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小川のせせらぎが響く美しい朝 (2016) |
大きな「宮本武蔵生誕地」碑 |
宮本武蔵生家。1942年に火災にあい再建 されたが、大黒柱の位置は同じという |
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生家の手前に「吉川英治先生文恩記念碑」 | 武蔵の追善碑 | 二天(二刀)の構えの青年期武蔵像(モデルは萬屋錦之介?) |
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生家に近い武蔵神社 | 武蔵神社の拝所 | 肖像画のほか「御竹刀納所」もあった |
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武蔵神社境内の墓地に武蔵(左)と 両親(平田無二斎、お政)の墓が並ぶ |
「宮本武蔵の墓」。熊本の 本墓から分骨したという |
境内の「佐々木小次郎外六十余名供養塔」。敗者を弔う優しさに感動した |
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実は前日に来たものの道に迷って夜になり 案内して下さった地元の方が「えっ、いま 墓地に行っても真っ暗で何も見えないよ」と |
スマホのライトで探し出しなんとか墓参できた ものの、当時子どもは小学1年生。さすがに 怖がってソウルトークどころじゃなかった ので、付近で一泊して翌朝戻って来ることに |
近隣の武蔵武道館でお風呂に入った後 「じきに夜明けになるから」と車中泊。 この日は脱輪騒ぎもあった。おつかれさん! (2016) |
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有馬喜兵衛「誰でもかかってこい」 | 最初の決闘の舞台となった金倉橋(2016) | 橋のたもとに「武蔵決闘の地」記念碑 |
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下関の唐戸からこの船で渡る | 島を出る最終便に乗り遅れると野宿に! | 約10分で巌流島が見えてきた! |
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島内案内図。茶色の部分は埋立地 | 武蔵も使った伝馬船(てんません) | 関門海峡を前にしたモニュメント |
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躍動感のある「小次郎・武蔵像」。これを見るだけでも上陸する価値あり! |
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武蔵ファンの聖地・武蔵塚公園へようこそ | コワモテの武蔵像がお出迎え | 二刀を持つ武蔵 |
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二天一流の基本、五方の形を図説 | 死期を悟った武蔵が記した21箇条の独行道 | 五輪書全五巻を要約して解説! |
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武蔵は甲冑を着て立ったまま埋葬されている(2000) | 8年ぶりの再会!新免武蔵殿、お久しゅうございます!(2008) |
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ちょうど“武蔵”の文字に 陽が差した瞬間を激写! |
墓の側には武蔵自筆の独行道が碑文に! |
熊本市立田自然公園の供養塔 |
ペットボトル“二刀流”で戦うも、秒殺される(2000) |
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『枯木鳴鵙図』 | 『鵜図』 |
「我以外みな師なり」。江戸初期の剣豪で播磨出身(出生地は諸説あり)。父親は十手使いの達人であり、武蔵も若い頃から全国を武者修行してまわった。13歳から他流試合をおこない、京都で剣士・吉岡清十郎に、奈良で槍の名手宝蔵院に、伊賀で鎖鎌の達人宍戸梅軒に、江戸で柳生一派の大瀬戸隼人たちをことごとく打ち破る。そして1612年、20代の最後に下関の巌流島(船島)で佐々木小次郎との一戦に勝利し、これをもって果たし合いから身を退く。この有名な小次郎との戦いは、江戸時代に早くも歌舞伎や浄瑠璃で描かれている。13〜29歳の決闘の総計は60試合。武蔵は二刀を活用した二天一流兵法を編み出して、そのすべての対戦に勝利した。
だが、それだけの腕を持っていても、武蔵にはなかなか諸大名から剣術指南役の声が掛からなかった。17歳の時に関ヶ原の戦に西軍として出陣した経歴が、徳川の治世でネックになっていたのだ。31歳で大坂冬の陣及び夏の陣に続けて参戦し、53歳で島原の乱にも出陣し武功をあげたが人生の転機とならず、1640年、56歳になってようやく熊本藩に客分として招かれ生活の安定を得た。以降、彼は藩主細川忠利(細川ガラシアの長男)の求めでもあった兵法書の執筆に励む。翌年『兵法三十五箇条』を書き上げ、59歳からは岩戸山観音で坐禅の日々に入り、二天一流の兵法を地水火風空の五輪にたとえて奥義を説いた『五輪書』を完成させる。没する直前に自戒の書『独行道』21箇条を残し、61歳で永眠した。 ※僕は初めて『独行道』に触れた時、19番目の項「仏神を尊び、仏神を頼らず」にキョーレツに胸を打たれた。衝撃的だったと言ってもいい。これは僕に“仏神を頼らない”という宗教観を植えつけた。死を目前にした人間がこのような言葉を書き記す…この武蔵の強さにハートがしびれまくった! 出世街道から外れていた彼は、自分の魂を見つめる禅世界に傾倒し“剣禅一致”の境地に到達する。書や連歌、茶の湯や金細工の腕もなかなかと聞くが、中でも『枯木鳴げき図』『鵜図』などの水墨画はイブシ銀の味わいがあり、実にもって魅力的!その確かな技巧は趣味という範囲を越えたものだ。 墓所は熊本駅から車道に沿って15分ほど歩いた武蔵塚公園にある。そこはかつて参勤交代の沿道で、彼の遺体は本人の希望で、鎧兜など甲冑を着込んだ出陣時の正装で「立ったまま」埋葬された。武蔵は浪人生活を送っていた自分を召抱えてくれた細川氏を、死後も見守り続けるつもりだったんだ。武蔵塚公園は林や池のある美しい公園で入場は無料。園内には大きな墓の他に、二刀流の武蔵の銅像、五輪書の解説コーナー、『独行道』21箇条の全文を直筆から起こした碑などがある。 ※生誕地の伝承がある岡山の武蔵神社の墓に、養子・宮本伊織の手で熊本から分骨されたという。 ※武蔵の墓は熊本だけで島崎、泰勝寺、八代城内、岩戸観音にあり、他県では岡山の宮本村(武蔵神社)、千葉の徳願寺、名古屋の新福寺、小倉の延命寺にもある。延命寺の墓碑は養子の宮本伊織が建立した。
