超クールなマイルス! | 2000 とても巨大な墓石!名曲『SOLAR』の楽譜 | 2009 再巡礼!お久しぶりです! |
2017年はジャズ演奏が初めてレコーデイングされた1917年からちょうど100周年にあたる。「この音楽スタイルも半年後には時代遅れになる。半年も前と同じことはやれない」。即興演奏の可能性を生涯にわたって探究し、ハード・バップやクール・ジャズを創造、「帝王」と呼ばれたアメリカのジャズ・トランペッター、マイルス・デイビス。その音色は人の心に潜む孤独感に訴え、「卵の殻の上を歩くような繊細な音」と絶賛された。1926年5月26日にイリノイ州にて出生。身長167cmと小柄。父は裕福な歯科医、母は音楽教師。幼少期からラジオでトランペットに憧れ、13歳の誕生日に父からトランペットをプレゼントされると、すぐさま本格的に練習を始めた。ハイスクールではブラスバンドのリード・トランペッターとして活躍する。「白人のバンドはすぐに聞き分けられたよ。理屈じゃないんだ。白人の音は体に入ってこない。それで黒人のトランペット奏者に憧れた」。 1941年、高校在学中に15歳でセントルイスのクラブでジャズ・オーケストラのトランペッターとしてデビュー、スウィングジャズの演奏に明け暮れた。1944年(18歳)、高校卒業の直前、ビリー・エクスタイン楽団に病欠のトラッペッターの代役で出演し、まったく新しい演奏スタイル=ビバップ(コードを分解したアドリブ重視の高速演奏)の生みの親、トランペット奏者ディジー・ガレスピー(当時27歳)とサックス奏者チャーリー・パーカー(同24歳)の2人の演奏を目撃する。ビバップは既成の楽譜に従わず、最初に短いテーマを演奏した後にメンバーが高速アドリブで曲を創っていった。「ディジーは信じられないほど凄かった。チャーリーもだ。ブッ飛ばされたみたいな衝撃だった。あんな凄い音は聴いたことがなかった」。 当時ニューヨークではスウィングジャズがビバップに飲み込まれつつあると知り、1944年秋、マイルスは「音楽学校で学びたい」と父親を説得してニューヨークに出た。名門ジュリアード音楽院に入学し、夜になるとビバップ誕生の聖地、ジャズクラブ『ミントンズ』や52丁目でビバップ奏者を探したが、パーカーは重度の麻薬中毒でなかなか会えなかった。ようやく探し当てると、パーカーはアルコールとドラッグでボロボロ、住む場所もなかったので、マイルスのアパートで一緒に暮らすことになった。「チャーリーは確かに天才だったがとんでもないヤツだった。俺から金を借りては酒かクスリに使っていた」「人間としてというよりは、ミュージシャンとして尊敬していた」。この共同生活は一年続く。パーカーは勝手にマイルスのスーツケースを質入れしてドラッグを買ったりしたが、マイルスにとっては天才の近くで音楽を学べる貴重な時間だった。 とはいえ、チャーリー・パーカーはサックス奏者。マイルスの目標はトランペットのディジー・ガレスピーであり、ジャズクラブでディジーのアドリブ演奏を聴いてはコードやフレーズをその場で書き写した。昼はジュリアードで音楽の基礎を学び、夜はビバップの奏法を研究した。 1945年春、ニューヨークで生活を初めて半年後、少しずつステージに上がらせてもらえるようになる。だが、ディジー、パーカー、コールマン・ホーキンズらビバップの代表的ジャズメンと共演するも、マイルスはディジーのような高音・高速の演奏が出来ず存在感を出せなかった。ある男性ヴォーカルのバックバンドとして初めてレコーディングにも参加したが、極度の緊張で上手く吹けなかった。「ものすごく緊張してロクに吹くことも出来なかった。俺の初レコーディングは思い出したくもないものだった」。マイルスはステージに上がるのをしばらく止め、客席で他人の演奏に耳を傾け、自らの方向性を模索した。 ディジーは高い音域を保ちながら機関銃のように音を出したが、その為には強い息を吹き続け、唇を極端にすぼめていなければならない。少しでも唇が緩むと音程が下がってしまう。マイルスは唇の筋力が弱く、小柄で肺活量も少ないため、高音域を持続できなかった。同年夏、ディジーになれないと悟ったマイルスは落胆し、ジュリアードも退学した。そんな彼に父親はこうアドバイスした「他人の真似ではなく、自分だけのサウンドを身に付けるんだ」。 同年秋、マイルスは音楽家組合に加入し、プロとして活動を開始。チャーリー・パーカーに指名されて、パーカーのバンドでディジー・ガレスピーの後任におさまったが、当初は荷が重く「もう脱退していいか」といつもパーカーに聞いていた。「パーカーの演奏はすごく速くて一晩で辞めたくなったよ。それに俺に後を任せて彼は引っ込んじゃうんだ」「みんな速く吹くことばかり考えていたが、俺は嫌だった。コードの中の重要な音を大切にしたかったんだ」。 1945年11月26日、パーカーのアルバム『ザ・チャーリー・パーカー・ストーリー』に参加、これがプロ初のレコーディングとなった。メンバーにはディジーやドラムのマックス・ローチらビバップの名手が集まった。マイルスは19歳ながら自分流の表現で収録に挑んだ。サウンドの“間”を大切にして演奏に緩急を与え、場に緊張感を生み出した。また、当時ビバップでは他人のソロが完全に終わるまで次のソロは割り込まなかったが、マイルスはあえて異なるコードでソロを重ねて新しい効果を出した。そしてもうひとつ、ミュート(弱音器)をわざと壁にぶつけてボコボコにヘコませて反響音を変え、自分だけの音が出るように工夫した。唇の弱さをカバーするためにパーカーの薦めでミュートを使い出したが、それをトレードマークに変えた。マイルスは高音域を出す技術を競うのではなく、深みのある音で聴く者の心を捉えようと決め、その結果自信を持って演奏できるようになった。1947年(21歳)、『FIRST MILES』で初のリーダー・レコーディング。 1949年(23歳)、マイルスはトランペットは中音域が最も美しいと確信し、また“口ずさめるフレーズ”を大切に考えた。そして、歌心のある名オーケストレーター(編曲家)のギル・エバンス(当時37歳)をアレンジャーに迎えて9人編成のコンボを結成し、歴史的アルバム『クールの誕生』を発表する(ドラムはマックス・ローチ)。当時人気を集めていたハイトーン&スピーディーなビバップと対照的な、無駄な音をまったく出さない抑制のきいた新スタイルを確立した。このアルバムから“クール・ジャズ”という言葉が生まれ、その後の白人ジャズメンを中心としたウェスト・コースト・ジャズに大きな影響をあたえた。「ギル・エバンスとデューク・エリントンは色んな楽器を自由自在に鳴らすことができる。特にギルは、彼のスコアはもうそれだけでクールだ。反進行ひとつとっても素晴らしいし、楽器全体のあの響き方。彼は名匠だよ」。 4歳年下のソニー・ロリンズ(サックス)、7歳年上のアート・ブレイキー(ドラム)らと共演するなど音楽活動が軌道に乗る一方で、この年にヘロイン中毒になってしまう。症状はどんどん悪化し、薬物依存から脱却するまで5年もかかった。 1954年(28歳)、薬物中毒から立ち直り、ギル・エバンスと再会。同年ホレス・シルヴァーのファンキーなピアノと合わせた『ウォーキン』が高く評価され、ハード・バップのトップ・アーティストとしての地位を固める。12月24日に異なる音楽観のピアニスト、セロニアス・モンクと緊張感溢れるセッションを行いアルバム『バグス・グルーヴ』『マイルス・ディヴィス アンド モダン・ジャズ・ ジャイアンツ』に収める。この収録時、マイルスがモンクに「“ザ・マン・アイ・ラブ”を演るときは、俺のバックでピアノを弾かないでくれ」と言ったことから“喧嘩セッション”と呼ばれているが、マイルスは後年「ディジー・ガレスピーとセロニアス・モンクが俺の先生だった」と語るようにモンクを尊敬しており、喧嘩ではないという。この演奏にはソニー・ロリンズ、ミルト・ジャクソン(ビブラフォン)らが加わった。 1955年(29歳)、チャーリー・パーカーが34歳で他界。2カ月後、サックスのいないワンホーンのアルバム『ザ・ミュージング・オブ・マイルス』(MUSING=沈痛)を制作。この年、同じ29歳の天才サックス奏者ジョン・コルトレーンがバンドに加入し、マイルス、コルトレーン、レッド・ガーランド(ピアノ)、ポール・チェンバース(ベース)、フィリー・ジョー・ジョーンズ(ドラム)の5人編成コンボ“黄金のクインテット”が誕生、名盤『ラウンド・アバウト・ミッドナイト』を制作する。 1956年(30歳)、喉の手術後にハスキーボイスになる。