●発明家 エジソンの墓 グーテンベルクの墓 ケロッグの墓 サミュエル・コルトの墓 平賀源内の墓 モールスの墓 ライト兄弟の墓 リュミエール兄弟の墓 |
●実業家 岩崎弥太郎の墓 岩波茂雄の墓 カーネギーの墓 カーネル・サンダースの墓 シトロエンの墓 白洲次郎の墓 高田屋嘉兵衛の墓 蔦屋重三郎の墓 ハワード・ヒューズの墓 ジョン・S・ペンバートンの墓 リチャード・マクドナルドの墓 |
墓所はとても分かりにくい。表通りの 『史蹟平賀源内先生之墓』で曲がる |
住宅街の中に源内の墓所がポツンとある |
獄死した源内の墓を建てたのは、無二の親友・杉田玄白 |
奇才・異才と呼ばれる江戸のダ・ビンチ |
毎月第1土・日と命日の18日しか 墓参できないので要注意!(2004) |
初巡礼の際、非公開と知らずに訪れて ガックリ。で、友人の肩車で塀の外から パチリ。この暗がりに墓がある(2000) |
こちらは広島県の鞆(とも)の浦にある『平賀 源内生祠(せいし)』。“生祠”とは優れた 人物を生前のうちに祀った“やしろ”のことだ |
源内は長崎で蘭学を学び江戸に戻る途中で 当地の溝川家に滞在し、村人に陶法(源内焼)を 伝えた。これに感謝した溝川家が1754年(源内の 死の15年前)に、彼を神としてここに祀ったという |
エレキテル | 西洋婦人図(源内画) | 万歩計 |
江戸中期の博物学者・作家・画家・陶芸家・発明家。あらゆる分野に才能を発揮した日本のダ・ビンチ!本名、国倫(くにとも)。高松藩足軽白石良房の三男。24歳の時に藩の命令で長崎に留学、蘭学を修める。続いて江戸において植物を主にした漢方医学の“本草学”を学ぶ。1757年(29歳)、全国の特産品を集めた日本初の博覧会を開き、それを元に図鑑「物類品隲(ぶつるいひんしつ)」を刊行。世人の注目を浴びる。
本草学者として名を成した彼は、高松藩の薬坊主格となったが、藩の許可がなくては国内を自由に行き来できない事に不便を感じ脱藩する(33歳)。この際、高松藩は源内を「仕官御構(おかまい)」に処した。これは他藩へ仕官することを禁止するものだ。源内は自ら“天竺浪人”と名乗り、秋田秩父での鉱山開発、木炭の運送事業、羊を飼っての毛織物生産、輸出用の陶器製作、珍石・奇石のブローカーなど、様々な事業に手を出し、また静電気発生装置“エレキテル”、“燃えない布”火浣布(かかんぷ、石綿)、万歩計、寒暖計、磁針器、その他100種にも及ぶ発明品を残した。正月に初詣で買う縁起物の破魔矢を考案したのも源内だ。一方、画才、文才も惜しみなく発揮。彼は油絵を習得して日本初の洋風画「西洋婦人図」を描き、司馬江漢、小田野直武(「解体新書」の挿絵画家)らに西洋画法を教えた。浮世絵では多色刷りの技法を編み出し、この版画革命を受けて色とりどりのカラフルな浮世絵が誕生した。
作家としてのペンネームは「福内鬼外(浄瑠璃号)」「風来山人(戯作号)」となかなかシャレている。35歳の時に書いた『根南志具佐(ねなしぐさ)』『風流志道軒伝』は江戸のベストセラーとなり、明治期まで重版が繰り返される。後者は主人公が、巨人の国、小人の国、長脚国、愚医国、いかさま国など旅するもので、江戸版ガリバー旅行記といった感じだ。(鎖国中でもあり、源内が生れる2年前に英国で刊行されたばかりのガリバー旅行記を読んでいたとは思えない。)『放屁(ほうひ)論』ではまず「音に三等あり。