1999 | 2005 |
1920年、中国・山東省青島で写真屋の家に生まれる。20歳で徴兵され満州陸軍航空隊に入隊。終戦を熊本県の特攻隊基地で迎える(25歳)。日本には頼れる身寄りがなかった為、写真技術を生かせる職を探して上京する。軍隊時代の友人が東宝の撮影部にいたのでカメラマン助手を希望して志願書を提出すると、東宝第一期ニューフェイス(新人俳優)募集に係の手違いで履歴書が廻され面接を受けることになった。芝居には少しも興味がなかったので、「笑って下さい」「可笑しくもないのに笑えません」と立腹しながら仏頂面でオーディションを受けると、これがかえって面接官の好評を得て、俳優として補欠採用された。
撮影部に入る夢を諦めきれないでいる三船を、映画『銀嶺の果て』を製作中の谷口監督が説得し(監督は新時代のギャング役を探していて三船がイメージ通りだった)、彼は不本意ながら役者としてデビューする(27歳)。運命の歯車はさらに回る。なんと、同作品の脚本を担当したのは当時37歳の黒澤明だった!三船の演技に惚れ込んだ黒澤は、翌1948年、監督を務めた『酔いどれ天使』のアンチヒーロー(結核で死んでいくチンピラ役)に三船を抜擢し、その人気が爆発する。 以降、黒澤は三船とタッグを組んで『野良犬』『羅生門』『七人の侍』『隠し砦の三悪人』『用心棒』『椿三十郎』『天国と地獄』他の傑作を次々と生み出し、1965年に『赤ひげ』を撮り終わって「(2人で)やれることはすべてやったつもりで心残りはない」(黒澤)と別々の道を歩むまで、17年間に16本の作品を共に創った。 どの映画も三船にとって重要な作品だが、特にベネチア映画祭金獅子賞に輝いた『羅生門』(1950年)は彼を国際的俳優に引き上げ、『用心棒』(1961年)、『赤ひげ』と二度にわたって同映画祭の主演男優賞を受賞するきっかけにもなった。海外からの出演オファーも多く、『レッド・サン』(1971年)ではアラン・ドロンやチャールズ・ブロンソンら仏米のスターと共演し、1979年(59歳)にはスピルバーグ監督の『1941』にも出演している。 晩年は『男はつらいよ・知床慕情』(1987年)、『千利休 本覺坊遺文』(1989年)などで渋い演技を見せ、1997年12月24日、多臓器不全のため亡くなった(遺作は1995年の『深い河』)。享年77歳。 告別式は東宝、黒澤プロ、三船プロの合葬で行なわれ、葬儀に届いた弔電の差出人には、スピルバーグ、マーロン・ブランド、アラン・ドロン、チャールトン・ヘストンら映画関係者に混じって、シラク仏大統領の名もあった。一人の役者の死に、他国の大統領から弔電が届く…こんな日本人の役者は後にも先にも「ミフネ」だけだろう! 彼は世界的な名優となってもけっして傲慢に威張り散らすことはなく、ロケでは撮影隊の機材を一緒に運んだり、付き人を一切つけず撮影所まで自分で車を運転し、常に現場には無遅刻で入っていた。また、撮影前に全てのセリフを句読点まで覚え、台本を現場に持ち込まなかったという。スクリーン上で見せる粗野で男性的なイメージとは裏腹に、映画に向き合う真摯な姿勢と、周囲に対する細かな気遣いが即ち人徳となり、多くの人に愛され、慕われたのだ。 三船が咆哮した時の、あの圧倒的な迫力!エネルギッシュでギラギラした目!観客を巻き込む男泣き!なんという強烈な存在感の役者なんだろう。中でも一番忘れられないのは、『七人の侍』で演じたお調子者の菊千代。普段は明るい彼が、両親を賊に殺された百姓の赤ん坊を川の中で抱きしめた時に「これは俺だ!俺もこうだったんだ!」と嗚咽し、泣き崩れるシーン。あの腹の底からの慟哭が耳の奥にずっと響いている。他にも、『用心棒』&『椿三十郎』のラストの「あばよ!」は最高にカッコイイし、『蜘蛛巣城』で部下の矢を全身に浴びる壮絶なクライマックスは何度見ても息を呑む。『野良犬』でのピストルを盗まれた刑事のジリジリした焦燥感にこちらも汗をかき、『白痴』で惚れた女を殺した後の狂気の目に背筋が凍りつく。まったくもって、三船はスゴイ! ※三船が眠る川崎・生田丘陵の春秋苑は日本で初めての公園墓地で、文人、映画人の墓も多い。とても見晴らしの良い場所に彼は眠っていた。 |
26歳。東宝の面接で | 楽屋でラーメンを食す |
映画『七人の侍』※左端 | 映画界の至宝! | 映画『生きる』 |
嗚呼、自分は貴方にイチコロです!志村さんッ!!(2002) |
8年ぶりに再訪。墓地の最深部に眠る(2010) | 志村さんの墓所を後方から望む |
アクションスターから個性派俳優へ。ハリウッド進出も果たしたが癌に倒れた |
“無”の一文字(2000) | 10年ぶりに再訪、供花がすごい(2010) | ビールのロング缶が似合う |
出生届を1年遅れで出したことから墓石には「三十九才」とある(実際は享年40歳) |
