厩戸皇子は実在した |
奈良県飛鳥の橘寺。ここで太子は産まれた |
「聖徳太子御誕生所」 |
右は「日本仏法最初」の大看板 奥に見える言葉は「和をもって 貴しと為す」。上は菊の紋章! |
こちらは太子町の御廟(1999) | 残念!藁葺き屋根の改修中だった(2005) | 改修完了!菊の紋章も黄金に輝く!(2010) |
本名、厩戸(うまやど)皇子。名前の由来は、厩(馬小屋)の前で産まれたからとの伝承もあるが、出生地の「厩戸」(明日香村・橘寺付近に昔あった地名)や蘇我氏興隆の地「馬屋戸」(奈良・御所市)からきているとする説が有力。一度に10人の話を聞き、各々に的確な答えを返したことから「豊聡耳」(とよとみみ)とも呼ばれた。 太子が生まれた古墳時代末期は、百済を通じて仏教が伝来(538年)してから約40年が経った頃。政局では仏教を崇拝する蘇我馬子と、日本古来の神道を信奉する物部守屋が激しく対立していた。国際派の馬子は「アジア各国が仏教を信奉しており、日本もこれを採り入れ世界の仲間入りをするべき」とし、守屋は「そんなことをすれば天照大神など日本の神々の怒りに触れる」という保守勢力の代表だった。太子のお婆ちゃんは父方が馬子の姉、母方が馬子の妹(皆父親が蘇我稲目)。蘇我氏の血をひく太子もまた少年期から仏教に傾倒していた(後の太子の妻は馬子の娘・刀自古)。馬子が百済から伝わった弥勒像を自邸に安置すると、10歳の太子が供養に訪れたという。 585年(11歳)、太子の父親・第31代用明天皇が即位したが、ほどなく父は病に臥した。父は天皇として初めて公に仏教に帰依する。587年、13歳で父は他界。馬子は先代の第30代敏達(びたつ)天皇の妃で太子の父の妹、額田部(ぬかたべ)皇女(後の推古天皇)を皇位継承者に推し、一方、物部守屋が敏達天皇の弟・穴穂部皇子を推した事で、ついに両者は戦場での直接対決となった。この戦乱では太子も蘇我軍として戦場に出る。当初、戦いは物部氏に有利に進んでいたが、太子が仏像を彫って四天王に勝利祈願したところ、自軍の矢が守屋に命中し形成が逆転、物部氏は滅亡した。 戦後、額田部皇女は弟の崇峻(すしゅん)天皇を即位させたが、崇峻天皇は馬子と仲違いして即位から5年目に暗殺された(この時代の天皇はホント命がけ)。これを受けて額田部皇女が初の女性天皇として即位し、推古天皇となった(592年)。翌年、推古の甥っ子で皇太子の聖徳太子が、19歳で摂政となり天皇の補佐に当たった。太子は就任直後に、四天王へかつての戦の感謝を込めて日本最古の官寺(国の寺)・四天王寺を建立する。 この593年の摂政就任の4年前に、大陸には約370年ぶりの統一王朝・超大国『隋』が誕生しており、朝鮮半島では高句麗・新羅・百済が覇権を競っていた。日本は100年以上も中国と公式に交流を持っておらず、大陸の情報が極端に不足していた。太子は渡来した高僧から隋が高度な文明社会を築いていることを聞かされる。隋には法律と官僚制による優れた行政システムがあり、政治に儒教を導入して役人に道徳を重んじさせ、首都長安では仏教芸術が花開いていた。当時の日本は大豪族が一族の利益を求めて互いに争い、民衆の暮らしは常に困窮しており、あまりに政治制度が立ち遅れていた。太子は先進国の隋と国交を結ぶことで、最先端の文化・技術を採り入れると共に、交流を通して日本の国際的地位を向上させようと思った。馬子も太子と同じ考えであり、両者は協力して改革に取り組む。 596年(22歳)、まずは国内初の本格的仏教寺院の法興寺(現飛鳥寺)を完成させた。五重塔と伽藍を備えた荘厳な寺院だ。大和政権は百済人を中心として、優れた建築術・彫刻技術を持つ者を大量に受け入れており、渡来人は宮廷人口の3分の1にまで達した。その意味でも出身国の関係なく互いの心を結ぶ仏教が益々重要になった。 そして600年(26歳)、ついに太子は120年ぶりに使者を大陸に派遣する。隋を建国した文帝は官僚の登用に際し、貴族が世襲制で就任していた伝統を廃して、真に優秀な人材を確保する為に、全ての人々に登用の機会を与える科挙(国家試験)を導入した人物。日本の政治システムを問われた使者は、大和政権に法令もなく政治的に未成熟だったことから、天皇の権威を全面に出す為に古来の日本神話を引き合いに出してしまう。文帝は呆れ果て「倭国(日本)の政治は道理にかなっていない。指導して改めさせねば」と語り、使者は外交関係を結んでもらえなかった。 日本にとって屈辱的とも言える、この第1回遣隋使の失態は『日本書紀』には記載されておらず、中国側の歴史書にのみ載っている。 発奮した太子は馬子との共同執政の中で中央集権化を進め、603年(29歳)に官僚制の基礎となる冠位十二階を、翌604年(30歳)には十七条憲法を制定していく。 《冠位十二階》 朝鮮諸国の冠位制度を参考に、儒教の徳目を現わす言葉「徳・仁・礼・信・義・智」をそれぞれ大小にわけて12階(大徳〜小智)を定め、位ごとに色分けした冠(帽子)を授けたもの。紫を頂点に、青・赤・黄・白・黒と続き、さらに色の濃淡で身分の差がひと目でわかった。血縁に関係なく働きぶりによって冠位を上下させ、格の低い氏族の出身者でも頑張れば高い地位につけた。これは律令制の位階制の源となる。 《憲法十七条》 日本初の成文の法令集。太子が理想国家の実現へ願いを込めて作った、官僚の行動倫理。仏教や儒教の長所を導入した。(以下抜粋) 第1条「和をもって貴しと為す。協調・親睦の気持ちをもって論議せよ」 第2条「あつく三宝(仏・法・僧)を敬え。本当に極悪な人間はまれであり、正道(仏道)を知れば従うものだ」 第4条「官僚は礼の精神を根本とせよ。上に立つ者に礼があれば、民も必ず礼を守り、国家は自然に治まる。その逆も然り」 第5条「官僚は欲を貪(むさぼ)らず民の訴えを公正に裁くように。近頃の訴訟を治める者は賄賂が常識となり、賄賂を見てから訴えを聞いている。裕福な者の訴えはすぐに受け入れられるのに、貧乏な者の訴えは容易に聞き入れてもらえない。もってのほかだ」 第6条「悪を懲らしめて善を勧めよ。へつらいあざむく者は、国家や人民を滅ぼす鋭い剣である」 第8条「官僚たちは、朝早く出勤し、夕方は遅く退出せよ。公務はうかうか出来ぬものだ。一日かけても全て終えるのは難しい。遅く出勤すれば緊急の用に間にあわないし、早く退出しては必ず仕事をやり残してしまう」 第10条「心の怒りを絶ち、人が自分と考えが違っても怒ってはならない。人それぞれに考えがあるのだ。自分は必ず聖人で、相手が必ず愚かということはない。皆ともに凡人なのだ。これをよく踏まえ、相手がいきどおっていたら、自分を振り返って自らに過ちがないかと恐れよ」 第12条「地方官は勝手に税をとってはならない。国に2人の君主なく、みな天皇の臣下である」 第16条「春から秋までは民を使役してはいけない。民が農耕をしなければ何を食べていけばよいのか。養蚕が為されなければ、何を着たらよいのか」 607年(33歳)、第1回遣隋使の不面目から、冠位十二階、十七条憲法を制定し、前年には金色に輝く飛鳥大仏を法興寺に安置させ、この年には仏教の総合大学・法隆寺を建立した。外交官の小野妹子は血縁ではなく能力によって登用された公式の冠位を持つ人間。もう政治システムも仏教美術(文化レベル)も以前の「倭国」ではない。リベンジの体勢は整ったッ!7月3日、太子は『日本書紀』に記されている“第1回”の遣隋使を派遣する。妹子が謁見したのは、3年前に父(文帝)と兄を暗殺して2代皇帝に即位した暴君・煬帝(ようだい)。聖徳太子が記した国書の文面はこうだった。 「日出ずる処の天子、書を日没するところの天子に致す、つつがなきや云々」 “日が昇る東の国の天子(天皇)が、日が沈む西の国の天子(皇帝)に手紙を送ります。お元気ですか?” これを読んだ煬帝は激怒。隋は朝鮮半島の高句麗、百済、新羅を属国扱いしていたが、島国日本はさらにその下の後進国と見なしていた。そんな国が対等に振舞うばかりか、隋を没落国家のように「日没する国」とは無礼千万。しかも「天子」という中国の皇帝にしか使われぬ尊い言葉を日本の王に使うとは何事か。煬帝は隋の外交官に「今後、無礼な蛮族の書はワシに見せるな」と命じるほど憤慨する。 妹子は処罰されそうになったが、このころ隋は高句麗への遠征で苦戦しており、「ここは高句麗の背後に位置する日本と手を結んだ方が得策」と、煬帝は友好姿勢をとることにした。また、妹子が公式な官位を持つ外交官であったことから、日本には整った官僚制度があり交渉が可能だと分かった。翌年、隋の外交官が初めて飛鳥の地を踏み、朝廷で国書を読み上げ日本式の礼(4度お辞儀をする等)を執った。太子の「これからは対等な関係で行くのでヨロシク」という目論見は、ここに見事成就した。 以降、数度にわたる遣隋使、遣唐使の派遣で多くの留学生・学僧を送り、彼らが吸収した知識を国政に反映させ、日本は国力を高めていった。 晩年の太子は未来の国を造る若い人材を育てる為に、政治の第一線から離れ、教育者として斑鳩宮(法隆寺東院)で仏典の研究に没頭する。太子は20歳の頃から仏教の慈悲の心の実戦として、民の救済の為に力を尽くしてきた。四天王寺には貧しい人の為の施薬院(薬局)、療病院(病院)、悲田院(飢えた人を救い身寄りのない老人を世話した社会福祉施設)などを設けていた。太子は高句麗の高僧・慧慈(えじ)に師事し、全ての人が慈悲心を大切にする平和国家の実現の為に、615年(41歳)、仏教の教科書となる『三経義疏』を作成した。人々が興味を持ちやすいように、膨大な仏典の中から選んだ「三経」は、“誰でも必ず仏に成れる”とシンプルに説く「法華経」、唯一女性が主人公の仏典「勝鬘(しょうまん)経」、問答式で親しみやすい「維摩(ゆいま)経」を選んだ。 622年(48歳)、前年暮れに太子の母が亡くなると、年が明けて太子も床に伏し、2月に入ると4人の妻のうち膳大郎女(かしわでのおおいらつめ)が他界する。そして、翌22日に太子も逝去した。『日本書紀』は人々の様子をこう記す『王族・諸臣及び天下の百姓ことごとく、長老は愛児を失うが如く、幼い者は父母を亡くした様に、泣き涙する声が巷に満ちた。耕す男は鋤を手にとらず、杵を突く女は杵をとらず、皆「日月が光を失い、天地が崩れ落ちたようだ。今後、誰を頼りにすれば良いのか」と嘆いた』。享年48歳。わずか3ヶ月で3人が亡くなっていることから伝染病ではないかと言われている。 太子は27歳の時に、墓所の候補地を既に決めており、他界する2年前に自身の廟を造っていたが、その際、自分の子孫を“残さないように”と、風水の吉兆に逆らって「あそこの気を断て、ここを断て」と命令したと言う。これは“一族の繁栄=幸せの絶対条件”とする時代にあって驚くべきことだ。権力を誇る者の愚かさや、物部氏のような大豪族が滅んでいく様を見てきた太子ならではの強烈なエピソードだ。 大阪府南河内郡太子町の叡福寺北古墳(太子墓)は直径50m、高さ100mの円墳で、内部は横穴式石室になっている。太子、母、膳郎女の3人が合葬されていることから「三骨一廟」の墓となった。724年に聖武天皇が伽藍を建て、太子信仰が盛んになるにつれ、太子の墓や遺品を伝える同寺は霊場となり、空海、親鸞、日蓮などの名僧が巡礼し、不動明王、愛染明王は空海作と伝えられる。周辺は“王家の谷”と呼ばれ、推古、敏達、用明、孝徳天皇陵などがある。 《後日談》 推古天皇が病没した時に太子と妻・蘇我刀自古(とじこ)の息子・山背大兄王(やましろのおおえのおう)を擁立する動きがあったが、馬子亡き後に蘇我氏を束ねていた蘇我蝦夷(えみし、馬子の子)はこの即位を封じた。推古天皇と連続で蘇我氏系の山背大兄王が天皇になると、反蘇我氏勢力との対立が深刻化すると判断したからだ。しかし、蝦夷の子・蘇我入鹿が政治の実権を握ると、入鹿は彼の手足同然になっていた別の皇子の擁立を企て、依然として皇位継承の有力候補にあった山背大兄王の存在が邪魔になった。 太子の他界から21年後の643年、入鹿は山背大兄王が住む斑鳩宮を襲撃。山背大兄王はいったん生駒山に逃れる。家臣から「東国へ逃げて再起を期し、入鹿を討ちましょう」と意見されるが「挙兵して入鹿と戦えば勝てるだろう。しかし私のことで戦乱になって苦しみ傷つくのは百姓たちだ。そんな事態を引き起こすくらいなら、私の命を入鹿にくれてやろう」と、斑鳩寺に舞い戻り、山背大兄王は一族22人もろともに首をくくって自害した。ここに太子の血は絶えた。太子をよく知る蘇我蝦夷は、入鹿が山背大兄王を殺害したことを聞き、激しく怒ったと伝えられる。この事件の2年後、大化の改新で蘇我氏は滅亡した。 ※太子&馬子が忍者を初めて使ったとされている。太子は伊賀の服部氏族や甲賀の大伴細人を使って各地の情報を収集し、馬子は東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に崇峻天皇や敵対豪族を暗殺させたとのこと。 ※実は日本書紀に「聖徳太子」という呼称は出てこない。死後130年経って編纂された『懐風藻』で初めて出てくる。太子の師・恵慈がその死を知って“太子は聖(ひじり)の徳を持っていた”と詠嘆したことによる。 ※現在法隆寺にある国宝仏像・法隆寺釈迦三尊像は太子と等身大に造られている。他界の前年に止利仏師(とりぶっし)が彫り始めたもので、太子の死後に完成した。止利は像の背後に太子追悼の銘文を刻んだ。 ※現在、東京の最高裁判所には太子が十七条憲法を制定する場面が描かれた絵が飾られている。 ※聖徳太子の墓は富岡鉄斎が墓名を揮毫している。 聖徳太子が作った池(橘寺にて) |
幕末に活躍したので写真が数点残っている。幕府内にあって日本の未来を見通すことが出来た数少ない人物だ |
墨田区立・両国公園。かつてこの 付近で勝海舟が生まれた(2011) |
両国公園の敷地に建つ「勝海舟生誕之地」碑。文字は西郷隆盛の孫、 西郷吉之助の書!敵対勢力の孫が墓の文字を書くってグッとくるなぁ |
JR田町駅近くにある『江戸開城 西郷南洲・勝海舟会見の地』碑。かつて当地は海岸に面しており薩摩藩邸があった(2009) |
8月の朝の光が墓域に降り注ぐ。勝海舟の墓は霊園でも お寺でもなく、ただの公園の隅っこにあるのがユニーク |
向かって右が勝海舟、左が妻・たみの墓 |
この字はあの慶喜公が書いた! |
「勝海舟・西郷南州両雄之聖域」 実は、勝の墓所に隣接して 西郷を祀る神社がある |
どうして幕府側の勝と維新軍の西郷という敵同士が並んでいるのか?勝は西郷の人間性に惚れ込み、西南戦争で西郷が死ぬと心から 悲しんだ。そして西郷を称える為に、西郷の書いた漢詩を建碑し、さらに没後5年目に神社を建て追慕した。神社や碑文は元々葛飾区 薬妙寺にあったけれど、勝が生前に墓と並べて欲しいと希望していたことから、勝の死から14年後(1913年)に移転され、両雄は再会した |
この角度からなら、勝海舟と西郷が同時に視界に入る。もうたまらない! ※見えるかな?写真の中央から1cmくらい左に西郷の碑文が |
鹿児島の西郷の墓地にある感動的な碑 「ぬれぎぬを 干そうともせず 子供らが なすがまにまに 果てし君かな」(勝海舟) |
墓所の側にある「勝海舟先生別邸跡」。勝はここに 墓を建てたいと思うほど洗足池が気に入ったようだ |
勝の墓前にある洗足池。かつては 墓所から富士山が見えていたらしい |
夕暮れ時も素晴らしいです!(1999) |
1823年、江戸・両国生まれ。幕臣でありながら開国論者。通称、勝麟太郎(りんたろう)、名は義邦。維新後は安芳(やすよし)に改名。海舟は号。勝家は古参の幕臣(旗本)ではあるが貧しかった。9歳のとき、狂犬に睾丸を噛まれて約2ヶ月も生死をさ迷い犬恐怖症になる。成長して幕末の三剣士、島田虎之助に剣術を学び、21歳で直心影流の免許皆伝となる。1845年(22歳)、蘭学を学び始めるが、オランダ語の辞書が買えなかった為に知人の医者から蘭和辞典を借り、執念で全頁を筆写する。ある時、常々欲しいと思っていた外国の兵学書を、金策に奔走している間に買われてしまったことがあった。海舟が購入者に「写させてくれ」と掛け合うと、「昼間は本を使うが夜10時から朝8時までなら空いている」との返事。海舟は6キロの道を半年間通い詰め、根性で写し切ったという。1851年(28歳)、蘭学塾を開塾。 1853年(30歳)、黒船来航!海舟が幕府に提出した海防意見書が老中・阿部正弘に注目され、幕府海防掛・大久保一翁の知遇を得て、世に出るきっかけを掴む。1855年(32歳)、長崎に開設された海軍伝習所に入所。伝習生仲間に五代友厚や榎本武揚がいた。1858年、幕府は米国の圧力に屈し、不平等条約である「日米修好通商条約」を締結。 1860年(37歳)、オランダ製の最新鋭戦艦「咸臨丸」の“艦長”として、日米修好通商条約の批准書交換のため通訳のジョン万次郎などアメリカに向かう一行を乗せ、日本人初の太平洋横断航海(品川〜サンフランシスコ)を成功させる。咸臨丸は最新鋭といっても大きさ300トン、全長は50mしかなく、37日かかった外洋の航海は揺れに揺れた。乗船者の一人、当時27歳の福沢諭吉いわく「牢屋に入って毎日毎日大地震にあっているようなもの」。 米国を見物して視野が大きく広がった海舟は、江戸城での視察報告の席上で、「私がアメリカにて最も驚きし事は、政治に際しては、賎民の出なりとも有為の人材なれば登用し、名門に属せりとも無為の人材なれば排斥することにあり…」と語り、家老たちから「無礼者!」と激怒された。だが、14代徳川家茂から能力を高く評価され各職を歴任し、1862年(39歳)、軍艦奉行並に昇進。同年、海舟を斬るつもりで勝邸を訪れた坂本龍馬が、逆に海舟の懐の深さと先見の目に「日ノ本第一の人物」と感動して弟子になったという。 ※この当時、海舟は欧米の脅威をどう考えていたのか?1863年、40歳になった海舟は桂小五郎に対して、「(欧米列強に対抗するには)日本、朝鮮、中国の三国が同盟して技術を発展させていくべきだし、そうしなければ間違いなく西洋人に踏みつけられる」と語ったという(『海舟日記』)。当時の日本人にとって“国”とは“自藩”であり、日本国ではなかった。その状況下で、海舟は東アジア三国が肩を組むことを構想している。龍馬は海舟のこういう視野の広さに感服したのだろう。 1864年(41歳)、軍艦奉行となり龍馬を塾頭に据えた海軍操練所を神戸に開く。しかし、幕府ではなく日本国という視点で海軍を育てようとしたことや、池田屋事件で斬られた志士の中に塾生がいたため保守派にうとまれ、軍艦奉行を罷免されてしまう。同年、西郷隆盛は初めて海舟と会い、「勝氏と初めて会ってみると実に驚くべき人物だった。勝氏には一体どれだけの知略があるのか自分には全く分からない。英雄肌で、佐久間象山よりも有能であり、すっかり惚れてしまった」と大久保利通に報告している。翌年、幕府によって神戸の海軍操練所は閉鎖された。 1866年(43歳)、海舟は約2年の蟄居生活の後、軍艦奉行に復帰。第二次長州征伐の停戦交渉を徳川慶喜から任され、長州側と和議の条件をまとめる。ところが、その間に慶喜自身が朝廷から停戦の勅命を出させた。苦労してまとめた和議は何だったのか。海舟は時間稼ぎに利用された事を怒り幕府を去った。 1867年(44歳)、大政奉還。翌1868年(45歳)、戊辰戦争が勃発すると、幕府は海舟を頼って軍事総裁に任命した。さらに旧幕府方の代表として全権を委任された海舟。薩長軍による江戸城総攻撃の予定日は3月15日。海舟はその前々日、前日と薩摩藩江戸藩邸にて西郷と会談し、和平の道筋を取り決めて江戸城を無血開城させた。これによって江戸城攻防戦という最終決戦は回避され、江戸の町は焦土とならずに済んだ。 維新後は徳川家の後見人的存在として新政府の要職を務める一方で、旧幕臣が路頭に迷わぬよう晩年まで約30年にわたって奔走する。 1871年(48歳)、明治新政府としては初の国際条約となる日清修好条規が締結される。その第1条は「互いの領土を侵越しない」。清の全権大使は李鴻章(り・こうしょう)、日本の大使は伊達宗城で、1873年4月、批准書の交換により発効した。ところが翌1874年5月、日本は台湾に約3500人の海外派兵を行なう「台湾征討」を断行した。この前月に、木戸孝允(桂小五郎)は「征韓論を否定する一方で同じ海外である台湾へ出兵するのは矛盾している」と台湾侵攻に反対し、参議の辞表を叩き付けて明治政府を去った。木戸の心には、かつて海舟から聞いた東アジア同盟が念頭にあったのかも知れない。台湾征討は当然ながら日清修好条規違反であり、条約締結に尽力した李鴻章は駐清日本公使に対して「日本の言語道断の裏切り行為であり、私は皇帝や民衆に対して合わせる顔がない!」とテーブルを叩いて激怒した。1875年、明治政府は鎖国を続ける朝鮮に開国を迫り、漢城(ソウル)に近い江華島へ軍艦“雲揚”を派遣。そして江華島の砲台が“雲揚”を砲撃する江華島事件が起きる。翌年、日本と開戦したくなかった朝鮮は日朝修好条規を結び開国への第一歩を踏み出すことに。 1877年(54歳)、2月に西南戦争が勃発し、約半年間の激戦の末に西郷が自決すると、海舟は「濡れ衣の死だ」と深く嘆いた。1887年(64歳)、伯爵を受爵。 1882年(59歳)、朝鮮にて近代化を目指す開化派の閔妃(みんぴ、国王・高宗の妃)一族と、鎖国攘夷を訴えて清の属国のままでいいとする守旧派の大院君(国王の父)との対立が深まり、守旧派がクーデター「壬午(じんご)事変」を起こす。閔妃は距離を置いていた清に救援を求めたところ、清軍が守旧派を制圧したことから、閔妃の心は清に傾いていく。これを閔妃の変節と受け止めた開化派の金玉均(きん・ぎょくきん)らは、2年後(1884年)に「力ずくで守旧派を一掃して日本の助力のもとに近代国家を築くべし」と甲申(こうしん)政変を起こした。これに呼応した日本軍が王宮を占領したものの、清軍が再び介入して日本軍は撤退。開化派の政権は三日天下に終わった。翌年、甲申政変で緊張関係にあった日本と清は、不測の事態を避けるための条約を模索。日本側全権・伊藤博文と清側全権・李鴻章は、朝鮮半島から両国が軍を引き上げ、出兵の際は相互に通知するという「天津条約」を締結した。 1891年(68歳)、日本の公害の原点となる足尾鉱毒問題が地元の政治家、田中正造の告発で明らかになる。海舟は田中と親交を持ち、足尾銅山の公害が判明しても採掘を続ける政府に憤慨。「こんなエセ文明より旧幕府の野蛮の方が良かった」と嘆いた。 1894年(71歳)、朝鮮全土で貧困に苦しむ農民が蜂起し(東学党の乱)、朝鮮政府からの鎮圧要請を受けて日清両軍が朝鮮に進駐する。朝鮮政府は農民軍と停戦した後、日清両軍に撤兵を求めたが、影響力を残したい両国は軍をすぐに引かなかった。7月、日本軍は朝鮮王宮を占領し開化派の金宏集政権を樹立させた後、清軍に対して「朝鮮から撤兵させる」という名目で攻撃を開始し、日清戦争が勃発する。8ヶ月の戦闘を経て、日本軍は1万3千人の兵を失いながらも翌1895年3月に勝利した。この戦争の背景には、「朝鮮半島をロシアの南下に対する防波堤にするべく、清から朝鮮を独立させて親日政権を樹立したい」という日本の狙いもあった。しかし、7月に閔妃一族がロシアの力を借りて政権を奪取したことから、10月に日本公使・三浦梧楼が黒幕となって王宮に乗り込み閔妃を暗殺する。外交官に王族を殺害された朝鮮国王・李太王は、身の危険を感じて翌年にロシア公使館に移ってしまった。日本が欲していた“朝鮮独立”はロシアと朝鮮の蜜月という最悪の展開になった。 この間、海舟は「日清戦争は大義のない戦争であり(清が弱体化すると)ロシアとイギリスを利するだけだ」「清と戦うのではなく、日本、清、韓国が共闘して欧米に対抗すべき」と持論を訴え続けた。そして清の海軍(北洋艦隊)司令長官・丁汝昌(てい じょしょう)が、清兵の助命を条件に降伏を受入れ、その直後に服毒自決すると、 敵将の死に胸を打たれた海舟は追悼文を新聞に寄稿した。また、戦勝に酔いしれる人々に対し「一回勝ったぐらいでうぬぼれるんじゃない。日本が逆運に会うのも相当遠くはない」と警告した。 海舟は後年次のように振り返る。「日清戦争はおれは大反対だったよ。なぜかって、兄弟喧嘩だもの犬も食わないじゃないか。たとへ日本が勝ってもどーなる。支那はやはり(謎の)スフィンクスとして外国の奴らが分らぬに限る。支那の実力がわかったら最後、欧米からドシドシ押しかけてくる。つまり欧米人が分らないうちに、日本は支那と組んで商業なり工業なり鉄道なりやるに限るよ。いったい支那五億の民衆は日本にとって最大の顧客さ。また支那は昔から日本の師ではないか。それで東洋の事は東洋だけでやるに限るよ。おれなどは維新前から日清韓三国合従(がっしょう)の策を主張して、支那朝鮮の海軍は日本で引受くる事を計画したものさ」(『氷川清話』)。 海舟だけでなく、清の宰相・李鴻章もまた、「日本と清がアジアで戦えば欧米が喜ぶだけ」と考えていた。日清戦争の講和を結ぶ際、李鴻章は「領土要求は撤回して欲しい。この先、日清の協力が難しくなるし、欧米列強の新たなアジア侵略を呼び込むことになる」と日本側へ覚え書きを送ったが、明治政府はあくまでも領土(遼東半島、台湾)を要求し、そのうえ日清修交条規を不平等条約に改正した。莫大な賠償金を日本に負わされた清は、列強から資金を借り入れ、その代償として日清講和の3年後(1898年)、英仏露独に租借地(そしゃくち、支配地域)を与えることになった。このように李鴻章や海舟の予想は悪い形で的中した。李鴻章は阿片戦争(1840年)のトラウマで英国を特に警戒しており、その反動としてロシアとの接近を強めたが、結果的に満州の権益をごっそりロシアにもっていかれてしまう。 海舟の考えた日清韓の東アジア三国同盟は、隣国が欧米に侵略された場合、日本海軍がアジアの兄弟として守りに行くというものだった。しかし現実はその真逆の道を進んでいった。 1899年1月19日、入浴後にブランデーを楽しんだ直後に脳溢血となり昏睡状態となる。この型破りの江戸っ子は、最期に「これでおしまい」と言葉を残し21日に他界した。享年75歳。戒名は大観院殿海舟日安大居士。 ※死の前年に勝海舟は奄美大島の「西郷南洲流謫(るたく)地」碑の碑文(1898)を書いている。 ※「幕末の三剣士」は「天保の三剣豪」とも。男谷信友(おたに・のぶとも)、島田虎之助、大石種次(大石進)の3人。 ※日清戦争で活躍した初代連合艦隊司令長官の伊東祐亨(すけゆき)は、かつて海舟が開いた神戸海軍操練所の塾生だった。品川の海晏寺が墓所。 ●墓巡礼記 墓は大田区の洗足公園の一角にある。ここには海舟の別邸“千束軒”があったが戦災で焼失した。巨大霊園の奥に隔離されているのではなく、市民が犬の散歩をする公園の片隅というのも、権威主義者ではなかった海舟らしくていい。墓は夫婦で並んでいる。右墓塔に「海舟」、左墓塔には「海舟室」(妻・民子)と徳川慶喜の手で刻まれている。 墓所に隣接して「西郷南州留魂碑」が建っている。これは西郷の魂を慰霊する為に海舟が建立し、以前は葛飾区の業妙寺にあったもの。海舟の生前の希望により現場所に移転された。これも良い話だ。 |
●江戸城無血開城 江戸に着いた新政府軍は慶喜に腹を切らせるべく多摩川沿いに陣をひく。江戸総攻撃の前日、慶喜不在の江戸城を任されていた旧幕府軍総裁・勝海舟は降伏の嘆願書を持って西郷に面会を求めに行く。 西郷と勝はこれより4年前、薩摩がまだ倒幕路線を明確にする以前に一度顔を合わせている。その時は、「幕府に勝海舟あり」といわれるほどの人物に会ってみたいという思いで西郷が一方的に勝を訪ねたのだった。勝もやはり「薩摩に西郷あり」といわれる彼の訪問を歓迎した。この席で、勝はざっくばらんに幕府の内情や、現在の諸問題について西郷と語りあう。勝は幕府の中枢にいながら、堕落した幕政への確かな批判力を備えていた。 西郷と再会した勝は、慶喜の助命を約束してくれるなら江戸城を明け渡すと告げる。西郷は勝が自らの保身について何も語らず堂々と向き合うので、その立派な態度にあらためて感心した。 「分かりもした。いろいろ難しい議論もありもすが、慶喜公については、おいが責任を持って引き受けいたしもす。」 江戸総攻撃はすんでの所で回避された。4年前の腹を割った熱い出会いがあったこの2人だからこそ、江戸城開城という大事件を、わずかに言葉を交わすだけで流血なしに実現出来たのだ。 勝は友人に西郷について以下の如く語っている。 「(こんな状況になっても)西郷は、幕府の重臣に対する敬意を持って私に接し、談判の時は始めから終わりまで背筋を真っ直ぐ伸ばして坐し、両手は膝の上にきっちりと乗せていた。とにかく西郷には少しも戦勝者の威光で敗軍の将を軽蔑するというような風が見えなかったのだ」 勝もまた感心しきりだったというわけだ。 1868年4月11日、江戸城無血開城。 14年前の安政の大獄以来、この日を見ることなく志し半ばで散っていった松陰、晋作、龍馬を始め多くの志士たちの悲願がついに達成された。 |
卑弥呼の墓と言われている箸墓(はしはか)古墳入口。 この先は宮内庁が調査禁止に。公開して〜!(1999) |
9年後に再訪。この前週、新たに大規模な周濠が 発見されたと報道され、考古学ファンを湧かせた |
弥生文化博物館 の卑弥呼復元像 |
「倭迹迹日百襲姫命 大市墓」とある |
箸墓古墳の全景。一帯はとってものどかデス |
この角度から見ると、手前が方形で奥が円に なっている「前方後円墳」というのがよく分かる |
前面部分を横から | 背後の円墳部分。樹木の真ん中に“穴”が | ポッカリと開いておりミステリアス |
上空から。全長280メートル! (画像/エンカルタ総合大百科) |
【参考】 長野県更埴市の森将軍塚古墳。 完成当時の古墳はこの様に石で覆われていた。 (上部にズラリと並んでるのは全部埴輪!) |
景初三年(239年)制作の画文帯神獣鏡。 何と卑弥呼が生きていた時のものだ! (画像/エンカルタ総合大百科) |
『曽根遺跡群 平原遺跡』 |
この1号墓から多数の女性用副葬品が発掘され 巫女的な女王の墓と考えられている |
周囲には田畑が広がり、ゆっくり ゆらゆらと時間が流れていた |
伊都国歴史博物館には発掘時の様子が再現 されている。駅から少し離れているが、充実 展示で考古学ファンにはお薦めの博物館! |
一般の国立博物館でも1、2点しか展示されて いない国宝指定の銅鏡がここにはズラリ! |
ガラス勾玉や瑠璃管玉など国宝の装飾品が ザックザク。これらがたった1人の女性の墓 から出て来たという。ということは…!? |
付近には32×31mという日本最大級の 弥生王の墓『三雲南小路遺跡』がある |
ここから出土した銅鏡の数は弥生〜古墳時代 の中で最も多く、後の大量副葬の先駆けだ |
この甕棺(かめかん)がワンセットで王の棺。 互いの口を上下に合わせて密封していた |
王宮(主祭殿)は高さ16.5m、13m四方という巨大さ! | 1800年前の卑弥呼が生きていた時代の姿を復元! | 王宮と見張り台の楼閣。楼閣はあちこちにある |
1階では諸侯が会議をしている | 最上階では卑弥呼(?)が神託を受けていた |
吉野ヶ里(よしのがり)遺跡は弥生時代の巨大遺跡。南北1km以上、甲子園の10倍となる約40ヘクタールの土地から、周囲を二重の堀で囲まれた大環濠集落や王族の墳丘墓、約3千もの甕棺(かめかん、昔の棺)が見つかっている。また、高さ12mの物見櫓(やぐら)跡があったり、傷を受け首がない人骨や鉄の矢じりも出ており、文献に残る邪馬台国のように戦争していたことが分かる。 |
まさに戦闘国家。高い柵が都市をグルリと一周 | 写ってる人間と比べてみて! | 堀の深さもかなりのもの。突破不能 |
遠方から見ると柵がずっと続いているのが分かる | 外堀の柵を越えても今度はこの内堀の柵が待っている | 王宮を囲む内堀の柵。難攻不落! |
吉野ヶ里には鳥のオブジェが多い。魔除けや守護神だったのかも | 居住エリアにある王の家の鳥。ちょこんと乗ってて可愛い |
歴代の王の墓(北墳丘墓) | ここからは14基の甕棺(かめかん)を発掘 | 甕棺の中はこうなっている | 被葬者が抱きかかえていた立派な銅剣 |
吉野ヶ里遺跡の北外れにある日吉宮。このように木を全体にくくり付けた 鳥居を見たのは初めて。これにはどういう意味が含まれているのだろう? |
謎の鳥居をくぐると日吉宮の本殿が見えてくる。ここを卑弥呼の墓と考える学者も いる。確かに“日吉”という太陽と関係ある名は日巫女=卑弥呼を彷彿させる |
西都原古墳群は日本最大の古墳銀座!この土地には300基以上の古墳がある!これ以上の規模の 古墳群が見つかっていない以上、ここが邪馬台国という可能性は否定しきれない |
古墳の向こうにまた古墳 | 右を見ても左を見ても古墳、古墳 | まさに古墳尽くし!これほどとは思わなかった! |
春夏秋冬の表情を見てみたい | 訪れたのは朝7時半。青々とした緑が目に染みる | 内部の石室が公開されている古墳もある |
宮内庁による、『男狭穂(おさほ)塚・女狭穂 (めさほ)塚 陵墓参考地』の案内板 |
男日本最大の円墳=男狭穂塚はニニギノミコト、九州最大 の前方後円墳=女狭穂塚はコノハナサクヤビメの墓と 伝わる。円墳の男狭穂塚を卑弥呼の墓とする説も |
宮内庁が立入禁止にしており望遠で撮影。分り難いけど この林の奥がニニギノミコトの墓。土が盛り上がってる |
少し離れた場所から。おそらく右の山がニニギノミコト (=卑弥呼?)、左の山がコノハナサクヤビメのハズ! |
西鉄天神大牟田線の塩塚駅 |
なんて、のどかなんだろう。 だが地名はめっさ邪馬台国っぽい |
隣接するみやま市大神(おおが)の女山の旧名は 「女王山」。付近の城跡を卑弥呼の墓という人も |
この一帯は2005年3月の合併で柳川市になるまで、住所は「福岡県山門郡大和町」だった!“山門郡”だけでも邪馬台国っぽいのに、 “大和町”という2段重ね!魏志倭人伝の記録が九州を指しているのなら、山門郡大和町という地名はまさにその名残ではなかろうか!? |
美しい西大門。夕日で朱が一層映えている |
宇佐八幡宮本殿。この奥に三神が祀られている |
中央の二の御殿で祀られるヒメオオカミ(比売大神)。 比売=ヒメ(日女)&巫女=ヒメコ=卑弥呼? |
三の御殿。日本書紀にはこの神功皇后を 卑弥呼と示唆する文章が書かれている |
宇佐神宮境内の亀山神社。小山になっているのでここが卑弥呼の墓という研究者もいる |