ブツと鳴るもの上品にしてその形円(まろ)く、ブウと鳴るもの中品にしてその形いびつなり、スーとすかすもの下品にて細長い」と屁の形態を論じた後、当時江戸に実在した屁の曲芸師(三味線の伴奏や鶏の鳴き声を奏でた)を引き合いに出し「古今東西、このようなことを思いつき、工夫した人は誰もいない」と称賛し、さらに半ば自嘲気味に「わしは大勢の人間の知らざることを工夫し、エレキテルを初め、今まで日本にない多くの産物を発明した。これを見て人は私を山師と言った。つらつら思うに、骨を折って苦労して非難され、酒を買って好意を尽くして損をする。…いっそエレキテルをへレキテルと名を変え、自らも放屁男の弟子になろう」と語っている。ちなみに「土用の丑の日はうなぎを食べると元気になる」は、蒲焼屋の知人に頼まれて源内が考えたコピーで、それまで夏にウナギを食べる習慣はなかった。
多方面にわたる才能を持ちつつも、キワモノ扱いされて当時の社会に受け入れられず、やがて彼自身も世間に対して冷笑的な態度を取り始める。著作では封建社会をこきおろす作品を発表し、幕府行政の様々な矛盾を痛烈に暴露した。
晩年(1778年)、50歳になった源内は自分を認めてくれぬ世に憤慨し、エレキテルの作り方を使用人の職人に横取りされたこともあって人間不信、被害妄想が拡大し悲劇が起きる。自宅を訪れた大工の棟梁2人と酒を飲み明かした時のこと。源内が夜中に目覚めて便所へ行こうとすると、懐に入れておいた筈の大切な建築設計図(田沼意次の別荘)がない。とっさに“盗まれた!”と思った彼は大工たちに詰め寄り、押し問答の末に激高し、ついに2人を斬り殺してしまう。だがその図面は、源内の懐ではなく、帯の間から出てきたのであった…。発狂した源内は、厳寒の小伝馬町の牢内で破傷風にかかって獄死した(享年51歳)。
源内の墓標を建てたのは、彼と同様に好奇心が強かった無二の親友、杉田玄白。玄白は「ああ非常の人。非常のことを好む。行ないこれ非常なり、なんぞ非常に死するや」と源内の墓標に刻んだ。 現在、 墓は“あしたのジョー”の丹下ジムで有名な泪橋の近くにある。彼が中世イタリアに生れていたなら、間違いなくルネサンスの巨人として人類の歴史に名を刻んでいただろう。墓前で冥福を祈った。
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源内の墓の背後には弟子が眠っており、「平賀源内家来」と刻まれていた |
2000年7月。博物館は改修中で、エジソンが眠っている 私邸への見学ツアーはなかった。せっかくニュージャージー まで来たのに…トホホ。しかも改修はあと3週間で終了だった。 |
そして2003年8月。一度開館した後、再び改修に 入っていた!次の開館は2年後とのこと。んなアホな! ※ボディラインのそり具合が嘆きの深さを表している! |
“ハイ、そうですか”と引き下がれるわけがねぇ! こういうこともあろうかと3年前の涙の写真を持参 していたので、この小屋の中にいる守衛に「一目 だけでも墓参させて欲しい」と説得した(3年前と 同じ中年の黒人の守衛だった!)。守衛はずっと 「ノー」「ソーリー」ばかりだったが、最後に根負け したのか、エジソン邸の“方角”だけを教えてくれ た(自分が教えられるのはここまでだ、とも)。 |
教えてもらった方向にどんどん行くと、ゲート が行く手を阻んだ。この街(ウエスト・オレンジ) は治安が悪く、金持ちは一ヶ所に集まって要塞 の中で暮らしていたのだ。先ほどの守衛は、 このゲートがあるからエジソン邸には行けぬと 言っていたのだ。 |