2日間(5/11、10/26)でアルバム4枚分(『ワーキン』『スティーミン』『リラクシン』『クッキン』)24曲のレコーディング“マラソン・セッション”を行い、リリカルな空間を重視しつつ、すべてワンテイクで吹き込んだ。『クッキン』には人気曲「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」を収録。その後、マイルスは薬物中毒になったコルトレーンとフィリー・ジョー・ジョーンズに激怒し、それぞれソニー・ロリンズとアート・テイラーにメンバーチェンジした。後にこの2人が辞めてコルトレーンとフィリーが再加入するなど、しばらくメンバー変更が続く。 1957年(31歳)、ギル・エバンスと再びタッグを組み『マイルス・アヘッド』を発表。力強いアドリブ・ソロと和声が美しい19人のブラスバンドを合体させ、パワフルかつ均整のとれたハード・バップに方向転換、ビバップにソウル(R&B)的要素を加えた。作品は大ヒットし莫大な富をマイルスにもたらす。同年、ルイ・マル監督のフランス映画『死刑台のエレベーター』に、ラッシュ・フィルムを観ながら即興演奏で音楽をつけ、世界にモダン・ジャズの魅力を知らしめた。 1958年(32歳)、アルトサックスのキャノンボール・アダレイが加わったセクステット(6人編成)になり、『枯葉』の名演で始まるキャノンボールのアルバム『サムシン・エルス』に参加。続いて傑作『マイルストーンズ』収録。表題曲でマイルスは和声進行から解放されたモード奏法を本格的に開始した。収録時にピアノのレッド・ガーランドと意見が衝突し、2曲目はマイルス自身がピアノを弾いてる。その後、レッド・ガーランドが退団、クラシック音楽に造詣が深い白人ピアニスト、ビル・エヴァンスを迎えた。「ビルの演奏にはいかにもピアノという感じの静かな炎があった。彼のアプローチの仕方やサウンドは、水晶の粒や、澄んだ滝壺から流れ落ちる輝くような水を思い起こさせた」。マイルスはビルの才能に敬意を表していたが、ビルは黒人社会からのバッシングに絶えきれず半年ほどで退団に追い込まれ、代わりに黒人のウィントン・ケリーが参加した。同年、ギル・エバンスとガーシュウィンの黒人オペラを題材にした『ポーギーとベス』を制作。 1959年(33歳)、マイルスはビル・エバンスを一時的に呼び戻し、ジャズ史上最高の小編成グループ=マイルス・デイビス(トランペット)、ジョン・コルトレーン(テナー・サックス)、キャノンボール・アダレイ(アルト・サックス)、ビル・エバンス(ピアノ)、ウィントン・ケリー(ピアノ)、ポール・チェンバース(ベース)、ジミー・コブ(ドラム)による革命的アルバム『カインド・オブ・ブルー』を発表。ビバップに限界を感じていたマイルスは、従来のコード進行(ハーモニー)に基づくビバップのアドリブから離れ、モード(音階)に基づいてアドリブを展開する手法を打ち立てた。このモード奏法を駆使することでアドリブの自由度を高め、60年代ジャズの先駆けとなった。 音楽評論家ゲイリー・ギディンズ「ビバップは極め尽くされマンネリ化しつつあり、複雑になり過ぎたコード進行がアドリブの可能性を狭めていた。マイルスは複雑なコードを捨て、シンプルな音階を基に演奏することでより自由にメロディーを創り出せるようにした」。洗練され透明感のあるサウンドは夜の都会をイメージさせ、『カインド・オブ・ブルー』は現在まで1000万枚以上のセールスを記録、ジャズ史上最大のヒットとなった。同年、ロドリーゴのアランフェス協奏曲をギル・エバンスがアレンジした『スケッチ・オブ・スペイン』にも挑んだ。 ジャズ界でカリスマになっていったマイルスだが、人種差別には苦しめられた。「(キューバの)カストロはアメリカを批判するのに3日かかると言ったが、俺なら(人種差別問題に)2週間かかる」。1959年8月25日の夜、マイルスがNYのジャズクラブ“バードランド”で演奏を終えて外で休憩していると、白人警官から立ち去るよう命じられた。「俺はここで働いているんだ」と拒否すると、警官は警棒でマイルスを叩きのめした。頭部から流血し、バンドメンの白い背広が血に染まった。元妻フランシス・デイビス「マイルスはホテルの予約の確認をいつも恐れていました。黒人であることを理由に取り消されていないか不安だったのです。だから確認はたいてい私の役目でした。彼は黒人差別を本当に恐れていました」。 だが、その一方で、音楽性の追求のためにはビル・エバンスのように白人ジャズメンも起用した。『クールの誕生』に白人サックス奏者リー・コニッツやジェリー・マリガンを参加させたことで、黒人層から多くの批判が集まったが、マイルスは「いいプレイをする奴なら、肌の色が緑色の奴でも雇うぜ」と動じなかったという。 1960年(34歳)、コルトレーンが自身のバンドを作るため脱退。翌年にはみんな抜けたため、1963年から新メンバーのジョージ・コールマン(サックス/28歳)、ハービー・ハンコック(ピアノ/23歳)、ロン・カーター(ベース/26歳)、トニー・ウイリアムス(ドラム/18歳)で活動を開始、ニューヨークで超ハイテンションなライブ盤『フォア・アンド・モア』を収録する。翌1964年にジョージ・コールマンが抜けてサックスの名手ウェイン・ショーター(31歳)が加入し、60年代の第二期“黄金のクインテット”が結成された。マイルスはウェイン・ショーターの才能に惚れ込み、ファーストクラスの切符を送ってNYに呼んだ。「どんなミュージシャンと演奏したいか(ドラマーの)トニー・ウィリアムスに聞いたらロン・カーターと言うんで彼を入れた。それにウェイン・ショーターだ、あのワイルドな奴。コルトレーンによく似ている」。 “黄金のクインテット”は初ライブをベルリンで行い、そのクールな演奏を収めた『マイルス・イン・ベルリン』は名盤となった。まだ18歳の天才ドラマー、トニー・ウイリアムスは熱いドラミングで聴衆を圧倒した。この年マイルス初来日。 1965年(39歳)、第二期“黄金のクインテット”初のスタジオ収録となる『E.S.P.』を制作。開幕からウェイン・ショーターのサックスが気持ち良く鳴り響いた。翌年も息の合った『マイルス・スマイルズ』を収録。1967年(41歳)、共に時代を切り開いてきたコルトレーンが病死する。この年のアルバム『ソーサラー』(タイトルは“魔術師”の意)には、初めて自分が登場しない曲『ピー・ウィー』が入っており、マイルスがいかにバンドを信頼していたか分かる。次のアルバム『ネフェルティティ』の1曲目からはジャズの要であるアドリブが消えファンを驚かせた。これら新たな音の響きを模索した60年代の4枚のスタジオ・アルバムは、50年代のマラソンセッション4部作と共に人気を集めた。 ハービー・ハンコック「綱渡りをしながら音楽的実験に没頭したよ。僕らはそれを“統制された自由”と呼んだ。会話と同じことさ。誰かと話をするときに、何かを主張するつもりだったのにいつの間にか話がそれて、結局別の話に花を咲かせることがある。それはそれでいいものだ。僕らはそんなふうに音楽をやろうとした」「リズム・セクションはいくらハメを外してもグルーヴを保ってさえいれば良かった。皆がバラバラになりそうなときはマイルスがそれをまとめるんだ。すると不思議なほどグッと引き締まる。あまりにもノリがよくて、まるでエデンの園にいるみたいだった。最高に良い気分で演奏したものさ」。 1968年(42歳)、マイルスは4ビートのジャズを極めた“黄金のカルテット”を解散し、ジャズを進化させるべく、ジミ・ヘンドリックスなどロックミュージシャンと交流する。そして初めてエレクトリック楽器(電気ギター、電気ピアノ、電気ベース)と8ビートを導入した『マイルス・イン・ザ・スカイ』を発表した。 1969年(43歳)、マイルスの芸術は次の段階に進んだ。前作よりさらにエレクトリック楽器を駆使した『イン・ア・サイレント・ウェイ』を発表、チック・コリアとハービー・ハンコックが電子ピアノを弾き、フュージョンという新たなジャンルの先駆けとなった。それから半年後、この路線をさらに発展させたLP2枚組の超大作『ビッチェズ・ブリュー』を発表。キーボード3人の大型編成で分厚いサウンドを構築した。マイルスはジェームス・ブラウンやスライ・ストーンを愛聴し、エレクトリック楽器とファンク・ロックの要素をジャズに取り入れが、一部から「身売りだ」と非難され、激しい論争が起きた。 1970年(44歳)、英国ワイト島のコンサートに出演、この後ジミ・ヘンドリックスとのコラボ演奏の予定があったがジミは27歳で急死した。