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ちなみにこちらはライバルの 佐々木小次郎像!(福井市) |
中央右奥に一乗滝が見える。小次郎はこの滝で 修行を積んで、奥義「燕返し」をあみだした |
落差12m。真夏でも涼しい♪ |
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巌流島の「佐々木巌流之碑」(2016) | 「小次郎・武蔵像」。“武蔵・小次郎像”ではない(巌流島) |
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小次郎の墓が山口の山中にある経緯が記されている。妻のユキが遺髪を納めた |
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ここまで遠かったがもう一息だ | 山道を進みゆく | この中に小次郎の墓がある |
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菩薩が彫られている。ユキはキリシタンから尼になったという | 側面に「佐々木古志らう」 |
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2001 | 2006 | 2010 |
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こちらは東京・雑司が谷霊園の千葉家墓地(2010) |
左が弟・定吉、右が定吉の子・重太郎。 重太郎が龍馬に剣術を指南した |
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専称寺は東京のド真ン中 | 寺の背後に墓域 | 墓地の後方は六本木ヒルズ! |
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墓前には命日に近い特定日(後述)しか行けないので塀の外から望遠で激写! 官軍をはばかったのか幼名の「沖田宗次郎」と彫られている(2000) |
再巡礼。あれ?沖田家の 水桶がないですね(2009) |
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お寺の前から既に異様な熱気! | 巡礼者の行列!墓地に入るまで30分以上並んだ | 墓地の中も墓前まで人がいっぱい! |
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うおおおおお!やっと沖田君に会えたーッ!個人的に超貴重な墓参写真なので3方向から激写!(2010) ※「新選組友の会」が開催する「総司忌」は毎年日程が変わるのでリンク先で要確認! |
右隣に建つ「沖田家累代之墓」。 総司の名もある |
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終焉の地となった台東区の今戸神社。当地に住む医者が看病していた | 余談だが、この神社が“まねき猫”発祥の地 |
江戸麻布にて奥州白河藩士・沖田勝次郎の家に生れる。本名春政、後に房良。幼名は宗次郎。幼くして父母を失ない11歳年上の姉ミツに育てられる。9歳の時に道場住み込みの門人として天然理心流(試衛場)・近藤周助に入門する。剣技は「三段突き」があまりの速さで一段にしか見えぬという天才肌で、17歳で免許皆伝となり、19歳の時には塾頭かつ師範代になっていた。沖田は冗談好きでいつも明るく、後に隊士になっても往来で子どもたちと鬼ごっこをやっていたが、剣術を教える時は別人の様に短気になり、道場では近藤よりも恐れられていたという。 1863年(21歳)、浪士隊に参加し近藤勇、土方歳三らと入京。新選組一番隊隊長として、同年の八・一八の政変で南門を守衛し、9月には土方らと横暴な初代局長・芹沢鴨を暗殺する。その後も数々の戦闘に参加するが、1864年6月5日(22歳)、池田屋での倒幕派鎮圧時、肺結核で突如喀血、昏倒する。禁門の変では長州軍を撃退したものの維新への流れは止まらず、1867年に大政奉還を迎える。翌1868年、結核はさらに悪化し、正月の鳥羽伏見の戦いに出陣できず沖田は江戸に帰還、今戸神社で医者の看病をうけた。 新選組が甲陽鎮撫隊として維新軍との戦いに挑む前、沖田を近藤が見舞いに訪れると、いつもは陽気な沖田が人目をはばからずに慟哭したという。そして回復を見ぬまま、4ヵ月後の5月30日、26歳の誕生日を翌日にして夭折した。 近藤は一ヶ月前に処刑されていたが、その死は最後まで沖田に秘されていた。彼は死の直前まで「(近藤)先生はどうされたのでしょうね、お便りは来ませんか?」と、師を気遣ってばかりいたという。墓は白河藩士の檀家寺・専称寺に造られた。 沖田が眠る専称寺は地下鉄六本木駅から地上に出て、テレビ朝日通りを進んだところ。墓はかつて一年中公開されていたが、新選組がブームになる度に女性ファンが大挙して押しかけるため、対応に苦慮した寺側は一年に一度、命日の時だけ一般公開することにした。しかし、囲いの塀は低く小さな墓地なので、道路からでも沖田の墓はよく見える。小さな屋根が付いているので分かりやすい。墓前には行けないものの、遥拝は可能なのでファンの方は足を運ばれてはどうだろうか。 ※墓前まで行けるのは、年に一度の「総司忌」の午前10時から正午まで。主催は「新選組友の会」で、以前は命日の近くに「総司忌」が開催されたが、2017年は8月になったので最新日程を確認すること。 ※沖田家累代墓碑には天然理心流だけでなく北辰一刀流の免許皆伝も得ていたと記される。 ※永倉新八いわく「土方歳三、井上源三郎、藤堂平助、山南敬助などが竹刀を持っては子供扱いされた。恐らく本気で立ち合ったら師匠の近藤もやられるだろうと皆が言っていた」。 ※新選組の支援者・小島鹿之助は新選組結成前の文久2年(1862年)7月の時点で、沖田のことを「この人剣術は、晩年必ず名人に至るべき人なり」と評している。 ※尊攘派の京都西本願寺侍臣・西村兼文の沖田評「近藤秘蔵の部下にして、局中第一等の剣客なり」「天才的剣法者」。 ※池田屋事件の当日、新選組は近藤隊10名、土方隊24名に分かれて都を駆け巡った。22時過ぎ、近藤隊が旅館・池田屋に潜伏している尊攘派を発見。事態は火急であり、近藤は土方らの到着を待たずに突入を決定。近藤、沖田、永倉新八、藤堂平助のわずか4名で、志士20数名が潜む屋内に踏み込んだ。藤堂が額を斬られ、沖田が喀血し、一時は近藤と永倉の2人になるも、やがて土方隊が合流。激闘の末に、長州、土佐、熊本藩士ら9名を斬り捨て、4名を捕らえた。新選組側は裏口を守っていた3人が死亡(奥沢栄助は当日死亡、安藤早太郎と新田革左衛門は後日死亡)。翌朝、新選組は諸藩と連携して逃亡した志士の掃討戦を行い、会津藩5名、彦根藩4名、桑名藩2名の死者を出しつつも20余名の捕縛に成功した。新選組は正午に壬生村の屯所まで凱旋し、多くの見物人が沿道を埋めた。この池田屋事件で過激派志士による御所焼討ち計画を防いだ新選組の名声は都中に広まり、幕府から多額の褒賞金を賜った。 ※歴史上の人物で僕が墓前で千羽鶴を見たのは近藤、沖田、龍馬の3人だけ。 ※小説などの沖田は「凍り付くほどの美青年」だけど、肖像画はしもぶくれでパタリロ風。(映画『御法度』の沖田は、ほんとカッコ良かった!ヤマトの沖田艦長にしろ、生徒諸君の沖田君にしろ、沖田って名は妙にカリスマ性がある) |