山口県下関市出身。戸籍上は1950年生まれだが実際は1949年生まれとのこと(出生届を1年遅れで提出)。身長185cm。父は日本人、母かね子は韓国人で非嫡出子。遊郭の一角で生まれ育ったという。1967年(18歳)、母に命じられて米国で弁護士になるべく渡米、サンフランシスコのシーサイド大学付属高校へ転入するも10カ月で挫折、帰国する。1969年(20歳)、新宿でバーテンダーをしながら劇団で演技を学び始める。1970年、関東学院大学文学部に入学したが、翌々年に文学座の研究生となり、役者業に集中するため退学を決断。 1973年(24歳)7月からテレビドラマ『太陽にほえろ!』のジーパン刑事役で初レギュラー出演を果たすと同時に、男気のある役柄でブレイク。翌年ジーパン刑事の殉職シーン(自分の血を見て「なんじゃこりゃぁあああ!」)が大きな話題になる。この『太陽にほえろ!』出演を機に、自身が在日韓国人であることがわかればファンが失望すると思い(当時は在日差別が激しかった)、法務省に帰化申請を行う。そして日本国籍を取得し「松田優作」が本名となった。 1974年(25歳)映画『竜馬暗殺』で時代劇初出演、同年の『あばよダチ公』では主演俳優を初めて務める。翌年、ドラマ『俺たちの勲章』出演。文学座を退団し「六月劇場」へ移る。この年、劇団仲間の作家・松田美智子と結婚。 1976年(27歳)、ドラマロケの打ち上げで19歳の若者に重傷を負わせる暴力事件を起こし、懲役10月、執行猶予3年の有罪判決を受ける。これにより1年間テレビドラマのレギュラー出演を自粛。1977年、『大都会 PARTII』でテレビに本格復帰。同年『人間の証明』出演。 1978年(29歳)、村川透監督のハードボイルド・アクション『最も危険な遊戯』に主演し、以降村川監督とタッグを組んで『殺人遊戯』『処刑遊戯』等の遊戯シリーズや、角川映画で個性派アクションスターとして業界に独自の地位を築いていく。優作はスタント場面に自ら挑みスタントマンをほとんど使わなかった。 1979年(30歳)、映画『蘇える金狼』、ドラマ『探偵物語』(探偵・工藤俊作役)に出演。この頃、ボブ・ディランにちなんだ朴李蘭の名で劇団の旗揚げも行った。 30代に入った優作は、過酷な減量で鬼気迫る演技を見せた映画『野獣死すべし』を最後に、アクションスターから演技派へ脱皮していく。 1981年(32歳)、主題歌を歌った映画『ヨコハマBJブルース』(工藤栄一監督)、泉鏡花原作の文芸作品『陽炎座』(鈴木清順監督)出演。同年、『探偵物語』で共演した熊谷美由紀(現・松田美由紀)と不倫関係になり、松田美智子と離婚。 1983年(34歳)の映画『家族ゲーム』(森田芳光監督)は代表作のひとつとなり、キネマ旬報主演男優賞ほか数々の映画賞に輝いた。同年、熊谷美由紀と再婚。後に両者の間には長男・龍平、次男・翔太、長女・Yukiが生まれた。 1984年(35歳)、優作を女手一つで育てあげてくれた母が他界。この時から優作は「心が落ち着くから」と般若心経を唱え始める。 1985年(36歳)、夏目漱石原作の映画『それから』に出演、1986年には初監督作品となる『ア・ホーマンス』で主演もこなした。 1986年(37歳)、膀胱(ぼうこう)に違和感を持ち始める。 1988年(39歳)、次第に尿が出にくくなり、血尿となったため検査を受け、9月に医者から膀胱癌であることを知らされる。同年カンヌ映画祭にノミネートされた『嵐が丘』(吉田喜重監督)、吉永小百合と共演した『華の乱』(深作欣二監督)に出演。 12月25日、前妻の美智子に 「俳優の仕事は、悟りに至るまでの道程だと思っている」と語る。 1989年、優作は延命治療を拒んで撮影に挑み、リドリー・スコット監督の『ブラック・レイン』で、キャリア集大成となるハリウッド・デビューを果たす。同作ではマイケル・ダグラス、高倉健と共演した。この熱演が世界的に評価され、ロバート・デ・ニーロから次回作のオファーが舞い込むなど、“これからは世界が舞台だ!”というまさにその時、11月6日に他界した。癌は腰に転移していた。享年40歳。戒名は「天心院釋優道居士」。 11月8日に三鷹の霊泉斎場で告別式が執り行われ、原田芳雄は次の弔辞を読んだ。「優作。おれは今までお前が死ぬとこを何度も見てきた。そしてその度にお前は生き返ってきたじゃないか。役者なら生き返ってみろ!生き返ってこい!」。 病没の数年前から演出家として演劇活動も再開しており、カリスマ俳優の無念の死だった。 「20代は走って、ファッションでピストル撃ってきたけど、30代は初めてやっと役者に向かわなきゃいけないという、その準備をしてるというか、その練習をしてるというか、まず心のフラットさを今すごく勉強してる。40からですよ、無茶苦茶やるのは。待っててくださいよ(笑)」 キネマ旬報 1986年10月上旬号(優作37歳の時) 優作が眠る西多摩霊園は都心から遠く、駅からも遠く、墓の入口からも遠いうえに、山の上にあった。墓地の中は日陰がなく、真夏の炎天下を這うように向かった。そしてようやく辿り着いた時、墓のあまりのカッコ良さに疲労が一瞬で吹き飛んだ。そこにはただ“無”の一字のみが刻まれ、墓前には線香の代わりに数本の煙草が置かれていた。墓碑裏に小さく「松田優作・三十九歳」と彫られている(先述したように40歳が正しい)。 墓石に刻まれた「無」は、般若心経に登場する「無」とみられる。西洋哲学では「無」は何もないことを指し、東洋哲学では「無」は行間、余白、“間(ま)”のように、「無」をそこに在るものとして考える。