マイルスバンドにはキース・ジャレット(25歳)が加入し、チック・コリアとツイン・キーボードを奏でた。 キース・ジャレット「マイルスはどんな音楽も次々に過去のものにしていく。私が一緒にやっていたある晩、彼が体調を崩してバラードしか吹けなくなり、途中でステージは中止になった。何か出来ないかとそばにいたら彼が言うんだ。“俺がもうバラードをやらない理由を知ってるか?バラードが大好きだからさ”。彼はアーティストとして知っているんだ。常に先に進まねばならないと。マイルスは以前と同じプレイを繰り返すくらいなら、下手なバンドと酷い音楽をやるだろう。それが彼の創造的な本能なんだ」。同年、黒人ボクサーの伝記映画のサントラを担当、『A TRIBUTE TO JACK JOHNSON』でロックに最接近。1973年、バンドの楽器を完全に電気化したが、マイルスバンドを抜けてヒット作を連発するハービー・ハンコックやチック・コリアに比べてアルバムの売れ行きは伸びなかった。 1975年(49歳)、マイルスは再訪日し、大阪で行ったライブ録音『アガルタ』『パンゲア』を最後に“音楽を聴くのをやめた”という理由ですべての音楽活動を停止する。「突然、何も吹けなくなったんだ。(クラシック・ピアニストの)ホロヴィッツと同じだよ。彼も元気なのに活動をやめた。心機一転さ」。沈黙は5年も続き誰もが再起を危ぶんだが、1980年(54歳)にマイルスは復活した。フュージョン系の若手を従えてレコーディングを行い、翌年に『ザ・マン・ウィズ・ザ・ホーン』を発表、ツアーを再開した。1982年(56歳)、この年から絵を描き始め、同年のアルバム『スター・ピープル』のジャケット絵を自ら描いた。音楽面ではポップ色を強めシンセサイザーも使用、1985年(59歳)の『ユア・アンダー・アレスト』ではマイケル・ジャクソンやシンディ・ローパーの曲を演奏した。 1986年(60歳)、反アパルトヘイト運動でノーベル平和賞を受賞した南アのツツ大司教の名を冠した『TUTU』を発表、アムネスティ・インターナショナルコンサートに出演。1988年(62歳)、プリンスがペイズリーパークで行ったライブにゲスト出演。1990年(64歳)、東京ドームのジョン・レノン追悼コンサートでビートルズの「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」をカバーした。翌1991年、ヒップホップに接近し、ラッパーのイージー・モー・ビーをゲストに新アルバムを制作開始するも肺炎を発症、9月28日午前10時46分に他界した。巨星堕つ、享年65歳。最後に演奏した曲はロスで演奏した『ハンニバル』。このライブの後で倒れ、1カ月後に旅立った。没後、イージー・モー・ビーの手で『ドゥー・バップ』が発表される。映画音楽を含めて生涯に約70枚ものアルバムを遺したマイルスは。没後15年の2006年にロックの殿堂入りを果たし、ハービー・ハンコックが授賞式のプレゼンターを務めた。 常にジャズの最先端でムーブメントを牽引し、ジャズ界全般に絶大な影響を与えたマイルス・デイビス。そのチャレンジ精神は多くのクリエイターに勇気を与え続けている。僕は2000年と2009年にニューヨーク・ブロンクスのウッドローン墓地を訪れた。地下鉄グリーン4番線の終点Woodlawn駅で下車すると、歩いて1、2分で墓地の入口に着く。ウッドローン墓地の歴史は古く、1863年に農場が整備されNY市民の墓地になった。ここには野口英世や『白鯨』の作家メルヴィルなど著名人が多く眠り、ジャズメンではデューク・エリントン、コールマン・ホーキンス、ライオネル・ハンプトン、マックス・ローチ、ジャッキー・マクリーン、ミルト・ジャクソンらジャズ界の巨人が永眠している。160ヘクタール(甲子園球場約40個分)の広大な敷地に約30万人が埋葬されており、自力で墓を探すことは不可能、管理人事務所で地図をもらった。マイルスの墓石は巨匠デューク・エリントンの側にあり、名前に「サー(Sir)」の称号がついている。人間の背丈ほどある黒い巨石にトランペットの絵とアルバム『ウォーキン』に収められた自作「ソーラー(SOLAR)」の楽譜が彫られている。もしマイルス自身が数ある名曲の中からこの曲を選んだとすれば、薬物中毒のスランプから立ち直った際の特別な楽曲ゆえか。生涯戦い続けることを宣言した男、その誇りを感じた墓だった。 ★マイルスかく語りき ・「おい、俺のことを考えてみろ。俺はずっと、黒人のくそったれ野郎と言われ続けてきたんだぜ。黒人のくせにああだこうだと、あっちこちでな…放っておけ。相手にしないのが一番だ」(マイルス・オン・マイルス:マイルス・デイヴィス インタヴュー選集 p296) ・「この楽器は俺の声さ」 ・「ビリー・ホリディにホーンはいらない。ビリーがホーンみたいなものだからな」 ・「今生きている人間で最も大切な人を5人挙げてくれないか」と聞かれ、「僕自身と弁護士のハロルド・ロベット、ギル・エバンスと妻のフランセス。あとの一人は50歳をこえたアメリカン・ニグロなら誰でもいい。みんな白人にひどい目に遭わされたのに我慢したからさ」と回答。 ※来日公演は1964年、75年、81年、83年、85年、87年、88年、90年の8回。 ※ウィントン・マルサリス「マイルスの音楽は人の心に潜む孤独感に訴えてきます。そして誰もが同じ孤独を抱えているのだと語りかけてきます。その思いを分かち合うことで人は癒やされるのです」 ※ディジー・ガレスビー「シャイな男だったよ。ステージで喋ったためしがないだろう。曲の紹介もミュージシャンの紹介もない。プレイするだけで十分だと思ってるんだ。“音楽そのものが自分の言葉だ”とね」 ※元妻フランシス・デイビス「マイルスは独占欲が強く、“クインシー・ジョーンズってハンサムね”と言っただけで思い切り殴りつけ、このままでは殺されると思い警察を呼んだほどです」 ※ハービー・ハンコック「ボストンでマイルスに言われたんだ。“雇ってやるからステージの上で練習しろ”。そんなことを言うバンドリーダーはいなかった。観客を前にして練習するなんて危険だよ。でもマイルスが求めるのはありのままの姿だ」 ※マイルスのクールな吹き方は、NY時代の最初の親友で、35歳の若さで死んだトランペッター、フレディ・ウェブスターが原点。フレディのスタイルを発展させ、音の広がりを出した。 ※ピアニストのケイ赤城は唯一のアジア系として1989年から2年間マイルスバンドのレギュラー・メンバーとして活躍した。 ※『TUTU』に入る予定だったプリンスとのセッション「キャン・アイ・プレイ・ウィズ・U」がコレクターズ盤で出回っている。 ※マイルスはステージで観客に背を向けることが多かったが、それは“指揮者”だから。 ※『カインド・オブ・ブルー』は2曲目だけビル・エバンスではなくウィントン・ケリーがピアノを弾いている。 ※ウッドローン墓地のジャズメン区域は6000ドルから墓域を確保できるそうだ。 ※ちなみに村上春樹は『ウォーキン』をジャズのお気に入りアルバム第1位に選出。 参考資料:ドキュメンタリー『マイルス・アヘッド』(2017年の映画ではない方)、NHK『巨匠たちの青の時代 Miles Davis 帝王への扉を開けたサウンド』、『マイルス・デイビス自叙伝』、『モダンジャズ名盤500』(音楽之友社)、『ミュージックガイドブック』(ミュージックマガジン)、エンカルタ総合大百科他。 |
この木の下がジョン・コルトレーンの墓 | コルトレーン家。中央に蓮(?)が彫られていた | 左手前にジョンが眠る |
“聖者”と呼ばれた男 | 2000年の初巡礼 | 9年後、墓が新しくなっていた(2009) |
人は彼を“聖者”コルトレーンと呼ぶ。日々信じられぬほどの膨大な時間を練習にあて、その音楽に対する求道的な姿勢が「ジャズを通して“神”に近づいた男」と、ミュージシャン仲間から評された。「シーツ・オブ・サウンド」奏法を開拓し、同時代のサックス奏者に大きな影響を与えた。
1960年代のジャズをリードし、ジャズ界に革新をもたらした前衛ジャズの第一人者で、サックス奏者、作曲家のジョン・コルトレーンは、1926年9月23日にノースカロライナ州ハムレットで生まれた。フィラデルフィアの音楽学校でジャズを学んだ後、19歳でプロ活動を開始。1955年秋に29歳でマイルス・デイビス五重奏団のメンバーに抜擢され、それまでまったく無名のプレーヤーであったコルトレーンは脚光を浴びる。だが1957年(31歳)、麻薬中毒の禁断症状を紛らわせるために深酒をあおり、出演予定のステージをすっぽかすという失態を繰り返し、激怒したマイルスにぶん殴られバンドを解雇された。その後、セロニアス・モンク四重奏団に参加、モンクに音楽理論の指導を受ける。9月にブルーノート・レコードにて初期の代表作『ブルー・トレイン』を吹き込んだ。
