豊島区の南長崎花咲公園(2010) 入口に“漫画の聖地"トキワ荘の記念碑 |
1953年、手塚が最初に入居し、転居後に その部屋に藤子不二雄が入った |
現在、トキワ荘の跡地に出版社が建っている |
1999 | 1999 | 2003 |
墓前の石碑に刻まれた、火の鳥、アトム、 リボンの騎士、BJ、手塚御大、ジャングル 大帝、お茶の水博士、ヒゲオヤジ!感動! |
「オロロ〜ン!」三十路男3人で大阪から上京し、夢にまで 見た手塚先生と感動の謁見!そして即、全員号泣! 周囲のセミを沈黙させた慟哭は、東京23区に響き渡った! |
4年後に再巡礼。もし先生が ご存命なら、今の世界を どう感じていらっしゃるだろう |
先生が眠る總禅寺の山門。 住宅街の中にありちょっと分かりづらい |
2010年、7年ぶりに墓参! 冒頭に紹介した石碑(レリーフ)は墓の左手前にある |
右側は『陽だまりの樹』で 描かれた曾祖父・手塚良仙 |
2013 4度目の巡礼。好天に恵まれた | 最高級の石材、庵治石で作られていることに気づいた |
うおおおおお!!大阪から何度も墓参しているうちにお寺の方と親しくなり、 手塚先生のお葬式(手塚プロの社葬)で参列者に配られたハンカチを下さった!! |
いつも熱血!マンガLOVE! | ヒゲオヤジに扮する先生 | アニメ版アトムの制作風景 | 60年の人生を駆け抜けた |
宝塚の手塚治虫記念館(2009) | て、て、手塚先生ッ! | 人気キャラが勢揃い |
60年というけっして長くはない生涯の間に700作品、17万ページに及ぶマンガを描き残した世界マンガ史の神様。 ストーリー漫画の第一人者にして医学博士。
1928年11月3日、大阪府の現・豊中市に生まれる。明治天皇の誕生日に生まれたことから「治」と名づけられた。遠祖は平安時代の木曽義仲の重臣・手塚光盛。曽祖父・手塚良仙は緒方洪庵が設けた適塾出身の蘭方医で江戸に種痘所(現・東大医学部の前身)を設立した人物の一人。祖父は司法官で現・関西大学の創立者の一人。父は住友金属の会社員で映画や漫画を好んでいた。母もまた漫画好きで自分でパラパラ漫画を描くなどした。5歳で現・兵庫県宝塚市に引っ越し、母に連れられ宝塚歌劇に親しんだ。手塚は幼少期から趣味で漫画を描き、昆虫好きだったことから、小学4年のときに名前が似ていて害虫を食べる善玉虫のオサムシ=治虫をペンネームとした。 1941年(13歳)、日米開戦の年に北野中学校入学(現・北野高校)。戦争は泥沼化し、16歳で強制修練所に入れられ、さらに軍需工場に駆り出された。戦時下ゆえ1945年に17歳で繰り上げ卒業となり勤労動員となる。同年6月に大阪大空襲に遭遇し、近くに焼夷弾が投下されたが奇跡的に助かった(このとき手塚少年が死んでいたら、日本のマンガ文化はここまで発展しなかったと断言する)。 手塚治虫の創作パワーの源、それは自伝的作品『紙の砦』でうかがい知れる。主人公は戦時中の漫画家志望の少年。彼は「この非常時にマンガを描きやがって!」と軍人に暴行される。そして空襲で火傷を負い川へ逃げると、そこは既に地獄絵巻となっていた。「これ…みんな人間かい…人形の焼けたんじゃないのかい…」。ラストは終戦の知らせを聞いて歓喜し「ウワーハハ!ぼくは生きてるぞ、生き延びたんだーっ!ウワーウワー!これからはマンガが描けるぞーっ!」と嬉し涙に泣き濡れる。マンガを描きたくても禁止されていた時代、いつ自分が死ぬか判らなかった時代、それらを体験したことが原動力(バネ)となって、怒涛のように作品が生み出されていく。 手塚は空襲で焼け残った大阪松竹座で長編漫画映画『桃太郎 海の神兵』(海軍省製作)を鑑賞して熱い感動に包まれ、「絶対に将来自分の手で漫画映画を作るぞ」と決意する。 悲惨な戦争体験から生命の尊さを学んだ手塚は、空襲の翌月に現・大阪大学医学部に入学。終戦後、隣家の住人が毎日新聞と縁があり、そのツテから1946年1月、デビュー作の四コマ漫画『マアチャンの日記帳』を少国民新聞(毎日小学生新聞)に連載スタート(1月時点ではまだ17歳)。この年、手塚は同人誌の例会で漫画家の酒井七馬と知り合い、「長編ストーリー漫画を共作しよう」と誘われた。長編は手塚の悲願であったことから快諾し、酒井の原案を元に手塚が200ページを描き下ろした長編『新宝島』が完成した!(当時の少年雑誌の漫画は4ページが標準) 明くる1947年(19歳)1月、『新宝島』出版!同作は映画的手法(=状況説明をセリフに頼らない)を駆使したコマ割りやアクション、スピーディな場面演出(構成)で、「絵が動いている」と読者を驚嘆させ、40万部という当時では異例のベストセラーとなる。従来の子ども向けマンガの常識を打ち破った革新的な『新宝島』は、藤子不二雄の2人を始め、ちばてつや、中沢啓治(『はだしのゲン』)、石ノ森章太郎、望月三起也(『ワイルド7』)、楳図かずおなど、多くの読者が漫画家を志すきっかけとなった。さいとう・たかを(『ゴルゴ13』)も「紙で映画が作れる!」と興奮したという。手塚はそれまでコマを縦読みさせていた日本のマンガを、現代のように右から左に読んで行く方式に変え、コマを変形させるなど表現の幅を増やした。擬音も積極的に使った。 宮崎駿「僕らの世代が、戦後の焼け跡の中で『新宝島』に出会った時の衝撃は、後の世代には想像できないでしょう。まったく違う世界、目の前が開けるような世界だったんです。その衝撃の大きさは、ディズニーのマネだとか、アメリカ漫画の影響とかで片づけられないものだったと思います」。 この戦後ストーリー漫画の原点となった『新宝島』は全国に赤本(書籍の流通ルートに乗らず駄菓子屋などで販売)ブームを巻き起こした。手塚は医学の勉強を続けながら月に1〜2冊の新作を描き下ろし、1948年(20歳)の『地底国の怪人』からは単純な勧善懲悪ではなく悲劇的な展開も取り入れ始めた。一方、翌年の『拳銃天使』では児童漫画初となるキスシーンを描く大胆さも見せた。この時期の『ロストワールド』(1948)、『メトロポリス』(1949)、『来るべき世界』(1951)は初期を代表するSF三部作として人気が高い。 1950年(22歳)、ディズニーの『白雪姫』が封切られ大感動した手塚は映画館で50回も鑑賞する(翌年の『バンビ』はさらに増えて80回以上)。同年、世間一般では文化的に低く見られていたマンガの地位を向上させるべく、ゲーテ原作の『ファウスト』を漫画化(同作は『百物語』『ネオ・ファウスト』と3度も漫画化されている)。さらにドストエフスキー作『罪と罰』(1952。最後の赤本。手塚は学生時代に劇団に所属していて、「罪と罰」の舞台にもあがっている)、シェイクスピア作『ベニスの商人』など、名作文学の漫画化に積極的に取り組んだ(手塚は昔から世界文学全集を読み漁っていた)。この年11月、初の本格的な長編連載作品『ジャングル大帝』を雑誌『漫画少年』に連載開始! 1951年(23歳)、医学部を卒業し、1年間インターンを務めた後、翌年国家試験に合格して医師免許を取得した。 1952年(24歳)、関西から上京。手塚の代表的作品となり、17年間にわたる長期連載となった『鉄腕アトム』を発表する(前年の『アトム大使』が進化)。著名少年漫画誌の多くに手塚漫画が掲載されるようになった。 1953年(25歳)、後年マンガ史の聖地となる木造2階建トキワ荘(豊島区椎名町)に入居し、『リボンの騎士』の連載スタート。この年、長者番付の画家の部でトップとなる。 1954年(26歳)、手塚は藤子不二雄の2人にトキワ荘の14号室を譲り、貧乏な2人のために敷金を肩代わりし、仕事用の机を残してあげた。それから1年半後、トキワ荘には石ノ森章太郎(藤子の隣室)、赤塚不二夫など漫画家が集まり出した。 1959年(31歳)、幼馴染の悦子夫人と結婚。締め切り前の原稿があり結婚披露宴に遅刻。手塚が猛烈に働き続けていたのは、アニメを作るという夢を実現するために、多額の制作資金を漫画で稼ぐ必要があったからだ。 1961年(33歳)、手塚プロダクションに動画部を設立し、アニメ制作に向けて具体的に動き始める。当初のスタッフは6人(最盛期550人)。1年がかりで40分のカラー長編アニメ『ある街角の物語』を制作し、同作は文部省芸術祭奨励賞など多くの賞を受賞した。同年、長男・真が誕生。 1962年(34歳)、動画部を「虫プロダクション」と改名し、アニメ版『鉄腕アトム』の制作を開始。アトムの原作は連載10年目に突入。 1963年(35歳)、正月元旦から日本初の連続TVアニメ『鉄腕アトム』のオンエアがスタート!アニメのアトムは大ヒットし、4年間放送された。手塚はセル画の枚数を大幅に削減するリミテッドアニメの手法を編みだし、絶望的に不足していた制作時間と予算問題を切り抜けた。 1965年(37歳)、日本初の“カラー”の連続TVアニメ『ジャングル大帝』をオンエア。同年、こちらも日本初となる「1時間枠」のTVアニメ『新宝島』も放送。虫プロの版権部門を独立させた「虫プロ商事」を発足。この年、ニューヨーク世界博覧会で偶然ウォルト・ディズニーと対面した。 順風満帆に見えた手塚の漫画人生であったが、1958年頃(30歳)からリアルな画風で人間社会の暗部に切り込む劇画ブームが起こり、ディズニー調の丸みのあるキャラの手塚マンガを“時代遅れ”とする風潮が出てきた。横山光輝など強力なライバルとなる人気漫画家が次々登場するなか、手塚は画風を変えることができず苦悩し、ノイローゼ状態になった。1964年に大人向けの漫画誌『ガロ』で白土三平『カムイ伝』が始まって人気を博し、1965年に少年マガジンで連載が始まった水木しげるの『墓場の鬼太郎』を読んで、衝撃でフラフラになり自宅階段から転げ落ちたという。1968年にはさいとう・たかを『ゴルゴ13』がスタートしている。 1966年(38歳)、この一連の流れの中で手塚は劇画メインの『ガロ』に対抗して実験漫画雑誌『COM』を刊行し、『火の鳥』の連載を開始。 1967年(39歳)、水木が起こした妖怪ブームの中で、自らも妖怪漫画『どろろ』を発表。同年、『ジャングル大帝』が第28回ヴェネツィア国際映画祭サンマルコ銀獅子賞を受賞。 60年代後半は手塚のことを古い時代の漫画家と見なす空気がますます濃くなり、アニメーション事業も経営不振が続いた。手塚いわく「1968年から1973年は冬の時代」。暗い精神状態が作品に反映され、この時期の作品は『きりひと讃歌』『奇子』『時計仕掛けのりんご』など陰鬱なものが多い。 1973年(45歳)、虫プロ商事と虫プロダクションが倒産。虫プロはアニメ監督としては富野由悠季、高橋良輔、杉井ギサブロー、りんたろう、出崎統など、アニメーターでは芦田豊雄、安彦良和といった、後日アニメ界を背負って立つ人材を多く育てた。手塚は倒産により約1億5000万円という巨額の借金を背負う。 同年、“手塚の最期を看取ってやろうという”と考えた『少年チャンピオン』の編集長が、手塚に作品発表のチャンスを提供した。手塚が用意した新作はヒューマニズム溢れる『ブラック・ジャック』。同作はヒットし、翌年に『少年マガジン』で発表した『三つ目がとおる』も当たり、後期手塚の黄金時代が始まる。1977年(49歳)には『ブラック・ジャック』『三つ目がとおる』『ブッダ』『火の鳥』『ユニコ』『MW』と6作品の連載を抱えていた。さらに『手塚治虫漫画全集』(講談社)が刊行開始され、手塚は世間から再評価され完全復活を遂げた。※『手塚治虫漫画全集』は8年がかりで全300冊刊行という壮大な企画。最終的には没後の100冊が加わり全400冊となった。 1980年(52歳)、劇場用長編アニメーション『火の鳥2772』を公開。国際交流基金のマンガ大使として国連本部で講演! 1981年(53歳)に幕末・明治を生きた自身のルーツを描いた『陽だまりの樹』を、1983年(55歳)に第二次世界大戦を題材にしたサスペンス『アドルフに告ぐ』を連載開始。 1988年(60歳)3月、体調悪化により緊急入院。胃癌であることを本人には伝えず。5月に退院して精力的に活動するが11月に再び倒れた。 1989年1月下旬から昏睡状態に陥り(1/15が最後の日記)、意識が戻る度に「鉛筆をくれ」と家族に頼んだ。2月9日午前10時50分他界。享年60歳。手塚の最後の言葉は、死を看取った手塚プロ代表取締役・松谷孝征いわく「頼むから仕事をさせてくれ」。連載中の『ネオ・ファウスト』『ルードウィヒ・B』『グリンゴ』が未完となった。戒名は伯藝院殿覚圓蟲聖大居士。さいとう・たかを「今まで目標とし、登っていた大きな山が突然なくなったような気がします」。 翌年に東京国立近代美術館で回顧展が催された。他界5年後の1994年、『宝塚市立手塚治虫記念館』が開館。2002年にアメリカで最も権威ある漫画賞の一つ、米アイズナー賞の「漫画家の殿堂」入りを果たし、翌々年に英訳版『ブッダ』がアイズナー賞最優秀国際作品部門を受賞した。 石ノ森章太郎「(手塚先生は)面白おかしく事象を表現するだけと思われていた漫画というメディアで、ペーソスのみならず悲劇や深い哲学的な思索まで持ち込んで、ドラマを描くという試みは前人未到の事だった」。 マンガは子どもが読むものという偏見を変え、痛快な冒険活劇だけでなく、心の闇を描いた犯罪サスペンスも、文明批判や宇宙の深淵を覗くような哲学ドラマもある手塚ワールド。これらすべての作品の根底には、少年期の戦争体験で痛感した“生命の尊厳”がうたわれている。芸術家として、常に新しいマンガの表現方法を模索しつつ、様々な投稿ページの選者として、後輩マンガ家の発掘と指導に骨身を削った手塚先生。 菩提寺の総禅寺は都電荒川線新庚申塚駅から近いものの、住宅街の真っ只中にあり、寺門も近くまで接近しないと分からないので、必ず地図で調べてから墓参しよう(線香代として100円入用)。本堂の近くに眠っており、墓石の側にはアトム、レオ、ブラック・ジャックなど有名キャラクターが掘り込まれた記念碑がある。 手塚先生は知名度も高く、都内に墓があるので、さぞかし巡礼者が多いだろうと思いきや、巣鴨に墓所があることはあまり知られておらず(宝塚にあると思っているのかな?)、お盆や命日以外はあまり人が訪れないということだった。 墓前で手を合わせていると、手塚先生という巨大な銀河の渦の中に吸い込まれていく気がした。 ●NHK『手塚治虫・最後の講演』から…他界の3ヶ月前に小学校で子ども達に話した、文字通りのラストメッセージ。印象的だったのは漫画家になる前の話。氏が病院の研修医として働いていた時、担当した患者が臨終の瞬間に、それまで額にシワを寄せて苦悶していたのが、苦しみを全部忘れたようにコロッとすごく良い顔になったという。それを見て、宇宙全体が生命そのもので、患者はそこに帰った(在り方が変わった)だけで生命は繋がっていると実感したとのこと。そして生命の尊さを伝える為にペンを取り、ライフワークとなった『火の鳥』の中で、“この宇宙の何もかも全部が生命力を持っている。