●豆知識/新選組(新撰組)…1862年に幕府が武芸に優れた浪士を集めて作った浪士組。翌63年2月将軍徳川家茂を警固して上洛し、そのまま京都に残った芹沢鴨・近藤勇・土方歳三を中心に新選組が結成された。初代局長の芹沢鴨は目にあまる傍若無人ぶりが問題となって土方、沖田に暗殺され、これを受けて近藤が局長となる。彼らは京都守護職の松平容保の指揮のもと、京都郊外の壬生(みぶ)村に屯所を置き、治安維持を名目に尊攘・討幕志士を弾圧し、壬生浪人として恐れられた。当初20人前後だった隊員数は最盛期には約200人になった。新選組の活躍では特に1864年の池田屋事件が有名で、尊攘派志士約30名を、激闘の末殺害&捕縛し、尊攘派に大打撃を与えた。
明治元年(1868年)の鳥羽・伏見の戦で旧幕府軍として参戦するも敗北。近藤は新選組を再編して甲陽鎮撫隊を組織し、同年3月に山梨県勝沼町で官軍に抗戦するが圧倒的火力に敗れ去る。翌月千葉県流山市で近藤は捕らえられ江戸板橋で斬首された。土方は旧幕府軍として東北各地を転戦して、榎本武揚と共に箱館へ渡り、69年5月の五稜郭の戦で「ここで降伏したら地下の近藤に合わせる顔がない」と降伏を拒否、銃弾の中に特攻し戦死した。
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新選組三番隊隊長!沖田総司と並ぶ新選組きっての剣豪(2007) | 縁があって翌08年も巡礼。お変わりありませんでした |
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2007 | 2008 | 「悪・即・斬!」竹ほうきで“牙突”を奉納! |
新選組の三番隊組長、撃剣師範。特技は「左片手一本突き」で永倉新八は「沖田は猛者の剣、斎藤は無敵の剣」と評した。1863年(19歳)、新選組の前身となる壬生浪士組が結成されると斎藤は即日入隊する。最年少の隊士だったが、剣の腕をかわれて副長助勤に抜擢され、後に三番隊組長に就任した。1867年(23歳)、一時期新選組を離脱して御陵衛士となるが、盟主の伊東甲子太郎が新選組に粛清され、斎藤は新選組に復帰する(この辺の行動はナゾ)。
1868年(24歳)、戊辰戦争では各地を転戦し、近藤の死後は会津藩の指揮下で戦い続ける。やがて土方は北上したが斎藤は会津に残って戦った。降伏後は改易された松平家と共に下北半島へ移り、結婚して東京に移住、警視官となった。1877年(33歳)、警視局の警部補に就任。西南戦争では警視官によって編成された別働第3旅団に所属し、卓越した指揮能力と猛剣で敵を蹴散らした。1891年(47歳)に警視庁退職し、1915に胃潰瘍で他界する。享年71歳。動乱の時代を生き抜いた。
※マンガ『るろうに剣心』では主人公の好敵手。 |
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道路から見える石標『上泉伊勢守墓所』 | 屋外に立つ剥き出しの仁王像は珍しい | 『剣聖 上泉伊勢守藤原信綱』顕彰碑 |
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境内の『剣聖 伊勢守・生誕の里』 | 『上泉伊勢守之墓所』 |
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寺墓地の奥の方 | 信綱の墓域は整備されている | 風化が進み文字が読めない |
剣聖。兵法家。日本剣術の中心的流派・新影流の始祖で竹刀を考案した。弟子には柳生石舟斎(=柳生宗厳、柳生新陰流開祖)、宝蔵院胤栄(宝蔵院流開祖)などそうそうたる顔ぶれが並ぶ。上野国(こうずけのくに)上泉城城主、上泉秀継の子で、当初の名は伊勢守秀綱、のちに武蔵守信綱と称した。上野国箕輪城の城主長野業政の家臣となり、若い頃から槍を得意とし「上野国一本槍」と称えられた。
信綱は陰流の始祖、愛洲久忠(移香)の子の宗通のもとで陰流を習得し、戦争の段取り=軍配を小笠原氏隆(小笠原流兵法)に、そして香取、鹿島の神道流を学び『新影流(新陰流)』を開く。その後、新影流を広めるために弟子と共に諸国を巡る。京都では13代足利義輝に軍配を指導し、天皇の御前で披露した剣技が評価され従四位下を贈られた。『本朝武芸小伝』には映画『七人の侍』に登場するエピソードの原型が納められている。信綱は諸国遍歴中に子供を人質にとった盗賊による農家立てこもり事件に遭遇した。この時、信綱は頭を剃って僧に扮し、2個のオニギリを手に農家へ接近すると、盗賊と子供に投げ与えたという。そして、空きっ腹の盗賊がオニギリを拾おうとした一瞬をついて農家に飛び込み、見事取り押さえたという。 ※別冊宝島『最強!侍伝説』のオールタイム最強剣豪王座決定戦では1位が上泉信綱。以下、塚原ト伝(新当流開祖)、宮本武蔵、柳生十兵衛、伊藤一刀斎(一刀流開祖)、柳生宗矩、堀部安兵衛(赤穂浪士)、沖田総司(新選組)、岡田以蔵(土佐藩士)、中村半次郎(薩摩藩士)となっていた。
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鳥取駅から路線バスで簡単に行ける | 寺は墓所の他に遺品館も併設(石破氏〜) | 仇討ちの時に折れた刀を展示 | 鎖帷子もあった! |
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墓石は鳥取地震で横転。割れてしまったので網が掛かっている | 本堂にある又右衛門の位牌 |
江戸初期の剣術家。本名。荒木保知(やすとも)。伊賀国出身。12歳の時に桑名藩士・服部平兵衛の養子となり中条流剣術を身につける(一説には柳生十兵衛に新陰流を学んだとも)。故郷に戻った又右衛門は剣術の腕を買われ、29歳で大和郡山藩から剣術師範として招かれる。そんな折、妻の弟(岡山藩士)が同僚・河合又五郎に殺害される事件が起きる。義弟・渡辺数馬から仇討ちの助太刀を頼まれた又右衛門はこれを引き受け、1634年(36歳)11月7日、河合又五郎らと伊賀国上野の「鍵屋の辻」で決闘を行なった。又右衛門側は4人、河合側は11人。数の上では圧倒的に不利だったが、6時間に及ぶ激闘の結果、又右衛門たちは犠牲を1名出したものの、河合側の4人を斬り捨て(うち2人を又右衛門が斬った)、河合側は逃げ去り見事に勝利した。後世にこの敵討は「伊賀越の仇討」と呼ばれ、「赤穂浪士」「曾我兄弟の仇討ち」と並ぶ日本三大敵討の一つになった。又右衛門は事件の4年後に鳥取藩池田家に引き取られたが、鳥取到着直後に謎の急死をとげる。