1958年(32歳)、麻薬中毒を克服しマイルスのもとに復帰。短いフレーズを矢継ぎ早に吹き、音を敷き詰めたようなコルトレーンの独自のアドリブ奏法を音楽評論家が「シーツ・オブ・サウンド」と形容し、これが初期コルトレーンの奏法の代名詞となる。
1959年(33歳)、マイルスの名盤『カインド・オブ・ブルー』収録に参加。同年、コルトレーンは中期の代表作『ジャイアント・ステップス』を録音し名声を得た。第6曲のバラード「ネイマ」は当時の妻に捧げられた。この頃から、独自の音楽性を模索する試みが始まり、自作曲が増えていった。
※『ジャイアント・ステップス』 https://www.youtube.com/watch?v=xy_fxxj1mMY (37分32秒)
1960年(34歳)に独立し、サックスによる表現の限界を追求するため自身の四重奏団「ザ・ジョン・コルトレーン・カルテット」を結成、ソプラノ・サックスを併用し、同年秋に『マイ・フェイバリット・シングス』を録音する。タイトル曲はミュージカル「サウンド・オブ・ミュージック」の劇中曲のカバー。
※『マイ・フェイバリット・シングス』 https://www.youtube.com/watch?v=UlFNy9iWrpE (40分38秒)
1962年(36歳)、激しい演奏が特徴のコルトレーンだが、この年スロー・バラードを取り上げた“異色作”『バラード』を発表する。このアルバムは「サックスのマウスピースの調子が悪く、速いフレーズを弾けなかったため、苦肉の策としてバラード・アルバムを作った」とするエピソードがある。5曲目に「I
Wish I Knew」があり情感のこもった名盤。
※『バラード』 https://www.youtube.com/watch?v=3dKmQGJ7bw4 (32分7秒)
※『バラード』から「I Wish I Knew」 https://www.youtube.com/watch?v=ju02Q2dfYDw (4分52秒)
1964年(38歳)、芸術音楽に進化したモダンジャズの一つの到達点であり、コルトレーンが神に捧げた歴史的作品『至上の愛(A Love
Supreme)』を発表。全4パートの組曲で「承認(Acknowledgement)」「決意(Resolution)」「追求(Pursuance)」「賛美(Psalm)」で構成される。インドやアフリカの民族音楽の影響を受け、拍の一致しないリズムを同時に演奏することで独特のリズム感を生んだ。
※『至上の愛』異なるリズムを並走 https://www.youtube.com/watch?v=4cq7CzSC7u0 (33分5秒)
同年、フリージャズの先駆者オーネット・コールマン(サックス)らと共演し、フリー・ジャズの可能性に注目。即興で長大なアドリブ・プレーを展開するモード手法の実験を押し進め、フリー・ジャズへ移行していく。
1965年(39歳)、コールマンのアルバム『フリー・ジャズ』に影響を受けた大編成の演奏『アセンション』を制作し、保守的ジャズ・ファンに衝撃を与える。自身のカルテットにトランペット2名、サックス4名、ベーシスト1名を追加。コルトレーンのモード・ジャズは極限にまで達し、調性にとらわれず、あらゆるスケールを縦横無尽に扱う「無調性音楽」の色彩が濃くなっていく。
※『アセンション』 https://www.youtube.com/watch?v=-81AEUqHPzU (41分)僕は初めて聴いたときに度肝を抜かれた。一見、騒音と混乱、だが身を浸していると静寂の中にいる感覚に。
1966年(40歳)7月(他界10か月前)に来日し、記者会見で「10年後はどんな人間でありたいか」と問われ「私は聖者になりたい」と回答。
1967年5月7日、ボルチモアで最後のコンサートを行い、7月17日、創作活動の絶頂期において、志し半ばの40歳でNY市ロングアイランドにて肝臓癌のために亡くなった。最前線で活動したのはほんの10年強だったが、アルバムに換算して200枚を超える録音を残した。
没後25周年の92年、グラミー賞の生涯功労賞が授与された。
コルトレーンの決して妥協をゆるさない、緊迫し張りつめた演奏スタイルは、即興音楽に対する聴衆の意識を一変させた。インド哲学の研究などを通じて音楽の精神性を追究し、インド音楽のラーガ(インド古典音楽の旋法)を素材とした新しい表現形態を創始。音楽表現と思想表現を高次元で結びつけ、ジャズに新しい生命を与えた。晩年の演奏は高い精神性を感じさせ、スピリチュアルな楽曲は高い評価を受ける。
ジャズメンたちは、彼の演奏テクニックだけでなく、音楽と向き合う姿勢に大きく影響を受けた。その精神的な生活態度と共にジャズ界の尊敬を集め、崇拝された。コルトレーンによって、それまでナイトクラブのものだったジャズが文化的な芸術作品として認知されるようになった。その死がジャズ界に与えた損失は計り知れない。
「私は世の中に“悪”が存在していることを知っている。私は自分の創り出す音楽が、ささやかでもそれに対抗するものになれば、と思う」(コルトレーン) 「慈悲深い神の心は愛の形で示される。それが至上の愛」(コルトレーン) |
プレート式の墓の最大のメリット、それは人気(ひとけ)がない所では、この様に頭の先からつま先まで、全身で相手を抱きしめることが出来ることだーッ!これはもう、アルティメット・ミーハーがこの世で望み得る体験のうちで、最上級のもの!このままここで死んでも良いと思ったよ(2000) |
壮絶な生涯だった | よく似た墓が無数にあり、自力でたどり着くのは不可能 |
トレードマークのクチナシの花が(2000) | 墓には愛称レディ・ディの文字も刻まれている(2009) |
不世出のジャズ・シンガー、“レディ・デイ”ことビリー・ホリディ(本名エリアノーラ・ホリディ)。ボルチモア生まれ。伝記に書かれた彼女の人生はあまりに重い。15歳と13歳という“子供のような両親”の間に生まれ、6歳から掃除などアルバイトを始める。10歳の時に強姦、14歳で娼婦になり翌年に売春罪で投獄される。人種差別の厳しいテキサスで肺炎になった父親は、黒人という理由でどの病院からも冷たく閉め出され死亡。そんな地獄を見てきたホリディだからこそ、彼女が歌えば、どんな平凡なポピュラー曲でも人生の真実を照らす深遠な芸術作品になった(彼女はブルースよりポピュラー曲がメイン)。また、伴奏の音にもたれかかるような独自の歌唱法も、憂いと気だるさを含み強烈な存在感を出している。10代後半、出所後にNYハーレムのナイトクラブのオーディションに合格して歌い始めると、すぐにレコード・プロデユーサーにスカウトされる。1933年(18歳)、人気絶頂のベニー・グッドマンやカウント・ベイシー楽団と共演し一躍有名になった。ホリディのアーティストとしての高い評価を決定づけたのが、24歳の時に歌って代表曲となった『奇妙な果実』(1939)。この曲は南部で実際に度々起きた白人(特にKKK)による黒人リンチ事件に抗議を込めて歌ったもの。当時彼女と契約していた大手コロンビア・レコードは、歌詞の内容に恐れをなして録音を求めるホリディの要望を断った(小さなコモドア・レーベルから発売)。 1947年(32歳)、ヘロイン中毒から脱出しようと入院するが、やはりその誘惑には逆らえず麻薬不法所持で逮捕。ペンシルヴァニア連邦刑務所に一年間収監される。その後もヘロインとアルコールに浸り続け、ガリガリに痩せ衰え、張りのある声が出なくなっていく。彼女が最も信頼を寄せ、精神的に支えてくれたサックス奏者レスター・ヤングが亡くなった4ヶ月後、彼を追うように40代半ばで死んでしまった。 ・「私はビリー・ホリディの歌い方が好きだ。彼女はレスター・ヤングやルイ・アームストロングの演奏のように歌う。ビリーの歌はボビー・タッカーのピアノの伴奏だけで聴くのが好きだった。彼女にはどんなホーンも必要ではない。彼女の歌はいつもホーンのようにサウンドしているのだから」(マイルス・デイビス) |
『奇妙な果実』
南部の木々はとても奇妙な果実をつける 葉から根元まで血に染まり 黒い遺体は南部の風に揺れる 奇妙な果実はポプラの木に吊るされている
美しい南部の田園の中に思いもかけずみられる