例えば星も太陽も地球もみんな生命力を持って生きている。あなたもその一部だ”と、不死鳥・火の鳥を通して人間やあらゆる生物を励ましたという。30分の講演の中で20回以上も“いのち”という言葉を子どもに繰り返した先生。数々の素晴らしい作品を本当に有難うございました。 ●手塚治虫『マンガの描き方 似顔絵から長編まで』P.240から 漫画を描くうえで、これだけは絶対に守らねばならぬことがある。それは、基本的人権だ。どんなに痛烈な、どぎつい問題を漫画で訴えてもいいのだが、基本的人権だけは、断じて茶化してはならない。それは、 一、戦争や災害の犠牲者をからかうようなこと。 一、特定の職業を見くだすようなこと。 一、民族や、国民、そして大衆をばかにするようなこと。 この三つだけは、どんな場合にどんな漫画を描こうと、かならず守ってもらいたい。これは、プロと、アマチュアと、はじめて漫画を描く人を問わずである。 これをおかすような漫画がもしあったときは、描き手側からも、読者からも、注意しあうようにしたいものです。 ●アトム以降の有名作品 1953(25歳)『リボンの騎士』…日本初のストーリー少女マンガ。瞳にキラキラと輝く星を描き込む少女マンガの定番は手塚によるもの。宝塚歌劇のエッセンスが取り入れられた。 1954(26歳)『火の鳥』…『ジャングル大帝』の連載終了後に始まった。「テーマはいつの世にも変わらぬ人間の生への執着と、それに関連して起こる様々な欲の葛藤です」刊行当時、手塚はこの様に語っている。火の鳥(フェニックス)は永遠の命を持つ生命体。手塚は火の鳥の視点で人類の興亡を見つめ続け、「限りある命」を精一杯生きることの尊さや、生命そのものへの讃歌を、この後34年間に渡って描き続けた。物語は太古の昔から超未来へ続く全時代を舞台にしており、前代未聞の巨大スケールの大河マンガだ(あの「鉄腕アトム」ですら構想では「火の鳥」の一部だった)。 1965(37歳)『マグマ大使』 1967(39歳)『どろろ』『悟空の大冒険※アニメ』 1969(41歳)『海のトリトン』 1970(42歳)『ふしぎなメルモ』『時計仕掛けのりんご』『きりひと讃歌』 1972(44歳)『ブッダ』10年にわたる長期連載に。『奇子』 1973(45歳)『ブラックジャック』『ミクロイドS』 1974(46歳)『三つ目がとおる』『紙の砦』 1976(48歳)『MW(ムウ)』『ユニコ』 1981(53歳)『七色いんこ』『陽だまりの樹』 1983(55歳)『アドルフに告ぐ』 1987(59歳)『ルードウィヒ・B』 1988(60歳)『ネオ・ファウスト』 ●手塚治虫トリビア ・睡眠時間は1日約4時間のみ。 ・手塚以前の漫画家は一人でペンを握っていた。アシスタントを使ったり、プロダクション制を導入したのは手塚が最初。当初は「一人で描いていない」と非難され、長い間漫画賞の対象から外されていた。 ・手塚から赤塚不二夫へのアドバイス「赤塚クン。りっぱな漫画家になるには一流の映画を観なさい、一流の小説を読みなさい、そして一流の音楽を聞きなさい」「手塚先生のおっしゃってたことは、やっぱりすごく大きいのだ。いい音楽を聴きなさい。いい映画を見なさい。いい芝居をみなさい。本当に大事な教えだったんだと今にして改めて思うのだ」。 ・手塚から永井豪へのアドバイス「豪ちゃん、短編をたくさん描きなさい。短編は大事ですよ」。両者と何度か一緒に旅行しており、ロスでは2人で映画『シャイニング』を鑑賞。 ・トレードマークのベレー帽は、手塚が横山隆一(『フクちゃん』)を真似てかぶり始めた。それを石ノ森章太郎や藤子・F・不二雄が受け継ぎ、漫画家=ベレー帽というイメージが定着した。 ・手塚「横山(光輝)さんはいろんなジャンルの仕事をされましたが、この『鉄人28号』と『伊賀の影丸』それに『三国志』の三つは、エポックメーキングなものでしょう。娯楽マンガの功労賞があれば横山さんにぜひ一番にさし上げるべきではないかと思います」 ・藤子不二雄は手塚にファンレターを出し、手塚から「しっかりしたタッチで将来がたのしみです」とハガキを受け取り、漫画家になりたいという気持ちが加速した。 ・手塚「僕はデッサンの基礎をやっていないから、(大友克洋の)こんな絵を見せられてはたまらない。一も二もなく降参する」「大友克洋さんの出現によって、劇画はトドメをさされてしまいました。少ないけれど確かな線によって、白っぽい画面のままで、劇画以上のリアリティが出せることが証明されてしまったのです」 ・手塚「(萩尾望都の)『11人いる!』なんてのはスペース・オペラとしての傑作だと思っているんです」。萩尾は手塚の全作品を所有している。 ・富野由悠季(『ガンダム』)は1964年、23歳で手塚が設立したアニメ制作会社・虫プロに入社。演出面で頭角を現し、鉄腕アトムのアニメ後半の演出の多くを担当した。 ・杉井ギサブロー「手塚が低予算でも作れるリミテッド・アニメの手法を日本に定着させなければ日本は世界一のテレビアニメ生産国にはなっていなかったであろう」。 ・鳥山明「一度だけ漫画で涙が出てしまったことがある。若い頃読んだ『雨ふり小僧』。プロとなった今、出会い、今度は汗が出た」 ・手塚「僕は描こうと思えば誰の絵でも描けるけど諸星大二郎のような絵と星野之宣のような絵は描けない」 ・荒木飛呂彦は20歳の時に『武装ポーカー』が手塚から第20回手塚賞の準入選に選ばれ漫画家デビューを果たした。手塚賞の受賞パーティーで手塚いわく「これはすごく面白かった。近代にない。僕は大好き。東京へ是非来て下さい。あんまり東北から出る人って少ないんですよね」。 ・長男は映像作家の手塚眞。 ・手塚の「尊敬する映画人」はチャップリンとディズニー。 ・他界5年後の1994年に『ジャングル大帝』と内容が酷似した『ライオンキング』が公開された。日本の文化人から盗作が指摘されたが、手塚プロは次の声明を出して問題としなかった。「もし手塚本人が生きていたら、『自分の作品がディズニーに影響を与えたというのなら光栄だ』と語っただろう」。 ・「天才とはレオナルド・ダ・ヴィンチと手塚治虫のことをいう」(立川談志) (おまけ) 『鉄腕アトム』の“電光人間の巻”の名セリフを紹介。ロボット芸術博覧会の会場でお茶の水博士が「(人型ロボットとして)つくづくアトムは最大の芸術品だと思うね」と感嘆すると、スカンク草井が背後でこう呟く--「アトムは完全ではないぜ。なぜなら悪い心を持たねえからな」。善も悪もどちらでも行なえる状況にいるのが本当の人間で、“善を選択する”ことにこそ意味があるんだという、重く深いメッセージだ。(プログラムで善を選ばされるのではなく、自分の意思で選ぶことが重要!) |
「お会いしとうございましたァーッ!」「もっと長生きして欲しかったですーッ!」 全国のファン約40名で一緒に巡礼!全員が線香をあげたのですごい煙に…! |
1956年の新漫画党会合。 上段…鈴木伸一(23歳、ラーメンの小池さんのモデル) 中段…森安なおや(22歳)、石ノ森章太郎(18歳)、 安孫子素雄(23歳)、赤塚不二夫(21歳) 下段、つのだじろう(20歳※外部)、寺田ヒロオ(25歳)、藤本弘(23歳) |
穏やかでめっさ優しい笑顔 数々の名作を遺してくれた |
手塚治虫に憧れてトキワ荘に集まった若手漫画家たちは、 定期的に集まっては、みんなで漫画、映画、芸術のことを語り合った |
豊島区の「トキワ荘通り」(2010) | 南長崎花咲公園(豊島区) | 公園内にトキワ荘の記念碑 |
かつてこの近所にあった“漫画の聖地"「トキワ荘」。 最初に手塚が入居し、転居後に同じ部屋に藤子 不二雄が入った。四畳半と押入だけでトイレは共同 |
記念碑の土台にトキワ荘の住人たちの似顔絵とサイン。上段左から 寺田ヒロオ、藤子・F・不二雄、藤子不二雄A、鈴木伸一、森安なおや、 中段が手塚治虫と2階の見取り図、下段左から石ノ森章太郎、 赤塚不二夫、水野英子、よこたとくお。寺田は仲間と「新漫画党」を結成 |
近所に『まんが道』に登場した 中華料理店“松葉"が現存。 ラーメンが最高なんだって |
1952年〜1982年まで30年間、この路地奥にトキワ荘があった。場所を 少し迷ったけど、「『トキワ荘』跡入り口」の立看板のおかげで分かった |
2010年、現在は出版社(?)が建っていた。 なんで豊島区はトキワ荘を保存しなかったか |
近所の子どもが「コチラで〜す!」 と案内。訪問者が多いのだろう |
緑ヶ丘霊園の正門。津田山駅から徒歩数分。 正門から入るとめっちゃ遠回りになるので→ |
正門までは行かずに右折してこの道へ (駅から続く道を、道なりに行く) |
すると花屋さんと祠が見えてくる |
2体の石仏が祀られている。 祠の右側の側道を入っていく |
すると霊園の入口が見えてくる! ここをしばらく歩くと→ |
「103区7側」の案内板。先生はこちらに |
1999年の初巡礼。「先生!ドラえもんは、今や 国境を越えて世界中の子供に愛されています!」 |
約10年ぶりの巡礼。墓前の線香入れが 新しい形に変わっていた (2008) |
3度目の巡礼は、前回の巡礼の翌年に生まれた子どもと。 6歳になり、ドラえもんの単行本を読めるようになった(2016) |
四次元ポケットが名刺入れになっている。お墓は1964年、 オバQを発表した年に先生が31歳で建立された |
墓誌には「藤本弘(藤子・F・ 不二雄)」と彫られていた |
香炉(線香入れ)の左右に、チョコンと愛らしいドラえもんのガラスの花瓶!(2008) |
2016年に巡礼すると、ニコニコ笑顔の“ドラミちゃん”と“ドラえもん”の石像が先生のおそばに♪(2016) |
藤子先生にお手紙(2016) | 「ふじこせんせいありがとう」 | 天国の先生に想いが届きますように |
1933年生まれ。富山県出身。小学5年の時に出会ったクラスメイトの安孫子と、1987年まで40年以上コンビを組む。 16歳の時に手塚治虫(当時21歳)に出したファンレターに返事が来て大感激し、高校卒業前に宝塚の手塚治虫宅を訪問するほど、 手塚に憧れていた。21歳で上京し、手塚の住んでいたトキワ荘に住む。 科学や考古学に詳しく、睡眠時間は晩年まで4時間。そうまでして描きたいアイデアがあった。62歳の時、自宅で「ドラえもん・のび太の ねじ巻き都市冒険記」執筆中に、ペンを持ったまま仕事机に突っ伏し、そのまま帰らぬ人となる。マンガを描きながら生を終えるという、 文字通り、頭の先からつま先までマンガに身を捧げた生涯だった。 ※コンビを解散したのは、安孫子が「超ブラックな『笑ゥせぇるすまん』と、子供たちに夢や希望を与える『ドラえもん』の作者が同じって のは、さすがにまずい」と、気を利かせて提案したもの。ちなみに解散後の“藤子・F・不二雄”の名付け親は石ノ森章太郎。 |
〔主な作品〕 1964年(31歳)『オバケのQ太郎』※翌年アニメ化 1967年(34歳)『パーマン』 1970年(37歳)『ドラえもん』※’79年にアニメ化 1971年(38歳)『21エモン』『ウメ星デンカ』 1973年(40歳)『ジャングル黒べえ』 1974年(41歳)『キテレツ大百科』 〔参考:安孫子の作品〕 忍者ハットリくん、怪物くん、プロゴルファー猿、まんが道、 笑ゥせぇるすまん、魔太郎が来る!! |
豊島区椎名町5丁目の「花咲公園」に建つ “トキワ荘”の記念碑 (2010) |
トキワ荘の仲間たち(1956)。石ノ森(中段左2番目)は 18歳で一番若かった。右隣が安孫子素雄(23歳)、 赤塚不二夫(21歳)。下段右端が藤本弘(23歳) |
祥雲寺の山門 要町駅のすぐ近く | 手前に石ノ森キャラ、背後に2本の塔という未来チックな墓 2008 | 木洩れ陽の中の石ノ森先生 1999 |
上にペンを持った先生、中心にイラスト、 下部の文字は“森羅萬象” |
SFヒーローものから、ギャグ、時代劇まで 24作品のキャラのレリーフがあり大賑わい! |
墓前にはギネスに認定された時の記事があった 「全集500冊770作品・漫画最多出版、ギネス入り」 |
サイボーグ009のメインキャラの横顔が彫られている | 傍らに立つ009、003、佐武と市、仮面ライダー | 加速装置の舞を奉納 |
1956年 トキワ荘にて(18歳) | 60歳の死はあまりに早い! | 眼鏡を外した珍しい写真 |
1938年生まれ、宮城県石森町(現登米市)出身。本名、小野寺章太郎。森羅万象を描く“萬画家”と称した。子どもの頃、病弱の姉のために外で起きたことをイラストで見せていたのが萬画家人生の原点。 中学時代、「毎日中学生新聞」の4コマ漫画に入選し、マンガ雑誌にも投稿を重ねる。1953年(15歳)、『漫画少年』の投稿仲間と漫画研究会を結成し、漫画同人誌『墨汁一滴』を創刊。「宮城県に天才がいる」と漫画業界で噂になった。1954年、高2の春に手塚治虫から「シゴトヲテツダツテホシイ」とブッ飛ぶ電報が届き学校を休んで上京。アシスタントとして『鉄腕アトム』を手伝った。どのキャラも手塚タッチでさらりと描き上げ、その実力に手塚は仰天したという。同年暮れ、『漫画少年』誌上にて「二級天使」で連載デビューを飾る。1956年、高校卒業と同時に、手塚治虫、藤子不二雄、赤塚不二夫らマンガ家が住むトキワ荘に5年間入居する。 ※石ノ森はトキワ荘の男性マンガ家では最年少。手塚の10歳年下、藤子・F・不二雄の5歳年下、藤子不二雄Aの4歳年下、赤塚の3歳年下。 1958年(20歳)、石ノ森の最大の理解者で、活動をずっと応援してくれていた優しい姉が病死。翌年、東映動画の劇場アニメ『西遊記』の制作現場に、手塚の代理として参加。これが縁となり、東映は後に石ノ森の原作で特撮ヒーロー作品を作るようになる。 1961年(23歳)、各出版社から原稿料を前借して70日間の世界旅行に出かけ、人生の見聞を広げる。この体験は1964年(26歳)から連載を開始した代表作『サイボーグ009』に結実。作中では世界各地から集められた9人が、国籍や人種の違いを超えて悪と戦った。同年、手塚が仲人となって結婚。 1967年(29歳)、明瞭なストーリーを持たず、絵とコマ運びで美しい詩情を表現した実験的作品『ジュン』を連載開始。この作品は読者から絶賛されたが、“ストーリー命”の手塚は読者への手紙で「あれはマンガではない」と斬り捨てた。落ち込んだ石ノ森は連載打ち切りを宣言。これを知った手塚が夜半に石ノ森のもとを訪れ「君に嫉妬していた」「なぜあんなことを言ったのか分からない」と謝罪した。これを受け、石ノ森は『ジュン』の連載を続ける。 1968年(30歳)、石森章太郎プロを設立。大人向けの時代劇『佐武と市捕物控』では、画面のコマ割りバリエーションの可能性の限界に挑む。同作と『ジュン』により第13回小学館漫画賞を受賞。 