※講談では又右衛門が36人を斬ったことになっている。
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この山が丸ごと墓地!発見できるのか!? | 「以蔵や〜い!」落ち葉や雑草を掻き分け探す | 細い道もいっぱい…迷う |
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うおお!この近くにいるのかッ!?高知駅に向かう バスの時間が迫ってきて諦めかけた頃に発見…涙! |
この木柱が見つかれば もうスグだぞ! |
ぐわー!岡田ばっかりだ!分かるのかッ!? |
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一番奥が以蔵だった!「岡田以蔵」ではなく「岡田宜振」で 眠ってた。1人だけ酒や花が供えられていたので分かった |
手前の水鉢に「以蔵」と書かれていることに後日気付いた。なぜか? この墓地は鬼のようにヤブ蚊が多いのだ!一瞬でも立ち止まれば たちまち十数匹が吸い始める。だから墓の周囲をグルグル回りながら 以蔵と喋ってた。※完全防備で巡礼することを薦めます! |
土佐勤王党の狂犬「人斬り以蔵」。薩摩藩の田中新兵衛と中村半次郎、肥後藩の河上彦斎と並ぶ幕末四大人斬りの一人。本名、岡田宜振(よしふる)。幕府の役人を片っ端から暗殺した。土佐勤王党の盟主、武市瑞山(半平太)に憧れ小野派一刀流剣術を習得。後に江戸で鏡心明智流剣術、豊後で直指流剣術を学ぶ(22歳頃)。武市は暗殺マシーンとして以蔵を利用。以蔵は「安政の大獄」で志士を弾圧した京都町奉行の森孫六・大河原重蔵・渡辺金三郎・上田助之丞、そして土佐藩下目付けの井上佐一郎などを「天誅」の名の下に殺害し、本間精一郎や池内大学といった意志の弱い同志を粛清した。だが以蔵は政治のことがよく分からず、性格も粗野で酒飲みだった為に、土佐藩仲間からも疎まれるようになる。![]() 以蔵は自分の剣を認めてくれる相手なら喜んで協力する子供のような性格。坂本龍馬から勝海舟の護衛を頼まれた時もこれを快諾した。勝は幕府側の人間であり、維新派志士による襲撃が実際に起きたが、以蔵は3人の暗殺者のうち1人を斬り捨てる。さらに大声で恫喝すると2人は逃げていった。この事件は勤王党の以蔵が、本来は敵である幕府の要人を守るために志士を斬るという逆の構造になった(敵も味方も斬るまさに“狂犬”)。勝が「あまり簡単に人を殺してはいけない」と以蔵を諭すと「しかし、私が居なかったら先生の首は既に飛んでますよ」と答え、勝は“一言も返せなかった”と後日振り返っている。 その後、勝は以蔵の腕に感心し、ジョン万次郎の護衛を依頼する。万次郎が建てた西洋式の墓を見物に行った時、墓地で万次郎を襲撃した暗殺者を以蔵が撃退したエピソードがあるが、中浜家の家伝では墓の完成は以蔵が処刑された後といい、誤伝の可能性が高いという。 1863年(25歳)の八月十八日の政変後、土佐勤王党は大弾圧を受け、翌年に以蔵も捕らえられ苛烈な拷問を受ける。武市は以蔵が自白することを恐れ「あのような阿呆は早くと死んでくれれば良いのに、おめおめと国許へ戻って来て、親がさぞかし嘆くであろう」と漏らす。以蔵は1年近く耐えたが遂にいっさいを自白(以蔵の口封じを考えた半平太は毒殺を考えたが実行されなかったという)。1865年5月に処刑され首を晒された。辞世の句は「君が為 尽くす心は 水の泡 消えにし後ぞ 澄み渡るべき 」。 |
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桐野利秋として知られる | 西郷の墓(右)と半次郎(桐野利秋)の墓は並んでいる | 西南戦争で散る |
薩摩の勤王の志士。雨だれが軒先から地面に落ちるまでに3度も抜き打ちができたという抜刀術の達人。1867年(29歳)、京都見廻りの最中に公武合体派の軍学者・赤松小三郎を発見し白昼に暗殺した。その大胆さから、“人斬り半次郎”と呼ばれ恐れられた。明治に入り桐野と改名。 西郷の人柄に心酔し、西南の役では薩軍総指揮官を務めた。西郷の自決を見届けると半次郎は政府軍に突撃、銃弾を頭に浴びて絶命した。怖いイメージがあるが、フランス製のオーダーメイドの軍服を着たり、フランスの香水をつけるなど洒落者だった。※戦死時は遺体から香水の香りが漂っていたと伝わる。 |
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即宗院は“非公開寺”。門前には「観光しておりません」の木札 |
境内の庭から墓地に続く道。趣があった | この先が墓地。墓参許可が出たのは奇跡! |
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左端が新兵衛!お寺の人が場所を教えてくれた | かなり風化。「田中雄平」の名で眠っている | 墓地全景。田中姓の墓が多い。新兵衛は中央付近 |
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薩摩藩士の急進的尊攘派が同じ薩摩藩士に 粛清された寺田屋事件で、「オイ(俺)ごと刺せ」 と叫んで有馬新七と共に橋口吉之丞に刺し殺さ れた道島五郎兵衛の墓(左)。右は彼の顕彰碑 |
有馬正直の墓(新七の父)。 なんと道島五郎兵衛の 正面右隣りに眠っていた。 これにはビックリ! |
奈良原喜左衛門の墓。生麦村 で行列を横切った英国人 C・リチャードソンに斬り付け、 薩英戦争の原因になった |
中井弘の墓。写真中央の 3層の石塔が鹿鳴館の 名付け親、。かなり大きい。 号は“桜洲”。隣は夫人の墓 |
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境内の裏山を登っていくと6基からなる 薩摩藩士『東征戦亡之碑』が建っている |
戊辰戦争で戦死した薩摩藩士の霊を供養するために西郷隆盛が建てた慰霊碑。 524名の名前が刻まれている。石碑建立の由来は西郷自身の揮毫によるもの |
薩摩藩の下級武士で、土佐藩の岡田以蔵、肥後藩の河上彦斎、薩摩藩の中村半次郎と並ぶ幕末四大人斬りの一人。島津織部家臣。だが、船頭の息子(ただの町人)という説もある。
1862年、30歳で京都にのぼり、上洛してすぐに安政の大獄で尊皇攘夷派を弾圧した島田左近(佐幕派の公家・九条尚忠の側近)を暗殺。島田の愛人の家を探し当てて張り込み、暗殺後は首を青竹に串刺して四条河原に晒した。その後、土佐勤王党の武市半平太と義兄弟となり、武市の依頼で岡田以蔵らと組んで、越後浪士・本間精一郎を殺害。身の危険を感じて京から逃げた町奉行与力4人(上田助之丞、渡辺金三郎、大河原重蔵、森孫六)を、新兵衛は30人の暗殺団を率いて追跡し、近江の宿屋で皆殺しにした。 翌1863年、京都御所門外の猿ヶ辻にて公卿・姉小路公知(きんとも)が暗殺された際(公知が攘夷派から転向した為という説が有力)、現場には公知が奪い取ったと見られる新兵衛の刀の鞘が落ちており、町奉行はそれを証拠に捕縛。絵に描いたような状況証拠ゆえ“でっち上げ”にも思えるが、生存者の証言と新兵衛の負傷箇所が一致した。尋問でその鞘を突きつけられた新兵衛は、奉行の脇差しを奪い取って自決する。新兵衛は愛刀を暗殺の数日前に盗まれ、公知暗殺犯ではないが盗難の失態を恥じて自刃したという説もある。真実は闇の中だ。諱は雄平。 ※五社英雄監督『人斬り』(1969)で三島由紀夫が新兵衛役を演じ、鬼気迫る切腹シーンを見せつけた。その翌年、自衛隊基地で三島は割腹した。 |