腫れあがった目や苦痛にゆがんだ唇 マグノリア(木蓮)の甘い香りは
突然肉が焦げる匂いとなる 群がるカラスについばまれた果実に雨は降り注ぐ
風にさらされ 太陽に腐り 遂に朽ち落ちる果実
奇妙でむごたらしい果実がここにある
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はじめまして!(2000) | 約10年後に再会。墓前の星条旗が増えていた(2009) | 墓石には愛称の“Satchmo”(サッチモ) |
墓石の上にあるトランペット(2000) | トランペットの上にはコインがあふれ、なぜか「サックス」が供えられてた(2009) | 墓石はプレート型と2種類ある |
「ジャズとは自分が何者であるか、でしかない」(ルイ・アームストロング)。
「キング・オブ・ジャズ」と呼ばれたジャズ創世記の巨星。ジャズ史上最初の天才であり、トランペットの名手として即興演奏を得意とし、高い音色を長時間キープするなど優れた演奏技術を持っていた。ヴォーカリストとしても有名で、「ズビズビ・ダバダバ」と言葉を即興的につなげ、声を楽器代わりに使う歌唱法“スキャット”の発明者として知られる。天性のしゃがれ声で意図的にリズムをずらして歌うスタイルで聴衆を魅了した。愛称は“サッチモ(大口)”。由来はエラ・フィッツジェラルドが彼の大きな口を「Such a mouth!」と呼んだことによる。 1901年8月4日にルイジアナ州ニューオーリンズの裏町にて出生。母は娼婦だった。少年時代は非行を繰り返し、新年を祝うために道端で発砲したところ警官に見つかり少年院へ送られる。だが、少年院に入ったおかげでアームストロングの人生が輝き始めた。アームストロングは少年院でブラスバンドに入り、コルネットと出会った。楽器演奏の楽しさに目覚め、出所後は町のパレードなどで演奏して人気者となる。そして音楽の道を極めるべく、ジャズ史上最初の大音楽家、コルネット奏者キング・オリバー(1885-1938)からトランペットを学び、1917年、16歳のときにキッド・オリー楽団のトランペット奏者としてニューオーリンズでプロ・デビューを飾った。
21歳、キング・オリバーに誘われて当時のジャズの中心地シカゴに移住し、翌年オリバーのクレオール・ジャズ・バンドに参加、初のレコーディングをする。アームストロングの自由な即興演奏はシカゴで評判になった。23歳、ニューヨークでフレッチャー・ヘンダーソン楽団に一年間在籍し、ブルースの女王ベッシー・スミスと共演。
1925年(24歳)、シカゴに戻って念願だった自身のバンド“ホットファイブ”を結成する。アームストロングが活躍し始めた1920年代は、それまでバンド全員が揃って演奏するスタイルが一般的だった。アームストロングは演奏スタイルを革新し、曲の途中に独自の「ソロ即興パート」を入れた。“ホットファイブ”はたちまち人気に火が付き、アームストロングは時の人となった。翌年にはジャズ史上初のスキャット・ヴォーカル曲「Heebie
Jeebies(ヒービー・ジービーズ)」を録音。この曲を聴いたシカゴ中のジャズ・ファンが、アームストロングのしゃがれ声に憧れて風邪を引こうとしたという。スキャットの誕生は革命的だった。スキャットのおかげで、人々は同じ歌を様々な歌い方で楽しめるようになったのだ。
1928年、ホット・ファイブは『ウェスト・エンド・ブルース』を録音。ボルチモアの女郎屋で下働きをしていた13歳のビリー・ホリデイは当レコードを聴いて「この歌声は、私にとって実に多くの意味を持つ歌に聞こえた。ある時は私をさめざめと泣かせたし、ある時はこの上なく幸福な気分にさせた」という。
1930年代にはヨーロッパ・ツアーを実施。第二次世界大戦が始まると慰問公演を行った。
1950年代は『バラ色の人生』(ラヴィアンローズ)や『キッス・オブ・ファイア』が大ヒットし、1953年に初の日本公演も行った。1954年、自伝『サッチモ:ニュー・オルリーンズの青春』を刊行。
1956年(55歳)、アフリカのガーナで公演した際、アームストロングは数千人の熱狂的なファンに迎えられた。だが、演奏中に観客が警備の警官から殴られている(理由不明)のを見て動揺し、演奏を中断して「殴るのをやめてくれ」と訴えた。
1957年(56歳)、南部アーカンソー州の州都リトルロックで、高校入学を希望した黒人学生9名が、人種差別により入学を阻止される事件が起きた。3年前の最高裁判決(ブラウン判決)で白人と黒人の分離教育が違憲とされていたが、差別主義者のフォーバス知事は登校初日に州兵100人をリトルロック・セントラル高校に派遣し、入学資格を持つ9名の黒人学生の登校を実力で阻止した。登校させるべきと考えた市長は、知事に法律順守を訴えたが拒絶され、市長は直接アイゼンハワー大統領に米軍の派遣を要請した(州兵より軍の方が強い)。だが、アイゼンハワー大統領はリトルロック事件のことを知りながら何も行動しなかった。
これに怒ったアームストロングは新聞記者へのインタビューで「(アーカンソーの)フォーバス知事は無学で、アイゼンハワー大統領は意気地なしだ」と感情を爆発させた。1868年にアメリカ合衆国憲法修正14条は「すべての者に対する法律の平等な保護」を定めているが、彼自身、これまで公演先で白人と同じホテルへ泊まれなかったり、劇場で黒人専用の出入口を強制されるなど、何度も差別を体験していた。大統領や知事を批判したアームストロングの言葉は新聞で大きく取り扱われ、すぐさま世界中に伝わった。マネージャーは大統領を侮辱したアームストロングに発言の撤回を勧めたが、アームストロングは逆に批判を加速させ、予定していたソビエト公演を「黒人をこのように酷く扱うアメリカを代表してソビエトに行くことは出来ない」とキャンセルした。
アイゼンハワーは世界から注目を浴び、騒動開始から3週間を経て、ノルマンディー上陸作戦で戦った米軍きっての先鋭部隊・第101空挺師団をリトルロックへ派兵した。9人の黒人学生(Little
Rock Nine)は軍に護衛されながら、ついに入学を果たすことが出来た。
1964年、63歳で録音した『ハロー・ドーリー』は当時人気絶頂だったビートルズを抜いて全米No.1ヒットに輝き、3カ月続いていたビートルズの連続1位記録をストップさせ音楽関係者を仰天させる。
1967年12月20日、反ベトナム戦争の立場から泥沼化する戦争に心を痛めていたアームストロングは、テキサス州にあるアメリカ最大の陸軍基地フォート・フッド(甲子園22個分、5万人以上勤務)を慰問に訪れた。そしてアームストロングは、これからベトナムに向かう若い兵士たちに名歌『この素晴らしき世界(What
a Wonderful World)』を捧げた。
アームストロングはハリウッドで約60本もの映画に出演。フランク・シナトラやビング・クロスビーと『上流社会』(1956)で共演し、『五つの銅貨』(1959)ではダニー・ケイと共演した。生涯のレコーディングは『タイガー・ラグ』『捧ぐるは愛のみ』など約1500曲に達する。私生活では4度結婚し、最後の相手コットン・クラブの歌手ルシール・ウィルソンとは他界するまで30年添い遂げている。
亡くなる2カ月前、アームストロングはNYでステージに立った。病の後遺症で身体が不自由になり、医者はとめたが彼はやると言ってきかなかった。バンドマンたちは、一人でステージに上がれず、歩くこともおぼつかないサッチモを見て涙を流す。アームストロングは執念で3週間のステージをやりおえた。最終公演の後、アームストロングはステージから降り、バンドマンたちにこう言った「君たちとは本当に長い間一緒にやってきた。でも、これで終わりだ。もうこれ以上は続けられない」。この7週間後、1971年7月6日にジャズ界の巨人は永眠した。享年69。翌年、生涯の功績に敬意を表してグラミー賞が授与された。
大指揮者レナード・バーンスタインが「アームストロングの音楽にはかすかな“痛み”がある」と評したように、どんなに軽いポピュラー曲でもアームストロングが歌うとそこに深みや哀愁が生まれ、人々は歌から人生を感じ取った。
墓はニューヨーク州のマンハッタン島の東側、クイーンズ地区のフラッシング墓地・9区にあり、墓石の上部にトランペットの彫刻が設置されている。サービス精神旺盛で真のエンターテイナーだったアームストロングは国境を越えて愛され、墓前には多くのファンが訪れている。
※墓石に刻まれた生年月日は1900年7月4日。これはサッチモ本人の主張によるもの。だが正確には1901年8月4日だ。
