Basyou Kingentei 1928.1.5-1982.9.13 (東京都、文京区、還国寺 54歳)
★三代目 古今亭 志ん朝/Shinsyou Kokontei 1938.3.10-1963.2001.10.1 (東京都、文京区、還国寺 63歳)


五代目古今亭志ん生
今も熱狂的ファンが多い
長男・十代目金原亭馬生
54歳で早逝
次男・三代目古今亭志ん朝
6代目襲名を控えていた



墓前で大胆にも師匠の十八番
“火焔太鼓”に挑戦
本名は美濃部。「美濃部家之墓」に全員が眠る

こちらは新宿区に建つ
3代目志ん生の墓

桂文楽、三遊亭円生と並んで昭和の落語界を代表する巨匠。明治23年、東京神田に生まれる。本名、美濃部孝蔵。初代(1809〜1856)からは5代目にあたる。「火焔太鼓」「らくだ」などの滑稽噺(ばなし)、「三枚起請」「五銭の女郎買」などの廓(くるわ)噺を得意とした。
素行不良で小学校を退学になった後、すぐに酒の味を覚え、金さえあれば吉原へ行くなど、10代で飲む打つ買うを極める。激怒した父親に家を叩き出され、17歳で三遊亭円盛に弟子入りする。以後、次々と師を変えながら27歳で二ツ目、31歳で真打ちに昇進していく。人気が出始めたのは7代目金原亭馬生をついだ44歳の頃から。志ん生ほど頻繁に名前を変えた落語家はいないだろう。1939年に49歳で五代目古今亭志ん生(ここんていしんしょう)を襲名をするまで、なんと16回も改名を重ねた!(貧乏で借金取りから逃れる手段だった、というのもある。)稼いだ金はことごとく酒に消え、一時(35歳頃)は講釈師に転向した時期もあった。
1945年(55歳)、酒がたんまり飲めるという話を聞いて、満州へ慰問に行き巡礼先で終戦を迎える。ソ連軍の南下で帰国できなくなり、寂しさから“ウオッカで死ぬなら本望だ”と自殺覚悟で6本飲み干し、数夜寝たっきりになったことも。2年後にようやく帰国を果たす(ずっと音信普通だった)
 
戦後は、軽妙でトボケた味や自由気ままな芸風にさらに磨きがかかり、酒をあおって高座に上がり、そのまま酔い潰れて寝てしまうこともあったという(客もまた粋なもので、志ん生を起こさず待っていた)。志ん生落語を愛した人々は、芸術的ともいえる間の取り方や、毎回違ってくる枕の入り方、噺の運び方を楽しんだ。
演目の多さから“落語博物館”と呼ばれた円生も「(志ん生と)道場でやれば相当打ち込めるが、野で真剣勝負となるとだいぶ斬られる」と評した。
67歳、落語協会会長に就任。71歳、脳溢血に倒れ、2年後に復帰。74歳、紫綬褒章の受賞に際し「“シジュホーショーって何です”と人に聞いたら、“世の中の為になった人にくれる勲章だ”というのでビックリ仰天した。他の事ならともかく、そんな事あたしは身に覚えがねえ」。80歳になった時のコメントは「まごまごしてると90まで生きちまうかも知れない。実際、ここまで来ると、どこまで生きりゃいいんだって言いたくなっちまう」。
最期は脳溢血が再発し、1973年、83歳でこの不世出の天才は人生の高座を降りた。
死後30年経った現在でも志ん生の人気は一向に衰えず、「現役も含めた全落語家」の中で、一番CDやテープが売れているというからスゴイ。

志ん生が亡くなった9年後(1982年)に、長男の10代目金原亭馬生(きんげんてい ばしょう、本名・清)が食道ガンのため54歳で早逝。2001年には次男の3代目古今亭志ん朝(本名・強次)も肝臓ガンに侵され63歳で病没した。志ん朝はテレビを通して広く親しまれた人柄や、高座での緻密な話芸が高く評価され、30代の頃から6代目志ん生の襲名話が持ち上がっていたが、その名を受け継ぐこともなく人生の幕を閉じたのだった…。

還国寺は地下鉄江戸川橋駅を出てすぐ。墓石は本堂左横にあり分かりやすい。ただし、“古今亭志ん生”で探していた僕は自力で発見できず、お寺の方に本名の美濃部で眠っていることを教えて頂き、ようやく墓参ができた。この「美濃部家之墓」には志ん生、馬生、志ん朝の3人が永眠している。再会した3人はどんな話に花を咲かせているのだろう?

※40歳、夜逃げ同然で一家が引っ越してきたのが埋立地にあった「なめくじ長屋」。あまりに湿気がひどく住人がいないので、第一号の入居者が欲しかった大家はタダでいいからと、入居させてくれた。夏は喋ると蚊が口に飛び込み、常に丼2杯分のなめくじがいたという。
※巨体の横綱双葉山と飲み比べしてぶっ倒れたこともあった。
※「貧乏ってのはするもんじゃねえ。たしなむもんです」(志ん生)



多くの落語ファンに愛された父子3人




★三遊亭 圓朝/Entyou Sanyutei 1839.4.1-1900.8.11 (東京都、台東区、全生庵 61歳)2004


鏑木清方「三遊亭円朝像」(1930)
晩年の円朝を知る鏑木清方が「内面を深く究めて伝記を書く気でいった」と、円朝の没後30年目に
描きあげた傑作肖像画。高座が始まる直前の一瞬を見事に描き出している!


  

夕陽を浴びる圓朝師匠!山岡鉄舟の筆で「三遊亭円朝無舌居士」と刻まれている

近代落語の祖。本名出淵次郎吉。江戸末期、浮世絵師・歌川国芳の内弟子をへて、17歳で真打となり初代円朝を名のる。絵師として腕を磨いた体験は、芝居の背景、道具づくりに役立ち、派手な衣装と薄化粧という容姿で歌舞伎と落語を合体させた「鳴り物、道具入り芝居噺」を演じ大衆の心を掴む。円朝は膨大な人情噺、怪談噺を創作したが、これは得意の芝居噺のネタを、師匠の円生が毎晩先にやってしまうので、「人の知らない噺を作る」と創作を思いついたのがきっかけ(21歳当時)。明治に入ると「人気取りの派手な芝居噺より、人間の情念を掘り下げた高座がしたい」と考え、原点の素噺(扇子、手ぬぐいのみ使用)に立ち戻る。代表作は怪談噺の「怪談牡丹灯篭」「真景累ケ淵(しんけいかさねがふち)」「塩原多助一代記」など。文人との交友も多い。“死ねば熱くも冷たくもないから、火葬でも土葬でも良い”というのが遺言だった。毎年、8月11日の命日には墓のある東京谷中の全生庵で「円朝祭」が催される。



墓巡礼は墓地に着くまで大変だけど、実は墓地に入ってからも同じくらい苦労することが多い!無数にある墓石からお目当ての恩人を探し出すのは超大変!
(どれも似ているし…)その点、全生庵は墓前まで親切な標識が出ていてメチャクチャ助かった。まさに墓地の鑑!日本中の墓地は見習って欲しい!