こちらは伊勢神宮・内宮(ないくう)。アマテラスの別名はオオヒルメノムチ。“ヒルメ”とは 「日につかえる巫女」。そこから天照大神=日巫女=卑弥呼と考える学者もいる。(2008) |
●卑弥呼の奮闘
時は今から約2千年前。180年頃から、古代日本では「倭国大乱」と呼ばれる激しい内乱が起きていた。何年も互いに攻め合い疲弊した小国約30カ国は、国家連合を作ることで戦争を終わらせようと考え、連合体の中心国で7万余戸から構成される邪馬台国(推定人口30万人)の卑弥呼を共通の女王、王の中の王とすることにした。彼女は呪術に長け、絶大なカリスマがあり、連合体は見事にまとまった。宮殿は厳重に警護され、卑弥呼には千人の侍女がつき、決して民衆の前に姿を見せることはなかった。彼女は神の妻として終生結婚せず、神託は弟によって実行された。 この頃、中国大陸の後漢では184年の民衆蜂起“黄巾の乱”で支配体制が崩れ、『三国志』の英雄たちが活躍していた。207年に曹操(そうそう)が北部を統一、さらに全土を支配すべく15万の大軍で南下するが、翌208年に天才軍師・諸葛孔明を得た劉備(りゅうび)&孫権の5万の連合軍に“赤壁の戦”で策にはまり大敗北を期した。220年に曹操が病没すると子の曹丕(そうひ)が後漢を滅ぼし「魏」を建国する。翌年に劉備が「蜀」を、翌々年に孫権が「呉」を建国し、大陸は3国に大分裂した。 やがて劉備と諸葛孔明が病没。蜀が弱体化し西方から脅威が消えたことで、魏は東の朝鮮半島へ戦力を向け始めた。238年、魏軍が朝鮮半島を南下し、ソウル一帯まで支配下に治めると、卑弥呼は素早く政治判断を下し、魏に使節を送って貢ぎ物を献上した。魏王朝2代皇帝の明帝は卑弥呼に「親魏倭王」の称号を授けて魏の支配下に入れ、明帝は卑弥呼の使者に金印、刀、銅鏡100枚(三角縁神獣鏡?)を与えた。 邪馬台国は南方の狗奴国(くなこく)と長く戦争状態にあり、卑弥呼は魏の支援を期待して使節を送り続けた(243年)。その結果、245年に魏軍を象徴する軍旗を与えられる。卑弥呼はさらなる支持を求めて247年に戦況を報告する為の使節を派遣した。これを受けて魏は「卑弥呼に協力をするように」と檄文を出すと共に倭国の各小国へ特使をおくった(卑弥呼の狙い通り)。 このように卑弥呼は魏の軍旗や詔(みことのり)で邪馬台国の権威を高めていったが、苦戦が続くなか248年に他界する。 ※邪馬台国の兵士は魏の旗を振って戦っていた。三国志に登場した旗を卑弥呼の軍も掲げていたとは。歴史って面白い。 卑弥呼の没後、男性が後継者となったが連合国はこれを認めず内乱が再度勃発。卑弥呼の親族から13歳の台与(とよ)を新女王に選ぶことで平和を取り戻した。魏は卑弥呼の死の約20年後に晋に滅ぼされ、台与は晋にも朝貢したが(281年)、その後は413年まで倭国は中国の文献に1世紀以上登場しない。 ●邪馬台国はどこにあったのか?〜江戸時代から続く邪馬台国論争 『魏志倭人伝』に記された邪馬台国に至る方位&距離をそのまま信じると、九州よりもっと南の海上になってしまう。これが原因で、江戸中期に新井白石が苦悩し始め、本居宣長から現代まで、畿内説と九州説の議論がずっと続いている。近年は関東説、北陸説、四国説、沖縄説、果てはハワイ説、インドネシア説なども登場し、20説以上が入り乱れている状態だ。いったい邪馬台国はどこにあったのか。1世紀前半の中国・新王朝の貨泉(かせん)と呼ばれる貨幣が畿内と北九州から多く発掘されており、双方に文化圏があったのは確実だ。論争を代表する九州説、畿内説の最新情報を紹介し、日本神話も踏まえながら謎に迫りたい。 《邪馬台国九州説・10大理由》 (1)『魏志倭人伝』(以下、魏志)の方角にあるのは福岡県山門郡(現みやま市、柳川市)。山門=ヤマトだ。『日本書記』神功記には筑後国に“山門県”の文字があり、古来からこの土地名は存在していた。距離は換算方法でどうにでもなり、大事なのは方角。命がけで外洋を越える海の男たちが方向を間違えるはずはない。「北極星を頼りに渡航した中国の使者が邪馬台国の位置を誤るのは不自然」(松本清張) (2)2世紀後半に戦争で強力な武器となったのが、従来の青銅や石の武器に比べてはるかに頑丈で鋭い鉄製の武器。3世紀、卑弥呼の時代までに作られた鉄製武器の出土状況は、畿内の約300点に対して九州は約1300点と完全に圧倒している。当時の日本は製鉄技術がまだ確立されておらず、『三国志魏志弁辰伝』には「朝鮮で産出される鉄を倭人が取りに来た」とある。九州と朝鮮は200kmしかなく(博多〜岡山より近い)、この地の利を生かしてどんどん鉄を持ってきたと思われる。魏志にも“邪馬台国の兵の鏃(やじり)は鉄か骨”と記述されており、鉄器が充実していたことが分かる。 (3)『魏志』に記された邪馬台国の風俗は南方系そのもの。「男はみんな入れ墨をし、海に潜るのが得意で魚や貝をとる」「気候は温暖であり裸足で生活している」など、海と密接した暮らし、刺青の風習、温暖な気候、すべてが南国を彷彿させる。 (4)『魏志』で人口(戸数)や支配体制まで詳しく紹介されている倭の諸国は九州のクニばかりで、九州から東の記述があまりにも少ない。これほど九州の情報が充実しているのに邪馬台国だけが畿内というのはあり得ない。もし畿内にあったなら、中国地方の大きな文化圏=吉備や出雲の記載がないのは不自然。 (5)『魏志』には「女王国の東、海を渡りて千余里、また国あり、みな倭種」とある。九州なら東に海があり、しかも渡った場所に四国・本州があって文献通りだ。 (6)『魏志』は卑弥呼の都について、「王宮、楼閣(ろうかく、物見やぐら)、城柵など防衛施設があり兵士が守っている」と記している。佐賀県の吉野ヶ里遺跡(総面積40万平方メートル)は卑弥呼には、“弥生時代最大”となる12.5メートル四方の建造物の跡があり、そこが2重の堀で囲まれていたことから王宮と考えられる。また、大きな楼閣の存在や、高い柵と土塁が周囲を巡っていることも分かった。この王宮のさらに北には日吉神社があり、これを卑弥呼の墓とする学者もいる。※日巫女であれば日&吉という意味合いから日吉神社と関連づけられたのも分かる。 ※吉野ヶ里遺跡は紀元前4世紀から700年も繁栄した都で、末期が邪馬台国の時代と重なる。遺跡からは鉄製のやじりが出土し、発掘された人骨には、鏃(やじり)の傷があったり首がなかったりと、激しい戦乱の様子を伝えている。 (7)福岡県前原市の平原(ひらばる)遺跡からは、直径46.5cmという国内最大級の銅鏡(内行花文鏡)を始め、鏡が42面も出土しており、さらに当時の最高級品であるガラスやメノウ製の勾玉、管玉、小玉が多数出土。豪華な副葬品は女性用と見られ、これほどの鏡を集める力があるのは卑弥呼ではないか。 (8)卑弥呼が魏からもらった鏡は「三角縁神獣鏡」ではなく「後漢式鏡」ではないか。「後漢式鏡」なら北九州でも多く発見されている。畿内派は近畿で多く出土する「三角縁神獣鏡」を卑弥呼が魏から授かったものとするが、この鏡は中国から一枚も出ておらず国産ではないか。「三角縁神獣鏡」の中には実在しない年号が刻まれているものがあり(改元が未反映)、このあたりも怪しい。卑弥呼の鏡は100枚の筈なのに「三角縁神獣鏡」は約500枚も見つかっている。見つかりすぎだ。 (9)卑弥呼の他界と同時期の247年と248年に、2年連続で皆既日食が北九州で発生している。このことから、卑弥呼=アマテラスとする説もある。一度隠れて(死んで)、再び出てきたこと(新女王・台与の就任)が伝説化したという。 (10)山門郡瀬高町南部(現・みやま市瀬高町)の大神(おおが)では、卑弥呼の時代より400年も前から弥生人が多く住み、稲作を始め、山間部には鉄を生産するタタラがあった。同地が発展して邪馬台国になった。地域の女山はかつて「女王山」と呼ばれていたという。また、付近には豪族・物部一族の祖先を祀った神社がある。後年、大和朝廷の軍事部門につく“あの”物部氏だ。 《邪馬台国畿内説・10大理由》 (1)畿内だと同じ場所に大和政権が成立したことを容易に説明可能。 (2)『魏志』には「南へ水上を10日、陸を1ヶ月」と記載されているが、「陸を1ヶ月」というのは古代の不便さを考慮しても九州だけでは長すぎる。 (3)『魏志』には「卑弥呼に銅鏡100枚が贈られた」とあり、事実、魏の年号が刻まれた三角縁神獣鏡が畿内を中心に出土している。多くの三角縁神獣鏡は精巧なもので、国内の鋳造技術では生産不可能と考えられている。仮に国産の場合、逆にそんな精巧な銅鏡を大量に生産できるだけ畿内の文明が発展していたことになり、いずれにせよ邪馬台国近畿説を補強するものとなる。 ※三角縁神獣鏡は全国で500枚近く発見されており、2004年に鏡の成分を分析した結果、卑弥呼が生きていた当時の中国の鏡と同じ成分のものと、日本の土を使った粗悪な模造鏡があることが判明した。精巧なものは中国の土だった。 ※「三角縁神獣鏡の中に景初4年という存在しない元号があるから国産だ」(景初は3年まで)とする説もある。これは改元を知らない職人が朝鮮で作ったか、来日して鋳造した為に改元を知らなかったものと思われる。 ※発見される枚数が多すぎるのは、何度も魏から銅鏡が送られたからだろう。 ※同じ型の鏡が畿内を中心に九州から関東まで15府県に分布している。これは畿内から全国に分けられたことを示し、権力の中心が畿内にあったことは確実。 (4)飛鳥時代に中国で完成した『隋書』(656年)には「倭国の都は邪靡堆(やまと)にあり、これは魏書に記された邪馬台なり」とある。当時の外交官は遣隋使・遣唐使で大和朝廷を訪れており、“大和”=“邪馬台”というのが大陸側の基本認識。 (5)『魏志』に卑弥呼の墓は約150mの大型古墳と記載。初期の前方後円墳は畿内に集中しており、遠ざかるにつれて古墳の規模が小さくなっている。前方後円墳は大和を中心に分布しており、時代が下るにつれて全国に広がっている。 (6)大和盆地の纒向(まきむく)遺跡は2世紀後半〜4世紀半ばの文明。ここから出土した土器全体の2割近くは北陸・東海・山陰・瀬戸内など遠隔地からもたらされたもの。中には纒向の土で作られた東海地方タイプの土器もあり、これは愛知から来た人が住み着いている証だ。当時の遺跡で他の地方からこれほど多くの人が集まっていた都は他に見つかっていない。各地域を結ぶ巨大勢力があったことが伺える。 (7)弥生時代は穴を掘った竪穴式住居が一般的だったが、纒向遺跡では身分の高い人が住んだ高床式住居がたくさんあった。これは周辺国から纒向に集まった有力者たちの“都の別邸”ではないか。 (8)2世紀半ば、ニギハヤヒや神武といった北九州勢の東征で畿内の銅鐸文化が滅ぼされ、鏡・剣・玉を崇拝する文化が畿内に広まった。“倭国大乱”とは神武の後継勢力の争乱であり、そこから卑弥呼が登場したのではないか。 (9)1997年に大和政権誕生の地、奈良・黒塚古墳から33面の銅鏡が出土。同古墳は3世紀後半〜4世紀前半のもので、初期大和政権と時代がピッタリ。同型の兄弟鏡が近畿を中心に九州から関東まで15府県に分布しており、大和政権が誕生時から絶大な権力を持っていたのは邪馬台国の延長だからだ。 (10)「ヤマタイコク」と「ヤマトコク」でふつうに名前がそっくり。中国側は「大和国」(やまとこく)を邪馬台国と聞き間違えたに過ぎない。中国人が”やまと”を聞いて書き留めたのが”邪馬台”。 ●箸墓(はしはか)古墳は卑弥呼の墓!…と思う。そう思いたい。 奈良県桜井市にある「日本最古」の大型前方後円墳・箸墓古墳は卑弥呼の墓と言われている。墳長約280m、後円部径約150m、高さ約30m、前方部幅約130m、高さ約15m。前方部4段、後円部5段からなる。古墳の多い奈良でもトップ3に入る大きさで、一帯は国内で最も古い古墳群だ。 ※追記…2008年8月、箸墓古墳を調査していた桜井市教育委員会が、同古墳は幅60m以上もの周濠(堀)に取り囲まれていたことを発表。これにより、周濠を含めた古墳域の全長は450mという巨大なものになり、“一体誰が埋葬されているのか”と考古学ファンがロマン爆発。 ・『魏志倭人伝』には「卑弥呼の墓は大きな塚で、直径が百余歩、奴婢(ぬひ、奴隷)100余人が殉葬された」とある。魏の時代の一尺は約24cmで、一歩が六尺。すると一歩は約1.45mとなり、百余歩は約150m前後。これは箸墓古墳の後円部径約150mとピッタリ一致している! ・卑弥呼の死は247年頃と伝えられている。箸墓古墳が造成されたのは墳頂から出土した土器の形式から260年頃と推定され、卑弥呼が亡くなってから工事期間10余年で完成したと考えると時期的にドンピシャ! ・宮内庁は被葬者を第10代・祟神天皇の時代に三輪山の神に仕えた巫女、倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメノミコト、以下百襲姫)としている。弟は吉備地方を平定して桃太郎のモデルとなった吉備津彦(キビツヒコ)だ。箸墓古墳の体積は30万立方メートルで建設に動員されたのは述べ135万人。天皇ではなく一人の巫女の為にこれだけの人間が動くのは卑弥呼以外にありえない。『日本書紀』はこの墓について「昼は人が造り、夜は神が造った」と特記しており、「人々は近隣の山の石を手から手に渡して運び、山から墓に至るまで、人々は絶えることなく続いた」と築造の情景まで記している。墳丘の斜面から古墳の外装用に敷き詰められた葺石(ふきいし)が見つかっており、これを人々がリレー式で運んだ様子が伺える。また「壬申の乱」では、天武天皇が箸墓のそばで戦ったとされており、この墓が古くから特別視されていたのが分かる。 ・『日本書紀』では祟神天皇が巫女である百襲姫の教えを聞いて政事を行なっている。邪馬台国でも卑弥呼の神意を聞いて弟が政事を行なっている点で共通している。“百襲”という勇ましい名前も戦乱の時代に相応しい名だ。 ・付近から大量の「卑弥呼の鏡」が出土しており邪馬台国はここにあったか、もしくは、当初北九州にあった邪馬台国の本拠地が、卑弥呼の時代までにこの地へ移ってきたと見られる。また、3世紀後半までに100m級の古墳を造ることのできる権力者が複数いたことは、この地が初期大和政権の首都であったことに他ならない。卑弥呼がいたから、ここが首都になったのだ。 ・初期古墳群の全長は平均約100m。しかし箸墓は300mに迫る規模でケタ違いの巨大さ。埴輪の原型となる吉備系土器が出土したり、古墳の周囲を堀で囲むなど、従来の墳墓とは完全に一線を画している。前方後円墳として様式が完成された第1号の古墳でもあり、以後の大規模前方後円墳のモデルとなっており、箸墓古墳の完成をもって古墳時代の幕開けと見る説が多い。この墓が卑弥呼でなくて誰の墓というのか。 ★1800年目の結論〜邪馬台国は移動した!(たぶん!) 九州説、畿内説、それぞれに説得力があり論争の決着は簡単につきそうにない。九州では2世紀という早い段階から鉄のやじりが使用されており、鉄器文化が畿内より発展していたことは確実だ。一方、畿内には3世紀後半までに100m級の古墳を造ることのできる権力者が複数いた。僕が注目しているのは神武天皇の東征や鉄製武器の出土状況を基にした「邪馬台国移動説」だ。日本書紀や古事記には、九州を拠点にしていた神武天皇が、中国地方を経由して大和に入ったという大遠征の物語『東征神話』が書かれており、国家の大移動を示唆している。この神話を裏付けるかのように、九州を中心に出土していた鉄製武器が、卑弥呼の死を挟んで畿内からも出土するようになる。『魏志』には邪馬台国が南の狗奴国との戦いに苦戦していたとあり、列島全体を効率よく支配する為にも東へ拠点を移したのだろう。その後にヤマトタケルが南九州の熊襲(くまそ)を平定した物語は、畿内で力を蓄えた政権によるリベンジにも見える。 箸墓古墳については、卑弥呼が他国との戦争中に死んでいること、また死後に内戦まで起きていることから、その状況下で巨大な古墳を築く余裕があったのか疑問で、被葬者は卑弥呼の後継者・台与(とよ)ではないだろうか。大和王朝の古墳には装飾品や鏡も一緒に副葬されているが、これはもともと北九州の風習だ。箸墓古墳は表面が葺石(ふき石、化粧石)で覆われていたが、これは出雲地方の特色。また、古墳の上に並んでいた円筒ハニワの原型は山陽(吉備)地方の土器だ。古墳だけを見てもこのように様々な埋葬方法が融合しており、邪馬台国が中国地方の文化を吸収しながら東へ移動したことは間違いない! ●古代の謎を解明する為、宮内庁には全ての天皇陵を公開して欲しい! 畿内説、九州説の決着は、「親魏倭王金印」が一方の地から見つかるか、もしくは「これが卑弥呼の墓」という決定的証拠が出てくるまでつかないだろう。ただし金印は「漢委奴国王金印」だと2cm強しかなく、簡単に持ち運べて場所の説得力に欠ける。となれば、やはり墓だ。 だがしかし!卑弥呼の墓の最有力候補の箸墓古墳は宮内庁が陵墓(天皇陵)に指定し、発掘調査ができない!仕方がないので、考古学者は箸墓近辺の民家が建て替え工事をする時に発掘調査させてもらっている。つまり、あくまでも外側の調査であり、内部構造や副葬品は一切不明なのだ。2001年には箸墓古墳の周囲から国内最古の馬具が見つかった。4世紀初頭の鐙(あぶみ、足入れ)で定説を一世紀もさかのぼる物だった。こんなケースは、本格調査が実現すれば幾らでも出てくるだろう。 戦後の考古学界で最大の発見となった高松塚古墳壁画のように、「発見、即国宝」といったような文化遺産が全国の古墳にある可能性は、考古学者の誰もが分かっている。しかし政治的な問題があるので、「いつの日か詳細な調査が実施される日を待つしかない」と諦めている。宮内庁よ、このまま人類が絶滅するまで未調査のままにするつもりなのか。 今は主権在民の世であり、僕らは小学校から人間は平等だと教わっている。それは死者についても同じだ。天皇&皇后の墓だけを特別に「陵」という言葉で区別する必要はない。現行法で規定された「陵」は全国に188ヶ所あり、皇子・皇女を葬った「墓(ぼ)」なると552ヶ所にも達し、陵墓の可能性がある「陵墓参考地」を合わせると、宮内庁の管轄下にある国有地は最低でも896墓にもなる。 宮内庁は「ご子孫が現におられて、ご先祖を祀られているから文化財ではない」と主張して天皇陵を文化財と認めないが、これは詭弁だ。なぜなら、戦国期の将軍や大名の墓は被葬者が分かり、子孫が墓参をしていても文化財に認定されているからだ。 明治政府は近代天皇制国家を目指して、学説が分かれる墓所をロクに調査せず、考古学の科学的な検証も殆ど行なわず、何でもかんでも「陵」に決めていった。この流れは昭和の軍国政府になってさらに加速し、天皇制強化の道具として、政府は名前しか分かってないような皇子・皇女たちのものまで次々と聖域に指定していった。しかも、戦争が終わっても「天皇陵」の再検討は行なわれず、戦前に指定されたものが丸々“国有財産”とされ、宮内庁書陵部陵墓課が今日まで管理している。だが、“国有財産”であれば、公開決定権は宮内庁ではなく国民各自にあるのではないか。 また、明治政府の場合は学者から「墓ではない」という明確な資料を出されると、すぐさま指定から外す英断を下していたが、今の宮内庁は超がつくほど保守的で、継体天皇陵のように学者がどんなに間違いを実証しても陵墓指定の誤りに耳を貸さないばかりか、逆に「指定が誤っていても、長年祀ってきたのでもう御霊は宿っている」と開き直る始末。 死者の尊厳や、祖先を大切にする気持は、もちろん大切に守るべきだ。しかし、別人の墓を間違ったまま信じ続けるのは、被葬者に対しても冒涜ではないのか。 今一度、声を大にして言いたい。古代日本の歴史に光を当てる箸墓古墳を始め、すべての天皇陵を宮内庁は公開するべしと! ※720年に成立した『日本書紀』は卑弥呼を神功皇后(応神天皇の母)としているが、神功皇后の実在を証明する文献が皆無であり、しかも魏志倭人伝に「卑弥呼は生涯独身」と記しているので学会で否定されている。 ※邪馬台国には大人(たいじん)、下戸、生口といった身分制度、租税や刑罰があり、市場も開かれていた。 ※出雲のスサノオは出雲平野の斐伊(ひい)川上流に住むオロチ族(鉄文化を持っていた)を倒し、鉄を手に入れ(草薙の剣ゲット)次に九州を平定して卑弥呼と結婚した。神武天皇は孫。--こんな異説もある。 ※箸墓古墳は壺形埴輪が前方部上から、そして特殊器台形土器、特殊器台形埴輪、特殊壺形埴輪の3種が後円部上から別々に採集されており、墳丘上に器種ごとに区別されて置かれていたようだ。 ※九州北部にあった邪馬台国が畿内へと移動したというが、畿内でたくさん発見されている銅鐸(どうたく)が九州で殆ど発見されていない。両地域に交流があれば九州でも銅鐸がもっと見つかる筈なんだけど…。1世紀前半の中国・新王朝の貨泉(かせん)と呼ばれる貨幣が畿内と北九州から多く発掘されており、双方に文化圏があったのは確実。 ※中国では前王朝の歴史を、後に続く王朝が公文書にまとめる義務があり、曹操親子が建国した魏王朝については、後の晋王朝が史書『三国志』の中に「魏書」30巻として記録した。このうち日本に関する部分が『魏志倭人伝』と呼ばれる。成立が280年頃と卑弥呼の死から30年しか経っていないこともあり、この約2000字の文章が古代日本を知る貴重な手掛りとなっている。(日本最古の歴史書『古事記』は712年成立) ※松本清張、和辻哲朗、新井白石、本居宣長、みんな九州説。 ※日本人の構成について。血液型の上では、まず太平洋の島々から「O型民族」が渡来し、次に北方から「B型民族」が渡来、最後に朝鮮半島から「A型民族」が大挙渡来したという。 ※中国の『後漢書』には、57年に倭の奴国の使者に金印を与えたという記録が残っている。この「漢委奴国王」と刻まれた金印は江戸中期に甚兵衛と農民が偶然用水路で発見し国宝になっている。卑弥呼が受け取った金印もこの国のどこかにあるはずだが、まだ発見されてない。 ※外部リンク…邪馬台国比定地 |
箸墓古墳と三輪山(奥)という夫婦のラブラブ・ツーショット! |
ご神体の三輪山(みわやま)と巨大な大鳥居(2008) |
本殿はなく拝殿だけがある。 人々は背後の三輪山を拝む |
巳の神杉(みのかみすぎ)は、 根元に神の化身の蛇が棲む霊木 |
奈良県桜井市三輪の大神神社は、三輪山そのものが御神体なので本殿はなく拝殿だけがある。三輪山周辺は古墳時代初期の前方後円墳が多数あり、ここが邪馬台国や大和政権の発生地と考える学者も多い。祭神は『日本書紀』に登場する大物主神(オオモノヌシノカミ)。 ※拝殿の裏手にある三ツ鳥居は参拝者からは見えないけれど、神社の事務所で申し込めば拝殿の奥まで無料で案内してもらえる。三ツ鳥居は3つの鳥居が1つに合体した珍しいもので、僕はここでしか見たことがない。※残念ながら写真撮影は禁止だった |
大物主神は蛇の姿と伝わり、蛇の好物&願いを丸呑みして欲しいという思いから、卵を捧げる 参拝者も多い。大物主神は酒の神でもあり、酒造家の信仰対象となり日本酒が捧げられている |
鳥居は一般のような赤い鳥居ではなく 木に縄がかけられた素朴なもの |
倭迹迹日百襲姫命が仕えた第10代崇神(すじん)天皇の 古墳。スッキリして非常に美しい!崇神天皇は初めて 畿内の外まで治めた天皇だ※奈良県天理市(2008) |
1998年に“卑弥呼の鏡”と呼ばれる「三角縁神獣鏡」が33面 も発見され、畿内説を補完した黒塚古墳。4世紀初頭に造 られた全長約130mの前方後円墳※奈良県天理市(2008) |
【 邪馬台国の風俗など〜『魏志倭人伝』現代語訳@エンカルタ百科事典 】
●邪馬台国の位置
倭人は帯方郡東南の大海の中の山島に国をつくっている。もともと100余国にわかれており、漢王朝に朝貢してきた。今は30カ国が使者をおくってくる。 帯方郡から倭国にいくには、朝鮮半島西岸沿いを船でいき、馬韓をへて、しばらく南にいき、しばらく東にいくと、倭国の北岸の狗邪韓国につく。その間、7000余里。はじめて海を横断し、1000余里で対馬国につく。そこの大官は卑狗といい、副官は卑奴母離という。離れ小島で、面積は400余里四方ほど。うっそうとした森林におおわれ、しかも山はけわしい。南に海をわたって1000余里で一大国〔一支国(壱岐国)か〕につく。 また海をわたって1000余里で末盧国につく。陸路を東南に500里いくと伊都国につく。そこの大官は爾支、副官は泄謨觚柄渠觚という。1000余戸あって代々の王もいるが、女王国の属国である。帯方郡からの使者が往き来するときは、いつもここで駐留する。ここから東南100里で奴国、東に100里で不弥国につく。 船で南に20日いって投馬国につく。そこから南に船で10日、陸を1カ月ほどいくと邪馬壱〔台〕国につく。ここが女王が都をおいているところである。 ●倭の習俗と社会
男はみな入れ墨する。もぐって魚・貝をとるときに大魚や海獣の害をさけるためだったが、のちに飾りになった。この国は、会稽郡東冶県の東にあたるらしい。
男子は中国のように冠をつけず、みずらを結い、布をかぶっている。体には横長の布をまきつけている。女子は髪をたばねて、単衣の布の中央に穴をあけ、そこから頭をだして着ている。稲・麻を植え、カイコをやしない、絹糸をつむいでいる。ここには牛、馬、トラ、ヒョウ、ヒツジ、カササギがいない。矛(ほこ)・楯・木弓を武器とし、竹の矢は鉄か骨の鏃(やじり)である。
気候は温暖で、年中生野菜を食べ、裸足(はだし)で生活している。まるでおしろいのように、朱を体にぬっている。飲食には高坏(たかつき)をつかい、手づかみで食べる。棺はつくるが外箱はなく、地面にうめて上に塚をきずく。人が死ぬと10余日は喪に服して肉を食べず、喪主は号泣し、ほかの人は歌舞・飲酒する。埋葬がおわると家族みんなで水浴びにいく。倭人が中国などにわたるときは、持衰という男が髪もとかさずシラミもとらず、衣服もあらわず、肉を食べず、女も近づけないで、ひたすら謹慎している。もし航海がうまくいけば褒美をあたえられるが、一行が病気や損害をうければ殺された。
物事の初めや往来には、焼いた骨にはいったひびをみて吉凶を占う。
人はみな酒好きで、100歳や80〜90歳くらいまで長生きする人が多い。支配層はみな4〜5人、一般人でも2〜3人の妻をもつが、女子はみだらでなく、嫉妬(しっと)しないし、盗みなどもしないので訴えごとが少ない。
●支配の実態
法をおかすと、軽ければ妻子が奴隷にされ、重い場合はその家族・一門が滅亡させられた。上下の身分差は厳然としてあるが、お互いに信頼している。税物を収納する建物がある。国々には市場が開かれ、物資の交換がなされ、大倭が不正のないよう監督している。
女王国の北の伊都国に一大率がいて諸国の監察にあたっているので、各国は彼をこわがっている。
支配層の者にあうと一般人は道をゆずって草むらにはいり、命令をつたえるときは一般人はひざまずいて両手をつき、承知したら「あい」という。
●卑弥呼像
倭国はもともと男子を王として70〜80年ほど経過したが、国内がみだれ、連年抗争をくりかえした。そこで卑弥呼という女性をたてて王とした。卑弥呼は鬼道(呪術)に通じていて、よく民衆をみちびいた。年をとっても夫をもたず、弟が国政を補佐している。人前にたたず、1000人の女奴隷をはべらせている。ひとりの男だけが食事の給仕と伝言にあたり、卑弥呼の部屋に出入りしている。その王宮は物見の楼閣や柵などの防衛施設がととのい、武装兵士にまもられている。
●魏との関係
238年(景初2、実際は景初3)6月、卑弥呼は大夫の難升米を帯方郡に派遣し、魏の天子(明帝)に謁見と朝貢を申しでてきた。帯方郡太守の劉夏は使者に難升米らを魏の都の洛陽まで案内させた。
その12月に、天子は卑弥呼に「親魏倭王卑弥呼に詔する。おまえははるばる大夫の難升米と都市牛利をつかわし、男女の生口(技術奴隷)と班布を献上してきた。おまえの忠孝をいとおしく思い、親魏倭王として紫綬のついた金印をあたえる。郡太守に付してとどけるからうけとりなさい。国内を安定させ、礼儀をととのえなさい。使者の2名もその労をねぎらい、それぞれに官職と青綬のついた銀印をさずける。返礼として赤地蛟竜文様の錦、縮みの粟粒(あわつぶ)文様の毛氈(もうせん)、深紅の布・紺青の布をあたえる。また特別に紺地の句文錦、細班華文様の毛氈、白絹、黄金8両、5尺の刀、銅鏡100枚、真珠、鉛丹(仙薬)をあたえる。帰国したら国中の者たちにみせ、中国がおまえをいつくしんでいることをよく知らせなさい」と詔した。
240年(正始元)郡太守の弓遵は使者をつかわし、少帝の詔書と印綬を倭国にとどけ、黄金と絹帛、刀、銅鏡、采物などをさずけた。倭王は上表文して感謝の言葉をのべた。
243年、倭王は伊声耆や掖邪狗ら8人の使者をおくって、生口、倭錦、赤青の絹、綿衣や短弓などを献上した。
245年、少帝は倭の難升米に帯方郡経由で黄色の中国軍旗をさずけた。
247年、郡太守の王?が政府にきていう。卑弥呼はもともと南にある狗奴国の男王の卑弥弓呼と仲がわるい。倭国は載斯烏越を帯方郡に派遣してその戦況を報告してきた、と。そこで中国は塞曹掾史(地方官)の張政を派遣し、少帝の詔書と中国軍旗を難升米にさずけ、狗奴国や動揺する倭の諸国に檄文をおくり、卑弥呼にしたがうよう告諭した。
●卑弥呼の後継者
卑弥呼は死んだので、大きな高塚をきずいた。その直径は100余歩分ほど。いっしょに奴婢100人あまりが葬られた。そのあとに男子の王がたったが諸国は服従せず、抗争がつづいて1000人あまりの死者がでた。そこでまた卑弥呼の一族の女で13歳の壱与〔「台与:とよ」の誤りか〕を擁立して王とした。これによって、国内はやっとおさまった。
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【追記 報道機関の最新ニュース〜近畿説を裏付ける遺跡が続々】
★卑弥呼の居館か 奈良・纒向遺跡から3世紀前半の建物跡が出土 2009.11.10 サンケイ 邪馬台国の最有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で、3世紀前半の国内最大規模の大型建物跡など2棟が見つかり、市教委が10日、発表した。倭国の女王、卑弥呼が活躍した時代(2世紀末〜3世紀前半)とほぼ一致。中国の歴史書・魏志倭人伝には「卑弥呼の宮室(宮殿)は楼観や城柵(じょうさく)を厳かに設け」と記され、卑弥呼の居館の可能性が浮上し、邪馬台国畿内説をさらに有力にする一級の資料になりそうだ。 大型建物跡は、東西2間(1間3・1メートル)、南北4間(1間4・8メートル)分を確認。西側は6世紀後半の水路で壊されていたが、市教委は建築様式などから、西側にさらに2間分延びていたと推測している。建物の規模は東西12・4メートル、南北19・2メートルで床面積は238平方メートルとなり、邪馬台国九州説の有力候補地・吉野ケ里遺跡(佐賀県神埼市、吉野ケ里町)の大型建物跡(156平方メートル)を大幅に上回ることが分かった。 柱穴に残された痕跡から、柱は直径約30センチで、柱の間には床を支えるため直径15センチ程度の束柱(つかばしら)を立てるなど堅固な構造だったとみられている。 大型建物跡を復元した黒田龍二・神戸大准教授(日本建築史)によると、高床式の入り母屋造りで高さ約10メートルと推定。直径50センチ以上の太い柱を用いた弥生時代の大型建物と異なり、比較的細い柱でも造ることができる最先端の技術があったことがうかがえるという。 大型建物跡の西側では、棟持(むなもち)柱をもつ建物跡(東西5・3メートル、南北8メートル)も確認。これまでの調査でさらに西側で2棟の建物跡が見つかっており、計4棟が方位を合わせて東西に並んでいたことが判明した。このうち大型建物跡など3棟は、さくで囲まれていたという。 これらの建物群跡の外側は東西約150メートル、南北約100メートルにわたり、周囲より1メートル以上高台になっていることから、市教委は高台の範囲を宮殿の外郭、さくで囲まれた部分を内郭と想定。今回の調査区域は内郭の西半分にあたるという。 市教委の橋本輝彦主査は「建物の中心軸をそろえた極めて計画的な構造。方形で区画した飛鳥時代(7世紀)以降の宮殿構造につながる可能性もあり、国内最古の都市の中枢部が分かる重要な成果だ」と話した。 石野博信・香芝市二上山博物館長(考古学)の話 「建物の大きさだけでなく、建物群の中心軸が東西一直線に並んでいる点がすごい。これほど計画性のある建物群の遺構が見つかったのは古墳時代を通じて初めてだ。外郭もあり、復元されたら壮観だろう。祭祀(さいし)空間なのか政治空間なのかは現段階では分からないが、卑弥呼の館の可能性はある」
★国内最多銅鏡81枚 - 卑弥呼と関係か【桜井茶臼山古墳】 2010年1月8日 奈良新聞 初期ヤマト政権の大王墓とされる、桜井市外山の大型前方後円墳・桜井茶臼山古墳(3世紀末〜4世紀初め)で、国内最多となる81枚以上の銅鏡が副葬されていたことが分かり、県立橿原考古学研究所が7日、発表した。鏡の形式も最多となる13種類以上で、「卑弥呼の鏡」説もある中国・魏の年号入りの「三角縁神獣(さんかくぶちしんじゅう)鏡」もあった。「邪馬台国論争」にも影響を与える古代鏡研究の貴重な資料になりそうだ。
昨年実施した60年ぶりの再調査で、石室内の土中から銅鏡片計331点が出土。最大縦11.1センチ、横6.3センチで、多くは1〜2センチの細かな破片だった。盗掘時に割られたとみられ、完形品や本来の位置を保った遺物はなかった。過去に見つかった53点を含む破片計384点を調べたところ、81枚以上の鏡があったことが判明。国内最多だった平原遺跡1号墳(福岡県)の40面を大きく上回ることが分かった。
13種類以上の後漢から三国時代の中国産や国産の鏡を確認。半数近くが直径20センチ以上の大型鏡で、国内最大級の内行花文鏡(直径約38センチ)もあった。黒塚古墳(天理市)などに比べ、三角縁神獣鏡以外の鏡が多かった。 また、「是」の字が残る破片(縦1.7センチ、横1.4センチ)を3次元計測した結果、「正始元(240)年、陳是作鏡…」との銘文が入った蟹沢古墳(群馬県)の三角縁神獣鏡と一致。正始元年は邪馬台国の女王・卑弥呼の使者が帰国した年とされ、魏から贈られた「銅鏡100枚」の一つとする説も。県内での出土は初めてで、今後、専門家の論議を呼びそうだ。 同研究所の菅谷文則所長は「日本国家初期の『最高の王』の力を示す成果。今までの理論を超えた鏡の組み合わせで、今後は広い視野を持つことが必要だ」としている。このほか、ガラス製管玉や石製品なども見つかった。 |