1971年(33歳)、仮面ライダーを生み出し大ブームを起こす。翌年に「人造人間キカイダー」、1975年(37歳)には現在まで続く戦隊ヒーローの元祖『秘密戦隊ゴレンジャー』を創作した。1981年(43歳)、日本漫画家協会理事に就任。 油がのりきった1984年(46歳)、デビュー30周年を機に初心に戻る意味で“石ノ森”に改名(故郷では石森をイシノモリと読む)。1988年(50歳)、「マンガ日本経済入門」で、大人向けの教養マンガという新しいジャンルを切り開き、翌年、マンガ芸術はあらゆる事柄を表現できることから「漫画は萬画である」と“萬画宣言”を行なった。 1998年、心不全により60歳で逝く。戒名は「石森院漫徳章現居士」。没後、勲四等旭日小綬章が贈られた。最終章の構想がまとまっていた『サイボーグ009』を完成したいと最後まで願っていた。45年間の萬画家生活で描き上げた原稿は12万8千枚。アシスタントには後に大成する永井豪や竹宮惠子もいた。石ノ森はファンを大切にし、もらったプレゼントはどんな些細なものでも大事にとっていたという。 他界から2年後の2000年、故郷の宮城県登米市中田町石森に「石ノ森章太郎ふるさと記念館」が建ち、2001年には宮城県石巻市に「石ノ森萬画館」が開館した。2008年、全500巻770作品という途方もないスケールの『石ノ森章太郎萬画大全集』により、「1人の著者によって出版された最多コミック記録」としてギネスに認定される。 ※石ノ森の猛烈な創作スピードは有名で、藤子不二雄Aは『まんが道』に、自分たちは一日に2人で5、6枚しか描けないのに、石ノ森は15〜20枚も描いていたと描写。赤塚が手伝ってくれたトキワ荘時代は月650枚も描いていたという。後年は、石ノ森いわく「最近では歳だから300枚でフウフウいう」。 ※主な萬画作品 サイボーグ009(1964) さるとびエッちゃん(1965) 佐武と市捕物控(1966) 仮面ライダー(1971)※主題歌を作詞 人造人間キカイダー(1972)※主題歌を作詞 変身忍者 嵐(1972) イナズマン(1973) がんばれ!!ロボコン(1974)※主題歌を作詞 秘密戦隊ゴレンジャー(1975)※主題歌を作詞 HOTEL(1984) マンガ日本経済入門(1986) マンガ日本の歴史(1989) 特撮原作として、「宇宙鉄人キョーダイン」「大鉄人17」「快傑ズバット」「仮面ライダー」「仮面ライダーV3」「仮面ライダーBLACK」など。テレビドラマ原作に「がんばれ!レッドビッキーズ」。他に「キカイダー01」主題歌、「新サイボーグ009」主題歌(誰がために)などを作詞。「仮面ライダー」や「イナズマン」等に釣り人役や爆弾犯役などでカメオ出演している。 ●墓巡礼記 墓は池袋から一駅、要町駅に近い祥雲寺にあり、本堂裏手の壁際に眠っている。墓石の傍らにはサイボーグ009や仮面ライダー、キカイダー、猿飛びえっちゃん等24作品のキャラクターのレリーフが建つ。あれなら絶対に寂しくないと思う。墓石の色はレッド・ブラウン。魅入ってしまうほど美しい色だった。墓前に「全集500冊770作品・漫画最多出版、ギネス入り」と記録が認定されたことを記した新聞が供えてあった。 |
スヌーピーが登場する人気漫画『ピーナッツ』の作者。1922年、米国北部のミネソタ州ミネアポリスに生まれる。父はドイツ系移民で貧しい理髪師。シュルツは子どもの頃から絵が得意だった。小学生の頃、クラスで仲間外れにされた事があり、味わった孤独感が後に内気な少年“チャーリー・ブラウン”を生むことになる。13歳の時に飼い始めた雑種犬「スパイク」はとても賢く、またユニークな行動をとることから、後年スヌーピーのモデルとなった。高校卒業後、通信講座で漫画の描き方を学ぶ。1943年(21歳)、母が病死。第2次世界大戦末期に招集されてヨーロッパ戦線に送られた。
戦後は美術学校に就職。新聞へ漫画を投稿し続けた結果、1947年(25歳)、地元紙に『リル・フォークス』(『ピーナッツ』の前身)が掲載された。主人公の名前“チャーリー・ブラウン”は職場の同僚の名前から付けられた。3年後(28歳)、漫画配給会社が『リル・フォークス』を買い上げ、タイトルを『ピーナッツ』に変更し、1950年10月2日に全米8紙で配信した。チャーリー・ブラウンと妹のサリー、愛犬スヌーピー、小鳥のウッドストック、友達のルーシー、ペパーミント・パティ、マーシー、“セーフティ・ブランケット”を持つライナスなど、個性的で可愛いキャラクターは一気に人気者になった。 ルーシー 「時々、あなたはどうして犬なんかでいられるのかと思うわ…」 スヌーピー 「配られたカードで勝負するっきゃないのさ…。それがどういう意味であれ」 登場キャラはウィットに富み、大人顔負けの達観した人生論を披露する。日常の様々な試練をしのいでいく姿が共感を呼び、掲載誌は増え続けた。 1955年(33歳)、米国漫画界の最高の栄誉“リューベン賞”を受賞(64年にも受賞)。1967年(45歳)、『ピーナッツ』がミュージカル化され、タイム誌の表紙をチャーリー・ブラウンらが飾った。1978年(56歳)、国際漫画家賞を受賞。1984年(62歳)、『ピーナッツ』の掲載誌が2千誌となりギネスブックに認定。1990年(68歳)、“あの”ルーブル美術館で回顧展が開催されフランス芸術勲章を受章。最終的に『ピーナッツ』は21カ国語に翻訳され、掲載紙は75カ国2600以上、読者数3億5000万人に達した。 1999年、大腸癌のため現役引退を表明。その3ヶ月後の2000年2月12日、カリフォルニア州サンタローザの自宅で心臓発作により他界した。享年77歳。『ピーナッツ』は1400冊に達し、テレビアニメ(エミー賞を受賞)は50本を超えた。シュルツは売れっ子になってもアシスタントを使うことなく、最後まで自分の手で描き続けたという。死の翌日、『ピーナッツ』日曜版の最終回が掲載された ※ハリウッドのウォーク・オブ・フェイムにもシュルツの名が刻まれている。
※チャーリー・ブラウンが惚れている“赤毛の女の子”は、かつてシュルツが失恋した相手がモデル。
※1969年、アポロ10号はスヌーピーのぬいぐるみを乗せて月に向かい、指令船は「チャーリー・ブラウン」、月着陸船は「スヌーピー」と名付けられた。
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現地の警官ケインと、奇しくも僕が乗ることになったパトカー |
ネット普及前の海外の墓巡礼は“聞き込み調査”が基本だった。多くの著名人は母国の首都に眠っているので、まずは首都の観光局で情報を収集し、次に故人ゆかりの記念館(大抵は生家)に足を運び館長に聞き、さらには終焉の地で警察署を訪れ、葬式のあった教会を教えてもらい、そこで手がかりを得ることが多かった。訃報の5ヶ月後、僕はサンフランシスコからローカル・バスに乗り、約70km北のサンタローザ、セバストポルに到着した。バス停で住民から警察署を教えてもらい、警官から墓地の情報を聞いた。幸運にも担当警官はシュルツさんの墓地を知っており、コピーした地図に赤丸を入れ渡してくれた。背中のバックパックを署で預かってもらい、車道を歩くこと30分、汗と埃にまみれ目的の墓地に到着。 ところが2時間かかっても一向に見つからない。管理人事務所の扉には「本日不在。用のある方は電話を」の張り紙。でも周囲に公衆電話なんてないし、当時はスマホもない。グッタリしていると、墓地の広場で子ども達がキャッチボールを始めた。彼らいわく「シュルツさんのお墓はこの町だけど違う墓地だよ」。フラフラになって警察署に戻ると、先ほどの警官がいた。名前はケイン。僕が「ユー!ミステーク!」と涙目で訴えると、ケインは調べ直して「悪かった。確かに違う墓地だった」。そして「ちょっと待っとけ」と署の前にパトカーを横付けし、「送ってやるから乗れ!」。 嬉しかったけど、サンフランシスコに帰るバスの時間まで1時間を切っていた。事情を話すとケインは一言「ノー・プロブレム」。回転灯が点滅しサイレンが鳴った!これにはたまげた。ケインがパトカーを“かっ飛ばす”ため、助手席でダッシュボードにしがみ付いた。 |
シュルツさんの墓とパトカー | お花がいっぱい。スヌーピーとウッドストックもいた(墓標の左端) |
「キキーッ!」光速で墓地に着くと、管理人のおじさんが既に正門で待機していた(いつの間にか署から連絡していたようだ)。ケインは後部座席に管理人さんを乗せると、すぐさまナビゲートさせて、45秒でシュルツさんの墓前へ!かわいらしい花束と共に、小さなスヌーピーの人形が供えてあり、涙腺は決壊寸前。シュルツさんは作品を通して、気楽に生きるための人生哲学、肩をすくめて不運をやり過ごす生き方を教えてくれた。「素晴らしい作品を有難うございました!」。しばし、ソウル・トークに突入。 |
まさかのアメリカ留置場体験 |
「泣く真似をしろ」と脅迫された(笑) ※ケインが撮影 |
帰りもパトカーに乗ったので時間に余裕ができ、車内で「映画を見るとよく留置場が出てくるけど、どんな所?タトゥーを入れたモヒカン頭の大男が“オラーッ!”とか暴れているんですか?」などと聞いていたら、署に戻ったケインがニヤリと笑い「お前はついている。今からスペシャル・ツアーの開始だ」と宣言、署内の奥へ奥へと連れて行き留置場の前へ(他の警官は“オイオイオイ”とあっけにとられていた)。そして“シャレ”で僕をブチ込むと「カメラを貸せ、さあ泣け、ちょい左だ、ようしナイス泣きっぷりだ!」とシャッターを切った。さらに「この写真を今からお前の両親に送る。保釈金100万ドルを俺の隠し口座に振り込むよう伝えろ」と“脅迫”。アメリカンジョークに2人で大笑い。僕はまさか生きているうちに、アメリカで本物の留置場に放り込まれるとは思わなかった。ホント、人生って何が待ってるか分からない。 |
約10年ぶり。お久しぶりですシュルツさん! | 今回はパトカーではなくレンタカー | 墓の前にスヌーピーたちが描かれた大型ベンチが登場! |
墓参後、懐かしの警察署へ。10年経ってるし、 きっとケインは異動してるだろうなぁ |
警察署の玄関ロビーにあった集合写真 |
右端のこのドッシリ 体型はもしや!? |
ケインだったーッ!運良く ちょうど署内にいた!奇跡! |
約10年が経った2009年、再巡礼を敢行した。レンタカーで墓地を訪れると、チャーリー・ブラウン、スヌーピー、ライナス、ルーシーのイラストが入ったベンチが墓前に設置され、故人と語り合えるようになっていた。墓参後、「もうケインは別の署に移動しただろう」と思いつつ、懐かしい警察署へ。ロビーの集合写真にケインと確信できる警官は写ってなかったけど、一人だけサングラスをしてお腹の出た人物がいた。この腹、なんとなくケインっぽい。受付のおばさんに「あの写真はケインですか?」と聞くと「あら、あなたケインを知ってるの?」。「はい、恩人なんです」「まあ、ケインに会いたい?」「会えるんですか!?」「あなたはラッキーよ。昨日は非番だったの。今日もさっきまでパトロールで留守だった。今なら会えるわ」。そういって内線でケインを呼び出してくれ、待つこと数分、奥のドアが開いてケインが出てきた!「僕を覚えてますか?」「オフコース!クレイジー・ボーイ!」。過度な墓LOVEがクレイジーに見えたのだろうが、僕も心の中で「あなただってクレイジー・ポリス」と返した。握手をしながら「よく覚えていましたね」と言うと、ケインは笑いながら「そりゃそうだ、サイレンを鳴らしながら墓地まで行ったのはあの時だけだからな」。しばし歓談の後、別れ際にケインいわく「それじゃ、10年後にまた来いよ」。外に出て、この素敵な出会いをもたらしてくれたシュルツさんに感謝した。 |
2001 初巡礼 | 2005 再巡礼 | 陽射しでポカポカ |
3度目「高見澤家墓」(2010) | 2010年も2等兵確認 |
『のらくろ』の作者田河水泡(本名:高見澤仲太郎)は、戦前の人気ナンバーワン作家。のらくろ人形が墓に寄り添っていた。のらくろは旧日本軍2等兵。マンガの内容が“軍隊を茶化している”との理由で軍部の圧力がかかり、1941年に連載中止へ追い込まれた。“皇軍兵士が犬畜生とは何事か!”というのも理由のひとつ。作品中には上官を批判する場面も出てくる。象を殺せと命令されたのらくろが「上官の命令だから仕方がない」と言うと、象から「お前の上官は自分の退屈しのぎの為に罪も無い象を殺し、部下を何人も怪我させてるのか」と説教される。“上官の命令は陛下の命令”とされていたあの時代に、こうしたセリフを書くことは勇気のいることだった。 ※小林秀雄の妹さんと結婚した。落語作家としてのペンネームは高沢路亭。 |
1999 サザエさんの作者! | 2002 ドグサレ漫画家・S氏の熱い祈り |
2004 春 | 2005 秋 |
だんだん左右の植木が迫ってきてる。墓前には海を割ったモーゼの気分でたどりつく |
佐賀県出身。早くに父を亡くし、母と姉妹3人という女性4人の家庭に育つ。16歳の時に家族で上京し、母は漫画が好きな次女町子を『のらくろ』の作者田河水泡に入門させた。内弟子となった長谷川はすぐさま才能を開花させ、10代で「少女倶楽部」にデビューする。戦時中は福岡に疎開し、西日本新聞社絵画部に就職。1946年(26歳)、浜辺を散歩している時にアイデアを思いついたことから、キャラクター名を海の幸にした『サザエさん』を夕刊に連載する。磯野サザエは最終回で結婚し、フグ田サザエになった。28歳、長谷川家は再度上京。翌1949年、一度最終回を迎えた『サザエさん』が、新たに全国紙(朝日新聞)に連載されることになり、その後1974年2月まで25年間も長期連載されることとなった。フグ田サザエは24歳の若奥様。庶民の立場で戦後の焼け跡から復興していく日本と共に人生を歩む過程は「24歳の主婦の目で見た戦後史」と評された。1969年からはアニメとなってお茶の間に登場し、日曜夕方という放送時間(30年以上放送!)もあって、最もポピュラーな漫画となった。1966年(46歳)から5年間連載された『いじわるばあさん』も青島幸男主演でテレビドラマ化された。57歳、『サザエさん旅歩き』を発表し第一線から引退するが、1979年(59歳)に『サザエさんうちあけ話』がNHKの朝ドラで『マー姉ちゃん』のタイトルでドラマ化されている。1992年、72歳で永眠した。紫綬褒章、勲四等瑞宝章、国民栄誉賞の他、数々の賞を受賞した。遺言に「葬儀・告別式はせず、密葬。納骨が終わるまで公表しない」とあり、死の一ヵ月後の納骨時に知らされた。
お墓は広大な敷地の多磨霊園のメインストリート“名誉霊域通り”に面している。墓石の正面には十字架が掘り込まれていた。 ※死の翌年、遺骨が多磨霊園から盗まれ、遺族に数千万円を要求する事件があった。骨壷は数日後に、JR渋谷駅のコインロッカー内から無事見つかった。犯人のアホウ!