★八代目 桂 文楽/Bunraku Katura 1892.11.3-1971.12.12 (東京都、世田谷区、妙法寺 79歳)2004

  

右側面に「いま更に あばらかべっそんの 恥かしさ」と彫られている

本名、並河益義。気品のある芸風で「昭和の名人」と呼ばれた。本当は六代目だけど縁起が良いので八代目
にしたという。『大仏餅』の高座で神谷幸右衛門の名を忘れてしまい、「申し訳ありません。もう一度勉強し直して
参ります」と頭を下げて楽屋に戻り、それから約3ヵ月後に肝硬変で亡くなった。ライバルの志ん生は訃報の
前日に妻が死に、その時に我慢していた涙が、文楽の死を聞いて「みんな先いっちゃって」と号泣した。




★六代目 三遊亭 圓生/Ensyo Sanyutei 1900.9.3-1979.9.3 (東京都、世田谷区、永隆寺 79歳)2004

  

左の「村田家之墓」が五代目円生、右の黒御影の「山崎家之墓」が六代目圓生

本名、山崎松尾。芸域の広さは落語界で一番と言われていた。十八番は人情噺。真打ち昇進問題で
小さんと対立、落語協会を脱会して“落語三遊協会”を発足させた。誕生日に亡くなった。



★横山 やすし/Yasushi Yokoyama 1944.3.18-1996.1.21 (大阪府、河内長野市、南大阪霊園 51歳)2005


コンビ結成当初の2人 80年代の漫才ブームの頂点に君臨した やすしのレコード(作詞作曲兼)


とても見晴らしの良い丘陵地帯に眠っている 墓石の側にはやすしのレコード・ジャケットと歌詩が刻まれていた

漫才師。本名・木村雄二。戦争末期の1944年、高知県南西部に浮かぶ沖ノ島(島民350人)に生まれ、大阪堺市で育つ。中学時代にラジオの「漫才教室」で才能を発揮し、中学卒業後に松竹芸能に入社。「堺正スケ・伸スケ」の伸スケとしてプロデビュー。ほどなく相方が音楽の道に行ってしまいコンビ解散。一人になったやすしは名門屋号の“横山”への憧れから、吉本興業に移籍し横山ノックに弟子入り。横山やすしとして活動を再開する。横山プリン、レツゴー正司らと組むが、相性が悪く共にケンカ別れ。芸歴7年目で3度もコンビを解消した彼は「コンビ潰しのやすし」と言われるようになる。22歳、吉本は漫才師やすしの才能を高く評価していたので、何とか世に出そうと画策し、2つ年下の西川きよし(20歳)とコンビを組むよう命じた。

西川きよし(本名・潔)は高知出身。吉本がきよしを相方に選んだのは、彼も同じ高知生まれであり、同郷の者なら上手く行くかも知れないと考えたから。きよしは8歳の時に父の会社が倒産し、夜逃げ同然で大阪に出てきた。18歳で吉本新喜劇に入り、漫才師ではなく舞台役者として活躍していた(ただし“活躍”といっても、コンビ誕生の時点ではまだ駆け出しなので、ぬいぐるみの中に入ったりしていた)。コンビを作ることになり、喫茶店で初めて顔を合わせた時のやすしの言葉は「横山や。わし自分と漫才せな困んねん。頼むで」だった。※関西では相手のことも“自分”という。
1966年5月、後に漫才史の金字塔となる伝説のコンビ『やすし・きよし』がここに誕生した。

天衣無縫で豪放なやすしと、どこまでも生真面目なきよし。正反対のキャラが客に大ウケし、コンビ結成の翌年にはさっそく新人賞に輝いた。4年後の1970年(26歳)には上方漫才大賞を受賞。このまま破竹の快進撃を続けると誰もが思っていた。しかし同年暮れに、やすしが無免許運転でタクシーに接触、運転手を殴ってしまう。判決は懲役3カ月執行猶予2年。吉本は執行猶予中のTV出演を禁止する。やすしは一升瓶を持ってきよしの家を訪れ「きー坊(きよしの愛称)、わしのことはええ。わしのことはええから他の人と漫才やれ」と言葉を絞り出した。
大人気コンビの長期間の謹慎は経営側にとってもダメージが深く、吉本はきよしに「やすしを切り、別の相方とコンビを再結成せよ」と通達した。これをきよしは頑なに拒否する。きよしは一人身の時期を修業期間と位置づけた。「僕はあまりにやすしと漫才の実力に差がありすぎる。彼がいない間にもっと芸を高め、謹慎があけたら唸らせてやりたいと思った」(きよし)。

そして1973年3月(29歳)、2年4ヶ月の謹慎処分が解け活動再開!“僕はただ何もせず待っていた訳じゃない”と、きよしが普通ならタブーにするべきタクシー事件の話を、逆にネタとしてユーモアに昇華させたセンス、きよしの芸域の広がりにやすしは愕然としたという。1977年(33歳)、年々完成度を高めていく「やすきよ」に2度目の上方漫才大賞が贈られた。

「これを言ったらどう返してくるか、舞台ではネタの裏切り合いをしていた」(きよし)。本番で詰まったり不発だった時は「あそこは絶対に明日も同じネタをふってくれ」と相手に言い、その夜に家で切り返しを考えて翌日の舞台に挑んだと言う。
「僕らには暗黙の了解があった。相手がネタを間違えたら“いま間違えただろ”という目で相手を見ない。“大丈夫やで、そのネタは俺が拾うから。ちょっと間が空いたけど、それを拾ってふり直すから、もう1回行こうぜ”という心を見せる。するとやすしは“悪かったな”という顔をしながらも、もう次の瞬間にはお客さんを沸かしていた」(きよし)。

1979年秋から演芸番組『花王名人劇場』の放映が始まり、徐々に漫才の人気が出てきたところに、翌1980年(36歳)、本来はプロ野球中継の雨天用に制作されたというバラエティ特番『The MANZAI』が起爆剤となり、空前の漫才ブームが巻き起こった。時代はザ・ぼんち、のりお・よしお、紳助・竜介、B&B、ツービートなどスター漫才コンビを次々と輩出し、その中で結成14年目のベテラン・コンビ「やすし・きよし」は、各漫才番組のオオトリとして出演、人気は絶頂に達する。そしてこの年、「やすし・きよし」は文化庁の芸術祭優秀賞に輝いた。2人は以後も数々の賞を受賞し続け、芸の円熟味が増していった。
1984年(40歳)、『唐獅子株式会社』、翌年『ビッグ・マグナム黒岩先生』と連続で映画の主演を務める。
1986年(42歳)、きよしが参議院選に出馬することになり、コンビは7ヶ月間活動を停止。この時はやすしがきよしの復帰を待ち続けた(きよしは最多得票で当選)。

1988年(44歳)。この年から、やすしの人生は急速に暗転していく。11月に作詞作曲と歌をこなしたレコード『俺は浪花の漫才師』を発売。その4日後に、長男のタレント・木村一八が泥酔してタクシーを蹴り、注意しに出てきた運転手を殴る蹴るの暴行、現行犯逮捕される。運転手は入院するほど重傷を負い、吉本興業は一八の永久追放を発表、やすしも監督不行き届きで謹慎処分になった。
翌1989年2月、謹慎中のやすしが阪神高速で無理な追い越しをしかけて事故を起こし、相手がケガを負う。2ヵ月後、大酒飲みのやすしは仕事を干されてますます酒に溺れるようになり、ラジオ番組収録中にウイスキーを飲み、その帰りに飲酒運転でミニバイクと衝突事故を起こした。激怒した吉本は「情状酌量の余地なし」として、やすしを問答無用で解雇する。これで20世紀を代表する名コンビ「やすし・きよし」は事実上消滅した。
やすしの転落は続く。解雇の4ヵ月後、やすしは赤穂市で酔っ払い、海岸の観光用クルーザーに勝手に乗り込み、注意をした相手を平手で叩き背後から蹴り、書類送検される。