「えーい、行くしかないだろう!」意を決して門番を説得すべく突撃した!やはり3年前の写真を持って!“もう後がないぞ!”自分はシェイクスピア俳優ばりに、涙を溜め声を震わせて、極限までオーバーな演技で門番に「すぐに帰ってくるから」と吠えまくった!「分かった。行って来い!坂を登って右側に見えてくるオレンジの家だ!」感激。皆さん、これがエジソン邸っす! |
ウギャー!スッポリと覆われている | 問題のプレート | グーテンベルク像 |
世界初の映画『汽車の到着』は1895年にリュミエール兄弟がパリで発表した作品。彼らはパリのカフェに自ら製作した映写機を持ち込み、35人の観客に1フラン(今の千円)で上映した。リュミエール家は街の名士(実業家)。一族の墓の一番右端に兄弟の名があった。姓のリュミエールは仏語で「光」の意。偶然とはいえ映画を生んだ2人にふさわしい名前だね。 ※その後映画産業は発展し、現在の全世界の映画興行収入は約258億ドル、実に3兆円にものぼる。日本では年間400本が製作されている。 |
モールス信号を発明! | 人間との比較で高さは6mくらい? |
兄弟の墓マップが門の側にある | スミソニアン(D.C.)のライト・フライヤー号 | 周囲が石畳のとっても立派なライト家の墓! |
兄貴のウィルバー。45歳で病死 | 墓地の中央付近に眠っている | ライト家 | 弟のオーヴィル |
台座に帽子を置いてみた。10m以上あるのは確実 | てっぺんの女神像 | 巨大な碑文 |
大きなケロッグ家の墓石の前に個人墓が並ぶ | ジョン・ハーヴェイ・ケロッグ | ケロッグ家は地元の名士だ | ケロッグのオールドテイスト |
弟でケロッグ社初代社長のウィル・キース・ケロッグは少し離れた場所に眠る。 |
墓参の帰り、ケロッグ社のロゴ入り気球を 運ぶ車が偶然前を走っていた! |
ジョージアに沈む夕陽と共に | 最後の行に「ORIGINATOR OF COCA-COLA」とある | コカコーラ帝国の生みの親は質素な墓だった |
マクドナルド創業者はこの霊廟に。まさか「王朝」と まで呼ばれる企業になるとは思わなかったろう |
お墓に黄色いMの文字!おかげですぐに分かった |
「いつもお世話になってます!」 近所でゲットして奉納! |
ここがお墓に一番近い店。チビッコ用の チューブ型ジャングルジムが充実 |
こんなに顔が知られている創業者も少ない(笑) | 本名はハーランド・デーヴィッド・サンダース! | 穏やかそうな表情♪ | チキンコンボの箱が! |
真実の種を蒔きたいと、ミレーの種まく人をトレードマークに |
1999 すべての貧乏学生の恩人! | 2009 10年ぶりに再巡礼。右後方に墓誌が増えていた | 東慶寺は古寺で墓石は五輪塔が多い |
古本屋の店主だった彼が出版業に転じ、それまで高価だった文学書を「文庫本」という形で“安く”世に出してくれたおかげで、若者でも手軽に名作に触れることが可能になった。また、多岐にわたって続々と刊行されたことで、目当ての作品を読むために全集をまとめ買いしなくてもよくなった。最初に出版した作品は、親しくしていた漱石の『こころ』であり、芥川は遺書で岩波に全集の出版を託した。岩波の人間性が如何に信頼されていたのかが分かる。1927年、文庫本発刊の際に「持ち運びの便利さと価格の低さを最優先にしたので外観は粗末だが内容に関しては厳選した」との言葉と共に岩波が書いた刊行の言葉は世紀の名文だ!「真理は万人によって求められることを欲し、芸術は万人によって愛されることを自ら望む。(略)生命ある不朽の書を少数者の書斎と研究室とより開放して街頭にくまなく立たせ、民衆と肩を並ばせるであろう!」 |