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島根県松江市出身。23歳の時に「毎日小学生新聞」に『がんばれゴンベ』を連載しプロデビュー。ほのぼのキャラで庶民の 喜怒哀楽を描き、アニメ化された『ギャートルズ』で人気を決定付けた。没する半年前に肝臓が癌に冒されていることが分か り、『ペエスケ』を連載3764回で最終回に、そして『がんばれゴンベ』を連載9775で最終回にした。30年連載したマンガを、 癌という理由で、最終回を描かねばならなかった無念さは察するに余りある。亡くなる10日前に親友の藤子不二雄A氏が 見舞った際、右手で宙にペンを走らせる仕草を見せ、絞り出すような声で「マンガが描きたいんだよう」と訴えたという。マンガ を愛しまくっていた。 |
1999年 岡本一平&かの子の墓(右端)は息子の岡本太郎(左端)と向き合っている |
2004年 一平の墓 太郎作の母親像が載っている |
墓域全景。友人が綺麗な花を供えた(2010) | オレンジ、レッド、ホワイトの鮮やかな花々。幸せそう | 宇宙的な背中。奥で太郎の墓が笑っている |
雨の夜に墓参したらちょっと怖かった… コレ、写真の角度が悪かったのかな? |
1930年元旦、欧州へ向かう船上にて。 一平(44歳)、太郎(19歳)、かの子(41歳) |
こちらは太郎の墓。見れば見るほど 幸せな気分になってくるッス! |
一平が描いた漱石の絵。黒猫は“我輩”か? |
墓所の中央には川端康成が 岡本家について記した碑文があった |
北海道函館生まれ。大正から昭和にかけて活躍し、当時は「総理の名は知らなくても一平の名を知らぬ者はいない」と言われるほどの人気ぶりだったという。東京芸大西洋画科を出て新聞のマンガ記者となり、マンガに解説文を添えた「漫画漫文」というスタイルを確立し、現代マンガの開祖になった。漱石は一平の作品が風刺や皮肉をベースにしながらも、まったく不快感を与える部分がないことを指摘し、「今の日本の漫画家にあなたのやうなものは一人もない」「(文章も)大変器用で面白く書けています」と大絶賛。漱石のエールは一平を大いに奮い立たせ、筆はますます冴え渡っていった。 日頃から一平が「満足できる仕事をしてきたので、死ぬことは凱旋だ」と語っていたことを受け、息子の太郎は葬式の出棺の際に「父の晴の出発だから岡本一平万歳を三唱して下さい」と呼びかけ、参列者は万歳で見送った。非常に感動的な光景だったという。 一平&かの子の墓は仲良く並んでいおり、息子の太郎の墓は両親と向き合う形で建っている。太郎の墓には『午後の日』と呼ばれる彼の彫刻が墓石として置かれ、太郎が両肘をついて両親の墓をニコニコと眺めているように見える。この3人の墓の中心に立つと、何とも言えない温かい空気に包まれる。 一平の墓にも彫像があり、こちらは太郎が制作した母『かの子像』が原型になっている。かの子の墓だけは彼女が信仰していた観音菩薩像が置かれている。一平はかの子を聖観音と思っていた。 岡本家墓域の中央には、川端康成が太郎の著書『母の手紙』に寄せた序文から、岡本家を紹介した文章が刻まれた碑文が建つ。 「岡本一平、かの子、太郎の一家は、私にはなつかしい家族であるが、また日本では全くたぐい稀な家族であった。私は三人をひとりびとりとして尊敬した以上に、三人を一つの家族として尊敬した。この家族のありように私はしばしば感動し、時には讃仰した。一平氏はかの子氏を聖観音とも見たが、そうするとこの一家は聖家族でもあろうか。あるいはそうであろうと私は思っている。家族というもの、夫婦親子という結びつきの生きようについて考える時、私はいつも必ず岡本一家を一つの手本として、一方に置く。この三人は日本人の家族としてはまことに珍しく、お互いを高く生かし合いながら、お互いが高く生きた。深く豊かに愛し敬い合って、三人がそれぞれ成長した。古い家族制度がこわれ、人々が家での生きように惑っている今日、岡本一家の記録は殊に尊い。この大肯定の泉は世を温めるであろう。」 |
「緑の風の中の少女」 | 「わらびを持つ少女」 |
本名は松本知弘(旧姓岩崎) | 「お会いしたかったです!」02年夏、最高の思い出! | ちひろさんスマイル |
描かれた子供の表情を見つめているだけで、理由もなく泣けてくる絵本作家なんて、滅多にいるもんじゃない。有名な『あめのひのおるすばん』『ことりのくるひ』も素晴らしいけど、彼女が死ぬ間際に執念で完成させた『戦火のなかの子どもたち』が最も心に残る。立ち尽くす子供の瞳が描かれてるだけで、声高々に反戦を叫んでいないのに、あんなにも胸を締め付けられる本は他にない。彼女は8000点の作品を僕らに残し、55歳で亡くなった。55歳、若すぎるよ…。 ※すぐ近くに尾崎豊のお墓があります。 |
世界の人に愛されるムーミン一家 | 優しい笑顔のヤンソンさん |
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5階にヤンソンさんのアトリエがあるとのこと。以前は 見学可能だったが、2009年は残念ながら非公開になってた |
アトリエの建物の正面ドアの近くにヤンソンさんを称えるプレートが (ヘルシンキのデザイン・ミュージアムの隣デス) |
親族が今も部屋を 借りているらしい |
ちなみにヤンソンさんのアトリエの徒歩圏内に、映画で有名な 「かもめ食堂」がある。※窓ガラスに日本語で“かもめ食堂”! |
定食の魚料理が美味しい。値段は 控えめなのに量がめっさ多い! |
映画に登場したシナモンロールと “コピルアック”呪文入りコーヒー(笑) |
ヤンソンさんは墓地の奥の方に 眠っていた! (2009) |
木々が生い茂り鳥の飛び交う美しい墓地。 墓前にいるだけで気持ちが落ち着く 動画12秒 |
父親はフィンランドの彫刻家ヴィクトル・ヤンソン。墓石の上には玉乗りする 子どもの彫刻があった。墓標にはヤンソン一族の名前が四方に刻まれている |
2018年に再巡礼 | スナフキンファンの息子も心から御礼 | “ちびのミイ”が一番背が高くて面白い |
墓地の周囲を散策すると、赤、白、黄色のチューリップが咲いていた♪ |
「トーベに会いに来たのか〜!」 墓地の陽気な庭師さん |
警戒心が強いリスは人間が近づくと逃げるのに、 この墓地のリスは、なんと指先をクンクンしに きた!そんなリスは他国の墓地で見たことない |
「やっとお会いできました」 しばし、ヤンソンさんに感謝を伝える |
市内のエスプラナーデ公園には父ヴィクトルが彫った 人魚像がある。幼い頃のトーベがモデルとのこと |
ヘルシンキ中心部のホテル・ケンプ(KAMP)の1階に、国内最大のムーミン・グッズ専門店がある!360度ムーミン・キャラ。時間を忘れて入り浸ってしまう |
ファンの財布には危険な店。その気になれば生活用品のすべてをムーミン・キャラで揃えられるため、気がつけば“ムーミン破産”になりかねない |
トーベ・ヤンソンはフィンランドの児童文学作家、画家。1914年8月9日にヘルシンキで生まれる。スウェーデン系フィンランド人であり、スウェーデン語で執筆活動を行なった。父は彫刻家のヴィクトル・ヤンソン、母も画家という芸術家一家。スウェーデンのストックホルムで絵画や本の装丁を学ぶかたわら、1930年代より新聞に漫画を描く。反ファシズムに立ち、弱冠15歳で政治風刺雑誌『ガルム』の表紙絵や挿絵を描く早熟ぶりだった。
1939年、25歳のときに第二次世界大戦が勃発する。この年、トーベは画家として壁にぶつかり、北欧の妖精トロールを主役にした物語をスウェーデン語で書き始めた。 1943年、29歳で画家として初の個展を開く。 1944年(30歳)、『ガルム』の挿絵に、自身のサインのかわりにムーミンの原型となるキャラクターを載せ始める。 1945年(31歳)、架空の動物ムーミントロールを主人公にしたファンタジー童話『小さなトロールと大洪水』が完成し、挿絵画家および児童文学作家としてデビューした。本作は「ムーミン・シリーズ」(8巻,1945‐65)の第1作となる。小さい動物や虫たちが大洪水に苦しめられる姿は戦争の暗示か。 1946年(32歳)、続けて『ムーミン谷の彗星』を刊行する。こちらも執筆されたのは戦時中であり、フィンランドの悲運を反映してか不安や焦燥が全編に満ちる。 1948年(34歳)に『楽しいムーミン一家』(原題「まほうのぼうし」)が発表されると、ささやかではあるが温かな幸福感にみち、多くの子どもの心をとらえた。痛みはユーモアや希望で包まれた。 1950年(36歳)に『ムーミンパパの思い出』、1954年(40歳)に『ムーミン谷の夏まつり』、1957年(43歳)に『ムーミン谷の冬』、1962年(48歳)に『ムーミン谷の仲間たち』、1965年(51歳)に『ムーミンパパ海へいく』と立て続けに発表。並行して1953〜60年にはロンドンの夕刊新聞『イブニング・ニューズ』にムーミンまんがを連載した。 1966年、52歳の時に国際アンデルセン賞作家賞(大賞)を受賞し、国際的評価を得てトーベの名は世界に広く知られるようになる。この3年後(1969年)に、日本でムーミンが初めてアニメ化された。 1970年(56歳)に、小説としてはシリーズ最後となる『ムーミン谷の十一月』を書き上げ一区切りをつけた。 ムーミン・シリーズは登場する全員が欠点や弱さを持つが、厳しい北国の谷間で互いが思いやり、おおらかに自分らしく生きている。トーベは彼らを人間以上に人間的に描き、美しい自然描写とともにユーモラスに、そして温かく描写した。彼らの無邪気な冒険や、孤独や慰めを読者にやさしく語った。その繊細な語り口は、おかしみのある挿絵とあいまって、読み手の想像力をいっそうひきたて、かけがえのない愛おしい作品となった。 1984年、フィンランド国民文学賞を受賞。 ムーミン・シリーズは広く愛され30カ国語以上に翻訳されている。特に日本では、1969年、1972年、1990年と3度にわたってアニメ化されるほど高い人気を呼び、そのアニメが海外で放送されることで新たなファンを生んでいる。特に3度目のアニメは本国フィンランドでもブームを巻き起こした。 トーベのパートナーは、ムーミンの“おしゃまさん”ことトゥーティッキーのモデルであるグラフィックデザイナーのトゥーリッキ・ピエティラ。2人は約30年間、夏期になるとバルト海のクルーヴハル島で生活し、そこで数々のムーミン・シリーズが誕生した。 2001年6月27日にヘルシンキにて86歳で他界。 ムーミン以外の作品では、『それからどうなるの?』(1952)『さびしがりやのクニット』(1960)などの絵本が3作、自伝的小説『彫刻家の娘』(1968)、少女小説『ソフィアの夏』(1971)、短編小説集『聴く女』(1972)、短編小説集『人形の家』(1978)、『誠実な詐欺師』(1982)などがある。母国フィンランドでは画家としての評価も非常に高い。 |
●小説『ムーミン谷の十一月』は最高ッス!! ムーミン・シリーズの最終巻。この作品は最終巻なのに、なんとムーミンを始め、パパ、ママ、ミイ、スニフ、スノークのお嬢さん(ノンノン)が出て来ない!主要キャラがみんな旅に出てしまったムーミン谷を舞台に、普段は目立たない脇役達の初冬の生活を描いてるんだ。なんて渋い設定なのか(スナフキンは出てくるよ♪)。登場キャラは皆が孤独で、ムーミン家に暖かさ、優しさを求めてやって来るんだけど、肝心のムーミンたちは留守。皆ションボリ。 その後、がっかりした者同士が集まって共同生活を始めるんだ(ムーミン屋敷の鍵はいつも開いている)。皆、個性的で一癖あるから最初は喧嘩ばかり。でも、ムーミンたちが帰ってくるまでに屋敷を大掃除してあげようという事になってからは、共同作業を通して目に見えない結びつきが生れていくんだ。それぞれが胸に抱えていた問題がゆっくりと浄化され、ムーミン家に元気をもらわなくても一人で立つことが出来るようになる。 ムーミン谷に残っていた住民は、まさしく読者の僕たちだ。ムーミン・ファンはどちらかというと内気でシャイな人が多い。辛いことがあると、ムーミン家に癒されたくて、本のページを開く。ところが、ムーミンを頼ってやって来たら、彼らは留守で登場しない。これに最初は戸惑う。“癒して欲しいのに、どうしたらいいんだろう”。ヤンソンさんはなぜ最終巻でムーミン家を留守にしたのか。おそらく、ヤンソンさんは読者の皆に、「もうあなた達はムーミン家がいなくても、自分の足で歩くことが出来るのよ。自分の力を信じて!」と語りかけているんだと思う。僕はそんなメッセージを受け取った。 大掃除が終わった時の描写が実に良い。「皆は揃ってベランダの前の階段に腰掛けました。夜になると、とても寒くなりました。でも、皆、何となく別れるのが名残惜しくて、それに、今まで皆で一緒に暮らしてきた生活が懐かしくて、寒くなっても立とうとしませんでした」。誰も“さあ解散しようか”って言い出せない。こういうシーンはたまらないッス。