女王陛下にィィィィイ! | 土下座ァーッ!!ハハーッ!!(1999) |
故郷・彦根では名君として敬愛されている |
皇居前の「桜田門」の案内板 |
桜田門。井伊大老が暗殺された正確な場所は分かっていないが、井伊邸から この門までのわずか数百メートルの間で、水戸浪士の襲撃を受けたという(2009) |
ちなみに門の前は警視庁! |
豪徳寺の山門 |
吉田松陰を敬愛する僕にとって、当初は受け入れ難い存在だった。 しかし桜田門外の変の当日のエピソードを知って一気に好感度がアップした(2008) |
2001 | 2012 手前の石灯籠が新しくなった | 2014 |
本当の命日は三月三日 だが三月二十八日に |
直弼の墓石のすぐ背後に、直弼を護るために殉職した警護役8人の彦根藩士の供養塔がある |
豪徳寺には多数の彦根藩士が眠る |
水戸・妙雲寺にある井伊大老の首塚(2014) 「大老井伊掃部頭直弼台霊塔」と刻まれる |
桜田烈士・広木松之助の墓(妙雲寺)※中央 広木が首級を持ち帰り斉昭に見せたという |
井伊大老の首級をあげた薩摩藩士・有村次左衛門(1839-1860)の墓(青山霊園)。水戸藩士の実行グループに 加わった。井伊を篭から引きずり出して断首したが、彦根藩士・小河原秀之丞に斬られて絶命。享年21歳。(2010) |
幕末の幕政を支えた井伊直弼は、彦根藩主・井伊直中(なおなか)の十四男として文化12年(1815年)10月29日に彦根城で生まれた。通称、鉄三郎。直弼が生まれる3年前に父は46歳で隠居しており、家督を三男の直亮(なおあき)が継いでいた。長兄・直清は20歳で病死し既に故人となっている。直弼には兄が多くいたうえ、母・お富が側室であったことから、家督を継ぐ可能性はゼロに近く、養子先も見つからないまま、マイペースに青春期を送る。1831年(16歳)に父が他界すると、城内から出て城郭の屋敷に移り、住居の名を自らの境遇に重ね「埋木舎(うもれぎのや)」と呼び、31歳まで15年を世捨て人のように過ごす。とはいえ無気力であったわけではなく、この間、和歌・禅・茶道・兵学・国学などをよく学び、武芸では槍術を得意とし、文武両道の人間となっていった。 藩主の直亮には実子がおらず、弟(十一男)の直元を養子にしていたが、1846年に直元が36歳で早世してしまい、他の弟は既に養子に出てしまっていたことから、ポツンと城下にいた末弟の直弼(31歳)が新たに養子となった。 1850年(35歳)、直亮が56歳で他界したため、直弼は彦根藩35万石の第13代藩主となる。十四男の直弼にとって、数年前まで藩主など想像もしないことだった。就任後、直弼は直亮の遺命として藩金15万両を領民に分配する。直弼はただちに藩政改革に取り掛かり善政を敷いた。 1852年(37歳)、丹波亀山藩主松平信豪の次女・昌子(貞鏡院)と結婚。 1853年(38歳)、ペリーの黒船が来航。幕府が諸藩に意見を求めたことから、彦根藩は「外国との戦争は無謀であり開国やむなし」とする直弼の建策書を提出、老中・堀田正睦(まさよし)など譜代大名が直弼を支持した。一方、水戸藩主の徳川斉昭は武力で排斥する攘夷論をとなえて外様雄藩の大名に支持され、直弼らと対立する。この両者の衝突は、13代将軍家定の継嗣問題でさらに激化。直弼ら譜代大名は跡継ぎに紀州藩主の徳川慶福(よしとみ、家茂)を推し、斉昭らは斉昭の子、一橋慶喜を推した。 1856年(41歳)、大陸で清国との貿易拡大を望むイギリスが、フランスと連合して「第二次アヘン戦争」を起こす。アヘン(麻薬)の密輸船アロー号が掲げていた英国旗を清国官憲が引き下ろしたことを、イギリスは「国旗の侮辱」と言い掛かりをつけ、宣教師を殺害されたフランスがこれに便乗、共同出兵して清国を屈服させた。英仏軍は翌年に香港など広東を占領、翌々年に北京南東の天津に迫る。 1858年(43歳)/安政5年(以下、“安政の大獄”関連は元号・旧暦表示)、2年前から米国の初代駐日領事として着任していたタウンゼント・ハリス(1804-1878)は、欧米列強に食いものにされる清国の例を出し、「英仏の次の標的は日本であり、侵略を防ぐには先に友好的な我がアメリカとアヘン輸入禁止条項を含む日米修好通商条約を結ぶしかない」と幕府を説得。 安政5年2月5日、老中首座の堀田正睦が日米修好通商条約の勅許を得るために入京。 安政5年3月12日、開国に理解を示す関白・九条尚忠が朝廷に条約を提出したところ、岩倉具視や中山忠能ら88名の公家が条約撤回を求めて抗議の座り込みを行った。 安政5年3月20日、孝明天皇は条約反対の立場を明確にし、堀田正睦は勅許(天皇の許可)を得ることに失敗する。堀田は事態打開のため、老中の上に強権を持つ大老を置き指導力を発揮してもらおうと画策、家定に福井藩主・松平春嶽を大老職に希望した。これに家定は「家柄からも人物からも大老は井伊直弼が相応しい」と回答する。 安政5年4月23日、直弼が大老に就任。同じ頃、大陸では清国が列強に敗北し、不平等条約である天津条約を露米英仏4カ国と順番に締結していく。 第二次アヘン戦争が休戦になったことで、ハリスが「英仏が余勢を駆ってやってくる、もはや一刻を争う」「英仏を説得してアメリカと結んだ条約と同じ内容のものを受け入れさせる」と即時調印を要求、これを受けて開かれた幕閣会議では、老中・松平忠固(ただかた)が「無勅許でも即時調印」と強く主張。直弼と若年寄・本多忠徳だけが「勅許を得てからの条約調印」を主張した。直弼はハリスとの交渉を出来るだけ引き延ばし、その間に勅許を得るつもりだったが、即時調印を目指していた下田奉行の井上清直と目付の岩瀬忠震(ただなり)は「できるだけ引き延ばす」という言葉を“調印の許可”と見なした。 安政5年6月19日(1858年7月29日)、岩瀬ら幕府全権がポーハタン号上でハリスと日米修好通商条約に調印。同条約では5箇所の港の開港(横浜、長崎、函館、新潟、神戸)や自由貿易などが定められた。直後に直弼は幕閣改造を行い、調印の4日後、勅許を得られなかった責任を取る形で堀田正睦を罷免、そして条約締結の「事後報告」を主導した不遜を問い松平忠固も罷免した。かわりに間部詮勝、太田資始、松平乗全を新たに老中として任命する。 安政5年6月24日、無断調印を「不敬」と考えた福井藩主・松平春嶽、水戸の前藩主・徳川斉昭と現藩主の慶篤父子、尾張藩主・徳川慶恕(よしくみ)の4人は、決められた登城日ではない日に登城(不時登城)して直弼を問い詰めようとしたところ、直弼は「他日上京して罪を朝廷に謝する」と巧みに受け流した。翌25日、「将軍後継者は徳川慶福(家茂)」と公式に発表。 安政5年7月5日、直弼は不時登城を行った4人に対し、「御政道を乱した」と規律違反を問い、幕府の威信を保つ必要からも厳罰に処する。春嶽・斉昭・慶恕らに謹慎・隠居を命じ、慶喜を登城停止とした。いわゆる“安政の大獄”の始まりだ。翌6日、家定公が他界。 安政5年7月16日、一橋派の名君、薩摩藩主・島津斉彬が急死。斉彬は直弼に反発して藩兵5000人を率いて上洛しようとしており、その矢先の死だった。 安政5年8月、幕藩体制を土台から揺るがす大事件が起きる。水戸では藩トップが謹慎とされたことで幕政への反発が加速、水戸藩士は外国嫌いの孝明天皇に働きかけ、8月8日に天皇による幕府政治批判「戊午の密勅(ぼごのみっちょく、戊午は同年の干支)」の発布に成功した。孝明天皇はこの密勅で、幕府が勅許なく条約に調印したことを批判したうえ、「幕府は外国を排する攘夷推進の幕政改革を遂行するべし」と命じた。天皇が政治に介入し、幕府を通さずに直接ひとつの藩に密勅を下賜(かし)するのは前代未聞のことであり、幕府派の関白・九条尚忠は辞職に追い込まれた。 「戊午の密勅」で朝廷からないがしろにされた幕府は威信が失墜。直弼はこの危機を弾圧で突破する覚悟を決めた。 安政5年9月、直弼は水戸藩に「戊午の密勅」の返納を命じ、老中・間部詮勝(あきかつ)、京都所司代・酒井忠義を京に派遣して密勅関係者を摘発させた。その過程で志士の飯泉喜内(いいいずみ・きない/幕政批判を三条実万に建白)がロシア人との接触を疑われて捕えられ、安政の大獄の捕縛第1号となる。飯泉の自宅から多数の志士の手紙が見つかり、芋づる式に逮捕が進む(当時は「飯泉喜内初筆一件」と呼ばれ、「安政の大獄」の名は明治以降に定着した)。 幕府は密勅の首謀者を若狭小浜藩士・梅田雲浜(うんぴん、1815-1859)と断じて捕縛。雲浜は逮捕者第2号となり、拷問を受け翌年獄死する。攘夷派の吉田松陰(長州)、橋本左内(福井)、頼三樹三郎(儒学者)など有能な人材の多くが捕らえられ、公家の家臣まで捕縛されるなど、弾圧は苛烈に行われた。京都で捕縛された志士は江戸に送られ、死罪、遠島など酷刑に処せられた。獄舎では仲間の名を吐かせるため容赦ない拷問が加えられた。幕府内においても、直弼の意に背いてハリスと条約調印した岩瀬忠震や川路聖謨、水野忠徳、永井尚志らが謹慎・左遷された。 安政5年10月25日、紀州藩主・徳川慶福が第14代将軍に就任し名を家茂と改める。 1859年/安政6年8月27日、「安政の大獄」の第一次断罪。幕府側は「戊午の密勅」は天皇の考えではなく水戸藩の策略と決めつけ、水戸藩家老・安嶋帯刀を切腹、茅根伊予之介と鵜飼吉左衛門を斬首、同幸吉を獄門、勘定奉行の鮎沢伊太夫を遠島とし、前藩主・斉昭は永蟄居、藩主慶篤は差控とした。 安政6年9月14日、梅田雲浜が獄死。 安政6年10月7日、「安政の大獄」の第二次断罪。飯泉喜内、橋本左内、頼三樹三郎らが江戸伝馬町獄舎にて斬首となる。 安政6年10月27日、「安政の大獄」の第三次断罪。吉田松陰が処刑され、安政の大獄の最後の刑死者となった。1年で8人が斬首となり、40人が島流しや追放、獄死者も多く出た。処罰者は100人をこえた。 1860年/安政7年1月15日、直弼は「戊午の密勅」を返納しない水戸藩に何度も督促をかけ、このまま返納の遅延が続く場合は水戸藩を重く罰すると通告。水戸藩士たちは憤慨し、「返納反対」を叫んで切腹する者まで出た。 2月、事態ここに至り、水戸藩脱藩浪士の高橋多一郎や関鉄之介らが直弼暗殺の計画を具体化し始める。水戸勢の不穏な動きは幕府側も把握しており、直弼は2月下旬に知人から「脱藩者による襲撃を避けるため大老を辞し、政情が落ち着くまで彦根に留まるべき」「せめて警護の従士を増やすように」と忠告を受けたが、直弼は「人は各々天命があり、警護を増やしても死ぬときは死ぬ」「従士の数は幕府が定めたもの。大老自らこれを破れば諸侯に示しがつかない」と、どちらの案も受け入れなかった。 安政7年3月3日、桃の節句。この朝、江戸城下は季節外れの大雪に見舞われた。午前9時、直弼は登城のために邸宅を出発。彦根藩の足軽、草履取りなど約60名が直弼にお供した。一行の前方には桜田門付近に変装した浪士たちが待ち伏せていた。短銃の音を合図に、関鉄之介ら水戸脱藩浪士17名と薩摩藩士・有村次左衛門の18名が襲撃を開始。警護の者は雪のため運悪く刀に袋を被せており、反撃が一手遅れた。直弼は最初にカゴの外から短銃で撃たれて重傷を負い、カゴを守ろうとした彦根藩士8人が刺客に切り伏せられた。お供の多くは動転して逃げ去った。刺客たちは何度もカゴに刀を突き刺すと、直弼を引きずり出して薩摩の有村次左衛門が首をはね、直弼は落命した。享年44歳。 この朝、直弼のカゴを見送った彦根藩側役の宇津木左近は、直弼の机の上にある投書に気づいた。それは早朝に寄せられた密告で、水戸脱藩浪士による襲撃計画が書かれており、「今日は危ないことがあるようだから、病気と称して江戸城への登城を見合わせるよう」と警告があった。宇津木は慌てて護衛を増派しようとしたが間に合わなかった。つまり、直弼はすべてを承知した上で、いつも通りに登城したのだ。幕臣のトップが暗殺されるという驚愕の事態に、幕府は死亡の事実を隠し、負傷のため休養と公表した。そして次男・井伊直憲が直弼の跡を継いだ。 大陸では前年から清と英仏連合軍が再び戦火を交え、この年の秋、英仏連合軍は北京を占領・略奪し、清国きっての名園と讃えられた離宮の円明園が焼打ちされた。賠償金の増額など、清は過酷な北京条約を英仏と結ばされることになった。直弼が抱いた危機意識は、清国の有り様を見るに正しかったといえよう。 薩長視点の時代劇では、朝廷を軽んじ吉田松陰ら志士を斬る冷酷な幕府専横者として描かれることが多い直弼。だが、ここで書いたようにけっして初めから朝廷を無視して独断で条約締結を強行したわけではない。むしろ幕閣の中では先走る幕臣に自制を求め、天皇の勅許を重んじていた人物であり、それゆえに将軍家定から絶大な信頼を得ていた。彦根藩の十四男という苦労人肌ゆえ、領民に善政を敷き、地元では名君と讃えられた。直弼の判断ミスは、幕府の威信を守らんと断行した「安政の大獄」が、かえって反幕勢力を結集させてしまい、ひいては幕府の命数を縮める結果となってしまったこと…。 内外の難局に直接ぶつかっていく中で、志士たちの恨みを一身に集めた直弼だが、暗殺の密告を受けても逃げ隠れせず、「安政の大獄」の業(ごう)をすべて背負って雪の桜田門に向かった。政治思想は志士たちと異なっても、一身をかけて国政に挑んでいたことは間違いない。 井伊直弼の墓は井伊家菩提寺の豪徳寺(世田谷区)にある。戒名の「宗観院柳暁覚翁」は直弼が生前に自分で考えたもの。直弼の死を幕府が当初隠したため、墓の左側に記された没日は実際の3月3日ではなく、3月28日となっている。直弼の墓の後方には、事件当日に刺客と戦い殉職した8人の家臣を追悼した「櫻田殉難八士之碑」が建っている。また、故郷の彦根市・天寧寺には、直弼の遺品が収められた四斗樽と、桜田門の血染めの土を家臣が俵に詰めて埋葬したと伝わる「井伊直弼供養塔」が建つ。彦根藩の飛び地領・下野国佐野の天応寺でも直弼は祀られている。 一方、襲撃した側の旧水戸藩にも直弼の伝承墓が存在する。茨城県水戸市の妙雲寺には、暗殺実行部隊の広木松之助が持ち帰って前藩主・斉昭に見せたと伝わる直弼の首塚がある。広木は直弼の菩提を弔うために僧となり、3年間供養していたが、事件に関わった同志が次々に捕縛・処刑されていることを聞き及び、仲間と運命を共にするため自刃した。 ※直弼の他界から2年後(1862年)、文久の改革で一橋派が政権をとり、彦根藩は10万石を減封された。 ※茶人名は井伊宗観。「一期一会」は千利休が説いた精神だが、文字として記されたのは直弼の著書『茶湯一會集』巻頭が最初であり、それ以前に使用された形跡がない。直弼が普及させた言葉といえる。 ※今でも「桜田門外の変」で切られた直弼の首が、皇居のお堀に沈んでいるという噂がある。 ※直弼は新作狂言を書き、名跡「茂山千五郎」の名付け親となった。 ※「戊午の密勅」は直弼暗殺の混乱で返納問題がうやむやとなり水戸に留められた。 |
●井伊と吉田松陰の墓は近い。徳富蘆花が『謀叛論』の冒頭でそのことに触れた名文を残している。 『僕は武蔵野の片隅に住んで居る。東京へ出るたびに、必ず世田ケ谷を通る。僕の家から少し歩くと、豪徳寺(井伊直弼の墓で名高い寺)がある。そこからもう少し行くと、谷の向うに杉や松の茂った丘が見え、その上に吉田松陰の墓を擁する松陰神社がある。 井伊と吉田、50年前には互いに不倶戴天(ふぐたいてん)の仇敵で、安政の大獄に井伊が吉田の首を斬れば、今度は桜田の雪を紅に染めて井伊が浪士に殺される。斬りつ斬られつした両人も、死は一切の恩怨を消してしまって谷ひとつのさし向いで安らかに眠っている。 今日の我らが見れば、松陰はもとより混じりけ無しの純粋な志士の典型、井伊も幕末の重荷を背負って立った剛骨の好男児、朝に立ち野に分れて斬るの殺すのと騒いだ彼らも、50年後の今日から歴史の背景に照して見れば、つまるところ今日の日本を造り出さんが為に、反対の方向から相槌(あいづち)を打ったに過ぎない。 彼等は各々その位置に立ち自信にたって、出来るだけの事を存分に行なって土に入り、その墓の近所で明治の今日に生きる百姓らは、さりげなく、かつ、悠々と麦などを作っている。 |
『井伊直弼の墓、埋葬状況解明へレーダー探査』2010年1月5日(読売) 東京・世田谷の豪徳寺にある幕末の大老・井伊直弼(なおすけ)(1815〜60年)の墓について、世田谷区教育委員会は、墓を改修するのに伴い、地中レーダー探査を今週、行うことを決めた。桜田門外の変で暗殺された直弼の埋葬状況の解明につながるものと期待される。豪徳寺には、直弼をはじめ、井伊家が代々治めた彦根藩の藩主6人のほか、正室・側室、家臣らを含め、300基以上の墓がある。改修にあたり、区教委が先月までに、現状を確認するため、地下約2メートル下まで発掘したが、直弼を葬った棺おけは見つからず、レーダー探査によって、棺おけの位置を特定することにした。直弼は、尊王攘夷(じょうい)派の志士たちを厳しく取り締まる安政の大獄(1858〜59年)を実行し、憤激した水戸浪士たちに、江戸城桜田門外で暗殺され、首を切り落とされた。だが、大老という要職が暗殺されたことによる幕府権力の動揺を恐れ、幕府当局は、直弼の死を約2か月間、公表しなかった。そのため、死後の直弼の埋葬状況については確定的な情報が少なく、水戸浪士が首を持ち去ったとの説も流れている。 |
古墳から盛り土がすべて奪われ、無惨に石室が剥き出しになっている。 「蘇我氏憎し」の後世の政権の仕業と見られる。 |
馬子が創設した飛鳥寺には 日本最古の仏像・飛鳥大仏が鎮座 |
ちなみに飛鳥大仏の前には本物の 釈迦の骨(米粒大の)が安置されてる |
1999 | 2005 |
大阪太子町にも馬子のものと伝えられる墓がある。 なんと墓の下から大木が突き出て、重い墓石 が傾いてしまっている。こんなの見たことない! 生前のパワフルな馬子を象徴するかのようだ。 |
6年ぶりに再訪したら、馬子の墓が後方に移されていて ビックリ!近所の人に話を聞くと、横に倒壊寸前だったので 05年に墓域を整備したとのこと。以前は柵に囲われ立入 禁止だったけど、今は墓石にだって触れる事が可能だ。 |
蘇我氏とはどんな一族なのか。以前は大和盆地の土着の豪族という説もあったが、近年は朝鮮半島から渡日して大和国曽我(奈良・橿原)や河内国石川(大阪・南河内郡)を本拠地に定め、渡来人社会に支えられて頭角を現したとする説が有力になっている。馬子が執拗に新羅へ兵を派遣したのは、蘇我氏が百済系であり百済と対立した新羅を敵視していたとも、蘇我氏の祖先が新羅王族の“昔(せき)氏”で、昔氏が4世紀半ばに王位(新羅王朝)を金氏に奪われたので祖先のリベンジで金王朝へ派兵したとも言われている。蘇我一族は蘇我満智(まち、馬子の曾々祖父)の代に半島を追われて出雲に渡り、そこから飛鳥に入ったとされる。
渡来説の主な根拠は以下の通り--
・一族の名前が、蘇我満智→韓子→高麗→稲目(いなめ)→馬子と、朝鮮色が濃厚。 ・馬子が蘇我氏の氏寺(私寺)・飛鳥寺で百済服を着用していたことが古文書に記載されている。 ・蘇我氏の配下の邸宅跡から朝鮮のオンドル(床下暖房)の設備や半島様式の池が見つかっている。 ・蘇我氏の本拠地・奈良橿原一帯は古墳の発祥地であり、副葬品にガラス椀など日本で未生産の宝物があった。 ・日本に仏教が伝来する前から渡来人は「大唐神(おおからのかみ)」の名で仏像を自宅に安置していた。蘇我氏が物部氏と違って仏教を熱心に受け入れた事と辻褄が合う。 ・遣隋使の構想など世界観のスケールの大きさは、国境を越えた渡来系ゆえ。 ・「半島から出雲を経て飛鳥に入った」説は、出雲大社の真後ろの神社名が「素鵞社」(そがのやしろ=ソガ神社)であったり、奈良橿原の蘇我入鹿を祀る「入鹿神社」が出雲と縁深いスサノオノミコトも祀っていること等々から。 ・当時の国際情勢として、532年に加耶の金官国が新羅に滅ぼされるなど、半島では高句麗、新羅、百済が覇権を競っており、蘇我氏だけでなく、多くの人が戦乱を避けて日本へ渡っていた。渡来系の人口は先住の縄文人を大きく上回り、総人口の約7割にのぼったという。(人口約10万→60万に激増?) ・朝廷で誰も読めなかった高句麗の国書を馬子の側近が翻訳するなど、有能な渡来系の人々が蘇我氏のもとに結集していた。移民社会で支持される理由は蘇我氏が半島を象徴する一族であったと考える方が自然、等々。 ●蘇我稲目 536年、馬子の父・蘇我稲目が大臣(おおおみ、今の首相)となる。稲目は2人の娘を欽明(きんめい)天皇の妃とした。後の用明天皇(聖徳太子の父)・崇峻天皇・推古天皇は蘇我の血が流れる稲目の孫だ。馬子は稲目が40歳を過ぎた頃に生まれた。 538年、百済の王から大和朝廷に仏像(釈迦如来像)と経典が献じられ、そこに次の言葉が添えられていた--「仏教は様々な教えの中で最も優れているので日本にも伝えます。遠くインドから朝鮮半島に至るまでこの教えに従っています」。受け取った欽明天皇は「仏教などかつて見たことも聞いたこともない」と、臣下に拝むべきか否か問いかける。稲目は大陸の進歩した技術・文化の中心に仏教があることを知っていたので、「西方の国々はどこも仏教を祀っています」と容認派に立ち、軍事を司る保守派の物部尾輿(おこし)や神事を司る中臣鎌子(注・「大化の改新」の中臣鎌子とは別人)は「他国の神をまつれば、天照大神や日本古来の神々の怒りをかってしまう」と強く反対した。 天皇は「試しに仏像を稲目に拝ませよう」と提案し、稲目は自邸をお堂にして仏像を安置した。ところが偶然この年に天然痘が大流行し、多くの死者が出てしまう。排仏派は「それみたことか。異国の神を祀ったからだ」と気色ばみ、お堂は焼かれ仏像は難波池(大阪難波ではなく飛鳥の難波池)に沈められた。この対立は半世紀後に互いの子孫の軍事衝突へと繋がっていく。 ※沈んだ仏像は翌年に欽明天皇が引き揚げたとも、602年に引き揚げられ信濃国(長野)の善光寺の本尊となったとも言われている。 569年に稲目が他界。572年、敏達(びだつ)天皇が即位し、馬子は父の跡を継ぎ21歳で大臣(おおおみ、今の総理大臣)に就任。物部氏も尾輿から息子の守屋に家督が移り、馬子と守屋が全面対決する時代を迎える。 ●蘇我馬子VS物部守屋 馬子は父と同じく、仏教を単なる宗教ではなく、高度な工芸美術や建築技術、最新の哲学を擁した総合文化と見ていた。新羅が百済より優勢なのは仏教信仰が盛んだからと考え、流入する渡来人と日本人を仏教が共通の価値観で結ぶ橋渡しになると考えた。 584年(33歳)、馬子は布教を誓って行動を開始する。自邸に仏殿を造って仏像を安置すると、自ら高句麗僧に帰依した。そして翌年には、飛鳥の丘に仏舎利(釈迦の遺骨)を納める塔を建てこれを礼拝した。だがしかし、またしても運悪く疫病が流行する。「神道をないがしろにしたタタリだ!」と今回も物部氏に糾弾され、時の敏達天皇は仏教禁止令を出した。ただちに守屋は仏殿を襲って仏像を破壊し、仏塔を焼き払った。物部氏は軍を握っており馬子には為す術もなく、焼け落ちる仏殿を見て彼は泣き叫んだという。ところがこの事件の直後に敏達天皇が病で逝去し、「仏殿を焼いたタタリではないか、仏罰が下ったのではないか」と豪族の間に動揺が走る。 敏達天皇の葬儀で馬子と守屋はさらに亀裂を深める。両者が弔辞を読み上げた際、小柄な馬子が長刀を差す姿を「まるで矢が突き刺さった雀ですな」と守屋が嘲り、一方、緊張で声を震わせて弔辞を読む守屋を「貴殿に鈴を付けたら面白そうだ」と鼻で笑った。両者、火花散りまくり。 次に即位したのは馬子の妹が産んだ用明天皇。用明天皇は即位後ほどなくして病に伏し、神道を頼っても治癒しなかったことから、587年4月2日、天皇として史上初めて仏教を受け入れる事を表明した。これで一気に風向きが変わる。これまで物部氏の配下にいた豪族が、次々と蘇我氏のもとに集まってきたのだ。守屋はこれ以上馬子が力をつける前に武力で滅ぼすことを決意、馬子も「いずれ避けては通れぬ道、長年の因縁に決着をつける時が来た」と武装を整えた。 用明天皇が崩御して緊張が高まり、7月、決戦の火蓋が切られる(戦場は現・東大阪市)。諸豪族を味方につけた蘇我軍は次々と物部軍の防衛ラインを突破したが、守屋は軍事部門のトップ。本陣付近の樹の上に弓矢部隊を配置して、油断して接近した蘇我軍の頭上に矢の雨を降らせた。多数の犠牲者を出し馬子たちは3度撤退する。兵達は疲労し敗戦の空気が流れ始めたが、この窮地を救ったのが14歳で蘇我軍に加わっていた用明天皇の子、聖徳太子だった。彼は巧みに仏像を彫りあげて仏の加護をアピール、部隊の士気を一気に高め4度目の突撃が敢行される。馬子の刺客が守屋に矢を命中させ、大将を失った物部軍は総崩れになり、ここに物部氏は滅亡した。翌月、馬子は崇峻天皇を擁立。36歳で天下をとった。 ●太子と組んで文明国家へ 588年、心置きなく仏教を広めることが可能になった馬子は国内初の本格的仏教寺院となる飛鳥寺の建設をスタートさせる(21年後に完成)。この寺は日本初の瓦屋根の建物であり、五重塔も備えていた。重い瓦を支える建築技術は日本になく、馬子は多数の建築家や僧侶を半島から招致する。 592年(41歳)、即位5年目の崇峻天皇が馬子の支配を嫌ったので刺客・東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)を放ち暗殺した。日本の歴史上、天皇が臣下に殺されたことが完全に分かっているのは崇峻天皇のみ(あとは毒殺とかハッキリしない)。次の天皇には馬子の妹の娘で初の女帝・推古天皇を即位させた。馬子の娘は聖徳太子と結婚した。こういった怒涛の政界工作で、馬子は権力をより堅固にしていった。 594年、大和政権は仏教を国教とする『三宝興隆の詔』を発し、諸豪族は競うように寺院を建設し始め、法隆寺、広隆寺、橘寺など次々と完成していく。596年には飛鳥寺も僧侶が住める状態になった。 一方、時を同じくして大陸では370年ぶりの統一王朝「隋」が誕生。この巨大帝国は高句麗を攻め始めた。600年、世界情勢を把握する為に中国へ120年ぶりの使者「遣隋使」を派遣した。ところが、日本の使節団は野蛮な後進国としてまともに相手をしてもらえない。馬子と太子は政治システムや文化レベルを国際標準にあわせる必要を痛感し、603年に冠位十二階を、604年に十七条憲法を制定し、607年(56歳)、2度目の遣隋使を派遣。翌年に返書を持って渡日した隋の使節は、未開の島国と思っていた日本に、美しい大伽藍を持つ飛鳥寺があることに仰天し、ここに国交が樹立された。609年には金色の飛鳥大仏を飛鳥寺に安置し、同寺はついに完成をみた。馬子は九州から東国までの幹線道路を整備し、各地で農業用水を作って生産力を高め、税収の基本となる戸籍制度を整えるなど、国政に腕を振るう。 622年に聖徳太子が他界し、626年に馬子も75歳で世を去り、ここに一つの時代が終わった。日本書紀には馬子の亡骸が桃原墓に葬られたと記されており、これは奈良県高市郡明日香村島庄の石舞台古墳と見られている。理由は以下の通り。 ・一辺が50mを超え、王陵(天皇の墓)に匹敵する大きさで、中央の巨大石室は全長20mと日本3位の長さ。こんな権力を持っていたのは馬子だけ。 ・建立時は立派な古墳だったのに、今は周囲の盛り土がすべて奪われ、無惨に石室が剥き出しになっている。「蘇我氏憎し」の後世の政権の仕業と見られる。 ・飛鳥全体を見渡せる一等地にある。 ・日本書紀では馬子の名が「嶋大臣」と書かれており、古墳がある明日香村「島庄」とドンピシャ。 ●後世の評価 歴史はしばしば勝者の手で事実を書き換えられ後世に伝えられてきた。馬子の死からわずか20年後に「大化の改新」で蘇我氏は滅ぶことになるが、日本人がイメージする蘇我氏は、正義のヒーロー・中大兄皇子(天智天皇)と藤原鎌足に倒される「悪の一族」だ。これは明治政府が天皇家の権威を高める為に導入したイメージ戦略のたまもの。それまでは「大化の改新」という言葉自体が存在しなかった。 『日本書紀』を書かせた天武天皇は中大兄皇子の弟。編纂の目的は天皇家が国を支配する正当性を過去にさかのぼって証明することだ。権力を奪取したクーデターに大義名分を与える為に、どうしても“極悪非道な”蘇我氏像が必要だった。しかし、現実には逆臣のはずの入鹿を祀る「入鹿神社」が奈良にあったり、鎌倉期の文献で蘇我氏が「仏教を尊び広めた偉人」と記述されているように、幕末まで人々は蘇我氏を敬愛すべき人物と考えていた。例えば、入鹿神社の近辺には江戸後期(1806年)に『蘇我入鹿公 御旧跡』と刻まれた道標が建立されており、わざわざ道標が建てられるほど多くの人が入鹿神社に詣でていたことが、そこからも分かる。 しかし明治政府は天皇家を権威づけしようとするあまり、“朝廷を操る逆賊・蘇我氏を中大兄皇子や藤原鎌足が成敗し、天皇の権威を復活させた”“現皇室は天智・天武天皇の権力を受け継いだ正義の血筋”と強調し、蘇我氏が仏教の経典を通して文字を普及させ(日本最古の書物は聖徳太子が615年に書いた『法華義疏』)、飛鳥寺建立によって日本に最先端の建築技術を伝え、仏教美術を通して工芸技術を発展させ、積極的な外交活動で日本の国際的地位を向上させた業績が、長らく無視されてきた。そして最近になって、「大化の改新」という言葉が勝者側に偏り過ぎているとして、645年の干支にならって「乙巳(いっし)の変」 と呼ぶようになってきていることを、最後に付け加えておく。 ※蘇我宗家の血は入鹿で絶えたが、分家の血は持統天皇に受け継がれている。
※天武天皇は入鹿の子で、壬申の乱で大化改新のかたきを取ったという説もある。 ※百済系渡来人で有名なのは天智天皇の孫と結婚し桓武天皇を生んだ高野新笠(たかののにいがさ)。 ※僕が学生時代にマンガ『日出処の天子』を読んで「悪党・蘇我氏」という印象が消え、滅び行く一族に同情するようになった。 一人の仏像ファンとしても馬子に礼が言いたい。日本に仏像があって良かった。 |
開山は栄西。創建1200年という 長い歴史を持つ寿福寺の山門 |
鎌倉では泥岩を掘抜いた洞窟のことを「やぐら」といい、 彼女と実朝の墓は北鎌倉山中のやぐら内にある。 写真の左端が政子、右端が次男の3代源実朝のやぐら |
1999 日本のジャンヌ・ダルクに謁見 | 2009 10年後。案内板が右側に移動してました | 紅茶と菓子!セレブのティータイム |
政子は親が決めた縁談を破棄し、当時は平家の天下であるにもかかわらず、源氏の頼朝と駆け落ちした超激情型の女性。頼朝が愛人を作ったことを知った時、兵を出して愛人の館を焼き払った。あの非情な頼朝をお尻の下に敷いていたんだから、たいしたもんだ。義経の愛人・静御前が、頼朝の目の前で義経を想う舞いを踊って激怒させた時、「彼女の気持は分かります」と頼朝をなだめて命を助けてやったのも政子。夫の死後、承久の乱の時に東国武士たちに気合を入れた演説は、胸を打つ内容として高く評価されている。 ※承久の乱で敵対した後鳥羽上皇の黒歴史。後鳥羽院は敗戦が決定的になると、幕府軍に使者を出して「この挙兵は自分の意思ではなく臣下たちが計画した」と弁明。北条義時追討の宣旨を取り消した上で、味方の武士達(藤原秀康、三浦胤義、山田重忠)を逆に捕縛するよう院宣を出したという…。これでは武士達がたまらない。
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「暴れん坊将軍」 |
吉宗の墓。寛永寺の徳川家墓所に眠っている (2004) |
寛永寺の門。この先は一般非公開。ただし 年に一度、抽選で拝観できるチャンスがある |
台東区の秋祭で公開!(2004) | 悲願達成!抽選に当たったでござるよ! | 暴れん坊将軍の前で大暴れ!! |
8代将軍。和歌山藩の藩主徳川光貞の四男。身長が180cmを超え、当時の日本人としては大変な大男だった。色黒でガッチリしており、関取と相撲までとった記録がある。 母親は百姓出身で、屋敷での奉公中に光貞の目にとまり吉宗を宿したという。母の身分が低かった為、5歳まで家臣の子として育てられたが、藩主を継いだ3人の兄が相次いで亡くなり、21歳の若さで和歌山藩5代藩主に就任した。和歌山藩は長く財政難で苦しんでいたが、吉宗は粗食を食べ、粗末な着物を着ることで自ら手本となって倹約を呼びかけ、また農政改革なども断行して、5年間で見事に藩を立て直した。1716年、江戸では6代将軍家宣の病死後、次の家継も8歳で死亡し、徳川本家の血筋が途絶えてしまう。老中たちが後継者に推したのは藩主として実績のある吉宗だった。彼は当初この申し出を固辞したが、“これは家宣の遺言なのです”と6代家宣夫人から説得され将軍職を承諾する。時に吉宗32歳。5代綱吉の頃から悪化する一方の幕府の財政事情を目の当たりにした彼は、幕府財政の再建の為に不退転の決意で30年にわたる「享保の改革」に乗り出す。 江戸城の中で過保護に育てられた従来の将軍と違い、和歌山など地方に暮らす庶民の声にも触れてきた吉宗の改革は、机上の空論ではなく具体性があった。米価を調節し、新田の開発をすすめ、飢饉対策として青木昆陽に薩摩芋(甘藷)の栽培法を研究させた。全国各地の特産品の開発振興をうながし、学問を奨励する為に寺小屋に教科書を配り、洋書の輸入を緩和して、学者にはオランダ語を学ばせた。また100万都市の秩序維持のため刑法を制定するなど法令を編纂(へんさん)し、奉行所には人望の厚い大岡越前守を登用した。参勤交代を緩め大名の負担を減らし、倹約をアピールする為に、江戸城に70万両をかけて造った門を解体させた。
役人の不正をなくす為に江戸城前に目安箱を置いて民衆に投書させ、吉宗は自分でこれらを読んだという。目安箱から採用された有名な例として、いろは48組からなる町火消の設立や、極貧病人の為の無料の医療施設・小石川養生所の開設などがある。61歳で将軍職を子の家重に譲り、その6年後に没した。
寛永寺には吉宗の墓だけでなく、四代家綱、五代網吉、十代家治、十一代家斉、十三代家定の6代将軍の霊廟がある。ただし!吉宗を含めて全員が徳川家専用の墓地に眠っており、一般公開はされていない。必然的に、外から手を合わせる「遥拝」(ようはい)という形になる。しかし、墓前に謁見できる可能性が全くないわけではない。方法はふたつ。1.徳川家の親族になる(かなり難易度が高い)2.秋に台東区が開催する『上野の山文化ゾーンフェスティバル』の寛永寺拝観ツアーに応募する(まだこっちの方が一抹の望みあり)。もし定員80名の中に抽選で選ばれれば、晴れて葵の紋所の聖域に入ることが許されるのだ。頑張ろう!