西洋の「無」はニヒリズムに通じる否定的な言葉だが、東洋思想において「無」は絶対・無限を示す究極の一文字。松田龍平さんか松田翔太さんに会う機会があれば、墓石に「無」が選ばれた経緯をお聞きしてみたい。 ※無料送迎バスがあった!JR青梅線福生駅の西口から、平日1時間に1本、土日、祝日は2本の連絡バスが出ている。霊園までは約15分。霊園に着いたら、正門近くから出る霊園内バスを使い、5番停留所で下車。32区の標識近くの坂を上って優作の墓前へ。同じエリアに別人の松田さんのお墓があるので注意。 ※映画「誘拐報道」の出演依頼に「子供を誘拐するような役はやりたくない」と断り、その役は萩原健一が演じた。 ※彼が亡くなる年、原田芳雄の母親のお通夜では優作が般若心経をあげた。 〔参考記事〕「般若心経を唱え悟りの境地に至ったのか」(日刊スポーツ) |
京都生まれ。亀崎章雄と名付けられるが、生後半年で父方の姉夫婦(夫は脇役専門の歌舞伎役者・市川九団次)の養子となり、竹内嘉男と改名。雷蔵は中学受験の際に戸籍謄本を見て両親と思っていたのが養父母だったことを知る。育ての親を慕っていた雷蔵は、本当の親子に近づこうと養父・九団次と同じ歌舞伎役者の道を目指し、15歳の時に三代目市川莚蔵(養父の若い時の名)をもらい、大阪歌舞伎座・東西合同大歌舞伎『中山七里』の娘役“お花”として初舞台を踏む。その後も雷蔵は関西歌舞伎の若手公演で人気を博したが、血縁関係が重視される歌舞伎界では、脇役の子は脇役にしかなれない。雷蔵の才能を惜しんだ関西歌舞伎の大御所・市川寿海は、自身が苦労して出世したこともあり、19歳の雷蔵を養子として受け入れることにした(養父母の側にいたいという雷蔵を九団次が説得したという)。雷蔵は太田吉哉(よしや)と改名し、八代目市川雷蔵を襲名した。 約4年間鳴かず飛ばずのまま時が流れ、1954年(23歳)、雷蔵は心機一転を図ってポスト長谷川一夫を探していた映画会社・大映と契約する(デビュー作は『花の白虎隊』。勝新太郎もこれでデビュー)。美男俳優として売り出していたが、1959年(28歳)の『炎上』で金閣寺に火を放つ主人公を自ら希望して演じ、迫真の演技がベニス国際映画祭の演技賞を獲得するなど、演技派として認められた。そして1963年(32歳)、心に陰を持つニヒルな剣士として、後にシリーズが12本も作られることになった最大の当たり役『眠狂四郎殺法帖』に主演する。また雷蔵は、映画出演の他にも歌舞伎公演、著作活動などを精力的にこなしていく。 36歳、劇団を結成して初公演の準備を進めるなか、稽古の初日に“どうも腹具合がおかしい”と検査に向かった病院で直腸ガンと判明し即入院・手術となる。3ヶ月後に退院し、痩せ細った体で『博徒一代・血祭り不動』を撮り終えた後、ガンが肝臓に転移して再入院。抗癌剤の副作用で頭髪が脱け落ちやつれきった雷蔵は、病室のテレビで若き日の自分の姿を見て慟哭したという。彼は変わり果てた容貌を見舞い客に見せようとせず、1969年7月17日8時20分に永眠した。顔には遺言通りに白い布が巻かれ、子どもにさえ死に顔は見せなかった。享年37歳。銀幕に登場した23歳から37歳までの15年間に、158本の出演作をファンに残して旅立った。戒名「大雲院雷蔵法眼日浄居士」。 僕が最も“雷さま”にシビれた瞬間は、映画『斬る』(1962年)のラスト数分。主君を守りきれなかった雷さま(当時31歳)扮する薄幸の剣士が、黙って自害していくその所作の美しいこと!筆舌に尽くし難い虚無感が画面全体に満ち、鳥肌が立ちっぱなしだった。 お墓は池上本門寺の五重塔の南側エリアにある。墓碑には市川雷蔵ではなく本名で「太田家之墓」と彫られているので要注意。自力で探すのは大変なので、本殿横の寺務所で必ず“お墓マップ”(無料)をもらおう。地図には、力道山、溝口健二、幸田露伴、松本幸四郎、狩野探幽ら他の有名人の墓所も記載されています。 【重要追記】近年市川雷蔵の墓はここからどこかへ移転されたそうです!今は更地になっているとのこと(汗) |
三味線を弾く勝新。 元来こちらが本職だった。 |
兄の若山富三郎。初代銭形平次(左)がカッコイイ。 美しい殺陣で、「立ち回りは日本一」といわれている |
蓮乗寺の入口は見落としやすいので注意 | 本堂の右手に墓地がある | 墓石がギッシリ。勝新の墓は奥の方 |
勝新と若山富三郎は同じ墓に入っている(2009) | 正面に名前はない | 側面に本名の“奥村” |
フラッシュなし | フラッシュあり(1999) |
真っ暗の写真は撮影ミスじゃない。1999年の初巡礼では、道に迷っているうちに日が暮れてしまった。皆さんに夜の墓探しの難しさを知ってもらいたく、意図的にフラッシュなしで撮ってみた。この時は、民家の薄明かりを頼りに墓を探し出した。懐中電灯を持って見回りに来たお寺の人が仰天し、「寺の者でも夜は怖いのに、おたく平気なんですか!?」。僕は「目が見えんのは座頭市さんと同じですワ」。 |