1992年(48歳)、参院選に「風の会」から立候補するも落選。選挙後に自宅前で何者かに襲撃され、頭部に言語障害が残るほどの重傷を負う。やすしはこれでもう“しゃべくり”が出来なくなった(犯人未逮捕)。
1995年(51歳)、少年院を退院した息子・木村一八が、六本木の路上で肩がぶつかった米国人と口論となり、相手に左まゆ外側挫傷となる顔面蹴りを入れ、麻布署に逮捕される。
そして翌1996年1月21日。やすしが自宅の居間で倒れ死亡しているのを帰宅した夫人が発見。死因はアルコール依存症による肝硬変だった。享年51歳。

告別式では“やすきよ漫才”が映像で流れ、きよしは嗚咽しながら弔辞を読み上げた。「自分は幸せやったと思うわ。ほんまに…。今日はもう泣かんとこ思って…絶対に泣かんとこ思って来たんや。漫才が流れるの知らなんだんや…。あの漫才見て、笑うてた、さっき…。おもろい漫才や、ええコンビやと自分でも思う。あの漫才見て、笑うて、よけい泣いてもうたわ、ほんまに…。もうゆっくりしいや。何にも考えんと、ゆっくりしいや…」。

やすしは無類のボート好きで、レーシングチームを結成する一方、自身もレースに出場し全日本アマチュア選手権で優勝するなど、通算400勝を超える成績を残している。遺骨は河内長野市・南大阪霊園の墓所に納められたほか、ボート仲間や夫人によって、やすしがホームグラウンドにしていた広島の宮島競艇場にも散骨された。散骨後の夫人のコメント「8年間仕事もなく船にも乗れませんでしたから…(散骨は)本人が一番喜んでいるでしょう。ボートが心の支えでしたから」。

「あの身のこなしと、発声と動きと間の使い方は、やすしだけのもの。誰も真似できない」(藤本義一)
「(やすきよの様に)アドリブで2人がかみ合うのは至難の技。これを芸と言う。永遠に残る芸だ」(立川談志)
「仕事を干されて楽屋にも入れなくなった時、夜中に電話してきて、延々と芸について熱弁をふるっておった。寂しかったんやろな」(喜味こいし)

やすしは漫才の神様の申し子だった。天才的な切り返しと絶妙のタイミングで入るギャグで不動の人気を獲得し、漫才界に“やすきよ”時代を築き上げた。その一方で、何度も番組収録をすっぽかし、生放送に酒を呑んで遅刻して久米宏をマジギレさせたり、仕事を後回しにしてモーターボートをかっ飛ばし、セスナ機を乗りまわし、滅茶苦茶をやり続けた。天性の才能があるのに、溢れるエネルギーを自分でコントロールできず、自ら破滅していった。死後10年が経ち、近年はその強烈な個性と生き様から「最後の破滅型芸人」と呼ばれている。
きよしは単独で売れっ子になっても、やすしが謹慎処分になる度にずっと待っていた。「きよしさんなら1人で出来るじゃないですか、なぜコンビを解消せずいつも(復帰を)待ってるのですか?」こう問われたきよしは、次のように答えたと言う。「僕は面白ないんです。やすしが面白いんです。やすしと離れたら僕は何も出来ないんです。だからやすしを待っているんです。私達は“きよ・やす”ではなく“やす・きよ”なんです」。

※コンビを組んで5年目、漫才の方向性を巡って2人は京都で背広がボロボロになるまで殴りあったという。
※きよしは弟子をあまり取らなかったが、やすしは20数人の弟子を取った。ただし、愛の鉄拳制裁が乱れ飛び、2度同じミスをすれば即破門という厳しさから、最後まで残った弟子は3人だけだった。
※大平サブローが演じるやすしの物真似は、やすし自身も生前から評価していた。近年、きよしはサブローと『新やすし・きよし』を結成している。
※「最後の昔かたぎの芸人。漫才に関しては天才でした」(きよし)



★坂田 三吉/Sankichi Sakata 1870.6.3-1946.7.23 (大阪府、豊中市、服部霊園 76歳)2000











将棋の駒型!参拝者が強運のお守りに
持って帰るのかベコベコに削られていた
「王手ーッ!」将棋の神様との、
時空を超えた男と男の死闘だ!
1925年(55歳)の坂田三吉


本名は阪田三吉(坂田ではない)。大阪堺市生まれ。9人兄弟の長男。家業の草履づくりを手伝いながら、大人が路地裏で将棋を楽しむのを見て5歳の時に自分でも指し始めた。貧しくて学校に行けなかった為、「馬」と「三」しか書けなかったが、将棋の腕は子どもの頃から敵知らずで、青春期は賭将棋で食い扶持を繋いでいたという。連戦連勝で鼻高々だった三吉だが、1891年(21歳)、生涯のライバルとなる関根金次郎四段(三吉より2歳年上)と堺の料亭で初手合わせし、1勝2敗と負け越してしまう。「俺は自分の実力を過信していた」三吉はショックのあまり10日間も寝込んでしまう。
※この頃、関根は武者修行のためプロ棋士であることを隠して全国を回っていた。

三吉は関根へのリベンジを誓い、実戦に次ぐ実戦で鬼神の如く将棋の腕を磨き続けた。師匠を持たず独学で鍛えたゆえの定跡を無視した奔放自在な戦法は、乱戦に真価を発揮する超攻撃型の「坂田将棋」に結実してゆく。35歳、竹田コユウ(25歳)と結婚。彼女は三吉の最大の理解者になってくれた。
1906年(36歳)、既に関根は当時の将棋界の最高位・八段まで上りつめていた。その関根と15年ぶりに対局する好機が到来する。しかし九十二手で『指し掛け』(時間切れで中断)とされ三吉は憤慨、2週間後の再戦では「千日手」(互いに同じ手の繰り返しになる状態が3度起きた場合、1手目を指した方が負け)のルールを知らなかった三吉がまたしても敗北する。翌年11月にも神戸で対局するが敗戦。この時は、終局後に三吉は深夜大阪まで茫然と歩いて帰ったという。

「打倒関根!」込み上げてくる悔しさが、さらなる闘志となった。ひたすら修業を続け、1913年(43歳)、初対決から22年目にしてついに関根八段に勝利(五番勝負の三勝二敗)!この時の最終戦で、敵陣に攻め込んだ三吉の銀駒がどこにも動かせない状況になり、自らの不覚を嘆いた有名なセリフ「銀が泣いている」を残した。この戦いは後に“泣き銀の一局”と呼ばれるようになる。
1915年(45歳)、念願の八段まで昇進した三吉は、その後も1917年、18年と2年連続で関根との八段対決を制するまで強くなった。関根との対局はこれが最後となり、三吉は両者の宿命の対決を16勝15敗1分と勝ち越す。

1921年(51歳)、十二世小野名人が他界すると、次の名人が誰かという話題で棋界は沸騰した。“次は坂田に”というのが故小野名人の意向だったが、「自分の名前さえ正確に書けない無学な者は名人に相応しくない」という声が多く聞かれ、心技体を兼ね備えた関根が十三世名人に決まった(三吉も関根の名人襲名を称え、東京の祝賀会に駆けつけている)。
52歳、三吉は白内障の悪化で失明しかけたが、手術が成功して無事に視力を取り戻す。