※フラッシング墓地には22年後にトランペッターのディジー・ガレスピー(1917-1993)も埋葬された。 「アームストロングは喋りまでジャズになっている」(マイルス・デイヴィス)
「彼はジャズはもちろんのこと音楽界全体に大きな影響を及ぼした」(オーソン・ウェルズ)
「色々なトランペット奏者の良い所を盗もうとしたけど、アームストロングだけは盗めなかった。とにかく凄すぎるからさ」(ウィントン・マルサリス)
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『この素晴らしき世界』 ♪緑の木々に赤いバラが見える それは僕たちのために花開く 僕はしみじみ思うんだ なんて素晴らしい世界かと 青い空や白い雲を眺める僕 明るく喜びに満ちた昼 暗く神聖な夜 そして僕はしみじみ思うんだ なんて素晴らしい世界なのかと 七色の虹が空に美しく映え 行き交う人々の顔を染めている 友人たちが握手をして「ご機嫌いかが」と挨拶する姿が見える 彼らは心から言うのさ アイ・ラヴ・ユーと 赤ん坊が泣いているのが聴こえる
あの子たちが大きくなって
僕よりずっと沢山のことを学ぶだろう
思わず感動してしまう
なんと素晴らしい世界じゃないか
そうさ 僕はしみじみ思うんだ 嗚呼 この世はなんと素晴らしい世界なのかと! |
“バード”ことチャーリー・パーカーが現れる以前のジャズは主にスイングと呼ばれ、グレン・ミラーなどビッグ・バンドが演奏するダンス音楽だった。アドリブの鬼バードは「ダンスの伴奏なんかやってられるか!」と数名のユニットを作り、アドリブを強調しまくった演奏“ビ・バップ”革命を起こす。ビ・バップは「最初にテーマを演奏し、そのコード進行をスタート地点にしてアドリブを重ねていくスタイル」のこと。スイング時代はアドリブのソロに聞こえるパートもちゃんと楽譜があって、何百回演奏しても同じ“アドリブ風”のメロディー(書きソロ)だった。 バードは自由なリズムに乗せて、複雑で長いフレーズを即興で演奏しまくった。多くのミュージシャンは演奏し始めて徐々に乗ってくるものだが、バードは最初の一音からいきなり最高度に光り輝く音を出し聴き手を圧倒する。晩年、美の創造と黒人ゆえの人種差別の苦しみから逃れるように麻薬に溺れた彼は、わずか34歳で死去。検死官はバードのボロボロの肉体を見て“60歳の老人かと思った”という。 |
「グヘチョーッ!」歩き始めて1時間、既に息も絶え絶えの僕にトドメを刺すが如く、道が山道に変わってきた。しかも、いまだ墓地は気配すら見せない。あまりにしんど過ぎて、逆に笑いがこみあげる。振り返ると、町は遥かに遠く「ヨシ、このトホホ・メモリーを記録しよう」とタイマー撮影をしていたら(写真左)、ミズーリ州警察のパトカーが僕の側へ。警官は開口一番「ホワット・アー・ユー・ドゥーイング!」。早朝、山中、アジア人、記念写真、というありえない組み合わせに、えらく長い職質をくらった。僕はサックスを吹く真似をしながら「アイ・ラブ・チャーリー・パーカー!」と怪しまれないよう説明していると、警官はクールにパスポートの提出を要求、車内でパスポート片手に調書を書き始めた(右写真)。不安な気持ちで待ってると、彼は墓への手書き地図をくれた。 |
ついに山中の墓地へたどり着いたが、墓の数が多すぎてなかなかバードに会えず片膝をつく |
通り雨でズブ濡れ | 2時間後、やっと乾く | あばよ…バード! |
そこへ通り雨が!廃屋で雨宿りをした後、バードの墓を発見したときは、墓石がズブ濡れに(写真左)。墓にはサックスの中から大空に羽ばたく鳥が描かれていて、音の翼で自由に飛翔したバードに相応しい、素晴らしい墓だった!鳥は濡れて黒ずんでいたけど、乾くと白くなる気がしてカメラを片手に待機した。 待つこと2時間!予想通り鳥は白く美しくなり、しかも朝陽がちょうど当たってメチャメチャ渋い墓になった!「ああ、バード、素晴らしい演奏を残してくれて本当にありがとう!」。この間、足を中心に44ヶ所も蚊に刺され、3日間悶絶した。今から思うと、別に自然乾燥するのを延々と待たなくても、ハンカチで拭けば良かったじゃん、って後悔している。ほんと、トンマだな〜。 |
前回パトカーが止まっていた場所に 今回はレンタカーを停車! |
約10年ぶりに再会!午後の熱い太陽に照らされていた。 隣は母親のADDIE PARKER(1891-1967) |
絵の横にサックス型ブローチがあった |
周囲は緑がいっぱい | バードへの巡礼を鹿たちが見つめていた | 墓地に鹿がいるなんて日本じゃ考えられないね |
スキャットが得意 | 左壁の下から2段目、黄色と赤のバラが見えるのがエラ |
ここにバスで来るにはロスの危険地帯を通る必要があり ヤクでラリッた連中に途中でからまれ震え上がった。 冷や汗タラタラでたどり着き、思わずエラに抱きついたよ |
彼女は母であり祖母だったようだ |
早逝が多いジャズ・シンガーの中で長寿だった |
滑らかで明るい歌声、完璧で非の打ち所のない音程、見事なハイ・スピード・スキャット。NYの孤児院で育った彼女は、高名なジャズ誌「ダウンビート」の年間最優秀女性歌手部門で20年連続第1位という、前人未到の偉業を為す、文字通りジャズ界の“女王”となった。 |
エリントン家の墓所。デュークは右から2番目 | 2000 マイルス・デイビスの隣りの敷地 | 2009 “Duke(公爵)”と刻まれている |
作曲家兼バンドリーダー兼ピアニスト。米国音楽史上最大の巨匠だ。本名はエドワード・ケネディ・エリントン。「デューク(公爵)」というニックネームは子どもの頃からきちんとした服装をしていたことから友人が付けた。 白人社会がジャズを下等な娯楽と考えていた1940年代、ジャズをクラシックの殿堂カーネギー・ホールで演奏し、その芸術的地位の向上に努力した。彼は白人ジャズと黒人ジャズの違いを強調し、自分の作品をブラック・ミュージックと呼んで区別していた。“黒人は聴衆を楽しませればいい”という風潮の中で、デュークは「我々はアーティストであってエンターテイナーではない」と、毅然と言い放った。彼は後世の黒人ジャズメンの精神的柱となる。エリントン楽団のピアニストが作曲した『A列車で行こう』は同楽団の演奏で世界に広まった。 代表曲は『ザ・ムーチ』『キャラバン』『イン・ア・センチメンタル・ムード』。 |
2000 | 2009 故人が3名になり墓標のデザインも変化 | 手前がモンクの墓 |
流行の演奏スタイルには目もくれず、周囲の誰にも媚びず、音楽性において一切妥協しない、筋金入りの革命的ジャズメン。彼は比類なき名ピアニストであると同時に、超名曲「ラウンド・ミッドナイト」「ストレート・ノー・チェーサー」など数多くのジャズの古典作品を作曲した。当初はその革新的な作風が理解されず、長く不遇を強いられた。難解な演奏が多いので一般のファンは戸惑いつつ聴いているが、モンクは“ミュージシャンズ・ミュージシャン”と呼ばれ、多くのミュージシャンが彼の音楽を愛聴し、そのスピリットを学んでいる。誰にも似ていない“モンクはモンク”という超然とした姿勢が、今なお多くのミュージシャンに感銘を与えているのだ。墓地付近にバス停はなく、とにかく歩いて歩いて、歩きまくった。 「ジャズと自由は共に行進する」(セロニアス・モンク) |
自身の楽団を率いて活躍 | 霊廟の壁面に墓がズラリと並ぶ(2009) | ベイシーは中段付近(6段中、下から3段目) |
NYといえば摩天楼&大都会の代名詞になっているけど、それはマンハッタン島だけのこと。ここもNY州だけど御覧のように鉄道は“単線”だ(ベイシーの墓地は写真の線路左側にある)。列車は1時間に1本のみ。マイカー社会の米国ではバスの本数も少なく、公共の交通手段だけを利用する巡礼者には辛い国だ。(2000) |
2000 | 2009 |
“ザ・ヴォイス”と讃えられた20世紀アメリカを代表するエンターテイナー。青い瞳。『マイウェイ』をはじめ数々のヒット曲を深みのある甘い声で歌い上げた。マイクロフォンを世界で最初にマイクスタンドから取り外して歌ったのはシナトラだ。人種差別を嫌悪しキング牧師を支援、“シナトラ・ファミリー”に黒人のサミー・デイヴィス・Jrを迎え入れた。ケネディの大統領選挙を全力で応援し、民主党の資金調達パーティーでシナトラが国歌を歌う。『夜のストレンジャー』でグラミー賞に輝く一方、映画にも多数出演し、『地上より永遠に』でアカデミー助演男優賞を受賞している。砂漠に築かれた町の墓地に眠る。 |
