剣豪の墓
世界恩人巡礼大写真館 【English Version】

剣豪、町奉行、保安官、忍者コーナー

21名

荒木又右衛門の墓
伊藤一刀斎の墓
岡田以蔵の墓
沖田総司の墓
上泉信綱の墓
河上彦斎の墓
斎藤一の墓
榊原鍵吉の墓
佐々木小次郎の墓
田中新兵衛の墓
千葉周作の墓
中村半次郎の墓
宝蔵院胤栄の墓
宝蔵院胤舜の墓
宮本武蔵の墓
柳生十兵衛の墓(&宗矩)

山岡鉄舟の墓
大岡“越前”忠相の墓
遠山“金四郎”景元の墓
長谷川“鬼平”平蔵の墓
服部半蔵の墓

ワイアット・アープの墓
エリオット・ネスの墓

バッファロー・ビルの墓
ドク・ホリディの墓








★宮本 武蔵/Musashi Miyamoto 天正12年(1584年)-正保2年5月19日(1645年6月13日) (熊本県、熊本市、武蔵塚公園 61歳)2000&08


●生誕地伝説のある「武蔵の里」/岡山県美作(みまさか)市(旧大原町)

小川のせせらぎが響く美しい朝
(2016)
大きな「宮本武蔵生誕地」碑

宮本武蔵生家。1942年に火災にあい再建
されたが、大黒柱の位置は同じという




生家の手前に「吉川英治先生文恩記念碑」 武蔵の追善碑 二天(二刀)の構えの青年期武蔵像(モデルは萬屋錦之介?)

生家に近い武蔵神社 武蔵神社の拝所 肖像画のほか「御竹刀納所」もあった





武蔵神社境内の墓地に武蔵(左)と
両親(平田無二斎、お政)の墓が並ぶ
「宮本武蔵の墓」。熊本の
本墓から分骨したという
境内の「佐々木小次郎外六十余名供養塔」。敗者を弔う優しさに感動した


実は前日に来たものの道に迷って夜になり
案内して下さった地元の方が「えっ、いま
墓地に行っても真っ暗で何も見えないよ」と

スマホのライトで探し出しなんとか墓参できた
ものの、当時子どもは小学1年生。さすがに
怖がってソウルトークどころじゃなかった
ので、付近で一泊して翌朝戻って来ることに
近隣の武蔵武道館でお風呂に入った後
「じきに夜明けになるから」と車中泊。
この日は脱輪騒ぎもあった。おつかれさん!
(2016)

●「五輪書」に伝わる最初の決闘の地/兵庫県佐用町平福

有馬喜兵衛「誰でもかかってこい」 最初の決闘の舞台となった金倉橋(2016) 橋のたもとに「武蔵決闘の地」記念碑
13歳のときにこの金倉橋のたもとで新当流(塚原卜伝創始)の有馬喜兵衛と人生初の勝負を挑み一刀で倒したという

●吉岡一門と激闘を繰り広げた場所「一乗寺下(さが)り松」

  
武蔵が名門吉岡道場を壊滅させた場所に「宮本・吉岡 決闘之地」碑が建つ。近江と京都を結ぶ交通の要に植え継がれ、現在の松は4代目。(2011)

●八大(はちだい)神社(左京区)

  
武蔵は吉岡一門との決闘前にこの八大神社に立ち寄り、神仏に勝利を願おうとして踏みとどまった。「神仏を尊び神仏に頼らず」(2011)

●巌流島(船島)/山口県下関市

下関の唐戸からこの船で渡る 島を出る最終便に乗り遅れると野宿に! 約10分で巌流島が見えてきた!

島内案内図。茶色の部分は埋立地 武蔵も使った伝馬船(てんません) 関門海峡を前にしたモニュメント

躍動感のある「小次郎・武蔵像」。これを見るだけでも上陸する価値あり!

●武蔵塚公園/熊本市






武蔵ファンの聖地・武蔵塚公園へようこそ コワモテの武蔵像がお出迎え 二刀を持つ武蔵

二天一流の基本、五方の形を図説 死期を悟った武蔵が記した21箇条の独行道 五輪書全五巻を要約して解説!

武蔵は甲冑を着て立ったまま埋葬されている(2000) 8年ぶりの再会!新免武蔵殿、お久しゅうございます!(2008)




ちょうど“武蔵”の文字に
陽が差した瞬間を激写!
墓の側には武蔵自筆の独行道が碑文に!

熊本市立田自然公園の供養塔


 
ペットボトル“二刀流”で戦うも、秒殺される(2000)





『枯木鳴鵙図』 『鵜図』
『枯木鳴鵙図』(こぼくめいげきず)…日本刀を模した枝にモズが
とまっている。枝の中程までイモ虫が登って来ている


 
「宮本伊織貞次/小原法眼玄昌 墓」。養子の宮本伊織の墓は京都市伏見区の宝塔寺にある(2012)

●北九州市小倉の手向山(たむけやま)公園・宮本家墓所(2019)







没後9年建立、通称『小倉碑文』 養子の伊織が建て小次カ戦にも触れる 左奥に巌流島が見える(手向山にて)




歌川広重(1797-1858)
『諸国名所百景〜宮本墓』
手向山の麓に
宮本伊織の墓(2019)
広重の絵に見えた宮本家の墓。江戸時代から
観光名所だった(小倉碑文は山の上)

手向山の麓から武蔵・小次カの碑まで10分

道路から見える宮本家墓所。手向山の
山麓は宮本家の知行地であった
1951年建立の佐々木小次郎の石碑


「我以外みな師なり」。江戸初期の剣豪で二天一流兵法の開祖。十三歳から二十九歳までの六十余度の勝負に無敗という。
“剣聖”宮本武蔵は1584年に生まれた。武蔵の生涯については実像を伝える資料が乏しく、多くの伝説が後世の文人(吉川英治など)によって作り出されたもの。とはいえ、古文書の研究によって等身大の姿がある程度分かってきている。生き方として生涯主君を持たず、仕官しなかった
生誕地は武蔵自身が著書『五輪書』に「生国播磨(兵庫南西部)」と記し、武蔵の養子・宮本伊織も九州小倉に建立した碑文に播磨国と刻んでいる。有力な生誕候補地は…
(1)『播磨鑑』(1762年)に「揖東郡鵤ノ庄宮本村ノ産ナリ」と記述されている兵庫県揖保郡太子町宮本。残念なことに、この太子町宮本は宝暦年間(1751〜1764)及び1887年の2度の大火事で村の全域が焼け、武蔵関連の史料、系図がすべて灰になった。現在は生家跡の伝承地(宮本公園)に産湯に使った古井戸だけが残る。
(2)2番目の候補地は、伊織が寄進した播磨の泊神社の棟札に「播州印南郡河南庄米堕邑に居し…武藏掾玄信と曰す」と書かれた兵庫県高砂市米田(播磨南東部)。
(3)ベストセラー小説『宮本武蔵』を書いた吉川英治は江戸後期(武蔵没後170年)の地誌『東作誌』(1815年)掲載の美作(みまさか)国宮本村(岡山県美作市)説を支持、こちらが通説となった。

本姓藤原氏、名字は宮本、または新免。通称武蔵、諱は玄信(はるのぶ)。号は二天、また二天道楽。著書『五輪書』の中では「新免武蔵守・藤原玄信」と名乗る。身長は六尺(約180cm)という説あり。父親と伝わる養父の新免無二斎武仁(たけひと)も剣豪で十手術を得意とし、室町幕府15代将軍・足利義昭(在職1568-1588)に召されて将軍家師範と試合し、2勝1敗の成績をおさめ「日下無双兵法術者」の号を賜っている。

1590年(6歳)、秀吉が北条氏を滅ぼし天下統一を果たす。これにより牢人たちは仕官先を得る機会がなくなった。秀吉は「あるじを持たず、田畑を耕さないような侍は村から追い払うべし」と諸国に告げ、牢人に刀を捨て農民になるよう迫ったが、新免父子は剣の修業を続けた。
武蔵は13歳(数え年なので1596年)から他流試合をおこない、最初に新当流の有馬喜兵衛との決闘に勝利、そして剣客が集まる龍野の圓光寺で鍛錬に励み、2年後に但馬国の兵法者秋山新左衛門に勝利する。武蔵は武芸を極めるべく若い頃から諸国を武者修行してまわった。
新免無二が関ヶ原の戦い以前から1604年頃まで黒田氏に仕官していたことを証明する黒田氏の文書『黒田藩分限帖』があり、「新免無二」の横に「武州師父」との注記がある。師父は“実の父のように敬愛する師”の意味であるため、養父であることがわかる。

1600年(16歳)の関ヶ原の戦いに際して、父の新免無二が東軍の黒田家に仕えていたことから、父子で黒田如水(官兵衛)もしくは黒田長政に従い、現・大分県国東市の安芸城・富来(とみく)城を攻め破った。従来の説では、西軍・宇喜多秀家の一兵士として出陣し、その“西軍”という経歴ゆえに後の徳川の治世で剣術師範になかなか採用されず苦労したとされていた。武蔵は勝ち戦にもかかわらず黒田家に仕官せず牢人となり、翌年、圓光寺に戻り修行を続行した。
※武蔵が牢人の道を選んだ理由は、まだ10代後半であり、諸国を巡って立身出世を目指したと考えられるが、以下の説もある。
※小和田哲男(歴史家)の説…黒田家には黒田二十四騎という強固な家臣団があり、武蔵はそこに入り込むことはできないと諦めたのでは。
※魚住孝至(思想史家)の説…天正年間の織田による播磨征伐時、武蔵の生家は毛利方につき敗北している。一方、黒田家は織田方につき勝利しているため、武蔵としては黒田家に仕えたくなかったのではないか。

1604年(20歳/数え21歳)、京都で代々足利将軍家の師範を務めてきた吉岡家の兵法者・剣豪の吉岡清十郎と約100名の門人たちに大小の刀を構えた「二刀流」で完勝。吉岡伝七郎との戦いでは相手の五尺の木刀を奪い撲殺。他に、奈良で槍術の名手宝蔵院日栄に、伊賀で鎖鎌の達人宍戸梅軒に、江戸で柳生一派の大瀬戸隼人と辻風左馬助をことごとく打ち破った。
※ただし、日栄、宍戸、大瀬戸と辻風の試合は1776年(没後131年)に肥後藩八代城主松井家の家臣・豊田景英(かげひで)がまとめた武蔵の伝記『二天記』にのみ記載があり、それより古い1755年(没後110年)に肥後藩筆頭家老・松井家の二天一流兵法師範、豊田正脩(せいしゅう)が著した武蔵の伝記『武公伝』には記載が無く、試合を裏付ける史料が他に無い。とはいえ、松井家は武蔵の細川家への仕官を仲介したり、兵法の弟子になって他の弟子とも深く交流し、様々なエピソードを知っているのは確か。

1612年(28歳)、下関の巌流島(舟島)で佐々木小次郎と対決。武蔵は櫂(かい)を削った二尺五寸と一尺八寸の二本の木刀、小次郎は三尺(約90cm)余りの太刀“物干竿”で勝負に挑んだ。小次郎は60歳近くといわれている。『二天記』によれば、武蔵はわざと試合の時間に遅れ、憤慨した小次郎が抜刀して鞘を海中に投げ捨てたところ、武蔵は「小次郎、やぶれたり」と勝利を確信。反問する小次郎に「勝つつもりなら、なぜ鞘を捨てる」とこたえ、怒った小次郎が武蔵の眉間を打ち、武蔵の鉢巻が切れた。小次郎は武蔵に脇下を打たれて骨が折れ気絶、武蔵が小次郎を打ち倒したという。武蔵はこの一戦をもって果たし合いから身を退く。
小次郎との戦いは、江戸時代に早くも歌舞伎『敵討巌流島』や浄瑠璃『花襷会稽褐布染(はなだすきかいけいかちんぞめ)』で描かれ、書物の実録本『二天英雄記』や鶴屋南北の『巌流島勝負宮本』などによって広く知られた。当初、小次郎の名前は「岩流」のみ伝わっており、舟島は岩流島=巌流島と呼ばれるようになった。