1924年、東京将棋連盟が設立され一気に4人を八段に昇格させたことから、関西では「八段を乱発し過ぎだ!」と抗議の声が上がった。1925年(55歳)、関西財界を中心に80名を超える三吉の後援者が彼を名人に推薦し、彼はその流れで「関西名人」を名乗ることに。これに対し東京将棋連盟(今の日本将棋連盟)は“名人は一世一人”として以下の決議文を発表した。
「東京将棋連盟は先に阪田八段の名人昇格の噂に対し反対の決議を為したが、阪田氏は何ら考慮する事もなく、名人披露を為したり。東京将棋連盟は飽くまでかかる暴挙を承認せず」
三吉は“名人の地位を汚した”とされ、なんと棋界を追放されてしまう。しかも2年後には妻が病没、苦難の時期が続く。

1935年(65歳)、三吉と将棋連盟が絶縁状態にある中、棋界に大事件が起きる。関根名人が「引退して名人位を返上する」と表明したのだ。当時は一度名人になれば終生名人のままという“一代一名人制”だったのを、関根は「その時々の一番強い者が名人になるべき」とリーグ戦による“実力名人制”に変えたのだ。1612年に大橋宗桂(そうけい)が初代名人となって以来、約320年目の大変革だった(十一世までは世襲制、以後は推薦制だった)。※「親の七光や師弟云々ではなく強い者が頂点に」とした関根金次郎。彼が近代将棋界の父とされる由縁だ。かっこいい。

1937年2月(67歳)、棋界の大変動の中で三吉と東京勢はようやく和解し、彼は12年ぶりに日本将棋連盟に復帰する。そして復帰の記念対局として、京都南禅寺にて当時東京棋界で最強と言われた木村義雄八段(31歳、関根の愛弟子)と対戦した。これは『南禅寺の決戦』と呼ばれ、「370年に及ぶ将棋の歴史の中で、最大の一番」と評された。この戦いは三吉が後手にも関らず、2手目に「9四歩」、つまり意味の無い一番端っこの歩を進めたのだ。後手でしかも1手損となるこの指し手は、三吉が東京に見せた反骨精神そのものだった。結果は木村に負けてしまうが、自分の年齢の半分以下という若き天才棋士・木村に対し、あえて2手出遅れで老棋士のプライドを見せた三吉に、全国の将棋ファンは唸った。続いて嵐山天龍寺にて、これまた東京棋界の勇・花田長太郎八段との対局で、“南禅寺”と同様、初手に「端歩」をついた。勝負は接戦になり、ギリギリで制した花田は「とても68歳とは思えない、脅威の耐久力に恐怖心すら感じた」と語る。

翌1938年(68歳)、三吉は高齢をおして2年にわたる名人リーグ(実力名人戦)に参加。長いブランクも影響し1年目こそ2勝6敗と負け越したものの、2年目は5勝2敗とグングン調子を上げてきた。69歳になってもまだ成長する三吉に周囲は驚嘆する。三吉は翌年のリーグ戦にも参加するつもりだったが、日中戦争の長期化、日米開戦などでしばらくリーグ戦が中止になる。対局する機会がないまま終戦の翌1946年3月に関根が他界。そしてまるでその死を追うかの如く、4ヵ月後の7月に阪田三吉も逝去した。享年76歳。
生涯名人位に就くことはなかった三吉だが、死後9年が経った1955年、日本将棋連盟は三吉の功績を称えて名人位と王将位を追贈し、10回忌の歳に大阪豊中市の服部霊園に将棋の駒型の墓石を建立した。三吉と関根は今、思う存分駒を指しあっているのだろう。

※三吉の劇的な生涯は、死の翌年にはもう『王将』の名で舞台化された(北条秀司作)。
※村田英雄が三吉のことを歌った『王将』が大ヒット。
※関根の墓は千葉県野田市。
※1969年、地元・新世界の有志により通天閣の真下に三吉の偉業を称えた王将碑が建立された。命日となる7月23日は「王将祭」が催され大勢の将棋ファンが集う。
※この人物伝を書くに当たって、日本将棋連盟棋士(6段)の方のご意見を参考にさせて頂きました。



(左)関根八段/49歳、(右)阪田八段/47歳 ※1917年10月22日



★本因坊 秀策/Syusaku Honinbou 1829.5.5‐1862.8.10 (東京都、豊島区、本妙寺 33歳)2001

 

壮観!歴代本因坊二十余基の墓がズラリと並んでいる
※初代算砂のお墓は京都にある
中央の墓は“最後の本因坊”秀哉(21世)














これが史上最強の棋士、秀策の墓だ! 墓前には碁石! 秀策(左)の隣はもう一人の碁聖、第4世道策!

“碁聖”本因坊秀策は江戸後期に活躍した碁の天才。幼名桑原虎次郎。信長の寵遇を得た初代本因坊から14代目にあたる。1846年(17歳)の井上幻庵因碩との対局中、秀策の鋭い一手で井上の耳が赤くなった「耳赤(みみあか)の一局」は、古今の名局とされている。江戸城では年に一度、国内最強の棋士を選ぶ御城碁(おしろご)が開催されたが、秀策は21歳の初戦から33歳で亡くなる(若い!)まで13年間全戦無敗の大記録を打ち立てた。
秀策の名は大ヒットマンガ『ヒカルの碁』に何度も登場したことから、最近の子供なら大抵は知っている。いやはや、マンガの力、恐るべし!

※歴代の棋士の中で「碁聖」と崇められるのは、秀策の他に戦い方の基礎を作った第4世「道策」の2人だけ。本因坊家は21世・秀哉(しゅうさい)まで続くが、秀哉はその時代の最強者が本因坊であるべきと考えて、「本因坊」の名をタイトル戦に変え日本棋院を設立した。



★本因坊 算砂/Sansa Honinbou 1559-1623.5.16(京都府、左京区、寂光寺 64歳)2005&08
※命日は6.13説アリ


 
おメメがとってもキュートな算砂 寂光寺の山門に掲げられた「碁道・
本因坊 元祖之道場」カッコイイ!

墓前には白と黒の碁石が1個ずつ置かれていた(2005) 3年後に再訪すると白石がなくて黒石が3個あった

京都大徳寺に伝わるこの碁盤は、「伏見城で秀吉が家康と対局時に使用」と算砂が奥書を残している!

