2012年11月4日、日本の右派グループが米国の新聞に「(慰安婦について)日本軍による強制連行を裏付ける資料はなく、発見された公文書によれば強制募集や誘拐を禁じていた」などとする意見広告が掲載されました。呼びかけ人は櫻井よしこ氏、西村幸祐氏、藤岡信勝氏など右派論客で構成された「歴史事実委員会」で、賛同者には安倍晋三元首相の名前も。2007年にも同様の意見広告が出されています。内容は数々の誤解に基づいており、デマがネットに拡散され深刻な二次加害が起きています。このコラムはこれらの誤解を解く目的で執筆しており、史実に間違いがあればご指摘下さい。問題解決の一助となれば幸いです。 |
【慰安婦の基本情報】 慰安婦問題の真実を個別に検証するにあたり、まずは確定している史実を整理します。 ●慰安所開設の背景…中国は非常にメンツを重視する社会であり、強姦は最悪の罪であることから、中国人の強盗団でも強姦だけはしませんでした。ところが、1932年の第一次上海事変で日本兵による強姦事件が複数起きたため、民衆の間に激しい反日感情が生まれたことから、軍中央はこのままでは占領政策に支障をきたすとして兵員用の慰安所を用意しました。 また、性病の蔓延による戦力低下が問題視され、民間の売春宿から軍の機密が漏れる懸念もあったため、スパイが入り込まない軍統制下の慰安所が必要とされました。 軍は南京を陥落させた1937年の冬から中国各地で広範囲に慰安所を作り始め、対米開戦後は南方にも設置しました。1938年6月27日、慰安所の組織化を急いだ北支那方面軍参謀長の岡部直三郎中将は「日本兵の強姦事件が頻発し、中国人の怒りをかっているので、急いで慰安施設を作れ」と発令しています。 多発した強姦事件について、陸軍軍医・早尾乕雄(とらお)中尉が1939年の報告書『戦場に於ける特殊現象と其対策』で、医者の立場から心情を記しており参考になります。 「地方での強姦数は相当あり、また前線でも多く見かける。内地(日本)では到底許されぬことが、敵の女だから自由になるという考えが非常に働いているために、中国の娘を見たら憑かれたようにひきつけられて行く。(略)日本の軍人は何故にこの様に性欲の上に理性が保てないかと、私は大陸上陸と共に直ちに痛嘆し、戦場生活1年間を通じて終始痛感した。強姦は非常に盛んに行われ、中国の良民は日本軍人を見れば必ず怖れた。将校は率先して慰安所へ行き、兵にもこれをすすめ、慰安所は公用と定められた。心ある兵は慰安所の実態(騙して連れてきた)を知って、軍当局を冷笑していた」 戦地で新たに性病感染した軍人・軍属は、軍中央が把握した数で、1942年から終戦まで毎年約1万2千人にのぼり、軍慰安所は結局のところ、性病感染防止にも、強姦防止にもほとんど役立ちませんでした。 ●慰安婦について…慰安婦たちは、日本・朝鮮・台湾・中国・フィリピン・インドネシア・ベトナム・マレー・タイ・ビルマ・インド・ティモール・オランダ等の出身者が集められました。その数は20万人ともいわれていますが、軍が関連書類を敗戦時に焼き捨てたため正確な人数は不明です。日本が加入していた婦人・児童の売買禁止に関する国際条約は、本人が同意したとしても、満21歳未満の女性を国外に連れて行くことを禁止していますが、慰安婦にされた女性には未成年の少女も多く、公文書によれば、台湾からは14歳の少女が広東省の軍慰安所に連行されています。 1942年9月時点の陸軍専用慰安所は約400カ所で、海軍も独自に設置していました。慰安婦は1日に15〜20人の相手をさせられ、もっと多いケースでは漫画家・水木しげる氏が南方ニューギニア戦線で、1人の慰安婦に80人が並ぶ光景に絶句しています。 水木氏「(彼女は)これから八十人くらいの兵隊をさばかねばならぬ。兵隊は精力ゼツリンだから大変なことだ。それはまさに「地獄の場所」だった。兵隊だって地獄に行くわけだが、それ以上に地獄ではないか。と、トイレに行った朝鮮ピーを見て思った。よく従軍慰安婦のバイショウ(賠償)のことが新聞に出たりしているが、あれは体験のない人にはわからないだろうが…やはり「地獄」だったと思う。だからバイショウはすべきだろうナ」。 ●どのように募集したか…慰安婦を集める時には、軍が業者を選定するか、内務省や総督府に業者の選定を依頼し、その業者に集めさせました。日本内地からは売春の前歴がある21歳以上の女性がほとんどでした(彼女たちは貧困ゆえの人身売買の被害者でした)。 日本・台湾・朝鮮で集められた女性は、軍用船や鉄道で戦地に送られ、そこから軍のトラックなどで移送されました。中国・東南アジア・太平洋の島で集められた女性は現地の慰安所に入れられました。 ●慰安所について…慰安施設には、軍直営の慰安所、民間の軍専用の慰安所、民間の売春宿を軍が一時使用する慰安所の三種類がありました。慰安所は多くの部屋が必要となるため、現地部隊が学校などを接収して使用。慰安所の規定を現地部隊がつくり、朝、昼は一般兵が利用、夕方は下士官、夜は将校が利用するよう定められ、将校専用の慰安所もありました。民間人は利用できません。1938年3月に独立攻城重砲兵第二大隊が中国につくった慰安所の規定料金は、中国人女性は1円、朝鮮人女性は1円50銭、日本人女性は2円で、将校はその倍額とされ、各部隊が利用日を割り当てられました。 本題に入ります。慰安婦問題については南京大虐殺同様、数々のデマや誤解が保守論客によって流されています(例2007年6月ワシントンポスト紙の広告『THE FACTS』等)。以下、代表的な例を紹介します。 (1)「強制連行はなかった」という誤解 右派論客は「軍や官憲が家に押し入って人さらいをするとか、そんな強制連行をした証拠はない」「騙されて慰安婦になった女性もいるが、騙したのは朝鮮人の業者だ」と主張しています。実際、朝鮮・台湾出身の慰安婦の多くが、看護婦・工員・給仕など嘘の募集広告で悪徳業者に騙され、日本軍が直接あるいは間接に関与した艦船で海外の慰安所に放り込まれ、「家に帰して」と懇願しても返されませんでした。 国際社会が問題にしているのは「連行の方法」ではなく、「なぜ騙されたと訴えている女性を解放しなかったのか」「慰安婦には廃業の自由がなく、移動の自由もない、まさに“強制”そのものだ」というものです。 “なかった”派は、どう連行されたかにこだわっていますが、誰もそんなことは聞いていないのです。「強制」とは本人の意思に反して行なわせることであり、騙されて慰安婦にされた女性を“解放してあげなかった”ことが大問題になっているのです。人道上、騙されて連れて来られたことが発覚した時点で送り返す義務があるのに、そのまま働かせていたのですから、弁解の余地は一切ありません。 1944年10月に米国戦時情報局心理作戦班が作成した有名なレポート「日本人捕虜尋問報告」第49号には、「誘拐や人身売買で多数の朝鮮人女性がビルマに連れて来られた」「約700人の朝鮮人女性が騙されて応募した」とあります。世界の人権感覚では、無理やり慰安婦にさせた=強制連行なのです。犯罪としても国外移送目的誘拐罪に該当します。また、ビルマのある慰安所では20人の慰安婦のなかに21歳未満の者が12人いました。未成年者は本人の同意があったとしても、売春目的で勧誘・誘引・誘拐した者は、婦人・児童の売買禁止に関する国際条約違反です。 物理的な強制連行も裁判で認定されており、韓国・フィリピン・中国・台湾・オランダの被害者が10件の裁判を日本で起こし、賠償請求は棄却されたものの、うち8件で被害事実が認められました。判決では「手足を捕まえられ」「断ったものの強制的に」など拉致及び拉致に近い強制連行が31人(韓国6人、中国24人、オランダ1人)、甘言による詐欺は4人(韓国4人)が認定されました。フィリピンでは前線の部隊が農村部の女性を強姦し、宿舎に連行して監禁、最後は証拠隠滅のために殺害という悲惨なケースが複数報告されています。 【重要:スマラン事件】日本軍が直接トラックに女性を詰め込んで慰安婦にした最も有名な事件として、インドネシアで起きた“スマラン事件(白馬事件)”が知られています。1944年2月、中部ジャワのオランダ人抑留者の収容所にトラックで乗り付けた軍人たちは、17歳から28歳までの独身女性を整列させ、うち16人をジャワ島スマラン慰安所に連れ去りました。この蛮行の計画者は、南方軍幹部候補生隊の将校たちでした。別の収容所の女性を含めて35人が集められ、スマラン市内の4箇所の慰安所に送り込まれました。彼女たちは将校専門の慰安婦にされ、軍刀で脅迫され強姦されました。この一例だけでも右派の主張する「強制連行を裏付ける資料はなく」は誤りです。軍上層部はオランダ人を慰安婦にしたことを知ると驚愕し、慰安所を開設から約2ヵ月で閉鎖させ女性らを帰しました。 櫻井よしこ氏らの歴史事実委員会が『ワシントンポスト』に出した意見広告(2007)では、「(スマラン事件に関与した)責任ある将校たちは処罰された」と書かれていますが、これは事実ではありません。 管轄する部隊のトップである、南方軍幹部候補生隊隊長兼スマラン駐屯地司令官・能崎清次少将は、処罰されるどころか事件直後の6月に独立混成第56旅団長になり、1945年3月には中将に昇進しています。翌月には第152師団長に就任して内地に帰りました。幹部候補生隊副官の河村千代松大尉は1944年12月には少佐に昇進しており「責任ある将校たちは処罰された」というのは、現実とかけ離れています。事件関係者を処罰したのは日本軍や警察ではなく、戦後のオランダによるBC級戦犯裁判であり、被告13人のうち、岡田陸軍少佐に死刑、河村大尉に10年の懲役刑、11人に2年から20年の禁固刑を言い渡しました。 ※一度に大規模に慰安婦が集められた例として、1941年に対ソ戦準備のために関東軍特種演習(関特演)という名目で、陸軍の大動員が行なわれたケースがあります。この時、2万人もの慰安婦を徴募する計画がたてられ、多数の女性が朝鮮から動員されました。実際の人数は、作家の千田夏光氏が原善四郎関東軍参謀から聞いたところでは8千人、関東軍参謀部第三課兵站班にいた村上貞夫氏の証言では3千人とのことです。占領地で地元の女性を集める場合は、市長・村長など地元の有力者に要求して集めさせる場合や、軍が直接集める場合がありました。独立山砲兵第二連隊第二大隊の軍医が、中国湖北省の村で地元の女性を慰安婦にするため性病検査を1940年8月に実施した際の日記。 「さて、局部の内診となると、ますます恥ずかしがって、なかなかクーツ(ズボン)をぬがない。