※巌流島の戦い(1612年)の最も古い記録は、武蔵没後9年の1654年に養子・宮本伊織が42歳で記した『小倉碑文』。内容は「兵術の達人・岩流が武蔵に真剣勝負を申し込み、舟島にて武蔵は木刀、岩流は三尺の真剣で戦った。岩流は命懸けで剣技を尽くしたが、武蔵は素早い木刀の一撃で岩流を殺した。以降、舟島を岩流島と称するようになった」。
※『小倉碑文』の次に古い記録は、試合当時の門司城代・沼田延元の子孫が、家に伝わる説話を武蔵没後27年の1672年に編集した『沼田家記』。内容は「豊前国に来て二刀兵法の師範になった武蔵の弟子と、小倉藩で岩流兵法の師範をしていた小次郎の門人同士の諍いで武蔵と小次郎が試合をする事になり、双方弟子を連れてこないと定めた。小次郎は約束を守って一人で来たが、武蔵の弟子(4人説あり)は島に隠れていた。小次郎は勝負に敗れ気絶し、蘇生した際に武蔵の弟子達が皆で打ち殺した。怒った小次郎の弟子達が島に渡り武蔵に復讐しようとしたため、武蔵は門司まで逃げて城代の沼田延元を頼った。延元は鉄砲隊の護衛をつけて宮本無二之助(武蔵の義父)がいる豊後まで送り届けた」というもの。ちなみに、『五輪書』には岩流との勝負についての記述がない。

※佐々木小次郎の出身地は、1776年の『二天記』では越前国宇坂庄浄教寺村(現福井県福井市浄教寺町)、吉川英治の『宮本武蔵』は岩国、大河ドラマ『宮本武蔵』では豊前国田川郡副田庄(現福岡県田川郡添田町)の有力豪族佐々木氏のもとに生まれたとしている。最初は安芸国の毛利氏に仕え、武者修業で諸国を遍歴、一乗滝で秘剣「燕返し」を身に付け、18歳で「巖流」を創始。その後、小倉城主・細川忠興に請われて小倉藩の剣術師範となった。
1737年に歌舞伎『敵討巖流島』が大阪で上演され、それまで「岩流(巖流)」であった人物に佐々木姓が足され「佐々木巖流」の役名が与えられた。1755年に書かれた『武公伝』には「小次郎」とあるが、1776年の『二天記』では“佐々木小次郎”となっている。
※小次郎の墓は山口県阿武町大字福田にある。かつて当地には正法寺があった。当地の伝承によると、巌流島で敗れた小次郎の妻ユキは懐妊中で、キリシタンの彼女は禁教令の弾圧から逃れるため、小次郎の遺髪を胸に他の信者と共に山陰の山里に入り、正法寺に身を寄せた。ユキは尼となり、夫の菩提を弔うために墓を建立。剣を振った夫の因果が我が子を不幸にさせぬため、名を「古志らう」と変えて墓に刻んだ。正法寺が移転して太用寺になると跡地に庵を建て、墓の側で生涯を終えたと伝わる。 小次郎の墓の近くにキリスト教の墓と思われる六面石 (キリシタン六面観音)がある。
※小次郎の銅像が山口県岩国市の吉香公園、福井県の一乗滝に建つ。

武蔵の武名は高まり、諸藩から仕官の誘いがあったが、まだ自由な身分で兵法を極めたいと思ったのか、すぐには応じなかったようだ。
1615年(31歳)、武蔵は大坂夏の陣において、徳川方である三河刈谷藩主(後に初代福山藩主)・水野勝成(家康のひ孫)の客将となる。武蔵はこの合戦が初陣である勝成の嫡子・勝重(1598-1655/当時17歳)の後見を藩主から任され、勝重が武功をあげられるよう配慮し、また230騎の騎馬武者の1人として戦功をあげた。これが縁となって、武蔵は水野家臣・中川志摩助(武者奉行)の三男・三木之助(1604-1626/当時11歳)を最初の養子とした。(三木之助の弟も養子にした模様)
独身の武蔵がこのタイミングで養子をもらったのは、徳川VS豊臣の大きな戦が終わり、自分の人生を見つめ直す機会があり、家名を残そうという気持ちになったのかも。一方、大坂の陣の後も、武蔵は水野家の家臣とならず牢人を続けた。
戦乱の時代が去り、天下太平の世となる。

1617年(33歳)、姫路藩主の池田光政(当時8歳)が若年を理由に鳥取藩へ転封され、伊勢国桑名藩から本多忠政(本多忠勝の嫡子)が15万石で姫路城に入った。忠政の子・忠刻(1596-1626/当時21歳)は、妻・千姫(豊臣秀頼の元妻)が2代将軍徳川秀忠の娘であったため、父とは別に支藩となる姫路新田(しんでん)藩10万石が与えられ初代藩主となった。
忠刻は剣術を好んでおり、武蔵を同藩に迎えた。忠刻は武蔵に師事すると共に、家臣にも指導を受けさせた。
同年、信濃松本藩主より明石藩主となった小笠原忠真は船上城に入城し、2代将軍徳川秀忠より明石城の築城を命令される。

1618年(34歳)、明石藩主・小笠原忠真は明石城の築城に際し、町割り=城下町の都市計画を武蔵に頼み、港に近い町屋を武蔵が担当した。仕官することなく全国を見て歩いた武蔵だからこそ、町割りの善し悪しがわかった。
明石城の一角に用意された、藩主が休憩するための庭園造りも任され、徳島や小豆島から良い石を取り寄せた。明石では寺院の作庭(本松寺、円珠院、雲晴寺)も行っている。
そのため武蔵は姫路藩の忠刻に暇を申し出、14歳の養子・三木之助が忠刻の小姓(700石)として出仕した。
この頃、神道夢想流開祖・夢想権之助や東軍流・三宅軍兵衛との試合に勝利。

1624年(40歳)、武蔵が開いた武術流派・円明流(のちの二天一流)を尾張国にて指導。尾張藩家老・寺尾直政に認められ、武蔵は高弟の竹村与右衛門を尾張藩に派遣。以後、近隣で円明流の複数の流派が生まれていく。
1626年(42歳)、姫路新田藩主・本多忠刻が30歳の若さで早逝する。側近の宮本三木之助(22歳)は忠刻の初七日に墓前で切腹、殉死した。その後は三木之助の弟が姫路宮本家を継いだ。
※殉死は名誉とはいえ三木之助はまだ二十歳過ぎ。武蔵はつらかったであろう。最も初期の伝記『武州伝来記』(1727年成立。武蔵に始まる二天一流5代の伝記。著者は5代目師範の立花峯均(みねひら))によると、大坂に滞在していた養父・武蔵のもとを、三木之助が殉死の前に訪ね、武蔵は三木之助と生涯の別れをして、ご馳走をしたという。

三木之助の墓は姫路の北10kmの書写山・圓教寺。本多家廟屋の忠刻(園泰院)の五輪塔のすぐ背後に建てられた。側面に「平八(忠刻の通称)供 宮本三木之助」と刻まれる。
※徳川四天王の一人・本多忠勝など5棟の本多家廟屋は日曜、祝日のみ公開。忠勝は三重の桑名から当地に改葬されてきた。

同年、武蔵は播磨の地侍・田原久光(武蔵の兄説あり)の次男・伊織(1612-1678/当時14歳)を次の養子とする。武蔵は藩主の小笠原忠真から仕官を請われたが固辞し、 代わりに養子の伊織を推挙した。伊織は「宮本伊織貞次」の名で明石藩主・小笠原忠真に出仕した。
1631年(47歳)、伊織が19歳で小笠原家の家老に抜擢される。
1632年(48歳)、九州で熊本藩主・加藤忠広(加藤清正の子)の出羽国(山形)への改易があり、これにともない豊前小倉藩39万石の細川忠利が肥後熊本藩54万石に加増移封されている(武蔵は8年後に客分となる)。そして後任の小倉城主には、忠利の義兄弟であり、伊織が仕える播磨国明石藩10万石の小笠原忠真が転封(てんぽう)され、小倉城主として豊前(ぶぜん)北部15万石を領した。

1635年(51歳)前後に、武蔵は三代将軍家光の前で30代の剣豪・荒木又右衛門と試合を行い、「十字の構え」を崩され敗北を認めたという。
1638年(54歳)、島原の乱が勃発し、江戸吉原に滞在していた武蔵は九州に入って出陣。中津藩(総大将・小笠原長次※忠真の甥)の兵2500の1人として戦うが、一揆勢が落とした石に当たって足を負傷した。一方、養子の伊織は小倉藩(総大将 小笠原忠真)の兵6000に加わり、勲功によって1500石加増されて4000石となり武蔵を大いに喜ばせた。最終的に伊織は小笠原家15万石の筆頭家老となり、同職を宮本家が何代も引き継ぐことになる。この頃、宝蔵院流槍術の高田又兵衛と試合。

島原で足に大怪我を負った武蔵は自身の老いを痛感し、残りの人生について、自分の命をどこで終えるのか考える。島原では女性や子どもも含めた民衆と戦ったことで、剣の道を究める者として、複雑な葛藤があったのではないかと指摘する歴史家もいる。

1640年(56歳)、武家の名門、熊本藩初代藩主・細川忠利(1586-1641/細川ガラシアの長男)に客分として招かれ、これを承諾する。同世代(武蔵が2歳上)の忠利もまた若い頃から剣の腕を磨き、徳川将軍家の兵法指南役・柳生宗矩(むねのり)から、将軍家も含めて4人しか与えられていない「兵法家伝書」を与えられ、柳生新陰流の奥義に達するほどの腕前という異色の藩主であり、武蔵が心を開いたのかもしれない。
忠利の方も武蔵に敬意を払い、7人扶持(ふち)(一人扶持は一日五合×一年間分。その7人分)18石に加えて合力米(こうりょくまい、追加分)300石を支給し、客分の身なのに熊本城に隣接する千葉城に屋敷を用意。家老以上の身分でなければ許可されなかった鷹狩りを認めるなど、破格の待遇で迎えた。熊本藩士はこぞって武蔵門下に入ったという。
翌年に忠利が突然の病で急逝し、子の光尚(1619-1650)が22歳で新藩主となると、光尚も武蔵を厚遇し、次の年、参勤交代で滞在していた江戸から国元の武蔵に「寒くなる時候だが息災だろうか。春には熊本に下るので対面で話をしよう」と体調を気遣う書状を送っている。高名な武蔵を藩に抱えていることが細川家の誇りだった。
※この頃、忠利の御前で、武蔵は3歳年上の氏井(うじい)弥四郎光成と生涯最後の試合を木刀で行ったとされているが、これを記した武蔵の伝記『二天記』は死の約100年後に執筆されており、氏井の名を「雲林院」と誤記し、試合に関する一次史料が他に無いことから、学術的に事実としては認めにくいという。

武蔵が晩年の1640年、56歳で熊本藩初代藩主・細川忠利(細川ガラシアの長男)の招きを受けたのは、同世代(2歳差)の忠利もまた若い頃から剣の腕を磨き、徳川将軍家の兵法指南役・柳生宗矩(むねのり)から、将軍家も含めて4人しか与えられていない「兵法家伝書」を与えられ、柳生新陰流の奥義に達するほどの腕前という異色の藩主だったからでしょう。忠利の方も武蔵に敬意を払い、熊本城の側に屋敷を用意し、家老以上の身分でなければ許可されなかった鷹狩りを認めるなど、破格の待遇で迎えました。
翌年に忠利が突然の病で急逝し、子の光尚(1619-1650)が22歳で新藩主となった。光尚も武蔵を厚遇し、次の年、参勤交代で滞在していた江戸から国元の武蔵に「寒くなる時候だが息災だろうか。春には熊本に下るので対面で話をしよう」と体調を気遣う書状を送っている。藩に高名な武蔵を抱えていることが細川家の誇りだった。