スナフキンは別格として、僕が一番好きなキャラはホムサ。小柄な彼はいつもだぶだぶのコートを着込んでいて、海岸の半分放棄されているボートにひっそりと住み、夜、眠る時には、ちんまりと丸まって、自分で作ったお話を自分に聞かせている。それも毎晩同じ物語ばかり。人見知りなホムサは休みなく降り続く雨の音が大好きで、ちびちび虫(要するに小さな虫)の生態に関心がある。この物静かで孤独なキャラの、一挙手一投足がたまらなく愛おしい。 ムーミン・シリーズを読んでいると、翻訳もアートだとつくづく思う。スウェーデン語の原著を、下村隆一、山室静、小野寺百合子、鈴木徹郎という4人の訳者が翻訳していて、各人がムーミンの世界観に合った日本語をチョイスしている。中でも『ムーミン谷の十一月』を担当した鈴木氏の訳は詩心大爆発。その言い回しは、まるで文字を読むというより音楽を聴いているようだ。雪に閉ざされたムーミン谷の朝は『ほんとに谷間は、とまどうほどひっそりと美しく、静まり返っていました。そして残った人たちは、あまりしょっちゅうは顔が合わない為に、かえって親しみが深まっていきました』。裏山は『この森の中は年中、昼でも暗いのです。木々は枝の置き場もないほど混み合っていて、心配そうにくっ付きあって立っていました』。 寂しい響きの言葉の積み重ねが物悲しさを深める。例えば新書版の238頁。 この頁の15行だけで「割れて」「小さくなって」「どぎまぎ」「ちびちび虫」「引き返して」「屋根裏部屋」「そっと」「ちんまり丸まって」「皆が引揚げて」「あとに残った」「げんなりした」「踏みつけられて」「床に落ちていた」「また雨が降り出して」とこれだけ陰のあるフレーズが出てくる。別頁には「何だか急に、夏なんてずっと遠くへ行ってしまって、一度だって来たことがなかったような気さえします」というのも。そして心地良い 一方、フィリフヨンカの掃除シーンは超爽快。『フィリフヨンカはどんなゴミが隠れている所でも、ちゃんと知っていました。ゴミ屑はふわふわした灰色の固まりになって、方々の隅っこにちゃっかり収まっていました。ころころ転がっていくうちに、大きく太って、髪の毛だらけになり、絶対に見つかりっこないと安心しているゴミというゴミを、フィリフヨンカは片っ端から掃き出しました。愉快愉快。蛾やら、蜘蛛やら、ゲジゲジやら、もそもそ這いずり回っている虫けらどもが、皆フィリフヨンカの大きなほうきにかかって、引っくり返され、そこの所へザーッと石鹸の泡をブクブク立てた、洪水みたいなお湯が流れてきて、すっかり洗い流してしまうのです。バケツに入って次々とドアから表に運び出されていくゴミの山も、ちょっとやそっとのものではありませんでした。人生って、まあ本当に、なんて楽しいんでしょう』…なんか読んでるだけで、部屋をパーッて掃除したくなる! 味わいのある挿絵と心に浸みるストーリー、素晴らしい翻訳で紡がれた『ムーミン谷の十一月』。なんて楽に呼吸ができる世界なのかと、読み終えるのが惜しくて仕方なかった。(*^v^*) ※『ムーミン谷の十一月』(Ama ) |
ヘルシンキの地下鉄構内で見かけた「ムーミンワールド」のポスター。夏期限定でオープンするムーミンのテーマパークだ |
島がひとつまるまるムーミン谷になった「ムーミン ワールド」。なんとムーミン屋敷に入れる!(2005) |
日本のアニメが逆輸入されて空前の大ブーム。 「ムーミンワールド」は西海岸ナーンタリにある |
池から聞こえるハーモニカの音色! 哀愁のスナフキンを発見! |
トーベは遺言で海への散骨を希望した。遺灰は 沖合いの海と首都の墓地に分骨された可能性が高い |
※特集ページ〜『ようこそムーミン谷へ!』 |
写真は共に、左が弟・ヴィルヘルム、右が兄・ヤコブ |
『白雪姫』『赤ずきん』『灰かぶり(シンデレラ)』『ヘンゼルとグレーテル』『ブレーメンの音楽隊』など、ドイツに伝わる民話をまとめる。 この2人は単なる童話作家ではなく優れた民俗学者でもあり、民衆に権力を振りかざす横暴な国王には、弾圧覚悟で抗議文を 送りつける勇気ある兄弟だ。グリムは正確には6人兄弟。兄ヤコブは生涯独身で弟のヴィルヘルム夫妻と同居していた。 |
「今日も我らに日々のパンを与えたまえと言った後で、お前はなんて言ったの?」 「お母さん、怒らないでね」 と、小さな女の子は言いました。 「あたし、お祈りしたのよ。パンにバターもたくさん付けてくださいまし、ってね!」 〜アンデルセン/絵のない絵本(第三十三夜) |
1994 墓石が生垣に埋もれ、 発見に膨大な時間を要した |
15年後に再墓参!この時は墓地の中に 彼の墓まで道標があり助かった(2009) |
コペンハーゲン駅から トラム1本で来られる |
とてもシンプルな墓標だ |
墓前に黄と赤のバラが供えられてた |
市内のアンデルセン像。子供が 遊ぶチボリ公園を見つめている |
コペンハーゲンの「人形姫」像。シンガポールのマー ライオン、ベルギーのションベン小僧と並ぶ“世界 3大ガッカリ”とされてるけど、結構良いデキと思う |
「私の生涯は、波乱にとんだ、しかし幸福な一生だった。それはさながら、一編のメルヘンだった」(アンデルセン) 1805年4月2日にデンマーク中央のフュン島(コペンハーゲンは東のシェラン島)、オーデンセの貧しい靴屋の家に生まれる。アンデルセンの名は、デンマーク語の発音では“アナセン”。 1812年、7歳の時にドイツでグリム兄弟が『子どもと家庭のための昔話集(グリム童話)・第1巻』を刊行。同年、ナポレオン軍がロシアで大敗北を喫する。アンデルセンの父はナポレオンを崇拝し志願兵となったが敗戦で心を病む。 11歳のときに父が狂死。母は文字を読めず、アンデルセンはろくに小学校に行けなかったが、近所から本を借りて読書に励み、空想にふける少年時代を送った。 そんな折、地元へ巡業にきた王立劇場の劇に感動、演劇への情熱に駆られたアンデルセンは14歳のときに裸一貫でコペンハーゲンに飛び出す。オペラ歌手や俳優を志望し、デンマーク王立バレエ団の学校に入って端役をもらうが間もなく行き詰まる。王立劇場の支配人コリンは、情熱はあるが結果を出せないアンデルセンに同情し、正規の教育をラテン語学校で受けられるよう援助する。もともと知識欲が旺盛だったアンデルセンは喜んだが、校長夫妻の暴君ぶりに神経衰弱となって卒業を前に退学。トラウマを負い、晩年まで校長夫妻が悪夢に出てきたという。 1828年、23歳でコペンハーゲン大学に入学。 1829年(24歳)、最初の重要作品、ユーモラスな旅行記『ホルメン運河からアマーア島の東端までの徒歩旅行』を自費出版、評判は上々だった。続いて戯曲が王立劇場で上演されたことから、学業を放棄して作家の道に進む。 1831年(26歳)、アンデルセンは失恋や著作の文法間違いを指摘する批評家の酷評に苦しみ、落胆ぶりをみかねた周囲から外国旅行を勧められドイツを旅する。旅はアンデルセンの感性を大いに刺激し、「旅は私の学校」と開眼、以降「旅することは生きること」と、生涯に29回も外国を旅し、ヨーロッパだけでなくアジア、アフリカでも見聞した。 1833年(28歳)、再び大失恋をして絶望感に包まれる。国王から下賜金を得たこともあり、苦しみを癒やすために一年間の旅に出発、ドイツ、フランス、スイスを経てイタリアに入り、素晴らしい芸術と風景に触れた。 1834年(29歳)、アンデルセンはイタリアの風物に情熱と詩情をかき立てられ、ローマで初めての小説『即興詩人』を書き始める。帰国後に完成。 1835年(30歳)、『即興詩人』を発表。批評家から高く評価され一躍名声を得た。 同年、アンデルセンは作品4編を収めた最初の童話集も刊行し、世界的な童話作家としての第一歩を踏み出す。その後、戯曲30編や小説、紀行文を書き続けたが、当時は子供だましとしかみられていなかった童話を書くことを生涯の仕事とした。毎年のように童話集を出し、作品の根底には甘美な抒情と暖かいヒューマニズムがあった。作品中では、貧しい者、虐げられた者、思いを伝えられない者を多く描いた。 1837年(32歳)、『人魚姫』『はだかの王様』を含む童話の第三集を発表。それまで童話を馬鹿にしていた批評家たちが、アンデルセンの真価は童話にあると気づく。 1840年(35歳)、珠玉の連作短編集『絵のない絵本』を発表。 1843年(38歳)、『みにくいアヒルの子』を発表。 1844年(39歳)、『雪の女王』を発表。 1845年(40歳)、『あかい靴』『マッチ売りの少女』を発表。私生活で不幸な恋が続き、作品が次第に暗くなり、一時は童話がまったく書けなくなる。 1872年初頭、67歳のアンデルセンはベッドから落ちて重傷を負い、その怪我から完全に回復することはなかった。その直後から肝臓癌の兆候を見せ始めた]。 1875年8月4日にコペンハーゲン近郊の友人宅にて70歳で他界。死の直前、自分の葬列の音楽について希望を出していた。「私の後を歩くのはほとんど子どもたちだから、小さな歩みに合わせて拍子をとってほしい」。 遺体はコペンハーゲンのノアレブロ地区にあるアシステンス・キルケゴードに埋葬され、劇場支配人コリン家の区画に埋葬された。しかし、1914年に墓石が別の墓地に移された。現在、アンデルセンの墓には2つ目の石が建てられており、コリン夫妻のことは一切書かれていないが、3人とも同じ区画にいる。 キルケゴールは失恋を重ね、旅にあけくれ、生涯家庭をもたなかった。自伝に『わが生涯の物語』。 1902年、森鴎外が和訳版『即興詩人』を発表。ドイツ語版を読んだ鴎外が「わが座右を離れざる書」と感銘を受け10年がかりで翻訳した。 1956年、アンデルセンの生誕150年を記念して国際アンデルセン賞が創設され、2年に一度、全世界の児童文学作家を対象に授与されている。「児童文学のノーベル賞」とも。 アンデルセンが晩年まで書き続けた童話は40年間に156編にものぼる。現在、童話は80カ国語以上の言語に翻訳されている。豊かな空想力を持つアンデルセンは、洗練された表現で現実と幻想の交錯する世界を巧みに描き出し、童話の世界に新しい風を吹き込んだ。 ※コペンハーゲンの港の入り口には人魚姫のブロンズ像が置かれている。 |
『不思議の国のアリス』を後世に残す |
アリスのモデルとなったALICE LIDDELL。 この写真はキャロル自身による撮影 |
ロンドンから鉄道を使って日帰りで行ける。墓地は小高い丘を上るので息切れに |
経済優先の社会に警鐘を鳴らした |
墓地へ入った瞬間、無意識に深呼吸をした!ここは森林墓地と呼ばれており、天に向かって木々が 生い茂っている。右写真では樹木の間から墓石がいくつか見えているが、指摘されなければ墓地だと 分からないと思う。そこいらじゅうにリスが走り回っているし、こんなに酸素が多い墓地は他にない! |
エンデもここならゆっくりと落ち着ける と思う。時間泥棒もやって来ない |
本の形をした墓石を、フクロウ、ユニコーン、カタツムリが読んでいた。 昔のデジカメで解像度が低いけど、この本はおそらく『はてしない物語』。 |
屋根も壁も本で出来ている |
代表作のひとつ『モモ』 |
『モモ』を助けてくれた亀カシオペイア! 甲羅に「HABE KEINE ANGST」 (シンパイムヨウ) |
ドイツの児童文学作家ミヒャエル・エンデ。父はシュールレアリスム画家のエドガー・エンデ。ミヒャエル・エンデは最初の妻と死別し、『はてしない物語』の翻訳者である佐藤真理子と再婚した。 代表作のひとつが『モモ』。少女モモは自然の音や動物、星の声に耳を傾け、人の話をよく聴くことで、出会う人間に自信を取り戻させる不思議な孤児。彼女は貧しくとも自分のペースで豊かな時間を生きている。 ある日、モモは人間の時間を盗んで生きる“灰色の男たち”の存在を知る。時間を盗まれた人々は日々の余裕が消え、心がパサパサに乾いていく。本来、時間どろぼうの“灰色の男たち”は、この世に存在していなかった。人々が“時はカネなり”と効率主義に走ることで、連中の発生をゆるす条件を作りだしてしまった。 モモは時間を司るマイスター・ホラと出会い、友人たちの時間を取り戻すべく、彼女に助言をくれる不思議な亀“カシオペイア”と共に“灰色の男たち”に立ち向かう。 「人間というものは、ひとりひとりがそれぞれ自分の時間を持っている。そしてこの時間は、本当に自分のものである間だけ、生きた時間でいられる」。 エンデのお墓は南ドイツ・ミュンヘンの森林墓地の212区にあり、墓石は巨大な見開きの本になっている。作家ならではの素敵な墓で、傍らのフクロウやカタツムリが墓の文字を読んでいる。手前には本を重ねて作った石灯籠風のモニュメント。 何より感動したのは、エンデの墓に寄り添うように亀の彫像があったこと。この亀はモモの冒険を助けてくれた“カシオペイア”だ。甲羅に浮かんだメッセージは、原作でカシオペイアがモモに送った励ましのメッセージ。ドイツ語で「HABE KEINE ANGST (シンパイムヨウ)」とあった。墓参者は心が疲れているときにこの文字を読むと、心底から癒されると思う…。 僕は墓前で言葉が熟すのを待って「ダンケ・シェーン(ありがとう)」とソウルトーク。この墓があるからミュンヘンに住みたいとまで思える、そんな森の中の墓所でした。 森林墓地で小鳥のさえずりを聴きながらエンデの墓前で過ごしていると、“星の時間”に身を置いている気がした。 ※エンデが眠る墓地は、世界最初の森林墓地とのこと。 |