2012年度の日本映画の興行収入は、過去最高となる1280億円に達した。この売上げは外国映画の“約2倍”に相当する。テレビの登場で一時期は観客動員が激減した映画界だが、今や完全復活を遂げたと言っていい。邦画は1980年代後半から20年近く興行面で洋画に敗北を続けてきただけに、ダブルスコアの完勝を鬼籍に入った日本の大スターたちも喜んでいるだろう。様々な個性派俳優が活躍した昭和の銀幕でも、抜きん出て強い存在感を放っていたのが勝新太郎だ。
●勝新太郎…本名、奥村利夫。1931年東京生まれ。兄・若山富三郎の2歳下。17歳で2代目杵屋勝丸を襲名し、当初は長唄の道を歩んでいた。1954年(23歳)、日本舞踊家・吾妻徳穂の米国公演に三味線弾きとして参加した際、役者たちが1等船室で自分たちは船倉という待遇の差に愕然とする。米国では撮影所でジェームズ・ディーンと出会って感化され、帰国後に役者となるべく大映に入った。同年、『花の白虎隊』で同じ年齢の市川雷蔵と同時デビューを飾る。しかし、2枚目役ではなかなか人気が出ず、雷蔵は映画1本のギャラが30万であったのに勝は3万円だった(しかも雷蔵はハイヤーの送迎付だった)。 勝は芸風を広げる必要性を痛感し、1960年(29歳)、座頭市の原型『不知火検校(けんぎょう)』で極悪非道の鍼医者という汚れ役に挑戦した。翌年(30歳)、硬派な任侠精神を持つ一匹狼・朝吉を熱演した『悪名』が初ヒットを記録。ここから市川雷蔵と共に大映の「二枚看板」として認知されていく。1962年(31歳)、後に全26本も作られることになる“座頭市”シリーズの第一作『座頭市物語』が公開された。同年『不知火検校』で共演した中村玉緒と結婚。1965年(34歳)、規則の厳しい軍隊の中にあって奔放に生きる男を描いた『兵隊やくざ』が人気を集め、これもシリーズ化されることに。勝は『悪名』『座頭市』『兵隊やくざ』という3本の大ヒット・シリーズで主演をはる花形スターとなった。 大映では、雷蔵、京マチ子、若尾文子に次ぐギャラ(300万円)を貰っていたが、勝はもう少しギャラをアップしてもらおうと、永田社長に指2本(20万円)を出して「これだけギャラを上げてくれ」と交渉。それを断られた為、憤った勝はストライキを行った。その結果、映画1本のギャラが「200万」も上がり500万円になった。永田社長は“指2本”を勘違いしていたのだ。 この頃、映画界は日本映画産業の再興を目指して、大物スターが独立プロダクションをおこしていた。1962年に三船敏郎が三船プロ、1963年に石原裕次郎が石原プロを設立。その流れの中で、1967年(36歳)に勝も勝プロをおこし独立した。翌年には中村錦之助(萬屋錦之介)が中村プロを設立している。他のスター俳優との年齢差は、三船敏郎が11歳年上、中村錦之助が2歳年下、石原裕次郎が3歳年下。 ライバル・プロダクションと腕を競う中で、勝プロはマンガの実写映画化にも挑戦し、兄・若山富三郎を起用した『子連れ狼』を世に送り出した。1974年からテレビシリーズの『座頭市』を制作、人気に支えられ全100話もの大長編となった。 飛ぶ鳥を落とす勢いで活躍した勝だが、プライベートでは問題も多かった。1978年、47歳の時にアヘンの不法所持で書類送検され、翌年は黒澤監督の『影武者』撮影中に監督と大喧嘩して主役を降板した(自分の演技を研究する為、ビデオカメラを現場に持ち込んだが、撮影を黒澤が認めなかった)。1981年(50歳)、映画づくりにおける勝の完全主義は制作費を高騰させ、12億の負債を抱えて勝プロは倒産した。1987年(56歳)、親交のあった石原裕次郎が病没(享年52)。葬儀に際し、勝が友人代表として弔辞を読む。 1989年(58歳)、16年ぶりに撮影した座頭市の収録中に、俳優として出演していた長男の真剣が殺陣師の首に刺さる死亡事故が起こる。翌年の『浪人街』(黒木和雄監督)が勝にとって最後の映画出演となった。同年、ハワイで大麻不法所持の疑いで逮捕され強制退去処分を受ける。勝は記者会見で「何でパンツの中に(コカインとマリフアナを)隠したのか、今でも分からないんだ。今後は同様の事件を起こさないよう、パンツをはかないようにする」と発言。帰国の際は「大統領は入れ替えられても、勝新太郎の代わりはきかない」と言い放った。日本での初公判では「持っていたことは事実です。申し訳ない。ただ、密輸というのはちょっと。飛行機の中でもらったもんです」「機内で麻薬を手渡したのは神様かもしれない」と語り、検察側を絶句させた。入手先についてシラを切り通し、懲役2年6ヶ月・執行猶予4年の判決を受ける。この事件の影響で、制作費5億円のキリンビールのCMがたった1日で放送打ち切りとなり訴訟を起こされた。 1992年に若山富三郎が死去(享年62)。5年後の1997年6月21日、勝は咽頭癌によって65年の波乱に満ちた人生を閉じた。1997年は、3月に中村錦之助が、6月に勝が、12月に三船敏郎が他界するという、日本映画界にとって激動の年となった(ちなみに裕次郎没後10年)。勝の葬儀は築地本願寺で行われ、11000人もの人々が参列した。法号「大光院明利能勝日新居士」。墓所は港区三田の蓮乗寺で、兄と同じ墓に入った。自他共に認める“役者バカ”で、愛嬌のある悪漢を演じれば勝の右に出る者はいなかった。