1641年(57歳)、藩主・細川忠利の求めに応じて兵法書『兵法三十五箇条』をあらわす。同年に忠利は突然の病で急逝し、子の光尚(1619-1650)が22歳で新藩主となった。光尚も武蔵を厚遇し、翌年、参勤交代で滞在していた江戸から国元の武蔵に「寒くなる時候だが息災だろうか。春には熊本に下るので対面で話をしよう」と体調を気遣う書状を送っている。藩に高名な武蔵を抱えていることが細川家の誇りだった。
この頃、細川家の菩提寺・泰勝寺の春山和尚から「二天」の法号を与えられた。

1643年(59歳)から熊本市近郊の金峰山にある岩戸・霊巌洞(れいがんどう)(岩戸山観音)で坐禅の日々に入り“剣禅一致”の境地に達し、洞窟の中で兵法書『五輪書』を書き始める。兵法の真の道理を掴んだのは50歳をすぎてからという。五輪書は2年がかりの労作となり、剣術や兵法に加えて人生哲学まで記したこの書を書いたからこそ、武蔵の名は後世に残ったともいえる。武蔵は自身の兵法の呼び名を、従来の円明流から法号にちなんだ「二天一流」に変えた。

1645年、死期を悟った武蔵は没する数日前に自戒の書『独行道(どっこうどう)』21箇条を残し(自筆が現存)、完成した『五輪書』と一緒に兵法の弟子・寺尾孫之允に与えた。ここには武蔵が独りで歩んできた道が、生き方が記された。
1645年6月13日(正保2年5月19日)に千葉城の屋敷にて他界。満61歳(享年64)。『五輪書』各巻末には旧暦5月12日の日付があることから、完成からちょうど1週間後に没したことになる。『独行道』に「恋慕に思い悩む心なし」とあり生涯独身であったと思われる。

『五輪書』…江戸時代の代表的兵法書。兵法を密教の「地・水・火・風・空」の五輪(五大)にたとえて奥義を簡潔に伝授し、二天一流がいかに理にかなっているか5巻にわけて語ると共に、剣豪武蔵がたどりついた人生観を記す。自筆本は現存しない。
地の巻…序文にあたる。5巻構成にした意味、自流を二天一流と名付けたこと、これまでの生涯、軍勢の統率や用兵など兵法のあらましを記す。「生國播磨の武士、新免武藏守藤原玄信、年つもりて六十」「今、世の中に兵法の道たしかにわきまへたるといふ武士なし」。
水の巻…二天一流の太刀筋について伝授。水を手本とした剣さばきや心の持ち方、これらを鍛錬する剣術稽古について説明。
火の巻…実戦で敵に勝つために必要なことを27項目に分けて伝授。戦いを火の勢いに見立てる。
風の巻…他の流派との技法の違いなど相違点を9項目にわたって解説。ここでいう「風」は、昔風、今風、家風などの風。
空の巻…二天一流の究極理念である万里一空、兵法の本質としての「空」について記す。

『独行道』(どっこうどう)…武蔵が自身の生き方を21か条に記したもの。自誓書。
一 世々の道をそむく事なし (世の各々の道に背くことなし)
一 身にたのしみをたくます (自身の楽しみを追わず)
一 よろすに依枯の心なし (何事にも依存する心なし)
一 身をあさく思世をふかく思ふ (自身を浅く、世を深く思え)
一 一生の間よくしん思わす (一生の間欲深くならず)
一 我事におゐて後悔をせす (我、事において後悔をせず)
一 善惡に他をねたむ心なし (他者の善悪を妬む心なし)
一 いつれの道にもわかれをかなします (いずれの道でも別れを悲しまず)
一 自他共にうらみかこつ心なし (自分の事、他人の事で恨みを持たない)
一 れんほの道思ひよるこゝろなし (恋慕に思い悩む心なし)
一 物毎にすきこのむ事なし (物事に好き嫌いを持たない)
一 私宅におゐてのそむ心なし (住居に何も望まず)
一 身ひとつに美食をこのます (常に身一つ、美食を好まず)
一 末々代物なる古き道具を所持せす (代々伝えるほどの骨董品を持たず)
一 わか身にいたり物いみする事なし (体を壊すような飲食をするな)
一 兵具は格別よの道具たしなます (武具は特別なものを持たず)
一 道におゐては死をいとわず思ふ (求道の過程で死を避けてはならぬ)
一 老身に財寳所領もちゆる心なし (財宝、所領を持とうとする心なし)
一 佛神は貴し佛神をたのます (仏神をたっとび、仏神を頼らず)
一 身を捨ても名利はすてす (身を捨てても名誉は捨てず)
一 常に兵法の道をはなれす (常に兵法の道を離れず)

『五輪書』によると13〜29歳の決闘の総計は約60試合。二刀を活用した二天一流兵法を編み出し、そのすべての対戦に勝利した。祭り太鼓を二本のばちで叩くのを見て二刀流を発案したとする説がある。
56歳まで長く出世街道から外れていた武蔵は、次第に自身の魂を見つめる禅世界に傾倒し“剣禅一致”の境地に到達した。晩年は書、連歌、茶の湯や金細工をたしなみ、中でも『枯木鳴げき図』『鵜図』などの水墨画は重要文化財に指定されている。その確かな技巧は趣味という範囲を越えたものだ。晩年、余暇に製作した作品の多くが細川家家老・八代城主の松井家や、晩年の武蔵の世話をした寺尾求馬助信行の寺尾家に残された。まさに「文武両道」を極めた侍であった。

没後9年の1654年に武蔵の養子、小笠原藩家老職の宮本伊織が、武蔵に関する最古級の記録である顕彰碑『新免武蔵玄信二天居士碑』(通称『小倉碑文』)を、現・福岡県北九州市小倉の手向山(たむけやま)公園に建立。碑文中の名は「播州赤松末流新免武蔵玄信二天居士」。伊織の墓も公園入口にある。顕彰碑は1887年に砲台配置のため近隣の延命寺山上に移されたが、戦後当地に戻された。1951年建立の佐々木小次郎の石碑もある。
※伊織の子孫は小倉小笠原藩の筆頭家老を世襲しており、手向山の麓は宮本家の知行地だった。
※この顕彰碑を歌川広重(1797-1858)が『諸国名所百景〜宮本墓』として描いている。画面には「巌柳(流)島」もあり。

没後110年の1755年、肥後細川藩の筆頭家老・松井家の二天一流兵法師範の豊田正脩(せいしゅう)は、父・豊田正剛が武蔵の晩年の弟子たち(道家角左衛門、山本源五左衛門、中西孫之丞、田中左太夫ら)から聞いた生前の武蔵の話の覚書や、武蔵が著した『五輪書』『独行道』、武蔵の養子である宮本伊織が手向山(現・北九州市)に建てた新免武蔵玄信二天居士碑(小倉碑文)や寛文2年(1662年)の『羅山文集』、それらを記している『本朝武芸小伝』(1716)の武蔵に関する部分を参照し、それらの史料を『武公伝』としてまとめあげた。本書に記載された巌流島の決闘のくだりは、1654年に武蔵の養子・伊織の手で建立された新免武蔵玄信二天居士碑(小倉碑文)に記載された巌流との戦いを元に創作された可能性が高い。

それから21年後の1776年、正脩の子である二天一流兵法師範・豊田景英は、流祖武蔵の生涯を二天一流門下が詳しく知ることができるよう、『武公伝』を読みやすくした『二天記』を著した。その際、『武公伝』に書かれていない巌流の姓を佐々木とし、『武公伝』で巌流が18歳で流派を立てたという記述を船島の決闘(巌流島の決闘)の時の年齢が18歳と書き改めたり、原史料不明の槍の奥蔵院や鎖鎌の宍戸某との決闘などを加筆し、これが武蔵の伝記として普及、1909年に熊本の宮本武蔵遺蹟顕彰会編纂による『宮本武蔵』(通称「顕彰会本」)でも原資料の一つとされ、吉川英治が「顕彰会本」から小説『宮本武蔵』を書きあげた。ちなみに、『五輪書』には岩流との勝負についての記述がなく、なぜ武蔵が触れなかったのかは不明。

(まとめ)
名を挙げたあとも諸藩からの仕官の誘いを断り、自分の時間を確保できる客分となって、ひたすらストイックに兵法を極めた武蔵。生き方として生涯主君を持たず、仕官しなかったことは、他の武士と決定的に異なる。最初の養子・三木之助とは早く別れる悲哀を味わったが、次の養子・伊織は小笠原家15万石の筆頭家老となり4000石の俸禄を得、宮本の家名は安泰となった。将来の憂いがなくなった武蔵は、寿命を迎える前に自身が探究した兵法を仕上げて後世に伝えるため、人里離れた山中の洞窟にこもり、誰にも邪魔されずに執筆に集中。2年の歳月をかけて『五輪書』が完成したのは他界の1週間前であり、熊本城下で過ごしていたなら、様々な人付き合いもあり、間に合わなかったかもしれない。そして『五輪書』を書きあげたあと、死期を悟った武蔵は自分の生涯を振り返り、自戒の書『独行道』21箇条を残し、『五輪書』とともに弟子に与えた。『独行道』には「恋慕に思い悩む心なし」とあり生涯独身であったと思われ、全身全霊で剣と兵法の真髄を追い求めた人生であった。(その求道者のような心ゆえに、武蔵の水墨画や書が鑑賞者の心に迫り、人の心を打つのだろう)

〔武蔵の墓〕7箇所
・熊本市北区龍田町弓削、武蔵塚公園“東の武蔵塚”…墓碑名は「新免武蔵居士」。参勤交代の街道沿いに武蔵は甲冑姿で立ったまま埋葬され、死後も主君を見守った。熊本市中心部から北東約9キロメートルの郊外。
・熊本市西区島崎町“西の武蔵塚”…武蔵の弟子だった寺尾家の墓地に墓碑名「貞岳玄信居士」。玄信(はるのぶ)は武蔵の諱。当地の伝承では東の武蔵塚に愛用の太刀を埋め、遺骸はこちらに埋葬されたという。
・熊本市中央区黒髪“武蔵供養塔”…細川家苔提寺だった泰勝寺奥の院の跡地(現・立田自然公園)に建つ五輪塔。晩年の武蔵と親交のあった春山和尚の墓もあり。地・水・火・風・空の梵字が彫られている。墓が熊本市内に3ヶ所あるのは墓荒らし防止の為とも。
・熊本県八代城内“新免武蔵之塚”…八代市妙見町公民館の山手、懐良(かねよし)親王が父・後醍醐天皇の形見の小袖を埋めた「御小袖塚」に隣接。側面に「寛政九年冬、村上氏門弟子」。同地在郷の門弟が武蔵没後152年目の1797年に建立。
http://www.city.yatsushiro.lg.jp/kankou/kiji003607/index.html
・武蔵神社の墓…岡山県美作市“武蔵の里”に、武蔵の両親とされる平田無二斉・お政の墓の隣に「賢正院玄信二天居士 宮本政名武蔵之碑」と彫られた墓が明治になって建立された。父 の没年「天正8年(1580年)」は武蔵生誕の4年前というのが謎。養子・宮本伊織(1678年没)の尽力で熊本弓削の“東の武蔵塚”から分骨されたとする説もあるが、明治の建立だと年代が合わないため、現在の墓石が建つ前にオリジナルの古い墓が既にあったということだろうか?
・千葉県市川市の徳願寺…武蔵供養塔。伝承では、晩年に出家した武蔵が「藤原玄信」の名で諸国を巡り、当地で少年伊織と出会い、荒野を開拓したという。当寺に留まっていた縁で水誉上人が武蔵の遺品を集め正徳二年(1712年)に建立。
・名古屋の新福寺…「新免政名供養碑」。宮本武蔵玄信が二天一流創始以前に開いた武術流派「円明流」の門人たちが、武蔵149年忌(1793年)に建立。諱が「政名」であったのか疑問の声あり。