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こちらは高野山の「紀州徳川家墓所」。吉宗の父・光貞など歴代藩主が眠っている(2009) |
沖縄生まれ。琉球一の人物になることを願って「球一」と付けられた。戦時中に革命運動に加わり、政治犯として終戦まで18年間も投獄されていた。その後、衆議院議員となったが共産党を組織したことでマッカーサーの圧力を受け政界から追放。地下に潜り、最後は中国・北京で息をひきとった。その思想がどうあれ、長年に渡る獄中での拷問に耐えきった信念の人。 |
百済から渡来した 王子という説もある |
明治時代の百円札に 載っていた鎌足の肖像画 |
鎌足の古墳は、山頂付近に見える大きな白い建物 (地震観測所)の裏手あたり (2008) |
地震観測所から古墳まで案内標識が出ている。 「墓室」という標識の約3m地下に眠っていた |
中臣鎌足。藤原氏の祖。次男は奈良期に政界の頂点に立った不比等。中臣家は代々神道の祭祀を司ってきた名門。青年貴族の鎌足は海外の動向にかねてから関心を持っていた。640年(26歳)、大陸から32年ぶりに帰国した南淵請安(しょうあん、遣隋使の留学僧)が私塾を開くと、さっそく彼は通いつめ、師が見届けた隋の滅亡、唐の誕生の話を熱心に聞いた。643年(29歳)、蘇我系の天皇擁立を目指していた蘇我入鹿が、皇位継承権を主張していた聖徳太子の息子・山背大兄王ら太子一族を皆殺しにする。蘇我氏は広大な宮殿に住み、墓も天皇にしか許されていなかった巨大御陵(古墳)を造営した。 国内の政局が混沌とする中、644年(30歳)、国外では超大国・唐が高句麗への侵略を開始。鎌足は豪族同士が内乱を続けている場合ではなく、一刻も早く強力な中央集権国家を作らねば諸外国につけ入られてしまうと憂慮する。同年、鎌足は朝廷祭祀官への就任を要請されたがこれを断り、飛鳥を離れて摂津国三島に下がった。緊張した国際情勢を乗り切る為にも、鎌足は唐に対抗できる指導力のある皇子を探していたのだ(1年半をかけてクーデターの準備を進めることになる)。 そんなおり、飛鳥寺の蹴鞠(けまり)会で中大兄皇子(後の天智天皇、鎌足の12歳年下)の脱げて飛んだ靴を鎌足が拾い、これが縁となって両者は親交を結ぶ。同じ私塾に通っていたこともあり、帰り道に両者は国政について熱く語り合った。その結果、まずは位の高い同志が必要ということで、鎌足は蘇我一族の内部対立を利用して蘇我石川麻呂を味方につける事に成功する。鎌足は石川麻呂の娘を中大兄皇子に嫁がせることで、巨大な蘇我一族の力を分断した。 645年5月、鎌足(31歳)と中大兄皇子(19歳)は、奈良桜井・多武峰(とうのみね)の山中でクーデター当日の作戦を練った(この談合した場所が後に談山神社となる)。入鹿はいつも屈強な護衛を連れ、屋敷も厳重に警備されており、簡単に討てる相手ではなかった。そこで、宮中ならば護衛もいないということで、三韓(百済・新羅・高句麗)の外交使節を迎える6月12日を決行日に決めた。白昼に天皇の御前で、そして海外の外交団が居並ぶ前で、最高位の大臣を皇子が斬り殺すという、前代未聞の大胆な暗殺計画だった。 当日、小雨が降る飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)。まずは入鹿が腰に帯びている剣を、踊り子が「歓迎の舞い」の中で外させることに成功、入鹿は丸腰になった。続いて10の門を全て閉ざし逃亡できないようにする。そして中大兄皇子が槍を、鎌足が弓矢を手に殿中に潜んだ。その後の計画は、石川麻呂が皇極天皇(中大兄皇子の母)に上表文を読み始めるのを合図として、同志の佐伯連子麻呂と葛城稚犬養連網田が入鹿に一刀を浴びせ、中大兄皇子と鎌足がトドメを刺す段取りだった。 しかし!石川麻呂の上表文が終わりに近づいても、なかなか刺客の攻撃が始まらない。「もしや計画がバレたのでは!?」石川麻呂は手足が震え冷汗をかき、声が上ずった。入鹿から「貴公はなぜそれほど震えているのか」と問われ、石川麻呂は「天皇の御前であり、畏れ多くて震えているのです」と答えた。両者が会話しているのを“隙あり”と見た中大兄皇子は飛び出し、佐伯連子麻呂らと共に「ヤァ!」と肩や脚に斬り付けた。入鹿は血を流して帝の前に倒れ「どうして私がこのような目に」と叫び、天皇も「これは何事か」と驚く。中大兄皇子は「皇位を奪おうとした入鹿めを成敗しました」。天皇は暗黙の了解を与えるように背中を向けて退出した。まだ息のあった入鹿は、さらに斬られ絶命した。 その場に居合わせた各国の来賓、貴族たちは突然の出来事に誰もが絶句していた。入鹿の遺体は外に放り出され雨に濡れていた。 この事件は入鹿の父・蘇我蝦夷(えみし、馬子の子)にもすぐ伝わった。蝦夷は屋敷の防御を固め戦闘態勢に入ったが、兵たちが中大兄皇子の使者に説得されて武装を解いたことから、抵抗の無意味さを悟って邸に火を放ち自害する。こうして蘇我宗家は滅亡した。(乙巳の変) 「大化の改新」以降の鎌足は内臣(参謀)となって軍事指揮権を掌握。中大兄皇子は内政改革に集中する為に孝徳・斉明天皇を立てて自身は皇子に留まり、ようやく即位して天智(てんじ)天皇となったのは23年後の668年だった(皇位は即位直前まで7年間空白だった)、鎌足はこの間、影に表にずっと中大兄皇子の腹心として活躍し、公地公民制、班田収授制、国郡制、租・庸・調の税制、戸籍の作成など国家体制の骨格づくりに一生を捧げた。 669年10月(55歳)。鎌足は落馬で重傷を負い病床に就く。病状が深刻と聞いた天智天皇は自ら鎌足邸へ見舞いに訪れた。鎌足曰く「思い残すことは何もありません。葬儀はなるべく質素にして、民に迷惑をかけぬようお願いします」。その5日後、天智天皇は弟の大海人皇子を鎌足邸へ遣わせ、鎌足の為に用意した“大織冠”(たいしょくかん)と「藤原」の姓を授与した。この翌日、鎌足は他界した。2人が初めて出会ってから四半世紀、大化の改新以後も共に荒波を乗り越えてきた。訃報を聞いた天智天皇は、人目をはばからず号泣したという。この2年後に天智天皇も45歳で世を去った。“大職冠”は冠位十二階より上位の最高位であり、日本史上でこの称号を与えられたのは鎌足しかいない。 歴史は皮肉だ。この後、大荘園を支配して公地公民制を崩し、皇室に娘を送り込んで国政に介入し、蘇我氏と同じ様なことをして、鎌足と天智天皇が築いた律令体制を、一族の利益の為に利用しまくったのは、他ならぬ「鎌足の子孫」たち、藤原不比等、道長らだった。遺言で「墓は質素に」と民を気遣った鎌足だけに、平安朝の宮廷政治を独占した子孫が詠んだ次の歌に怒り心頭だろう。『この世をば わが世とぞ思う望月の 欠けたることもなしと思えば』“この世は全て私のモノだ。我が人生は満月の如く何ひとつ欠けていない”(藤原道長) ●墓のビックリ・エピソード 鎌足の墓には実にドラマチックなエピソードがある。『多武峯略記』『三代実録』『藤氏家伝』などの文献に「最初は摂津国安威(現・大阪茨木市)に葬られ、後に大和多武峯に改葬された」と書かれていることから、千年以上も墓所は奈良県桜井市多武峯の談山神社と思われてきた。ところが!1934年、大阪茨木市安威と高槻市にまたがる阿武山(標高約214m)で、京大阿武山地震観測所の拡張工事中に、偶然地中から石室と棺が発見され事態は急変した。過去1265年間この直径約80mの古墳は一度も盗掘されておらず、棺内から60歳前後の男性人骨と副葬品(美しいガラス玉を連ねた超一級の枕や7世紀の土器)が出てきた。古墳発見後の一般公開では、たった10日間で2万人が見学に訪れたと言うから、当時の凄いフィーバーぶりが伺える。当初より“貴人の墓”として見られていたが、棺内から金色の糸が出てきたことで天皇の可能性が出てきた。この時点で調査は強制終了。戦前でもあり、これ以上は不敬罪に当たるとして政府が介入、憲兵隊の監視下で全てが埋め戻されてしまった。 それから約50年後の1982年。何と、かつて発掘直後に研究者がこっそり隠し撮りをした、被葬者の調査写真が34枚も京大地震研で発見された!中にはX線写真や故人の毛髪まであった。新資料を5年間をかけ分析した結果、金糸(金モール)は冠帽の刺繍のもの、死亡原因は肋骨など複数の骨折による二次的な合併症ということが分かった。ここで鎌足が俄然脚光を浴びることになる。骨折は鎌足が落馬で大けがをした史実と合致する。また、古墳から金糸が見つかる例は極めて少ないのに(入ってても数センチ程度)、常識を遥かに超える「100m」という長さの金糸が冠帽の形をして横たわっていた。通常の冠帽には刺繍すらないことから、これは日本書紀に記録がある「大織冠」ということになり、この冠帽をかぶる資格のある歴史上唯一の人間、「藤原鎌足」の墓と断定されたのだ。 それにしても、墓の発見エピソードで、これほど奇跡が連続して起きた話は聞いたことがない。京大地震研究所が拡張工事をしなければ、おそらく永遠に土中の棺に気づくこともなかったであろうこと、不敬罪覚悟でレントゲン撮影した勇気ある研究員が戦前にいたこと、その隠し撮り写真が眠ったままになってたのをこれまた偶然半世紀後に見つけた人がいたこと、何もかもがビックリだ!(まるで映画みたいな話だ) ※鎌足の出生に関しては大きく4つの説がある。(1)『藤氏家伝』の大和国藤原説(現橿原市)(2)飛鳥大原神社説、産湯の井戸がある(現明日香村)説(3)『大鏡』の常陸国鹿島説(4)百済から渡来した王子説。「藤原」の姓を賜わったのは、邸宅の所在地が藤原であったとする説、渡来系なので『百(ホ)済(ゼ)倭(ワ)国(ラ)』の“百済倭国”(ホゼワラ)の当て字が「藤原」という説もある。両国友好の架け橋となる名前だ。 ※鎌足百済出身説…阿武山古墳のように円墳の周囲を溝で掘ったり、石室の上に盛り土をするといった特種形態の古墳は他に国内に例はなく、鎌足と同時代(7世紀)の百済の首都・扶余の古墳群に同タイプの物があるという。古墳に剣・鏡・玉の“副葬品セット”がなかったのも日本式でない証拠。ある時、宴席で天智天皇と弟の大海人皇子が口論になり、興奮して槍を床に刺した皇子対し、天智天皇も激高して刀を抜こうとした。この場を間に入って収めたのが鎌足。彼は百済を内乱の挙句に追放された身であり、身内で争うことがどれほど愚かのことか痛感していたという。 ※現在、談山神社に埋葬されているのは鎌足の次男・不比等とする『延喜式』の説が多く支持されている。後年の藤原氏としては、始祖の墓の場所が不明とあっては面目に関ることであり、「改葬した」と嘘をついてまで鎌足の廟を造る必要があったのだろう。 ※不比等の娘・宮子は文武天皇の妃となって聖武天皇を生んだ。 ※中大兄皇子の黒歴史。「大化の改新」後、中大兄皇子は噂だけで入鹿暗殺の同志・蘇我石川麻呂(上表文を読んだ人)に謀反の疑いをかけ、釈明の機会も与えず軍を送り自殺に追い込んでしまう。後日、石川麻呂の無実を知って中大兄皇子は大いに嘆き悲しんだという。自分の父を夫(皇子)に殺された妻・蘇我遠智娘は狂死した。 ※「秋の田の かりほの庵(いお)の 苫(とま)をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ」(百人一首 中大兄皇子/天智天皇) ※万葉集にある鎌足の歌が何かかわいい。豪族の娘さんの安見児(ヤスミコ)に想いが届いた時の歌。「吾はもや安見児得たり 人の得かてにすとふ安見児得たり」(俺は憧れの安見児を 得たぞ!皆が高嶺の花と言う安見児を得たぞ!) |
西郷と夢を追っていた頃 | 非業の死を遂げる |
6:50の大久保 | 13:00の大久保 | 16:30の大久保 | 20:00の大久保 |
大久保の背後には知る人ぞ知る遊び心が。 彼は馬が大好きだったので足下に馬がいる♪ |
鹿児島市中心部を流れる甲突川の川岸に建つ石碑 「大久保利通君誕生之地」。近くに西郷の生地もある |
薩英戦争記念碑 | 天保山砲台跡 | 祇園之州砲台跡 |
1863年6月薩英戦争が勃発。3日間の砲撃戦の死傷者数は英軍63名、薩摩軍19名と数字の上では勝っているが、城下は 火の海になった。薩摩の砲台は英軍7隻のアームストロング砲計101門(射程4倍)の前に壊滅し、攘夷不可能と薩摩藩は痛感する |
鹿児島市の「西南の役官軍戦没者慰霊塔」。西南戦争は政府軍の勝利に終わったが、西郷たち の抵抗は凄まじく、薩軍の死者6400人に対し、官軍の死者はそれを上回る6840人にのぼった。 国内最後の内戦は、両軍あわせて13240人という膨大な命が消えて終結したのであった |
墓碑(竿石)の高さは5メートル!(2006) | 青山霊園の一等地に眠る(2009) |
亀趺(きふ)に乗って桃源郷へ |
これがすべて大久保の墓域(2000) | 墓の左後方には暗殺の巻き添えになった馭者の墓(09) | なんと一緒に斬られた馬の墓まである!(09) |
通称正助、号は甲東。西郷隆盛、木戸孝允(たかよし)と並ぶ維新の三傑。元薩摩藩の下級武士。3歳年上の西郷は同じ町に生まれた幼馴染で、2人の家は100mしか離れていなかった。15歳の時に藩の記録所へ出仕。20歳の頃、父親が藩の御家騒動に巻き込まれて島流しにあい、彼も失職する。この時の苦労が彼を現実主義者にした。翌年父が許された後は、西郷と組んで藩政の改革に乗り出す。
西郷は相手が藩主であろうと何でもストレートに物言いする男。裏表がない分、世渡りが下手だ。一方、大久保はそんな西郷をフォローする役回りを演じた。大久保は西郷がスケープゴートになってくれているお陰で、両者は同じ意見であるにもかかわらず、保守派からは穏健的に見られ評価を上げていた。だからこそ大久保は、「吉之助(西郷の本名)どんに切腹命令が出た時は一緒に死ぬばい」と誓っていた(30歳)。やがて33歳の時に薩英戦争、そして翌年に下関戦争が起こり、欧米諸国との絶望的な戦力差に愕然とする。今の幕府では諸外国と対抗できない…大久保は幕府を倒すことが急務だと確信した。36歳の時に西郷と一緒に上京し、京都で長州藩の木戸と薩長同盟を締結。1867年(37歳)、王政復古を果たす。翌年正月の鳥羽伏見の戦いで幕府軍に決定的な勝利を収め、後は版籍奉還、廃藩置県と、ひたすら新政府の屋台骨の強化にまい進した。
※「このまま何もせずに政府が瓦解するよりは、思い切って廃藩を断行して瓦解した方が良い」(大久保) 41歳、欧米を視察。洋行先で圧倒的な工業生産力に仰天した大久保は、一刻も早く近代化を図らねば欧米の植民地にされかねないと、富国強兵をスローガンに、強権をもってさらに社会構造の変革を加速させる。国民に重税を課し、官営の製糸工場、セメント、造船、鉄工など大工場を次々と建設した。強い政府を目指し、自由民権運動を警察力で弾圧し、列強に対抗すべく台湾へ軍を送り支配下に置く。
この歴史の大激動の中で行き場を失ったのが、時代に取り残された士族(武士)たちだった。廃刀令で武士の魂である刀を奪われ、断髪令でちょんまげを切られ誇りはズタズタに。農民には田畑があり、商工業者は手に職を持っていたが、多くの武士は自活する手だてがないまま突然世間に放り出された形になる。最初は新政府も廃藩した責任上、国家予算の40%を注ぎ込んで彼らに俸禄(ほうろく)を支給していたが、徐々に支給額を切り下げていく。新政府に反旗を翻した者は、たとえ維新の時に肩を並べあった友であっても武力鎮圧し(佐賀の乱など)、首謀者を江戸時代さながらに晒し首にするという大久保の非情ぶりだった。 維新から10年後の1877年、とうとう青春時代からの親友であり、かつては“一緒に死のう”とまで思っていた西郷までが、「再革命」を求めて挙兵した(西南の役)。内戦につけ込んで列強各国が介入してくるのを恐れた大久保は、国家統一の為に鬼畜と呼ばれる腹をくくり、数倍の兵力をもって盟友を逆賊として自決に追い込む。
だが…西郷軍の討伐を命じた大久保自身も、西郷の死から約半年後に、彼に積年の恨みを持つ6人の旧武士によって暗殺された。享年47歳。亡骸は喉に刀が1本、胴体に脇差が3本突き立てられており、めった斬りの状態だった。全身に16箇所もの傷を受け、その半数は頭部に集中していた。現場に駆けつけた前島密いわく「肉飛び骨砕け、又頭蓋裂けて脳の猶微動するを見る」。この前年5月に三傑の同志木戸は脳病の為に45歳で既に狂死しており、木戸の死から1年を待たずして、西郷、大久保たち明治維新の立役者3人は、全員が死んでしまったのだ。倒幕の流れを作った松陰と高杉の師弟、薩長の橋渡しとなった土佐の龍馬、そして敵側の土方や近藤も含め、幕末に起ち上がった若者はこれで誰もいなくなった。
大久保の墓は明治政府が造営した官営墓地・青山霊園(現在約11万人が永眠)にあり、その墓碑の高さは5メートルに達する。大久保は心の内で周囲の反感を買うのが分かっていても、急速に近代化を推し進めずにはいられなかった。100年後、GNP世界第2位の大国となった日本。東京の都心に眠る彼は、いまどんな思いでこの国を見つめているのだろう。
※西郷を深く愛する鹿児島県民にとって、大久保は長く受け入れ難い存在だった。死後100年が経った1978年になって、初めて大久保の銅像が市内に建立された。
※権力者となっても金銭を求めず、財をなさなかったことを追記しておく。借金を8千円(今の約8千万円)も残したくらいだ。
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この写真は優しそうな 大久保だね〜 |
定点観測の結果、朝陽を浴びる 大久保が一番カッコ良いことが判明! |
高知城の板垣像 |
高知城をバックにポージング。足下には有名な言葉 「板垣死すとも自由は死せず」の石碑が建っている |
「板垣退助先生誕生之地」 高知市内の高野寺の前にある |
岐阜市の『自由党総理・板垣退助君遭難地』。 板垣が暴漢に襲われ「自由は死せず」とここで言った |
“遭難地”は岐阜城のすぐ手前。1882年4月6日、演説 を終えた板垣は「国賊」と叫ぶテロ犯に胸を刺された |
龍馬と同じ土佐出身 | 品川神社境内の裏にひっそりと眠る | 左右に割れた見事なヒゲ |
幼名猪之助。号は無形。維新後の混乱の中で、徳川300年間に武士と農民の間が完全に断絶したことを感じ取った板垣は、明治新政府に国民全般の意見を反映できる“国会”を開設すべきだと主張した。国が活力を得るのには、民の政治参加が不可欠だと確信していたのだ。 “欧米に活力があるのは、国民誰もが政治に参加できるチャンスがあり、自分たちが国を作っているという意識を皆が持てるからだ”そういった信念から彼は自由民権運動に取り組んだのだった。 「板垣死すとも自由は死せず!」 これは士農工商の時代は去ったと“四民平等”を説いて全国を遊説しているおりに、保守派の暴漢に襲われ、血みどろになって叫んだ言葉だ。 大名出身の板垣は伯爵の位を持っていたが、“もはや人間を身分で区分けする時代ではない”という彼の信念から、遺言で子孫に“肩書きでなく、自らの力で生きよ”と爵位を辞退させた。う〜む、あっぱれじゃ。 |
元寇の国難を乗り 切った若き指導者 |
この建物が時宗の霊廟。後年は禅に傾倒し、 中国から高僧を招いて円覚寺を開いた |
こちらは鎌倉・東慶寺に眠る夫人の覚山尼。 “駆込み寺”東慶寺を建立し開山となった |
「こちらから戦いを仕掛けないが、いざとなれば一身をもって国を守る」蒙古襲来の前年、22歳の時宗はこう決意を記した。初戦で敵を退けた彼は再襲来があると確信し、北九州沿岸に石塁を築き決戦に挑む。はたして二度目は前回の4倍の14万人、4400隻もの大軍だった。大暴風雨が去った後、博多湾には9万8千人という凄まじい数の溺死者が沈んでいた。敵とはいえ人間、時宗は円覚寺を建て双方の戦死者を供養したのだった。 |
早稲田大学を創設 |
「従一位大勲位 侯爵大隈重信之墓」 |
2002 |
2009 |
2010 |
明治・大正期の政治家で早稲田大学の創立者。旧佐賀藩士。7歳で藩校に入るが学風に親しめず17歳の時に学風改革騒動を起こして退学になる。29歳、将軍慶喜に大政奉還を勧告しようと脱藩、上京するが失敗。維新後は明治新政府に加わり、参議となって頭角を現す。43歳、薩長中心の藩閥政府に対し、国会開設を求める自由民権運動が国民の間で高まると、大隈も国会の即時開設と英国式の政党内閣制を主張した。特権的地位をあくまでも守っていこうとする伊藤博文らは大隈と対立、政争の過程で大隈は辞職に追い込まれる。翌年、板垣退助が自由党を結成すると、それに呼応するように大隈も立憲改進党を結成。彼はさらに若い人材を育てる目的で現・早稲田大学を創設する(44歳)。1888年(50歳)、伊藤博文は外交政策で行き詰まり、民権派に譲歩して大隈を外相に迎えた。だが大隈が大審院に外国人判事を任用する考えを表明すると、政権内&世論から激しく叩かれ、ついには外務省前で右翼に爆弾を投げつけられ右足を失う。内閣総辞職。しかし大隈はへこたれない。58歳になると今度は進歩党を結成し再び外相を務める。1898年(60歳)、大隈が首相、板垣が内相という日本最初の政党内閣が誕生!…が、内部に不協和音が生じて、わずか4ヶ月で総辞職する。しばらく政界から退き早稲田で総長をしていたが、大正に入って憲政擁護運動が起きると三度政府にカムバック、76歳で第二次大隈内閣を組織する。第一次世界大戦への参戦などを経て、2年後に総辞職。6年後の1922年、83歳で永眠する。日比谷公園で行われた国民葬には20万人を超える会葬者があった。
僕はこれほど政府を追われては復活するという事を繰り返した政治家を他に知らない。軍備拡大、中国への21カ条要求など、個人的には賛成できない部分もあるけど、国会の開設運動をしたり、テロにあったり、彼なりに日本の将来を見据えて身体を張っていたのは確か。ひたすら金儲けに奔走する現代の政治家とは大違いだ。
大隈の墓所は護国寺本堂の向かって右側、大きな石の鳥居の奥。「従一位大勲位侯爵大隈重信之墓」と刻まれている。
※大隈は日本初のヒゲなき総理だった。当時、ヒゲは権力の象徴として、閣僚の全員が庶民を威圧する為に生やしていたが「髭は戦争の道具みたいなものだ、武装的なものだ」と、大隈はけっしてヒゲを蓄えなかった。
※「学問は脳、仕事は腕、身を動かすは足である。しかし、卑しくも大成を期せんには、先ずこれらすべてを統(す)ぶる意志の大いなる力がいる。これは勇気である」(大隈重信) |
慶喜が大政奉還を受け入れた京都・二条城 | この「二の丸御殿」の大広間で徳川300年が終わった |
墓前の三つ葉葵 | 台東区谷中霊園。徳川の紋が庶民の墓参を拒む | 歴代将軍が眠る寛永寺とは少し離れている |
右から徳川宗家16代・徳川家達(いえさと)墓、夫人墓、 徳川宗家霊塔。14代家茂(いえもち)は遺言で15代に 家達を指名し、天璋院(篤姫)も支持していたが、当時 まだ3歳。結局慶喜が15代将軍に就任(2004、寛永寺) |
左端の『徳川宗家霊塔』には 17代家正夫妻も眠っている 寛永寺にて(2004) ※家達と共に一般非公開 |
江戸幕府15代将軍。水戸藩主徳川斉昭の7男。幼名は七郎麿。1837年に江戸小石川の水戸藩邸に生まれ、藩校弘道館で学ぶ。1847年(10歳)に御三卿の一橋家を継ぎ、第14代将軍をめぐる将軍継嗣問題では、その才知を認められ松平慶永ら一橋派に推されたが、井伊直弼ら紀州派の推す徳川慶福(よしとみ、家茂)に敗れ、安政の大獄で隠居謹慎の処分を受ける。 1860年(23歳)、井伊直弼が桜田門外の変で暗殺された結果、謹慎がとけ将軍の後見役となった。1866年(29歳)、将軍家茂の死をうけ15代将軍に就任。 慶喜はフランス公使レオン・ロッシュの助言により軍制を洋式にあらため、横須賀製鉄所や造船所を設立し、幕府制度を改革して陸軍総裁・海軍総裁・会計総裁・国内事務総裁・外国事務総裁を置いた。そして諸外国の長所を取り入れるべく、弟をパリ万国博覧会に派遣するなど幕臣子弟の欧州留学を奨励した。これらの近代化政策は成果をあげたが、もはや全国に火が付いた討幕の炎を消すことが出来なかった。 1867年(30歳)10月3日、土佐藩が坂本龍馬のアイデア(船中八策=徳川氏を筆頭とする雄藩連合政権)を踏まえた大政奉還(大政=国政。政権を朝廷に返すこと)の建白書を幕府に提出。慶喜は13日に老中や重臣を二条城に集め、大政奉還の是非について意見を求めた。 翌1867年10月14日、慶喜は討幕運動の出鼻をくじくため朝廷へ政権返上を願い出る。薩摩藩は公卿・岩倉具視と共に武力討幕を計画しており、同じく14日に薩摩・長州両藩に討幕の密勅が出された。この翌日、大政奉還が天皇に勅許されたことから武力衝突は回避された。この大政奉還で慶喜は征夷大将軍ではなくなったが、依然として徳川は国内最大の領地を保持し、内大臣の官位も持っており、新政権内の中心に位置することは確実だった。佐幕派には再び徳川氏に政権委任されるだろうとの楽観的観測さえあった。翌11月坂本龍馬暗殺。 大久保、西郷ら討幕派は「武力討幕でなければ日本はかわらない」と考え、討幕派の影響下で開かれた12月9日の御前会議(小御所会議)で王政復古の大号令が発せられ、徳川の領地と官職を返上させる「辞官納地」を決定、旧幕府側を挑発した。その結果、1カ月後となる1868年(31歳)1月に戊辰戦争が勃発。鳥羽・伏見の戦で維新軍は“錦の御旗”を掲げ、これによって幕府軍は逆賊となった。幕府軍は士気がくじけて敗北し、賊軍となったショックで慶喜は海路にて江戸に逃亡、自ら上野寛永寺に入って謹慎し、恭順の態度をしめした。 江戸城の無血開城後は水戸に移り、ついで家督を養子の田安亀之助=徳川家達(いえさと)に譲って駿府で謹慎した。1869年(32歳)、謹慎がとかれ、慶喜は狩猟や謡曲など趣味の世界に生きた。1897年(60歳)、東京に戻り、1902年(65歳)に公爵となり、1908年(71歳)に大政奉還を評価されて勲一等旭日大綬章をうけた。1913年に76歳で他界。 徳川の歴代将軍は家康、家光が日光東照宮に、他は菩提寺の増上寺や祈願寺の寛永寺に眠っている。慶喜は先に他界した正室・美賀子の仏式宝塔墓を寛永寺の墓地に建てた。慶喜出身の水戸藩では、1661年に徳川光圀が父頼房の葬式を儒式で実施して以来、藩主は儒式で葬られてきた。慶喜は伝統に従って遺言で「仏式でなく儒式で埋葬せよ」と遺したことから、慶喜の埋葬に伴って正室の墓も儒式に改められた。後に都立谷中霊園が同地に開設され、慶喜は寛永寺の檀家ではないが墓域が谷中霊園の寛永寺管理区となった。 ※家光の亡骸は遺言により寛永寺に運ばれ一周忌が終わるまで霊廟に安置され、日光へ改葬された。その後、5代綱吉まで連続で寛永寺に埋葬されたため、増上寺が「家康公から菩提寺に定められたのにおかしい」と訴えた。そこで幕府は家宣、家継を増上寺に埋葬したが、今度は寛永寺から抗議されたので、原則交互に埋葬されるようになった。 ※ それにしても、なんで鳥羽伏見の戦いの時に、新選組や旧幕府軍を見捨てて、こっそり大阪城から江戸に逃げ帰ったのか…。 |
「蘇我入鹿首塚」の案内標識 | (民家の裏の)甘橿丘に入鹿邸があったという | 甘橿丘を背後にした入鹿の首塚 |
入鹿の首塚。はねられた首がここまで飛んできたという…(2008) | 前回の巡礼は雨。田んぼが青い(2004) |
クーデターの現場・飛鳥板蓋(いたぶき)宮跡(2004) | 水路の跡のようなものが残っている(2008) | 和歌で有名な“香久山”を甘橿丘の木立から見る |
蘇我蝦夷の子。日本史では悪者扱いだが、唐帰りの学僧・新漢人旻(いまきのあやひとみん)から中国の新知識を学び、学堂で1番の秀才と評された。皇位継承問題で山背大兄王(聖徳太子の子)を滅ぼしたことが反蘇我氏の気運を高め、大化元年に中臣(藤原)鎌足と中大兄皇子(天智天皇)によって暗殺された。亡骸は雨の中に打ち捨てられたという。墓は日本最古の寺で蘇我馬子が建立した飛鳥寺に隣接する。
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夫婦で一緒に眠っている。結婚した時は26歳と12歳。 12歳は若いけど、当時の感覚では普通だったんだよね(04) |
4年後に再訪。冬で緑が色褪せ、少しもの悲しい (2008) |
本名、大海人(おおあま)皇子。672年(41歳)に、皇位を巡って壬申の乱を起こすなど武闘派としても知られるが、第40代天皇に即位してからは仏教を手厚く保護し、妻(後の持統天皇)の病気の平癒を願って薬師寺を建立。この時期は美術史白鳳時代と呼ばれ、数々の仏教美術の傑作が生れている。天武天皇が計画した国史の編さんは、没後に古事記、日本書紀として実を結んだ。天皇として初めて火葬された。 持統天皇は夫の死後に女帝として即位。万葉集に名歌「春すぎて夏きたるらし白妙の衣ほしたり天の香具山」を残している。 |
飛鳥の都に夕陽が沈む(2008) |
2006 日米開戦に反対した※改葬前/青山霊園(港区) | 2010 左の十字架は麻生家※改葬前 | 2012 見晴らしの良い久保山へ改葬 |
●1957年2月、防衛大学第1回卒業式・吉田茂の言葉 「君達は自衛隊在職中、決して国民から感謝されたり、歓迎されることなく自衛隊を終わるかもしれない。きっと非難とか叱咤ばかりの一生かもしれない。御苦労だと思う。しかし、自衛隊が国民から歓迎されちやほやされる事態とは、外国から攻撃されて国家存亡の時とか、災害派遣の時とか、国民が困窮し国家が混乱に直面している時だけなのだ。言葉を換えれば、君達が日陰者である時のほうが、国民や日本は幸せなのだ。どうか、耐えてもらいたい」 |
2006 | 2010 |