「う…美しい」。墓地への道すがら。英国は平地が 多いのでスカッと視界がひらけている |
フギャ!あの中から探し出すのか。大変だ… |
なんて親切な墓地!要所要所に「トール キンの墓はこっち」という矢印があった |
こんなのがたくさんあった! |
うお、あのすごい人だかりはもしや!? |
「トールキンだ!」しかし、ちょうど日陰に なっていたので太陽が移動するのを待つ |
30分後、完全に墓石に陽が当たるようになった! 「はじめまして、トールキンさんッ!」 |
右側から見るとバラがいっぱい。見る 角度で墓の印象が全然変わってくる |
この写真は海外の墓サイトにアップされて いた2001年当時の墓。僕は彼の背後に ある黒い墓石を目印にしてたんだけど--- |
今回行ったら倒れていた!もしトールキン の墓への案内板がなく、写真だけを頼りに 探していたら、何時間かかっても見つから なかっただろう(こ〜ゆ〜ことはよくある) |
●サイト読者のNIKEYさんから以下のような情報を頂きました!トールキンの言葉にグッときました! ---------------------------------------------------------------- 「ファンタジーは逃避である」という意見に対して、ゲド戦記の作者ル=グウィンは1974年のエッセイ「エスケープ・ルート」において、トールキンの言葉を「最上の答え」として引用した→ 「文芸批評の埒外にあってこの言葉を用いるときに、この言葉に軽蔑や憐憫の響きを込めることにおいては、通常『逃避』はとても実用的であり、英雄的なものですらあることははっきりしている。実生活においては、逃避が成功すればするほど悪く思われるように見受けられる。我々は、明らかに言葉の誤用に、また同時に思考の混乱に直面しているのである。 もし、ある兵士が牢獄の中にいることに気づき、脱獄して家に帰ろうと試みたからといって、どうしてその人が軽蔑されなければならないのだろうか?『逃避』という言葉をこのように用いる批評家たちは、言葉の選択を過ったのだ。ヒトラーの支配した国家社会主義ドイツであろうと、国家支配の悲惨な状況から逃げることに『逃亡』のレッテルをはりつけ、その体制を批判しただけでそれを反逆とよんだかもしれない。 金貸し連中、無知蒙昧の輩、権力の追従者たちはわれわれ全てを牢獄に閉じ込めている。我々が意識と魂の自由を何よりも重んじるのなら、我々が自由を求めるパルチザンであるのなら、逃亡は明白なる義務であり、できるだけ多くの人を伴って逃亡すべきである。」 |
ここに世界中の墓マイラーの間で話題 が沸騰している“あの”墓があるという |
児童文学の作家ゆえか、子ども たちが墓所を教えてくれた |
ゴゴゴゴゴ…見えてきたぞ… |
バンッ! | ドンッ! | ズギュゥゥゥウン! |
「ドリャー!バゴーン!」 お墓から出てきているーッ! |
ベキベキベキベキッ! | この角度が、最も今まさに墓から 出てきている感じがする |
ご無沙汰しております!なんかツタの葉が増えてる… | 相変わらずの最強インパクト |
初めて後方より撮影。後ろ側は普通の墓 |
描かれたシュロの葉はキリスト教で 「死に対する勝利」「殉教」の象徴 |
正門の右側に墓地の地図を 発見!これなら迷わない |
真横に来るとヴェルヌのデカさが分かる |
巡礼者はみんな息を呑んで見入っていた。「アイム・ノット・デッド・イエット」、こう呟く青年も。 ※左は2005年、右は2015年。ヴェルヌはこの10年間でツタの葉に囲まれてしまった |
SFの父。フランス西部の港町ナント生まれ。港には世界中から船乗りがやって来るため、彼らの冒険談を聞いたヴェルヌは、少年時代から世界への好奇心を育んでいた。11歳の時、初恋の女性にサンゴの首飾りを買うために、こっそりとインド行きの帆船に水夫見習いとして乗り込むが父に見つかってしまう。ヴェルヌは「もうこれからは夢の中でしか旅行はしません」と誓ったという。1848年(20歳)、弁護士の父の希望でパリ大学法学部に入ったものの、文豪デュマ(父)と面識を持ったことがきっかけで劇作家を目指すようになる。1858年(30歳)、友人のフェリックス・ナダールが気球からの写真撮影に成功すると、これに刺激を受けて1863年(35歳)に冒険小説『気球に乗って五週間』を発表する。作品は大きな話題を呼び、彼は一躍流行作家となった。そして様々な科学知識を盛り込んだ『既知および未知の世界への驚異の旅』シリーズを約40年にわたって刊行する。代表作は、1864年(36歳)の『地底旅行』、1870年(42歳)の『海底二万里』、1873年(45歳)の『八十日間世界一周』など。これらの空想冒険小説には、潜水艦(ノーチラス号)、宇宙旅行、映画、ヘリコプター、空調設備、誘導ミサイルといった“未来”の科学技術が、驚異的なほど的確に予測されている。
1883年(55歳)、アミアン市会議員に当選。22年後に他界するまで議員を務めた。『海底二万里』に登場するネモ船長がイギリスの圧政の犠牲者であるように、ヴェルヌは権力によって虐げられた人々への共感を表明した。1886年(58歳)、発狂した甥がヴェルヌを銃撃するというショッキングな事件が起き、彼は深く心を痛める。1888年(60歳)、『十五少年漂流記』を発表。死の直前まで作品を発表し続け、1905年に77歳で死去。彼の作品は各国で翻訳され、日本においても明治維新後に初めて翻訳された仏文学は『八十日間世界一周』(明治11年)だった。人々はヴェルヌが描き出した、科学進歩がもたらすバラ色の明るい未来世界に希望を見出した。
※ヴェルヌとH・G・ウェルズの2人をSFの開祖とする意見がある。でも、ヴェルヌの方が38年も先に生まれており、2人を同列に語るのはちょっと違和感がある。 ※映画製作の先駆者メリエスの「月世界旅行」(1902)など、ヴェルヌの小説が映画黎明期にはよく映画化された。 ところで、あのゾンビ墓というか、異様な造形の墓は、本人の遺言によるものなのか、遺族の考案なのか。甥の銃撃事件や親しい編集者が先立ったことで、晩年はかなり悲観主義になっていたらしいけれど…。 【ヴェルヌの墓について、サイト読者のSさんから詳しい情報を頂きました!】
1927年(没後22年)にヴェルヌの姪ALLOTTE DE LA FUYE M.が書いた『Jules verne sa vie son oeuvre(ジュール・ヴェルヌ その生涯と作品)』という本がある。フランス語版のみで既に絶版。Sさんは古書店で購入されたとのこと。 ●内容の要約 1905年にヴェルヌが他界した際、伝記作家のCharles Lemireが葬儀を行った。棺はアミアンのMadeleine墓地に埋葬され、ヴェルヌの息子Michel Verne(1925年没)がアミアンの彫刻家Albert Rozeに墓石の制作を依頼する。この時、Michelとヴェルヌ夫人Honorine du Fraysne de Viane(1910年没)は、『Vers l’Immortalite et l’Eternelle Jeuness(不死と永遠の若さに向かって)』という言葉を墓石に刻むことを希望した。彫刻家はその文言をコンセプトに、地面から半身を出した墓を制作したものと考えられる。現在(1927年)、同墓地はプラタナスとブナの高い木々に守られており、ヴェルヌ夫妻が並んで眠っている。 ※墓地の公式HP http://www.lesamisdelamadeleine.com/ ちなみに、他界2年後(1907年)に、ヴェルヌのファンらが募金をして、墓石を彫ったRoze氏にモニュメントの制作を依頼している。完成した作品は、上部にヴェルヌの上半身、台座の足下に若い3人の読者が座り、彼らが『驚異の冒険』を読んでいるというもの。本作は1907年の展示会に出品され、後に公園散歩道に面したヴェルヌお気に入りのベンチ近くに設置された。1925年、モニュメントは大型ハリケーンで無残に破損したが、後に修復されている。2011年現在、ヴェルヌの家から200mの所にある広場に建つ。 ※モニュメントの画像 http://www.julesverne.ca/jvmonu.html |
小川未明(小平霊園) | 浜田広介(ひろすけ)※本名は廣助 | 春秋苑の坪田譲治 |
大人のための感動絵本! | シルヴァスタインはシカゴに眠っている |
親族と並ぶ。手前の一番右がシルヴァスタイン | シルヴァスタイン家 | 墓石にダビデの星。ヘブライ語で何か書かれていた |
ハルク参上! |
“ザ・キング”と呼ばれた彼の墓には「王冠」が!右上の本の表紙は『ファンタスティック・ フォー』のリーダー(リード・リチャード)と、インビジブルガール(スー・ストーム) |
ボブ・ケーンがデザインしたバットマンの敵キャラは外見が実にユニーク |
今も子供から大人まで大人気 (オクラホマにて) |
アニメ史上最大の巨人 |
1927年にディズニーが描いた ミッキーマウスの最初のデッサン |
ミッキー映画第2作「蒸気船ウィリー」(1928) アニメでは初のトーキー映画。手袋なし |
フォレストローン墓地の丘を登っていく(2013) | 墓所はワシントン像の後方 | この門の向こうがディズニー家の墓所 |
2000 | 2009 |
2013、周囲の植物が成長し過ぎ、“隠れ墓”状態 | 「でぃずにーさん、ありがとう」と3歳児が感謝 | 最初の巡礼から13年間変化なし |
アニメ史上最大の巨人。優れたアニメーターでありアニメーション映画プロデューサー。ミッキーの声優。本名ウォルター・イライアス・ディズニー。シカゴ生まれ。先祖はアイルランド移民で父は鉄道員(後に農家)。少年時代から絵を描くことが好きで、1911年(10歳)から絵画教室に通い始める。高校時代は美術学校の夜間部で絵を学んだ。第一次世界大戦が勃発すると赤十字社の衛生兵として活躍。戦後、貧困の中で漫画家を目指して新聞に漫画を描く。やがて広告デザインの仕事を通して生涯の友人となるアブ・アイワークスと巡り逢う。2人は時を同じくして失業し、1920年(19歳)、ウォルトとアイワークスはデザイン会社を創立した。間もなくウォルトは映画館用CMの制作会社にアニメーターとして雇用され、短編アニメの作画を通してアニメの魅力に取り憑かれた。 同年、ウォルトはフリーランスの製作者として独立し、初のオリジナルアニメを制作。これが高評を得てアニメ制作の仕事が増えていった。ウォルトはアイワークスを呼び寄せて奮闘したが、資金のやり繰りに失敗しスタジオは倒産してしまう。ウォルトはハリウッドに移住して再起を図った。 1923年(22歳)、ハリウッドで兄のロイと小さなアニメ・スタジオ「ディズニー・ブラザーズ社」を設立。1925年(24歳)、従業員のリリアンと結婚し、2人の娘を授かった。1927年(26歳)、自社キャラクターとしてウサギのオズワルドを考案し、子ども達の間で人気を博した。これでディズニー社は発展し急成長を始めるが、その翌年にライバル会社から大規模な引き抜き工作があり、盟友アイワークス以外の大半の社員スタッフが去ってしまった。失意の中、ウォルトは倒産寸前のディズニー社をアイワークスと2人で再建していく。作画監督のアイワークスはウォルトの原案を元に「ミッキーマウス」(命名したのは妻のリリアン)を生み出した。 1928年(27歳)、6分間のサイレント映画『プレーン・クレイジー』(リンクは音入り版)にミッキーマウスを初登場させたが配給会社が見つからず、世界初のトーキー・アニメであるミッキー登場第2弾『蒸汽船ウィリー』(7分)が先に公開された(ウォルトはミッキーの声を担当)。ミッキーはたちまち人気者になりディズニー社再建の原動力となった。 1932年(31歳)、世界最初のテクニカラー・アニメ『花と木』を発表し、最初のアカデミー賞(短編アニメ賞)を受賞。そして1937年(36歳)、史上初の長編カラー・アニメーション映画『白雪姫』を完成させた(制作期間3年!)。制作にあたって人間の動きを先に撮影し、それに合わせて動画をおこした『白雪姫』は不朽の名作となった。アメリカでは挿入歌の“ハイホー”がブームになった。1940年には『ピノキオ』と、世界初のステレオサウンド・アニメ『ファンタジア』を公開し、ディズニーアニメはどんどん進化していく。 だが、翌年に日本が真珠湾を奇襲。米国は第2次世界大戦に突入する。ウォルトは戦時下でも『ダンボ』(1941)、『バンビ』(1942)を完成させたが、戦火の拡大で市場は縮小してしまう。 