古い歴史で有名な「スリーピーホロウ墓地」 | 巨大な墓石がドーン | 墓前の広い敷地は全部カーネギー専用 |
たった一代で巨万の富を築く |
岩崎家墓所の通用口…閉まっている(2009) | 正門も完全に閉じており、微動だにしない |
2009年11月、大河ドラマ『龍馬伝』の陰の主人公であり、三菱の創業者・岩崎弥太郎の墓参のために大阪から上京。巣鴨の岩崎家墓所に足を運ぶと、なんと悲しいことに正門も通用門も閉じており、一般公開されていなかった…!ガックリと肩を落として大阪に戻った。 後日ネットを検索すると、複数のサイトに「通常非公開だが命日は一般人も墓参可能」と書かれていた。“なんだってー!”僕は歓喜し、3ヶ月先の命日=2月7日を待った。かくしてその日が到来し、弥太郎の墓参りに再挑戦!新幹線でGO! |
2010年2月7日 “そんな…う…うそだ…” |
「嘘だと言ってくれェーッ!!」 近所の人の情報では、墓守の許可が必要との事 |
だがインターホンの電源が 切れており墓守に繋がらず! |
隣接する小学校に事情を話し、敷地から墓所を 覗かせてもらった。すると、正門の中にさらに もうひとつ門があった!うお、枝の間に墓が見える! |
ま、ま、まさか弥太郎ではッ!?カメラの 望遠を最大にして名前を確認してみると… |
「岩崎弥次郎」、弥太郎の オヤジさんだったぁ〜! 嗚呼、天は我を見放したか |
近所には三菱社宅があったので、住民の方に 許可を頂いて墓所を覗くと、2基の墓石が! でもそれは岩崎美和子(弥太郎の母)と 岩崎秀弥(弥太郎の子)だった。弥太郎や〜い! |
“命日だよ?大三菱の創始者だよ? 龍馬伝で活躍中だよ?墓参者が 列を作っていると思ってたのに!” 状況が腑に落ちず夕方にもう一度訪れた |
やはり門は閉まり墓守の詰所も無人! 僕以外にも墓参者が2人いて、 試しに正門を押してみたけど、まったく 動かず…。わーん!ここまで来て! |
弥太郎は『龍馬伝』で知名度があがっており、僕は早朝から墓所にはひっきりなしに巡礼者が訪れ、三菱財閥の黒塗りの車が行列を作っていると信じ切っていた。と・こ・ろ・が!門が閉まっていたァアアア!墓所にまったく人の気配なし!ギャース!何のためにここまで足を運んだのか…トホホ! 僕が立ちすくんでいると、背後から「弥太郎さんのお墓参りですか」と声。彼(Kさん)も途方に暮れていて、仲間が見つかりめっさ嬉しかった。僕らは手がかりが欲しくて、近所にある三菱のスポーツセンターや墓所に隣接する三菱の社宅の人に墓参の方法を尋ねてみた。分かったことは、門の内側に墓守(はかもり)の家があり、墓参には墓守の許可が必要ということ。だがしかし!肝心の墓守の家は雨戸が閉まっており、インターホンも故障しているのかピンポンと鳴らない(電源が通ってない様子)。 そうこうしているうちに、墓所の門を押している男性をもう一人発見。声を掛けてみると、ビンゴ!彼(Mさん)も弥太郎参りの巡礼者だった!3人寄れば文殊の智慧、墓のことは墓地に聞けということで、岩崎家の4代目以降が眠る近所の染井霊園へGO。職員の方に質問して重大な事実が判明した。いわく「以前は墓守がいて命日に公開していたけれど、今は無人になって門を開ける人がいない。完全に非公開になっている」。ガーン。“そういえば”。僕はかつて染井霊園の庭師の人が「岩崎家墓所の墓守は高齢(お婆ちゃん?)で近年亡くなった」的なことを語っていたのを思い出した。なんてこった。 「墓守が他界し後継者がいないので非公開」という同様のケースは、徳川光圀@水戸黄門の墓所でも起きている。三菱財閥も徳川財団も、墓守を雇うお金は余裕であると思うんだけどなぁ…(もし関係者の方がこのページを読まれていたら、僕、弥太郎さんと黄門様の命日にはボランティアで墓守係をやりますので!)。 |