政党政治家。通称仙次郎、号は木堂(ぼくどう)。安政2年4月20日(1855年6月4日)に備中国庭瀬藩(現・岡山県岡山市北区川入)に生まれる。父は郡奉行を務めた郷士で次男。2歳の時に父がコレラで急死したことで生活は厳しくなる。犬養は10代で私塾を開き家計を支えたという。 1876年、21歳で上京し慶應義塾で学ぶ一方、在学中に現・報知新聞の記者として西南戦争に従軍。1880年(25歳)、学資が続かず慶應義塾を中退し、統計院の役人となる。 1882年(27歳)、大隈重信(44歳/1838〜1922)が「立憲改進党」を結党、犬養は同党に入党する。 1885年(30歳)、初代内閣総理大臣に伊藤博文(1841-1909)が44歳で就任。 1886年(31歳)、立憲改進党と自由党の有志が集まり、小異をすてて大同を旨とする反政府運動が提唱され、「地租軽減」「言論・集会の自由」「外交失策の回復(条約改正)」を求める「大同団結運動」が始まり、犬養は積極的に運動に取り組んだ。 1888年(33歳)、政府は大隈重信を外相に入閣させて大同団結運動を分断し、翌年に運動の中心人物、後藤象二郎を逓信相にして運動から離れさせ、自由民権運動諸派の大同団結運動は3年で終わった。 1890年(35歳)、第1回衆議院議員総選挙で当選し、以後、42年間も議員活動を続けた。18回連続当選は尾崎行雄に次ぐ記録。犬養は藩閥政治から政党政治への転換を自分の政治的使命と考え、進歩党、憲政党、立憲国民党、革新倶楽部の結成に参加した。 1894年(39歳)、日清戦争が勃発、翌年に終戦。 1898年(43歳)、3月、大隈重信・犬養毅・尾崎行雄ら代議士99名で「進歩党」を結成。6月、進歩党と板垣退助の自由党が合流して「憲政党」を組織。大隈が第8代内閣総理大臣に任命され、日本史上初の政党内閣・第1次大隈内閣が発足した。旧進歩党系の大隈、旧自由党系の板垣退助(内務大臣)の名前から隈板(わいはん)内閣と呼ばれた。8月、文部大臣・尾崎行雄が帝国教育会茶話会の演説で、財閥中心の腐敗した金権政治を批判、「世人は米国を拝金の本元のように思っているが、米国では金があるために大統領になったものは一人もいない。歴代の大統領は貧乏人の方が多い。日本では共和政治を行う気遣いはないが、仮に共和政治がありという夢を見たとしても、おそらく三井、三菱は大統領の候補者となるであろう。米国ではそんなことはできない」と発言(共和演説事件)。これを皇室批判と曲解した宮内省が「不敬の言」と問題視、ライバルである旧長州勢の伊藤博文、桂太郎らの暗躍もあり明治天皇から許されず大臣辞任に追い込まれ、10月27日、大隈の独断で犬養が後任の文部大臣として初入閣した。この人事に板垣ら旧自由党系の閣僚が反発して辞任、4日後に隈板内閣は崩壊した。憲政党は旧進歩党派を中心とする「憲政本党」、旧自由党派を中心とする「新憲政党」に分裂した。 1900年(45歳)、犬養が対抗することになる保守政党「立憲政友会」(自民党の原型)が結党され初代総裁に伊藤博文が就任する。 1904年(49歳)、日露戦争勃発、翌年終戦。 1907年(52歳)、右翼の巨頭・頭山満と中国視察に出発、さらに1911年にも辛亥革命援助のため中国に渡って孫文らを支援、孫文が日本に亡命すると大陸浪人の革命家・宮崎滔天(とうてん/1871-1922)の熊本の生家にかくまった。滔天は欧州のアジア侵略に抵抗するためアジア文明の中心・中国の独立が必須と考えていた。 1909年(54歳)、伊藤博文が大陸で暗殺される。享年68。 1910年(55歳)、3月、犬養ら憲政本党を中心に又新会、戊申倶楽部3派が「立憲国民党」を結党。8月、政府は韓国の統治権を完全かつ永久に日本に譲渡することを強要した日韓併合条約を締結、朝鮮総督府を置いて支配する。 1911年(56歳)、行財政改革などをめぐり第2次桂内閣や第2次西園寺内閣を追及。 1912年(57歳)、明治天皇崩御。年末に第2次西園寺公望内閣の陸軍大臣・上原勇作が陸軍の二個師団増設を提言するが、西園寺は日露戦争後の財政難から拒否。上原は陸相を辞任し、当時は現役の大将・中将しか陸海軍大臣になれなかったことから、後任の陸相を置けない西園寺内閣は総辞職に追い込まれた。陸軍大将・桂太郎が第3次桂内閣を組閣すると、桂は山縣有朋の意を受けて軍備拡張を目指したことから、反発した人々は藩閥政治よりも明治憲法による立憲主義思想に基づく民主的な議会政治を求め、「閥族(ばつぞく)打破・憲政擁護」をスローガンに護憲運動(第一次)を起こした。立憲国民党の犬養と立憲政友会の尾崎行雄は協力しあって「憲政擁護会」を結成。護憲運動の先頭に立った犬養は、尾崎行雄と共に「憲政の神様」と呼ばれた。 1913年(58歳)、第一次護憲運動によって第3次桂内閣は退陣。大日本帝国憲法下で初めて大衆運動で内閣が倒された(大正政変)。犬養もこの運動に尽力したが、桂太郎は新党「立憲同志会」(後の憲政会)を組織して切り崩し工作を行い、立憲国民党から多数が参加し勢力は半減する。立憲国民党は、立憲政友会や立憲同志会から攻勢を受けながらも、普通選挙法実現を掲げ、犬養は護憲運動を指導し続けた。 1920年(65歳)、シベリア出兵でニコラエフスク港に駐屯していた日本守備隊および居留民約700名が赤軍パルチザン約4000に包囲される。同市は漁業都市で日本領事館も置かれていた。日本側は休戦協定を受諾したが、赤軍の使者が日本軍に町の明け渡しを要求したところ、日本軍はこの使者を白軍(ロシアの反革命軍)に引き渡し、使者は殺害されてしまう。赤軍は日本軍に武装解除を要求したが、先に降伏した白軍将兵が殺害されていることから赤軍を疑い、日本軍から先制攻撃を赤軍本部に行った。奇襲を受けて参謀長を殺害された赤軍は逆上し、ニコラエフスクの日本守備隊及び居留民の捕虜122名全員を虐殺した。この「尼港事件(にこうじけん)」は日本国内に衝撃を与え、「派遣しておいて孤立無援に陥らせた」と原敬(たかし)首相は批判された。ソ連政府は虐殺を行った赤軍パルチザンの責任者を処刑。当然、住民虐殺は恐るべき犯罪であるが、赤軍使者の殺害、休戦協定を破った先制攻撃、何より他国領土に軍隊を派兵=侵略を行っている側という側面も踏まえる必要がある。「尼港事件」は共産ゲリラの恐ろしさを日本国民に印象づけるために十二分に利用された。 1921年(66歳)、犬養より1歳年下の原敬首相が東京駅で鉄道員・中岡艮一に刺殺される。 享年65。中岡は犯行動機を、原が普通選挙を拒否したこと、尼港事件の不適切 な対応などとした。中岡は死刑判決を受けたが恩赦で減刑され1940年に仮出所している。 1922年(67歳)、11月、多数派の立憲政友会に対抗するため、立憲国民党を解党し尾崎行雄らと非政友会系を合同した「革新倶楽部」を46名で結党。普通選挙に基づく政党内閣制、軍部大臣現役武官制廃止、義務教育の延長、師団半減(軍縮)、知事公選、金解禁、ソビエト連邦承認などを掲げた。同年、大隈重信が他界。 1923年(68歳)、8月24日に加藤友三郎首相が急逝、首相不在の中で9月1日に関東大震災が発生。翌日、退役海軍大将の山本権兵衛が第22代内閣総理大臣に任命され第2次山本内閣が発足し、犬養は文相兼逓信大臣に任命された。同年12月27日、皇居・虎ノ門外にて皇太子・摂政宮の裕仁親王(後の昭和天皇)が無政府主義者の難波大助から狙撃される大事件が起き、この暗殺未遂事件の影響で山本内閣は総辞職した。 1924年(69歳)、新たな首相に就任した清浦奎吾(きようら・けいご)は、特権階級からなる貴族院を中心とする清浦内閣を組閣。反発した犬養や尾崎行雄は国民が選んだ政党内閣を求めて抗議した。これまで対立していた革新倶楽部(犬養)、憲政会(加藤高明)、立憲政友会(高橋是清)が団結し、この護憲三派で第二次護憲運動を展開、「普通選挙実現」を掲げて選挙に挑んだ。立憲政友会の中にいた普通選挙反対派は「政友本党」を作って分裂。選挙の結果、護憲三派が勝利し、第一次加藤高明内閣(護憲三派内閣)が発足した。犬養は引き続き逓信相を務めたが、革新倶楽部は立憲政友会と憲政会の間に埋没し議席を43から30に大幅に減らした。 1925年(70歳)、治安維持法の是非をめぐり、革新倶楽部では推進派の犬養と反対派の尾崎行雄・清瀬一郎・大竹貫一らが対立。犬養は小政党に限界を感じ、犬養ら右派18名は立憲政友会に合流、左派9名は他党との連合を模索する。その後犬養は政界から引退し、富士見高原の山荘に引きこもった。 それから4年間、犬養は政治の中心から離れていたが、郷土岡山の支持者は犬養の引退を許さず、勝手に犬養を立候補させ、衆議院選挙で当選させ続けた。 1927年(72歳)、4月、政党政治を理解していない軍人出身(陸軍大将)の田中義一が首相となり、対中国強硬外交を推進。政治に対する軍部の発言力が強化されていく。一方、田中義一ら大政党の立憲政友会に対抗するため、憲政会と政友本党が合同し、浜口雄幸を総裁として「立憲民政党」を結成した。 1928年(73歳)、2月、第1回普通選挙が実施され、与党の立憲政友会と野党の立憲民政党が2議席差で拮抗する。同年6月、日本の関東軍が中華民国で軍閥指導者・張作霖(ちょうさくりん)を爆殺。 1929年(74歳)、立憲政友会総裁・田中義一首相は張作霖爆殺事件をめぐって天皇の不興を買い、内閣を総辞職。2カ月後に狭心症で急死した。政友会では後継総裁をめぐって党分裂の危機が生じ、同党融和派が引退状態の犬養を説得。嫌がる犬養を強引に政友会の総裁に選んだ。7月、立憲民政党総裁・濱口雄幸が総理大臣に任命され濱口内閣が成立。同年、犬養は日本亡命中の蒋介石を庇護。世界恐慌が始まる。 1930年(75歳)、2月、第2回普通選挙で犬養率いる立憲政友会は、軍縮路線を明確にした濱口首相の国民的人気の前に大敗(273議席VS174議席)する。 立憲政友会が少数野党に転落し、犬養は台頭し始めた軍部勢力と結んで濱口内閣が進める「ロンドン海軍軍縮条約」締結に反対、同党の鳩山一郎と共に「政府が軍令部長の意見に反したのは統帥(とうすい)権の侵犯である」と政府を攻撃した。 ※統帥権…軍隊を指揮・命令する権限。帝国憲法下では陸海軍の統帥権は天皇にあり、補佐役として陸軍・参謀総長、海軍・軍令部長がおかれ、直接天皇に上奏する権限を持っていた。 犬養は専門家=海軍軍令部の意見として「国防危険なり」と主張。財部彪海軍大臣を辞任させて倒閣しようと考える政友会と、海軍軍縮会議からの脱退を目論んでいた軍令部長(加藤寛治大将)や軍令部次長(末次信正)ら軍令部首脳は利害が一致した。この統帥権の政治利用は犬養の黒歴史だ。政権奪取という目の前の目的のために、兵力量の決定を政治家の方から軍人の「聖域扱い」にしたことは、政党政治家の自殺行為だった。また、統帥権が政治的手段になる事を軍部に教えた形となり、日本の民主主義が衰退する要因となった。 同年11月、濱口首相は東京駅で22歳の右翼青年・佐郷屋(さごうや)留雄(1908-1972)に至近距離から銃撃された。濱口首相は腸の30%を摘出する大手術を受けて一命を取り留めたが、感染症を発症する。 1931年(76歳)、3月、陸軍のクーデタ未遂事件「三月事件」が起きる。国家改造を目的に、政党内閣を倒して宇垣一成陸相を首班とする軍部内閣を樹立しようとしていた。参謀本部の橋本欣五郎中佐ら桜会の陸軍将校、宇垣一成陸相、小磯国昭軍務局長、建川美次参謀本部第2部長ら軍首脳部、民間右翼の大川周明、社会民衆党の亀井貫一郎らがクーデタを計画したが、肝心の宇垣の変心で未遂に終わった。 4月、健康問題で濱口首相が辞任。濱口は8月26日に放線菌症のため62歳で他界した。その後、立憲民政党総裁の若槻禮次郎が総理大臣に任命され、第2次若槻内閣が成立する。 同年9月18日、中華民国奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖で、関東軍が南満州鉄道の線路を爆破(柳条湖事件)し満州事変が勃発。内閣は事態不拡大の方針を決定したが、関東軍は自作自演のテロをきっかけに、わずか5か月で満州全土を占領した。若槻首相は軍部の台頭を抑えるために政友会との連立を構想するが、閣僚の意見は割れ、閣内不統一に陥って12月に総辞職した。 この裏で10月に陸軍のクーデタ未遂事件「十月事件」が起きている。歩兵、機関銃中隊を動員して若槻首相、幣原外相らを殺害し、荒木貞夫中将を首班とする軍事政権の樹立を目論んだもの。三月事件の橋本欣五郎ら桜会系の将校と大川周明、西田税(みつぎ)ら民間右翼が計画し、満州事変を好機に政府を倒し、軍部独裁政治による国家改造を企てた。この計画は事前に発覚し、未遂におわる。急進的な青年将校たちは、全権大使としてロンドン海軍軍縮条約を締結した若槻を暗殺対象にしていたが、若槻が短期間で総理を辞任してしまったことから、青年将校の怒りは日本政府そのものに向かっていく。 犬養は満州事変を中華民国との話し合いで解決するべきと考えており、これを評価した元老・西園寺公望が昭和天皇に次期首相として野党・政友会総裁の犬養を推薦。かくして76歳という高齢で犬養は首相となった。蔵相に高橋是清を起用し、積極財政への転換で日本経済は世界恐慌から最速で脱出した。 軍部は満州国の承認を犬養に迫ったが、これを拒否して中国国民党との独自パイプを使った外交交渉に挑んだが、中国側からの電報は対中強硬派の帝国主義者、内閣書記官長・森恪(29歳/1882-1932)に握り潰され犬養のもとに届かず、交渉は頓挫した。 犬養は一部の急進的青年将校に憂慮し、天皇に上奏して問題将校ら約30人を免官させようと考え、これを森に喋ったため、森から連絡を受けた軍は統帥権を侵害するものと憤った。犬養は前年に自身が政治利用した統帥権問題が、今度は自分に襲いかかってきた。 犬養は軍部と折衝しながら満州事変の収拾をはかったが失敗し、軍事費急増と軍部の政治的発言力を拡大させる結果をまねく。 1932年、2月、右翼団体・血盟団が政財界要人を暗殺した「血盟団事件」が起きる。支配階級の腐敗を理由に“昭和維新”となる国家改造を目指し、団員が「一人一殺」を目標に政財界要人22人の暗殺をはかった。最初に前蔵相の井上準之助が小沼正(しょう)に射殺され、続いて三井合名理事長の団琢磨が菱沼五郎に射殺された。小沼、菱沼、首謀者の日蓮宗僧侶・井上日召(にっしょう)ら血盟団関係者14名が逮捕され、前記3人は無期懲役となった。 1932年5月15日、海軍急進派の青年将校たちを中心に、陸軍士官学校候補生、3カ月前の「血盟団事件」で逮捕を免れた血盟団員、井上日召の思想に共鳴する民間右翼、農村の貧困に義憤した農本主義者で愛郷(あいきょう)塾塾長の橘(たちばな)孝三郎(1893-1974)らがクーデタを起こす。クーデタ・グループの狙いは、首相暗殺と変電所襲撃による首都暗黒化で戒厳令をしかせ、軍部が直接政治を動かす体制をつくる国家改造であり、事件の計画立案・現場指揮は海軍中尉・古賀清志が行った。古賀は牧野伸顕邸や警視庁を襲撃した。 日曜日の夕刻17時半ごろに犬養が総理公邸でくつろいでいると、突如海軍青年将校と陸軍士官候補生の一団がピストルを片手に乱入し、警備の警察官が銃撃され重傷を負う(後に死亡)。最初に表門組の海軍中尉・三上卓(27歳/1905-1971、野村秋介の師)ら5人が、食堂にいた犬養を発見、三上は即座にピストルの引き金を引いたが不発だった。犬養は両手を上げ、「話せば分かる」と将校らを応接室に案内し、応接間では「靴ぐらい脱いだらどうだ」と促し煙草を勧めた。三上が「靴の心配は後でもいいではないか。何のために来たかわかるだろう。何か言い残すことはないか」と尋ねると、そこへ裏門組の海軍中尉・山岸宏以下4人が駆けつけ、山岸が「問答無用、撃て!」と叫び、応接間に飛び込んできた海軍予備少尉・黒岩勇が犬養の腹部を撃った。続いて三上も頭部を銃撃し、クーデタ・グループはすぐに去ったが、官邸を立ち去る際に巡査2名を殺傷している。 女中のテルが駆けつけると、犬養は血を流しながら「いま撃った男を連れてこい。よく話して聞かすから」と強い口調で指示した。銃撃から4時間半が断った22時ごろ、大量の吐血をしたが「胃にたまった血が出たのだよ。心配するな」と周囲の者を逆に励ました。見舞いに来た家人には「九発撃って三発しか当たらぬとは、軍はどういう訓練をしているのか」と嘆いた。その後、次第に衰弱し、23時26分に他界する。享年78。 同日、クーデタ・グループは4つに別れて、警視庁・日本銀行・内大臣官邸・立憲政友会本部・三菱銀行に手榴弾を投げつけ、「時期尚早」と決起に反対した陸軍青年将校の理論的指導者・西田税(みつぎ)を銃撃し、重傷をおわせた。愛郷塾生ら農民決死隊7名は東京の変電所6カ所を襲ったが、設備の一部を破壊しただけで停電はなかった。事件後、資金と拳銃を提供した大川周明が検挙され、橘孝三郎はハルビンの憲兵隊に自首して逮捕され、他にも支援者の本間憲一郎、頭山秀三が検挙された。 ※喜劇王チャーリー・チャップリンは偶然事件の前日に初来日しており、青年将校は「日本に退廃文化を流した元凶」としてチャップリンもターゲットに入れていた。チャップリンは犬養首相との面会予定をキャンセルして息子の犬養健と国技館で相撲を観戦していたため命拾いした。 クーデタは失敗したが、軍部の発言権は増し、5月26日、犬養毅内閣の後継として海軍大将斎藤実を首班とする挙国一致内閣を成立させ、8年間続いた政党政治を終わらせた。犬養内閣は戦前における最後の政党内閣となった。終戦までの文官の総理は広田弘毅、近衛文麿と平沼騏一郎のみ。 この事件をきっかけに急進的な国家改造運動への期待が国民に生まれ、検挙者に対する全国的な減刑嘆願運動がひろがり、100万人もの署名が集まった。民間人である農本主義者の橘孝三郎は求刑どおり無期懲役になったが、計画を立案した海軍中尉の古賀清志や、犬養の頭を撃った三上卓は禁固15年(求刑は反乱罪の死刑)だった。しかも古賀は6年後(1938年)に特赦で出獄し、中国青島の海軍特務部新民会などに勤務し89歳まで長寿している。三上も6年後に仮釈放され、近衛文麿前首相のブレーンとなり、66歳まで生きている。現職総理を殺害したテロリストにもかかわらず、死刑が適用されなかったばかりか、最終的に五・一五事件の犯人全員が数年後に恩赦で釈放されており、彼らは満州や中国北部で出世していった。民間の参加者に比べて軍人の刑の軽さが際立ち、この甘い判決が4年後にさらに大掛かりな「二・二六事件」を引き起こした。 事件4日後の5月19日、犬養の葬儀が官邸の大ホールでとり行われた。チャップリンから「憂国の大宰相・犬養毅閣下の永眠を謹んで哀悼す」と弔電を送られ、参列者を驚かせた。 妻・千代との間に生まれた長女・操の長女・恒子が生んだ女性が、ひ孫である元国連難民高等弁務官の緒方貞子。 妾・斎藤仙との間に生まれた犬養健は法務大臣を務め、犬養健の愛人の子がエッセイストの安藤和津(孫)。安藤和津と俳優・奥田瑛二の間に生まれたのが、女優の安藤サクラ(ひ孫)。安藤サクラはNHK連続テレビ小説『まんぷく』の主人公を演じている。 藩閥政治打倒の先頭に立ち、大正デモクラシー運動を牽引した犬養。昭和に入っても、最後まで議会政治擁護の主張を続け、軍部過激派の怒りをかった。犬養が「話せばわかる」と制止したのに対して、軍人が「問答無用、撃て」の一言で引き金がひかれたことは、デモクラシーとファシズムを象徴する言葉となった。 陸軍統制派の中心人物・永田鉄山軍務局長は、銃口を向けられながらも“話せばわかる”と説いた犬養の態度を「古今の名将にもまさる床(ゆか)しさを感じる」と讃え、犬養を射殺した犯人達を批判した。五・一五事件の3年後(1935年)、永田は陸軍内部の統制派と皇道派の抗争の中で相沢三郎陸軍中佐に殺害された。 翌年「二・二六事件」が起きる。 犬養暗殺の5年後、1937年に日中戦争の発端となった「盧溝橋事件」が起き、他界9年後に真珠湾攻撃を敢行、日本は国土が焦土となるまで戦争に突き進んでいく。 【墓巡礼】 墓所は港区の青山霊園と故郷の岡山にある。戒名は「台光院殿沈毅木堂大居士」。青山霊園には浜口雄幸、加藤友三郎、加藤高明など首相経験者の墓が集まる区画があり、犬養は「1種ロ8号1/14側」に眠る。数年前まで吉田茂の墓石もあった。政治家の墓は巨石に位階や爵位が大きく刻まれているものが多いが、犬養の墓は一般人と同等の大きさであり、「犬養毅之墓」としか彫られていない。同じ墓域に次男・健が眠っており、墓誌に「犬養健君ここに眠る〜白樺同人を代表して 武者小路実篤」と刻まれている。犬養の斜め向かいには 生前に親交のあった右翼のドン、頭山満の墓があり、側には頭山の三男、頭山秀三の墓が建つ。この秀三は「五・一五事件」の際に青年将校たちに武器を調達して検挙されている。被害者である犬養と、加害者である頭山秀三がほぼ向き合う状態で建てられているのは運命的なものを感じる。 出身地である故郷・岡山市北区川入には先祖代々の墓地があり、こちらにも分骨されている。近くには生家が保存公開され(重要文化財指定)、隣接地に暗殺時に座っていた血染めの座布団など遺品を展示した犬養木堂記念館が建つ。命日である毎年5月15日は墓前で「木堂祭」が催される。 ※明治政界の大御所、山縣有朋いわく「朝野の政治家の中で、自分の許を訪れないのは頭山満と犬養毅だけ」。 ※書や漢詩にも優れた。 ※犬養は毒舌家であり、親友・古島一雄は犬養夫人に「ご主人の出掛けに口を慎めと必ず言ってくれ」と頼んだという。 ※老いて首相となった犬養は、白髪を黒く染めて戦場に向かった源平の老兵・斎藤実盛を引き合いに「昭和の実盛」とたとえられた。 |
JR水戸駅前の“チーム黄門”。 徳川光圀は水戸藩主だ |
おしゃべりパークの黄門様は ボタンを押すと喋り出す! |
一般人は水戸徳川家の墓所に入れず、 門の外から黄門様に手を合わせた |
門の上に手を伸ばして内部を撮影。 この山道の左側に眠ってられるとの事 |
水戸駅前の「黄門様誕生の地」 |
※水戸光圀の墓〜『水戸徳川家墓所』(発行・常陸太田市教育委員会)より。まったく一般再公開のメドがついていない水戸徳川家墓所 ですが、教育委員会の遺跡調査報告書に光圀公の墓所の写真が載っていました!墓石の土台は亀趺(きふ)のようですね! |
JTB水戸支店営業2課が『水戸徳川家墓所』の公開事業を代行!(2020追記) ・公開は春(3-1-5/31)と秋(9/20-12/10) ・10時から15時の間で90分間 ・料金は団体あたり11万円!(10万+消費税) ・見学は団体(最大20名)のみ ・当日は徳川ミュージアムから解説員が1名、JTB社員が1名、警備員数名が随行 ・45日前までに予約義務 ・健脚の方を対象、杖歩きは危険 ・カメラ撮影は可能な場所、不可能な場所あり ・2018年からJTBによる代行開始 |
助さんの墓(格さんが墓碑文を書いてる) | 地酒“助さん格さん” | そしてこちらは、格さんの墓 |
町中から一番遠い場所で電動レンタ サイクルが故障して地獄を見る |
後部サドルの荷物ロープを 巻き込みチェーンが壊れた |
地元のガラス屋さんが自転車をトラックに積んでくれ、 町中に戻れた。あうう、有難うございました!(T_T) |
ちなみに史実によると旅をしていたのは助さんだけ。光圀は人生の大半を江戸小石川にある水戸藩邸で過ごした。そして『大日本史』編纂のため調査員を全国に派遣し、各地の特産物の情報を集めた。助さんは光圀の命を受けて福島から鹿児島まで巡り、地域の歴史を調査しつつ、珍味を江戸へ送り届けた。そして、寄せられた情報を整理し資料としてまとめたのが格さん。格さんが作成したこの“データベース”を参考に、光圀は各地から“日本の為なり”と特産物を取り寄せた(有田のみかん、鹿児島の人参、北海道の昆布など計135品!)。光圀は効果的な栽培方法や養殖の方法を全国に幅広く普及させることで、人々の生活を豊かにしようと考えたんだ。 |
京都御所・蛤御門前の水戸藩邸跡。光圀は『大日本史』編集の資料を集めるため京都にも 大勢を派遣し、この藩邸が拠点となった。資料の筆写もここで行なわれた。 |
幕末の志士の中では一番イケメンじゃないだろうか。現代の俳優としても十分いける! |
『長州屋敷跡』の石碑。 京都ホテルオークラ前にて |
京都ホテルオークラ(京都市中京区)の西側の桂小五郎像。シビれるほどにカッコイイ! 木戸公のファンならぜひ訪れよう!マジで涙がチョチョ切れる(2010) |
京都市中京区の石碑「桂小五郎幾松寓居趾」。料亭「幾松」の入口右手前に建つ(2010) |
2007 夕陽の中を初巡礼 | 2010 3年後に再訪すると“お賽銭入れ”が建っていた(汗) |
龍馬や高杉(分骨)など維新の立役者たちと同じ墓地に眠る | 木戸公の墓は霊山墓地の最上段。まさに一等地! |
左隣には妻で元芸妓の幾松の墓が並ぶ 木戸公が28歳の時に18歳の幾松と恋に落ちた |
手前が幾松、奥が木戸公。彼女は従四位を賜り、 勤王の志士たちも女傑として一目置いていた(2010) |
こちらは山口県萩市にある木戸の生家 | 誕生の間 |
木戸公の墓の手前には「禁門の変」(蛤御門の変)で散っていった長州藩士の墓がズラッと並んでいる |
「文久三年八月十八日の政変」の際に、長州藩の宿舎となった京都府長岡京市の光明寺(2010) |
京都市上京区・相国寺の「長藩士戦亡霊塔」。禁門の変で散った長州藩士約200名のうち、20数名の首が葬られている(2010) |
幕末期の名は桂小五郎。容姿端麗で優しく、生涯一度も人を斬ったことがなかった。大久保利通、西郷隆盛と共に「維新の三傑」と呼ばれる。 長門国(山口県萩市)出身。実父は毛利の血を引く藩医・和田昌景。7歳のときに長州藩士・桂九郎兵衛の養子となる。1846年(13歳)、柳生新陰流の道場に入門。1849年(16歳)、吉田松陰の松下村塾に入門して「事をなすの才あり」と高く評価された。 実父の「もとが武士でない以上、人一倍武士になるよう粉骨精進せねばならぬ」という言葉を守り、剣術修行のため19歳で江戸へ出る。当時の江戸には斎藤弥九郎の神道無念流・練兵館(力の斎藤)、千葉周作の北辰一刀流・玄武館(技の千葉)、桃井(もののい)春蔵の鏡新明智流・士学館(位の桃井)という三大道場があり、木戸は練兵館に入門した。すぐに頭角を現し1年で免許皆伝を得て塾頭となった。木戸は剣豪として有名になり、後年、敵対する近藤勇ですら「恐ろしい以上、手も足も出なかったのが桂小五郎だ」と評した。 1854年(21歳)、再来航したペリーの黒船艦隊を目撃する。 1858年(25歳)に帰藩し、黒船艦隊が脳裏に焼き付いていた木戸は、尊王攘夷運動に身を投じていく。とはいえ、過激な武力闘争を支持せず、開国派とも交流しながら現実路線を主張した。1863年(30歳)、“8月18日の政変”で長州は敗北し、藩士は京都から追われるが、自身は都に留まって藩の勢力回復に努めた。翌年6月の池田屋事件ではすんでのところで難を逃れた(「逃げの小五郎」と揶揄された)。翌月、木戸の反対にもかかわらず藩は出兵し、「禁門の変」で完敗。 その後、木戸は乞食の姿に変装して二条大橋周辺に潜み、幕府の動向を探っていた(握り飯を祇園の芸妓“幾松”=後の松子夫人が持ってきてくれた。松子は新選組に連行されても近藤に居場所を言わなかった)。 いよいよ探索が厳しくなると、木戸は同年8月から8カ月間、廣江孝助の名前で荒物屋や寺男に身分を変えながら出石(いずし、兵庫県北東部豊岡市)に潜伏する。高杉晋作の手引きで長州に戻った木戸は、藩政の中心人物になっていく。そして1866年(33歳)、木戸は龍馬を介して薩摩藩と連帯をすすめ薩長同盟を締結。翌年、大政奉還が実現し幕府は滅びた。 維新後は名前を桂小五郎から木戸姓にあらため、新政府で手腕を振るい、国内の近代化を進めていった。だが1874年(41歳)、台湾出兵を決定した政府に対して「今は内政に集中すべき」「征韓論を否定する一方で、同じ海外の台湾に出兵するのは矛盾している」と強く抗議し参議を辞任して下野した。高い人望から政権へ復帰するよう説得を受けた彼は、三権分立や二院制議会確立など立憲制への移行を条件に復職。だが、大久保の強権を嫌って翌年再び辞任した。木戸は以前から原因不明の脳発作に苦しんでいたが、政府内の権力闘争に心を痛めて病気が悪化。そこへもって1877年に西南戦争が勃発する。かつての盟友・西郷との戦いに苦悩し、木戸は京都で倒れる。見舞いに来た大久保の手を握り、もうろうとしながら「西郷もいいかげんにしないか」とつぶやき他界した。享年43歳。松子は出家し、毎日墓前を訪れて墓を護った。9年後に44歳で他界し、葬儀には1000余人が参列した。京都の霊山墓地の最上部に2人の墓が仲良く並んでいる。 ※明治初年、木戸は明治天皇の御前で面を正して「今後の日本はこれまでの日本と同じではありません。既に外国には君主を廃して共和政治を行っている国もあります。よくよく御注意遊ばされますよう」と凛として言上し、陛下はゾッとして御容をあらため、その場にいた岩倉以下の官僚たちは皆色を失ったという。 ※「木戸について最も感心なことは、長州出身なのに拘らず、薩長の専横跋扈を憤ってこれを抑えられた一事である。で、平常言われるには、もし二藩の人をして跋扈させるならば、幕府の執政と異なったことはない。既に300藩を廃して四民平等をなした以上は、教育を進めて人文を開き、もって立憲国にしなければならないという一本槍であった。これは実に条理整然として、大義名分の立った感服すべき議論である」(大隈重信) ●木戸松子…若狭小浜藩士の娘。養女に出され、1856年に13歳で舞妓となり、後に“幾松”を襲名し京都祇園の人気芸妓(げいぎ)となる。美しいだけでなく、利発で笛と踊りも上手な松子に木戸は惚れ込み、松子もまた危険を顧みずに木戸の尊攘運動をよく助けた。維新の陰の功労者。 |
自害峰の三本杉。ここに自害した 大友皇子の頭が葬られたという |
日本三関のひとつ「不破(ふわ)の関」。 673年に天武天皇の命で設置された |
黒血川。壬申の乱の激戦でその名 の通り川が血で黒く染まったという |
関ヶ原といえば家康が勝利した1600年の合戦が有名だけど、それより約千年前にも、もうひとつの天下分け目の戦い『壬申の乱』の決戦地となった。大友皇子は天智天皇の息子。皇位継承争いの壬申の乱で、父の弟・大海人皇子(おおあまのみこ=天武天皇)に攻められ自害した。“弘文”の名は明治時代におくられたもの。大友皇子の頭は首実検の後、東軍の武将・村国男依(むらくにのおより)の手で三本杉の根元に葬られたと伝承されている。付近には吉野軍と近江軍が衝突した黒血川のほか、愛発関(あらちのせき、福井県敦賀市)、鈴鹿関(三重県関町)と共に日本三関に数えられる「不破の関」がある。 ※ちなみに「関西」「関東」という名称は鎌倉時代の『吾妻鏡』に登場し、三関より東が関東と呼ばれた。 |
会津若松市内なのにびっくりするほど山奥に眠っている | 墓誌は巨大な亀の背中に建つ |
上杉家廟所。中央の墓は謙信 | 鷹山の墓は左から3番目(2007) | 鷹山は治憲(はるのり)の名で眠る(2009) |
落ち葉の中の鷹山 | あまりに有名な座右の銘 | 上杉神社の銅像 |
鷹山の側室“お豊の方”の墓。養蚕を奨励し、内助の功で知られた(林泉寺) |
2008年は紀元2668年 | 橿原神宮は日本最初の皇居だ | 紀元祭の告知 |
御陵入口。画面奥の木立の間を抜けていくと墓所がある | 墓前には美しい石庭が広がる。宮内庁の管理下にあり、これ以上近くへは行けない |
明治天皇陵(京都市伏見区 2009) | 大正天皇陵(東京都八王子市 2009) | 昭和天皇陵(東京都八王子市 2009) |
平成21年11月14日〜23日の9日間限定の特別展 | 有名な二重橋 | 玉音放送の映像に登場する皇居前広場 |
“「平成の大礼」即位礼正殿の儀”を上映中 |
モニターは画面中央の奥 |
百人番所では「即位礼正殿の儀」「大嘗祭の儀」 「大饗の儀」などで使用された12装束を展示 |
一番人気の屋外展示がコチラの 旧御料車と儀装馬車! |
旧御料車。左のロールス・ロイスには「即位礼」後の 「祝賀御列の儀」で両陛下が乗車。右のニッサン プリンス・ロイヤルは「即位礼」で両陛下が使用! |
重厚かつ優雅なロールスロイス。 ナンバープレートが菊の紋章! |
儀装馬車。左の“2号”は「即位礼」で天皇陛下が 乗車、右の“3号”は皇后陛下が乗車された |
儀装馬車2号は1959年(昭和34年)の 両陛下御成婚の際にも使用された |
「即位礼正殿の儀」で使用された巨大な 萬歳旛(ばんざいばん)など10本の旛を展示 |
本丸休憩所では「御即位20年記念雅楽器特別展」 | 雅楽器だけが一般公開されるのは初めて | 二の丸跡の雑木林が紅葉で良い感じに |
蘇我馬子&聖徳太子が日本に仏教を導入しようとしたことに抵抗し、日本古来の神々を奉じ神道の重要性を訴えた物部氏。 それゆえか、墓の周囲は全国の有名神社の名が刻まれた石柱がギッシリ。仏教に対抗する「チーム神道」のスクラム状態だった! |
そこにも、ここにも、あそこにも!至るところに、神社!神社!神社! |
守屋が矢で射貫かれて死んだ場所は『弓代塚』と呼ばれて いる。龍華中学の南側の高圧電線の下だ。道路から塚は 見えないので、目印となる道路脇の石柱を見逃さぬよう! |
廃材置き場?をすり抜けると、フェンスに囲まれた狭い 空き地があり、そこには確かに『弓代』と刻まれた石柱が 建っていた。こんな場所に史蹟があるとは! |
大聖勝軍寺の門前にある守屋池(守屋首洗池)。 討ち取られた守屋の首はこの池で洗われた |
守屋を射貫いた鏑矢(かぶ らや)はここに埋められた |
史蹟『鏑矢塚』の石柱は発見が困難だ。 飲み屋の看板に隠れて可哀想なことに… |
側にはゴミ袋が置いてあるし…。ノーッ! |
太子は戦場にこの仏塔を建立し敵将・守屋の冥福を祈った | 奥に見える黒い扉の中に、守屋と太子の像があるという |