本因坊家の開祖。本名加納与三郎。法名日海。7歳頃京都寂光寺に出家、同寺塔頭の本因坊に寄宿し、それが後に名となる。仏教を学ぶ一方で囲碁を習い始め、すぐに棋士の才能が開花、10代にして師を超えた。19歳の時、天才碁打ちの噂を聞いた信長に召し出されて、五子置いて対局。何度戦っても信長は勝てず、算砂の手筋に感服した信長は「まことの名人」と讃えた(名人の呼称の始まり)。

1582年(23歳)6月1日、本能寺。算砂は信長親子の前で深夜まで僧侶利玄(別説、林家初代・林利賢)と御前対局をする。この時に同じマス目で石を交互に獲り合う無限ループを禁じた「劫(コウ)」が三度も重なるという「三劫(サンコウ)」が起きる。算砂と利玄が“妙なこともあるものよ”と本能寺を後にした直後、未明に光秀が謀叛を起こしたことから、三劫は不吉の前兆とされるようになった。

1588年(29歳)、秀吉が関白就任の際に全国の碁打ちを集めて催した御前対局で、算砂が見事に全勝優勝。秀吉は寂光寺に米四石を与え、朱印状を贈った。また碁所(ごどころ)も設置する。33歳、算砂の名声は朝廷に及び権大僧都を任ぜられる。
1603年(44歳)、征夷大将軍となった家康に招かれ江戸に下り、本因坊算砂と改名。碁所に就き終身三百石を与えられ(破格の扱い!)、プロ棋士第一号となった。56歳、前田家から招待を受け金沢に2年間滞在。また50代後半に韓人李杓史と対決しこれに完勝している。
1623年(64歳)、碁所を弟子に譲り、同年5月「碁なりせば劫なと打ちて生くべきに 死ぬるばかりは手もなかりけり」(もし人生が碁であれば、何度も劫を打って生き続けるのに、寿命だけは延ばす手がなくどうすることもできなんのぅ)と辞世を詠み永眠。信長、秀吉、家康という三代に渡る天下人を碁盤で討ち取り、名人は去った。

奈良時代に遣唐船で渡来した囲碁は、後に平安貴族の間で大ブームとなった(源氏物語絵巻にも登場)。日本最古の棋譜は鎌倉初期の日蓮VS日朗の対局。室町時代には武士、商人、豪農の間にも囲碁が浸透していった。戦国期には戦略に役立つとして武将の間で熱心に碁が打たれ、武田信玄や真田親子は高度な棋譜を残している。現在のように庶民の間にまで広まったのは、1688年からの元禄年間。この時代に活躍した四代本因坊道策は、定石や布石理論をまとめ、名人(九段)、準名人(八段)、上手(七段)といった段位を設定、諸国の碁士の序列を分かりやすくした。

※現在、空手や剣道を始め、様々な分野で段位制が採られているけど、これを最初に始めたのが道策だ。
※本因坊家は血縁を重視せず、弟子の中から優れた者を跡目とした。1939年、21代本因坊(秀哉)は本因坊の名を棋界に譲渡した。これを受け、本因坊はタイトル戦の名称となる。
※最近ではマンガ『ヒカルの碁』に14代本因坊(秀策)が登場し話題を集めた。



★双葉山/Futabayama 1912.2.9-1968.12.16 (東京都、荒川区、善性寺 56歳)2008

 
「双葉の前に双葉無し、双葉の後に双葉無し」

通算69連勝、優勝12回、全勝8回、史上最強の横綱・双葉山。本名、龝吉定次(あきよしさだじ)。
大分県出身。身長179cm、体重130kg。第35代横綱は昭和屈指の大力士となった。



★出羽海(常陸山 谷右エ門)/Dewanoumi 1874.1.19-1922.6.19 (東京都、台東区、谷中霊園 48歳)2008

 
現在まで続く出羽海一門の礎を築く

第19代横綱。本名、市毛 谷。相撲の世界に武士道を導入、大相撲を国技と呼ばれるほど地位を高めた“角聖”。
32場所150勝15敗22分2預131休。優勝7回。身長174cm、体重146kg。1915年、初めて力士の米国巡業を行った。




★5代目 柳家 小さん/Kosan Ynagiya 1915.1.2-2002.5.16 (東京都、世田谷区、乗泉寺世田谷別院 87歳)2008



花で埋もれていた 花桶には「小さん」の文字

長野県出身。本名、小林 盛夫。1995年(80歳)、落語家として初めて人間国宝に認定された。ソバをすする芸が絶品。
北辰一刀流の達人で二・二六事件の際は反乱軍だった。息子は6代目柳家小さん、孫は柳家花緑。乗泉寺は豪徳寺の近く。




★7代目 林家 正蔵/Shozo Hayashiya 1894-1949.10.26 (東京都、足立区、常福寺 55歳)2008
★初代 林家 三平/Sanpei Hayashiya 1925.11.30-1980.9.20 (東京都、足立区、常福寺 54歳)2008





本名の海老名で正蔵、三平父子は眠っている 墓誌の三平 「海老名家之墓」

林家正蔵…初代柳家三語楼に入門。7代目柳家小三治襲名。その後、落語協会の内部分裂の煽りを受けて改名し、1930年(36歳)に7代目正蔵襲名。歴代正蔵は怪談噺や芝居噺を得意としたが、7代目は爆笑落語を貫いた。風土病で早逝。

林家三平…“昭和の爆笑王”。本名、海老名泰一郎。テレビで売れっ子になり、これをひがんだ一部同業者から軽い芸と揶揄されたが、「下ネタは芸を腐らせるもの」として一切語らず品格を重んじた。十八番のギャグ「どうもすみません」や、額にゲンコツをかざす仕草は父親(7代目正蔵)から受け継いだもの。肝臓癌で早逝。



★間宮 林蔵/Rinzo Mamiya 1780-1845.2.26 (東京都、江東区、間宮林蔵墓所 65歳)2008
※生年は1775年説アリ

  

江戸時代後期の冒険家&幕府隠密。名は倫宗(ともむね)。茨城県の農家に生まれる。10代後半、堤防工事で幕府役人に数学的才能を認められ地理学を学ぶ。20歳頃、蝦夷地で測量中の伊能忠敬に会い測量術を学んだ。1808年(28歳)、サハリン(樺太)を探検してサハリンが離島であることを初確認。翌年にサハリンと大陸間の海峡を探索して離島であることを再確認し、シーボルトがこの海峡を間宮海峡と名づけた。晩年は幕府隠密として活躍した。



★安楽庵 策伝/Sakuden Anrakuan 1554-1642.1.8 (京都府、中京区、誓願寺 88歳)2008




僧侶の墓なので茶筅(せん)型だ 本堂の落語の祖・策伝上人像 「策伝日快上人」とある





誓願寺の境内にある「扇塚」。舞踊家が芸道の上達を
祈願して扇子を奉納するという
誓願寺の阿弥陀如来
は白眼がある!
山門前の顔出しパネル。
外国人が大喜びで撮ってた

墓地は誓願寺の境内から少し離れており、しかもこのような『墓地参拝許可証』がなければ、敷地に入ることができない。
京都には一般人の墓参を禁止する寺が多いので、手続きさえちゃんと踏めば許可してくれる誓願寺さんに御礼を言いたい!