ディズニー社の第2期黄金期は1950年(49歳)の『シンデレラ』に始まった。1951年(50歳)に『ふしぎの国のアリス』、1953年(52歳)に『ピーターパン』、1955年(54歳)に世界最初のシネマスコープ長編『わんわん物語』、1959年(58歳)に70ミリフィルムを使った『眠れる森の美女』、1961年(60歳)に『101匹わんちゃん』を世に送った。同社は自然ドキュメンタリー映画の制作にも乗りだし、1964年(63歳)にはジュリー・アンドリュース主演の特撮映画『メリー・ポピンズ』(製作ウォルト)を作り上げた。 一方、1955年(54歳)に夢の国を実現すべく、カリフォルニア州に「ディズニーランド」を開設。ウォルトはオープン時にこうスピーチした「私はディズニーランドが人々に幸福を与える場所、大人も子供も、共に生命の驚異や冒険を体験し、楽しい思い出を作ってもらえる様な場所であって欲しいと願っています」。 さらに1965年(64歳)にはフロリダ州の中心にマンハッタン島の約2倍の面積を持つウォルト・ディズニー・ワールド・リゾートを作り始めたが、ウォルトは肺癌に侵され、完成を見ることなく翌1966年12月に他界した。享年65。ウォルトはディズニーランドについて「けっして完成せず、新たな要素をくわえつづけよ」と言い残した。翌年、遺作『ジャングル・ブック』公開。 他界5年後(1971)にフロリダのディズニー・ワールドがオープンし、他界17年後(1983)に「東京ディズニーランド」が、1992年にはフランスに「ディズニーランド・パリ」がオープンした。 アニメ部門は1991年の『美女と野獣』から第3期黄金期を迎え、1992年『アラジン』、1994年『ライオンキング』など大ヒット作を生んでいった。1995年、ディズニー・プロ出身のジョン・ラセターが所属するピクサー社(2006年からディズニーの子会社)は世界初の3DCG長編『トイ・ストーリー』を発表し、新時代の幕が開けた。現在、ウォルト・ディズニー・カンパニーは350億ドルの収入を持つ国際的大企業となっている。 ※ウォルトが生涯に制作した作品は、長短編合わせて550本!アカデミー賞を29回も受賞している。 ※日本がアメリカに戦争を仕掛ける4年も前にオールカラーの『白雪姫』は公開されている。日本の複数の映画関係者は『白雪姫』を観て、“これを作った国と戦うのか”と絶句したという。 ※ウィキペディアによると、晩年のウォルトはドーナツをウイスキーに浸して食べることを好み、それが朝食だったという。 ※リベラル派の僕には残念なことだけど、ウォルトは右派の共和党員、ゴリゴリの反共主義者としてCIAの協力者であったと言われている。白人中心・男性中心主義で黒人と女性を会社の中核に配属させなかったとも。冷戦という時代背景もあったし、当時の白人男性の典型として、そこは仕方ないと思ってる。今こんな人がいたら大問題だけど。 ※ピクサーはディズニーの子会社になる前に『モンスターズ・インク』(2002)、『ファインディング・ニモ』(2003)、『Mr.インクレディブル』(2004)等を発表。子会社後は『カーズ』(2006)、『レミーのおいしいレストラン』(2007)、『WALL・E/ウォーリー』(2008)、『カールじいさんの空飛ぶ家』(2009)、『トイ・ストーリー3』(2010)等を完成させている。 |
すごい存在感 |
護国寺の山門。大山倍達もここに永眠している |
護国寺は広大。目印はこの煙突。近くに 先生の墓がある(墓地の下段一番奥) |
この五輪塔が梶原先生の墓!本名の高森で眠っている(2009) |
「高森家」の 名刺受け |
『吾が命 珠の如くに慈しみ 天命尽くば 珠と砕けよ』とある |
前年に続いて巡礼(2010) | 前回は気づかなかった蛙を発見! |
漫画原作者。高森朝雄(あさお)とも。本名は高森朝樹(あさき)。浅草生まれ。1966年(30歳)、漫画『巨人の星』の原作を担当し大きな話題を呼ぶ。翌年に『柔道一直線』、続いて1968年(32歳)に『タイガーマスク』、『あしたのジョー』(高森朝雄名義)を発表、すべてがヒット作となった。1971年(35歳)、極真空手の大山倍達の半生を描いた『空手バカ一代』によって、日本に空手ブームを巻き起こす。同年『侍ジャイアンツ』を発表。1973年(37歳)に『愛と誠』、1976年(40歳)になると映画界に進出し、格闘技映画『地上最強のカラテ』を制作した。
飛ぶ鳥を落とす勢いで活躍した梶原だったが、一方で私生活は荒れ果てていく。アルコール依存、暴食で内臓はボロボロになり、傷害事件、恐喝事件を起こすなど自己破滅的な日々を繰り返した。暴力団との付き合いが明るみに出ると、各雑誌からいっせいに連載を打ち切られた。晩年はヒット作に恵まれないまま、1987年に50歳の若さで病没。他界後、“梶原一騎”の名前はマスコミ界のタブーとなったが、90年代後半から作品の再評価が始まっている。
実在するスポーツ選手と架空のキャラを絡めたり、“魔球”を導入するなど、ドラマチックで破天荒なストーリーが若者の高い支持を集めた。護国寺の墓地にて本名の高森朝樹で眠っている。墓碑には太く短く生きた梶原らしい一文が、自筆で次のように刻まれている--『吾が命 珠の如くに慈しみ 天命尽くば 珠と砕けよ』。 |
調布インター近くの住宅街にある 覚證寺(かくしょうじ)。墓地は本堂裏手 |
鬼太郎にねずみ男!一目で先生の墓と分かった! 1987年(昭和62年)に65歳で建立した生前墓(2010) |
水木先生の他界の40日後に再巡礼(2016) 手前左に「水木しげる」、右に「武良家」の文字 |
すごい存在感の鬼太郎。 手元には茶碗に入った目玉親父 |
ねずみ男は手元に札束を握っていた(笑) |
仁王像の如く、両者がお墓を守っている! |
夕暮れどきの鬼太郎 | 昼間とは雰囲気が異なる | 「みずきせんせい、ありがとうございました」 |
砂かけばばあ! |
墓の周囲は約75体が彫り込まれた妖怪レリーフ! お馴染みの人気妖怪がズラリ。賑やかで寂しくない |
猫娘がヤバすぎる(汗) |
子泣きじじいにホッコリ |
「あの頃(一昔前)は、近郊にまだたくさんあった名のない荒れた無縁墓地を、よく散歩で廻った。僕が立ち去ろうとすると、墓がいかにも名残り惜しそうな表情をする。特に古い墓ほど死者の気持ちがなごやかで、これが墓めぐりの醍醐味だった」。 妖怪マンガの第一人者水木しげるは、1922年に大阪で生まれ、母の故郷の鳥取県境港市で育つ。本名、武良茂(むら・しげる)。次男。幼少時代、“しげる”を正確に発音できず「げげる」と言っていたことから「ゲゲ」があだ名となった。ペンネームはの“水木”は一時期神戸で経営していたアパート「水木荘」による。 5歳頃に、お手伝いさんの“のんのんばあ”景山ふさが語り聞かせた妖怪の話に刺激を受け、妖怪に興味を抱く。「この小柄なおばあさんが私の生涯を決めたといっても過言ではない」(水木)。勉強は苦手だったが、小学生の時から絵が得意で、高等小学校(10〜14歳)では学内コンクールで金賞に輝いた。卒業後、15歳で仕事探しのため大阪に出たが、マイペースな性格が災いして印刷会社、板画社と連続で解雇され、病により帰郷。翌年、今度は画家になることを夢見て大阪に再び出て新聞配達などしたが、19歳の時に太平洋戦争が勃発した。 徴兵年齢の20歳になると、近眼により補充兵役とされ即時入隊は免れたが、1943年(21歳)、戦況悪化にともない召集され、歩兵第229連隊として南方戦線パプアニューギニアのラバウルへ出征した。敵の魚雷攻撃をかわしつつ老朽船でラバウルに着いたが、後続の部隊は全て撃沈されており、最後のラバウル到着部隊となった。水木は軍隊生活でもマイペースを貫いたことから、上官から目を付けられて何度も鉄拳制裁を受け「ビンタの王様」と呼ばれた。 ニューブリテン島ズンゲンの戦いで、圧倒的火力の敵軍に対する玉砕(突撃死)命令が下り、連隊は皆で突っ込んでいった。ところが上官が真っ先に戦死したため指揮する者がいなくなり、さらに米軍からの猛反撃にあい、水木の部隊の児玉中隊長が“いま突撃して無駄死にするより、ゲリラとなって戦い続けよう”と決断、突撃をやめて81名が撤退した。水木は紙一重で戦死を免れた。一方、軍司令部は総員玉砕報告を受けて連隊が全滅したと信じ込み、新聞には「勇敢に華々しく全員玉砕」と“美談”として載せた。水木たち生存者はそんな状況になってるとも知らず、命からがら基地に戻った(水木は銃剣とふんどしだけで数日間ジャングルをさ迷った)。 ところが、死んだと思っていた兵士が生きていたことに上層部は絶句。彼ら81名は美談の為にも、この世にいてはならぬ存在だった。児玉中隊長は“生存者を出した”ことの責任から自決に追い込まれた。上層部は「なぜ玉砕せず逃げたのか」「死に場所を見つけてやる」と怒り、生還者は“今度こそキッチリと死ぬ為 に”再び突撃を命じられた。一方、水木はマラリ アを発症し、療養中に米軍機に爆撃されて左腕を失った(麻酔なしで切断手術)。後方のナマレ野戦病院に送られ、そこで原住民のトライ族と交流が始まった。水木は配給タバコをプレゼントし、気さくで威張らない性格がトライ族に愛され、集落の仲間同然に歓待された。再びマラリアで倒れると、生死をさまよう水木のためにトライ族が食料を持って見舞いに来て、命を救ってくれた。「彼らとの交流は過酷な戦場で唯一のやすらぎだった」(水木)。 ※トライ族の少年トペトロとは特に親しく交流し、戦後、現地を再訪して恩返しに車を贈っている。1993年にトペトロが他界すると、貧しい遺族に代わって水木が葬儀代を負担した。 1945年(23歳)8月25日、部隊長が日本の降伏を告げると、水木は「生き延びた!」と命あることに感謝した。連合軍捕虜収容所で日本送還の待機中に、トライ族からニューブリテン島に残って集落で暮らさないかと誘われ、永住するつもりで「現地除隊」を申し出たが、軍医の砂原大尉から「家族に会ってから決めては」と説得され、終戦の翌年、1946年(24歳)に浦賀港に到着し3年ぶりに復員した。両親は片腕を失ったことを悲しんだが、水木の胸は戦争を生き抜いた喜びと、好きなだけ絵を描けるという嬉しさに溢れていた。 だが、復員後は極度の貧困に直面して画家の夢を諦めざるを得ず、様々な商売に手を出し、一時期は魚屋を営んだ。2年後(1948年)、絵に対する想いが募り、26歳で武蔵野美術学校(現・武蔵野美大)に入学するも、画家として生きることの困難さを知り中退。1950年(28歳)、傷痍軍人として募金活動を行った神戸で、安宿の主人から「建物をアパートとして買って欲しい」と提案され、格安であったことから資金をかき集めた。兵庫区水木通に面したため「水木荘」と名付けて大家になったものの、入居者は変わり者が多く、なかなか家賃収入が伸びなかった。 翌年(29歳)、紙芝居作家の弟子という若者が入居し、水木の絵に対する想いが再燃、運命が大きく変わっていく。紙芝居を制作しては紙芝居の貸元に持ち込み、やがて活弁士・鈴木勝丸から薄給ながら紙芝居作家として採用された。鈴木は水木の本名“武良茂”を覚えてくれず、いつも「水木さん」と間違って呼ぶため、この頃から「水木しげる」をペンネームとして使い始める。 1953年(31歳)、3年経営しても収益が出ない「水木荘」を売却し、西宮に転居。紙芝居の制作に専念し、次第に制作のコツを掴むも、テレビや貸本漫画が普及し始め、紙芝居人気は急速に落ちていった。1957年(35歳)、紙芝居業界に見切りを付け、漫画家になるため上京。1958年、36歳のときに貸本漫画『ロケットマン』で漫画家として正式にデビューした。当初は戦記漫画を主に描き好評を得る。漫画の原稿料は紙芝居よりはるかに良かったが、貸本出版社はどこも資金繰りが苦しく、支払いは滞りがちで、多忙にもかかわらず質屋通いが続いた。生活苦が長引き、おのずと作品内容も陰気なものとなり、出版社が水木の名では売れぬと、勝手に別名で掲載する非礼な仕打ちも受けた。1959年(37歳)、調布に家を購入し、他界まで56年間この地に居住する。 1960年(38歳)から『墓場鬼太郎』シリーズを発表開始。第一話「幽霊一家」は貸本雑誌『妖奇伝』に掲載された。『妖奇伝』は全く売れず第2号で廃刊となったが、熱心なファンから鬼太郎の連載再開を求める手紙が届き、倒産寸前の出版社(兎月書房)は『墓場鬼太郎』の刊行を続けた。 1961年(39歳)、島根県安来市出身で10歳年下の飯塚布枝とお見合いし、わずか5日でスピード婚。布枝は水木の赤貧に驚く一方、一心不乱に仕事に打ち込む姿勢を尊敬した。同年、紙芝居時代の『河童の三平』を漫画化。翌年に長女が生まれて暮らしがさらに厳しくなり、妻の着物まで質に入れた。貸本漫画業界の衰退にともない、手元には3センチもの質札の山が築かれた。出版社を変えて『鬼太郎夜話』を刊行するも経営者が病に倒れて打ち切り、1963年(41歳)、別会社から『悪魔くん』を出版するも思いのほか人気が出ず途中で打ち切りとなった。 