歌もピアノも超一流 | 墓地最深部の大型霊廟に眠る | 彼の墓は最上段にあり、近くまで行けない |
2000 「ナット・コール」と刻まれている | 2009 望遠で撮影。う〜ん、遠い! |
40年代に先進的な天才ジャズ・ピアニストとして演奏で名をはせ、50年代以降は甘美な歌声でポップス界のスーパースターとなった。甘美なバラードを歌わせれば肩を並べるものがいない。華麗なオーケストラの伴奏で、美しいバラードの名曲を多数吹き込んだ。 |
木漏れ日の中のペトルチアーニ(2009) | 左奥の人だかりは、あのショパンの墓!3人向こうだ | 2015年に再巡礼 |
墓石に4枚のポートレートが収まっていた。写真入りの芸術家の墓は珍しい |
墓の上に読書する天使。 (聖書を読んでる?) |
朝の光が降り注ぐラインハルトの墓 | 造花ではなく本物の花壇が左右にある | フォンテーヌブローは画家たちも愛した土地だ |
墓石の上のギターはグルグル回る |
墓に楽譜が刻まれていた。※「nuages(雲)」では ないかと読者のYさんから情報を頂きました |
地元は翌月に『ジャンゴ・ライン ハルト・フェス』を控えていた |
この巨木の下にエバンスは眠っている | 前年に他界した兄と並んでいた | ショパンのように、エバンスもまたピアノの詩人だった |
ニュージャージー州出身。本名ウィリアム・ジョン・エヴァンス。繊細で美しい音色を紡ぎ出したジャズ・ピアニストとして知られる。 幼少期からピアノ、フルート、ヴァイオリンを学び、1956年(27歳)、初のリーダーアルバム『New Jazz Conception』を発表。1958年、29歳でマイルズ・デイヴィスにピアニストとして呼ばれたが、黒人社会からの白人ジャズメンへの偏見に耐えきれずバンドを一時離脱。翌年マイルスの革命的アルバム『Kind of Blue』制作に関わった。1959年から、ベースのスコット・ラファロ、ドラムのポール・モチアンとピアノ・トリオを結成するも2年後にラファロが交通事故のため25歳で他界。実兄の自殺に衝撃を受け、麻薬中毒に苦しみ、1980年9月15日他界。享年51。墓所はルイジアナ州バトンルージュ。 マイルス・デイビス「ビルの演奏にはいかにもピアノという感じの静かな炎があった。彼のアプローチの仕方やサウンドは、水晶の粒や、澄んだ滝壺から流れ落ちる輝くような水を思い起こさせた」 |
マイルスとの『枯葉』最高っす! | アダレイ家 | 彼の墓は右手前 |
フラッシュあり |
フラッシュなし。この暗さで墓を見つけられたのは奇跡! ※蚊に刺されまくりの墓参。フロリダの蚊は強烈 |
コネチカット州にある肖像画入りの墓 |
こちらはワシントンD.C.のアーリントン国立墓地にある追悼墓。 墓石の背後に得意としたトロンボーンの絵が彫られていた! |
画面中央から少し左の木の、手前3番目が グレンの墓。全部同じ形だから探すの大変! |
アーリントン墓地は相当気合いを入れてかからないと広すぎて挫折する。僕が墓を見つけたのは、雨も降ってきて心が折れる直前だった |
ビッグ・バンド時代のトロンボーン奏者でバンド・リーダー。本名オールトン・グレン・ミラー。アレンジにも才能を発揮し、サクソフォーン4本とクラリネットのリードから生み出される陽気で明るい「ミラー・サウンド」で1930年代末から40年代前半にかけて人気を博した。 1904年にアイオワ州クラリンダにて出生、コロラド州で育つ。1927年に23歳でトロンボーン奏者としてプロの楽団に入り、これを皮切りに10年間複数のバンドを渡り歩く。1937年、33歳で自身のスウィング・オーケストラ「グレン・ミラー楽団」を結成。当初は鳴かず飛ばずだったが、1939年(35歳)にラジオを通して有名になった。この年、楽団のテーマ曲『ムーンライト・セレナーデ』のほか、『イン・ザ・ムード』『茶色の小瓶』『サンライズ・セレナーデ』などがヒットした。 『ムーンライト・セレナーデ』 https://www.youtube.com/watch?v=rjq1aTLjrOE (3分24秒) 『イン・ザ・ムード』 https://www.youtube.com/watch?v=_CI-0E_jses (3分35秒) 『茶色の小瓶』 https://www.youtube.com/watch?v=YOG89TrL4Vk (3分) 1941年(37歳)にグレン・ミラー楽団の出演映画『銀嶺セレナーデ』の主題歌『チャタヌーガ・チュー・チュー』を収録、大ヒットする。 ※『チャタヌーガ・チュー・チュー』ミラーの動画 https://www.youtube.com/watch?v=bGBwmLRNLJ4 (8分) 1942年(38歳)、『チャタヌーガ・チュー・チュー』が約120万枚も売れたことを記念してRCAレコードからゴールドディスクが授与され、これがゴールドディスク第1号となった。同年9月、ミラーは人気絶頂でオーケストラを解散し米陸軍に志願。スター奏者42名を集めて慰問楽団の陸軍航空隊バンドを編成し、1943年にアメリカで、1944年にイギリスで前線向けラジオ放送に出演した。 1944年12月、自身の操縦する小型機で悪天候をついてパリへむかう途中、英仏海峡上空で消息をたち遺体は発見されていない。享年40歳。 消息理由は、「ドイツ爆撃から帰還途中のイギリス空軍の爆撃機が上空で投棄した爆弾が乗機に当たり墜落した」とする説など諸説あり、2014年に『シカゴ・トリビューン』が寒気による機体のエンジントラブル説を発表した。 1953年、伝記映画「グレン・ミラー物語」が制作され、ジェームズ・スチュアートがミラーを演じた。 コネチカット州にある肖像画入りの追悼墓、ワシントンD.C.のアーリントン国立墓地には背後にトロンボーンの絵が刻まれた追悼墓がある。前者ののグローブストリート墓地はイェール大学のキャンパスに囲まれ、1797年に設立された世界初の私有の非営利墓地とのこと。 |
墓地の場所が分からず迷いまくり。警察署へ ※今なら便利なネット地図がある(涙) |
警官の先導で“MOUNT ZION CENETERY”に到着 |
小規模な墓地 |
クリフォードは東端に眠っている(画面左端) |
墓は最近になって建て直されたようだ |
リスの石像と思われる風化 した物体が墓の横にいた |
この木の下にグッドマン家の墓が並ぶ |
有名人にしてはとても質素な墓 |
“キング・オブ・スイング”ことジャズ・クラリネット奏者&バンド・リーダーのベニー・グッドマンは、1909年にシカゴで貧しいロシア系ユダヤ移民の家に生まれた。本名ベンジャミン・デービッド・グッドマン。父は縫製職人。教育を市の福祉施設で受け、無償の音楽教室に通い、10歳から元音大教師にクラリネットを学ぶ。11歳で演奏家デビューを果たし、16歳で楽団(ダンス・バンド)に参加。高度な演奏技巧と即興演奏の才能を生かすべく、19歳でNYに出て翌年にソロとして独立。1932年(23歳)に若いながら自分の楽団を結成し、毎週ラジオに出演して全米有数の人気楽団にのしあがった。ベニーはスイング・ジャズを流行させ、1938年(29歳)にクラシックの殿堂カーネギー・ホールで史上初のジャズ・コンサートを開催、これを成功させ「スウィングの王様(King
of
Swing)」と称された。『シング・シング・シング』はベニー・グッドマン楽団の演奏で大ヒットする。 クラシック音楽の分野でもモーツァルトのクラリネット協奏曲をシャルル・ミュンシュ指揮で演奏し、作曲家バルトークやコープランドがベニーに作品を献呈している。バーンスタインとも共演。 ベニーは人種差別が激しかった時代に、他のバンドに先んじて黒人プレーヤーをメンバーに加え、テディ・ウィルソン、ライオネル・ハンプトンなどを積極的に起用した。また、民主主義者として赤狩り(1950-54)に反対する勇気を見せた。1956年(47歳)には前半生を描いた映画『ベニー・グッドマン物語』が公開されている。1986年に77歳で他界。 墓石は控え目な性格だったベニーらしい極めてシンプルなもので、小さな墓石に本名と生没年しか刻まれていない。石が少し風化しており、米国の有名人の墓によく立っている星条旗(小旗)の目印もない。小規模な墓地なのに探し出すのに時間がかかった。そもそも、墓地自体が山の中にあり、車でいくら走っても墓地が見当たらず、地元のレストランでお客さんのお爺さんに聞き込みをして、ようやく墓地の場所がわかった。あのお爺さんと出会ってなければ、たどり着けなかった可能性が大。(今ならモバイルのフリーWi-Fiでグーグルマップが出せるけど…) 「失ったものを数えるな。残ったものを数えよ」(ベニー・グッドマン) |