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明治維新後もトコトン攘夷派 | 佐久間象山を斬った | あの“剣心”のモデルに! |
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本門寺の「熊本県人合葬碑」 |
「合葬碑」の右手前に建つ「河上彦斎先生碑」 |
「河上彦斎先生碑」の背後に彦斎の墓。正面には戒名 の「應観法性信士」、側面に「通称高田源兵衛」とある |
尊皇攘夷派の肥後熊本藩士。幕末4大人斬りの一人で、マンガ『るろうに剣心』の主人公“人斬り抜刀斎”緋村剣心のモデル。勝海舟いわく「怖くて怖くてならなかった」。通称、高田源兵衛。元は藩の僧侶。桜田門外の変では襲撃側浪士の怪我人を江戸藩邸で手当した。色白で身長は約150cmと小柄ゆえ女性にも見えたと伝わる。剣は我流で、得意技が身長の低さを利用した低姿勢からの片手抜刀、逆袈裟斬り。 1863年(29歳)、熊本藩の親兵(しんぺい、近衛兵)選抜で才能を買われて幹部となる。同年8月18日に起きた政変で攘夷派の長州が敗北すると、彦斎は脱藩して長州に渡った。そして京から下った尊王攘夷派の公卿・三条実美を警護する。 翌1864年(30歳)、彦斎にとって兵学の師である熊本藩士・宮部鼎蔵(ていぞう)が池田屋で新選組に討たれ、仇をとるため上洛。その翌月、公武合体派かつ開国論者で西欧情勢に精通した“天才”佐久間象山(松代藩士)を暗殺する。馬上の象山を二太刀で絶命させた。だが、彦斎は殺害後に象山がどれほど大人物であったのかを知り、また象山と向き合った際に「髪の毛が逆立つような恐怖感に襲われた」ことから、以降、二度と人斬りをしなかった。 1866年(32歳)、第二次長州征伐に際し、彦斎は長州軍に加わり幕府軍を撃破する。翌年(1867)熊本に戻ったところ、佐幕派が支配していた為に脱藩罪で投獄されてしまう。獄中にいる間に、世は大政奉還を経て戊辰戦争に突入する。1868年(34歳)、熊本藩は勝ち馬に乗るべく倒幕派に寝返り、薩長と人脈のある彦斎を出獄させ協力を求めた。当初、彦斎は馬鹿らしくなって協力を断ったが、数度の説得を受けて、戊辰戦争で藩兵を率い戦場を駆けた。 維新後、明治新政府は開国路線に舵を切ったが、なおも彦斎は外国排斥、攘夷にこだわった。新政府は彦斎が外交の障害になると判断。そして、攘夷派の公卿がクーデターを企てた二卿(にきょう)事件や、長州藩の旗手・広沢真臣(さねおみ)暗殺に、“関与の嫌疑あり”とデッチ上げて彦斎を獄中へ放り込んだ。その後、彦斎をよく知る木戸孝允が「奴を放置すると国が傾くほどの攘夷事件を起こす」と処刑を命じ、1872年に斬首された。享年37歳。戒名『應観法性信士』。諱は玄明(はるあきら)。後年、冤罪が認められ罪は取り消された。 辞世の歌は3種。「君が為め 死ぬる骸に 草むさば 赤き心の 花や咲くらん」「君を思い君の御法に死ぬる身を ゆめ見こりなそつくせ世の人」「かねてよりなき身と知れど君が世を 思う心ぞ世に残りける」。 墓は品川区の東海寺少林院から本門寺に改葬され、昭和2年に慰霊碑が建てられた。仮墓が京都・霊山護国神社、京都・妙法院、熊本・桜山神社にある。 ※勝海舟によると「志士が仲間同士で“幕府側の某は許せぬ”と話していると、彦斎はその日のうちに首をとってしまう」とのこと。勝が直接会ったときに「お前は人を斬りすぎる」とたしなめると、平然として「ナスやキュウリはちぎり時がある」と答えたという。“人斬り彦斎”の異名を持つが、犠牲になった多くの佐幕派武士の名前が不明であり、確実に暗殺が分かっているのは佐久間象山のみ。 |
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眼光鋭すぎ! |
木曽福島の興禅寺には“幕末三舟”の掛け軸が 並び壮観。左から勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟。 |
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鉄舟が創建した全生庵 | 剣豪であり、書の達人であり、禅も熟知していた | 「山岡鉄舟居士の墓」と案内柱があるので分かりやすい |
剣・禅・書の達人。無刀流の創始者。勝海舟、高橋泥舟(でいしゅう)と共に『幕末三舟』と称される。通称は鉄太郎、本名は高歩(たかゆき)。江戸生まれ。10歳〜17歳まで飛騨高山で暮らす。幕臣・小野朝右衛門の5男で、母の先祖は剣豪・塚原卜伝。9歳から神陰流剣術を学び、さらに北辰一刀流剣術も習得。槍術家・山岡静山の妹と22歳で結婚し山岡家を継いだ。静山の弟は幕臣の高橋泥舟。鉄舟は幕府講武所で剣術指南役に抜擢された。 1863年(27歳)から浪士組(後に新選組)として京都に赴任するも、攘夷派の清川八郎と対立して江戸へ戻った。31歳の時に大政奉還。1868年(32歳)、徳川慶喜の恭順の意を官軍に知らせるため、勝海舟の使者として駿府(静岡)の西郷隆盛のもとへ一人で向かい「朝敵徳川慶喜家来、山岡鉄太郎まかり通る」と大声で乗り込んだ。そして西郷に徳川家存続を説き伏せ、これによって勝と西郷の会談が実現し江戸城無血開城となった(勝・西郷の会談にも立ち会っている)。明治に入って静岡、茨城、伊万里で要職に就き、1873年(37歳)からは明治天皇の侍従も務めた。静岡時代に清水次郎長と交流も持つ。 書家として100万枚書したと言われており逸話も多い。金貸しから1000円を借りた時に証文を書くよう促され、手元にあった紙に「なくて七癖わたしのくせは、借りりゃ返すがいやになる」と大書した。金貸しは唖然となってその書を知人に見せると「書といい、文句といい、まことに絶品だ。1000円でゆずってくれ」と言われ、驚いた金貸しは家宝にしたという。 1883年(47歳)、維新に散った者の菩提を弔う為に全生庵を創建。1888年7月19日、胃癌を患い、皇居に向かって座禅をしたまま絶命。享年52。戒名「全生庵殿鉄舟高歩大居士」。子爵。墓は全生庵。ちなみに禅道の弟子・三遊亭円朝の墓も同寺。 西郷の鉄舟評「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」。 |
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すぐ近くを鉄道が走っている | 慶安2年(1649)の銘があり、没年「1653年説」は間違い | 弟子・伊藤次郎助忠也建立 |