その豪快な生き方で多くの後輩俳優たちに慕われた希代の役者であった。 ※勝新太郎いわく「中村玉緒は勝新太郎無しでも存在し得るが、勝新太郎は中村玉緒無しでは存在し得ない」。映画引退後の最後の舞台は中村玉緒と夫婦役を演じた『夫婦善哉』(大阪新歌舞伎座)だった。 ※長男(奥村雄大、現・鴈龍)と長女(元女優・奥村真粧美)が大麻密売で逮捕されている。長男は後に再犯。 ※ネットで読んだ勝新太郎の逸話。ある有名寿司店で最大限のもてなしを受けている時、一見の客が軽くあしらわれたのを見て、勝新は100万ほどの札束をポンと置いて「すいやせん。映画はどんなお客さんでも平等に楽しんでもらえるもんです。あたしだけ特別あつかいってのは嬉しいんですが、限度があります。勝新太郎の名に汚れがつくので、これで失礼させていただきやす」と席を立ち、一見のお客さんに「もっとうまい寿司をごちそうさせていただきやす。お時間あるんだったら、ご一緒していただけませんか?お代は心配いりやせん」と声をかけ、他の寿司屋に連れて行ったとのこと。 ●若山富三郎…20歳の時に長唄の和歌山富十郎に弟子入りした。25歳、映画会社に勧誘され銀幕にデビューするが、長く人気が出なかった。33歳の時に名前を城健三郎と改名(後に戻す)して、新太郎と共演した『続・座頭市物語』で注目される。人気こそ新太郎に及ばなかったが、俳優を志す前は柔道の師範を目指しており、多くの時代劇俳優の中で最も殺陣の優れた俳優といわれた。年を重ねるごとに、主役を食う渋い名脇役をつとめるようになった。『博打打ち・総長賭博』で演じた不器用で一本気な松田役は、その迫真の演技でいつまでも僕は忘れられない。 「立ち回りは俺より兄貴の方が上手い」(勝新太郎) 「師匠と呼べるのは若山富三郎先生だけ」(千葉真一) (若山富三郎/超熱血ファンページ) ●墓巡礼記 蓮乗寺は山手線田町駅から300mなので充分徒歩圏内なんだけど、入口を見落としやすいので注意。僕は通り過ぎてしまった。墓地は本堂の右手。勝新太郎と若山富三郎は墓地に入って右側奥の方で同じ墓に眠っている。墓前には焼酎が供えてあり、漢たちの墓に合っていた。1999年の初巡礼では、道に迷っているうちに日が暮れてしまい、周囲の家屋の薄明かりを頼りに墓を探した。墓石の正面には「宝篋印塔」としか彫られていないため、なかなか発見できずに涙目になっていたところ、懐中電灯を持って見回りに来たお寺の人(おそらく住職の奥様と母上)が仰天。「私らお寺の者でも夜は怖いのに、おたく平気なんですか!?」「僕は勝新さんのファンで、お墓を探しています」「だけど暗くて見えないでしょう?」。僕は怪しまれてはいけないと焦りまくり、「見えないのは座頭市さんも同じだし、心の目で見ていました」と支離滅裂な返答。お二人がドン引きせずに案内して下さったおかげで無事に墓前へたどり着けた(有難うございました!)。 |
本名の“田所”で眠る | 最後の作品・寅次郎紅の花 | 若い頃 | 感動をありがとう! |
本名、田所康雄。東京上野に生まれる。小学校卒業の寄せ書きは「がんばれ ふんばれ されどいばるな」。中学卒業後は、上野界隈で的屋のサクラなどをしていた。25歳で浅草フランス座の専属コメディアンとなり、芸名を渥美清とする。ところが、大衆演劇を中心に活動をし始めた矢先に肺結核となり、右肺の全摘出手術を行なうことに。
28歳で復帰してからは、舞台だけでなく映画やテレビにも出演していく。1957年(29歳)、朝丘雪路と共演した『すいれん夫人とバラ娘』でテレビドラマ初出演。1962年(34歳)、初の主演映画『あいつばかりが何故もてる』が公開。1968年(40歳)、「男はつらいよ」の原型となったテレビ・シリーズがオンエアされる。最終回で寅がハブに咬まれて死んだため、その死を惜しむ声が高まり翌年の映画化に繋がった。 1969年(41歳)、映画「男はつらいよ」の記念すべきシリーズ第1作が公開。同年結婚した奥さんの渥美評は、「ブラウン管から受ける感じそのまま。スモッグだらけのごみごみした中にいても心に夢を忘れない人」。 1983年(55歳)、「男はつらいよ」連続30作主演でギネスブックに登録された。 1991年(63歳)、肝臓癌が見つかり、3年後には肺へ転移していた。67歳、「男はつらいよ」最後の作品となった第48作目『寅次郎紅の花』のロケに際し、渥美は最後まで病気を隠し抜いた。抗癌剤を腹巻きに隠して撮影の合間に飲み、周囲に気づかれぬよう付き人に薬の包装を捨てさせていた。翌1996年8月、肺癌により死去。享年68歳。遺言の「俺のやせ細った死に顔を他人に見せるな。家族だけで荼毘に付してくれ」に従い、静かに密葬された。後日、松竹大船撮影所でファンの為に葬儀が行なわれ、3万人を超える人々が訪れた。死後、役者として長谷川一夫についで2人目の国民栄誉賞受賞を贈られた。 山田洋次監督は“寅さん”のコンセプトをこう語っている--「悲しい事を笑いながら語るのはとても困難なことだ。だが、この住みづらい世の中にあっては、笑い話の形を借りてしか伝えられない真実というものがある。人間が人間らしく生きることが、この世の中にあってはいかに悲劇的な結末をたどらざるを得ないかということを、笑いながら物語ろうとしてるんです」。渥美清は見事に監督が求める人物像を演じぬいた。