1964年(42歳)9月、新たに創刊された『月刊漫画ガロ』で商業誌デビューを飾り、白土三平と並ぶ看板作家となった。翌1965年(43歳)、劇画路線に進んだ講談社から連載を依頼され、子ども向けの丸っこい絵柄に挑戦した『テレビくん』が『別冊・少年マガジン』に掲載されて少年漫画誌へのデビューを果たした。同作は第6回講談社児童漫画賞を受賞し実力が認知され、この受賞を機に人気が出始め、大手出版社から仕事の依頼が来るようになった(借金を完済)。 1966年(44歳)、『悪魔くん』が実写テレビドラマ化され、初回放送後にテレビの前で拍手喝采。仕事が急増したことから水木プロダクションを設立する。池上遼一、つげ義春、古川益三(後のまんだらけ社長)らがアシスタントとして参加した。人手が増えて絵のクオリティが上がり、水木作品の特徴である“点描を駆使した重厚な背景”を描き込んだ。写実的な背景に漫画的なキャラクターを配置する作風は水木のオリジナルだ。 1968年(46歳)、『墓場の鬼太郎』のアニメ化に際し、“墓場”という言葉をスポンサーが嫌った為、『ゲゲゲの鬼太郎』に改名してオンエアに漕ぎ着けた。鬼太郎は大ヒットし、日本全体に妖怪ブームが起きた。民俗学の専門用語だった“妖怪”が一気に広まった。鬼太郎はトータルで5回もアニメ化され、水木が主題歌と「カランコロンの歌」の作詞を担当した。 1970年(48歳)には連載が11誌に達する超多忙な生活となり、『ゲゲゲの鬼太郎』は週刊少年マガジンに、『河童の三平』は週刊少年サンデーに掲載され、『水木しげる妖怪画集』も発表。過労で目眩や耳鳴りに襲われた。翌年、戦友3人で26年ぶりにパプアニューギニアを訪問し、トライ族の友人たちと再会。島民の穏やかで素朴な暮らしに、水木は本来ののんびり屋の自分を思い出し、帰国後は仕事の量をセーブし始めた。本当に描きたいものだけを仕事にし、ニューギニア再訪の次の年(1973年)、51歳のときに自身の過酷な戦場体験を描いた戦記漫画『総員玉砕せよ!』を完成させた。本作は後にアングレーム国際漫画祭遺産賞(2009)、米アイズナー賞最優秀アジア作品賞(2012)を受章。1977年(55歳)、自伝的エッセイ『のんのんばあとオレ』を執筆。 1980年代前半は妖怪ブームが去って一時低迷したが、1985年(63歳)に『ゲゲゲの鬼太郎』が3度目のアニメ化となりブームが再燃。翌年には鬼太郎が初めてファミコンのゲームとなった。1988年(66歳)、『コミック昭和史』全8巻を発表。1991年(69歳)、『日本妖怪大全』を刊行し、紫綬褒章を受章。 1993年(71歳)、故郷の境港市に約800mの“水木しげるロード”が整備され、23体の妖怪像が設置された(2016年現在153体)。同年から世界の妖怪伝説を調査するため、アフリカ・マリ共和国、マレーシア、オーストラリア、メキシコ、アメリカなど、海外を探訪し始める。1995年(73歳)に世界妖怪協会を設立し会長に就任。荒俣宏、京極夏彦らが会員に名を連ねた。 1996年(74歳)、鬼太郎が4度目のアニメ化になると共に、境港市で「世界妖怪会議」が開催された。同年、日本漫画家協会賞文部大臣賞を受章。2003年(81歳)、境港に「水木しげる記念館」が開館。同年、旭日小綬章を受章した。 2005年(83歳)、水木と荒俣宏、京極夏彦、宮部みゆきが共同原案を担った映画『妖怪大戦争』が公開。2007年(85歳)、鬼太郎が5度目のアニメ化となり、初めて実写映画化された。同年、『総員玉砕せよ!』が『鬼太郎が見た玉砕?水木しげるの戦争』としてテレビドラマ化。2007年、フランス・アングレーム国際漫画祭で日本人初の最優秀コミック賞(『のんのんばあとオレ』仏訳)を受賞。 2008年(86歳)、『墓場鬼太郎』が初アニメ化。ワシントンD.C.で水木しげる展が開催。 2010年(88歳)、妻の布枝の自伝が原作となったNHK連ドラ『ゲゲゲの女房』が大ヒット、映画にもなる。同年、長年の漫画家活動と妖怪研究が評価され文化功労者に選ばれた。2013年(91歳)、初の全集となる『水木しげる漫画大全集』の刊行スタート。90歳を超えてからの新連載として注目を浴びた『わたしの日々』を開始。 2015年11月30日、多臓器不全のため93歳で他界、波乱に満ちた人生を終えた。年明けの1月31日に東京・青山葬儀所で「お別れの会」が開かれ約7800人が参列、弔辞をさいとう・たかを、野沢雅子らが読み上げた。戒名は「大満院釋導茂(だいまんいんしゃくどうも)」。葬儀の際、遺族が棺に一冊だけ入れた漫画は『総員玉砕せよ!』だった。 水木は1987年、65歳の秋彼岸に自らデザインした生前墓を建立している。『ニューギニアに行ったとき、飛行機が墜落しかけたことがあった。「はて私は死ぬるのだが一体これからどこへ行くのかなァ」と思ったが行くところがない。即ち「墓」を作っていなかったから行くところがないと思ったわけだ。非常に「不安」に感じたので、幸いにも無事帰り着くと、すぐに「墓」の建設を思い立った。自宅の近くに寺があったので電話してでかけた。特別に広いところをもらい、「墓はどうするか」と言われ、すぐ建てると叫んだ」(『カランコロン漂流記』より)。墓の壁面の妖怪たち(約75体)の絵は特にこだわったが、あちこちの石屋をまわってもレリーフを彫れる職人が見つからずお寺に相談した。先代の住職が付き合いのあった“日本のミケランジェロ”と呼ばれる府中・伊東石材店4代目伊東孝次朗氏(故人)を紹介。職人が選んだ山崎石に原画を紙から転写し、彫りだけで2カ月以上かけ完成に至った。山崎石は磨いた表面と、中の面の質感が違うため彫ると立体的に見えるとのこと(BS朝日『お墓へ行こう』より)。原画は30年経った今も同店に宝として保管されている。水木は生前墓を作るにあたり、石屋に「自分の作品は紙であり、燃えると灰になってしまうため石に残せないか」と胸の内を明かした。石で作品に永遠の命を与えたい、そんな想いを込めたようだ。 若い頃の水木夫妻を描いて大ヒットしたNHK朝ドラ『ゲゲゲの女房』。胸が熱くなる良いエピソードばかりだけど、中でも第30回は個人的に永久保存版!夫妻の初めてのデートで、水木先生は「とっておきの場所を教えましょう、一番の場所です」といって奥さんを古い墓地に連れて行った。「ここですか?」と戸惑いがちの奥さんに、「良(え)えでしょう。調布あたりには風情のある古い墓があちこちに残ってるんです」「は…はい」「墓巡りはええもんですよ。自転車一台あれば金は一銭もかからん。サイクリングは健康にもええ。今一番凝っている趣味は墓巡りです」「はぁ…」「あ、これこれ!この墓は元禄時代のなんですよ!えらく古いでしょう!?」。墓前に野草を供える水木。そしてシミジミと墓石を触りながら「墓は面白いですよ。こうやってじっと眺めていると、墓の主と話が出来るような気がしてきます。古い墓ほど死者の気持ちが和(なご)やかなんですよ。やはり、人間も長い間死んでおると、心が寛容になるのかも知れません」。続けて付近の墓に手を置きながら「あ〜!ここら辺の墓も和やかでええ!」。奥さんは笑顔を作りながらも「墓が和やか?私にはわからん…」。「ほら、あんたも見てご覧なさい」と水木が手招き。「ハイ!」。そこには卵形の可愛い墓石。「どうです和やかでしょう?」。「あ、この辺が!」と丸みを帯びた部分を触る奥さん。水木は声が一段と高くなり「そうでしょう!」。 このやりとりは、先生のエッセイから書かれた脚本と思う。 暗い印象のある墓巡りに陽が当たった感じ!墓マイラーとしてこんなに嬉しい墓参描写はない。「人間も長い間死んでおると、心が寛容になるのかも知れません」という感覚に、まったく同感!江戸時代の墓は、墓前で手を合わせていると、なんとも優しい穏やかな気持ちになる。水木先生の“長い間死んでいる”っていう表現はユニークだなぁ。死と同時にすべてが終わるのではなく、墓となって時を過ごしている、そんなたとえ方がとても温かく感じた。(*^v^*) ※水木は一番好きなキャラを“ねずみ男”と公言。 ※「世界の妖怪は1000種類に集約される。世界各地の妖怪はほぼ共通している」と“妖怪千体説”を唱えた。 ※今の妖怪のイメージは江戸時代後期の画家、鳥山 石燕(せきえん/1712-1788)の妖怪画が原型となり、水木作品に受け継がれた。 ※「(近年増えている自殺者について)彼らは死ぬのが幸せなのだから死なせてやればいい。どうして止めるんですか。彼ら(軍人達)は生きたくても生きられなかったんです」「私は片腕がなくても他人の3倍は仕事をしてきた。もし両腕があったら、他人の6倍は働けただろう」と語り、左腕について「(悲しいと)思ったことはない。命を失うより片腕をなくしても生きている方が価値がある」と回答。 ※家の改築が趣味で、2階建てなのに階段5ヶ所、トイレ5つ、風呂場3つもある迷宮になった。 ※戦争中、上官の中隊長・児玉清三中尉から絵の腕を見込まれ、似顔絵をよく頼まれたという。 ※墓所の覚證寺(かくしょうじ)は京王線「西調布」駅から徒歩10分/調布市富士見町1−35−4。 |
夜になり運動会が始まるのを待つ |
豊島区の南長崎花咲公園(2010) | “漫画の聖地"トキワ荘の記念碑 | 現在、トキワ荘の跡地に出版社が建っている |
豊島区の紫雲荘。トキワ荘跡の近く(2010) | 202号室の表札は今も「赤塚」 | 大家さんに声をかけ中へ |
ドキドキ。奥の右側 |
ここが202号室!家賃は4万円とのこと。 風呂はないけど隣りにコインシャワーが |
2階の奥の窓が202号室のハズ |
富士見台霊園の中央道を上っていく | 右手の東3段区 |
道路沿いだからすぐに分かる。松本清張も同墓地 | 「赤塚家之墓」 | 戒名は「不二院釋漫雄」 | 娘さんの著作が供えられていた |
ギャグ漫画の始祖。ナンセンスギャグを駆使し、『天才バカボン』の「これでいいのだ」、『おそ松くん』の「シェー」は流行語に。時代はベトナム反戦、学生運動で沸騰しており、秩序や日常を打ち壊す赤塚漫画のエネルギーが、社会体制に反発する若者たちから圧倒的な支持を受け、社会現象にまでなった。本名、赤塚藤雄。1935年生まれ。大陸の満州出身。1945年(10歳)、帰国して母の実家のある奈良に暮らす。小学生のときに貸本屋で借りた手塚治虫『ロストワールド』の壮大な世界観に感動し、漫画家を目指すようになる。 父の復員後、14歳から父の故郷の新潟に居住。中学卒業後、2年間看板屋で働き、上京して化学薬品工場の工員となり、並行して『漫画少年』に作品投稿を繰り返した。1956年、21歳のときに貸本漫画『嵐をこえて』でデビューし、石ノ森章太郎のアシスタントとなる。その後、手塚治虫、石ノ森章太郎、藤子不二雄、寺田ヒロオら漫画家が多く住んでいた豊島区椎名町の「トキワ荘」に転居して独立し、互いに切磋琢磨した。 1958年(23歳)、『ナマちゃん』でギャグ漫画を開拓し始め、1962年(27歳)から「少年サンデー」に連載を開始した『おそ松くん』が空前のヒットを呼び、同年に『ひみつのアッコちゃん』の連載も開始。1965年(30歳)、『おそ松くん』が小学館漫画賞を受賞。1967年(32歳)、代表作となる『天才バカボン』を「少年マガジン」に連載スタート。同年、『もーれつア太郎』を「少年サンデー」に連載するなど、次々とヒット作を生み出した。 30代後半から漫画以外にも活動の場を広げ、映画製作、ステージショーの制作、ギャグオペラのプロデュース、テレビの司会までこなした。1998年(63歳)、紫綬褒章受賞。2002(67歳)、単行本217冊と未収録作品をデジタル本269巻にまとめた『赤塚不二夫漫画大全集』が完成。2003年(68歳)、東京・青梅市に青梅赤塚不二夫会館が開館。プライベートでは深酒により体調を崩し、62歳で食道癌を発病、脳出血でも入院した。2008年8月2日、肺炎のため72歳で他界。晩年は視覚障害者の為の漫画絵本を制作し、触図と点字による「赤塚不二夫のさわる絵本」2作を完成させた。 ※作品の中に編集者を登場させた最初の漫画家。 ※タレント、タモリを芸能界に送り出したのも赤塚。 |
境内にハットリ君や怪物くんの石像 | 正面に「具会一処」 | 墓参中の墓マイラーS氏 |
本名、安孫子素雄(あびこ もとお)。1934年、富山県氷見郡氷見町(現・氷見市)の曹洞宗・光禅寺第49代住職の長男として生まれる。10歳で父を亡くし、転校先の国民学校(小学校)5年2組で藤本弘(藤子・F・不二雄)と出会う。漫画好きの2人は意気投合し、「藤子不二雄」として活動。安孫子は『オバケのQ太郎』(共作)や『忍者ハットリくん』『怪物くん』『プロゴルファー猿』『笑ゥせぇるすまん』『まんが道』などを生み出していった。享年88。 |
ユトレヒトの墓地入口 | チャペルの手前に眠る | 「ブルーナさんありがとう!」(左は夫人) |
ブルーナの墓 | 墓まで案内してくれた地元の人 |
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