【墓巡礼】
武蔵が他界数日前に書いた『独行道』に初めて触れた時、19番目の項「仏神を尊び、仏神を頼らず」にキョーレツに胸を打たれた。衝撃的と言ってもいい。この言葉は僕に“仏神を頼らない”という宗教観を植えつけた。死を目前にした人間がこのような言葉を書き記す…この武蔵の強さにハートがしびれた。
墓所は熊本駅から車道に沿って15分ほど歩いた武蔵塚公園にある。そこはかつて参勤交代の沿道で、彼の遺体は本人の希望で、鎧兜など甲冑を着込んだ出陣時の正装で「立ったまま」埋葬された。武蔵は浪人生活を送っていた自分を召抱えてくれた細川氏を、死後も見守り続けるつもりだったんだ。武蔵塚公園は林や池がある美しい公園で入場は無料。園内には大きな墓の他に、二刀流の武蔵の銅像、五輪書の解説コーナー、『独行道』21箇条の全文を直筆から起こした碑などがある。墓前で強くありたいと願った。
岡山県美作市の武蔵神社の墓は成り立ちが要検証だが、僕は墓参して良かった。というのも、境内に『佐々木小次郎外六十余名供養塔』が建立されていたからだ。武蔵が倒した60数名の供養塔を建ててあげるという、敗者への地元の人々の優しい心にグッと来た。

〔武蔵関連地〕
・宮本武蔵生誕之地碑…揖保郡太子町(旧宮本村)の石海神社境内。
・宮本武蔵産湯井戸…上記の生家跡と伝わる石海神社の西、宮本武蔵公園内。
・宮本武蔵生誕地碑…高砂市米田町にあり、揮毫は細川元首相の父による。
・宮本武蔵決闘之地碑…初決闘の地を記念した石碑。兵庫県佐用町平福。
・正蓮庵…佐用郡佐用町平福。武蔵が幼少の頃に預けられたという。
・宮本吉岡決闘之地(堀正平建立)…京都市左京区一乗寺下り松。
・山口県下関市の巖流島に決闘する2人の銅像あり。
・岡山県美作市の「武蔵の里」…『東作誌』から武蔵が生まれた地と称し、観光開発の中心として「宮本武蔵顕彰武蔵武道館」が建設された。宮本武蔵駅も作ってしまったし、もはや後戻りが出来ないほど生誕地推し。
・島田美術館が遺品や肖像画及び武蔵筆の絵画を所蔵。
・姫路城の天守閣には武蔵が退治した妖怪伝説が残る。
・宮本武蔵修練之地碑…たつの市龍野町の龍野御坊・圓光寺境内。
・宮本武蔵庭園…明石公園内。明石城内に武蔵が作庭した。

※武蔵が『五輪書』で語った自身の試合は、新当流・有馬喜兵衛、但馬国の秋山、都の天下の兵法者(吉岡一門)のみ。
※オリンピックを「五輪」と訳した読売新聞の川本信正記者は、由来を「五輪書」としている。文字数が減らせるため他のマスコミに普及したという。
※吉原の名主、並木源左衛門や山田三之丞は武蔵の弟子。武蔵は新町の遊女・雲井と馴染み。
※1935年、吉川英治が朝日新聞に小説『宮本武蔵』を連載し、最強の青年剣士武蔵のイメージが日本人に定着した。
※2003年、大河ドラマ『武蔵 MUSASHI』がオンエア。武蔵役は市川新之助(7代目、後に海老蔵を襲名)。

【武蔵暗黒伝承】
知りたくなかった卑怯な武蔵の伝承も、公平に記しておかねばなるまい…。吉岡清十郎との対決ついて。1727年に福岡藩の二天一流師範、立花峯均が著した武蔵の伝記『兵法大祖武州玄信公伝来』によると、清十郎との試合当日に病になったと断りを入れたが、何度も試合の要求が来たため、武蔵は竹輿に乗って試合場に到着。吉岡清十郎が出迎えて病気の具合を聞く為に覗き込んだところを、武蔵は木刀で倒したという。完全に不意打ちである。巌流島での弟子たちによる小次郎襲撃は言わずもがな。

(参考)『英雄たちの選択 剣豪・宮本武蔵 極める!フリーランスの道』(NHK)ほか。

(宮本武蔵の巡礼ルポ)



★佐々木 小次郎/Kojiro Sasaki ?-慶長17年4月13日(1612年5月13日) (山口県阿武郡、阿武町福田 61歳?)2016

ちなみにこちらはライバルの
佐々木小次郎像!(福井市)
中央右奥に一乗滝が見える。小次郎はこの滝で
修行を積んで、奥義「燕返し」をあみだした
落差12m。真夏でも涼しい♪




巌流島の「佐々木巌流之碑」(2016) 「小次郎・武蔵像」。“武蔵・小次郎像”ではない(巌流島)

小次郎の墓が山口の山中にある経緯が記されている。妻のユキが遺髪を納めた

ここまで遠かったがもう一息だ 山道を進みゆく この中に小次郎の墓がある

 
菩薩が彫られている。ユキはキリシタンから尼になったという 側面に「佐々木古志らう」

佐々木小次郎は小説や講談の影響で若武者のイメージがあるけど、実際は50歳以上であり、70歳とする説もある。



★千葉 周作/Syusaku Tiba 1794-1855.12.10 (東京都、豊島区、本妙寺 61歳)2001&06&10






2001 2006 2010

こちらは東京・雑司が谷霊園の千葉家墓地(2010)

左が弟・定吉、右が定吉の子・重太郎。
重太郎が龍馬に剣術を指南した

千葉周作成政。江戸後期の剣術家で北辰一刀流の創始者。斎藤弥九郎、桃井可堂と共に
幕末三剣士とされる。龍馬や新選組の山南ら幕末の志士たちも、周作や弟・定吉の道場で
腕を磨いた。ちなみに定吉の娘・千葉さな子は龍馬の婚約者であったと言われている。



★沖田 総司/Souji Okita 天保13年6月1日(1842年7月8日)-慶応4年5月30日(1868年7月19日)(東京都、港区、専称寺 25歳)2000&09&10


肖像画は姉ミツの孫がモデル。ミツ曰く、総司にそっくりだという





専称寺は東京のド真ン中 寺の背後に墓域 墓地の後方は六本木ヒルズ!

 
墓前には命日に近い特定日(後述)しか行けないので塀の外から望遠で激写!
官軍をはばかったのか幼名の「沖田宗次郎」と彫られている(2000)
再巡礼。あれ?沖田家の
水桶がないですね(2009)


●悲願成就!命日に大阪から墓参!(2010)

お寺の前から既に異様な熱気! 巡礼者の行列!墓地に入るまで30分以上並んだ 墓地の中も墓前まで人がいっぱい!

  



うおおおおお!やっと沖田君に会えたーッ!個人的に超貴重な墓参写真なので3方向から激写!(2010)
※「新選組友の会」が開催する「総司忌」は毎年日程が変わるのでリンク先で要確認!
右隣に建つ「沖田家累代之墓」。
総司の名もある

終焉の地となった台東区の今戸神社。当地に住む医者が看病していた 余談だが、この神社が“まねき猫”発祥の地

江戸麻布にて奥州白河藩士・沖田勝次郎の家に生れる。本名春政、後に房良。幼名は宗次郎。幼くして父母を失ない11歳年上の姉ミツに育てられる。9歳の時に道場住み込みの門人として天然理心流(試衛場)・近藤周助に入門する。剣技は「三段突き」があまりの速さで一段にしか見えぬという天才肌で、17歳で免許皆伝となり、19歳の時には塾頭かつ師範代になっていた。沖田は冗談好きでいつも明るく、後に隊士になっても往来で子どもたちと鬼ごっこをやっていたが、剣術を教える時は別人の様に短気になり、道場では近藤よりも恐れられていたという。
1863年(21歳)、浪士隊に参加し近藤勇、土方歳三らと入京。新選組一番隊隊長として、同年の八・一八の政変で南門を守衛し、9月には土方らと横暴な初代局長・芹沢鴨を暗殺する。その後も数々の戦闘に参加するが、1864年6月5日(22歳)、池田屋での倒幕派鎮圧時、肺結核で突如喀血、昏倒する。禁門の変では長州軍を撃退したものの維新への流れは止まらず、1867年に大政奉還を迎える。翌1868年、結核はさらに悪化し、正月の鳥羽伏見の戦いに出陣できず沖田は江戸に帰還、今戸神社で医者の看病をうけた。
新選組が甲陽鎮撫隊として維新軍との戦いに挑む前、沖田を近藤が見舞いに訪れると、いつもは陽気な沖田が人目をはばからずに慟哭したという。そして回復を見ぬまま、4ヵ月後の5月30日、26歳の誕生日を翌日にして夭折した。
近藤は一ヶ月前に処刑されていたが、その死は最後まで沖田に秘されていた。彼は死の直前まで「(近藤)先生はどうされたのでしょうね、お便りは来ませんか?」と、師を気遣ってばかりいたという。墓は白河藩士の檀家寺・専称寺に造られた。

沖田が眠る専称寺は地下鉄六本木駅から地上に出て、テレビ朝日通りを進んだところ。墓はかつて一年中公開されていたが、新選組がブームになる度に女性ファンが大挙して押しかけるため、対応に苦慮した寺側は一年に一度、命日の時だけ一般公開することにした。しかし、囲いの塀は低く小さな墓地なので、道路からでも沖田の墓はよく見える。小さな屋根が付いているので分かりやすい。墓前には行けないものの、遥拝は可能なのでファンの方は足を運ばれてはどうだろうか。

※墓前まで行けるのは、年に一度の「総司忌」の午前10時から正午まで。主催は「新選組友の会」で、以前は命日の近くに「総司忌」が開催されたが、2017年は8月になったので最新日程を確認すること。
※沖田家累代墓碑には天然理心流だけでなく北辰一刀流の免許皆伝も得ていたと記される。
※永倉新八いわく「土方歳三、井上源三郎、藤堂平助、山南敬助などが竹刀を持っては子供扱いされた。恐らく本気で立ち合ったら師匠の近藤もやられるだろうと皆が言っていた」。
※新選組の支援者・小島鹿之助は新選組結成前の文久2年(1862年)7月の時点で、沖田のことを「この人剣術は、晩年必ず名人に至るべき人なり」と評している。
※尊攘派の京都西本願寺侍臣・西村兼文の沖田評「近藤秘蔵の部下にして、局中第一等の剣客なり」「天才的剣法者」。
※池田屋事件の当日、新選組は近藤隊10名、土方隊24名に分かれて都を駆け巡った。22時過ぎ、近藤隊が旅館・池田屋に潜伏している尊攘派を発見。事態は火急であり、近藤は土方らの到着を待たずに突入を決定。近藤、沖田、永倉新八、藤堂平助のわずか4名で、志士20数名が潜む屋内に踏み込んだ。藤堂が額を斬られ、沖田が喀血し、一時は近藤と永倉の2人になるも、やがて土方隊が合流。激闘の末に、長州、土佐、熊本藩士ら9名を斬り捨て、4名を捕らえた。新選組側は裏口を守っていた3人が死亡(奥沢栄助は当日死亡、安藤早太郎と新田革左衛門は後日死亡)。翌朝、新選組は諸藩と連携して逃亡した志士の掃討戦を行い、会津藩5名、彦根藩4名、桑名藩2名の死者を出しつつも20余名の捕縛に成功した。新選組は正午に壬生村の屯所まで凱旋し、多くの見物人が沿道を埋めた。この池田屋事件で過激派志士による御所焼討ち計画を防いだ新選組の名声は都中に広まり、幕府から多額の褒賞金を賜った。
※歴史上の人物で僕が墓前で千羽鶴を見たのは近藤、沖田、龍馬の3人だけ。
※小説などの沖田は「凍り付くほどの美青年」だけど、肖像画はしもぶくれでパタリロ風。(映画『御法度』の沖田は、ほんとカッコ良かった!ヤマトの沖田艦長にしろ、生徒諸君の沖田君にしろ、沖田って名は妙にカリスマ性がある)

●豆知識/新選組(新撰組)…1862年に幕府が武芸に優れた浪士を集めて作った浪士組。翌63年2月将軍徳川家茂を警固して上洛し、そのまま京都に残った芹沢鴨・近藤勇・土方歳三を中心に新選組が結成された。初代局長の芹沢鴨は目にあまる傍若無人ぶりが問題となって土方、沖田に暗殺され、これを受けて近藤が局長となる。彼らは京都守護職の松平容保の指揮のもと、京都郊外の壬生(みぶ)村に屯所を置き、治安維持を名目に尊攘・討幕志士を弾圧し、壬生浪人として恐れられた。当初20人前後だった隊員数は最盛期には約200人になった。新選組の活躍では特に1864年の池田屋事件が有名で、尊攘派志士約30名を、激闘の末殺害&捕縛し、尊攘派に大打撃を与えた。
明治元年(1868年)の鳥羽・伏見の戦で旧幕府軍として参戦するも敗北。近藤は新選組を再編して甲陽鎮撫隊を組織し、同年3月に山梨県勝沼町で官軍に抗戦するが圧倒的火力に敗れ去る。翌月千葉県流山市で近藤は捕らえられ江戸板橋で斬首された。土方は旧幕府軍として東北各地を転戦して、榎本武揚と共に箱館へ渡り、69年5月の五稜郭の戦で「ここで降伏したら地下の近藤に合わせる顔がない」と降伏を拒否、銃弾の中に特攻し戦死した。



★斎藤 一(藤田 五郎)/Hajime Saito 1844.2.18-1915.9.28 (福島県、会津若松市、阿弥陀寺 71歳)2007&08


53歳の斎藤一(1897)

新選組三番隊隊長!沖田総司と並ぶ新選組きっての剣豪(2007) 縁があって翌08年も巡礼。お変わりありませんでした






2007 2008 「悪・即・斬!」竹ほうきで“牙突”を奉納!