歴史は勝者によって記録されてきた。何が真実かは分からない。“寺を焼き仏像を海に投げ捨てた”排仏派の物部氏や、大化の改新で暗殺された蘇我入鹿は、ドラマでも悪として描かれることが多い。しかし物部氏にも人徳があったからこそ大軍を組織できたのだろう。仏像ファンの僕としては仏像の首を落とした物部氏に憤りを感じるけど、蘇我氏が当時の“新興宗教”である仏教を政界に持ち込むことに対し、「国神に背いて他神を敬うなど、聞いたことがない」と警戒心(恐怖)を抱いた心境も理解できる。流行っていた疫病を“仏教導入で怒った神々の神罰”と感じたのも、当時の科学的知識では無理もない。守屋は弓矢で狙い撃ちされて死んだ。それはつまり、矢が届く場所に身をさらして戦っていたからであり、権力者によくある“自分は安全な場所にいて兵に戦わせる”連中ではなかったということ。 聖徳太子の基本精神は「和をもって貴しと為す」(和の心を大切にせよ)。太子軍VS守屋軍の激戦後、勝利した太子は決戦の地となった場所に太子堂を創建し、仏塔の中に物部氏と自身の像を安置、敵味方の区別無く死んだ兵を丁重に弔ったという。 |
若き日の伊藤 | 伊藤家墓所の霊廟(2008)※外から墓参 | 敷地にある伊藤像 |
毎年11月初頭に墓所が公開される(2022) | 「従一位大勲位公爵伊藤博文墓」 |
山口県萩の生家 | 出世後の大邸宅(生家に隣接) |
長州藩の農民の子として生まれ、父が武家の養子となり藩士となる。吉田松陰の松下村塾で学び、1863年に22歳で渡英。世界を見てきた彼は高杉晋作らと討幕運動を推進。維新後は明治新政府の参与となる。1871年(30歳)、岩倉使節団に加わり欧米を視察。大久保暗殺後は政府の中枢で活躍し、1885年(44歳)に内閣制度を創設し初代総理大臣になった。伊藤は武力政治を嫌い、日露戦争前は日露協商論を主張してロシアとの不戦を主張。1905年(64歳)、韓国統監府の初代統監に就任。日韓併合の声が高まると、伊藤は“そこまですることはない”“実質的な統治で十分”と、当初はこれに反対していた。日本国内の武断派やマスコミは「高圧手段で対処すべき」と勇ましい世論に染まっていたが、伊藤は孤立しながらも穏和方針を固持して動かなかった。しかし、結果的に植民地政府のトップとして韓国国民から恨みを買い、ハルピン駅で韓国の独立運動家・安重根に暗殺される。朝鮮人が犯人と知らされた伊藤は「俺を撃ったりして、馬鹿な奴だ」とつぶやいたという。
※「皇太子に生まれるのは、全く不運なことだ。生まれるが早いか、至るところで礼式の鎖にしばられ、大きくなれば、側近者の吹く笛に踊らされねばならない」(伊藤博文)
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36歳の湛山(1920) | 首相就任時の湛山 | 善性寺って、良い名前の寺だよねぇ |
在任わずか65日というのが残念過ぎる。しかも次が岸信介… | これほど先見性のある総理がまた現れるのだろうか | 「謙徳院殿慈光湛山日省大居士」 |
近年、気鋭の経済学者トマ・ピケティ氏の著作がベストセラーになっている。氏は各国の収支データ300年分を解析し、1%の超富裕層の生活を他の99%が支えている構造を明らかにすると共に、格差拡大を抑えるためのグローバル富裕税の導入を提唱している。経済を分析して社会を破滅から救おうとした人物は日本にもいた。経済ジャーナリストにして第55代内閣総理大臣となった石橋湛山だ。
湛山は1884年生まれ、東京出身。軍籍時は陸軍少尉。父は身延山久遠寺・第81世法主(ほっす)杉田日布。石橋は母方の姓。最初の名は省三で、中学卒業時に湛山(たんざん)へ改名した。1907年(23歳)、早稲田大学文学部を首席で卒業。東京毎日新聞社に一年勤めた後、1909年(25歳)から志願兵として1年間入隊。 1911年(27歳)、急進的自由主義を主張する東洋経済新報社に入社。同年、結婚。29歳で陸軍歩兵少尉となる。翌1914年(30歳)に第一次世界大戦が欧州で勃発、日本は日英同盟に基づきドイツへ宣戦布告し、ドイツが権益を持つ中華民国山東省の租借地・青島(チンタオ)を攻略。続けて南洋の独領を奪取した。 1915年(31歳)、湛山は日本による第一次大戦参戦と(中華民国への)対支21ケ条要求を『東洋経済』誌面で鋭く批判する。 「英国がドイツに宣戦布告すると、日本人は一斉に“ドイツが青島(チンタオ)を持つのは許せない、南洋の独領を奪取すべし”とした。そして開戦し、幾千の人命を殺傷した上に、新たな領土維持のため陸海軍のさらなる拡張が必要となった。軍拡は諸外国の大きな反感を招くだけだ。対支21ケ条要求は青島を奪ったことから出た失策。人々は支那に要求が通ることを大成功と祝杯を挙げるだろうが、諸国は連合して日本の獲物を奪い返しに行くのではないか。その場合は、今回得た物の喪失だけでは到底済まず、一切の獲物を元も子もなく取り上げられるであろう」。※30年後の太平洋戦争敗戦時にこの言葉通りになった。 ● 石橋湛山『湛山回想』より 《第一次世界戦争の際、わが国には欧州出兵論があって、その請願運動を起した人もあった。(中略)しかし私は、この欧州出兵運動について、面白い事実を一つ発見した。ある時、2、30人の者が集まってこの問題を論じた際、多数は出兵論であった。そこで私は最後に、一体諸君の中に欧州出兵の場合、自ら出征しなければならない人は誰かと聞いてみた。しかるに、予期したことではあるが、その中には私の外、軍籍にある者は一人もなかった。すなわち彼らはいかなる戦争が起っても(当時の戦況では)自分は安全の者ばかりであって、いわば“他人のごぼうで御斎(おとき)をする”主張をしているのに外ならなかった。私はこのことを指摘して、とにかく私だけが諸君の犠牲になって、戦争に行って死ぬのはいやだといったら、彼らは一言もなかった。》※他人のごぼうで御斎(おとき)をする→御斎は法要後の食事。他人の物を利用して自分の目的を果たすこと。 一次大戦後、日本は混乱に乗じて大陸(満州)に勢力を広げようとした。台湾、朝鮮、樺太に植民地を持ち、世論も「これで一等国の仲間入りだ」と熱狂した。だが湛山は違った。1919年に朝鮮半島で起きた反日運動『三・一独立運動』では、朝鮮側の苦しみに理解を示し、1921年(37歳)のワシントン海軍軍縮会議に際しては、『東洋経済新報』に重大な2つの声明を発表した。それは「全ての植民地を一切捨てる覚悟をせよ」という命がけの叫びだった。 ●『一切を棄つるの覚悟』(『東洋経済新報』1921年7月23日号) (要約)《もし日本が満洲を棄て、中国東部を棄て、また、朝鮮や台湾に自由を許せばどうなるか。世界の弱小国は一斉に我が国を信頼する。そしてインド、エジプト、ペルシャ、その他の列強植民地は、「日本が台湾・朝鮮に自由を許したように、我にもまた自由を許せ」と騒ぎ立てるだろう。(略)今この覚悟をすれば、我が国は救われる。しかも、これこそがその唯一の道である。この道は同時に、国際的地位を従来の守勢から攻勢に転じさせる道である。》 ●『大日本主義の幻想』(『東洋経済新報』1921年7月30日号、8月6日号、13日号) 【植民地を放棄する理由】※原文は長文ゆえ以下に要約。言葉も現代語に置き換えている。 《経済・貿易上の観点から…海外領土の朝鮮・台湾・関東州(遼東半島)は、すべて合わせても、昨年わずかに9億余円の商売をしたに過ぎない。一方、英米との貿易額は倍の約18億円(米国14億3800万円、英国3億3000万円)であり、日本が英米と衝突すればこの18億が失われる。英領インドとも5億8700万円の商売をした。経済を重視するならば、三植民地(朝鮮・台湾・関東州)より後者三国(米英印)の方がよほど重要な存在だ。しかも、中国やシベリアにたいする干渉政策は、中国やロシア国民の日本への反感をいっそう高め、経済活動の障害となっている。》 《軍事上の観点から…日本の政治家も軍人も新聞人も、異口同音に、「わが軍備は他国を侵略する目的ではない」という。では他国から侵略される恐れはあるのか。仮想敵国は以前はロシアだといい、今はアメリカだという。では問うが、いったいアメリカが侵略してきて日本列島のどこを奪おうというのか。もしわが国が、満洲・台湾・朝鮮・樺太等も入用でないという態度に出るならば、戦争は絶対に起こらない。戦争は海外領土を保持しようとして起きる。台湾・支那・朝鮮・シベリア・樺太は、国防のための垣根ではなく、最も危険な燃え草である。その垣根を棄てるならば国防も用はない。仮に海外領土を取られたとして、(貿易額が小さく)経済的に執着する必要のない土地ならば、いかなる国がこれを取ろうともよいではないか。》 《昔、英国等が海外に領土を拡張した頃は、現地の住民にまだ独立心が目覚めていなかったから、比較的容易に土地を支配することが出来た。だが、これからそうは行かない。世界の交通および通信機関が発達すると共に、いかなる僻地にも文明の空気が侵入し、その住民に主張すべき権利を教える。今後は、新たに異民族を併合し支配することは不可能になるだけでなく、過去に手にした植民地を独立させるほかはなくなるだろう。アイルランドが既にそうだし、インドもいつまで英国の支配を許しているか。朝鮮の独立運動、台湾の議会開設運動、支那およびシベリアの排日が未来を示唆している。私は断言する、これらの運動は決して警察や軍隊の干渉圧迫で抑えつけられるものではない。 今日彼らの独立を進んで許すか、あるいは明日彼らによってこれをもぎ取られるかという違いに過ぎない。どうせ棄てねばならぬ運命なら、早くこれを棄てるが賢明である。経済的利益のためには、大日本主義は失敗だった。将来に向かっても望みがない。これに執着するために、得られるべき偉大なる地位と利益とを棄て、あるいは一層大なる犠牲を払うなど、断じて国民の取るべき行動ではない。》 《我が国は各国列強に領土を解放させる策を取るのが最も賢明。その為にまず我が国から解放政策を取って見せねばならぬ。朝鮮・台湾に自治を許し、独立を許せば、英国はインドや、エジプトを維持できようか、米国はフィリピンを今日のままにして置けようか。日本が諸民族に自由を与うる急先鋒となるのだ。朝鮮・台湾・樺太・満州のように、目立つ特産品もない土地を取ることで、各国列強に広大で豊穣な領土を支配する口実を与えるのは割に合わない。我が国が列強に海外領土を解放させるには、武力で解放を強制するか、あるいは道徳をもって解放に追い込むしかない。だが、武力で強制するのは一国では不可能。しからば残るはただ道徳の力である。道徳は口で説いただけでは駄目だ。またお前がこうするから俺もこうするという弱きことでは駄目だ。他人に構わず、自分がまず実行する、ここに初めて道徳の威力は現れる。ヴェルサイユ会議において、日本が提案した人種平等待遇問題が簡単に葬り去られた理由はここにある。我が国は、自ら実行していないことを主張し、他国に実行を迫ったのである。だから当の米国・英国が反対しただけでない、支那からも、どこからも、真面目な支援を得られかった。 資本は牡丹餅(ぼたもち)で、土地は重箱だ。入れる牡丹餅なくて、重箱だけを集めるのは愚であろう。牡丹餅さえ沢山出来れば、重箱は、隣家から、喜んで貸してくれよう。その資本を豊富にする道は、ただ平和主義に根ざした、国民の全力を学問技術の研究と産業の進歩に注ぐことにある。兵舎の代わりに学校を建て、軍艦の代わりに工場を設けることにある。陸海軍経費約8億円、仮にその半分を毎年平和的事業に投じれば、日本の産業は数年をまたず大いに発展するだろう。 以上の諸理由により、我が国が「大日本主義」を棄てることは、不利益にならぬばかりか、むしろ大なる利益をもたらすと断言する。朝鮮・台湾・樺太・満州という、わずかばかりの土地を棄てることにより広大なる支那の全土を我が友とし、進んでアジア全体、否、世界の弱小国全体を道徳的支持者とすることは、どれほど利益になるか計りしれない。もしその時においてなお、米国が横暴であり、あるいは英国が傲慢であって、東洋の諸民族や世界の弱小国民を虐げるならば、我が国はその虐げられる者の盟主となって、英米を懲らしめるべし。背後に東洋や全世界の心からの支持を有する我が国は、断じてその戦に破れることはない。しかも我が国がこの覚悟で、一切の小欲を棄てて進むならば、おそらくは戦争の開始前に傲慢な国は亡ぶであろう。》 湛山は英米との貿易額が台湾など植民地の2倍もあることを示し、平和的な貿易立国を目指す『加工貿易立国論』を唱えた。これは軍部が思いもしなかった主張だった。国砕(こくすい)主義の過激な右翼が力を持ちつつあった時代に、満洲だけでなく、朝鮮・台湾・樺太も棄てる覚悟を迫り、この“小日本主義”こそが日本を活かす唯一無二の道であると論じた。 声明発表3年後の1924年(40歳)、大正デモクラシーの思想的指導者となった湛山は、東洋経済新報社の第五代主幹に就任。同年の社説では地方分権実施の“第二維新”が必要と説いた。「政治はできるだけ地方分権でなくてはならぬ。できるだけ各地方の要求に応じえるものでなくてはならぬ。第二維新の第一歩は、官僚的政治につきものの中央集権、画一主義、官僚万能主義の根本的改革である」。 翌年、大正天皇が崩御し、時代は昭和へ。日本は湛山が懸念した戦争の道を転がり落ちていく。 1931年(46歳)、軍部は満州事変を起こし、大陸への進出を加速。日本は世界各国から非難を受け、翌々年に国際連盟を脱退する。湛山は政府に抵抗し、1934年(50歳)に英字経済誌を創刊、これを欧米で発行して「日本政府の政策は決して国民の総意ではない」と訴えた。 1941年(57歳)、社長に就任。同年末に太平洋戦争が勃発。政府の湛山に対する言論弾圧が強化され、翌1942年に部下の記者や編集者が逮捕され、4人が拷問のため獄死した。紙やインクの配給も大幅に減る。だが、湛山は一貫して日本の植民地政策を批判し、ペンを折らなかった。「私は自分の正しいと信ずる主張の為に今後いかなる艱難(かんなん)が身の上に降りかかってこようとも、甘んじて受けるつもりだ。良心に恥ずる事を書き、国の為にならぬ事を書かねばならぬくらいなら、雑誌をやめた方がよい」。 召集された次男・和彦は南方戦線で戦死。この悲報に「汝が死をば父が代わりて国の為に生かさん」と日記に刻んだ。 1945年(61歳)、敗戦。湛山は戦争の早い段階で敗北を予測しており、どうすれば戦後経済をスムーズに復興できるか研究していた。焼け跡の中、国民は大きな喪失感に包まれていたが、湛山は希望を抱いていた。いち早く雑誌を発行し、敗戦10日後に「更正日本の門出〜前途は実に洋々たり」と載せ、科学立国で再建を目指せば道が切り開かれると人々を励ました。10月、靖国神社廃止を主張した「靖国神社廃止の議」を発表。 翌年、新憲法の草案を読み、戦争放棄に感激し「もはや日本は敗戦国でも、四等、五等でもなく、栄誉に輝く世界平和の一等国、かねて日本において唱えられた真実の神国に転ずるものである。これに勝(まさ)った痛快事があろうか」と喜んだ。そして、日本自由党に入党する一方で、社会主義者・山川均の民主人民連盟にも参加し、保守・革新の枠組みをこえた政治活動を展開する。総選挙に出て落選したが、吉田茂首相は湛山を第一次吉田内閣の大蔵大臣に抜擢した。 1947年(63歳)、再び総選挙に立候補して初当選(静岡2区)。湛山は大蔵大臣として、国家予算の実に3分の1を占めていた進駐軍(GHQ)の経費削減に乗り出す。日本が賠償費として負担していた進駐軍の経費には、ゴルフ代、ペット代までが含まれ、国民生活を圧迫していた。湛山はGHQに自ら乗り込んで直談判を試み、聖域となっていた進駐経費の2割削減を実現させる。これにより湛山は国民から“心臓大臣”と称えられたが、GHQの報復を受け、衆院選当選直後に4年間公職から追放されてしまう。 1951年(67歳)、公職追放が解除されて自由党に復党。3カ月後にサンフランシスコ講和条約の締結。翌1952年、立正大学学長に就任する。 1954年(70歳)、湛山は平和主義者であったが、朝鮮戦争(1950〜1953)の混乱を見て、対米従属のための再軍備ではなく、米国と距離を置くための再軍備が必要と思うようになった。吉田茂の「軽武装、対米協調」路線に反発した湛山は、吉田の政敵である鳩山派に属して打倒吉田に動いた。その結果、自由党から除名処分となり、鳩山一郎率いる日本民主党結成に加わった。 年末に第1次鳩山内閣の通商産業大臣に就任。湛山は中国やソ連など共産圏との国交回復を主張し、アメリカの猛反発を受けるも、動揺する鳩山首相に「アメリカの意向は無視しましょう」と進言。翌1955年、日中輸出入組合結成を支援し日中貿易を軌道に乗せた。同年、保守合同が実現し、湛山らの日本民主党と自由党が合同し「自由民主党」が結成される(いわゆる“55年体制”の開始)。 1956年(72歳)、日ソ共同宣言により日本とソ連が国交正常化。12月、鳩山首相の引退を受け、湛山と岸信介(親米派)が総裁選に出馬した。湛山は7票差で岸信介を破り、自由民主党第2代総裁となって首相に就任(12/23)。リベラル内閣誕生にアイゼンハワー大統領は狼狽したという。湛山はさっそく政官界の綱紀粛正、福祉の充実、雇用の拡大、対米従属主義の見直しに取りかかった。湛山いわく「日本は世界平和全体の為にイデオロギーを超えて貿易を行う。アメリカの政策もそれに合わせてもらいたい。自分の言い分ばかり日本に押しつけるようでは困る」。当時の世界は、原爆・水爆の核実験ラッシュ。日本政府の独自路線に米国は反発したが、湛山は“経済交流が国家間に安定をもたらし平和を築く”という信念から、ソ連・中国といった東側陣営との貿易も積極的に推し進めていった。 1957年(73歳)、湛山は自らの中道外交方針を国民に直接語りかける為に、全国10ヵ所を9日間でまわる遊説を行った。メディアでも「人類を救わんとするならば、我々は軍拡競争を停止し、戦争を絶滅しなければなりません」と語るなど、冷戦の平和的解決を訴え精力的に活動したが、全国遊説から帰宅後に不幸にも脳梗塞で倒れてしまう(1/25)。医者の診断は二ヶ月の安静。かつてテロの負傷で議会を欠席した浜口雄幸首相に退陣勧告の社説を書いた湛山は、「私の政治的良心に従う」と潔く退陣した(2/23)。在任期間はわずか65日であり、東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみや なる ひこおう)、羽田孜に次ぐ歴代3番目の短さ。新憲法下において国会で一度も演説をしないまま退任した唯一の首相となった。日本社会党の浅沼稲次郎書記長は湛山の潔さに感銘を受け、「政治家はかくありたい」と述べた。 1959年(75歳)、台湾問題で米中の緊張がピークに達すると、湛山は不自由な体で訪中し、周恩来に“日中米ソ平和同盟”という前代未聞の構想を提案した。周恩来は熱意に感服し「台湾に武力攻撃はしない」と約束する。そして「日本と中国は両国民が手を携えて極東と世界の平和に貢献すべきである」との石橋・周共同声明を発表した。 1960年の岸内閣による日米安保の強行改定では、国会包囲デモの衝突・混乱を憂慮し、東久邇宮稔彦王、片山哲と共に3人の元首相で岸に退陣勧告を行った。また本会では議決を欠席し批判的な態度をとった。 1963年(79歳)、衆院選で落選し政界引退。政治の一線をしりぞいてからは日ソ協会会長などをつとめ、1964年(80歳)にソ連を訪問するなど共産圏との親善に力を注いだ。 1968年(84歳)、一時期は再軍備の必要性を唱えた湛山だが、晩年は再び平和憲法の意義を強調するようになる。「我が国の独立と安全を守るために、軍備の拡張という国力を消耗するような考えでいったら、国防を全うすることができないばかりでなく、 国を滅ぼす。 したがって、そういう考え方をもった政治家に託すわけにはいか ない」(『時言』1968年10月5日号)。『日本防衛論』では、各国の軍隊でなく“国際警察軍”によって平和を守る「世界連邦」実現へ努力するべきと訴えた。 1973年4月25日午前5時、湛山は前年9月の日中国交回復を見届け88歳で他界した。池上本門寺で密葬後、翌月に築地本願寺で自民党葬。戒名は「謙徳院殿慈光湛山日省大居士」。高い理想を掲げた人生を物語るように、葬儀には党派や国境を超えて様々な人が参列した。遺骨は善性寺と身延山久遠寺に葬られた。没後、山梨県甲府市に「山梨平和ミュージアム・石橋湛山記念館」が開館した。 ●墓巡礼記 墓所はJR日暮里駅のすぐ近く、荒川区の日蓮宗・善性寺(1487年建立)。6代将軍・徳川家宣の生母長昌院が葬られ、家宣の弟・松平清武や越智松平家歴代の墓があり、幕末の上野戦争では彰義隊の屯所となった。湛山の他に、著名人では昭和13年(1938年)に横綱となり、69連勝の偉業を成し遂げた天下の名力士、第35代横綱・双葉山(本名穐吉定次)が眠っている。湛山の墓石はどっしりとした洋型で、「石橋湛山 石橋家」と横書きに彫られている。墓誌の戒名「謙徳院殿慈光湛山日省大居士」を見て、“謙徳”“慈光”という文字に湛山の人となりを感じた。戦前に敢然と軍部を批判した勇気に脱帽。これほど先見性を持つ人物が総理になることが、またあるのだろうか。今の日本を草葉の陰からどのように見ているだろう。 【参考資料】湛山回想(岩波文庫)、エンカルタ総合大百科、ブリタニカ国際大百科事典、NHK『その時歴史が動いた 石橋湛山』、ウィキペディアほか。 |
領地の吉利に建つ帯刀像 |
薩摩では誰もが知る英雄。 大河の『篤姫』で全国区に! |
鹿児島市中心部の帯刀像 |
旗を広げてくれた優しい紳士 |
小松家の墓所は断崖のギリギリにある。 なんでこういう地形になっちゃったんだろ? |
大河ドラマに合わせて綺麗に整備された。 旗も案内板も吉利の銅像も全てが新しい! |
海が近く海風で風化しやすい為、 墓石をお廟で保護していた |
あまりに狭すぎる墓前の空間!人が1人 通るのがやっと。※奥の墓は妻・お近 |
帯刀の妻・お近の墓 |
鹿児島市の「小松帯刀邸跡」。碑文に“明治維新の功労者”“西郷、大久保らを抜擢し 大政奉還に尽力した薩摩藩の家老”とある。龍馬も新婚旅行の際にここへ泊まった |
篤姫が生まれ育った鹿児島市の今和泉島津家 本邸跡。今は石垣のみが残り当時を偲ばせる |
巡礼時にちょうど期間限定の篤姫館が 鹿児島市で開いていた |
大奥の豪華絢爛な御鈴廊下を再現 |
番組に何度も登場した2人のお守り! |
篤姫の打掛け(上着) | 和宮の打掛け | 篤姫の居室セットを再現 |
本名は小松清廉(きよかど)で、幼名は尚五郎、通称帯刀。鹿児島城下にて薩摩藩士・肝付兼善の三男として生まれる。1856年(21歳)、急死した吉利領主・小松清猷(きよもと)の家督を継ぐ為に養子として入る。この時に清猷の妹・千賀と結婚。小松氏は平家の名将・平重盛(小松内大臣)を祖先に持つ2600石の名門だ。幼少から学問を好み、先進的な藩主島津斉彬の影響を受ける。1861年(26歳)、斉彬の死後に実権を握った島津久光に登用され、大久保利通と薩摩藩の改革に取り組む。翌年、弱冠27歳で家老職に就任し、京都に派遣され幕府や朝廷など各方面との交渉役を任された。1863年、同じ歳の土佐脱藩浪士の坂本龍馬と意気投合し、亀山社中(海援隊)設立を助ける。1865年(30歳)、長崎でイギリス帰りの長州藩士・伊藤博文や井上馨(かおる)と会い、欧米列強と対抗する為に薩長が和解する必要性を痛感する。帯刀は井上を大久保に会わせることで同盟を模索する。龍馬もまた薩長同盟案を懐に抱いていた為、両者は協力して京都小松邸にて西郷と木戸を引き合わせ、1866年(31歳)、薩長同盟を実現させた。この直後に龍馬は寺田屋事件で負傷。帯刀は龍馬にお龍との新婚旅行&療養を目的とした薩摩行きを薦め、薩摩の小松邸に宿泊させている。帯刀は翌1867年に、今度は薩摩と土佐を結ぶ薩土同盟を成立させ、10月に京都二条城で宣言された大政奉還の場に薩摩藩の代表として列席した。明治維新後は参与など要職を歴任するが、1869年、体調不良を訴えて全役職を辞し大阪で療養に専念。翌年、これから新生日本を作っていくというその矢先に34歳で病死した。
幼い頃からの勤勉さが生んだ高い知性と言説の雄弁さ、陽気な性格と誠実で寛容な心。藩内では佐幕派も倒幕派も彼の声に耳を傾けた。浪人の龍馬や下級武士の西郷や大久保が歴史を動かせたのは、薩摩藩家老という大物の帯刀がバックアップしたからだ。龍馬は彼が考えた新政府の人事構想の中で、木戸、西郷、大久保を抑えて帯刀を真っ先に挙げていたほど。後年は総理大臣になれたはずの人物であり、34年というあまりに短い人生が惜しまれる。
当初、帯刀の墓は大阪の天王寺(夕日岡)に建てられ、大久保や五代友厚が墓参りに訪れている。薩摩藩士・木場伝内は大久保宛の手紙に「墓陵は天王寺村之内家隆塚有之夕日の岡ト申ス所、摂海見はらし至極眺望宜敷所ニ御座候」と記す。1867年に帯刀の故郷、日置市吉利の園林寺に改葬された。寺そのものは廃仏毀釈で取り壊され墓地のみ残る。 帯刀の墓周辺は見渡す限り小松一族が眠っている。墓前は崖になっており、人1人が通るのがやっと。隣には夫人が並ぶ。大河ドラマ『篤姫』の準主人公になったことから、急遽立てられたのぼりが付近にはためく。 |
桓武天皇陵へ延々と続く道 |
第50代桓武天皇ここに眠る。中国の皇帝のような 絶大な権力を各方面へふるっていた |
桓武天皇に長岡京から平安京へ遷都を 提案した和気清麻呂(わけのきよまろ) ※京都・護王神社にて |
古墳のような墓だった!(和意谷廟・三の御山) |
夫婦で並んでいる。手前が光政。妻は豊臣秀頼 の妻・千姫(2代将軍忠秀の子)の娘だ |
朝廷から正三位を贈られている |
江戸前期の岡山藩主。水戸藩主・徳川光圀(1628-1700)、会津藩主・保科正之(1611-1672)と並ぶ江戸初期の三名君。池田輝政の孫。父は播磨国・姫路城主の池田利隆、母は2代将軍・秀忠の養女。1616年に7歳で家督を継ぐが、翌年に幼少を理由として伯耆(ほうき)国・鳥取城へ減封され、1632年(23歳)に備前国・岡山城主を継いだこれまた幼少の光仲と交換転封された。岡山藩主となった光政は陽明学を政治に取り入れ藩政を改革。新田開発や治水を推進し産業を奨励した。中でもとりわけ教育を重視し、1670年(61歳)に日本最古の庶民の学校となる閑谷(しずたに)学校を創立した(完全に完成したのは光政死後の1700年)。光政は学校が後世まで存続する為には学校独自の財源が必要と考え学校領を確保。光政の右腕、津田永忠は学校を地主とした学校田を作り出した。閑谷学校への入学者は庶民の子どもが中心だったが、他領の者や武士の子弟も認められた(現在、講堂は国宝に指定されている)。光政は1672年(63歳)に隠居し10年後に他界。
陽明学…自分の行動が大切であるという思想。明の思想家・王陽明(ようめい、1472-1528)が唱えた。江戸初期に日本に伝えられ、当初は過激な危険思想と見られた。朱子学は「知識あっての行動」として、理(知識)を優先し「知先行後」と考えるが、陽明学では知識と行動は一体とし「知行合一」を説いた。そして「自己の心こそ理」と考え「心即理」を主張した。日本では大塩平八郎、池田光政、渡辺崋山、佐久間象山らが陽明学者として知られる。
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「史跡・福昌寺跡」 | 案内図をデジカメに撮り墓参 | 墓所の門には島津の家紋が入っていた |
鹿児島は明治初頭に日本で最も苛烈な廃仏毀釈の嵐が起こり、一時期は市内の仏寺が“すべて”取り壊された。 この福昌寺も由緒ある島津家の菩提寺でありながら解体され、今はその跡地に墓所だけが残っている。 島津家は初代が鎌倉市西御門に、2代〜5代までが鹿児島市の清水町(本立寺跡)&鹿児島県出水郡感応寺に、 6代〜28代が福昌寺跡に、29代以降は福昌寺の西にある常安峰(とこやすみね)に眠っている。 |
正面右が斉彬公、左が夫人 | 彫刻や装飾に凝った美しい造形 | 彩色されていたのかも! |
照国神社の斉彬像 (鹿児島市) |
「明治維新薩藩殉難志士・戊辰戦没者銘碑」 無数の戦死者の名が斉彬像の側にある |
天保山中学校にある『島津斉彬御陣屋跡』。 洋式砲術や騎兵、工兵の訓練を行なった |
薩摩藩の第11代藩主。藩経済の近代化に尽力し、薩摩の富国強兵に成功した名君。篤姫は養女。福井藩主の松平慶永、土佐藩主の山内容堂、宇和島藩主の伊達宗城と並ぶ「幕末の四賢侯」。斉彬は藩内に木綿紡績事業やガス灯、ガラスの製造業を興し、溶鉱炉を建設。ガラス工芸品(薩摩切子)は藩を代表する特産品に成長した。米国帰りの中浜万次郎(ジョン万次郎)を保護し、軍事面では1854年(45歳)に西洋式帆船・伊呂波丸を完成させる。人材登用においても下士階級出身の西郷隆盛や大久保利通を見出すなど先見の明を見せた。黒船ショックに揺れる幕府に対し、斉彬は公武合体・武備開国を主張。養女の篤姫が第13代将軍・家定に嫁いだ後、斉彬は第14代将軍に一橋慶喜(後の15代)を就任させるべく奔走。しかし、井伊大老が強引に家茂を後継者にしたことから、斉彬はこれに抗議するために藩兵5000人で上洛することを計画した。しかし、藩兵の軍事訓練中に病に倒れ、わずか8日後に急死した。享年49歳。後の世に、辛口で知られる勝海舟が「幕末第一等の英主」と斉彬を絶賛した。
※斉彬の提案で日の丸が日本の船章となり、後の時代に日章旗が国旗となった。
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これが宇治陵!? | これも宇治陵! | これもッ! | これもッ!! |
左手前は無人の1号墓守衛室。 1号陵が「宇治陵総拝所」に指定されてる |
1号墓が道長というわけではなさそうだ |
1号墓前の説明板。宇治陵には皇后や皇女が大勢埋葬されていることが分かる。 中には紫式部や和泉式部が仕えた一条天皇の中宮・彰子というビッグネームも! |
宇治の茶畑の側にひときわ大きな12号墓があった。「これが道長に違いない」と手を合わせて墓参を終えた |
32号陵…藤原道長の墓? 33号陵…藤原道長の墓(この意見多い) 34号陵…藤原冬嗣夫妻塚?藤原彰子? 35号陵…左大臣・藤原時平の墓(ほぼ決定) 36号陵…関白・藤原基経の墓? 37号陵…関白・藤原基経の墓(この意見多い) |
地図を片手に探しまくった。最有力候補の33号墓は住宅街の奥にひっそりとあった!道長よ何を想う |
念のため、もう一つの道長の墓候補といわれる32号墓にも訪れた。こっちの方が敷地が広く見えた |
宇治陵近くの木幡小学校 | 小学校前に「藤原道長建立浄妙寺跡」 | 近所にサブカルの聖地「京都アニメーション」 |