塚原卜伝、宮本武蔵と並ぶ三剣豪の一人。安土桃山時代の剣客。伊豆出身。名字は伊藤とも。名は景久。幼名は前原弥五郎。鐘巻自斎に剣法を学んで“一刀流”を興した。14歳で初勝利して以来、諸国を遍歴し33戦無敗。1578年、中国刀術の名人である唐人の十官と戦い、木刀を持つ十官を一刀斎は扇一本で倒したという。弟子に小野善鬼、古藤田俊直、神子上吉明ら。 |
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「鬼の半蔵」と呼ばれた | 皇居西側の「半蔵門」。その昔、この付近に半蔵の屋敷があったことが名前の由来だ |
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JR四ッ谷駅に近い西念(さいねん)寺。 岡崎信康菩提の為に半蔵が建立した |
家康の長男、岡崎信康の墓。半蔵は信康を尊敬して いたので、信康自刃の介錯ができなかった(西念寺) |
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1999 伊賀忍者の総帥に初巡礼! |
2009 10年ぶりに謁見。墓前に 赤い花入れが増えていた |
耳を澄ますと墓の下から 「ニンニン」と聞こえてきた |
本名石見守正成、伊賀国出身の上忍(忍者の最高位)。また徳川家康の家臣で徳川十六将の一人でもある。服部一族は元々は平家の一門だったが、屋島の敗戦後は伊賀に落ち延び、そこで忍術といわれる特殊な技術を磨き上げ、平時には行商人、山伏、旅芸人、虚無僧に扮して各地の情報収集にあたり、戦時には後方撹乱、密偵、暗殺などを行なった。忍者の流派には甲賀流、羽黒流、武田流、戸隠流、紀州流、楠流など、70前後あるが、その中で最も著名なのが伊賀流だ。半蔵は8歳から修行に入り、12歳でもう一人前の忍者になっていた。16歳の時に伊賀者を率いて敵城内に忍び込んだのが半蔵の初陣だ。通常、忍者は一人の人間に仕えず、個々に依頼主との契約によって活動していたが、半蔵は家康だけに仕えたことで家康から大きく信望を得る。39歳の時に伊賀の里は織田軍6万の兵によって大虐殺にあっており、この事からもますます家康に組したと想像される。翌年の本能寺の変の際、忍者300名を非常召集して、家康の“伊賀越え”を護衛し、伊賀から伊勢の白子港へ出て、船で三河岡崎へ無事に帰還させた。三方ヶ原の戦いや小田原攻めでも功をあげ八千石を賜わり、1590年(48歳)の家康の江戸入府後は、与力30騎、同心200人を統率し、江戸城西の口の警備を担当した。皇居西側の半蔵門は、付近に半蔵の屋敷があったことが名前の由来だ。
伊賀忍軍の総帥であり槍の名手だった彼は“鬼の半蔵”と呼ばれ武勇を誇ったが、徳川家康の長男(信康)が織田信長の謀略によって20歳の若さで切腹に追い込まれた際、介錯役を担当した彼は涙が止まらず役目を果たせなかったという(時に半蔵37歳)。この一件から世の無常を感じていた半蔵は、晩年に信康の菩提を弔うため麹町清水谷に庵を建てると仏門に帰依した。「鬼の半蔵」という言葉とは別の横顔がうかがい知られるエピソードだ。1593年(51歳)、半蔵は家康から寺院建立の内命を受けるが、完成を見ずに55歳で病没し、死後完成した寺は半蔵の出家後の号“西念”をとって西念寺とされた。1634年に同寺は江戸城の外堀拡張・新設に伴ない四谷へ移され、そのまま服部家の菩提寺となる。三葉葵の紋所をつけた西念寺には、現在でも半蔵の墓や信康の大きな供養塔があり、半蔵愛用の槍も保存されている。
※半蔵の隆盛は一代で終わった。没後に後を継いだ子の正就が傲慢なバカ息子で配下を統率しきれず、謀反にあって身分を平民に落とされ、領地・家屋敷も取り上げられた。正就は1615年の大坂の夏の陣に参戦し天王寺口で討ち死にした。 ※マンガの忍者ハットリ君の本名は服部“カンゾウ”。彼もまた伊賀者だ。
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7時 曇り |
9時 晴れ |
壮観!柳生一族が勢揃い!右から但馬守宗矩(十兵衛の父)、 十兵衛、飛騨守宗冬(弟)、柳生家歴代の墓(合葬)となっている |
弟子数、1万3千人 |
柳生宗矩(むねのり)の長男。本名、三厳(みつよし)。父から新陰流を学び、弟の宗冬と共に流派の発展に尽力する。家光が宗矩の下で剣術を磨き始めると、十兵衛がその相手役となった。19歳、家光を激怒させ解任される(理由は今も分かっていない)。その後、故郷の奈良・柳生村で新陰流の研究につとめ、31歳で幕臣に復帰。35歳、新陰流兵法の秘伝書「月之抄」を完成。十兵衛の門弟は荒木又右衛門をはじめ、門弟は1万3千人の弟子にのぼった。43歳、鷹狩中に急死する。 なぜ十兵衛の写真を2枚も載せたのかと、お願いだからオラに質問してくだせえ。柳生一族の墓石は一番上から『空、風、火、水、地』と彫られ、それはもうバリ渋じゃった。しかし、朝7時の時点の空は曇天で、陰影ゼロのショボい写真にしかならんかったのじゃ(左)。ここは日光を待つほかあるめぇ。おりしも当地は禅寺。この試練を明鏡止水の心に至る修行と、そうオラは覚悟を決めた。そして待つこと2時間、9時になってついに雲が切れたのじゃ!おお、深く陰影に富むこの荘厳なたたずまいを見よ!上から3段目『火』の文字がクッキリ見えるじゃろう!僕はこの絵(構図)が欲しかったんじゃ〜! 十兵衛の側には柳生新陰流の開祖、父・宗厳(むねよし)の他、柳生一族の墓が並んでいた。 〔 柳生一族 豆知識 〕 柳生宗厳(むねよし)1529〜1606 柳生新陰流の始祖。晩年は但馬入道、石舟斎と名乗る。奈良・柳生村出身。松永久秀や織田信長に属し、合戦に出陣すると共に武芸に励み、新影流兵法を興した上泉信綱から奥義を伝授された。そして剣法を究めた宗厳は無刀の術=新陰流を編み出す。1594年(65歳)、徳川家康に呼ばれ、京都で5男の宗矩(むねのり)と共に剣術の秘法を披露。「兵法百首」を記した。
柳生宗矩(むねのり)1571〜1646
大和国柳生藩主。幼時から父宗厳に新陰流をまなび、1594年(23歳)、京都で家康に剣術を披露し、技を褒められ側近となる。関ヶ原の戦では父と共に活躍した。50歳、3代家光の兵法師範となり、8年後に但馬守(たじまのかみ)となる。将軍家の御流儀となることで新陰流の名声は高まり、門下から多くの名手が生まれ各藩に求められて仕える者が続出し各地に流儀が広まった。61歳、新陰流の兵法論「兵法家伝書」を記し、乱世には世を治める為に殺人刀を使い、治世には人を生かす為に活人刀を使えと説く。晩年には1万石以上の大名となった。
「吾(われ) 天下統御の道は宗矩に学びたり」(徳川家光) 「人に勝つ道は知らず、我に勝つ道を知りたり」(柳生宗矩/葉隠)
「刀剣短くば一歩を進めて長くすべし」(柳生宗矩/兵法家伝書)