通訳と治安維持会長が怒鳴りつけてやっとぬがせる。寝台に仰向けにして触診すると、夢中になって手をひっ掻く。見ると泣いている。部屋を出てからもしばらく泣いていたそうである。次の姑娘(クーニャン、若い娘)も同様でこっちも泣きたいくらいである。みんなもこんな恥ずかしいことは初めての体験であろうし、なにしろ目的が目的なのだから、屈辱感を覚えるのは当然のことであろう。村の治安のためと懇々と説得され、泣く泣くきたのであろうか。(略)こういう仕事は自分には向かないし、人間性を蹂躙しているという意識が、念頭から離れない」 実状は銃で脅かさないだけで、「半ば勧誘、半ば強制」が常態化していました。 業者側までが騙されたというケースもあり、鈴木卓四郎元憲兵曹長は、南寧の軍慰安所の若い朝鮮人業者から「契約は陸軍直轄の喫茶店、食堂」と聞いて、地元の小作人の娘を連れて来たと聞いています。この青年は「“兄さん”と慕う若い子に売春を強いねばならぬ責任を深く感じているようだった」と述べています。 ※日本側の証言でも、『読売新聞』の元記者・小俣行男氏はビルマのラングーンの軍慰安所に、朝鮮で教師をしていた20代前半の女性が騙されて連れて来られていたと記し、第三航空軍の通訳としてシンガポールにいた永瀬隆氏は次のように綴っています。 「通訳(永P)さん、実は私たちは国を出るとき、シンガポールの食堂でウェイトレスをやれと言われました。そのときにもらった百円は、家族にやって出てきました。そして、シンガポールに着いたら、慰安婦になれと言われたのです。彼女たちは私に取りすがるように言いました。しかし、私は一介の通訳として軍の権力に反することは何もできません。彼女たちが気の毒で、なにもそんな嘘までついて連れてこなくてもいいのにと思いました」 畑谷好治元憲兵伍長は、中国東北の軍慰安所に入れられた朝鮮人女性たちの身上調査をした際の回想を書いています。 「私は少し横道に逸れた質問であったが、“どんな仕事をするのか知っているのか”と聞いてみたところ、ほとんどが、「兵隊さんを慰問するため」「私は歌が上手だから兵隊さんに喜んでもらえる」云々と答え、兵隊に抱かれるのだということをはっきり認識している女は少なかった」。 (2)「慰安婦は娼婦(売春婦)だった」という誤解 5つの意味で間違っています。 【1】慰安婦の多くはもともと看護婦や給仕になるため応募した人であり、それまで売春とはまったく縁がなかった女性です。騙されたことを知って自死を選ぶ人もいました。軍は性病対策の観点から、性病のおそれがある公娼(プロの女性)よりも、性体験のない一般女性を求めました。 【2】慰安婦には移動(外出)の自由がなく、「特に許された場所以外に外出を禁ず」と規定がありました(中国常州)。行きたいところに行けない、或いは行くためには許可が必要となる境遇を奴隷状態といいます。かつては公娼制度も外出の自由を認めなかったのですが、外国から「公娼制度は女性の自由を奪った制度ではないか」との批判を受けたため、1933年から内務省は外出の自由を認めるよう指導しています。しかし、慰安婦には適用されませんでした。ちなみに、米軍によるビルマでの捕虜尋問記録では、「外出は自由で、スポーツやピクニックに参加した」とありますが、これは経営者が米軍の取り調べを受けて供述したものであり、慰安婦自身の証言ではありません。 【3】娼婦は住む場所や希望の娼館を選べますが、慰安婦には居住選択の自由がなく、決められた狭い部屋で起居し、生活しなければなりませんでした。 【4】娼婦は一晩に何人の相手をするか自分の意志で選べますが、慰安婦は軍の要求に従い、局部に激痛が走ってもなお“仕事”が続きました。慰安婦の休日は月に1回、例外的に2回、無休というケースもありました。 ※黄 錦周(ファン・クムジュ)さんは日本の工場で働くはずが中国の慰安所へ。「1日何人の相手をさせられたのか判りません。気絶してしまうこともありました。生理のとき許してくれと言ってもダメでした。私は何とか休みたいと体中にわざと生理の血を塗りまくって、兵隊の気をそごうとしました。兵士達は気に入らないと殴る・蹴るの暴力をはたらきました。私も数百回、数千回殴られたかしれません」 【5】軍人を相手にしていた慰安婦は機密保持の意味からも「廃業」が許されず、職業選択の自由がないという意味で文字通り“性奴隷”でした。ただし、非常にレアなケースで廃業を認めた例もあります。1943年6月、ビルマの第15軍司令部は戦況悪化を受けて借金を返し終えた者の帰国を認めることにし、そのうちの一部は帰国することができました。しかし、同じ第15軍にあっても歩兵第114連隊の「朝鮮人慰安婦」たちは帰国が認められませんでした。 ちなみに、右派論客の中に「米軍作成の調書(日本人捕虜尋問報告・第四九号)に慰安婦とは売春婦である」と記載されていることを理由に、「自主的に慰安婦になった」と主張する声がありますが、それは勘違いです。当該調書は「従軍慰安婦の実態は国家による強制売春だ」という内容のレポートであり、あくまでも慰安婦の「仕事内容」を説明するために売春婦という言葉を使っているに過ぎず、公娼(プロの女性)であったとは書いていません。むしろ、同じ調書に「多くの女性が騙されて慰安婦にされた」と記されているのに、右派論客はその部分をスルーしていることが大問題です。 「この『役務』の性格は明示されなかったが、病院に傷病兵を見舞い、包帯を巻いてやり、一般に兵士たちを幸福にしてやることにかかわる仕事だとうけとられた。これらの業者たちが用いた勧誘の説明は多くの金銭が手に入り、家族の負債を返済する好機だとか、楽な仕事だし、新しい土地シンガポールにおける新生活という将来性であった。このような偽りの説明を信じて、多くの娘たちが海外の仕事に応募し、2、3百円の前渡し金を受け取った」(第四九号報告) 〔募集広告について〕 「慰安婦募集の広告が当時の朝鮮の新聞に載っており、女性たちは自由意志で応募したことは明らかで収入もよかった」という意見も誤解に基づいています。1944年7月27日付『京城日報』に「17歳以上23歳まで、勤め先は“後方○○隊慰安部”、月収は300円以上」、そして1944年10月27日付け『毎日新報』に「18歳以上30歳まで(月収未記載)」と募集広告が出されました。重要な点は、当時の大半の朝鮮女性が文盲であったため、この広告を読めなかったことです。日韓併合後、日本は朝鮮に義務教育制を導入しなかったため、小学校は高い授業料が必要でした。終戦間際の1944年になっても女性の10人中9人は学校に通ったことがありませんでした。一方、在朝日本人女性はほぼ全員が学校に行けました。 『京城日報』も『毎日新報』も朝鮮総督府の事実上の機関紙であり、広告主は軍が選定した募集業者と考えるほかありません。つまり、この広告は、国外移送用の慰安婦が不足したため、日本語が読める他の人身取引業者へ公然と協力を呼びかけたものだったのです。同じ広告が4日ほど連続して出され、その前後にはないことから、この時期に軍が慰安婦を必要として、急いで集めさせたものと考えられます。広告には2日目から「前借三〇〇〇円迄可」の一文が追加されており、これは下請業者に人身売買の資金を提供するという呼びかけです。慰安婦にされた少女は貧困家庭の出身で、そもそも新聞を購読していません。 ※保守系歴史家の秦郁彦氏が「信頼性が高いと判断して選んだ」証言によると、1941年に「部隊の炊事手伝いなどをして帰る」といわれて大陸慰問団として済南に来た日本人女性約200名が「皇軍相手の売春婦」にさせられたといいます。 〔軍の関与〕 軍の関与を示す証言は元首相など著名人からも出ています。 ・中曽根康弘元首相大勲位の手記《二十三歳で三千人の総指揮官》から。「三千人からの大部隊だ。やがて、原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある」。この言葉を裏付けるように、海軍航空基地第2設営班資料の中に「主計長 海軍主計中尉 中曽根康弘」が「主計長の取計で土人女を集め慰安所を開設」と明記されています。 ・鹿内信隆産経新聞元社長《いま明かす戦後秘史 上巻》から。鹿内「軍隊でなけりゃありえないことだろうけど、戦地に行きますとピー屋が…」桜田「そう、慰安所の開設」鹿内「そうなんです。そのときに調弁する女の耐久度とか消耗度、それにどこの女がいいとか悪いとか、それからムシロをくぐってから出て来るまでの“持ち時間”が将校は何分、下士官は何分、兵は何分…といったことまで決めなければならない(笑)。料金にも等級をつける。こんなことを規定しているのが「ピー屋設置要綱」というんで、これも経理学校で教わった。この間も、経理学校の仲間が集まって、こんな思い出話をやったことがあるんです」。 (3)「合法だった」という誤解 ★刑法第226条の2(1908年施行) ・人を買い受けた者は、3月以上5年以下の懲役に処する。 ・未成年者を買い受けた者は、3月以上7年以下の懲役に処する。 ・営利、わいせつ、結婚又は生命若しくは身体に対する加害の目的で、人を買い受けた者は、1年以上10年以下の懲役に処する。 ・人を売り渡した者も、前項と同様とする。 ・所在国外に移送する目的で、人を売買した者は、2年以上の有期懲役に処する。 保守論客はよく「現代の価値観で当時を裁くな」と言いますが、当時の価値観から見ても慰安婦制度(人身売買)は刑法第226条及び第227条、民法第90条、娼妓取締規則、婦女・児童売買を禁ずる国際条約、奴隷条約(1926)、強制労働条約第29号(1930)などに違反していました。 1908年施行の《刑法第226条の2》では「未成年者を買い受けた者は、3月以上7年以下の懲役に処する」と定め、「所在国外に移送する目的で、人を売買した者は、2年以上の有期懲役に処する」としています。1938年の初め、上海で慰安所をつくるために3千人の女性が必要になり、日本国内で業者が募集してまわりました。警察は悪徳業者が甘言で婦女子を誘拐するのではないかと懸念、当初はこれを取り締まろうと動きます。内務省警保局長は同年2月23日付けで「慰安婦となる者は内地ですでに醜業婦(売春婦)である者で、かつ21歳以上でなければならず、中国渡航のため親権者の承諾をとるべし」と通達を出しました。「満21歳以上」としたのは、日本は『婦人・児童の売買禁止に関する国際条約』を批准していたからです。ただし、先の国際条約に加入する時に、この法に「植民地(朝鮮・台湾)には適用しない」という条件を付けていたので、これらの通牒は「日本内地」でしか出されませんでした。