中央の林に囲まれた場所が岩崎家墓所! | 中心に見える墓石が弥太郎!宇宙から合掌! |
『岩崎弥太郎之墓』 1980年3月12日にNさんが撮影されました!当時は24時間 公開されていたのかも。Nさん超貴重な墓画像を有難うございましたーッ! m(_ _)m |
実業家。明治期に活躍した三菱財閥の創始者。土佐藩の武士の中でも最下級の地下(じげ)浪人=半農の家に生まれる。立身出世を目指して学問に精を出し、土佐藩重臣の吉田東洋の目に止まる。1859年(24歳)、藩命で長崎に赴任したことを機に、長崎貿易で頭角を現す。1861年(26歳)、地下浪人から郷士(ごうし)に身分があがり、次いで1867年(32歳)には上士の身分である新留守居組へと出世した。 明治維新後は藩船の払い下げを使って海運業に進出。1874年(39歳)に勃発した佐賀の乱を始めとして、台湾出兵、西南戦争などで政府の輸送業務を独占し、これによって国内最大の汽船会社を築き上げる。さらに弥太郎は各方面で多角的に事業を展開し、政商として三菱財閥を作り上げていった。50歳で病死。坂本龍馬とは同じ年に生まれており、弥太郎は海援隊の経理を担当していた時期もあった。
※弥太郎は20歳の時に、酒の席の喧嘩が原因で投獄された父の冤罪を訴え出て、自らも投獄されたことがある。
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2009 正面は戒名 | 背面に「後藤象二郎之墓」とある |
函館山を背にした「日露友好の碑」と高田屋嘉兵衛像 |
ロシア側と交渉に挑む嘉兵衛。右手に松前奉行からの書、左手に艦内で正装に 着替えた時の衣服を持っている。函館開港100年を記念して1958年に建てられた |
津軽海峡と函館湾に挟まれた宝石箱のような夜景 | 函館市内の称名寺 |
柵の中の墓石(中央)が嘉兵衛の墓 | 真ん中の戒名「高誉院至徳唐貫居士」が嘉兵衛 |
江戸後期の海運業者で函館発展の基礎を築いた豪商。淡路島出身。28歳の時に函館に渡り、択捉島航路を開発するなど、北洋漁場を開いた。 1811年、ロシア軍艦ディアナ号の艦長ゴローニンは、千島列島を測量中に幕府役人に捕縛される。翌年、嘉兵衛は国後沖でロシア側に拿捕されるが、このピンチをロシア人との友情を育む好機とし、幕府側とロシア側の間に立って、1813年にゴローニンの釈放を実現させた。 嘉兵衛は民間人でありながら日露武力衝突の危機から日本を救ったのだ。ゴローニンは帰国後に記した『日本幽囚記』の中で嘉兵衛について「この世で最も素晴らしい尊敬すべき人物」と絶賛した。 ※残念ながら「高田屋」は嘉兵衛他界の6年後に、家業を継いだ弟が密貿易の疑いをかけられ、幕府に全財産を没収され没落した。 |
案内板で大助かり。 これなら迷わない |
心月院にて。左が正子、右が次郎。正子の墓には梵字で 「十一面観音」、次郎の墓には「不動明王」と刻まれている |
五輪塔を薄くスライス。石を次郎が 選び、正子がデザインした |