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西応寺の山門 | 「榊原鍵吉之墓」※場所は後方のビルを参考に | 右隣は榊原代々墓 |
幕末から明治にかけて活躍した「最後の剣客」。幕臣。江戸麻布生まれ。12歳で直心影流・男谷精一郎に弟子入り。19歳で免許皆伝となる。1856年(26歳)、幕府講武所の剣術教授方に登用され、4年後に槍術の高橋泥舟を破り徳川14代将軍家茂の個人教授を務めるようになる。32歳、師範昇進。1864年(34歳)、下谷車坂の屋敷で道場を開く。 幕末の混乱の中、1866年(36歳)に幕府遊撃隊頭取となって活躍するが、1868年(38歳)、当時5歳の徳川宗家16代当主・徳川家達(いえさと)に従って静岡に移住する。新政府には加わらず、衰退した剣術の再興と普及に努めるため、1873年(43歳)に撃剣会を発足。興行で困窮した士族を救済した。1894年に63歳で他界。法名は義光院杖山倭翁居士。稽古で長さ六尺(180cm)、重さ三貫(11kg)の振り棒を2000回も振ったという。 |
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江戸っ子に愛された名奉行 | 加藤剛の『大岡越前』 |
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「大岡越前通り」とな | 門前の石柱が「大岡越前守菩提所」と大きくアピール | 賽銭箱の代わりに巾着袋!(大岡の家紋入り) |
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境内から墓地に行こうとすると、墓地入口の門に鍵。「墓所護持のため御喜捨お願いします」とあった。つまり墓参は 有料。茅ヶ崎市が補助してあげればいいのに。喜捨して鍵を開けて貰うと大岡の家紋入りセンベエを頂けた※不覚にも 喜捨の額を忘れてしまった。確か相場が決まっていて200円だったはず。足を運ばれた方、連絡頂けると助かります〜! |
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藤原鎌足から続く大岡14代までの家系図 | この敷地に初代忠勝〜13代までが眠っている(2010) | 向かって右端の初代忠勝の墓 |
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墓前で鬼が賽銭袋を担いでた | 正面に戒名「松雲院殿前越州刺史興譽仁山崇義大居士」 | 側面に「大岡越前守藤原忠相」 |
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東京・港区の豊川稲荷(妙厳寺) | 大岡越前守忠相公御廟 | 今も多くの人が訪れる。ちなみに線香は一束50円 |
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こちらは高野山の「武蔵岩槻 大岡家墓所」(2009) | 以前は天を突くような高い卒塔婆があった(1994) |
「水戸黄門」「遠山金四郎」「“暴れん坊将軍”吉宗」と並ぶ時代劇四天王の一人、「大岡越前」こと大岡越前守忠相(えちぜんのかみただすけ)は江戸中期の幕臣。旗本の子として江戸赤坂に生まれる。9歳の時に徒頭(かちがしら、将軍外出時の道路警備)を務める親族の養子となる。1693年(16歳)、兄(忠品)が5代将軍綱吉の逆麟に触れて八丈島に流され、実父も家禄が格下げになった。1699年(22歳)、従兄弟が上役を殺害して自刃する大事件が起き、連座制で大岡一族は謹慎(閉門)となる。このショックで翌年に養父が、翌々年に実父が他界。間もなく閉門が解かれたものの、忠相は幼い2人の子に先立たれ、29歳の時に妻が病没するなど悲劇が続く。
養父の死後に家督を継いだ忠相は、プライベートの悲しみを仕事で振り払うように職務に没頭する。その忠勤振りが認められ、書院番(江戸城警備)、徒頭、使番(つかいばん、伝令将校)、目付(役人の監視)と次々と昇進を重ね、1712年、35歳で伊勢・山田奉行(三重の地方官)に就任する。彼は地方奉行として様々な訴訟を裁いたが、伊勢と松坂(紀州藩)の境界線を巡る住民訴訟で、従来の判官であれば徳川御三家の紀州・松阪側に有利な判決を下したところを、毅然として「否は松坂側にあり!」と采配し、当時紀州藩主だった吉宗は紀州側敗訴にも関らず、忠相を「権力に媚びぬ天晴れな男」と感心した。
1716年(39歳)、普請(ふしん、土木担当)奉行に昇進。この夏に吉宗が8代将軍に就任すると、さっそく翌年に忠相を江戸町奉行(治安機関のトップ)に抜擢した。時に忠相40歳。
※江戸町奉行は北と南の町奉行が一ヶ月交代で任に就いていた。忠相は南町奉行。彼らは休みの月も事件の調査や調書作りで、多忙を極めたという。
吉宗は“享保の改革”をスタートさせ、忠相も町奉行時代の20年間に、様々な行政改革を行なっている。1718年(41歳)、着任後の忠相は、まずは人命最優先として火事の多発する江戸の防災に取り組み、町火消(まちひけし)制度を制定。江戸を47区に分けて各区に町民の消防団「いろは47組」を編成した。続いて目安箱を考案、犯罪容疑者への拷問禁止、犯罪者一族への連座制廃止、経済活性化の為の株仲間公認、貨幣改鋳、物流を整備して安い商品の流通に努め、貧困者の救済の為に小石川療生所を建設した。1722年(45歳)からは、関東の農政担当・関東地方(じかた)御用掛を兼任し、飢饉に備えて甘薯(サツマイモ)栽培を研究する青木昆陽を抜擢、農業・治水に詳しい田中丘隅(きゅうぐ)を登用して新田開発を促進した。 ※小石川養生所…看病する者さえいない極貧の病人の為に、治療・入院を無料でおこなった医療施設。町医者・小川笙船(しょうせん)からの目安箱への投書がきっかけで、吉宗の意を受けて忠相が建設した。本道(内科)、外科、眼科があり、無料で薬を与える施薬院も併設された。
1736年(59歳)、20年間勤め上げた町奉行から寺社奉行へ昇進。寺社奉行は従来大名の役職であり、これは異例の栄転だった。そして1748年(71歳)、奏者番(将軍と謁見者の取次役)になると同時に、三河国(愛知・岡崎市)の1万石を領地に授かり、なんと忠相は「大名」になった!(1万石以上の領地を持つ武士が“大名”)。徳川300年の長い江戸時代を通して、町奉行から大名になったのは大岡忠相、ただ一人だけ!
1751年、6月に吉宗が他界すると、その後を追うように半年後に忠相も病没した。享年75歳。法名は松雲院殿前越州刺史興誉仁山崇義大居士。
忠相は裁判官としては権力に左右されない公正な裁きを行ない、行政官としては、人命を守る防災対策、治安維持、農民の為の治水、町民の為の流通改革、その他様々な分野で内政に手腕を発揮した。忠相が最も気力・体力の充実した壮年期に吉宗が将軍だったのは本当に幸運だった。無能な将軍であれば忠相も才覚を発揮できずに終わっただろうし、吉宗もまた忠相という有能な部下のおかげで改革の中身が充実した。この2人が同時代に生きてて本当に良かった!