落語の祖といわれる浄土宗の高僧。安土桃山時代から江戸時代前半という激動の時代に生きた。俗名、平林平太夫。諱は日快。1560年に6歳で美濃国(岐阜県)浄音寺に出家。10歳で京に入り禅林寺(永観堂)で学ぶ。20代半ばより中国地方で寺々を再興し、堺の正法寺住職を一時務めた後に、42歳で浄音寺に戻り17年間を住職として過ごす。1613年(59歳)、京都・誓願寺の第55世に就任。1615年(61歳)に僧として最高の栄誉となる紫衣(しえ)を後水尾天皇から下賜(かし)された。69歳で同寺塔頭の竹林院に隠居し、小堀遠州が境内に作った茶室を安楽庵と名付け、そこで約20年ほど悠々として余生を送った。策伝は小さな頃から面白い話を耳にする度に書き留めており、信徒が眠らないように法話にも得意の笑い話を小ネタ的に取り入れていた。多くの民衆が「策伝さんの説教は面白い」と話を聞きに詰めかけたという。
ある時、京都所司代(治安担当)の板倉重宗に小話を幾つか披露したところ、重宗はこれを大いに笑い楽しみ、「是非これは本にまとめるべきだ」と策伝を説得。それではと、策伝が書き記したものが全8巻42項目1039話という膨大な笑い話を収めた『醒睡笑』(せいすいしょう、“眠りを覚まして笑う”の意)だ。策伝は同書を1628年(74歳)に完成させ重宗に献呈した。収録話は『宇治拾遺物語』『イソップ物語』『笑府』(中国の笑話集)、同時代の人気草子など実に幅広く題材を得ている。後世の落語家たちが『醒睡笑』を噺のネタに重宝したことから、策伝は近世落語の祖と称えられるようになった。1642年に永眠。享年88歳という、当時としては異例なほどの長寿だった。よく笑い暮らしたことが長生きの理由だったかも。将軍家光や小堀遠州とも交流があったという。
※策伝は椿の収集マニアで、100種類もの椿の特色や命名の由来をまとめた『百椿集』も書き残している。



★橋本 真也/Shinya Hashimoto 1965.7.3-2005.7.11 (岐阜県、土岐市、嶋香寺徳風霊苑 40歳)2008












徳風霊園は嶋香寺から北東へ約1km
戦う姿からたくさんの感動をもらった!

橋本選手と酒を
飲みたかった

「破壊なくして創造はなし、悪しき古きが滅せねば誕生もなし、時代を開く勇者たれ!」(橋本真也)
『破壊王』と呼ばれたプロレスラー。岐阜県土岐市出身。身長183cm、全盛期の体重は135kgのスーパーヘビー級。新日本プロレス(以下、新日本)の選手時代は、3歳年上の武藤敬司(後に全日本プロレスへ移籍)や、2歳年上の蝶野正洋と「闘魂三銃士」を結成。ヘビー級IWGP王座を通算20度も防衛した記録は現在(2008年)もまだ破られていない。
橋本は中学の頃に父が蒸発し、高校時代に母を亡くしている。1984年(19歳)、アントニオ猪木に憧れて新日本に入門。半年後に後藤達俊戦でデビューを飾る。海外のリングで武者修行を行ない、帰国後は前述した闘魂三銃士として売り出される。
橋本ほどの巨漢であれば、パワーボムなど体重を利用した技を得意にするものだが、橋本はキックを中心としたキレの良いファイティング・スタイルでファンの心を掴んだ。先にIWGPヘビー級王座を手に入れた武藤や、リーグ戦“G1 CLIMAX”を2連覇した蝶野に比べ、スタートダッシュで遅れた橋本だったが、1993年(30歳)の9月にグレート・ムタ(武藤のヒール版)を倒して第14代IWGPヘビー級王者に輝いた。橋本は当時の連続防衛記録を塗り替える活躍を見せ(9連続防衛)、翌1994年には栄誉ある「プロレス大賞MVP」を獲得した。
その後、橋本は武藤にベルトを奪われるが、武藤が他団体“UWFインターナショナル”の総大将、高田延彦に敗北してベルトが外へ流出してしまう。1996年4月29日の東京ドーム大会で、当時選手会長だった橋本が高田と対決し、垂直落下式DDTからの三角絞めで見事にベルトを奪還した。日本中のプロレス・ファンが熱狂し、この頃は橋本の入場曲『爆勝宣言』が流れるだけで、会場は割れんばかりの歓声に包まれた。1998年(33歳)、念願のG1初優勝を果たす。

大きな転機となったのは全日本柔道選手権で優勝7回の実力者、小川直也のプロレスデビュー。橋本は結果的にこのライバルから新日本での選手生活にピリオドを打たれることになる。対戦成績3勝1敗で迎えた2000年4月東京ドーム大会。「負けたら引退」を宣言してリングにあがった橋本は、小川と死闘を繰り広げてあと一息というところまで追い詰めたが、鬼門の技STOを連続で食らってしまい無念の敗北。橋本は辞表を出し、新日本を去った。
同年11月新団体『ZERO-ONE』を設立し翌月にはプロレスリング・ノアに参戦。団体の枠を超えた自由な活動に共感し、新日本から大谷晋二郎、高岩竜一が仲間に加わった。この後、宿敵だった小川直也と和解し、2人のタッグは「OH砲」として人気を呼んだ。2003年(38歳)、全日本プロレスに勝負を挑みグレート・ムタとの三冠戦に勝利。2004年は因縁の長州力と対決してこれを粉砕、ハッスルにも戦いの場を広げる。しかし、この年の冬に団体の方向性をめぐって所属レスラーとの間に亀裂が生じ、左肩の手術による欠場という不運もありZERO-ONEは活動停止する。それから約半年後。1匹狼としてフリーとなった橋本は、痛めていた右肩も手術し、復帰に向けてリハビリを続けていたが、2005年7月11日の午前8時頃、突然脳幹出血で倒れ、その2時間半後に病院で息を引き取った。まだ40歳の若さだった。
橋本の急死から5日後に葬儀が行なわれ、元三銃士の蝶野や武藤はもちろん、様々な団体からレスラーが参列し、ファンを含めて実に1万人以上が橋本を見送った。出棺の際は『爆勝宣言』が流れ、普段はクールな蝶野が号泣。ファンが投げる無数の赤いテープとハシモト・コールの大声援を受けながら橋本は旅立った。

---水面蹴り、袈裟斬りチョップ、燕返し、垂直落下式DDT。昭和30年代を生きた人にとって力道山がヒーローだったように、1990年代の「破壊王」黄金時代を見てきた僕にとって、橋本選手は文字通りヒーローだった。古代の古墳や戦国武将への墓巡礼と違い、その声や表情を知っている人間への墓参は、言葉にできない喪失感や寂しさを感じるものだった。とても真面目で後輩の面倒見がよかった橋本選手。その戒名は“天武真優居士”(てんぶしんゆうこじ)。“武”の文字と共に“真に優しい”という文字の入った、多くの人に愛された橋本選手らしい戒名だと僕は思う。たくさんの感動を本当に有難うございました!!

※YouTubeにあった『爆勝宣言』




★白瀬矗(のぶ)/Nobu Shirase 1861.6.13-1946.9.4 (秋田県、にかほ市、浄蓮寺 85歳)2008








陸軍中尉だった 最終到達地の“大和雪原”にて 南極へ向かった開南丸



秋田までやって来た!