●墓巡礼記 渥美清が眠る源慶寺は新宿駅から徒歩20分。墓は寺墓地を入って右奥、マンションとの壁沿いに建っている。墓石には本名の“田所康雄”とだけあり、どこにも役者“渥美清”の名はない。「死んでいくのは田所康雄であって、渥美清でも“寅”でもない。絶対に“寅”の墓は作るな」、この意向によるものだ。葬式が終わるまで、その死さえ秘密にされていた。まさに役者の中の役者である。
※密葬の後日、松竹大船撮影所でファンの為に葬儀が行なわれ、その時は3万人以上も訪れたとのこと! |
昭和の大スター | 中央が長谷川一夫 | 演出も手がけた |
1999 | 2008 この10年で花入れが一つ増えている | “一夫”と刻まれている |
墨田区の本法寺にも墓。墓地は山門の対面 | 本法寺の長谷川夫妻の墓。繁夫人は新橋の名妓(2010) |
戦前、戦後を通して約300本の映画に出演した大スター。京都生まれ。5歳で歌舞伎の舞台を踏み初代中村鴈治郎に入門、端正な風貌、華麗で繊細な身のこなしから、その女形は女性より美しいと評された。19歳(1927年)、青年歌舞伎で活躍するうち松竹に美貌を買われて契約、鴈治郎はそれを祝って伝統ある林長二郎の名を贈った。松竹ではデビュー作『稚児の剣法』を皮切りに、約10年間で120本近くの作品に出演。その美形ぶりに恍惚とした女性が大挙して劇場へ足を運び、松竹の看板俳優のみならず時代劇の第一人者となった。しかし、月給は大河内伝次郎や阪東妻三郎といった他社の花形俳優よりずっと低く、師匠の鴈治郎追善興行でも金銭面で非協力的など、松竹の自身への処遇に閉口した結果、活力に溢れていた東宝への移籍を決心する(29歳)。
新天地、東宝での撮影第1日目に悲劇は起きた。1937年11月12日夜、京都で新作『源九郎義経』のスチール写真を撮影した帰途、移籍に反対する暴漢にナイフで襲われ、役者の命である顔を左目の下から上唇にかけて12cm、左耳の下から頬にかけて2cm、骨膜に達するまで切り裂かれてしまう。ニ枚目俳優にとっては致命傷で役者生命も終わりかと思われたが、メイクや照明の力を借り、カメラの角度を工夫するなどして傷痕を隠し、執念で演じ続けた。事件は大きな話題となり人気はさらに上昇、翌年、林長二郎の名を松竹に返上した彼は、本名の長谷川一夫に戻った。
戦後は大映のトップスターとして君臨し、1953年(45歳)、映画『地獄門』がカンヌ国際映画祭でグランプリを取り、翌年に溝口健二監督の『近松物語』に出演したことで国際的にも名を知られるようになる。最後の作品は55歳の時の『江戸無情』(1963年)。以後の20年間も、東宝歌舞伎を発足させたり、1974年にタカラヅカのベルばら初演を演出するなど活躍の場を広げた。
1984年、病で先立った夫人の納骨式を厳寒の墓地で行ない体調を崩した長谷川は、半月後に脳血栓を起こしそれが頭蓋内膿瘍となり、76年の人生の幕を下ろす。没後、国民栄誉賞が贈られた。
※『近松物語』で惚れた女性と刑場に連行されるシーンは本当に胸が熱くなった。2人ともこれから死ぬというのに、手を握りながら至福の表情を見せるんだ。僕は人生の幸、不幸は、他人じゃなく自分が決めるんだと心から思った。長谷川一夫はそう強く確信させてくれる顔だった! 谷中霊園は山手線日暮里駅に隣接しており簡単に足を運べる。墓碑は6千を超えるが、中央に交番がありそこで園内の地図をもらえる。長谷川の墓は交番の目と鼻の先にあって場所的にはとても分かりやすいが、墓碑の正面には戒名「照林院澄誉演雅一道大居士」しか彫られていない。常に花の絶えない墓だ。 |
2000年 マニキュアや香水があった | 2009年 彼女には夏の青空とヒマワリがよく似合う |
この墓地は夏目さんの墓前を空き地にしてヒマワリ畑にしている。素晴らしい。ヒマワリは彼女が愛した花だ。どこの 寺墓地もギッシリと墓石があり、この様にわざわざ花の為に区画をあけているのは珍しい。寺側の好意なのか、彼女の 家族が正面も購入してヒマワリ畑にしたのかは分からない。いずれにせよ、草葉の陰で彼女も喜んでいるだろう ※右上の写真は9月下旬に撮影。1ヶ月早ければもっと美しく咲き誇っていたと思う |
東京府中市の多磨霊園。こちらの実家・小達家の墓にも分骨されているとのこと(2010) |
本名西山雅子。白血病のため27歳の若さで亡くなる。墓前には彼女が大好きだったひまわりが咲き乱れていた。マニキュアや香水が供えられていたことが、若い女性の墓を表していた。彼女のように物腰が美しく、清楚で知的な女優は、今はもう本当に少なくなった。 |
『金色夜叉』で長谷川一夫と共演 | 溝口監督『西鶴一代女』から | 邦画界初の女性映画監督でもある |
溝口監督をして「100年に一度の逸材」と言わしめた大女優。山口県にも墓がある。 |
様々な男と出会い、別れる度にさらに悲惨な境遇に陥り人生を転落していく痛々しい女主人。人生の一つの真実が描かれた『西鶴一代女』で、そんな女の10代から50代までの生き様を演じきった田中絹代の一世一代の名演技に唸った。最晩年、病床についた彼女は見舞いに来た者に「目が見えなくなっても、やれる役があるだろうか」と尋ねたという。まさに役者の鏡! |