その結果、「外地の朝鮮・台湾」から慰安婦とされたのは半数以上が未成年者であり、16、7歳の少女も含まれ、大半が売春経験のない女性でした。 米軍の資料によれば、1942年5月にビルマの慰安婦を募集するために、京城(ソウル)の陸軍司令部が業者を選定し、朝鮮人女性703名が集められました。料理店経営者が勧誘した20人の朝鮮人女性の募集時の年齢は17歳1名、18歳3名、19歳7名、20歳が1名、23歳以上が8名であり、過半数の12名が21歳未満でした。慰安所では様々なやり方で誘拐されてきた女性たちが長期間拘束され、将兵の「慰みもの」として性の売買をさせられており、こうした慰安所の状態や集め方が、当時の刑法や国際法に違反していました。 1941年に太平洋戦争が始まると、南方に占領地が拡大し、より広範囲に軍慰安所が設置されました。そして1942年から募集方針が変更され、南方占領地への慰安婦の派遣は内務省・警察を飛び越えて、軍が直接掌握することになりました。軍が主体となって憲兵が業者を選定し、業者が募集した女性達を軍用船で送り出しました。軍が便宜を図れと通達したら、未成年を輸送しても警察は見逃さざるを得なかったのです。ここで重要なのは、慰安婦の移送に軍の艦船や日本国籍の船舶を使っていたことです。現存する外務省の資料に、1940年に台湾から中国広東省に慰安婦として送られた女性の年齢は、「18歳(1名)・16歳(2名)・15歳(1名)・14歳(2名)」となっています。公海上では艦船に日本内地の法律が及ぶため、“外地”ではなくなります。公海=船内は日本であり、この時点で未成年の売買は違法となりました。 〔人道に対する罪〕 戦地における強姦は1907年のハーグ陸戦条約(日本も批准)で禁止されていました。また、占領地住民の奴隷化は禁じられ、違反行為は訴追されるべき戦争犯罪でした。日本は前述した1904年・1910年・1921年の「婦女売買禁止国際条約」も批准しています。1926年の奴隷条約で奴隷制の禁止(日本未批准)、1930年のILO(国際労働機関)の強制労働条約(1932年批准)で女性の強制労働はすべて禁止されています。 国連人権委員会は「日本軍の慰安所制度は1926年の奴隷条約における国際慣習法に違反する性奴隷制度であり、女性への著しい人権侵害である」と指摘しています。日本はこの奴隷条約に加盟していませんが、国際慣習法(国際法)として広く認知されており、日本も守る義務があるというのが国連の立場です。 日本軍は慰安所を創設・管理し、直接・間接的に運営し、慰安婦の募集に関与しました。多くの女性たちは拉致、強制、騙されて連行され、強制的に性奴隷制に組み込まれ、一度奴隷化されると継続的に強姦され、監禁状態に置かれました。女性に対する重大な人権侵害が広範囲かつ組織的に行われたことから、戦後の国際社会は慰安婦制度という名の性奴隷制が「人道に対する罪」であると判断しました。「売春婦は当時合法だった。違法でないので従軍慰安婦は問題ない」という意見は問題の基準点にすら立っていません。その理由が通るなら、「アパルトヘイトが法律に規定されてるから人種差別は合法、従って悪くない」ということになります。 (4)「慰安婦は高給を得ていた」という誤解 占領地の慰安婦が高給を得ていたという話は、現地の物価が想像を絶するインフレになっていたことを理解していません。物価の上昇率を無視して、裕福な暮らしをしていたかのようにミスリードしています。シンガポールを例にすると、1942年末に米6kgが5シンガポールドルだったのが1945年8月には750シンガポールドルに、同じく腕時計は85シンガポールドルから1万シンガポールドル(!)に上昇しました。日本の占領はアジアの地域経済を破壊したのです。しかも「高給説」は、慰安婦に支払われたのは公式な通貨ではなく軍票(通貨の代用の軍用手形)であったことを伏せています。慰安婦が手にした軍票は、日本の敗戦と同時にすべて紙切れとなりました。 ※ここは大事な部分なので具体例で説明します。ビルマの慰安所に送られた文玉珠(ムン・オクチュ)さんは軍票2万円以上貯金をしていましたが、ビルマは日本の占領地の中でも最もインフレがひどい地域でした。しかも、彼女が貯金を預けたのは終戦直前の1945年春に集中しています。敗戦時、東京の物価は1.5倍の上昇にとどまっていたのに対して、ビルマは1941年に対し「1800倍」に達しました。ビルマで貯めた2万円は20円程度しか価値がなかったのです(当時の東京では下士官クラスの収入が50円)。しかも文さんの貯金の大半は、敗戦が決定的になり、軍票が無価値になった時期に将校たちからもらったものです。占領地での軍票乱発によるインフレが日本国内に波及しないために、日本政府は1945年2月に外資金庫を設立して円との交換を不可能にしたので、事実上、軍票はただの紙切れとなっていました。ビルマでの事例を持ち出して「慰安婦は金もうけをした」「文さんは数億円もの大金持ちになった」というのは、占領地の経済状況を無視した完全な言い掛かりです。 ※1944年のアメリカ戦時情報局のレポート第49号では、ビルマの慰安婦の月収が300円から1500円とされました。たとえ1500円でも、楼主(業者)に半分の750円を渡しており、同じレポートの中で「多くの楼主は、食料、その他の物品の代金として慰安婦たちに多額の請求をしたため、彼女たちは生活困難に陥った」と説明しています。レポートのその部分を取り上げずに、金額だけ騒ぎ立てることはフェアではありません。 (5)「強姦を防ぐための必要悪だった」という誤解 軍が慰安所を作った理由の一つが強姦を防止するためだったのですが、残念ながら、軍慰安所の導入後も「慰安所に行くとお金がかかるが、強姦なら無料だ」と強姦はあとを絶ちませんでした。さらに、強姦したことが発覚すると罰せられるため、 “死人に口なし”と証拠隠滅のため強姦後に殺害される悲劇が多発しました。前線に軍慰安所がない場合、末端の部隊が女性を拉致し、監禁・強姦を繰り返した仮慰安所が作られたケースもありました。 中国各地での慰安所開設から3年近くたった1940年9月に陸軍省が作成した文書『支那事変の経験より観たる軍紀振作対策』によると、依然として日本兵による「強姦」「強姦致死傷」が多いと指摘されています。アジア太平洋戦争では、東南アジアでも各地に慰安所を設置しましたが、開戦から9ヶ月後の1942年8月になっても陸軍省の会議で「南方の犯罪610件。強姦罪多し。シナよりの転用部隊に多し。慰安設備不十分」と法務局長から報告されるような状態で、1943年2月にも「強姦逃亡等増加せる」と指摘されていました。沖縄でも事態は深刻で、日本軍の資料『石兵団会報』によると、慰安所設置にかかわらず「本島においても強姦罪多くなりあり」と地元女性への強姦が相次ぎ、軍上層はくりかえし兵士たちに注意を発せざるをえませんでした。 日本軍が駐屯していた「治安地区」では、善政を施していることを示す必要があり、強姦は憲兵によって厳しく取締まられ、慰安所を使うことが奨励されました。しかし、抗日勢力が強い「敵性地区」では、日本軍はいわゆる「三光作戦(殺し尽くし、焼き尽くし、奪い尽くす)」を実施、どうせ殺すのだからと、強姦、拉致し慰安婦にすることが野放しにされていました。抗日ゲリラが多かったフィリピンでも殲滅(せんめつ)作戦と慰安婦狩りがおこなわれ、慰安所と強姦は並存していたのが実状です。 ※『岡村寧次大将資料第一 戦場回想編』(1970年、302-303頁)から 「昔の戦役時代には慰安婦などは無かったものである。斯(か)く申す私は恥かしながら慰安婦案の創設者である。昭和七年(1932)の上海事変のとき二、三の強姦罪が発生したので、派遣軍参謀副長であった私は、同地海軍に倣い、長崎県知事に要請して慰安婦団を招き、その後全く強姦罪が止んだので喜んだものである。現在の各兵団は、殆んどみな慰安婦団を随行し、兵站(へいたん)の一分隊となっている有様である。第六師団の如きは慰安婦団を同行しながら、強姦罪は跡を絶たない有様である」 (6)「元慰安婦は50年も経って急に現れたから怪しい」の誤解 自らの過去について半世紀も口をつぐんできたのは、儒教社会の韓国には未婚の女性は純潔であるべきとの考えが強く、さらには民族の敵である日本兵に抱かれたという理由から、元慰安婦は差別にさらされておりカミングアウトできる状況でなかったからです。今では信じられませんが、戦後に韓国で慰安婦のための追悼碑を建てようとした際に、韓国社会から反対の声が巻き起こったほどです。慰安婦の悲劇を記録したドキュメンタリー映画『ナヌムの家』(1995)は、日本を糾弾するためではなく、韓国社会にある元慰安婦への偏見を解くためのものでした。また、1987年まで韓国は軍事独裁政権下にあり、反共政策で日本と手を組んでいたため、民衆が日本軍による戦争被害を訴えること自体ができませんでした。民主化されたことで1990年代になってようやく慰安婦が過去を話せる空気が生まれたのです。自分の過去を「友達の体験ですが」とオドオドした声で語った元慰安婦については、当初は自らの体験として公表する勇気がなかったと考えられ、当時の社会状況では無理もないと思います。 また、避妊しない軍人のせいで中絶に追い込まれた慰安婦も多く、性病の後遺症で不妊になったり、胎児に悪影響を与えた例もあり、戦後、彼女らは夫に真実を告げられず自分を責め続けました。どれほどの苦しみだったでしょう。中にはうつ病になり自死を選んだ人も。慰安婦の悲劇は、終戦とともに終わらなかったのです。 1990年6月、日本政府(小泉政権)は国会で「(慰安婦は)民間業者が軍とともにつれ歩いた」と軍の関与を否定しました。これに抗議する声が高まり、10月には韓国の女性団体から共同声明として「日本は強制連行の事実を認めること、公式に謝罪すること、被害者に補償すること、こうした過ちを再び繰り返さないために歴史教育の中でこの事実を語り続けること」を求めました。1990年11月に「韓国挺身隊問題対策協議会」が結成され、この運動に応える形で、1991年8月に韓国で初めて実名で金学順(キム・ハクスン)さんが証言を始めました。金さんは同年12月に来日し、日本政府を相手取って補償を求めて東京地裁に提訴し、慰安婦問題が日本のなかで社会問題化し、さらに国際問題化されるきっかけとなりました。その後、金学順さんに勇気をもらい、フィリピン、台湾、北朝鮮、中国、インドネシア、オランダ、マレーシア、東ティモールなどの女性たちが証言を始めました。