さっそく駅でペンギンがお出迎え。
さすが白瀬中尉の故郷
途中の公園にもペンギン!
この町だけ異なる世界(ペンギン村)のようだ





生家の浄蓮寺。お墓もここに 境内の白瀬中尉と2匹のペンギン ちょっと特撮チックに



白い石と石灯籠など枯山水庭園のような墓域 ドドーンと巨大な墓石!法名は「南極院釈矗往(しゃくじきおう)」 「白瀬矗之墓」

日本初の南極探検家。陸軍中尉。秋田県金浦町の浄蓮寺に生まれる。少年時代に寺子屋で北極の話を聞き極地探検に夢を馳せる。その実現に向けて白瀬は苛酷な環境に耐えうる体を作るべく(1)酒を飲まない(2)煙草を吸わない(3)茶を飲まない(4)湯を飲まない(5)寒中でも火にあたらない、という五箇条を胸に努力を続けた。1879年(18歳)、東京の陸軍教導団騎兵科に入校。卒業後に伍長として仙台へ移り、同地で結婚。1893年(32歳)、予備役となった白瀬は千島探検隊に参加。この探検は遭難や壊血病による死者が30名以上という酷烈なもので、白瀬は出発から2年後にかろうじて救助された。1900年(39歳)、アラスカにて半年間の予備調査。日露戦争の従軍後も常に北極探検の機会を狙っていたが、1909年(48歳)に米国の探検家ピアリーが北極点踏破に成功し、打ちのめされる。だが、白瀬は目標を南極点到達に変更し、英国スコット隊の南極探検計画を聞いて競争を決意する。
 1910年(49歳)、独自に南極探検を企画して国に訴えるが、政府は極めて冷淡で事実上は一銭も援助しなかった。だが、国民は白瀬を熱烈に応援して、渡航費用(当時の14万円)をカンパ。新聞社も協力し後援会会長に大隈重信が就いた。船の調達に難航したが、千島探検で使用した木造帆船を手に入れる。白瀬はこの船を蒸気帆船に改造し、東郷平八郎が「開南丸」と命名した。ただし、開南丸はわずか204トンで、外国探検隊の船の半分しかなかった。同年11月28日、白瀬以下27名の隊員がついに南極へ向け出港する。

1911年(50歳)、最初の挑戦は氷に阻まれ立往生寸前になり失敗。いったんシドニーまで戻り体勢を立て直す。そして1912年(51歳)、1月16日に日本人初の南極大陸上陸に成功した!(上陸地点を「開南湾」と命名)。極点突撃チームの白瀬ら5人は、2台のソリと30頭の樺太犬を使ってチャレンジしたが、同時期にスコット隊も苦しんでいた悪天候に阻まれ食料も不足し、南緯80度5分、西経165度37分の地点で前進を断念。その地を大和雪原と命名し、日の丸を掲げて万歳を唱和し、支援者への感謝の気持を込めて「南極探検同情者芳名簿」を埋め撤退した。
※“大和雪原”(やまとゆきはら)の地名は世界地理学会が1933年に公認。

本当の悲劇はここからかも知れない。国民の声援に応えられなかったことに消沈した隊員たちは気持が荒れ、部隊では深刻な内紛が何度も起き、帰途のニュージーランド・ウェリントンで白瀬と白瀬派は開南丸から降りざるを得なくなる。別の船で何とか帰国すると、後援会が遊興飲食費として国民の募金を使い込んでいたことが発覚(会長の大隈は何をやってたの!)。白瀬は多額の借金を背負い、隊員に給料すら払えぬ始末。その後20年は借金の返済に奔走。家財道具を売却し、日本、満州、台湾、朝鮮半島と探検の様子を講演し続けたが、数年すると依頼もなくなり一層の赤貧生活となる。そして敗戦の混乱が続く1946年、次女が住み込みで働いていた愛知県豊田市の魚料理仕出屋の一室で餓死した(腸閉塞とも)。享年85歳。南極ロス海棚氷の東岸は白瀬海岸と命名された。

死から37年後の1983年、白瀬の功績を称えて3代目南極観測船が「しらせ」と命名され、没後44年の1990年、故郷の秋田県にかほ市に白瀬南極探検隊記念館が開館した。約100年も前に南極へ上陸し、全滅する他国探検隊がいる一方で、白瀬は1人の犠牲者も出さなかったのは、もっと評価されるべきだと思う!
※アムンゼンが極点に到達したのは1911年12月14日。白瀬隊はその一ヶ月後に上陸したことになる。スコット隊は白瀬隊上陸の2日後(1912年1月18日)に極点到達。しかし白瀬隊が1月28日に撤退した後もスコット隊は帰途に苦しみ続け、3月29日に全滅してしまう。
※白瀬の死後、残された遺族を別の寺の住職が引き取る。弟の孫・白瀬京子は1970年に日本人女性初のヨットでの世界一周に成功した。
※愛知県幡豆郡吉良町に「大和雪原開拓者之墓」の墓碑アリ。



★大橋 宗桂(そうけい)/Sokei Ohashi 1555-1634.3.9 (京都府、伏見区、霊光寺 79歳)2008

 
写真では分り難いけれど、めちゃくちゃ巨大な墓石だ!しかも将棋の駒! 裏側は名の由来となった「桂馬」

京都市上京区の本法寺の一画に集められた無縁仏。
当初はこの寺に埋葬されたと伝わっている

近年になって将棋の駒型
の墓石が見つかった

「寛永十一年 南無妙法蓮華経
玉淨院宗桂日龍 三月九日」
戒名も命日もドンピシャ!

安土桃山時代の棋士。初代名人で最古の詰将棋集『象戯造物』の作者。京都生まれ。もとは医者だが将棋が上手く、宗金を名乗って戦っていた。「宗桂」と名乗るようになったのは、信長から桂馬の使い方を褒められたのがきっかけとも。宗桂より4歳年下となる囲碁の初代本因坊、本因坊算砂と共に信長、秀吉、家康という英雄に仕えた。碁や将棋を好んだ家康は幕府に碁将棋所を設け、当初は両方を算砂が兼任していたが(当時の棋士は碁も将棋も打てた)、宗桂57歳のおりに将棋所が独立し、初代将棋所(どころ)を宗桂が宣言する(1612年)。将棋所となった宗桂は将軍の将棋を指導し相手をした。以降、大橋本家、大橋分家、伊藤家の御三家が幕府から禄を受け、名人を交互に輩出しながら将棋を発展させた。棋士にとっての晴れ舞台は、毎年11月17日に将軍の前で開催された「御城(おしろ)将棋」。今も確認できる宗桂の対局棋譜は8局だけで、成績は7勝1敗。ちなみに現存する最古の棋譜は、将棋所になる前の1607年(52歳)に豊臣秀頼公の御前で戦った算砂との対局で、宗桂が133手で勝っている。二世名人は宗桂の子・二代大橋宗古。維新後も世襲名人制は続いたが、1935年に名人・関根金次郎13世が「これからは世襲制をやめて実力制でいく」と宣言(翌年には21世の本因坊秀哉も世襲制をやめ、本因坊の名跡を日本棋院に譲渡した)。リーグ戦が2年がかりで催され、阪田三吉とも戦い、後年14世名人に襲位する木村義雄が新制度の第1期名人となった。

宗桂の墓は京都市伏見区の霊光寺にあり、また墓石のみであるが上京区本法寺でも確認されている。本法寺は東京の墨田区にもあり、そちらには伊藤家の墓がある。大橋本家の三代宗桂以降の墓は、神奈川県伊勢原市の上行寺に建つ。
※三代宗桂&四代宗傳の墓は最初から上行寺にあり、1933年に京都・本法寺にあった五代宗桂から十四代の墓が上行寺へ改装された。現在、二代大橋宗古の墓石だけが行方不明。
※現在のタイトル戦は竜王戦、名人戦、棋聖戦、王位戦、王座戦、棋王戦、王将戦の7つ。日本将棋連盟に所属する棋士は約140名。
※「御城(おしろ)将棋」が催されていた11月17日は、現在日本将棋連盟によって「将棋の日」に制定されている。
※この人物伝を書くに当たって、日本将棋連盟棋士(6段)の方のご意見を参考にさせて頂きました。