俳優業だけでなく歌手としても 絶大な人気を博した昭和のスター |
『人生劇場・飛車角と吉良常』 |
肺癌の為に62歳で他界 |
ギリシャ悲劇の如く荘厳な悲しみに 満ちた傑作『博奕打ち・総長賭博』 |
正面の柱は本名の“小野家墓所”、側面に「鶴田浩二之墓」とある(2005) | 大円院の菩提所(2009) |
本名小野榮一。静岡県浜松市出身。俳優、歌手。母は父の実家から結婚を反対され入籍できず、出産後に小野家へ嫁ぎ、鶴田も引き取られた。13歳の時に大阪へ転居。俳優に憧れていた鶴田は14歳で松竹の時代劇スター・高田浩吉の劇団に入団する。19歳、関西大学専門部商科に入学。すぐに学徒出陣令で徴兵され、終戦まで横須賀海軍航空隊に所属(整備兵)。大勢の戦友が神風特攻隊で散っていった。1945年(21歳)、少尉として敗戦を迎える。翌年、肺結核にかかり、薬の副作用で左耳が難聴になる。※後年、歌手になった時に左手を左耳に添える独自の歌唱スタイルをとっていたのは、音を正確に捉える為。 1947(23歳)、高田の口利きで松竹京都撮影所に入社し、翌年に時代劇『遊侠の群れ』の端役で銀幕デビュー。1949年、25歳で初主演を務めた『フランチェスカの鐘』が公開。松竹若手の人気俳優となり、高橋貞二(享年33)、佐田啓二(享年37)らと共に“青春三羽烏”と呼ばれ人気を得る。1950年(26歳)、美空ひばり共演の『あの丘越えて』など話題作に出演しトップスターの仲間入りを果たす(この頃、雑誌の人気投票で1位に。ちなみに2位池部良、3位長谷川一夫)。 1952年(28歳)、独立して「新生プロ」を設立。暴力団が興行権をめぐって芸能界に介入し、鶴田も大阪で暴漢に襲われる。共演者の岸恵子と恋に落ち一時失踪。同年『男の夜曲』で歌手デビュー。 30歳、独立プロの経営が破綻。フリーとなって大手各社と契約し、『宮本武蔵』シリーズなど、生涯に200本以上の作品に出演する。女優の中尾照子と結婚し長女が誕生(女優の鶴田さやかは三女)。34歳、東宝歌舞伎で初めて舞台を踏む。 1963年、39歳から3年連続で『人生劇場・飛車角』、『博徒』、『明治侠客伝・三代目襲名』と本格任侠物が大ヒットし、高倉健と共に東映・任侠映画の看板俳優として極道モノに数多く出演。ヤクザを美化するのではなく、むしろヤクザの虚無や悲哀を演じた(その最たるものが1968年の『博奕打ち・総長賭博』!クライマックスの“俺はただのケチな人殺しだ”は映画史に残る名セリフ)。 1971年(47歳)、前年に公開された『傷だらけの人生』で京都市民映画祭主演男優賞を受賞し、主題歌が第13回・日本レコード大賞大衆賞、第2回・日本歌謡大賞放送音楽特別賞を始め各賞に輝く。50歳、NHKドラマ『男たちの旅路』シリーズで熱演した戦中派のガードマン役で高い評価を受ける。1978年(53歳)、『男たちの旅路・第3部シルバーシート』で昭和52年度芸術祭大賞受賞。 1985年(60歳)、肺に膿が溜まっていることが判明し入院生活が始まる。同年に公開された『最後の博徒』の松方弘樹の兄貴役が、最後の銀幕出演となった。1987年、肺ガンで逝去。享年62歳。葬儀の弔辞は池部良が務め、棺は戦友たちの葬送ラッパで送られた。 日本映画の黄金期に数多くの作品に出演し、極道やギャングといったアウトローから、社会を底で支えるサラリーマン、戦場で葛藤する兵士、剣豪など様々な役を演じた。甘いマスクの鶴田だが、彼が他の二枚目俳優と異なるのは、勇ましい任侠役を演じながらも、単に武勇を誇るだけの男を描くのではなく、深い哀しみに裏付けされた、母性的な包容力と優しさを持った人間像を描き出したことだろう。真の男らしさとは腕力ではなく、他者を思いやる心にあると教えてくれた。 二十歳の頃に戦争で多くの友人を失ったことが、人生と命に対する真摯な姿勢の根幹となった。鶴田の後半生は供養の日々であり、俳優であると同時に僧侶のようでもあった。自費で硫黄島やサイパン島、フィリピンの島々に渡航しては、野ざらしになっている戦没者の遺骨を収集し続け、1971年から晩年までの約15年間、「遺骨収集基金」の為にチャリティ・ショーを開催して日本遺族会へ寄付を行なった(総額5千万以上)。鶴田の活動は日本政府を動かし、本格的な遺骨収集団が派遣されることになる。こうしたことからも、「昭和」を代表する俳優の一人だったといえる。 ※45秒だけこの音楽サイトで鶴田浩二の歌声が聴けます! |