金学順さんは1997年12月に73歳で亡くなりました。 韓国が個別請求権を放棄した日韓基本条約は1965年に締結されましたが、慰安婦問題が浮上したのは1992年です。これほどの人権侵害を“後から分かった”から黙殺というのは非情すぎます。心の傷が大きすぎ、そして差別されるのが怖くて被害を名乗れなかっただけなのです。 (7)「慰安婦は証言がコロコロ変わる」の実状 当時の朝鮮女性は識字率が低く読み書きが不得手で、文章の形で記録を残せなかった人が多く、まして半世紀前の出来事であり、地名や日付、部隊名の記憶がうろ覚えになるのはある意味仕方がないことです。日韓併合(1910)のあと、日本は朝鮮人児童の教育に力を入れなかったため、併合から20年以上経った1932年の時点でも91パーセントの女性が学校教育を受けていません。 証言を重ねるなかで思い出されたり、鮮明になることもあるでしょう。つじつまが合っていないと思われるようなぶつ切りの断片的な証言がなされるのは、典型的なPTSD(心的外傷後ストレス障害)の症状とも言えます。フラッシュバックで体が硬直したり失語症になることも。朴永心さんは性行為を抵抗したため軍刀で斬られた傷跡が首筋に残っています。 また、前項で記したように戦後社会で元慰安婦は民族の恥と見なされていたため、同情を呼ぶために、より悲劇的に話を一部で“盛る”こともありました(連行時の年齢を若く言うなど)。追い込まれて話を盛った元慰安婦に対し、「1の嘘をついたから、残りの99もすべて嘘だ!」と切り捨て、「お金が欲しくて嘘を言っている」と罵るのは、あまりに冷淡ではないでしょうか。敗戦時に資料が焼かれた分、関わった人の証言が何より貴重です。 ※右派から強く検証を求められている証言者の、インドネシアに連行されたチョン・ソウンさん(年齢を確認すると当時13歳かつオランダ植民地時代という計算に)については、僕も困惑しています。 (8)「慰安婦問題は朝日新聞の捏造」という誤解 慰安婦問題は一つの新聞による「誤報」によってねつ造されるようなものではありません。『朝日新聞』は2014年8月に「吉田清治氏が(1983年の著書『私の戦争犯罪』に記した) “済州島で慰安婦を強制連行した”とする証言は虚偽だと判断し、記事を取り消します」とし、また「慰安婦と挺身隊(ていしん)の混同がみられた」ことも認めました。これを受けて、『読売』『産経』や多くの右系雑誌が、《吉田証言はウソ→強制連行はなかった→慰安婦問題は朝日によるねつ造→国際社会にウソを広めた》という図式で、慰安婦問題そのものが嘘っぱちだと大キャンペーンを展開しました。 しかし、「吉田証言が慰安婦問題の火付け役だ」という認識は間違いです。慰安婦問題が国際的に問題になったのは、1991年8月に韓国で金順学さんが元慰安婦として名乗り出たことがきっかけでした。続けて複数の元慰安婦が日本政府を相手取って賠償を要求する訴訟を起こし、衝撃を受けた日本史研究者・吉見義明氏が防衛研究所図書館(防衛庁)に通い、軍の関与を立証する公文書を探し出し、1992年1月に発表しました。これによって「民間の業者」が勝手に連れて歩いただけだという1990年の日本政府の言い訳が完全に否定され、国家としての責任が追及されるようになったのです。軍の関与を否定していた日本政府は答弁を撤回し、1993年に軍の関与と重大な人権侵害であることを認める「河野談話」を発表、「慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった」と明確に認め、「お詫びと反省」の意を表明しました。 朝日新聞の植村隆・元記者が「日中戦争や第2次大戦の際、『女子挺身隊』の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた『朝鮮人従軍慰安婦』」と記した記事は1991年8月11日のものです。しかし、それより4年前の1987年8月14日に「読売新聞」が次の記事を掲載しています。 「従軍慰安婦とは、旧日本軍が日中戦争と太平洋戦争下の戦場に設置した「陸軍娯楽所」で働いた女性のこと。昭和十三年(1938)から終戦の日までに、従事した女性は二十万人とも三十万人とも言われている。/「お国のためだ」と何をするのかも分からないままに騙され、半ば強制的に動員された乙女らも多かった。/特に昭和十七年(1942)以降「女子挺身隊」の名のもとに、日韓併合で無理やり日本人扱いをされていた朝鮮半島の娘たちが、多数強制的に徴発されて戦場に送り込まれた。彼女たちは、砲弾の飛び交う戦場の仮設小屋や塹壕(ざんごう)の中で、一日に何十人もの将兵に体をまかせた。その存在は、世界の戦史上、極めて異例とされながら、その制度と実態が明らかにされることはなかった」 …このように、読売新聞は先んじて詳しく慰安婦の実態を記しています。 1993年8月の「河野談話」には「強制連行」という言葉は出てこないのに、談話を報じた『読売新聞』は「政府、強制連行を謝罪」、『産経新聞』も「強制連行認める」とし、“強制連行”という言葉を使っています。一方、『朝日新聞』の見出しは「慰安婦『強制』認め謝罪」であり、『読売新聞』『産経新聞』こそが「河野談話によって日本政府は強制連行を認めた」という認識の下に報じていました。これが真実です。 虚偽であった吉田証言は、早い段階で研究者から信頼できないと認識され、「河野談話」作成にあたって吉田証言は排除されました。また、慰安婦研究の第一人者である吉見義明氏の『従軍慰安婦』(1995)でも吉田証言をまったく使っていません。ですから、朝日の誤報を理由に「河野談話」見直しを要求するのはまったくの筋違いです。安倍元首相は「吉田証言のような誤情報をもとに『河野談話』が作られた」と思い込み、一時期「河野談話の見直しが必要」と言っていましたが、国会で一次史料をもとに作成(吉田証言は不採用)したことを指摘されて見直し論を取り下げました。 「河野談話」発表以降でも500点以上の慰安婦関連の公文書が発見されており、日本政府のずさんな調査が浮き彫りになっています。 ※国連人権委員会から「女性への暴力に関する特別報告者」に任命されたクマラスワミ氏は、1996年に提出したクマラスワミ報告書のなかで吉田証言を引用していました。しかし、クマラスワミ氏が参照した吉田証言は、朝日の記事ではなく、間違いだらけのジョージ・ヒックス著『Comfort Women』でした。ちなみに、クマラスワミ報告書から吉田証言を除外しても文章の流れには影響ないレベルの記述であるため、誤情報にもとづいて日本批判がなされているかのような言い方は正しくありません。現在は吉見義明さんの『従軍慰安婦』が英訳されるなど、多くの日本軍・政府関連文書が英訳で提供されるようになりました。 ※2018年6月4日、産経新聞は慰安婦問題で訂正記事を出しました。産経が2014年3月に掲載した櫻井よしこ氏の寄稿コラム《美しき勁(つよ)き国へ 真実ゆがめる朝日報道》で、櫻井氏は1991年に植村隆・元朝日記者が元慰安婦・金学順(キム・ハクスン)さんの証言を掲載した朝日の記事を批判したのですが、その際に櫻井氏がねつ造した内容を、植村元記者がねつ造したかのように書きました。櫻井氏は「(植村元記者によると金学順氏は訴状で)14歳で継父に40円で売られ、3年後、17歳のとき再び継父に売られたなどと書いている」と記しましたが、金さんの訴状には「40円で売られ」「再び継父に売られた」との記述はなく、櫻井氏が付け足したものでした。 ※日本政府は『河野談話』を出しましたが、被害者個人に対する補償(国家賠償)は否定しました。そして補償ではなく、民間から募金を集める「女性に対するアジア平和国民基金」(1995〜2007)による事業を行ないました。基金を受け取った被害者もいましたが、「国民基金は補償ではない」「日本軍という日本国家の組織が行なった犯罪なのだから、国家が補償すべきだ」として受け取りを拒否する被害者が続出しました。1998年の国連マクドゥーガル報告は、「(国民基金は)被害者の法的認知と賠償への要求を満たすものではない」と批判しました。 2007年7月、米国議会下院本会議(米国下院121号決議)の「慰安婦」決議は、日本政府に対し「明確であいまいさのない」謝罪を求め、同年12月の欧州議会「慰安婦」決議は、「被害者の賠償を求める権利を認めるべきである」と日本政府に勧告しました。 (9)「軍慰安所はどこの国にもあった」という誤解 第二次世界大戦において、軍が組織的に公然と慰安所を開設した国は日本とドイツだけです。ただし第一次大戦後のドイツは植民地を持っていなかったため、日本軍のように植民地から女性を集めて連れて行くということはありませんでした。米軍の場合、出先の軍が密かに売春宿の利用を認めていたケースがありましたが、本国がそれを知ると、軍中央はただちに売春宿を閉鎖させました。日本軍は、慰安所設置計画の立案、業者の選定、女性の輸送、慰安所の管理(直接経営または経営委託)、慰安所の建物・物資の提供など、すべてが軍の管理下に置かれていました。 ちなみに、朝鮮戦争時に韓国軍が慰安所(特殊慰安隊)を設置しましたが、これは当時の韓国軍の幹部に旧日本軍や旧満州国軍の軍人が数多くいた結果です。慰安所を管轄していた陸軍恤兵監のトップ張錫倫は日本の陸軍士官学校を卒業しており、後継者も元日本軍人。日本軍の悪習が韓国軍にも受け継がれてしまったのです。 (10)「警察は慰安婦を保護していた」の誤解 刑法第226条は誘拐や人身売買による国外への連れ出しを禁じており、櫻井よしこさんら右派論客は1939年8月の朝鮮紙『東亜日報』を取り上げて、「慰安婦になることを強制した業者を朝鮮釜山の警察が取り締まっている記事がある」と述べています(2007年の米紙の意見広告『THE FACTS』など)。 これは右派論客による記事の誤読です。軍や警察が選定した業者が集めた場合は黙認しているのですから、これは無許可の業者が見せしめで摘発されたのです。 ※2007年、米国紙に「慰安婦問題はでっちあげ」意見広告を出した国会議員リスト37名(当時のデータ)。 【自民党】安倍晋三(山口)、伊東良孝(北海道)、稲田朋美(福井)、金子恭之(熊本)、北村誠吾(長崎)、下村博文(東京)、新藤義孝(埼玉)、高市早苗(奈良)、竹本直一(大阪)、古屋圭司(岐阜)、松野博一(千葉)、山本有二(高知)、塚田一郎(参・新潟)、西田昌司(参・京都)、山谷えり子(参・比例)、山本順三(参・愛媛)、義家弘介(参・比例)、上野通子(参・栃木)、江藤晟一(参・比例)、岸宏一(参・山形)、岸信夫(参・山口)、有村有子(参・比例)、磯崎仁彦(参・香川)、熊谷大(参・宮城)、世耕弘成(参・和歌山)の24名。 