新選組の三番隊組長、撃剣師範。特技は「左片手一本突き」で永倉新八は「沖田は猛者の剣、斎藤は無敵の剣」と評した。1863年(19歳)、新選組の前身となる壬生浪士組が結成されると斎藤は即日入隊する。最年少の隊士だったが、剣の腕をかわれて副長助勤に抜擢され、後に三番隊組長に就任した。1867年(23歳)、一時期新選組を離脱して御陵衛士となるが、盟主の伊東甲子太郎が新選組に粛清され、斎藤は新選組に復帰する(この辺の行動はナゾ)。
1868年(24歳)、戊辰戦争では各地を転戦し、近藤の死後は会津藩の指揮下で戦い続ける。やがて土方は北上したが斎藤は会津に残って戦った。降伏後は改易された松平家と共に下北半島へ移り、結婚して東京に移住、警視官となった。1877年(33歳)、警視局の警部補に就任。西南戦争では警視官によって編成された別働第3旅団に所属し、卓越した指揮能力と猛剣で敵を蹴散らした。1891年(47歳)に警視庁退職し、1915に胃潰瘍で他界する。享年71歳。動乱の時代を生き抜いた。
※マンガ『るろうに剣心』では主人公の好敵手。



★上泉 信綱/Nobutsuna Kamiizumi 永正5年(1508年)-天正5年1月16日(1577年2月3日)
(群馬県、前橋市、西林寺 69歳)2009




道路から見える石標『上泉伊勢守墓所』 屋外に立つ剥き出しの仁王像は珍しい 『剣聖 上泉伊勢守藤原信綱』顕彰碑


境内の『剣聖 伊勢守・生誕の里』 『上泉伊勢守之墓所』



寺墓地の奥の方 信綱の墓域は整備されている 風化が進み文字が読めない

剣聖。兵法家。日本剣術の中心的流派・新影流の始祖で竹刀を考案した。弟子には柳生石舟斎(=柳生宗厳、柳生新陰流開祖)、宝蔵院胤栄(宝蔵院流開祖)などそうそうたる顔ぶれが並ぶ。上野国(こうずけのくに)上泉城城主、上泉秀継の子で、当初の名は伊勢守秀綱、のちに武蔵守信綱と称した。上野国箕輪城の城主長野業政の家臣となり、若い頃から槍を得意とし「上野国一本槍」と称えられた。

信綱は陰流の始祖、愛洲久忠(移香)の子の宗通のもとで陰流を習得し、戦争の段取り=軍配を小笠原氏隆(小笠原流兵法)に、そして香取、鹿島の神道流を学び『新影流(新陰流)』を開く。その後、新影流を広めるために弟子と共に諸国を巡る。京都では13代足利義輝に軍配を指導し、天皇の御前で披露した剣技が評価され従四位下を贈られた。『本朝武芸小伝』には映画『七人の侍』に登場するエピソードの原型が納められている。信綱は諸国遍歴中に子供を人質にとった盗賊による農家立てこもり事件に遭遇した。この時、信綱は頭を剃って僧に扮し、2個のオニギリを手に農家へ接近すると、盗賊と子供に投げ与えたという。そして、空きっ腹の盗賊がオニギリを拾おうとした一瞬をついて農家に飛び込み、見事取り押さえたという。
※別冊宝島『最強!侍伝説』のオールタイム最強剣豪王座決定戦では1位が上泉信綱。以下、塚原ト伝(新当流開祖)、宮本武蔵、柳生十兵衛、伊藤一刀斎(一刀流開祖)、柳生宗矩、堀部安兵衛(赤穂浪士)、沖田総司(新選組)、岡田以蔵(土佐藩士)、中村半次郎(薩摩藩士)となっていた。



★荒木 又右衛門/Mataemon Araki 1599-1638.8.28 (鳥取県、鳥取市、玄忠寺 39歳)2008

鳥取駅から路線バスで簡単に行ける 寺は墓所の他に遺品館も併設(石破氏〜) 仇討ちの時に折れた刀を展示 鎖帷子もあった!


墓石は鳥取地震で横転。割れてしまったので網が掛かっている 本堂にある又右衛門の位牌

江戸初期の剣術家。本名。荒木保知(やすとも)。伊賀国出身。12歳の時に桑名藩士・服部平兵衛の養子となり中条流剣術を身につける(一説には柳生十兵衛に新陰流を学んだとも)。故郷に戻った又右衛門は剣術の腕を買われ、29歳で大和郡山藩から剣術師範として招かれる。そんな折、妻の弟(岡山藩士)が同僚・河合又五郎に殺害される事件が起きる。義弟・渡辺数馬から仇討ちの助太刀を頼まれた又右衛門はこれを引き受け、1634年(36歳)11月7日、河合又五郎らと伊賀国上野の「鍵屋の辻」で決闘を行なった。又右衛門側は4人、河合側は11人。数の上では圧倒的に不利だったが、6時間に及ぶ激闘の結果、又右衛門たちは犠牲を1名出したものの、河合側の4人を斬り捨て(うち2人を又右衛門が斬った)、河合側は逃げ去り見事に勝利した。後世にこの敵討は「伊賀越の仇討」と呼ばれ、「赤穂浪士」「曾我兄弟の仇討ち」と並ぶ日本三大敵討の一つになった。又右衛門は事件の4年後に鳥取藩池田家に引き取られたが、鳥取到着直後に謎の急死をとげる。
※講談では又右衛門が36人を斬ったことになっている。



★岡田 以蔵/Izo Okada 天保9年1月20日(1838年2月14日)-慶応元年閏5月11日(1865年7月3日)(高知県、高知市、薊野・真宗寺山 27歳)2008


この山が丸ごと墓地!発見できるのか!? 「以蔵や〜い!」落ち葉や雑草を掻き分け探す 細い道もいっぱい…迷う

広大な墓域!山の中に転々と墓があるうえ、案内地図もなければ管理人もない。以蔵の墓に辿り着けるかどうかは“運”のみ!
以蔵の墓は入口付近じゃないので、ある程度登る必要がある(中腹あたり?)。運が良ければ小さな案内プレートに巡り会える!





うおお!この近くにいるのかッ!?高知駅に向かう
バスの時間が迫ってきて諦めかけた頃に発見…涙!
この木柱が見つかれば
もうスグだぞ!
ぐわー!岡田ばっかりだ!分かるのかッ!?


一番奥が以蔵だった!「岡田以蔵」ではなく「岡田宜振」で
眠ってた。1人だけ酒や花が供えられていたので分かった


手前の水鉢に「以蔵」と書かれていることに後日気付いた。なぜか?
この墓地は鬼のようにヤブ蚊が多いのだ!一瞬でも立ち止まれば
たちまち十数匹が吸い始める。だから墓の周囲をグルグル回りながら
以蔵と喋ってた。※完全防備で巡礼することを薦めます!

土佐勤王党の狂犬「人斬り以蔵」。薩摩藩の田中新兵衛と中村半次郎、肥後藩の河上彦斎と並ぶ幕末四大人斬りの一人。本名、岡田宜振(よしふる)。幕府の役人を片っ端から暗殺した。土佐勤王党の盟主、武市瑞山(半平太)に憧れ小野派一刀流剣術を習得。後に江戸で鏡心明智流剣術、豊後で直指流剣術を学ぶ(22歳頃)。武市は暗殺マシーンとして以蔵を利用。以蔵は「安政の大獄」で志士を弾圧した京都町奉行の森孫六・大河原重蔵・渡辺金三郎・上田助之丞、そして土佐藩下目付けの井上佐一郎などを「天誅」の名の下に殺害し、本間精一郎や池内大学といった意志の弱い同志を粛清した。だが以蔵は政治のことがよく分からず、性格も粗野で酒飲みだった為に、土佐藩仲間からも疎まれるようになる。

  「本間精一郎遭難之地」(京都市中京区)2010

以蔵は自分の剣を認めてくれる相手なら喜んで協力する子供のような性格。坂本龍馬から勝海舟の護衛を頼まれた時もこれを快諾した。勝は幕府側の人間であり、維新派志士による襲撃が実際に起きたが、以蔵は3人の暗殺者のうち1人を斬り捨てる。さらに大声で恫喝すると2人は逃げていった。この事件は勤王党の以蔵が、本来は敵である幕府の要人を守るために志士を斬るという逆の構造になった(敵も味方も斬るまさに“狂犬”)。勝が「あまり簡単に人を殺してはいけない」と以蔵を諭すと「しかし、私が居なかったら先生の首は既に飛んでますよ」と答え、勝は“一言も返せなかった”と後日振り返っている。
その後、勝は以蔵の腕に感心し、ジョン万次郎の護衛を依頼する。万次郎が建てた西洋式の墓を見物に行った時、墓地で万次郎を襲撃した暗殺者を以蔵が撃退したエピソードがあるが、中浜家の家伝では墓の完成は以蔵が処刑された後といい、誤伝の可能性が高いという。

1863年(25歳)の八月十八日の政変後、土佐勤王党は大弾圧を受け、翌年に以蔵も捕らえられ苛烈な拷問を受ける。武市は以蔵が自白することを恐れ「あのような阿呆は早くと死んでくれれば良いのに、おめおめと国許へ戻って来て、親がさぞかし嘆くであろう」と漏らす。以蔵は1年近く耐えたが遂にいっさいを自白(以蔵の口封じを考えた半平太は毒殺を考えたが実行されなかったという)。1865年5月に処刑され首を晒された。辞世の句は「君が為 尽くす心は 水の泡 消えにし後ぞ 澄み渡るべき 」。



★中村 半次郎(桐野利秋)/Hanjiro Nakamura 1838-1877.9.24 (鹿児島県、鹿児島市、南洲墓地 39歳)2008










桐野利秋として知られる 西郷の墓(右)と半次郎(桐野利秋)の墓は並んでいる 西南戦争で散る

薩摩の勤王の志士。雨だれが軒先から地面に落ちるまでに3度も抜き打ちができたという抜刀術の達人。1867年(29歳)、京都見廻りの最中に公武合体派の軍学者・赤松小三郎を発見し白昼に暗殺した。その大胆さから、“人斬り半次郎”と呼ばれ恐れられた。明治に入り桐野と改名。
西郷の人柄に心酔し、西南の役では薩軍総指揮官を務めた。西郷の自決を見届けると半次郎は政府軍に突撃、銃弾を頭に浴びて絶命した。怖いイメージがあるが、フランス製のオーダーメイドの軍服を着たり、フランスの香水をつけるなど洒落者だった。※戦死時は遺体から香水の香りが漂っていたと伝わる。



★田中 新兵衛/Shinbe Tanaka 天保3年(1832年)-文久3年5月26日(1863年7月11日) (京都府、東山区、東福寺・即宗院 31歳)2010

即宗院は“非公開寺”。門前には「観光しておりません」の木札
境内の庭から墓地に続く道。趣があった この先が墓地。墓参許可が出たのは奇跡!