※寺社奉行時代の忠相の日記『大岡忠相日記』が現存している。
※“大岡裁き”を描いた読物『大岡政談』は残念ながら大半が創作。
※墓は豊川稲荷の他に、高野山、茅ヶ崎市堤の窓月山浄見寺。時代劇ファンだけでなく消防関係者も訪れている。
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時を超えてお茶の間のヒーローに! |
1991 金さんには、やはり このポーズを奉納しなくては! |
2006 五輪塔が金さんの墓 |
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2010 爽やかな青空が金さんにはよく似合う |
幼名、金四郎。旗本の家に生まれながら、養子の兄が家督を継ぐことになっていたため、若い時分に放蕩三昧の生活を送った。遠山金四郎景元は、この時期に桜吹雪の入れ墨を背中一面に彫ったといわれている。32歳のとき兄が他界し、景元は家に連れ戻される。 江戸後期、老中・水野忠邦は天保の改革で、贅沢禁止と風紀の乱れを正すという理由から、庶民の最大の娯楽だった歌舞伎や浮世絵を弾圧した。この時、庶民サイドに立って幕府側と交渉し、芝居小屋を江戸に残させたのが、改心して北町奉行となっていた金四郎だった。水野忠邦が出稼ぎ農民を江戸から追放しようとしたときも、景元の尽力で「世帯持ちは江戸に残っていい」と条件を緩和させた。 町奉行といえば、都知事、裁判官、警視総監、消防総監を合わせたような要職。旗本のトップだ。そんな人が庶民の味方になって幕府側と交渉したということで、江戸っ子は拍手喝采した。後に南町奉行を歴任し、大岡越前守に次ぐ名奉行となった。晩年は帰雲(きうん)という号で俳句を書くなどのんびり余生を送り、町奉行の引退から3年後に亡くなった。引退時に詠んだ句は「天(あま)つ空 照らす日影に曇りなく 元(もと)来し山に帰る白雲(しらくも)」。引退する自分を山に帰る白雲に例えている。13年後、時代は明治になった。 ※身長は約173cmでかっぷくが良く当時ではかなりの巨漢だった。 ※奉行職は激務。朝6時から会議があり、10時から江戸城に登城、14時からお裁き、16時から深夜まで書類の決裁をしていた。北町奉行所と南町奉行所は月ごとの交代制になっていたが、あくまでも訴えを受理しないというだけで、どちらの奉行所も毎日稼働していた。 ※引退後は家に狩野派の絵師を呼んで美術鑑賞に興じたという。 ※墓前の石灯籠は、向かって左側が奉行所の部下たちが寄進したもの、右側は町人を代表する町年寄たちが寄進。多くの部下や町人に惜しまれて亡くなった。 |
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供養碑が建つ戒行寺の山門 | 『鬼平犯科帳』の鬼平のモデル | 「長谷川平蔵宣以供養之碑」 |
火付盗賊改(ひつけとうぞくあらため)方の長、火付盗賊改役。江戸中期の旗本(父は400石)。名は宣以(のぶため)。人情味のある仕事振りに江戸っ子は「本所の平蔵さま」「今大岡」と讃え、盗賊たちは取締りの厳しさ、敏腕ぶりから「鬼の平蔵」と恐れた。池波正太郎の小説『鬼平犯科帳』の主人公「鬼平」として知られる。若い頃は風来坊で遊郭にもよく通った。1774年(31歳)、将軍世子の警護役に任ぜられ、1787年(42歳)、火付盗賊改役に就任。1789年(44歳)、関東の大盗賊・神道徳次郎一味を一網打尽にし、人々から喝采を受ける。 1790年(45歳)、更生施設である人足寄場を開設し、軽犯者や無宿者を収容し職人技能を身に付けさせた。また、施設の少ない予算を相場投機で増やす手腕を見せる。翌年、凶悪盗賊団の首領・葵小僧を斬首。 1795年、火付盗賊改役の退職3カ月後に他界。死の直前、11代将軍・家斉から薬を賜った。享年50。戒名は「海雲院殿光遠日耀居士」。嫡子長谷川宣義が家督を継ぐ。後世、江戸町奉行となる遠山景元が宣以の住居跡に住んだという。 ※テレビドラマ『鬼平犯科帳』の冒頭ナレーション「いつの世にも悪は絶えない。その頃、徳川幕府は火付盗賊改方という特別警察を設けていた。凶悪な賊の群を容赦なく取り締まるためである。独自の機動性を与えられたこの火付盗賊改方の長官こそが長谷川平蔵、人呼んで鬼の平蔵である」。 |
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2000 花もなく少し寂しいアープの墓 |
約10年後に再訪。花がいっぱい!天気も良く 前回とは印象が全く異なる(2009) |
墓前にはミニボトルや無数のコイン。碑文は 「That nothing's so sacred as honor, and nothing so loyal as love!」とあった |
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小さな白い石が集まり墓になってた。見る者が移動するにつれ、太陽が反射してキラキラと光る。こんな墓は初めて! |
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池のほとりにポツンとたたずんでいる | 遺灰が撒かれた場所にこの墓石が建てられたという |
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僕は当初、この東側の東山霊苑を探していた。 いくら探しても見つからず泣きそうに |
30分以上経過してから東山霊苑が200m北西にもう1箇所あることを知った。 白毫寺のバス停からだと、写真の左に映ってる林の裏側が墓地になる |
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民家と林の間の細道に入っていく | 「白毫寺」「覚禅房胤栄の墓」の道標 | ゆるやかな坂道を登っていくと墓地が右手にあり、2つめの「胤栄の墓」道標 |
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墓地に入ると3つめの「胤栄の墓」道標 | さらに進むと4つめの「胤栄の墓」道標 | さして最後に5つめの「胤栄の墓」道標 |
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ついに胤栄さんに謁見!左後方は弟子の胤舜! | 「宝蔵院流槍術累代之墓所」全景 | 奈良市の中心から4kmほど離れており山も近い |
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墓前の顕彰碑。没後400年(2007)に建立 | 墓石は古かったが土台は補修された様子 |
帰りに竹林の中に6つめの案内板を発見。多い(笑) |
槍先が十字になった“十文字槍”を使った宝蔵院流槍術(そうじゅつ)を創始。別名・覚禅房胤栄(かくぜんぼう・いんえい)。奈良興福寺の僧兵で、興福寺・宝蔵院の院主。剣聖・上泉信綱のもとで修行中の柳生石舟斎(柳生新陰流)から誘いを受けて、胤栄も信綱に弟子入りした。胤栄はまた、天真正伝香取神道流・大西木春見からも大きく影響を受けた。
十文字槍(十文字鎌槍)は攻防のどちらにも優れ、「突けば槍、薙げば薙刀、引けば鎌、とにもかくにも外れあらまし」と讃えられた。胤栄の槍術は、2代目胤舜、3代目胤清、4代目胤風へと継承され、江戸時代に日本最大の槍術流派となった。現在は宝蔵院流高田派に一部が現存している。 墓の場所は要注意!白毫寺町の東山霊苑にあるんだけど、この霊苑は東西に別れてます!胤栄が眠っているのは西側。正確にはメインの墓地(東)から北西に200m離れた飛び地っす。白毫寺の旧墓地らしく、僕はさんざん迷い、最終的に市役所に電話して文化に詳しい職員さんとケータイで連絡をとりながら墓前にたどり着いた!(帰り道で分かったんだけど、『白毫寺』バス停のすぐ近くだった)
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歴代宝蔵院の墓所に眠る | 墓石の中央に「胤舜(いんしゅん)」の名があった | 胤舜〜『バガボンド』第5巻 |
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胤舜の斜め前の大きな墓が師匠の胤栄! | 墓所は高台にあり奈良の山が見える |
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