【民主党/当時】柴崎正直(岐阜)、田村謙治(静岡)、花咲宏基(岡山)、福島伸享(茨城)、松原仁(東京)、三浦昇(山口)、向山好一(兵庫)、吉田泉(福島)、渡辺周(静岡)、金子洋一(神奈川/参)。長尾敬(大阪)は署名後に自民党へ!11名。 【維新】平沼赳夫(岡山)、中山恭子(参・比例) (11)「強制性を裏付ける軍の資料は探しても見つからないから、そんなものはなかった」の誤解 日本軍の上層部は、敗戦時に戦犯として訴追されることを恐れ、自分たちが国際法違反とわかっていた慰安婦連行や南京大虐殺に関する資料(命令書など)を焼却しました。焼いてしまったのだから探してもないのは当たり前です。世界に向けて「探してもなかった」と主張するためには、命令書をすべて保管していなければなりません。アメリカは後世の歴史家が検証可能にすべく、軍の命令書をすべて公文書として保存しており、これならば「探してもなかった」という言葉に説得力を与えられます。日本は機密書類を大量に燃やしてしまったため、探すことすらできないのが実状です。そして国際社会では歴史問題で史料がない場合、被害者側が主張する数字が尊重されます。 マイケル・グリーン(米元国家安全保障会議上級アジア部長)「永田町の政治家達は、次の事を忘れている。“慰安婦”とされた女性達が、強制されたかどうかは関係ない。日本以外では誰もその点に関心がない。問題は、慰安婦たちが悲惨な目に遭ったと言うことだ」(2007)。 ※多くは焼き捨てられたとはいえ、軍が運営管理、関与してた当時の文書は一部が現存し、国立図書館やアジア資料センターで、ネット上でも原文を確認可能です。敗戦直前、空襲を避けるために八王子の地下倉庫に避難させておいた1942年までの資料は、連合軍到着までに焼却が間に合わず今に残り、その中に慰安婦に関する関連文書6点を吉見義明氏が発見し、これが1992年1月11日の朝日新聞に掲載されました。 (12)「慰安婦問題は日韓基本条約で賠償金を支払ったので解決済み」の誤解 日韓基本条約が締結されたのは1965年で、慰安婦問題が明らかになったのは1991年です。条約の締結当時にまだ被害の実態がわからなかったものは賠償に含まれません。他の国際条約でも、新事実が判明すれば内容に応じて更新されます。あと「いつまで謝ればいいのか」という意見がありますが、日本はまだ公式にはいっさい謝罪していません。すべて首相名義の個人的な私信であったり、官房長官の個人的な談話です。 2015年12月の「日韓合意」でも法的責任を認めておらず、政府出資の10億円は支援金であり賠償ではありません。『河野談話』にはあった「われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さない」という決意表明が「日韓合意」にはなく、歴史教育、再発防止措置の面で内容が後退しました。そして非常に問題なのは、日本政府が〈少女像〉の撤去を要求している点です。真に反省しているならば、性被害の再発防止目的でつくられた記念碑を、加害者側が撤去するように要求するというデリカシーのないことを出来るはずがありません。韓国側にも問題があり、朴政権は日韓合意の内容について元慰安婦の方々に意見を聞くこともなく、独断で締結に踏み切りました。元慰安婦の悲劇は、韓国の政権からも存在をないがしろにされたことです。 〔貧困者を生んだ“日韓併合”〜娘を業者に売った親が悪いのか〕 「恨むなら業者に娘を売った親を恨め」「彼女たちは自分でこの職業を選んだ」、こう発言する保守論客は、朝鮮の農民が勝手に貧しくなったと思っているのでしょうか。日本の植民地政策、農地収奪が貧困の背景にありました。 1912年に総督府(日本)が発布した土地調査令は、「土地を持っている者は申告せよ」というものですが、農民の多くは文盲であったため、期限を限られた複雑な登録手続きが出来ず、土地を失うことになりました。総督府は所有権がハッキリしない、届け出がない、などの理由で朝鮮の全農地の40%を「合法的に」没収し、その所有者となって、今度は日本からの移住者に格安で転売します。こうして土地を失った多くの朝鮮人が日本へ流れました。 1918年に日本では「米騒動」が起きて寺内内閣が倒れるなど大混乱になったため、日本のコメ供給力不足を補うために朝鮮では1920年に「産米増殖計画」が開始されました。大規模な水利事業が実施され、巨大ダム建設過程においては、数多くの住民が転居を余儀なくされました。 併合から20年後、日本への米の輸出は倍増し、逆に朝鮮人の米の消費量は3分の1ほど減りました。生産が増えているのに食えないことから「飢餓輸出」と呼ばれます。貧農は高価なコメを売り、自分たちは満洲から輸入された粟(あわ)など安価な雑穀を食べてやり繰りしました。 ★朝鮮半島・全羅北道における1920年と11年後の1931年の土地所有者の統計。単位は町歩。 日本人所有 3,674→8,999 朝鮮人所有 4,181→3,545 国有水田や法人企業(つまり日本所有) 2,694→7,292 合計10,549→19,836 合計のみを見れば水田面積は約2倍になっていますが、朝鮮人所有の土地は減っています。水田がなくてどう農家が生きていけるのでしょう。 コメの次に重要な作物だった綿花や繭(まゆ)は、日本から進出した紡績資本・製糸資本が地域ごとに独占的に買い取る制度がつくられ、農民に不利に価格が決定されました。一方で、農民は化学肥料など農業生産に必要な資材の購入や水利事業費などで、支出の増大を強いられました。困窮した農家が高利貸に頼った結果、多くの農家が土地を失うこととなりました。 ★日本人による現地産業の乗っ取りについて。以下は台湾におけるデータですが、同様のことが朝鮮半島でも行われていました。台湾最大の産業は製糖業です。日本が植民地にする前には、台湾人が経営する製糖工場が1117カ所ありました。その後、三井物産“台湾製糖”が独占的に経営し、戦争末期には台湾人が経営する製糖工場は0カ所になりました。 〔台湾人が経営する製糖工場の推移〕 1901年 1117カ所 1912年 223カ所 1922年 112カ所 1945年 0カ所 このような植民地支配に対し、統治の初期に死者1万人を超える台湾人の抗日運動があり、戦後、台湾では「犬(日本人)が去って豚(蒋介石ら国民党)がきた」という言葉が生まれました。 1953年、日韓国交正常化交渉の第三次会談で、日本側首席代表・久保田貫一郎は「日本は朝鮮に鉄道、港湾、農地を造った」「多い年で(日本政府の財政から)2000万円も持ち出していた」と発言、韓国側は憤慨し、日韓会談が長期にわたり中断しました。久保田発言は、この「持ち出し」が、あたかも鉄道などインフラの整備と結びついていたかのような印象を与えていますが、その大部分は朝鮮総督府やその付属機関で働く「日本人職員の俸給の財源」でありミスリードです。鉄道は中国大陸侵略のための軍事物資や兵員を輸送する補給線として、日本軍部によって大急ぎで整備が進められました。人々の暮らしを支えるための鉄道ではなく、南北の縦断を最優先にした戦時のための輸送手段でした。 「学校を建てたり、良いこともした」と保守論客は言いますが、学校は総督府が「建ててあげた」のではありません。教育を求める地元の有力者が土地や建設資金を寄付したり、既にあった「私設学術講習会」を統合したりしながら建てたものを総督府が認可し、日本式のカリキュラムを押しつけたというのが正確なところです。そもそも朝鮮王朝の時代に寺子屋にあたる書堂や私塾が農村部まで広く普及し、併合前年の1909年だけで私立学校の設立認可が2千件以上にのぼっていました。総督府は日本語普及のために私学の多くを閉鎖し、1930年代半ばになってようやく各町村に1つの学校がある状況になりました。 日韓併合で工業化を勧めた結果、農民は放置されました。都会でも経済を握っていたのは日系企業で、朝鮮人の働き口が奪われました。そして困窮の果てに娘たちは業者に売られ、あるいは良い仕事があると騙されて慰安婦にされました。様々な形で朝鮮人を追い込んだにもかかわらず、「娘を売った親が悪い」と突き放し、また生きるために海を渡って来た在日一世のことを「貧乏で食えないので勝手に来た」と見下げるのではなく、こうした背景を知っておくべきではないでしょうか。 ※徴用工についても、拉致のような強制は確実にありました。国民徴用令の人集めの方法が強引であったことは当局者の証言、公文書からわかります。朝鮮総督府の労務動員担当の事務官いわく「(労務者の取りまとめは)半強制的にやっています」(「座談会 朝鮮労務の決戦寄与力」『大陸東洋経済』1943年12月1日号)。ここでいう「半強制的」の意味について、別資料では農作業中の人や、たまたま駐在所の前を通った人物を騙して車に乗せて動員したケースを「半強制的募集」と表現しています(朝鮮総督府高等法院検事局『朝鮮検察要報』第9号、1944年11月号)。 1944年6月に朝鮮を視察した日本の役人は動員の実態について「全く拉致同様な状態である。それは事前に知らせば皆逃亡するからである。そこで夜襲、誘出、その他各種の方策を講じて人質的略奪拉致の事例が多くなる」と伝えています(小暮泰用より内務省管理局長宛「復命書」、1944年7月31日)。 〔日韓併合は韓国に頼まれて仕方なくやった、というデマ〕 1910年、日本は武力を背景に韓国を併合し、事実上の植民地としました。右派論客は「韓国から頼まれて併合してやった」と言いますが、これにはウラがあります。この併合を支持していた親日派の政治結社・一進会が求めていたのは「対等合併」でした。ところがフタを開けてみれば「従属合併」になっていたうえ、条約締結の翌月、併合を推進した一進会は“用済み”となり強制解散させられました。そして、民衆の反発を抑えるため、日本はソウルに統治機関(朝鮮総督府)を置き、韓国の政治団体をすべて解散させ、あらゆる集会を禁止し、朝鮮語の新聞を廃刊にしました。 この日韓併合に至る道で多くの朝鮮人の血が流れました。1895年に日本の韓国特命全権公使・三浦梧楼が、朝鮮国王のロシア寄りの妃・閔妃を暗殺し、日本に逆らえば王妃でさえ殺害されることを見せつけました。そして、ペリーが黒船でやったように武力行使をちらつかせて1904年から1907年までに三度の日韓協約を結ばせ、内政の人事権を奪い、外交権を奪い、軍隊を解散させ、司法権と警察権も奪い、日本軍を進駐させました。