左端が新兵衛!お寺の人が場所を教えてくれた かなり風化。「田中雄平」の名で眠っている 墓地全景。田中姓の墓が多い。新兵衛は中央付近

●即宗院は薩摩藩の公式な畿内菩提所。以下に有名な薩摩藩士を紹介。(篤姫も即宗院に参拝したと考えられている)

薩摩藩士の急進的尊攘派が同じ薩摩藩士に
粛清された寺田屋事件で、「オイ(俺)ごと刺せ」
と叫んで有馬新七と共に橋口吉之丞に刺し殺さ
れた道島五郎兵衛の墓(左)。右は彼の顕彰碑
有馬正直の墓(新七の父)。
なんと道島五郎兵衛の
正面右隣りに眠っていた。
これにはビックリ!
奈良原喜左衛門の墓。生麦村
で行列を横切った英国人
C・リチャードソンに斬り付け、
薩英戦争の原因になった
中井弘の墓。写真中央の
3層の石塔が鹿鳴館の
名付け親、。かなり大きい。
号は“桜洲”。隣は夫人の墓

境内の裏山を登っていくと6基からなる
薩摩藩士『東征戦亡之碑』が建っている
戊辰戦争で戦死した薩摩藩士の霊を供養するために西郷隆盛が建てた慰霊碑。
524名の名前が刻まれている。石碑建立の由来は西郷自身の揮毫によるもの

薩摩藩の下級武士で、土佐藩の岡田以蔵、肥後藩の河上彦斎、薩摩藩の中村半次郎と並ぶ幕末四大人斬りの一人。島津織部家臣。だが、船頭の息子(ただの町人)という説もある。
1862年、30歳で京都にのぼり、上洛してすぐに安政の大獄で尊皇攘夷派を弾圧した島田左近(佐幕派の公家・九条尚忠の側近)を暗殺。島田の愛人の家を探し当てて張り込み、暗殺後は首を青竹に串刺して四条河原に晒した。その後、土佐勤王党の武市半平太と義兄弟となり、武市の依頼で岡田以蔵らと組んで、越後浪士・本間精一郎を殺害。身の危険を感じて京から逃げた町奉行与力4人(上田助之丞、渡辺金三郎、大河原重蔵、森孫六)を、新兵衛は30人の暗殺団を率いて追跡し、近江の宿屋で皆殺しにした。

翌1863年、京都御所門外の猿ヶ辻にて公卿・姉小路公知(きんとも)が暗殺された際(公知が攘夷派から転向した為という説が有力)、現場には公知が奪い取ったと見られる新兵衛の刀の鞘が落ちており、町奉行はそれを証拠に捕縛。絵に描いたような状況証拠ゆえ“でっち上げ”にも思えるが、生存者の証言と新兵衛の負傷箇所が一致した。尋問でその鞘を突きつけられた新兵衛は、奉行の脇差しを奪い取って自決する。新兵衛は愛刀を暗殺の数日前に盗まれ、公知暗殺犯ではないが盗難の失態を恥じて自刃したという説もある。真実は闇の中だ。諱は雄平。
※五社英雄監督『人斬り』(1969)で三島由紀夫が新兵衛役を演じ、鬼気迫る切腹シーンを見せつけた。その翌年、自衛隊基地で三島は割腹した。



★河上 彦斎/Gensai Kawakami 天保5年11月25日(1834年12月25日)-明治4年12月4日(1872年1月13日) (東京都、大田区、池上本門寺 37歳)2010



明治維新後もトコトン攘夷派 佐久間象山を斬った あの“剣心”のモデルに!




本門寺の「熊本県人合葬碑」

「合葬碑」の右手前に建つ「河上彦斎先生碑」

「河上彦斎先生碑」の背後に彦斎の墓。正面には戒名
の「應観法性信士」、側面に「通称高田源兵衛」とある

尊皇攘夷派の肥後熊本藩士。幕末4大人斬りの一人で、マンガ『るろうに剣心』の主人公“人斬り抜刀斎”緋村剣心のモデル。勝海舟いわく「怖くて怖くてならなかった」。通称、高田源兵衛。元は藩の僧侶。桜田門外の変では襲撃側浪士の怪我人を江戸藩邸で手当した。色白で身長は約150cmと小柄ゆえ女性にも見えたと伝わる。剣は我流で、得意技が身長の低さを利用した低姿勢からの片手抜刀、逆袈裟斬り。

1863年(29歳)、熊本藩の親兵(しんぺい、近衛兵)選抜で才能を買われて幹部となる。同年8月18日に起きた政変で攘夷派の長州が敗北すると、彦斎は脱藩して長州に渡った。そして京から下った尊王攘夷派の公卿・三条実美を警護する。
翌1864年(30歳)、彦斎にとって兵学の師である熊本藩士・宮部鼎蔵(ていぞう)が池田屋で新選組に討たれ、仇をとるため上洛。その翌月、公武合体派かつ開国論者で西欧情勢に精通した“天才”佐久間象山(松代藩士)を暗殺する。馬上の象山を二太刀で絶命させた。だが、彦斎は殺害後に象山がどれほど大人物であったのかを知り、また象山と向き合った際に「髪の毛が逆立つような恐怖感に襲われた」ことから、以降、二度と人斬りをしなかった。

1866年(32歳)、第二次長州征伐に際し、彦斎は長州軍に加わり幕府軍を撃破する。翌年(1867)熊本に戻ったところ、佐幕派が支配していた為に脱藩罪で投獄されてしまう。獄中にいる間に、世は大政奉還を経て戊辰戦争に突入する。1868年(34歳)、熊本藩は勝ち馬に乗るべく倒幕派に寝返り、薩長と人脈のある彦斎を出獄させ協力を求めた。当初、彦斎は馬鹿らしくなって協力を断ったが、数度の説得を受けて、戊辰戦争で藩兵を率い戦場を駆けた。

維新後、明治新政府は開国路線に舵を切ったが、なおも彦斎は外国排斥、攘夷にこだわった。新政府は彦斎が外交の障害になると判断。そして、攘夷派の公卿がクーデターを企てた二卿(にきょう)事件や、長州藩の旗手・広沢真臣(さねおみ)暗殺に、“関与の嫌疑あり”とデッチ上げて彦斎を獄中へ放り込んだ。その後、彦斎をよく知る木戸孝允が「奴を放置すると国が傾くほどの攘夷事件を起こす」と処刑を命じ、1872年に斬首された。享年37歳。戒名『應観法性信士』。諱は玄明(はるあきら)。後年、冤罪が認められ罪は取り消された。

辞世の歌は3種。「君が為め 死ぬる骸に 草むさば 赤き心の 花や咲くらん」「君を思い君の御法に死ぬる身を ゆめ見こりなそつくせ世の人」「かねてよりなき身と知れど君が世を 思う心ぞ世に残りける」。
墓は品川区の東海寺少林院から本門寺に改葬され、昭和2年に慰霊碑が建てられた。仮墓が京都・霊山護国神社、京都・妙法院、熊本・桜山神社にある。

※勝海舟によると「志士が仲間同士で“幕府側の某は許せぬ”と話していると、彦斎はその日のうちに首をとってしまう」とのこと。勝が直接会ったときに「お前は人を斬りすぎる」とたしなめると、平然として「ナスやキュウリはちぎり時がある」と答えたという。“人斬り彦斎”の異名を持つが、犠牲になった多くの佐幕派武士の名前が不明であり、確実に暗殺が分かっているのは佐久間象山のみ。



★山岡 鉄舟/Tessyu Yamaoka 天保7年6月10日(1836年7月23日)-明治21年(1888年)7月19日 (東京都、台東区、全生庵 52歳)2010

眼光鋭すぎ!

木曽福島の興禅寺には“幕末三舟”の掛け軸が
並び壮観。左から勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟。



鉄舟が創建した全生庵 剣豪であり、書の達人であり、禅も熟知していた 「山岡鉄舟居士の墓」と案内柱があるので分かりやすい

剣・禅・書の達人。無刀流の創始者。勝海舟、高橋泥舟(でいしゅう)と共に『幕末三舟』と称される。通称は鉄太郎、本名は高歩(たかゆき)。江戸生まれ。10歳〜17歳まで飛騨高山で暮らす。幕臣・小野朝右衛門の5男で、母の先祖は剣豪・塚原卜伝。9歳から神陰流剣術を学び、さらに北辰一刀流剣術も習得。槍術家・山岡静山の妹と22歳で結婚し山岡家を継いだ。静山の弟は幕臣の高橋泥舟。鉄舟は幕府講武所で剣術指南役に抜擢された。

1863年(27歳)から浪士組(後に新選組)として京都に赴任するも、攘夷派の清川八郎と対立して江戸へ戻った。31歳の時に大政奉還。1868年(32歳)、徳川慶喜の恭順の意を官軍に知らせるため、勝海舟の使者として駿府(静岡)の西郷隆盛のもとへ一人で向かい「朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎まかり通る」と大声で乗り込んだ。そして西郷に徳川家存続を説き伏せ、これによって勝と西郷の会談が実現し江戸城無血開城となった(勝・西郷の会談にも立ち会っている)。明治に入って静岡、茨城、伊万里で要職に就き、1873年(37歳)からは明治天皇の侍従も務めた。静岡時代に清水次郎長と交流も持つ。

書家として100万枚書したと言われており逸話も多い。金貸しから1000円を借りた時に証文を書くよう促され、手元にあった紙に「なくて七癖わたしのくせは、借りりゃ返すがいやになる」と大書した。金貸しは唖然となってその書を知人に見せると「書といい、文句といい、まことに絶品だ。1000円でゆずってくれ」と言われ、驚いた金貸しは家宝にしたという。
1883年(47歳)、維新に散った者の菩提を弔う為に全生庵を創建。1888年7月19日、胃癌を患い、皇居に向かって座禅をしたまま絶命。享年52。戒名「全生庵殿鉄舟高歩大居士」。子爵。墓は全生庵。ちなみに禅道の弟子・三遊亭円朝の墓も同寺。
西郷の鉄舟評「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」。



★伊東 一刀斎/Ittosai Ito 1560-1628 (東京都、品川区、天妙国寺 68歳)2010





すぐ近くを鉄道が走っている 慶安2年(1649)の銘があり、没年「1653年説」は間違い 弟子・伊藤次郎助忠也建立

塚原卜伝、宮本武蔵と並ぶ三剣豪の一人。安土桃山時代の剣客。伊豆出身。名字は伊藤とも。名は景久。幼名は前原弥五郎。鐘巻自斎に剣法を学んで“一刀流”を興した。14歳で初勝利して以来、諸国を遍歴し33戦無敗。1578年、中国刀術の名人である唐人の十官と戦い、木刀を持つ十官を一刀斎は扇一本で倒したという。弟子に小野善鬼、古藤田俊直、神子上吉明ら。



★服部 半蔵/Hannzo Hattori 1542-1596.11.14 (東京都、新宿区、西念寺 54歳)1999&09



「鬼の半蔵」と呼ばれた 皇居西側の「半蔵門」。その昔、この付近に半蔵の屋敷があったことが名前の由来だ


JR四ッ谷駅に近い西念(さいねん)寺。
岡崎信康菩提の為に半蔵が建立した
家康の長男、岡崎信康の墓。半蔵は信康を尊敬して
いたので、信康自刃の介錯ができなかった(西念寺)



1999 伊賀忍者の総帥に初巡礼!