藤原道長は摂関政治の全盛期を築いた平安中期の貴族・政治家。御堂(みどう)関白・法成(ほうじょう)寺殿ともいわれ、一条、三条、後一条の3代にわたって太政官の事実上の首席である左大臣に就き、同時に内覧(天皇の秘書。天皇より先に全文書に目を通す職権を持つ)を歴任した。あえて関白にはならなかったのは、摂政・関白は閣議に出られない決まりがあったためで、内覧として政務の実権を握ろうとした。後年にまだ8歳の孫、後一条天皇を即位させて自身が外祖父となったときに初めて摂政に就任した。姉の超子は三条天皇母、詮子(せんし)は一条天皇母。道長は紫式部・和泉式部など女流文学者の庇護者でもあった。 966年に京都で生まれる。摂関を務めた太政大臣・藤原兼家の5男。 986年(20歳)、父兼家と兄(三男)の道兼らが策謀して、花山天皇を宮中から誘い出して出家させ、道長の姉詮子が生んだ6歳の懐仁(やすひと)親王を第66代一条天皇として即位させた。道長は花山天皇の失踪を関白・頼忠に報告する役割を果たした。 988年(22歳)、道長は急速に出世し、参議を経ずに権中納言に抜擢される。同年、妻の倫子(左大臣・源雅信の娘)との間に長女彰子(しょうし/988-1074)が誕生する。 990年(24歳)、父兼家は道長の兄(長男)・道隆に関白を譲って他界。次いで道隆は一条天皇(10歳)の摂政となった。道隆は長女の定子(ていし/977-1001)を13歳で一条天皇の女御(にょうご)として入内させ、10月に中宮とした。この定子は『枕草子』の中で、清少納言から聡明かつ優しい女性として称えられている。 ※武勇に優れ清和源氏の興隆の礎を築いた名将・源頼光(源満仲の子)は、関白・兼家の葬儀の際、道長の堂々たる態度を見て「将帥(しょうすい)の器である」と感嘆、自ら従うようになったという。源頼光は大江山の酒呑童子(しゅてんどうじ)征伐や土蜘蛛伝説で知られる武人。夷賊(いぞく、従属しない部族)の征伐で功績をあげ、中世文学では妖怪・土蜘蛛を退治した人物として描かれている。“土蜘蛛”は古来朝廷に従わない土豪に対する蔑称であったが、中世に入ると巨大な人喰い蜘蛛として描写されるようになった。この源頼光の重臣が昔話の金太郎のモデルとなった猛将・坂田金時だ。 ※道長四天王は、頼光の弟頼信(源頼朝を輩出した河内源氏の祖)、藤原保昌(平井保昌。横笛の調べで盗賊を心理的に制圧。妻は和泉式部)、平維衡(伊勢平氏の祖。4世孫が清盛)、平致頼(むねより/平維衡と伊勢で合戦)の4人を指す。 ※中世文学に登場する中世の伝説的な武人4人は、坂上田村麻呂、源頼光、藤原保昌、藤原利仁(としひと※役人に腹いっぱいの芋粥を振る舞おうとした話が芥川龍之介の小説『芋粥』で知られる)。 995年(29歳)、道長には関白・道隆、そして道兼という有能な兄がいたが、この年に道隆が大酒(糖尿病)、道兼が伝染病により相次いで病没した。天皇は定子を寵愛しており、後継の側近を彼女の兄・伊周(これちか/道隆の子)に考えていたが、帝の母詮子(道長の姉/円融天皇女御)が「道長の方が有能」と涙ながらに説得し、道長が内覧及び右大臣に任じられた。翌年、30歳にして左大臣に転任し政務を支配する。 999年(33歳)、道長は長女の彰子を11歳で一条天皇に入内させたが、同年に中宮の定子(ていし/故・道隆の長女)が第一皇子・敦康親王を生み焦りを覚えた。 1000年(34歳)、道長は強行手段に打って出る。彰子を強引に中宮とし、既に中宮となっていた定子を“皇后宮”とし、両者を共に皇后扱いにする史上初の「一帝二后」体制を敷いたのだ。道長は定子が一度出家して中宮職を行えないことを引き合いに出した。 天皇が2人の妻を持つ事態に人々は困惑したが、この年12月に定子は難産で衰弱し、24歳の若さで他界する。一条天皇は最も寵愛していた定子を失って嘆き悲しみ、定子の家庭教師だった清少納言も打ちのめされて宮廷を去った。 1001年(35歳)、紫式部(当時28歳)が世界最古の長編小説『源氏物語』の執筆を開始。同作は最終的に全54帖(じょう・巻)になるが、1帖ごと、もしくは数帖ごとに、執筆と並行して発表された。その為、読者は先が読みたくてたまらなくなり、宮中では先の展開を予測するなど大評判になる。 1005年(39歳)、文学を愛好する道長は宮中で漢詩の優劣を競う作文会(さくもんえ)に出席し、自邸でも作文会や歌合を催していた。『源氏物語』の好評を耳にした道長は熱心な読者となり、式部の文才に感服。そして彰子の家庭教師を式部に依頼した。これにより、宮廷深部に足を踏み入れた式部は、実体験をリアルに作品に練り込み、新帖ごとに彼女の名声は高まった。式部が超大作を最後まで書きあげた背景には、道長が式部の局にやってきて「続きはまだですか」と原稿の催促をしていたこともある。 同年、道長は宇治の木幡に浄妙寺を創建し藤原一族の菩提寺とする。 1008年(42歳)、彰子(20歳)は入内から9年目に、道長が待望していた男子、第二皇子・敦成(あつひら)親王(後一条天皇)を授かる。道長は「これで将来は安泰」と歓喜した。道長はあまりの嬉しさに、夜中、明け方関係なしに孫を抱きに乳母のもとを訪れ、乳母はヘトヘトに。抱っこしておしっこをかけられた道長は、濡れた服を脱いで火にかざしながら「若宮のおしっこに濡れるのは嬉しいことだなぁ。こうして濡れた衣を乾かしていると思いが叶った心地だよ」と嬉しげに語ったという。一方、彰子は一条天皇が8年前に夭折した定子のことを想い続けていることを知っており、その気持ちを尊重して、定子の子・敦康親王も深い愛情を込めて大切に育てた。 同年、7年がかりで『源氏物語』全54帖が完結。式部は敦成親王の誕生御祝いとして作品を献上した。出産50日目の祝いの席で、それまで“藤式部(とうのしきぶ)”を名乗っていた彼女は、『源氏物語』のヒロイン「紫の上」にちなんだ“紫”の名で呼ばれるようになる。 式部はこの年から2年間、内面を赤裸々に語った『紫式部日記』を書き始めた。式部と道長の間に特別な関係があったことがほのめかされ、鎌倉期に刊行された『尊卑分脉』には式部の注記に「道長妾」と書かれている。 1009年(43歳)、前年に続いて彰子が敦良(あつなが)親王(後朱雀天皇)を出産する。 1011年(45歳)、病に伏した一条天皇は譲位し、新たに第67代三条天皇(道長の姉超子の子)が即位。道長は既に入内させていた次女の妍子(けんし、17歳)を三条帝の中宮とした。退位に際して、一条天皇は皇太子に定子の形見である第一皇子・敦康親王を立てることを希望したが、道長の圧力を受けて彰子の子、第二皇子・敦成親王(後一条天皇)を立てた。一条帝は9日後に31歳で崩御。一条天皇を愛する彰子は、その本意を汲み取り、皇太子は我が子ではなく定子の子にすべきと思い、強引な父を恨んだという。 ※鎌倉初期の歴史書『愚管抄』に、一条天皇崩御後、道長・彰子は遺品整理中に一通の手紙を発見し、「三光明ならんと欲し、重雲を覆ひて大精暗し」とあり、これを「王が正しい政(まつりごと)を欲するのに、道長一族の専横によって国は乱れている」という意味に解した道長は、立腹して文を焼き捨てたと記す。 1013年(47歳)、経緯は不明だが式部が反・道長勢力の藤原実資と親交を持ち、これを道長に咎められ宮仕えをやめた。翌年、式部は41歳で他界。 1016年(50歳)、三条天皇が眼病となったことから退位をせまり、彰子が生んだ敦成(あつなり)親王を第68代後一条天皇として即位させ、道長自身は摂政に就任した。翌年、道長は摂政を子の長男・頼道に譲り、自身は太政大臣となって君臨した。 道長はその後も娘たちを次々と皇室に入れていく。 1018年(52歳)、道長は四女・威子(いし、18歳)を後一条天皇の中宮にさせた。これによって、皇后(後一条天皇皇后・威子)・皇太后(三条天皇皇后・妍子)・太皇太后(一条天皇皇后・彰子)の三后をすべて自分の娘にするという空前絶後の快挙を成し遂げる。三后の父となった道長は、威子の立后の日に臣下を自邸に集めて祝宴を開き、そこで栄華の絶頂をこう詠んだ。 「この世をば わが世とぞ思ふ 望月(もちづき)の 欠けたることも なしと思へば」(この世は自分のためにあるようなもの。満月のように何も足りないものはない)。 1019年(53歳)、道長は出家して「行観」と称し、法成寺の造営に力をつくし、翌年中心となる無量寿院を完成させた。院内には9体の大きな阿弥陀仏がおかれ、その荘厳さから法成寺はこの世の浄土といわれた。晩年の道長は法成寺で暮らした。 1021年(55歳)、六女・嬉子(きし、14歳)が皇太子・敦良親王(後朱雀天皇)の妃として入内する。 1025年(59歳)、嬉子に第一皇子(後冷泉天皇)が生まれるが、嬉子は出産の2日後に天然痘のため急逝する。まだ18歳だった。道長は動揺して陰陽師に蘇生の儀式をさせたと伝えられる。後冷泉天皇には世継ぎができず、嬉子の死が摂関家の斜陽の始まりであった。 1028年1月3日、道長は蘇蜜(そみつ※蜂蜜かけ和製チーズ)が大好物で重い糖尿病を抱えており61歳で没した。「この世をば わが世とぞ思ふ」の歌から10年後だった。臨終の際、道長は9 体の阿弥陀仏の手から自分の手まで糸を引き、釈迦の涅槃と同様、北枕西向きに横たわり、大勢の僧侶の読経に合わせて自身も念仏を口ずさみ、西方浄土を願いながら往生した。栄華を極めた道長だが、寛子・嬉子・顕信・妍子と多くの子どもたちに先立たれた寂しさも味わっている。 道長は鳥辺野で火葬され菩提寺の浄妙寺に葬られたが、室町期の戦乱の中で浄妙寺は廃寺となり場所も不明になった。その後、1967年に木幡小学校を建設する際に遺構が発見され、浄妙寺跡の石碑が建てられた。墓所は宇治陵の33号墓が有力。32号墓とする研究者もいる。 道長の日記『御堂関白記』(みどうかんぱくき※御堂は法成寺のこと。関白になったことはない)は自筆本14巻、古写本12巻が国宝に指定されている。現存する世界最古の直筆日記とされ、2013年ユネスコ記憶遺産に登録された。『大鏡』『栄花物語』は道長の生涯を主にえがいたもの。道長の時代が終わると、公卿が社会政策に取り組む事はなくなり、院政や武家政権に政治の実権を奪われる遠因となった。 ※彰子は86歳という非常な長寿を生き、1074年、曾孫・白河天皇の代に没した。 ※総遙拝所の近くに「藤原氏塋域」の碑があり、藤原冬嗣、基経、時平、兼家、道隆、道長、頼通、師実という8名の名前が刻まれているそうだけど、不覚にも僕は気付かなかった。 ※こちらのサイトは37号まですべて巡礼されてます!アッパレ! |
最初の関白となった大権力者の墓は黄昏れていた…! |
この小さな塚を見て誰が 関白基経と思おうか(2011) |
枝葉の形が整えられているので 一応、剪定はされているようだ |
「三十七」の文字が。 ここで間違いない |
京都市伏見区宝塔寺には基経の供養塔がある(2012) | 内部に小さな石塔がふたつ |
史上初の関白!平安前期の貴族、廷臣。叔父良房の養子となって宗家を継ぎ、陽成天皇の摂政となったのち天皇を廃し、光孝天皇を立てて政務を代行。光孝天皇の崩御後に宇多天皇を擁して阿衡(あこう)の紛議を起こし、最初の関白となった。通称、堀河太政大臣。諡号(しごう)は昭宣公。「文徳実録」を撰。 |
平安前期の貴族、廷臣で基経の長子。宇多・醍醐両天皇に仕え、出世して左大臣となる。ライバルの菅原道真を大宰権帥(だざいのごんのそつ)に左遷して、政界における藤原氏の地位を確立。最初の荘園整理令を発し、「延喜格式」「三代実録」を撰上。38歳で没したため、道真の祟りによるという説が流布した。 |
御陵の入口から600mほど歩き続ける | 夏の夕暮れにたたずむ。周囲は蝉しぐれ | 「天智天皇御陵」 |
第38代天皇。中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)として知られる。父は34代舒明天皇、母は35代皇極天皇。子は大友皇子。40代天武天皇(大海人皇子)は同母弟にあたる。蘇我入鹿と対立し645年(19歳)に飛鳥板蓋宮で、中臣鎌足たちとクーデターを敢行し(乙巳の変)、大化の改新政府を樹立する。翌年、天皇を中心とした中央集権国家を目指して「大化の改新の詔」を発布し、公地公民制、班田収授制などを遂行した。内政には手腕を振るったが、外交では663年(37歳)に百済を応援した「白村江の戦」で、唐・新羅連合軍に大敗した。667年(41歳)、近江大津宮に遷都。死の前年には初の全国規模の戸籍(庚午年籍)を導入した。享年45歳。死の翌年、後継者として希望していた実子の大友皇子と、弟の大海人皇子(天武天皇)の間に壬申の乱が勃発。我が子は敗北し、以後天武系の天皇が48代称徳天皇まで9代続く。
「秋の田の 刈穂の庵の苫をあらみ わが衣手は露にぬれつつ」(天智天皇)
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「弾圧は抵抗を呼ぶ、抵抗は友を呼ぶ」(瀬長亀次郎) |
沖縄のお墓は本土とは全く異なる。4月のシーミー(清明祭) では、親戚一同が墓前でお参りと食事をする。 そのため、どのお墓も敷地がとても広くなっているんだ |
米軍占領下の沖縄で、圧制に対する抵抗運動を行った 現代沖縄の英雄。「カメさん」と呼ばれ、沖縄では 誰もが知っている。元那覇市長。常に県民の味方だった |
沖縄のお墓は墓誌だけでなく、名前さえ 彫ってない墓がたくさんある。瀬長さんも 正面からだと誰だか分からない |
「一リットルの水も、一握りの砂も、一坪の土地もアメリカのものではない。空気は我々がただで吸わせている。そのうえ、今回の新たな土地強奪である。我々は対米非服従運動を起こさねばならない」(瀬長亀次郎)。太平洋戦争後、米軍占領下の沖縄で、基地建設のために人々の土地が奪われていくなか、米軍の圧制に対して抵抗運動を展開した沖縄の英雄。那覇名誉市民&豊見城名誉村民。県民からは「カメさん」と呼ばれて慕われた。現沖縄県豊見城市出身。
若い頃から社会運動に関心を持っていた瀬長は、1932年(25歳)にトンネル建設労働者の戦いを指導し、治安維持法違反で逮捕される。懲役3年の刑を受け、横浜刑務所に投獄された。その後、砲兵として中国へ出征し、戦後は名護町助役、新聞記者を経て、1946年(39歳)に現・琉球新報の社長につく。だが、沖縄人民党の結成に参加したことから、米軍の圧力を受けて社長を辞任。1950年(43歳)、知事選に出馬して落選したものの、2年後の第1回立法院議員総選挙ではトップ当選を果たした。瀬長は選挙後の琉球政府創立式典で宣誓を拒否。そして軍事利益優先のアメリカの政策を非難し続けた。
1954年(47歳)、アメリカ統治を批判する沖縄人民党を、米国は共産主義政党として弾圧を加える。沖縄退去命令を出した2名の人民党員を瀬長が匿ったとし、彼を弁護士なしの裁判にかけた。瀬長は懲役2年の判決を受け再び獄中生活を送る。牢獄では出所前日に「残りの生命を大衆のためにささげることを固く誓わなければならん」と日記に記した。
1956年(49歳)、出獄後に那覇市長選に出馬し、様々な選挙妨害を受けつつも当選を果たす。占領軍は露骨に拒否反応を示し、瀬長市政を潰すべく、那覇市への補助金及び融資を打ち切り、預金を凍結し市政運営の資金を断った。那覇市民は瀬長を助けるために積極的に納税し、納税率が97%という驚異的な数字になった。これによって瀬長市政は自主財源のみで予算を組めるようになり最大のピンチを切り抜ける。一方、占領軍と沖縄自民党は不信任決議を7度にわたって提出したが効果がなかった。ここに及んで占領軍は強権を発動し、過去の逮捕歴を理由として瀬長を追放。さらに立候補する権利を奪い去った。瀬長が市長を務めたのは約1年と短かったが、強大な米軍を相手に不屈の精神と非暴力で戦い抜いたことを、沖縄県民は心から称えた。
1970年(63歳)、沖縄初の国政参加選挙が行なわれ、瀬長は衆議院議員に当選。彼は沖縄県民の基本的人権が本土のレベルに達していないことを憂慮し、熱心に祖国復帰を訴えた。翌年、瀬長は国会で吠えた「沖縄の大地は、再び戦場となることを拒否する。基地となることを拒否する。あの紺碧の空、あの美しい海。沖縄県民の手に返って、初めて平和な島が、沖縄県の回復ができるんだということを、(沖縄の大地は)26年間叫び、要求し続けてきた」。1972年(65歳)、沖縄の本土返還が実現。瀬長は復帰後共産党に属し、7期連続当選を果たす。1990年(83歳)、高齢となり政界から引退。2001年に肺炎で他界した。享年94歳。 ※墓所は那覇空港から小禄バイパスを南下し、名嘉地の交差点を68号線に沿って東へ向かい、最初の信号を左折。両側に畑を眺めながら300mほど北上すると右手にある。 ●沖縄豆知識…沖縄のお盆は旧盆で、2009年であれば9月1、2、3日。旧盆入りの日はウンケイ(お迎え)、次がナカビー(真ん中の日)、最後がウークイ(送り)。ウンケイの日にはウンケイジューシーというおじやが硬くなったような料理を、ウークイの時はソーメン汁を作る。シーミー(清明祭)はお盆とはまた別。※沖縄のO.Yさん、情報を有難うございました! |
阪急茨木市駅で自転車をレンタル。 陵墓の入口までやってきた |
昔の漢字で継体天皇とあった。 ここで間違いないようだ |
えっ!?鳥居 がないの!? |
『継体天皇三島藍野陵』に到着! | 守衛さんのデジカメ画像!鳥居がある! | とても大きな古墳だ |
継体天皇は第26代天皇。男大迹(オホド)王とも。今の皇室との血縁が確実に確認できる最古の天皇。応神天皇の5世孫。もともと越前(福井県)に住んでいたが、大和政権で大王位の後継者が途絶えたので、57歳の時に大伴金村の説得を受けて天皇に即位した。
しかし、大和政権内には遠方から天皇を呼び寄せることや、天皇家の血が薄すぎることに強い抵抗があり、畿内までやって来たものの大和周辺に足止めされ、実際に大和地方に入ることができたのは20年後だった。
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「お堀をどうやって渡るんですか?」と守衛さんに聞いたら、「監視小屋の後ろにボートがある」 とのこと。確かに別の角度から見えた!1人で上げ下げできるように改造されたそうだ |
俊龍寺は秀吉と縁があり、寺の名前も秀吉の 法名「国泰祐松院殿霊山俊龍大居士」による |
13代将軍・足利義輝 |
左から義輝の母・慶寿院、義昭、義輝、秀吉の供養塔 |
室町幕府第13代将軍。父は12代・足利義晴。1546年、わずか10歳で将軍に就任。父が細川晴元と戦争状態にあり、亡命先の近江坂本で就任式が行なわれた。やがて細川晴元の家臣・三好長慶(ながよし)が主君を裏切って強大な力を持つようになると、昨日の敵は今日の友、1553年(17歳)義輝は細川晴元と協力して三好長慶に対抗するようになる。六角氏も援助してくれたが、猛将・三好義賢(長慶の弟)の攻撃に苦しんだ。5年間の戦いを経て、両者は和睦。義輝は京に戻り、幕政を再開した(23歳)。義輝は将軍の権威を高める為に、名前の一字を有力大名に授けまくった。“義”の字は、最上義光、島津義久、朝倉義景、尼子義久などに、“輝”は上杉輝虎(謙信)、毛利輝元、伊達輝宗らに与えた。1564年(28歳)に三好長慶が病死すると義輝はさらなる権力強化を目指す。
この動きに反発したのが、三好長慶の重臣・松永久秀と三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)。翌1565年、彼らは義輝を亡き者にする為に、新将軍候補に義輝の従兄弟にあたる足利義栄を担ぎ出して謀反を起こす。この「永禄の変」は、時の征夷大将軍を武力で襲撃するという掟破りのもの。居城の二条御所を攻撃された義輝は自ら刀を握って奮戦した。義輝は剣聖・塚原卜伝に奥義「一の太刀」を伝授され、名兵法家・上泉信綱に学んだ本物の剣豪。二条御所の中に将軍家秘蔵の名刀を何本も突き立て、刃こぼれした刀を次々と取り替えて敵を斬りまくった。最終的に反乱軍は御所の畳を引きはがし、これを楯に代用して四方から同時に襲いかかった。かくして29歳の若い将軍は散った(義輝の母・慶寿院も自ら火中に身を投じ殉死)。辞世の句は「五月雨は 露か涙か 不如帰 我が名をあげよ 雲の上まで」。
義輝&慶寿院の33回忌、かつ、義輝の弟で最後の将軍となった15代義昭が他界した1597年に、俊龍寺に供養塔が建てられた。 |
広島県の鞆(とも)。信長と対決する毛利輝元は鞆に 毛利軍の本陣を築き、都落ちしてきた義昭を受け入れた |
義昭の居館・鞆要害を改築した鞆城の本丸跡。 ここを拠点に臨時幕府“鞆幕府”が開かれた |
鞆の浦は古代から“潮待ち”の港として交通の要所。 『崖の上のポニョ』のモデルになった港町でもある |
義昭が鞆に滞在したのは6年間。常国寺には義昭の 遺品(常国寺文書)が残る。墓所は寺の裏山にある |
大型の台風が通過した後で、倒木や電線(?)が 道を塞いでいた。木が茂り薄暗い山道を行く |
だんだん山頂に近づき、木が減り明るくなって きた。この日が雨じゃなくて本当に良かった |
登り初めて約10分で到着。墓前には『足利義昭公供養塔 別名・将軍塚』とあった |
宝篋印塔の先っぽ? あまりに小さな墓石だった |
落日の中にたたずむ義昭。信長の後を秀吉が継ぎ、 足利の栄光を取り戻すことはついに出来なかった |
こちらは山口市の俊龍寺 | 毛利氏が建てた義昭の供養塔 | 左から義昭、兄の13代義輝、秀吉 |
JR山陽線・備後赤坂駅の東側に「イコーカ山古墳」が あり、その脇に地元の人たちが「天下墓」と呼ぶ墓が そびえ立つ。果たしてこれは義昭の墓なのだろうか |
相輪(最上部)が 欠落した宝篋印塔 |
足下は断崖なのに柵がない。左隣の写真が正面なんだけど、 全体を撮る為に限界まで後ろに下がる必要があった。 足を踏み外せば死んでしまうので、めっちゃ怖かったよ〜! |
室町幕府最後の第15代将軍(在職1568-73)。12代足利義晴の次男。兄・義輝が将軍職を継ぐことが決まっていたので、義昭は子どもの頃に仏門(奈良・興福寺)に入り、覚慶と名乗った。僧侶として生涯を終えるはずだった義昭の運命が変わったのは1565年(28歳)。13代将軍を務めていた兄の義輝が松永久秀や三好三人衆に謀殺されたのだ。金閣寺の住職だった弟も殺された。義昭は興福寺の中に幽閉されたが、細川藤孝、和田惟政ら幕臣が彼を救出。義昭は越前一乗谷の朝倉義景のもとへ身を寄せる。しかし朝倉氏にいくら上洛を促しても消極的なため、義昭は信長に接近。信長にとっては将軍候補を手駒に出来る好機であり、義昭を受け入れた(この時、義昭の側近として一緒にやってきた朝倉氏の重臣・明智光秀に信長が殺されるのは歴史の皮肉だろう)。1568年(31歳)、義昭は信長の力を借りて上洛に成功し、第15代将軍に就任する。
幕政政治の復活を夢見た義昭だが、政治の実権は信長に握られてしまった。“どうしてこうなった”。やがて信長と対立し、武田信玄、上杉謙信、浅井長政、朝倉義景といった有力大名のほかに延暦寺や石山本願寺といった巨大な宗教勢力を取り込み、信長包囲網を完成させる。信玄の上洛が間近に迫ると、義昭自身も挙兵する。しかし、頼りにしていた信玄が病死。1573年(36歳)、敗北した義昭は京都を追放され室町幕府は終焉を迎えた。
1576年(39歳)、義昭は毛利輝元の勢力下であった備後の鞆(とも)に移り亡命政府「鞆幕府」を樹立。鞆は足利尊氏が天皇から新田義貞追討の院宣を受け、また第10代将軍足利義稙が京都入りを成功させた幸運の地。ここより義昭は信長打倒を目指す。1582年(45歳)、本能寺にて義昭の元側近・明智光秀が信長を滅ぼしたものの、権力は秀吉に移行。義昭は秀吉から1万石を与えられたこともあり、秀吉の臣下として余生を送ることを決めた。義昭は秀吉の話し相手役の御伽衆に加えられ、1597年に大坂で他界する。享年61歳。義昭はそのバイタリティで戦国時代を生き抜いた。
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夕暮れの鞆の浦。義昭はこの瀬戸内の海を見つめながら何を思っていたのだろう |
足尾銅山鉱毒事件で公害企業と戦った | 雲龍寺は鉱毒対策事務所が置かれていた寺 |
「義人田中正造翁墓」 | 正造を敬愛する民衆の要望で遺骨が6カ所に分骨された | 地元の人々から仏のように慕われている |
本葬が行なわれた惣宗寺の墓(佐野市金井上町) | 『嗚呼慈侠・田中翁之墓』 正造はこの惣宗寺を拠点として政治の道に進んでいった |
『田中正造翁生誕の地』(栃木県佐野市小中町) | この生誕地の分骨墓所にはカツ夫人も合祀された | 『田中正造旧宅』 生誕地にある |
日本の公害運動の父。足尾銅山鉱毒事件を告発した明治期の政治家。1890年(49歳)、第1回総選挙で衆議院議員に当選(以降6回連続当選)。1900年、公害で苦しむ農民が東京に陳情に向かうも、途中でこれを阻止しようとする警官隊と衝突し、多数の農民が流血、逮捕された。翌1901年(60歳)、公害企業を守ろうとする政府に激怒・失望した正造は議員を辞職。 そして最後の手段--死を覚悟して明治天皇へ直訴を試みたが警官隊に取り押さえられた(“狂人”として不問にされた)。その後も大型土木事業による強制廃村の抵抗運動に取り組み、そのさなかに病死した。 |
龍馬を慕っていた海援隊同志 | 亮子夫人はウルトラ美人 |
「落石注意」の看板があるとんでもない場所に眠っている。立入禁止地帯ゆえ、 お寺の人に特別に許可をもらって墓参。頭上を見ながら緊張しまくりの巡礼だった!(2009) |
再訪時。昼間でも薄暗い | 墓前の門は内側に開く | 今回は花が多い(2010) |
高野山の“取材・撮影許可証”(2013) | 「伯爵陸奥宗光墓」 高野山奥の院の撮影禁止区域にも墓がある | 背面に「未亡人亮子謹建」 |
大阪天王寺区の「陸奥宗光墓所跡」。かつては海岸線が近く夕陽の景勝地で小松帯刀も眠っていた。墓所跡の “清地蔵”は、陸奥夫妻の愛娘・清子が20歳で死んだことを悼み、墓前に等身大の地蔵を建てたもの(2014) |
明治期の政治家。「カミソリ大臣」の異名を持つ外務大臣。通称陽之助。紀州藩家老の六男。幕末期に脱藩して坂本龍馬のひきいる海援隊に入り討幕運動に参加。1867年(23歳)、龍馬暗殺直後に紀州藩が黒幕と信じ込み、紀州藩士を襲撃する事件(天満屋事件)を起こすなど血の気が多かった。 維新後は兵庫県知事、元老院議官などを歴任。1877年(33歳)、西南戦争がおこると薩長藩閥政府に憤って政府転覆計画に加わり、翌年投獄される。5年後(1883年)に出獄し欧州に留学。1888年(44歳)、駐米公使となりメキシコとの対等条約調印を結んだ。1892年(48歳)、伊藤博文内閣の外相に就任し、かねてから問題だった対外不平等条約改正に着手する。2年後に日英通商航海条約の締結に成功し、治外法権の撤廃を実現。さらに不平等条約を結んでいた15ヶ国すべてとの間で条約改正(治外法権撤廃)を成し遂げた。 朝鮮で甲午農民戦争がはじまると出兵を決定し、日清戦争に突入。翌1895年に日清講和会議の全権として下関条約を成立させたが、露・仏・独の三国干渉をまねいて遼東半島を返還、1896年に外相を辞任する。翌年、肺結核のため53歳で他界。 日清戦争の外交について回想録「蹇蹇録」(けんけんろく)を表し「政治はアートなり。サイエンスにあらず。巧みに政治を行い、巧みに人心を治めるのは、実学を持ち、広く世の中のことに習熟している人ができるのである。決して、机上の空論をもてあそぶ人間ではない」と記した。 かつて陸奥宗光の墓は大阪天王寺区の夕陽丘にあったが、1953年秋、宗光の孫・陸奥陽之助に思うところがあり、父廣吉(ひろきち、宗光の長男)の終焉の地である鎌倉の寿福寺の石窟=矢倉の地下に曾祖父・伊達千広など先祖9人の遺骨を改葬、同時に宗光の墓石も運んだという。 ※陸奥の龍馬評「その融通変化の才に富める彼の右に出るものあらざりき。自由自在な人物、大空を翔る奔馬だ」。 ※後妻の陸奥亮子(りょうこ)はその美貌から「鹿鳴館の華」「在米公使館の華」と呼ばれた。 |
左から木戸孝允、山口尚芳、岩倉具視、伊藤博文、大久保利通 | 失脚から復活した |
史跡「岩倉具視幽棲旧宅」 にローカルバスで到着。 京都駅からけっこう乗った |
ギャー!「現在修復中」の貼紙が!2011年春 まで1年がかりで建物を解体修復するとのこと! ウソだと、嗚呼、ウソだと言ってくれ〜! |
「わーん!ここまで来たので敷地のお墓を 参らせて下さい」と涙目で管理人さんに直訴。 OKが出て工事現場に道を確保して下さった! |
組まれた足場の奥にお墓が見えた。さらに接近! | でかい墓石。人間より大きい | 墓碑の右上に遺髪墓と刻まれていた |
本墓のある品川区の海晏寺(かいあんじ)。 墓地は公開・非公開エリアに分かれている |
行く手を阻む鉄柵の南京錠と「警察に 通報します」の警告文。墓参したい…(涙) |
おそらく、これが岩倉卿の墓。かろうじて 一般墓地から墓石の上部が見える(2010) |
幕末に討幕派公家として活躍。雅号は対岳。岩倉家は村上源氏ではあるが下級の公家で裕福ではなった。1853年(28歳)、歌道をよくした関白の門人となり、この接近を機に朝廷改革の意見を提出。これが効を奏し、翌年に関白の推薦を受け孝明天皇の侍従となる。1858年(33歳)、日米修好通商条約調印に天皇の許可を求めて幕府の老中が上京すると、岩倉は88人の公家を集めてこれを阻止した(八十八卿列参事件)。ただ、岩倉は攘夷派ではあったが、武力による単純な攘夷には否定的で、海外に使節を派遣して情報収集すべきと孝明天皇に訴えた。半年後、孝明天皇や攘夷派を押し切る形で井伊大老が日米修好通商条約を締結。安政の大獄が始まり攘夷派は徹底的に弾圧された。
この状況を見て、朝廷と幕府がこれ以上対立すると国家機能が麻痺すると考えた岩倉は、公武合体派へと転じていく。1860年(35歳)には、桜田門外で井伊大老が暗殺された。この混乱を収める究極の打開策として、幕府側から持ちかけられた14代将軍家茂と孝明天皇の妹・和宮との婚姻を積極的に進めた。
岩倉は和宮の嫁入りを実現させたものの、公武合体を推進したことによって“幕府側についた”と尊攘派が非難するようになり、武市半平太は岩倉を「遠島にすべき」と糾弾した。孝明天皇も岩倉を疑いだし、やがて攘夷派から「京都から出なければ首を晒す」と脅迫されるに至る。1862年(37歳)、身の危険を感じた岩倉は僧侶に扮装して自宅を脱出。洛北の岩倉村に長男が用意してくれた家に身を寄せた。以降、5年間も幽居することになる。その間、薩摩を中心に連絡を交わし、尊皇倒幕を各方面に説いた。
1866年(41歳)、将軍家茂と孝明天皇が立て続けに病死する。天皇毒殺説が流れ、岩倉は首謀者として疑われた。情勢は一気に流動的になり、翌1867年に大政奉還、そして王政復古の大号令となった。新政府では要職を歴任し、1871年(46歳)には総勢107名の岩倉使節団を率いて1年10か月に及ぶ欧米各国視察を行った(米国留学中の息子に説得されシカゴで髷を断髪)。立憲問題では天皇の権力が弱くなるとして当初は反対していたが、自由民権運動の高まりを見て憲法の必要性を悟り、伊藤博文をドイツ憲法の調査に渡航させるなど、大日本帝国憲法の制定に尽力した(発布は死の6年後)。 1883年、東大医学部教授エルヴィン・フォン・ベルツから、日本人として初めて“癌告知”を受ける。7月20日、喉頭癌で死去。享年57歳。他界の5日後に国葬が執り行われ、日本政府による国葬者第1号となった。本墓は品川区の海晏寺だが、子孫は墓を公開していない。京都の岩倉旧宅には遺髪墓があり、こちらは参拝可能。贈太政大臣贈正一位大勲位。
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日本を代表する婦人運動家 | 晴れていれば富士山が見えたと思う | “いこい”は随想集「だいこんの花」からの直筆 |
女性解放運動家・政治家。愛知県出身。農家の三女。女学校時代に良妻賢母教育への反対運動を展開。1913年(20歳)、女学校を卒業。教員を経て、1917年(24歳)、現・中日新聞の記者となる。26歳、日本初の婦人団体「新婦人協会」を平塚雷鳥らと設立。治安警察法が女性の集会結社の自由を禁止していた為、改正を訴える。翌年米国で女性解放運動を見て回った。