その結果、1907年8月に民衆が独立回復を掲げる義兵(市民軍)となって抗日決起をします。反乱は全土に広がり、併合までに3年間で14万人もの抗日義兵が蜂起しました。日清戦争における日本兵の戦死者数は約1万3千人ですが、韓国の抗日義兵の犠牲者はそれを上回る約1万8千人にのぼります。国民の総意は併合に反対だったのは明らかであり、韓国皇帝・高宗も世界に助けを求めてオランダ・ハーグの国際平和会議に密使を派遣しています。 韓国の悲劇は、併合の段階で既に日本と列強の間で“手打ち”が終わっていたことです。列強は無条件で韓国支配を認めた訳ではありません。フランスの場合はインドシナの植民地支配の承認が韓国支配を認める条件であり(日仏協約/1907)、ロシアの場合は外モンゴル&北満州の支配承認が交換条件(日露協約/1907)、英国の場合は日英同盟の更新(1905)で加えられたインド防衛の同盟義務が承認の条件でした。 日韓併合条約は、文面上は「韓国皇帝が天皇に統治権を譲渡し、それを天皇が承諾する」という形になっていることもあり、「併合で同じ“日本”になったから植民地支配ではない」という意見があります。もし国際的にも合法ならば、なぜ日本は敗戦と同時に朝鮮半島を返還したのでしょう。何らやましいことはないのであれば、なぜ半島で暮らしていた日本人は敗戦と同時に統治を放棄して本土へ逃げ帰ったのでしょうか。なぜ日本政府は「朝鮮半島は合法的に得た日本の領土」と、戦後ただの一度も主張せず、竹島や北方領土のように取り返そうとしないのでしょうか。 1919年には最大の反日運動「三・一独立運動」が起き、ソウルでは60万人がデモに参加します。日本側の徹底弾圧により3ヶ月間で鎮圧されましたが、朝鮮人の犠牲者は、朝鮮側の発表で死者7509人、負傷者15961人、逮捕者46948人。総督府の発表では死者553人、負傷者1409人にのぼりました。「韓国側が併合を希望していた」論は、民衆が命懸けで抵抗した事実と矛盾しています。朝鮮では衆議院選挙は行われておらず、朝鮮人の大多数は日本の政策決定に参加できませんでした。 〔今後、日本がすべきこと〕 ●旧日本軍と日本政府が女性たちをその意思に反して性奴隷状態に置いたこと、それは当時でも違法であったことを日本政府が明確に認めることです(事実の認定)。 ●政治家などが、公的に事実関係を否定しない。被害女性を傷つける発言を繰り返すことは、許されません。2013年5月に橋下大阪市長(当時)が「慰安婦制度が必要だったことは誰でもわかる」と発言しましたが、これを念頭において、国連・拷問禁止委員会は「政治家による事実否定」に対して日本政府に反論することを勧告しています(同年5月)。2014年、人種差別撤廃委員会の最終所見でも慰安婦の存在を否定したり、誹謗中傷する試みに対して、日本が即座に行動を起こすことを求めています。 ●日本政府による被害者に対する明確で、あいまいさのない謝罪と補償(国家賠償)。閣議決定や国会決議などの公的な形をとって国家の責任を明らかにした謝罪を行ない、被害女性一人ひとりに謝罪の手紙を届け、立法などにより国家賠償をすること。 ●歴史教育・人権教育を通じて、同じことが繰り返されないように慰安婦問題の記憶を継承していくこと。『河野談話』では「歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明」しており、実際に1997年度版の中学校歴史教科書から慰安婦に関する記述が登場し、国際社会でも評価されました。ところが1990年代後半から日本社会に慰安婦問題を否定する歴史修正主義が現れ、2006年版中学校教科書から記述が消えていきました。2010年代には日本政府レベルでも「慰安婦」問題を否定し、「河野談話」を見直そうという動きが活発になっています。「米国議会下院本会議決議」や2007年の「欧州議会決議(加盟27カ国)」など国際世論は歴史修正主義に強い警告を発し、2013年、2014年に国連の人権諸機関は相次いで歴史教科書への記載を求めています。 ●日本の首相による、少女像(ソウル)への献花。これはすぐにでも可能で、目に見えて両国の関係が好転するでしょう。日本軍の慰安婦にとどまらず、あらゆる戦時・性被害者の象徴としての献花であれば、日本の保守グループも受け入れられるのではないでしょうか。当然、アジア諸国をはじめ国際社会からも高く評価されます。 ●元慰安婦の李容洙さん「戦争が終わり、私も(台湾で)解放されたが、帰国船になかなか乗れなかった。翌46年に故郷の大邱に戻った。一緒に慰安婦に行った同郷の友人が梅毒に感染し、顔が崩れていく姿を見た。私は慰安婦合意に基づいて日本が拠出したお金は受け取らなかった。お金よりも、明確な謝罪を望んでいるからだ。日本の首相が世界に分かるように、テレビに出るなどして良心を持って謝罪をしなくてはならない。私はそうすれば、許すことができると言ってきた。私は日本国民に、謝罪を求めているわけではない。国民に何の罪があるのか?国民はむしろ戦争の被害者だと思う。私は慰安婦問題は国際司法裁判所(ICJ、本部オランダ・ハーグ)に持ち込んで審理されることを望んでいる。中立的な国際機関の判決を受けるのだから日本の負担も少ないと思う」(2023年5月・東京新聞) ●保守の冷泉彰彦氏(米在住)からも「河野談話」の訂正はマイナスという意見があり、氏の主張を以下に要約します。 ・「軍による強制連行はなかった」という訂正に成功したとしても、全く日本の名誉回復にはならない。「強制連行はしなかったが、管理売春目的の人身売買は行なっていた」という「訂正」を行なうということは、旧軍の名誉にもならないばかりか、そのように主張することで、21世紀の現在の日本という国の名誉を著しく損なう。つまり、日本という国は現在形で「女性の人権に無自覚な国」だという烙印を押されてしまう。 ・「強制連行の事実」を否定できても軍人による「強姦」の汚名は晴らせない。現在の世界的な人権の感覚からすれば、「本人の意に反して家族の借金を背負って売春業者に身売りされ、業者の財産権保護の立場から身柄を事実上拘束されている女性」というのは「性奴隷」以外の何物でもないからだ。また「本意でないのに売春行為を事実上強要され、一晩に多くの男性の相手をさせられた」ということは「強姦」のカテゴリに入る。 ・「米軍も日本の占領にあたっては売春婦を用意させた」とか「ベトナム戦争に参戦した韓国軍も似たような行為をした」など「20世紀の後半になっても他にも例があるではないか」という「反論」も多く見られるが、ここにも誤解がある。ここで挙げた米国や韓国の事例に関しては「大っぴらにはやっていない」のだ。 ・「(銃で脅すなど)狭義の強制連行はなかった」という主張は、裏を返せば「当時の法制や慣行に則した広義の強要はあった」ということであり、「やっていたと堂々と認める」という話に他ならない。これは大変異様なこと。21世紀の国連加盟国の政府(日本)が「狭義の強要よりは反道徳的ではない」と主張する、それも「大っぴらに主張する」というのであれば、理解される可能性は限りなくゼロに近いと考えるべき。 ・旧軍に対して過剰なまでに「名誉回復」を追求するという姿勢を続けることは、日本の「国体=国のかたち」が戦前戦後で同一であるような誤解を与える。そうなれば、「現在の日本も軍国日本と同一の枢軸ファシスト」だなどという、中国などの理不尽な批判を勢いづかせることになる。 ・「河野談話の見直しをしたい」ならば1つだけ方法がある。それは「狭義の強制連行や強要はなかった」という事実関係の訂正をするのと同時に、「現代の価値観」に照らして、「広義の強制」つまり「事実上の人身売買であった管理売春が、派遣軍に帯同される形で行われていた」ということに関して、その反道徳性に対して厳しく批判をすること。これに加え、現代の日本は女性の人権という問題に極めて真剣に取り組んでいくという宣言を行う必要がある。女性の人権という点では、日本は実は様々な問題を抱え、先進国だけでなく中国を始めとする新興国との比較でも決して十分とは言えないのが実情(「男女格差報告」で日本は主要国最低)。仮に「狭義の強制はなかった」という訂正がしたければ、こうした点を誠実に述べることで初めて国際社会は聞く耳を持つ。 |
〔補足1 戦後の慰安婦〕
戦後の慰安婦の運命は土地によって違いがありました。中国・フィリピン・インドネシアなど占領地の女性は主に現地で慰安婦にされましたが、朝鮮・台湾の植民地出身の女性たちは、太平洋の島々など祖国から遠く離れた占領地で慰安婦にされ、現地で敗戦を迎えました。フィリピン戦線では、戦況が悪くなると各部隊がそれまで連れて歩いた朝鮮人慰安婦を捨て、置き去りにされた彼女らは、日本人と間違われてフィリピンの抗日ゲリラに殺害されたケースもありました。朝鮮人慰安婦の遺体で埋まった壕の写真が残っています。朝鮮から満洲に連行された朴玉善さん、李玉善さん、金順玉さん、シンガポールに連行されタイに残留した盧寿福さん、沖縄・渡嘉敷島に連行された「奉奇さんをはじめ、かなりの数の朝鮮人女性が現地に留まらざるを得ませんでした。1990年代、中国人として初めて名乗り出た万愛花さんは、軍に拉致され、繰り返し強姦され、暴力により骨が傷ついて身長が縮まり、右耳も聞こえなくなりました。日本政府に被害を訴えましたが裁判所にことごとく退けられ、求めていた形での謝罪も弁償もないまま2013年9月に84歳で他界しました。 日本政府の戦後補償政策では、1952年から日本人元軍人・軍属に対して軍人恩給が実行されました。しかし、元慰安婦には日本政府による個人補償はなされていません。1995年に日本政府は「女性のためのアジア平和国民基金」を創設しましたが、これは民間からの募金による「償い金」であり国家補償ではありません。ここでも極端な差別が続いています。 そして本当につらいのですが、元慰安婦が彼女たちの支援者から“食い物”にされてきたことが近年発覚しました。ソウル近郊で年配の元慰安婦が共同生活を行う福祉施設「ナヌムの家」は、慰安婦問題の歴史館を併設しており、多額の寄付が毎年寄せられます。2020年にそのナヌムの家の職員7人が、幹部や経営法人(「大韓仏教曹渓宗ナヌムの家」法人理事会)による不正行為を告発しました。累計10億円以上の寄付金を集めながら、被害者支援にはその5%以下しか使っていないというのです。他にも告発は多岐にわたりました。 ・2019年には約2億6000万円の寄付金が法人口座に振り込まれたが、ナヌムの家の施設用口座に移されたのは約640万円で、これは光熱費など維持費に充てられた。後援金の0.08%という99.92%を搾取するという有様だった。 ・運営法人は施設周辺の土地を買い集め、元慰安婦が亡くなった後は入居スペースをつぶし、約80室の有料高齢者施設に造り替える計画を立てており、寄付金は不動産購入などその準備資金に充てられていた。 ・約定書には「2001年1月から亡くなるまで月10万ウォン(日本の1万円)を支給することを約束する」「同時に慰安婦はナヌムの家の後援金に一切関与しないよう約定して誓う」という文面だったが、月10万ウォンさえも09年から10年以上も中断されていた。 ・慰安婦らは本人が希望する外出や遠足はナヌムの家から禁止されて一度も行けない監禁状態であるのに、ナヌムの家主催の行事にはいつでも参加が義務になっていた。 ・2019年6月にはある入居者が、経年劣化で傾いたベッドから落ちてケガをした。しかし施設の事務長は当初、病院に連れて行くことを拒否。「お金の乱費になるから」と買い替えも拒否した。結局、職員が命令を無視し、別の安全なベッドに替えた。 ・冬に夏用の靴を履いていた入居者に靴を買い与えなかったり、一人一人の体調に合わせた食事ではなく、全員に同じものを提供している。 ・元慰安婦の葬儀費用も当人や遺族に支払わせ、香典は経営法人が徴収していた。 ・理事代表の僧侶がナヌムの家とは関係のない著書を寄付金から大量購入させた。 ・出勤履歴がほとんどない僧侶が、5年間で寄付金から約500万円の給与を受け取っていた。 告発者の1人である日本人職員の矢嶋宰氏いわく「施設長も事務長も慰安婦問題の専門家ではなく関心もない。その証拠に彼らが昇級し権力を得た09年頃から、福祉ビジネス計画と不動産投資のための資金確保が始まっていた」。 ナヌムの家では2010年にも、日本人研究員の村山一兵氏が運営側に問題点を訴えたが、彼は解雇通知を受けて施設を追われた。解雇直後に村山氏は「ハルモニ(おばあさん)の人権問題改善要求書」を作成し、看護体制の不十分さや、当時の職員がハルモニたちと向き合わないために入居者同士にいさかいが生じていることを支援団体に訴えたが、「日本の右翼を利するだけ」などと言われ、耳を傾ける者は少なかった。 ※この告発とは別に、かつて「ナヌムの家」に滞在していた元慰安婦・李容洙(イ・ヨンス)さんが、支援団体「日本軍性奴隷問題解決のための正義記憶連帯」(正義連)に対する告発を行った。正義連の元代表・尹美香国会議員は日本大使館前で毎週水曜に行われる抗議集会を主導した人物。李容洙さん「30年間、尹美香氏と行動を共にして慰安婦問題解決を訴えた。彼女(尹美香)は幼い子どもからも募金を集めたが、お金は自分たちで使い、私たち慰安婦のためには使ったことはなかった」。 ※ドイツ政府は1952年から60年間にわたり総額700億ドル(約9兆円)をナチス被害者への賠償金として支払いました。そして定期的にナチス被害者や団体と交渉し、新たに犯罪が確認された場合は追加で賠償を行っており、2014年から2017年にかけてユダヤ人に賠償金10億ドル(約1300億円)を追加で支払うことを決めました。日本との違いはお金だけではなく、「ナチによる犯罪に時効はない」という強い姿勢にあります。 〔補足2 河野談話(日本政府見解)全文〕 河野談話は聞き取り調査以前に政府が調査した史料によって作成されたものであり、「朝日の捏造」(吉田証言)の影響はありません。 「いわゆる従軍慰安婦問題については、政府は、一昨年12月より、調査を進めて来たが、今般その結果がまとまったので発表することとした。今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。また、そのような気持ちを我が国としてどのように表すかということについては、有識者のご意見なども徴しつつ、今後とも真剣に検討すべきものと考える。われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。なお、本問題については、本邦において訴訟が提起されており、また、国際的にも関心が寄せられており、政府としても、今後とも、民間の研究を含め、十分に関心を払って参りたい。」(1993年8月4日) 『河野談話』 http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/kono.html 評価できるポイント ・「慰安所の運営は当時の軍の要求に応えたものであり」「軍は慰安所の設置と運営および慰安婦の移送に直接的、間接的に関与した」と明言。 ・慰安婦は「当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた」と、自発的な売春ではなかったと明言。 ・「慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった」と、慰安婦の境遇を明言。 ・「慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていた」と具体的に記述。 評価できないポイント ・慰安婦の募集は「官憲等が直接これに加担したこともあった」とありますが、「軍、官憲が直接これに加担したこともあった」とするべきです。南方で軍が直接誘拐した事例がいくつも報告されています。 ・「当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である」とありますが、軍の要請でつくられ、軍人だけが利用したのだから、「軍の関与の下に」とソフトに書かずに「当時の軍が多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である」とするべきです。 ・せっかく心を込めて「(日本)政府は、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる」と謝り、“政府は”としているのに、 この声明は閣議決定や国会決議を経ておらず、首相名義でもなく、官房長官の「談話」という個人的なものであり、元慰安婦が求める国家としての公式な謝罪とはほど遠いものになっています。法的責任を何も認めていません。 ・「われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ」と誓っておきながら、その後に教科書から慰安婦についての記述を削除させるなど、真反対の行動をとっている。 〔補足3 維新関係者の誤解〕 2012年8月、維新の橋下徹・大阪市長(当時)は「慰安婦が“軍に暴行脅迫を受けて”連れて来られた証拠はない」と言い、強制連行ではないと主張しました。しかし、暴行・脅迫を受けていなくても、甘言に騙される形での強制連行は成立します。10代の女性が嘘の広告に騙されて慰安所に入れられ、「家に帰りたい」という声を無視して売春を強要したことを「強制連行ではない」というのは残酷すぎます。2018年、後継の吉村洋文市長(当時)は、米サンフランシスコ市が「慰安婦像」の設置を許可したこと、また、この像の市有化を決めたことに反発し、1957年から半世紀以上も続いてきたサンフランシスコ市との姉妹都市を解消すると通告しました。設置された像は3人が手を繋ぎ、慰安婦とされた朝鮮半島、中国、フィリピン出身の若い女性を表現しています。3人を側で見つめている年配の女性像は初めて元慰安婦であることを公に話した金順学(キム・ハクスン)さんです。吉村市長は、「慰安婦」像が「両市の信頼関係を破壊」したと述べましたが、そうでしょうか。 3人の像の碑文には「この記念碑は、1931年から1945年まで日本軍によって性奴隷にされ、慰安婦と呼ばれたアジア太平洋地域13カ国にわたった何十万人の女性と少女の苦しみを表しています」と記されています。吉村市長は書簡の中で、「不確かで一方的な主張を歴史的事実として記した碑文は問題」「慰安婦の数、旧日本軍の関与の度合い、戦時中の被害規模などの歴史的事実については、歴史家の間にも見解の相違がある」としました。意味が分かりません。慰安婦の数が少なければ無視していいという内容ではないですし、軍が関与していたのは公文書から明白です。被害規模に議論があるから被害女性のことを記憶しなくていいというものではありません。1944年に米国戦時情報局が「誘拐や人身売買で多数の朝鮮人女性がビルマに連れて来られた」と記録していることを吉村市長が知らないのであれば、由々しき事態です。個人的な誤解で2つの市を引き裂いてしまったのですから…。この件において、忘却は二次加害そのものです。一方、サンフランシスコのブリード市長は声明で、「姉妹都市は60年以上も緊密に続いており、我々2都市の市民間に存在している関係を、1人の市長が一方的に終わらせることはできない」「記念碑は、奴隷化や性目的の人身売買に耐えることを強いられてきた、そして現在も強いられている全ての女性が直面する苦闘の象徴だ。彼女たち犠牲者は尊敬に値するし、この記念碑は我々が絶対に忘れてはいけない出来事と教訓の全てを再認識させる」と述べており、現在もサンフランシスコ市のサイトでは姉妹都市として大阪市の名前が掲載されています。ブリード市長の人権尊重の姿勢に敬服します。 〔補足4 「米国では少女像のせいで日系人やその子どもがいじめられている」という誤解〕 2013年7月、ロサンゼルス近郊のグレンデール市に、慰安婦少女像が市議会によって設置されました。すると、日本の保守系メディアや「幸福の科学」信者らは、同市において日系人とその子どもに対するいじめや攻撃が頻発していると宣伝しました。右派のマンガ『マンガ大嫌韓流』や『日の丸街宣女子』などでも、深刻ないじめが起きていると描かれています。また、同市を2014年1月に訪れた地方議員団(松浦杉並区議団長)も、日本人の子弟が韓国人に嫌がらせを受けていると報告しています。この日系人・在米日本人「いじめ」説には根拠がありません。グレンデール市警察およびグレンデール市教育委員会にそのような相談は一件もなく、現地の日系人や日系団体は「そうした話は聞いたことがない」とコメント。在米日本大使館は「歴史問題を背景とした、嫌がらせ、暴言等の被害に遭われた方は領事館に連絡するよう」にサイトに告知していますが、外務省は「悪質な実例は寄せられていない」と述べています(『東京新聞』2014年8月29日)。