“昭和の鞍馬天狗”と呼ばれた伝説的実業家。兵庫の名家に生まれ、10代後半で英国ケンブリッジ大に留学。身長185センチ、スポーツ万能。超行動派かつカー・マニアとあって高級自動車を乗り回し、20代半ばにはスペイン南端のジブラルタルまでヨーロッパ大旅行を終えていた。1928年(26歳)に帰国し新聞記者となる。翌年、友人の妹と結婚(随筆家の白州正子)。その後、商社や食品会社の取締役を歴任し、商用で渡航する際に駐英外交官の吉田茂と親交を深め、イギリス大使館をホテル代わりに使っていた。1940年(38歳)、太平洋戦争を予期して事業から離れ、農村に隠居し畑仕事の日々を送る。戦時中は吉田茂と共に反戦の立場から終戦工作に取り組んだ。戦後は吉田の要請で終戦連絡中央事務局の参与に就任。「我々は戦争に負けたのであって奴隷になったのではない」と占領軍を相手に啖呵を切り、マッカーサーを叱りつけたり、語学力を褒めるGHQの准将を「あなたももう少し勉強すれば上手くなる」とやり込めるなど、その破天荒さは当時の日本人の枠から突き抜けた存在だった。白州はGHQから「従順ならざる唯一の日本人」と呼ばれた。1948年、“戦後の日本は貿易立国として発展するしかない”という信念から貿易庁(通産省)の初代長官に就任。1951年(49歳)、サンフランシスコ講和会議に顧問として随行し、受諾演説を英語でしようとする吉田首相の原稿を書き直し、「独立国なのだ」とあえて日本語で演説させた。後半生は政治と縁を切り、電力会社や大洋漁業(現マルハ)、日テレ、証券会社の顧問などを歴任。日本人で初めてジーンズをはいた男と言われ、三宅一生のモデルを務めたことも。老いてなお80歳まで68年型ポルシェ911Sをかっ飛ばしていたが、1985年に胃潰瘍と内臓疾患で死去。享年83歳。遺言書には「葬式無用 戒名不用」とあった。まさにスーパー日本人。 |
台東区のHPには瑞泉寺に墓があると あったが、墓地を探してもいなかった |
住職に尋ねてみると「関東大震災の大火災で墓も焼けてしまい、 境内のどこに蔦屋が眠っているのか分からなくなった」とのこと。 僕はこの敷地全体を彼の墓と受け止め、寺に向って合掌した |
多くの絵師や作家を援助した蔦屋。 寺の前の言葉は、芸術を世に送った 彼を表しているかのようだった |
台東区の正法寺にも墓があるという情報をキャッチ!しかしこの正法寺、目の前まで来てるのに なかなか場所が分からなかった。だって、まさかこんな大きなビルがお寺なんて思いもよらなかったよ〜! |
あれは…! | 確かに…! | ついに蔦屋に墓参できた! |
江戸中期の出版人。江戸吉原生まれ。短く“蔦重”(つたじゅう)とも呼ばれる。人の才能を見抜く事に長けており、浮世絵師の写楽や歌麿の名作を世に送り、作家の十返舎一九、曲亭馬琴、山東京伝らをバックアップした。1773年、蔦屋は23歳で吉原に書店を開業し、ベストセラーを次々と刊行。33歳で一等地の日本橋に店を構えるようになる。イケイケドンドンで事業を展開するなか、寛政の改革で出版物が風紀違反に咎められ過料(罰金)の処罰を受ける。歌麿や山東京伝は手鎖の刑となった。1794年(44歳)、写楽を見出し役者絵を出版。その3年後に脚気で他界した。享年47歳。開業から約25年の間に800点以上も出版した。写楽の絵がこの世にあるのは蔦屋のおかげだ。 ※フランキー堺は最晩年に映画『写楽』の中で蔦屋を演じた。どうしても死ぬまでにこの役をやりたかったとのこと! ※レンタル大手のTUTAYAは、創業者が「現代の蔦屋になりたい」という思いで付けた名前という。一気にTUTAYAの好感度アップ! |
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