2009 10年ぶりに謁見。墓前に
赤い花入れが増えていた
耳を澄ますと墓の下から
「ニンニン」と聞こえてきた

本名石見守正成、伊賀国出身の上忍(忍者の最高位)。また徳川家康の家臣で徳川十六将の一人でもある。服部一族は元々は平家の一門だったが、屋島の敗戦後は伊賀に落ち延び、そこで忍術といわれる特殊な技術を磨き上げ、平時には行商人、山伏、旅芸人、虚無僧に扮して各地の情報収集にあたり、戦時には後方撹乱、密偵、暗殺などを行なった。忍者の流派には甲賀流、羽黒流、武田流、戸隠流、紀州流、楠流など、70前後あるが、その中で最も著名なのが伊賀流だ。半蔵は8歳から修行に入り、12歳でもう一人前の忍者になっていた。16歳の時に伊賀者を率いて敵城内に忍び込んだのが半蔵の初陣だ。通常、忍者は一人の人間に仕えず、個々に依頼主との契約によって活動していたが、半蔵は家康だけに仕えたことで家康から大きく信望を得る。39歳の時に伊賀の里は織田軍6万の兵によって大虐殺にあっており、この事からもますます家康に組したと想像される。翌年の本能寺の変の際、忍者300名を非常召集して、家康の“伊賀越え”を護衛し、伊賀から伊勢の白子港へ出て、船で三河岡崎へ無事に帰還させた。三方ヶ原の戦いや小田原攻めでも功をあげ八千石を賜わり、1590年(48歳)の家康の江戸入府後は、与力30騎、同心200人を統率し、江戸城西の口の警備を担当した。皇居西側の半蔵門は、付近に半蔵の屋敷があったことが名前の由来だ。
 
伊賀忍軍の総帥であり槍の名手だった彼は“鬼の半蔵”と呼ばれ武勇を誇ったが、徳川家康の長男(信康)が織田信長の謀略によって20歳の若さで切腹に追い込まれた際、介錯役を担当した彼は涙が止まらず役目を果たせなかったという(時に半蔵37歳)。この一件から世の無常を感じていた半蔵は、晩年に信康の菩提を弔うため麹町清水谷に庵を建てると仏門に帰依した。「鬼の半蔵」という言葉とは別の横顔がうかがい知られるエピソードだ。1593年(51歳)、半蔵は家康から寺院建立の内命を受けるが、完成を見ずに55歳で病没し、死後完成した寺は半蔵の出家後の号“西念”をとって西念寺とされた。1634年に同寺は江戸城の外堀拡張・新設に伴ない四谷へ移され、そのまま服部家の菩提寺となる。三葉葵の紋所をつけた西念寺には、現在でも半蔵の墓や信康の大きな供養塔があり、半蔵愛用の槍も保存されている。

※半蔵の隆盛は一代で終わった。没後に後を継いだ子の正就が傲慢なバカ息子で配下を統率しきれず、謀反にあって身分を平民に落とされ、領地・家屋敷も取り上げられた。正就は1615年の大坂の夏の陣に参戦し天王寺口で討ち死にした。
※マンガの忍者ハットリ君の本名は服部“カンゾウ”。彼もまた伊賀者だ。



★柳生 十兵衛/Jyubei Yagyu 1607-1650.3.21 (東京都、練馬区、広徳寺 43歳)1999&2010 曇り&晴れ







7時 曇り
(1999)
9時 晴れ

壮観!柳生一族が勢揃い!右から但馬守宗矩(十兵衛の父)、
十兵衛、飛騨守宗冬(弟)、柳生家歴代の墓(合葬)となっている
弟子数、1万3千人


広徳寺の山門 2010年に再巡礼 目の保養になるほどカッコいい

柳生宗矩(むねのり)の長男。本名、三厳(みつよし)。父から新陰流を学び、弟の宗冬と共に流派の発展に尽力する。家光が宗矩の下で剣術を磨き始めると、十兵衛がその相手役となった。19歳、家光を激怒させ解任される(理由は今も分かっていない)。その後、故郷の奈良・柳生村で新陰流の研究につとめ、31歳で幕臣に復帰。35歳、新陰流兵法の秘伝書「月之抄」を完成。十兵衛の門弟は荒木又右衛門をはじめ、門弟は1万3千人の弟子にのぼった。43歳、鷹狩中に急死する。

なぜ十兵衛の写真を2枚も載せたのかと、お願いだからオラに質問してくだせえ。柳生一族の墓石は一番上から『空、風、火、水、地』と彫られ、それはもうバリ渋じゃった。しかし、朝7時の時点の空は曇天で、陰影ゼロのショボい写真にしかならんかったのじゃ(左)。ここは日光を待つほかあるめぇ。おりしも当地は禅寺。この試練を明鏡止水の心に至る修行と、そうオラは覚悟を決めた。そして待つこと2時間、9時になってついに雲が切れたのじゃ!おお、深く陰影に富むこの荘厳なたたずまいを見よ!上から3段目『火』の文字がクッキリ見えるじゃろう!僕はこの絵(構図)が欲しかったんじゃ〜!
十兵衛の側には柳生新陰流の開祖、父・宗厳(むねよし)の他、柳生一族の墓が並んでいた。


〔 柳生一族 豆知識 〕

柳生宗厳(むねよし)1529〜1606
柳生新陰流の始祖。晩年は但馬入道、石舟斎と名乗る。奈良・柳生村出身。松永久秀や織田信長に属し、合戦に出陣すると共に武芸に励み、新影流兵法を興した上泉信綱から奥義を伝授された。そして剣法を究めた宗厳は無刀の術=新陰流を編み出す。1594年(65歳)、徳川家康に呼ばれ、京都で5男の宗矩(むねのり)と共に剣術の秘法を披露。「兵法百首」を記した。

柳生宗矩(むねのり)1571〜1646
大和国柳生藩主。幼時から父宗厳に新陰流をまなび、1594年(23歳)、京都で家康に剣術を披露し、技を褒められ側近となる。関ヶ原の戦では父と共に活躍した。50歳、3代家光の兵法師範となり、8年後に但馬守(たじまのかみ)となる。将軍家の御流儀となることで新陰流の名声は高まり、門下から多くの名手が生まれ各藩に求められて仕える者が続出し各地に流儀が広まった。61歳、新陰流の兵法論「兵法家伝書」を記し、乱世には世を治める為に殺人刀を使い、治世には人を生かす為に活人刀を使えと説く。晩年には1万石以上の大名となった。
「吾(われ) 天下統御の道は宗矩に学びたり」(徳川家光)

「人に勝つ道は知らず、我に勝つ道を知りたり」(柳生宗矩/葉隠)
「刀剣短くば一歩を進めて長くすべし」(柳生宗矩/兵法家伝書)



★榊原 鍵吉/Kenkichi Sakakibara 文政13年11月5日(1830年12月19日)-明治27年(1894年)9月11日 (東京都、新宿区、西応寺 63歳)2010



西応寺の山門 「榊原鍵吉之墓」※場所は後方のビルを参考に 右隣は榊原代々墓

幕末から明治にかけて活躍した「最後の剣客」。幕臣。江戸麻布生まれ。12歳で直心影流・男谷精一郎に弟子入り。19歳で免許皆伝となる。1856年(26歳)、幕府講武所の剣術教授方に登用され、4年後に槍術の高橋泥舟を破り徳川14代将軍家茂の個人教授を務めるようになる。32歳、師範昇進。1864年(34歳)、下谷車坂の屋敷で道場を開く。
幕末の混乱の中、1866年(36歳)に幕府遊撃隊頭取となって活躍するが、1868年(38歳)、当時5歳の徳川宗家16代当主・徳川家達(いえさと)に従って静岡に移住する。新政府には加わらず、衰退した剣術の再興と普及に努めるため、1873年(43歳)に撃剣会を発足。興行で困窮した士族を救済した。1894年に63歳で他界。法名は義光院杖山倭翁居士。稽古で長さ六尺(180cm)、重さ三貫(11kg)の振り棒を2000回も振ったという。



★大岡越前守忠相(ただすけ)/Tadasuke Ooka 1677‐1751.12.19 (神奈川県、茅ヶ崎市、浄見寺 74歳)1994&09&10

 
江戸っ子に愛された名奉行 加藤剛の『大岡越前』




「大岡越前通り」とな 門前の石柱が「大岡越前守菩提所」と大きくアピール 賽銭箱の代わりに巾着袋!(大岡の家紋入り)

 
境内から墓地に行こうとすると、墓地入口の門に鍵。「墓所護持のため御喜捨お願いします」とあった。つまり墓参は
有料。茅ヶ崎市が補助してあげればいいのに。喜捨して鍵を開けて貰うと大岡の家紋入りセンベエを頂けた※不覚にも
喜捨の額を忘れてしまった。確か相場が決まっていて200円だったはず。足を運ばれた方、連絡頂けると助かります〜!




藤原鎌足から続く大岡14代までの家系図 この敷地に初代忠勝〜13代までが眠っている(2010) 向かって右端の初代忠勝の墓

墓前で鬼が賽銭袋を担いでた 正面に戒名「松雲院殿前越州刺史興譽仁山崇義大居士」 側面に「大岡越前守藤原忠相」



東京・港区の豊川稲荷(妙厳寺) 大岡越前守忠相公御廟 今も多くの人が訪れる。ちなみに線香は一束50円


こちらは高野山の「武蔵岩槻 大岡家墓所」(2009) 以前は天を突くような高い卒塔婆があった(1994)

「水戸黄門」「遠山金四郎」「“暴れん坊将軍”吉宗」と並ぶ時代劇四天王の一人、「大岡越前」こと大岡越前守忠相(えちぜんのかみただすけ)は江戸中期の幕臣。旗本の子として江戸赤坂に生まれる。9歳の時に徒頭(かちがしら、将軍外出時の道路警備)を務める親族の養子となる。1693年(16歳)、兄(忠品)が5代将軍綱吉の逆麟に触れて八丈島に流され、実父も家禄が格下げになった。1699年(22歳)、従兄弟が上役を殺害して自刃する大事件が起き、連座制で大岡一族は謹慎(閉門)となる。このショックで翌年に養父が、翌々年に実父が他界。間もなく閉門が解かれたものの、忠相は幼い2人の子に先立たれ、29歳の時に妻が病没するなど悲劇が続く。
 
養父の死後に家督を継いだ忠相は、プライベートの悲しみを仕事で振り払うように職務に没頭する。その忠勤振りが認められ、書院番(江戸城警備)、徒頭、使番(つかいばん、伝令将校)、目付(役人の監視)と次々と昇進を重ね、1712年、35歳で伊勢・山田奉行(三重の地方官)に就任する。彼は地方奉行として様々な訴訟を裁いたが、伊勢と松坂(紀州藩)の境界線を巡る住民訴訟で、従来の判官であれば徳川御三家の紀州・松阪側に有利な判決を下したところを、毅然として「否は松坂側にあり!」と采配し、当時紀州藩主だった吉宗は紀州側敗訴にも関らず、忠相を「権力に媚びぬ天晴れな男」と感心した。
1716年(39歳)、普請(ふしん、土木担当)奉行に昇進。この夏に吉宗が8代将軍に就任すると、さっそく翌年に忠相を江戸町奉行(治安機関のトップ)に抜擢した。時に忠相40歳。
※江戸町奉行は北と南の町奉行が一ヶ月交代で任に就いていた。忠相は南町奉行。彼らは休みの月も事件の調査や調書作りで、多忙を極めたという。

吉宗は“享保の改革”をスタートさせ、忠相も町奉行時代の20年間に、様々な行政改革を行なっている。1718年(41歳)、着任後の忠相は、まずは人命最優先として火事の多発する江戸の防災に取り組み、町火消(まちひけし)制度を制定。江戸を47区に分けて各区に町民の消防団「いろは47組」を編成した。続いて目安箱を考案、犯罪容疑者への拷問禁止、犯罪者一族への連座制廃止、経済活性化の為の株仲間公認、貨幣改鋳、物流を整備して安い商品の流通に努め、貧困者の救済の為に小石川療生所を建設した。1722年(45歳)からは、関東の農政担当・関東地方(じかた)御用掛を兼任し、飢饉に備えて甘薯(サツマイモ)栽培を研究する青木昆陽を抜擢、農業・治水に詳しい田中丘隅(きゅうぐ)を登用して新田開発を促進した。

※小石川養生所…看病する者さえいない極貧の病人の為に、治療・入院を無料でおこなった医療施設。町医者・小川笙船(しょうせん)からの目安箱への投書がきっかけで、吉宗の意を受けて忠相が建設した。本道(内科)、外科、眼科があり、無料で薬を与える施薬院も併設された。

【江戸っ子トリビア】

町火消は出動の際に「め組」「い組」など組別に纏(まとい)を掲げる。
纏のてっぺんにある球体はケシの実で、下の立方体は枡。
2つ合わせて「けします」。この華麗なダジャレは忠相が考案した。

1736年(59歳)、20年間勤め上げた町奉行から寺社奉行へ昇進。寺社奉行は従来大名の役職であり、これは異例の栄転だった。そして1748年(71歳)、奏者番(将軍と謁見者の取次役)になると同時に、三河国(愛知・岡崎市)の1万石を領地に授かり、なんと忠相は「大名」になった!(1万石以上の領地を持つ武士が“大名”)。徳川300年の長い江戸時代を通して、町奉行から大名になったのは大岡忠相、ただ一人だけ!
1751年、6月に吉宗が他界すると、その後を追うように半年後に忠相も病没した。享年75歳。法名は松雲院殿前越州刺史興誉仁山崇義大居士。
 
忠相は裁判官としては権力に左右されない公正な裁きを行ない、行政官としては、人命を守る防災対策、治安維持、農民の為の治水、町民の為の流通改革、その他様々な分野で内政に手腕を発揮した。忠相が最も気力・体力の充実した壮年期に吉宗が将軍だったのは本当に幸運だった。無能な将軍であれば忠相も才覚を発揮できずに終わっただろうし、吉宗もまた忠相という有能な部下のおかげで改革の中身が充実した。この2人が同時代に生きてて本当に良かった!