それ以降も具体的な被害が報告されたという公的な報道はありません。現地を視察した杉田水脈・衆議院議員(当時「次世代の党」)は「子どもたちが具体的にどんな被害に遭っているのかはわかりませんでした。しかし、現地のほかの方々から聞いた話によると、やはり何かしらの虐めに遭っていることは事実のようです」と述べていますが、いつ、どこで、誰が、すべて不明の伝聞情報です。右派は日頃から「元慰安婦の性被害は本人の証言しかなく証拠にならない」と言っていますが、当事者の証言すらないのが「日本人いじめ」の実状なのです。 ジャーナリストの青山繁晴氏(現参院議員)は、カリフォルニア州サンノゼで日本人の子どもたちがいじめを受けているという趣旨の発言を2014年5月にテレビ番組で行っていますが、青山氏の講演会を開催した主催団体が「サンノゼでのいじめの実態はない」と否定しています。慰安婦像の設置を契機とした深刻ないじめが広範囲に広がっているという話は、分断をもたらす誤情報とみられます。 〔補足5 小林よしのり氏と池田信夫氏の誤爆〕 小林よしのり氏はブログで慰安婦研究の第一人者・吉見義明氏について「“広義の強制連行”の発明は学者失格」(2014)と非難し、池田信夫氏もブログで「強制性に定義を拡大、こういうごまかしの主犯が吉見義明氏だ」(2014)と切り捨てました。しかし「強制連行」に狭義、広義の区別を「捏造」した人物は、吉見氏ではなく、右派から慰安婦問題で信頼を寄せられている秦郁彦氏です。秦氏は1992年の『諸君!』9月号で《官憲の職権を発動した「慰安婦狩」ないし「ひとさらい」的連行(かりに狭義の強制連行とよぶことにする)を示唆する公式資料は見当たらない》と、“狭義の強制連行”を発明したのです。吉見氏が「広義の強制連行」と記した『従軍慰安婦資料集』は1992年11月に刊行されており、秦氏の『諸君!』の後です。 〔補足6 慰安婦問題の映画『主戦場』、監督が全面勝訴〕 従軍慰安婦問題をテーマに2019年4月に公開されたドキュメンタリー映画『主戦場』は、日米韓の27人のインタビューや公文書、調査研究などを基に、従軍慰安婦を巡る論争を描いた作品。日系米国人のミキ・デザキさんが監督を務め、杉田水脈(みお)・自民党衆院議員、弁護士のケント・ギルバート氏、「新しい歴史教科書をつくる会」副会長の藤岡信勝氏ら保守派の論客が、日本軍の関与や強制性を否定する主張を繰り返す内容が話題になりました。ところが、ギルバート氏ら出演者5人が19年6月、「一般公開することを知らされておらず、学術研究目的のように装っており出演の合意は無効」「歴史修正主義者などの表現が名誉毀損に当たる」などとして、デザキ監督と配給会社「東風」に対し、上映禁止と計1300万円の損害賠償を求める訴えを東京地裁に起こしました。地裁は22年1月27日の判決で、「出演者はデザキさんと書面を交わす際に、一般公開の可能性も認識した上で出演を許諾していた」「動画の使い方は引用として適法であり著作権の侵害はない」「歴史修正主義者などの表現も意見や論評であり、違法性はない」などと、ギルバート氏ら原告側の主張を退け、請求を棄却しました。原告は東京高裁に控訴しましたが9月28日、東海林保裁判長は「映画は原告らの著作権や名誉権を侵害していない」と認定。請求を棄却した一審・東京地裁判決を支持し、控訴を棄却しました。デザキ監督は会見で「私が敗訴したら原告らは『慰安婦』に関する主張はうそだったと攻撃する根拠として判決を利用しただろう」と述べました。 デザキ監督「日本人と韓国人の友人が慰安婦問題について議論したのですが、かみ合わないのです。要するにそれはお互いが持っている情報が違うからだと思います。彼らが私の映画を見れば、より生産的な話し合いをするための材料が提供できると考えました。私の信念は、平和を得るためには理解が必要だし、理解を得るためには情報が必要だということです」「訴えられた時は、マスコミが押し寄せてテレビも来ました。ところが勝訴したのに、報道はそれほどでもなかった。私が勝訴したことを知らない人もいるのではないかと感じています」。 ※映画『主戦場』予告編(1分52秒)とても良い映画です。予告編だけでも是非ご視聴を! 〔補足7 証言者たち〕 ●フィリピン人の証言者: Rosa Maria Henson (原語) 1993年、Rosa Maria Hensonは元慰安婦と名乗り出た最初のフィリピン人となった。1942年2月、薪(まき)を採りに叔父や近所の人々と出かけ、みんなと離れたときに、日本兵三人につかまり強姦された。彼女は15歳だった。日本軍に激しい怒りを感じ、抗日ゲリラ(フクバラハップ)に参加、1943年4月にアンヘレス市郊外で日本軍にとらえられ慰安婦にされてしまった。彼女は兵舎として使われていた病院に連行されて9ヶ月間監禁され、毎日30人近い男に強姦された。そこでは他の女性6人が性行為を強要され、昼の間は洗濯をし、夜になると強姦された。1944年1月、ゲリラによって救出された。連合国の上陸でフィリピンは日本軍の占領状態から解放された。この勇気ある証言に続いて、174人のフィリピン人女性が彼女たちの体験を共有するため名乗り出た。 ●フィリピン人の証言者: Prescilla Bartonico Bartonicoが日本兵に捕らえられたのは17歳の時だ。(防空壕の)扉が乱暴に開き、兵士らが彼女らに襲いかかった。彼らはBartonicoの(年下の)いとこを引きずり掴んだ。 その少女は叫んで兵士を蹴飛ばし、顔を引っ掻いた。いとこは3人の兵士に代わる代わるレイプされた後、殺された。いとこへの暴行と殺害を見たBartonicoは縛り上げられ、家族と友人らの前でレイプされて涙を流した。それから3ヶ月間、Bartonicoはブラウエンの日本軍駐屯地に監禁された。彼女はそこで毎日5〜8人の男にレイプされた。 ●フィリピン人の証言者: Fidencia David (原語) 日本兵はFidencia Davidの家を焼き、彼女を10日間性奴隷にした。 「最初の兵士の後、2人以上でやってきた。私は弱く、起きていることの感覚も失った。その頃私はまだ生理も始まっていなかった」。 ●中国人の証言者: Huang Youliang (原語) 15歳だった彼女が故郷の町に侵入した日本兵にレイプされたのは、1941年10月だ。 彼女は日本兵のための売春施設で性奴隷として2年間過ごしたと報告された。 中国人の証言者: Liu Mian-Hunan 彼女は5〜6人の兵士に毎晩レイプされ、休めるのは離れのトイレで用を足す時だけだった。 彼女の体はすっかりボロボロになり、しきりに膣から出血していた。彼女はこの体験を証言した際、自制できず泣き叫んだ。 ●台湾人の証言者: Liu Huang A-tao (原語) 彼女は日本軍の医務班で看護婦をするとの約束だったが、代わりに日本兵のための慰安婦として性奴隷を強要された。 ●オランダ人の証言者: Jan Ruff O'Herne (原語) 日本が1942年にジャワ(インドネシア)を侵略した時、民間人の彼女は抑留施設に閉じ込められた。21歳になった1944年、 彼女は日本軍によって性奴隷となるよう強制され、他のオランダ人女性たちとともに、3ヶ月に渡って繰り返し強姦された。 ※インドネシアの慰安所は40カ所前後あり、当初は公娼が送り込まれ、のちに一般女性たちが送り込まれました。彼女らは地元の区長や隣組の組長など長老を通じて募集が行われ、住民は逆らえない状況であったため、ほぼ強制に近いと思われます。インドネシアでも、フィリピン同様に各部隊が強制的に連行して、自分たちの駐屯地に慰安所をつくるケースがありました。町へ働きに出ている女性が帰り道を襲われたり、一人で留守番をしている間にさらわれるという事例がありました。公式な慰安婦よりさらに待遇が悪く、医療検査なし、コンドーム不使用、報酬の支払いなしという性奴隷そのものでした。 〔まとめ〕 「意思に反して」という言葉の意味を、海外では「強制」と言います。しかし日本の右派は「物理的に銃で脅したり、強引に引っ張らないと強制ではない」と主張しています。証拠隠滅をしたことがバレた側が「証拠ないから、あいつら嘘吐きだ」と強弁する姿が、周りにどう映るかわからないのでしょうか。謝罪についてもそうです。日本は私信であれ談話であれ、いったん謝罪した直後にそれを打ち消す発言を有力政治家らが繰り返してきました。 これで被害者は納得できるはずがありません。 どうして右派は国連勧告や日本政府ですら認めている事実まで否定したいのか分かりません。慰安婦問題の議論は、まず慰安婦の事実があって、国際的に問題となっているという共通の認識から入るもの。そこから、賠償や謝罪は終了してるかどうか、足りないとすればどこか、被害者の救済としての謝罪はすべきかどうか、今後の方針や生産のある話をすべきなのに、なぜ入口となる大前提の共通認識すら否定するのでしょう。詐欺にあったり拉致されたり人身売買された女性たちを解放することなく売春させていたのですから、普通にアウトです。 吉田証言問題のように、疑問や欠陥が残っている一部の事例を、さも全体を揺るがす問題かのようにすり替える論法は、ホロコースト否定論者のガス室論争と同様に修正主義者の常套手段です。看護や給仕の仕事と騙され、自力では帰れない遠方まで連れていかれ、生きて帰るために仕方なく売春をさせられた人は、売春婦ではなく、誘拐被害者、強姦被害者なのです。 そもそも、世界で強制云々を議題にしているのは日本政府と右派論客だけです。問題は国家権力によって女性たちの人権が極限まで蹂躙されたことそのものだからです。 〔参考資料〕吉見義明『従軍慰安婦』(岩波新書)、山田盟子『慰安婦たちの太平洋戦争』(光人社)、映画『主戦場』など。 慰安婦関連のQ&Aは以下のリンク先がお薦めです。ほぼすべての疑問が解けるでしょう。 日本軍将兵の証言・手記など主に一次史料から慰安婦強制の実態に迫るブログ https://dj19.hatenadiary.org/entry/20121213/p1 も素晴らしいです。 ※公文書など一次史料をまとめたページ https://www.awf.or.jp/pdf/0051_1.pdf https://www.awf.or.jp/pdf/0051_2.pdf https://www.awf.or.jp/pdf/0051_3.pdf https://www.awf.or.jp/pdf/0051_4.pdf https://www.awf.or.jp/pdf/0051_5.pdf |