トロンボーンの名手で楽団を率いていた 「I'm getting sentimental over you」(3分40秒) |
夫婦で眠っている。奥さんの墓には良い言葉が→ |
「トミーは彼の“Eフラット”と 彼女を呼んでいた」とある |
ドーシー夫妻の墓所にはこの小さな階段を上るんだけど、階段には“五線譜”の筋が入っていた。このこだわり! |
ビバップ革命に立ち会ったジャズ・ドラマー。下部に 「Your hands shimmering on the legs of rain」 |
墓前に「THANKS!」と書かれた ドラム・スティックが1本置かれていた |
右から3列目&上から3段目がカーティスの墓だ |
早逝した天才ジャズ・ベーシスト。ニュージャージー州でシチリア系の音楽家の一家に生まれた。大学の音楽科で弦楽器が必修のため、入学前の夏にダブルベースを手にし、大学に入って約3ヶ月後にはベースに専念することを決意。中退してビッグバンドに加わり、退団後にチェット・ベイカー、ベニー・グッドマンなど様々なジャズメンと共演を重ねた。 1959年にマイルス楽団から脱退したばかりのビル・エヴァンスと組む。2人はドラムのポール・モチアンを加えてトリオを結成。スコットは、従来は伴奏専門の楽器であったベースを、ピアノと対等にメロディーを展開できる楽器であると証明し、ジャズ界に革命を起こした。 1960年代初頭には、オーネット・コールマンのアルバム『フリー・ジャズ』にも参加。 1961年、25歳で交通事故死。スコットの死でジャズ・ベースの歴史は10年遅れた。 |
ジャズ仲間も彼を称えてい たが、非業の死を遂げた |
墓地が広く、探し出すのに困難を極めた!事前に「セクション3、6列目」という情報はあったけど 写真(右上)の案内板になかなか気付かなかった。コレ、確かに3と6は見えるけど酷いよね!? |
1箇所だけ白い花が供えられているのが見える | それがダイナ・ワシントン! |
土曜日でオフィスは閉まっていた。地図もなしに無数の墓石を1個ずつ確認…。 雨まで降ってきて悲壮感がつのる。1時間が経ち、巡礼を断念しかけた時、 目の前に「モンゴメリー通り」の看板が。まさかと思って付近を調べると… |
うおお!ウェスが眠っていた!奇跡的に 会えたーッ!ジャズ・ギターの名手だった ので、ギターの絵が彫り込まれていた! |
“ジャコ”はニックネーム。本名はジョン | ベースを弾くジャコ人形がいた |
従来はリズムを刻むだけの伴奏楽器と思われていたエレクトリック・ベースを、ライブやスタジオで喝采を浴びる楽器に進化させた伝説の天才ベーシスト。24歳の時、パット・メセニーがリリースした『ブライト・サイズ・ライフ
』(1975)にベーシストとして参加し、翌年のファースト・ソロ・アルバム『ジャコ・パストリアスの肖像』でデビュー。同年、ウェザー・リポートに加入し、約5年間華々しく活躍する。1981年(30歳)、セカンド・ソロ・アルバム『ワード・オブ・マウス』をリリース。翌年、シンセサイザーのジョー・ザヴィヌルと対立してウェザー・リポートを脱退する。 以降は、ビッグ・バンドを率いて活動する一方でコカインに溺れていく。1987年9月、サンタナのライブに飛び入りしようとして警備員に会場を追い出されて、プライドが傷ついたジャコは泥酔してクラブに向かい、そこでも入店しようとして用心棒と乱闘になり、投げ飛ばされたあげく脳挫傷となり意識不明に陥る。事件から10日後、親族による話し合いの結果、植物状態のジャコから父親が人工呼吸器を外した。享年35歳。クラブの用心棒には第二級謀殺罪が適用された。 |
スタン・ゲッツの遺灰は太平洋に撒かれた(サンタモニカの海岸で撮影) |
エリックの墓は長く人が来た気配がなかった… | 楽譜が読める方、曲名を教えて頂けると助かります! |
サックス奏者。本名はArthur Edward Pepper, Jr。ウエストコースト・ジャズの 代表格だったがドラッグ中毒になってしまう。復活後、脳溢血で他界した。 |
あのホロヴィッツに 影響を与えたという |
この巨大要塞=大霊廟にテイタムは眠る。一般非公開につき、 泣く泣く外から遙拝。せめて命日だけでも墓参させて欲しいよ〜! |
画像は海外サイトから。そこには墓石がアップされていた。うおお、何か墓参する方法はないものか! |
小さな黄色い花に囲まれて可愛らしい♪ |
ハード・バップ・ピアニスト。ニューヨーク出身。メロディアスかつ優美なタッチで、ヨーロッパ及び日本で人気を集めた。
1949年に21歳で初録音。1950年代にチャーリー・パーカーやミルト・ジャクソンらと共演した。 アメリカやパリで活動したのち、1964年(36歳)からデンマークのコペンハーゲンを活動の拠点とし、デンマーク人ベーシストのニールス=ヘニング・エルステッド・ペデルセンと組む。デクスター・ゴードンとも共演。 日本におけるライブを録音『ザ・ラスト・レコーディング:ライヴ・アット・ザ・ブルーノート・大阪』が最後のアルバムとなった。 1993年、コペンハーゲンにて64歳で他界。ベン・ウェブスターやアンデルセンが眠るアシステンス教会墓地に墓が築かれた。 息子はジャズ・ピアニストのケニー・ドリュー・ジュニア。 |
日本のジャズ史を切り開いた 傑作『モダン・ジャズ』 |
祝・復刻CD化!4曲目のバリ・ハイに恍惚&感涙 |
“スリーピー”の愛称で多くの ファン&ジャズ仲間から愛された |
墓石の側にはバンドメンのオブジェ (手前は松本氏ですね〜♪) |
なんと墓前にスイッチがあり、松本氏の演奏が流れる! 音楽家なら誰もが理想とするであろう夢の墓 |
墓石の左右にスピーカーが あり、ステレオの本格派 |
氏の最後の直筆が刻まれる「私は如何に未来に 向って益々若い世界に向って挑戦できるか?」 |
主電源のPLAY・STOP ボタン。雨カバーつき |
墓前のベンチで音楽に浸り感涙。ダイナミズムの中 にもぬくもりがある、甘く野太い音色が僕を包んだ |
ボタンを押せば音楽が流れる墓は、海外で時々見かけるけれど、このように12曲もレパートリーが あり、しかもそれが故人の演奏で、墓参者が自由に選曲できるのは世界唯一だろう!! 曲目は次の通り→(1)Duke's Days(2)My One And Only Love(3)Typhoon (4)Straight No Chaser(5)Well You Needn't(6)Rhytnm-A-Ning (7)Furusato(8)Mystic Desert(9)Shallot Fields(松本氏のオリジナル曲) (10)Manday Samba(11)Sleepy's Funk(12)Love For Sale |
戦後の日本ジャズ界をリードした世界的テナーサックス奏者。1926年生まれ。岡山県出身。府中市に転居後、広島の高校でブラスバンド部に入部。
戦後、神奈川座間の米軍キャンプで演奏アルバイトをしている時に、温厚な人柄と細長い目元から米兵に“スリーピー”と呼ばれるようになる。1949年(23歳)、日本初のビバップバンド「CBナイン」に加入し実力を認められた。渡辺晋のバンドを経て、1953年(27歳)、ジョージ川口(Dr)、中村八大(p)、小野満(b)らと日本ジャズ史に燦然と輝く伝説のバンド『ビック・フォー』を結成。国内に第一次ジャズブームをもたらす。1963年(37歳)には、世界的なジャズの祭典“モントレー・ジャズ・フェスティバル”に日本人初の単身招待出演を果たし、世界を舞台に活動するようになる。翌年はマイルス・デイヴィスを迎えた東京の世界ジャズ・フェスティバルに参加。 1975年(49歳)、ジャズの音楽学校を開校。後進の育成に努める。1979年(53歳)、芸術祭大賞受賞。3年後に文化交流の親善大使としてモスクワ公演。 1988年(62歳)、芸術選奨文部大臣賞受賞。 長年の音楽界への貢献が評価され、1991年(65歳)に紫綬褒章を受章し、さらに1998年(72歳)には勲四等旭日小綬章を受章した。2000年2月29日(うるう日)に他界。享年73歳。ソニー・ロリンズを敬愛していた。 ※ちなみに墓所では壁を隔てて織田信長の墓がある。墓所の大徳寺総見院は通常非公開だが、毎年秋に特別公開されている。 |
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