1924年(31歳)、「婦人参政権獲得期成同盟会」(翌年「婦選獲得同盟」に改称)を結成し婦人参政権を求める運動を開始。1930年(37歳)には衆議院で婦人参政権(公民権)付与の法案を可決させたが貴族院で否決され涙を呑む。1945年(52歳)、終戦後の12月17日に衆議院議員選挙法改正で念願の婦人参政権(男女普通選挙)を実現させた。 1953年(60歳)、参院選に初当選し、以降5期25年を務める。どの政党にも属さず、支援者が手弁当で選挙運動を行う選挙スタイルを貫き、選挙浄化運動に取り組んだ。他界の前年、1980年(87歳)に行なわれた参院選挙では全国区で「トップ当選」を果たすなど、多くの国民から支持されたが、1981年に心筋梗塞で生涯を終えた。母子保護、麻薬撲滅、売春禁止、再軍備反対、汚職防止など様々な活動を推し進め、生前には化粧を一切せず、勲章なども全て辞退した本物の闘士。目的の為なら戦時内閣であろうと暴力団であろうと何でも利用するしたたかさを持ち、GHQにより3年間公職から追放されたこともあった。圧巻の行動力。
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大河『太平記』で 鶴太郎が熱演 |
『北条高時・腹切りやぐら』 インパクトのある名前だ… |
中央の奥に見える黒い穴が“腹切りやぐら”。 付近一帯で実に約870人が自刃しているという |
現在は法戒寺の管理下 |
正面に“鎌倉合戦東勝寺戦没北条氏一門 諸精霊”と書かれた大きな木柱が建っている |
“やぐら”の中には供養塔と無数の卒塔婆。天井 から水がしたたり、池に浮かんでいるようだった |
卒塔婆には五色が入っていた。こんな色つきの卒塔婆を 見たのは初めて。僕は霊感ゼロだが空気が冷たく緊張した |
鎌倉幕府の14代執権。最後の得宗。9代執権北条貞時の三男。1311年(8歳)、貞時が死去。その際、父は幼い高時の後見に内管領(うちかんれい、北条家の執事)の長崎高綱(円喜)を指名した。それから5年後(1316年)、高時は13歳で執権となったものの、実権は長崎高綱・高資父子に掌握されていた。高時は政治への関心を失い、酒宴、闘犬、田楽にのめり込んだ。10年後の1326年(23歳)、高時は病のため執権職を辞し出家。執権の後継を巡って争いが起き、15代北条貞顕(さだあき)がたった10日間在職しただけで、最後の執権となる16代北条守時(もりとき)が後を継いだ。
やがて長崎氏の専横に御家人たちの不満が増大。これをチャンスと見た後醍醐天皇が京都で討幕運動を起こす。各地で幕府打倒の蜂起(楠木正成など)が続き、幕府は御家人筆頭の足利高氏を京都へ派遣するが、高氏は裏切って後醍醐天皇側につき六波羅探題を滅ぼした。1333年5月に現・群馬県新田郡で新田義貞が挙兵し、2週間で鎌倉に至る。新田軍が鎌倉に攻め入ると高時や長崎氏は葛西ヶ谷(かさいがやつ)の東勝寺に入って火をかけ、一族もろとも自害し果てた。享年30歳。このとき、東勝寺で自刃した者は283名の北条一族と約590人の家臣、計約870人(!)に及ぶ。鎌倉幕府は滅亡し、頼朝公以来約150年の歴史に幕を閉じた。
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寛永寺の「徳川綱吉霊廟勅額門」(2010) | 綱吉墓。一般非公開だが秋に抽選で墓参可能(2004) |
江戸幕府5代将軍。3代家光の4男で母は桂昌院。1680年(34歳)、兄の4代家綱が他界し将軍を継ぐ。綱吉は越後国高田藩の御家騒動を自ら審議して親藩筆頭を改易するなど、領国の運営に問題を抱える大名を片っ端から処罰。これによって先代・家綱の世に没落した将軍家の権威を高めた。また、徳を重視する文治政治を推し進め、新たに勘定吟味役を設けて無能な代官を大量処分した。これら綱吉自らが積極的に行なった政治は「天和(てんな)の治」と呼ばれる。
1685年(39歳)、綱吉はまだ世間に残っていた戦国の殺伐とした気風を排除するため「生類憐みの令」を発布。初期の頃は条文の内容も比較的おおらかで、「犬・猫・牛・馬を大事にせよ」という程度の4つの条文に過ぎなかった。ところが綱吉に媚びる幕臣たちが中身を歪めてしまい、60条以上もの苛烈な動物愛護法にふくれあがってしまう(『生類憐みの令』とは一つの法律ではなく60回以上出された動物愛護法の総称)。当初、庶民は将軍が気まぐれに出しただけですぐに廃法になると信じきっていたこの法は、綱吉が没するまで実に24年間も続くことになる。綱吉の干支が戌であった為、特に犬が大切にされた。
以下、この珍法が巻き起こした騒動を紹介。まずは主な条文の抜粋。もう、可笑しいやら呆れるやら。
一、将軍御成りの時に人が土下座しても、犬や猫をつないでおく必要はない 一、町内には犬用の水と書いた桶、柄杓を置くべし 一、犬の毛色をすべて帳簿に記して、その出入りを把握せよ 一、蛇・犬・猫・鼠などに芸を教えて見世物にしてはならない 一、人力車を引いて行くときには、必ず別の一人が先導して犬を避けさせ、車に轢かれないようにせよ(虫を踏んでもいけない) 一、犬の喧嘩は引き分けよ。傍観してはならない 一、食料の為に魚介類を飼育・養殖して売ってはならない(つまりメザシですら食べれば逮捕) 一、生きた鶏を売ってはならない 一、犬が行方不明になったら徹底的に探せ 一、鳥類・家畜類はもとより、ノミ・蚊・蝿にいたるまで殺してはならない 一、馬にたくさんの荷物を背負わせ苦しめてはならない 一、ボウフラを殺さないために打ち水に注意せよ 一、捨て子、捨て牛馬の禁止 一、小鳥を飼うことを禁止する 一、子犬が遊びに出るときには親犬をつけさせよ 一、魚釣りは“厳禁” 一、違反者を密告した者には、賞金を与える
一、巷では飼い主がいない犬に日ごろ食物を与えないようにしているという。食物をあたえれば、飼い犬のようになって面倒なことが起こると考えているらしいが、けしからん。これからはそのようなことがないよう心得よ 幕府は違反者のないよう犬目付といふ監視人を江戸中に配置した。当然ながら野犬は増えまくり、幕府はその対策として、現・JR中野駅前に総工費20万両(約200億円)をかけて東京ドーム20個分という圧倒的スケールの「お犬さま御殿」(犬小屋)を完成させる。そこには25坪の御犬小屋が290棟、7坪半の日避け場が295棟、小御犬(子犬ではなく“小御犬”)養育所が460箇所もあった。施設では10万匹の犬に対し、一匹あたり一日に米2合が支給された。このエサ代だけで年間約120億円!犬小屋に収容しきれない犬は、周辺の村々に預けられ、幕府から年間の養育金が支払われた。 犬の戸籍を作らせるなど法令はしだいに極端化し、挙句の果てに飼っている金魚の数(!)まで登録させた。これには口数の多い江戸っ子も閉口したという。特に、将軍のお側に奉公する者は獣だけでなく魚介類・玉子に至るまで口にせず、蚤・虱・蚊・蝿も殺さないと誓紙を書かされたという。 そして、その違反者への“処罰”だが… ・ある武士は襲いかかってきた犬を切り捨てたために切腹させられた ・鳥を殺して売った与力・同心(奉行所の役人たち)11人が切腹、その子どもまでが島流し ・ある町人は自宅の井戸に野良猫が落ちて死んだという罪で、八丈島に流刑 ・コオロギや鈴虫など虫を売った町人が投獄 ・ある役人が、門の上に集まってくる鳩に石を投げたために、同僚全員が連帯責任で謹慎 ・頬に止まった蚊を叩いた百姓は流罪、それを見ていて報告しなかった者も自宅謹慎 ・喜多見重政の小姓は額に止まった蚊を叩いた咎により死罪となった ・ある武士は、五歳の子供の病気に燕の肝が効くと聞いたので、飛んで来た燕を吹き矢で殺した。それが発覚して親子ともに斬罪になり、見ていた人も流罪に ・鶏を盗んで売った男が磔(はりつけ) ・元禄9(1696)年8月、犬を殺した江戸の町人が獄門(首さらし)に ・「馬が“今年は疫病が流行ると人の言葉を喋った”」という噂が町中に流れた際、綱吉は動物をネタにしたデマに激怒、噂を広めた犯人を逮捕する為、江戸中を一町毎に徹底調査させた。その結果犯人は捕まり磔になったが、この調査で江戸の人口が35万人と判明。思わぬところから江戸時代初の人口調査となった(汗) …とまあ、色んな話が出てくる出てくる。『生類憐みの令』は、旅で行き倒れた人や弱い子どもを大切にしようという精神も含まれており、その点では良い政策だった。だが、幕府のやりすぎに怒った徳川光圀(水戸黄門)は、犬の毛皮50枚を綱吉に送り命懸けの抗議をした。 綱吉は幼少より儒学を学び尊皇の思いが篤く、皇室領の御料所(ごりょうしょ)を3倍に増やし、計66陵もの御陵(天皇の墓)を大金で修復させた。綱吉はまた、東大寺大仏殿の再建や、護国寺建立など寺院建設を進め、これによって幕府財政はいっそう悪化していく。
1701年(55歳)、赤穂藩主の浅野長矩が江戸城で吉良上野介に斬りかかる大事件が発生。当日は天皇の使者の接待があり、この騒動で儀式に混乱が生じた事から、激怒した綱吉は浅野に即日切腹を命じた。翌年、この処置を不服とした赤穂浪士が吉良邸討ち入りを決行し、時代に息苦しさを感じていた江戸っ子は熱狂した。1709年、綱吉死去。享年62歳。即座に『生類憐みの令』は廃法となった。
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家定の墓 | 夫婦で並んでいる。右手前が家定、左奥が天璋院(篤姫) | 天璋院(篤姫)の墓 |
13代将軍。12代家慶の4男。1853年(29歳)、黒船来航直後に家慶の死を受けて将軍に就任。幼少から病弱であったため、実際の幕政は老中阿部正弘や堀田正睦が主導したが、米国総領事ハリスと江戸城で謁見している。
家定は2度も妻に先立たれており、1856年(32歳)に薩摩出身で近衛忠煕養女の篤子(篤姫、後の天璋院)を3度目の妻に迎える。1858年に家定は病死し、篤子との夫婦生活は2年で終わった。享年34歳。暗殺を怖れて家定自身がよく調理をし、趣味はカステラ作りであったという。遺骨の調査で身長149cmと判明。
晩年に後継者問題が起き、一橋慶喜(徳川慶喜)を推す島津斉彬や徳川斉昭など一橋派と、紀州藩主・徳川慶福を推す井伊直弼ら南紀派が対立する。最終的に井伊直弼が大老に就き、慶福が14代将軍となった。慶福は家定の養子となり、名を家茂に改めた。
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首相を2度務める | 日銀も設立 |
東京駅中央コンコース10番線下には「浜口首相遭難現場」のプレートが設置されている |
「ライオン首相」と慕われた | 軍縮政策で軍部と対決 | 右翼に狙撃された。なんてこった! |
高知県出身。東京帝大卒業後、大蔵官僚を経て、1915年(45歳)に代議士となる。蔵相や内相を務めた後、1929年(59歳)に民政党初代総裁として第27代首相に就任。風貌から国民に「ライオン首相」と呼ばれ人気があった。協調外交を重視し、軍部の強硬派と対立。田中義一前首相のもとで泥沼化した日中関係の改善に尽力した。 1930年(60歳)、軍艦保有数を制限するロンドン海軍軍縮条約を、海軍や枢密院の反対を押し切る形で締結。これを軍部や立憲政友会は越権行為と激しく攻撃した(統帥権干犯問題)。同年11月14日、右翼愛国社員から東京駅第4ホーム(現在の東海道新幹線改札付近)で銃撃されて重傷を負い、それがもとで9カ月後に他界した。位階は正二位。勲等は勲一等。号は空谷。 |
青山霊園のメインストリートに面している | 「伯爵佐野常民之墓」 |
日本赤十字社の創始者。佐賀藩士。元老院議長。藩校弘道館で医学を学び、緒方洪庵の適塾で大村益次郎らと蘭学を学ぶ。1855年(32歳)、長崎でオランダ蒸気艦スンビン号を視察し、日本初の蒸気機関車・蒸気船の模型を製作。1863年(40歳)、国産第1号の蒸気船「凌風丸」(りょうふうまる)を完成。 1877年(54歳)、西南戦争が勃発し、両軍に膨大な負傷者が出たことから、佐野は敵味方の区別なく傷病兵を救護する組織の必要性を痛感。以前にパリ万博で見聞した赤十字の事業を国内で試みる。当初は敵兵の治療という行為が政府内で批判されたが、佐野は現地の政府軍総督・有栖川宮熾仁親王を説得し「博愛社」を設立。熊本や長崎に病院を開いて負傷兵を治療した。1887年(64歳)、博愛社は「日本赤十字社」と改称され、初代社長となった。 |
太平洋戦争の開戦時及び終戦時の外務大臣。駐ドイツ大使や駐ソ連大使を歴任。1941年(59歳)、日米開戦に反対し、東条内閣の外相として対米交渉にあたっていたが戦争を回避できなかった。1945年(63歳)4月、鈴木貫太郎内閣に外相兼大東亜相として入閣し、終戦工作に尽力。東郷は平和主義者で軍部と常に対立していたが、東京裁判では開戦時の外相という責任を問われ、A級戦犯として禁錮20年の判決を受けた。1950年、巣鴨拘置所で獄中死(病没)。享年67。 |
青山霊園の墓(2010) | 高野山の墓/撮影許可あり(2013) |
広島県出身。京大から大蔵省に入り、事務次官を経て、1949年(50歳)に衆議院議員に初当選、吉田茂の右腕となる。1960年(61歳)、安保闘争により総辞職した岸内閣の後を受けて第58代総理大臣に就任。以降、59代、60代と首相になり、4年4カ月の間政権を握った。「寛容と忍耐」をモットーに、所得倍増を唱えて高度経済成長政策を推進した。19世紀生まれの最後の首相。位階は正二位。大勲位。 |
信念に散る | 「贈正二位故文部大臣勲一等子爵森公墓」(右側) | 花が新しく参られている墓だ |
近代国家として教育制度の確立に尽力。初代文部大臣、一橋大学創設者。父は薩摩藩士。通称は助五郎、金之丞。1865年(18歳)、藩のイギリス留学生に選ばれ五代友厚らと渡欧。2年後、渡米。1868年(21歳)に帰国。翌年に廃刀案を提出し、士族層から猛反発を受けた。1870年(23歳)、外交官として再び渡米。3年後に帰国し、西洋思想の紹介と啓蒙活動のため、福沢諭吉や西周らと明六社を結成する。 1875年(28歳)には一橋大学の前身である商法講習所を設立した。続けて、駐清公使、駐英公使を歴任。1885年(38歳)、初代の文部大臣に就任し、翌年に学校令を公布するなど近代教育制度の確立のため大改革をスタートした。だが、これらを性急な西洋化と誤解した国粋主義者・西野文太郎によって、1889年2月11日の大日本帝国憲法発布の日、官邸玄関で暗殺された(他界は襲撃の翌日)。 |
第3代・第9代総理大臣。近代陸軍を創設した“国軍の父”。元長州藩士(足軽以下の中間)。前名、小輔・狂介。1858年(20歳)、久坂玄瑞の紹介で吉田松陰の松下村塾で学ぶ。1863年(25歳)、高杉晋作が創設した奇兵隊の軍監として下関で外国艦隊と交戦。下級武士であったが、身分にこだわらぬ高杉のおかげで、伊藤博文と同じく名をあげるきっかけを与えられた。長州征伐でも前線で戦い、戊辰戦争では会津征討総督の参謀として活躍。1868年、30歳で明治維新を迎え、翌年軍制調査のため渡欧。帰国後は徴兵制を導入し国民皆兵を実現。1873年(35歳)、初代陸軍卿(陸軍大臣)に就任し、参謀本部を創設して天皇の統帥権独立の基礎を築く。 1877年(39歳)、西南戦争が勃発すると官軍の事実上の総指揮をとる。徴兵された百姓が集まった素人軍隊が、戦闘のプロである薩摩の士族軍を打ち破り、山県の徴兵令の正しさが証明された。 1883年(45歳)、内務卿に就任し市制・町村制・府県制・郡制を制定。1889年(51歳)、首相に任ぜられ、初の衆議院選挙、第1回帝国議会の開催に立ち会う。翌年、教育勅語を発布。1898年に第2次内閣を組織。富国強兵策を推進する一方、コネだけで官僚が登用されぬよう文官試験制度を整えた。 1909年(71歳)、伊藤博文が暗殺され、山県の権力がさらに増大。軍備拡張を進めつつも外交路線は協調を基本としており、中国に対する「対華21ヶ条要求」を批判。出兵には慎重であり、政党政治家が無謀な戦争に走ることを警戒した。政党には外国との非協調派が多かったため政党政治に否定的で、軍人・官僚に信頼をおいた。 元老として長期にわたり絶大な権力を握り、日清戦争では第一軍司令官として戦地に立ち、日露戦争では参謀総長として戦争遂行を指揮。陸軍大将・元帥。従一位、大勲位。裕仁親王(皇太子時代の昭和天皇)の許嫁である良子女王(香淳皇后)の家系に色盲の遺伝があることを問題にしたことで批判を受け、失意のうちに死去。自由民権運動の弾圧や、大逆事件に対する非情な処置、宮中への必要以上の論及などから国民の人気は低く、国葬となったが一般人の参列者はほとんどいなかったという。 ※山県の死で薩長藩閥支配は終わった。石橋湛山いわく「(山県の)死もまた、社会奉仕」。 ※造園好きで、東京の椿山荘(ちんざんそう/1万8千坪)、京都の無鄰菴、小田原の古稀庵庭園は、自然を生かした構想を自ら練ったもの。 ※山県の権力への強い執着を、原敬は「あれは足軽だからだ」と断じた。 ※「明治天皇の時には、山県(有朋)、大山(巌)、山本(権兵衛)等の如き陸海軍の名将があったが、今度の時には、あたかも第1次世界大戦の独国の如く、軍人が跋扈して大局を考えず、進むを知って、退くことを知らなかったからです」(昭和天皇) ※ある同時代人の評「山縣は面倒見が良く、一度世話したものは死ぬまで面倒を見る。結果、山縣には私党ができる。一方、伊藤(博文)はそのような事はしない。信奉者が増えるだけで是が非でも伊藤の為に働こうとする者はいなかった。しかし伊藤はそれを持って自己の誇りとしていた」。 |
尊王攘夷派公家の中心人物。京都生まれ。父は将軍後継者問題で井伊直弼と対立していた三条実万(さねつむ)。母は土佐藩主・山内豊策の娘。実美は公武合体派の岩倉具視と対立。1862年(25歳)、将軍家茂に攘夷をうながすため、姉小路公知(きんとも)と江戸に上がった。翌年、公武合体派の巻き返し「文久3年8月18日の政変」が起き、実美は沢宣嘉(のぶよし)ら6人の公家と長州に脱出(いわゆる“七卿落ち”)。長州征伐後、福岡藩にわたり31歳で明治維新となった。王政復古後、新政府の議定(ぎじょう)となり、副総裁などの要職を経て、1871年(34歳)太政大臣となった。内閣制発足後は内大臣。公爵。元勲。号は梨堂。 |
“明治の父”といわれる | 四隅に花立てがある珍しい形 | 台座は文字の部分にだけ苔が生えている | 「小栗上野介」と彫られていた |
幕政改革を主導した親仏開明派の幕府官僚。江戸生まれ。父は新潟奉行・小栗忠高。上野介(こうずけのすけ)。1860年(33歳)、日米修好通商条約の批准書交換のため渡米。地球を一周して帰国した後、外国奉行に昇進。その後、軍艦・勘定の各奉行を歴任し、西欧の陸軍編成を念頭に軍制改革にあたる。海外を知る忠順は、鎖国にこだわる朝廷に失望し、1863年(36歳)、開国を朝廷に迫るべく陸軍部隊を率いて京に向かう計画を立てるが発覚し頓挫する。 幕府財政の再建に尽力し、駐日フランス公使ロッシュの協力を得、横須賀製鉄所(造船所)の建設に着手。フランスとの交流を通して、残業手当や月給制という概念が日本に導入された。また、小栗は日本初の西洋式火薬工場を建設するなど武器弾薬の国産化も進めた。 1866年(39歳)、フランスと600万ドルの借款契約を結び、これを幕政改革の資金にしようと奔走するが、大政奉還を迎えてしまう。戊辰戦争の初戦で幕府軍は敗戦したものの、小栗には勝算があった。箱根に入った官軍を陸軍が迎え撃ち、官軍の後続部隊を榎本率いる幕府艦隊が駿河湾から艦砲射撃で足止めし、箱根で孤立化した官軍を壊滅させるというもの(後日、この作戦を聞いた官軍総指揮・大村益次郎は“遂行されれば我々の首はなかった”と震え上がったという)。だが、この徹底抗戦案は徳川慶喜から拒否された。三井家(三野村利左衛門)から千両箱と共に米国亡命を勧められたがこれを断り、治安部隊・彰義隊隊長に推されるも「徳川慶喜に薩長と戦う意思が無い以上、無名の師で有り、大義名分の無い戦いはしない」と固辞した。小栗は江戸を去り、知行地(現・群馬県高崎市)に隠退し、水路を整備したり塾を開くなど静かな生活を送った。 それから2カ月後、官軍に捉えられた小栗は、取り調べもなく河原に家臣3人と引き出された。小栗の家臣が軍監に大声で無罪を主張すると、小栗は「お静かに」と諭し、大勢の村人が見守るなか斬首された。享年40。「明治政府の近代化政策は、小栗忠順の模倣にすぎない」(大隈重信)。「日本海海戦に勝利できたのは製鉄所、造船所を建設した小栗氏のお陰であることが大きい」(東郷平八郎)。司馬遼太郎いわく(小栗は)「明治の父」。 ※「徳川埋蔵金説」は小栗が勘定奉行時代に徳川家の大金を隠蔽したという説によるもの。 ※英語の「company」を「商社」と訳したのは小栗とのこと。 |
「幕末三俊」の1人 |
左端が忠震。中央は父の忠正 |
「従五位下肥後守爽恢岩瀬府君之墓」。 “府君”は偉人や祖父・父に対する尊称 |
小栗忠順、水野忠徳と共に俊傑と目され「幕末三俊(さんしゅん)」と讃えられる江戸後期の幕臣。開明派官僚の第一人者。外国奉行で勝海舟ら優れた人材を登用した。江戸生まれ。幕臣設楽貞丈(しだら・さだとも)の三男で岩瀬忠正の養子。通称篤三郎、修理(しゅり)。伊賀守、肥後守に任ず。 1853年、35歳のときにペリーの黒船が来航。翌年(36歳)、老中首座の阿部正弘によって目付(監察)に抜擢され、短期間で外国奉行に出世。開国に積極的な外交官として、1855年に来航したロシアのプチャーチンと日露和親条約締結。 1856年(38歳)、清国が英仏連合軍に攻撃されるアロー戦争(第二次アヘン戦争)が勃発し、忠震は次の標的が日本になるのではと懸念する。そして英仏が来襲しないよう、アメリカを後ろ盾にする策を採る。日米修好通商条約の締結許可を孝明天皇(在位1847〜1866)から得るため、老中堀田正睦(まさよし)らに従って京都におもむき公卿の説得にあたるも果たせず。1858年(40歳)、勅許を待たずに下田奉行の井上清直(きよなお)と共に米国総領事ハリスと交渉し、日米修好通商条約に調印した。 ハリスは2人の日本人の対応に感服していわく「井上、岩瀬の諸全権は綿密に逐条(ちくじょう)の是非を論究して余を閉口せしめることありき。…懸かる全権を得たりしは日本の幸福なりき。彼の全権等は日本の為に偉功ある人々なりき」。 13代家定の将軍継嗣(けいし)問題で徳川慶喜を支持して一橋派に属したことから、大老・井伊直弼に嫌われ、安政の大獄で作事奉行に左遷されたうえ、翌1859年には官位を奪われ蟄居を命じられる。それから2年後の1861年、失意の中で病死した(うつ病から胃潰瘍になり、それが悪化したようだ)。憂憤による死とも伝わる。享年42。 |
政治家。長州藩出身。通称、聞多(もんた)。号は世外。伊藤博文の盟友。討幕運動で活躍し、維新後は政府の要職を歴任。積極的に欧化政策を推進する。第一次伊藤内閣の外相として条約改正を試みるも挫折。農相・内相・蔵相などを歴任し、晩年は元老として政財界に重きをなした。侯爵。桂太郎は娘婿。 |
幕末の15代土佐藩主。幕末の四賢侯の一人。容堂は号、名は豊信(とよしげ)。分家出身。吉田東洋を用いて藩政改革を断行。将軍継嗣問題では一橋派に属し公武合体に尽力。1867年(40歳)、後藤象二郎の建策を容れて将軍徳川慶喜に大政奉還を建白。維新後は議定(ぎじょう)。酒をこよなく愛し、「鯨海酔侯」(げいかいすいこう)と自称。志士からは「酔えば勤皇、覚めれば佐幕」と揶揄された。 ※幕末四賢侯…年長順に、薩摩藩第11代藩主・島津斉彬(1809-1858)、宇和島藩第8代藩主・伊達宗城(むねなり1818-1892)、福井藩第14代藩主・松平慶永(春嶽1828-1890)、土佐藩第15代藩主・山内豊信(容堂1827-1872)。 |
大政奉還で活躍 | 左右から先妻と後妻に挟まれている |
正面「宏徳院殿道誉哲心元曄大居士」 | 背後「正一位勲一等伯爵後藤象二郎之墓」 |
土佐藩士。藩参政(家老)の吉田東洋は義理の叔父。幕末、公武合体派の先頭に立ち土佐勤王党の武市瑞山らを切腹させる(27歳)。1867年(29歳)、坂本龍馬と接近した際に、平和的に倒幕を成し遂げる“船中八策”を提案される。同年、象二郎は山内容堂(15代土佐藩主)と連名で幕府に建白書を提出し、15代慶喜に大政奉還を認めさせた。維新後は明治政府の参議など要職を歴任するが征韓論により下野。幼なじみの板垣退助の自由党結成に協力した。解党後に大同団結を提唱。 娘婿は三菱財閥の2代目総帥・岩崎弥之助(弥太郎の弟)。長男は日活の前身、日本活動フィルム会社の初代社長。 |
「保元の乱」に散る | 墓は別名“桜塚”。五輪塔が頼長の墓 |
安後期の貴族。関白・藤原忠実の次男。若い頃から勉学に励み、「日本一の大学生(だいがくしょう)、和漢の才に富む」と讃えられた。わずか17歳で内大臣となり、鳥羽法皇に寵遇されて1149年(29歳)には左大臣となる。1151年(31歳)、天皇の重臣・内覧となるが兄の摂政・藤原忠通と権力の座を巡って対立を深めていく。 1155年(35歳)、近衛天皇(鳥羽法皇の子)が16歳の若さで病死すると、生前に近衛天皇が頼長を嫌っていたことから、都には忠実・頼長父子が近衛天皇に呪いをかけたと噂が流れた。鳥羽法皇がこの噂を信じた為に頼長は後ろ盾を無くしてしまう。さらに、新たに即位した第77代・後白河天皇は兄・忠通が推した人物で、頼長は失脚し宇治にて謹慎する。 翌1156年、鳥羽法皇が崩御したことを機に、頼長は権力を取り戻すべく、崇徳上皇(第75代天皇)、源為義、、源頼憲、平忠正らと結んで挙兵した(保元の乱)。一方の後白河天皇には源義朝・平清盛らがバックについた。頼長は源為朝から「夜討ちで奇襲すべし」と提案されたが、「それは卑怯者のすること」と却下した。ところが、逆に後白河天皇側が夜討ちをかけてきた。頼長は眼に矢があたり大流血。敗走中に戦死した。 頼長の五輪塔は元々京大熊野寮(左京区丸太町通)の近くにあった。1887年、同地の紡績会社の拡張工事で塚が壊され、五輪石塔だけが相国寺に移された。 |
名君・松平春嶽 |
品川区の海晏寺(かいあんじ)。 墓地は公開・非公開エリアに分かれている |
本堂の後方、行く手を阻む非情な鉄柵…。 お寺の管轄外で「開ける権利がない」とのこと |
南京錠と「許可無く入れば警察に通報します」 の警告文。あうう…墓参したい…(涙) |
こちらが春嶽公のお墓!!大河ドラマの 主人公になれば墓所の扉が特別に開くかも… |
同墓地の由利公正(ゆり・きみまさ)の墓。財政学を 学び、破綻寸前の福井藩の藩財政を再建させた。 五箇条御誓文の発案者で龍馬とも親しく交流した |
幕政改革・公武合体を推進した幕末の福井藩主(16代)。徳川12代将軍家慶の従弟。名は慶永(よしなが)、春岳は号。14代将軍継嗣問題では一橋派として井伊大老と対立。さらに日米修好通商条約の無断調印をめぐっても意見を異にし、安政の大獄で隠居・謹慎を命ぜられた。のち政事総裁職。明治政府の議定・民部卿・大蔵卿を歴任。幕末四賢侯の一人。 ※幕末四賢侯…年長順に、薩摩藩第11代藩主・島津斉彬(1809-1858)、宇和島藩第8代藩主・伊達宗城(むねなり1818-1892)、福井藩第14代藩主・松平慶永(春嶽1828-1890)、土佐藩第15代藩主・山内豊信(容堂1827-1872)。 |
愛称は“ヌマさん” | 壇上で右翼少年に暗殺された | 二度も刺された。当写真はピュリツァー賞に |
飾らない性格で人気があった | 「浅沼稲次郎之墓」 | 後方の碑文「大衆に最も愛された政治家」 |
「ヌマさん」の愛称で親しまれた社会党委員長。東京都三宅島出身。早大卒業後、農民運動や鉱山労働運動を指導し、1924年(26歳)に治安警察法違反で懲役5カ月の実刑。敗戦後、1945年(47歳)の日本社会党結成に参加し、翌年以後、衆議院に7回連続当選。社会党の書記長・委員長を歴任し、安保改定反対闘争を指導した。気さくな性格で、古アパートにて30年間暮らし、ディズニーの『わんわん物語』でブルドッグ役の声優になった。 1960年10月12日、日比谷公会堂で演説中に右翼少年=元大日本愛国党員で17歳の山口二矢(おとや)から短刀で2度刺され、病院へ搬送中に絶命。山口はその場で逮捕され、事件から3週間後の11月2日、「後悔はしていないが償いはする」と留置先・東京少年鑑別所の壁に歯磨き粉で「七生報国 天皇陛下万才」と記し、シーツを裂いて首吊り自殺した。山口の辞世の句は「国のため 神州男児 晴れやかに ほほえみ行かん 死出の旅路に」。 浅沼暗殺事件の様子は、ラジオで生中継されていた。毎日新聞の長沼カメラマンは事件の瞬間を捉え、日本人初のピューリッアー賞を受賞。 |
墓所の入口。個人墓所としては破格の規模 | 3度も首相を務めた | 「公爵桂太郎之墓」 |
内閣総理大臣(第11・13・15代)、陸軍大将。長州藩士。山県有朋の後継者。母の実家は松下村塾のスポンサーで、11歳の時に吉田松陰が刑死している。戊辰戦争では奥州各地を転戦、苦戦を経験。維新後、1870年(22歳)からドイツに留学し兵制を学び、帰国後はドイツ式軍制の導入に尽力。1888年、鎮台を廃し師団を置いた。陸軍次官、第3師団長(日清戦争出征)、台湾総督(第2代)を歴任し、陸軍大臣を4期務めた後に、1901年(53歳)、第11代首相に就任。翌年、ロシアのアジア進出を牽制する目的で日英同盟を締結。1904年(56歳)、日露戦争を決断し、1年7カ月の戦いを経て勝利するも、ポーツマス条約でロシアから賠償金をとることができず総辞職。 日露戦争から明治天皇崩御までの約10年間は、立憲政友会・西園寺公望と交代で首相を務めたことから「桂園(けいえん)時代」と呼ばれた。第2次桂内閣(1908年7月〜11年8月)では韓国併合を行う一方、幸徳秋水ら社会主義者への弾圧を強めた。1912年(64歳)、第3次桂内閣は護憲運動の高まりのなかで62日間という短命政権(歴代2位。1位は東久邇宮内閣の54日間)となった。辞職の8カ月後に癌及び脳血栓により他界。享年65。元老・井上馨とは義理の親子。遺言により吉田松陰之墓所の側に葬られた。3度の首相就任により、のべ在職日数は歴代1位の2886日(連続在職1位は佐藤榮作)。 |
日中開戦時の首相 |
墓所は撮影禁止区域。これを申請 | 高野山の最深部、弘法大師廟のすぐ手前に眠る |
正面に戒名「荻外院殿虎山大居士」 | 側面に「近衞文麿 享年五十五」とある(満54歳) |
内閣総理大臣(第34・38・39代)、勲一等公爵。父は華族の近衛篤麿(近衛家は五摂家筆頭)。東京出身。京大卒。在学中に河上肇から影響を受け、社会主義思想に一時傾倒。その後アジア主義をとり、1918年(27歳)、アジア植民地解放により日本の活路がひらけるとした論文『英米本位の平和主義を排す』を発表。1933年、42歳で貴族院議長に就任。1937年6月4日、文麿は軍部と政党の和解を期待され、45歳7カ月という史上2番目の若さで首相となり、第一次近衛内閣を組閣した(大臣経験なしの大抜擢)。 その1カ月後の7月7日に盧溝橋事件が勃発、文麿が派兵を即断したことで事態は悪化し、日中戦争が始まった。年末に南京を陥落させ中国に甚大な被害を与えたが、中国は降伏せず、翌年文麿は和平交渉を打ち切った。そして「東亜新秩序建設」を掲げて戦争を泥沼化させていき、国家総動員法を公布、経済統制をすすめた。 1939年(48歳)、陸軍との対立で辞職し、枢密院議長に就任。1940年(49歳)、再び首相となり「大政翼賛会」を結成し、ナチスを手本としてファシズム下の国民統制組織を作り上げた。 文麿は大陸で武力南進政策をとってベトナム進駐を強行したため、アメリカと激しく対立。1941年、日米開戦を避けるために日米外交交渉を開始。松岡洋右外相(ドイツ支持)が日米接近に反対するため更迭し、総辞職後に第3次内閣で交渉を継続した。ルーズベルトとのトップ会談実現に向けて奔走するが、東条陸相の対米主戦論に敗れて辞職。敗戦後、東京裁判においてA級戦犯容疑者として出頭命令を受け、拘引の直前(出頭当日の朝)に服毒自殺した。享年54。 |
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