※寺社奉行時代の忠相の日記『大岡忠相日記』が現存している。
※“大岡裁き”を描いた読物『大岡政談』は残念ながら大半が創作。
※墓は豊川稲荷の他に、高野山、茅ヶ崎市堤の窓月山浄見寺。時代劇ファンだけでなく消防関係者も訪れている。



★遠山“金四郎”景元/Kagemoto Toyama 1793.8.23-1855.2.29 (東京都、豊島区、本妙寺 61歳)1991&2006&2010









時を超えてお茶の間のヒーローに!

1991 金さんには、やはり
このポーズを奉納しなくては!
2006 五輪塔が金さんの墓


 
2010 爽やかな青空が金さんにはよく似合う

幼名、金四郎。旗本の家に生まれながら、養子の兄が家督を継ぐことになっていたため、若い時分に放蕩三昧の生活を送った。遠山金四郎景元は、この時期に桜吹雪の入れ墨を背中一面に彫ったといわれている。32歳のとき兄が他界し、景元は家に連れ戻される。
江戸後期、老中・水野忠邦は天保の改革で、贅沢禁止と風紀の乱れを正すという理由から、庶民の最大の娯楽だった歌舞伎や浮世絵を弾圧した。この時、庶民サイドに立って幕府側と交渉し、芝居小屋を江戸に残させたのが、改心して北町奉行となっていた金四郎だった。水野忠邦が出稼ぎ農民を江戸から追放しようとしたときも、景元の尽力で「世帯持ちは江戸に残っていい」と条件を緩和させた。
町奉行といえば、都知事、裁判官、警視総監、消防総監を合わせたような要職。旗本のトップだ。そんな人が庶民の味方になって幕府側と交渉したということで、江戸っ子は拍手喝采した。後に南町奉行を歴任し、大岡越前守に次ぐ名奉行となった。晩年は帰雲(きうん)という号で俳句を書くなどのんびり余生を送り、町奉行の引退から3年後に亡くなった。引退時に詠んだ句は「天(あま)つ空 照らす日影に曇りなく 元(もと)来し山に帰る白雲(しらくも)」。引退する自分を山に帰る白雲に例えている。13年後、時代は明治になった。
※身長は約173cmでかっぷくが良く当時ではかなりの巨漢だった。
※奉行職は激務。朝6時から会議があり、10時から江戸城に登城、14時からお裁き、16時から深夜まで書類の決裁をしていた。北町奉行所と南町奉行所は月ごとの交代制になっていたが、あくまでも訴えを受理しないというだけで、どちらの奉行所も毎日稼働していた。
※引退後は家に狩野派の絵師を呼んで美術鑑賞に興じたという。
※墓前の石灯籠は、向かって左側が奉行所の部下たちが寄進したもの、右側は町人を代表する町年寄たちが寄進。多くの部下や町人に惜しまれて亡くなった。



★長谷川 平蔵(鬼平)/Heizo Hasegawa 延享2年(1745年)-寛政7年5月19日(1795年6月26日) (東京都、新宿区、戒行寺 50歳)2010

 

供養碑が建つ戒行寺の山門 『鬼平犯科帳』の鬼平のモデル 「長谷川平蔵宣以供養之碑」

火付盗賊改(ひつけとうぞくあらため)方の長、火付盗賊改役。江戸中期の旗本(父は400石)。名は宣以(のぶため)。人情味のある仕事振りに江戸っ子は「本所の平蔵さま」「今大岡」と讃え、盗賊たちは取締りの厳しさ、敏腕ぶりから「鬼の平蔵」と恐れた。池波正太郎の小説『鬼平犯科帳』の主人公「鬼平」として知られる。若い頃は風来坊で遊郭にもよく通った。1774年(31歳)、将軍世子の警護役に任ぜられ、1787年(42歳)、火付盗賊改役に就任。1789年(44歳)、関東の大盗賊・神道徳次郎一味を一網打尽にし、人々から喝采を受ける。
1790年(45歳)、更生施設である人足寄場を開設し、軽犯者や無宿者を収容し職人技能を身に付けさせた。また、施設の少ない予算を相場投機で増やす手腕を見せる。翌年、凶悪盗賊団の首領・葵小僧を斬首。
1795年、火付盗賊改役の退職3カ月後に他界。死の直前、11代将軍・家斉から薬を賜った。享年50。戒名は「海雲院殿光遠日耀居士」。嫡子長谷川宣義が家督を継ぐ。後世、江戸町奉行となる遠山景元が宣以の住居跡に住んだという。
※テレビドラマ『鬼平犯科帳』の冒頭ナレーション「いつの世にも悪は絶えない。その頃、徳川幕府は火付盗賊改方という特別警察を設けていた。凶悪な賊の群を容赦なく取り締まるためである。独自の機動性を与えられたこの火付盗賊改方の長官こそが長谷川平蔵、人呼んで鬼の平蔵である」。



★ワイアット・アープ/Wyatt Earp 1848.3.19-1929.1.13 (米国、サンフランシスコ 80歳)2000&09
Hills of Eternity Memorial Park,Colma,San Mateo County,California,USA






2000 花もなく少し寂しいアープの墓


約10年後に再訪。花がいっぱい!天気も良く
前回とは印象が全く異なる(2009)

墓前にはミニボトルや無数のコイン。碑文は
「That nothing's so sacred as honor,
and nothing so loyal as love!」とあった

1881年10月、彼は親友ドク・ホリデーと共にOK牧場に向かって悪党たちと決闘し、そしてやっつけた。映画の
モデルにもなった有名な保安官なのに、サンフランシスコの観光局員は墓の存在を知らなかった!(けしからん!)



★ドク・ホリデイ/John Henry“Doc” Holliday 1851.9.14-1887.11.8 (USA、コロラド州 36歳)2009
Pioneer Cemetery, Glenwood Springs, Garfield County, Colorado, USA

 

“OK牧場の決闘”で保安官ワイアット・アープと共に戦ったガンマン。歯学博士の免許を持っていたので“ドク”と呼ばれていた。肺結核で他界。



★バッファロー・ビル/William 'Buffalo Bill' Cody 1846.2.26-1917.1.10 (USA、コロラド州 70歳)2009
Buffalo Bill Memorial Museum, Golden, Jefferson County, Colorado, USA

  
小さな白い石が集まり墓になってた。見る者が移動するにつれ、太陽が反射してキラキラと光る。こんな墓は初めて!

本名ウィリアム・フレデリック・コーディ。ガンマンから西部劇アトラクション「ワイルド・ウェスト・ショー」の興行主となり大成功を収める。



★エリオット・ネス/Eliot Ness 1903.4.19-1957.5.16 (USA、オハイオ州クリーブランド 54歳)2009
Lake View Cemetery, Cleveland, Cuyahoga County, Ohio, USA  Plot: Section 7, Lot 8 against Dempsey Pond


 
池のほとりにポツンとたたずんでいる 遺灰が撒かれた場所にこの墓石が建てられたという

エリオット・ネスは禁酒法時代にアル・カポネと死闘を繰り広げた捜査官。
映画『アンタッチャブル』ではケビン・コスナーが演じた。宿敵カポネの墓はコチラ




★宝蔵院 胤栄/Inei Hozoin 大永元年(1521年)-慶長12年8月26日(1607年10月16日) (奈良県、奈良市、東山霊苑 86歳)2010


僕は当初、この東側の東山霊苑を探していた。
いくら探しても見つからず泣きそうに
30分以上経過してから東山霊苑が200m北西にもう1箇所あることを知った。
白毫寺のバス停からだと、写真の左に映ってる林の裏側が墓地になる


民家と林の間の細道に入っていく 「白毫寺」「覚禅房胤栄の墓」の道標 ゆるやかな坂道を登っていくと墓地が右手にあり、2つめの「胤栄の墓」道標

墓地に入ると3つめの「胤栄の墓」道標 さらに進むと4つめの「胤栄の墓」道標 さして最後に5つめの「胤栄の墓」道標



ついに胤栄さんに謁見!左後方は弟子の胤舜! 「宝蔵院流槍術累代之墓所」全景 奈良市の中心から4kmほど離れており山も近い

墓前の顕彰碑。没後400年(2007)に建立 墓石は古かったが土台は補修された様子
帰りに竹林の中に6つめの案内板を発見。多い(笑)

槍先が十字になった“十文字槍”を使った宝蔵院流槍術(そうじゅつ)を創始。別名・覚禅房胤栄(かくぜんぼう・いんえい)。奈良興福寺の僧兵で、興福寺・宝蔵院の院主。剣聖・上泉信綱のもとで修行中の柳生石舟斎(柳生新陰流)から誘いを受けて、胤栄も信綱に弟子入りした。胤栄はまた、天真正伝香取神道流・大西木春見からも大きく影響を受けた。
十文字槍(十文字鎌槍)は攻防のどちらにも優れ、「突けば槍、薙げば薙刀、引けば鎌、とにもかくにも外れあらまし」と讃えられた。胤栄の槍術は、2代目胤舜、3代目胤清、4代目胤風へと継承され、江戸時代に日本最大の槍術流派となった。現在は宝蔵院流高田派に一部が現存している。
 
墓の場所は要注意!白毫寺町の東山霊苑にあるんだけど、この霊苑は東西に別れてます!胤栄が眠っているのは西側。正確にはメインの墓地(東)から北西に200m離れた飛び地っす。白毫寺の旧墓地らしく、僕はさんざん迷い、最終的に市役所に電話して文化に詳しい職員さんとケータイで連絡をとりながら墓前にたどり着いた!(帰り道で分かったんだけど、『白毫寺』バス停のすぐ近くだった)



★宝蔵院 胤舜/Inshun Hozoin 天正17年(1589年)-正保5年1月12日(1648年2月5日) (奈良県、奈良市、東山霊苑 59歳)2010 




歴代宝蔵院の墓所に眠る 墓石の中央に「胤舜(いんしゅん)」の名があった 胤舜〜『バガボンド』第5巻

胤舜の斜め前の大きな墓が師匠の胤栄! 墓所は高台にあり奈良の山が見える

2代目宝蔵院流として、師の胤栄が考案した十文字鎌槍の槍術を発展&完成させ、宝蔵院流槍術を江戸期に日本最大の槍術流派へ
成長させた。宮本武蔵との対決で有名。元は山城国の郷士で奈良興福寺の宝蔵院・院主となった。裏十一本式目を制定。




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