★天野 宗歩/Souho Amano 1816-1859.5.13 (京都府、伏見区、霊光寺 43歳)2008

薄くピンクがかった墓が棋聖・天野宗歩のもの。左奥は初代名人の大橋宗桂の墓。
名人でも大橋家でもない宗歩が、宗桂と同じ大きさの墓石で並んでいることに驚いた
背面は「歩兵」が宗歩、「桂馬」が宗桂


近代将棋の父。江戸後期の天才棋士で、名人より強い「実力十三段」と讃えられた。江戸生まれ。5歳から11代名人・大橋宗桂の弟子となり、31歳で七段まで進んだ。1852年(36歳)に11代宗桂が江戸城での御城将棋に宗歩を推薦するなど、その実力は当時から高く評価されていたが、この頃の名人は世襲制だったので宗歩は名人になれなかった。角使いの名手で、現存する棋譜の多くは、宗歩があまりに強すぎるため駒落ち上手になっている。著書は『将棋精選』。賭将棋をしたり素行は悪かったらしいが、その圧倒的な才能から後世に棋聖戦として名を残す尊称“棋聖”の代表格とされた。
※巣鴨の本妙寺にも墓がある。
※この人物伝を書くに当たって、日本将棋連盟棋士(6段)の方のご意見を参考にさせて頂きました。



★当麻 蹴速/Taima-no-Kehaya ?-B.C.22.7.7 (奈良県、葛城市、當麻・相撲館前)2008





墓は相撲の博物館(相撲館)の前にある 墓前には『史蹟当麻蹴速之塚』と刻まれた石碑が建つ 相撲関係者の信仰対象になっている

 
こちらは九州福岡の太宰府天満宮にある『野見宿禰公碑』。野見宿禰は菅原道真の祖先なんだって。
江戸時代はこの石碑の前にある3個の石“松・竹・梅”を使って若衆が力自慢をしたそうだ

大和国の豪族・当麻蹴速(當麻蹶速、たいまのけはや)は、日本書紀に出雲国の野見宿禰(のみのすくね)と共に登場する相撲の祖。開化天皇の系統の血を引く。B.C.29〜A.D.70年頃に活躍。力自慢で「誰にも負けない」と豪語していたが、垂仁7年7月7日の野見宿禰との対戦で蹴り殺された(腰骨を踏み折られた)。墓がある当麻の土地は垂仁天皇に没収され野見宿禰に与えられた。当麻蹴速は敗北こそしたが、都ずれしない素朴な性格が地元の人に愛され手厚く祀られている。



★ボビー・フィッシャー/Robert James “Bobby” Fischer 1943.3.9-2008.1.17 (アイスランド、セルフォス 64歳)2009
Laugardaelir Church Cemetery, Selfoss, Hafnarfjordur, Iceland

〜ボビー・フィッシャーを探して〜

やって来ましたアイスランド!首都レイキャビクから出発
冬場は一面氷に閉ざされるという 轟音と共に水煙をあげる巨大な滝!(ゴールデンサークル)

 
ボビーの墓の最寄りの町はセルフォス。セルフォスにはレイキャビクから路線バスが
1時間おきに出ている。所要時間は約1時間。車窓から写真のように雄大な景色が見える
セルフォスからは地元のタクシーに乗り換え。
このお兄さんの本職は映画館の映写技師なんだって




















チェス王は教会墓地の片隅に眠る 数々の伝説を残して逝ったボビー! 墓石の傍らに小さなトロフィー?があった よく見るとチェスの絵が描いてあった!

更新中。チェスの天才、反逆児ボビー。近日中に人物伝を載せます!



★ロアール・アムンゼン/Roald Engelbregt Gravning Amundsen 1872.7.16-1928.6.18 (北極圏 55歳)2009
Body lost or destroyed, Remains Lost in the Barents Sea

  
ノルウェー沖をどんどん北上すると、北極圏の入口に立つ地球儀型のモニュメントが見えてくる!

 

6月でも風は冷たい。このノルウェー海に隣接してアムンゼンが消息を絶ったバレンツ海がある

バレンツ海の方角に向きアムンゼンに感謝を述べる。
いつかバレンツ海まで行って彼の為に祈りたい!








白夜。夜中の2時でも陽が沈まない クジラだ! 時々、流氷が流れてくる

ノルウェー・オスロ近郊に生まれる。16歳の時にナンセンがグリーンランド横断に成功したことに感動。22歳、ノルウェー海軍に入隊。その後、探検家を目指してアザラシ漁船で航海術を身につけ、当初は北極点到達を試みていたが、1909年(37歳)、米国のロバート・ピアリーが先に北極点へ到達した為に目標を南極点に変更。アムンゼンはスコットに宛てて南極に向かう旨の電報を送った。これは、「事前の連絡をスコットにせずに南極で遭遇するのは無礼」と考えたからだ。

アムンゼンはナンセンが使ったフラム号に乗って南極に渡り、犬ゾリ(116頭)を移動手段&食糧に使って、1911年12月14日、39歳にして人類初の南極点到達に成功した(スコットより35日早い)。その後も飛行艇で北極点に達し、人類で初めて両極点を制覇する。
1928年、友人でありライバルのイタリア人探検家ノビレが北極で遭難したと知らせを受け、アムンゼンは捜索の為に飛行機で飛び立つ。ノビレは無事に救出されたが、アムンゼンはバレンツ海(北極海、フィンランドの北)で消息不明となった。機体の残骸は発見されたが、彼の体は見つかっていない。享年55歳。



★ダニエル・ブーン/Daniel Boone 1734.11.2-1820.9.26 (USA、ミズーリ州 85歳)2009
Old Bryan Farm, Marthasville, Warren County, Missouri, USA /Boone Monument Road Marthasville

 
墓石が建て替えられたばかり アメリカの西部開拓時代の探検家。国民的人気を誇っている

アメリカンスカウト協会の前身となった組織の名前は「Sons of Daniel Boone」。ダニエル・ブーンはボーイスカウト精神の象徴の
一つとして尊敬を集めている。また、小説『夏への扉』の主人公や『プライベート・ライアン』の米兵士の名前としても有名。



★ロバート・ピアリー/Robert Edwin Peary 1856.5.6-1920.2.20 (USA、ヴァージニア州アーリントン 63歳)2009
Arlington National Cemetery, Arlington, Arlington County, Virginia,  Plot: Section 8, Lot S-15, Grid X-8.5

 

西洋人で初めて北極点を征服!墓の上には地球儀があり、北極点に星印が入っていた。



★ヘンリー・チャドウィック/Henry Chadwick 1824.10.5−1908.4.20 (USA、ニューヨーク州 83歳)2009
Green-Wood Cemetery, Brooklyn, Kings County, New York, USA





「FATHER OF BASE BOLL」とある

“野球の父”チャドウィックの墓は野球グッズだらけ

墓石の左側面にグラブ&バット。
ボールが供えられたよ〜♪





墓の周囲の4方向にベースがあった 墓石の右側面にはマスク&バット 墓石のてっぺんには巨大ボール!

打率や防御率の計算方法やスコアの付け方を考案するなど“野球の父”の異名を持つ。



★ジョー・ディマジオ/Joe DiMaggio 1914.11.25-1999.3.8 (USA、カリフォルニア州 84歳)2009
Holy Cross Catholic Cemetery, Colma, San Mateo County, California, USA /Plot: Section I, Row 11 Area 6/7

  

  

更新中。ニューヨーク・ヤンキーズの名バッター。マリリンと結婚した。





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