東京神田生まれ。本名田村伝吉。“阪妻(バンツマ)”の愛称で親しまれる。子供たちも著名な俳優に育った(長男・田村高広、3男・田村正和、4男・田村亮)。木綿問屋の次男として生まれ、丁稚奉公に就いた後、1916年、15歳で11代目片岡仁左衛門に入門。22歳、いくら稽古に励んでも一向に役をもらえずヘコんでたところを、“日本映画の父”牧野省三が設立したマキノ映画製作所からスカウトされ、歌舞伎界を去る。すぐに『三好清海』の端役で映画デビュー。同じ年、『佐平次捕物帖・鮮血の手形』で初主演。身のこなしにキレがあるイケメン剣戟スターとして人気が沸騰する。 阪妻は脚本にも恵まれた。気鋭の脚本家・寿々喜多呂九平は、チャンバラ・シーンなどアクションだけが売り物だった映画に、主人公の悔悟や挫折感といった、心の陰影を練り込んだ。1925年(24歳)、独立して阪東妻三郎プロダクションを設立。そして同年、製作・牧野省三、監督・二川文太郎、脚本・寿々喜多呂九平、撮影・石野誠三という最強の編成で、日本映画史上に燦然と輝く傑作『雄呂血(おろち)』を発表した! サイレント期に大量に作られた時代劇の中でも、最高傑作と言われる『雄呂血』。冒頭に出てくる言葉は「世人無頼漢と称する者、必ずしも真の無頼漢に非ず。表面高潔なる人格者と称せられる者、必ずしも真の善人に非ず。表面善人の仮面被り裏面に悪を行う大偽善者、また我等の世界に数多くあることを知れ」。社会に溢れるうわっつらの偽善を激しく糾弾した、反逆心の塊の様なこの作品は、国家権力の検閲によって約6分の1が大幅にカットされ、原題の『無頼漢』が『雄呂血』という、タイトルでは内容が何も分からない題名に変更された。 主人公の純粋な若侍は、善意の行動がことごとく誤解を受けて藩を追われ、想いを寄せる女性にも絶交され、流浪の旅を送るうちにヤクザの用心棒にまで身をやつしてしまう。しかし、若侍の初恋の女性を親分が手篭めにしようとするのを知り、彼女を救出する為に大暴れ。ところが事情を知らぬ町奉行は刀を振り回す若侍を一方的に悪と決め付け、ただの「無頼漢」として捕縛、連行していく。一方、主人公を破滅させた偽善者たちは、上手く世渡りをしてのうのうと栄えている。そして冒頭の「世人無頼漢と称する者、必ずしも真の無頼漢に非ず--」がもう一度繰り返される。もがけばもがくほど運命に見放され、その一途さゆえに反逆者となってしまう不条理。 ストーリーもさることながら、この作品が革命的だったのは、阪妻が見せたリアルな立ち回り!阪妻以前の「旧劇」のチャンバラは、日本最初の映画スター・尾上松之助に見られるような、主人公が大見得をきって睨めば、敵の方が勝手に“倒れてくれる”歌舞伎様式。戦いより「舞い」の要素が強い。一方、阪妻が大捕物で表現したのは、傷だらけになって、悲愴な表情でのたうち回り、ボロボロの体で敵を斬る凄絶なもの。四方八方から捕縄や瓦を投げつけられ、無数の捕手に包囲されるクライマックスは日本映画界の伝説となっている。『雄呂血』に見られる、ニヒルだが心優しい主人公が、加えられた侮辱に対し我慢に我慢を重ね、ついに大噴火して乱戦になるという展開は、その後のヒーロー像のひとつのスタンダードとなった。 しかしこの後、役柄がワンパターンとなり演技もマンネリ化して、人気は徐々に凋落。監督業を試みるも不発する。また、国内で初めてハリウッドと提携した阪妻立花ユニヴァーサル映画を創設するも短期間で頓挫。35歳で12年続いた阪妻プロを解散した。 人気が落ちた要因の一つに、サイレントからトーキーへの転換があった。阪妻は細く甲高い声のため、役の渋いイメージとのギャップが大きくファンが失望したのだ。1937年(36歳)、マキノ正博の紹介で活躍の場を日活に移し、発声矯正の特訓をして声質を変えた。同年の『恋山彦』、翌年の『血煙高田馬場』等で、再び剣戟王・阪妻として返り咲いた。 稲垣浩監督と出会ってからはさらに役柄を開拓し、1943年(42歳)に公開された『無法松の一生』では、武骨で不器用な人力車夫のひたむきな愛を情感たっぷりに演じ、演技者として高い評価を受けた。戦後になるとGHQ(占領軍)から日本刀を振り回す立ち回りを禁じられ、1948年(47歳)、伊藤大輔監督と組んで『王将』など現代劇に挑戦し、チャンバラ抜きでも高い演技力が絶賛された。48歳、松竹に移籍。同年の木下恵介監督の『破れ太鼓』では現代コメディにも挑んだ。1953年、『あばれ獅子』の撮影中に高血圧で体調を崩し脳内出血を起こし、51歳で人生の幕を下ろした。出演作は約190本に及んだ。伊藤監督は阪妻をこう評した「歌舞伎の世界でいう大名題、百年不世出の傑物」。 墓碑銘は「田村家累代墓」。没する9年前に建てられた生前墓で、側面に「田村伝吉」と刻まれている。長男が建立した墓誌にも「父伝吉」とあるのみで、役者名「阪東妻三郎」の名はどこにも見当たらなかった。銀幕のスターの魂は高広、正和、亮ら息子たちに受け継がれ、皆父の年齢を超え大いに活躍している。 ※『雄呂血』は東大寺境内で撮影された。今でも同じ景色だ。 ※京都二尊院の墓はお寺のパンフにも載っており、墓があるのを知らずに院を訪れた阪妻ファンは感激しまくり! |
「榎本家之墓」(2003) | 墓前の石碑「喜劇王エノケンここに眠る」(2010) | 墓域全景(2010) |
ドタバタ喜劇の帝王。愛称「エノケン」。東京生まれ。浅草オペラで大衆演劇の魅力に開眼。小柄を活かしたスピーディな動きやナンセンス・ギャグ、牧歌的な日本風ジャズソングで人気を博し、松竹、東宝のドル箱スターとなる。映画の代表作は1937年(33歳)の『エノケンのちゃっきり金太』。1950年(46歳)、右足が壊疽になって2年後に足指を失い、1962年(58歳)には右足を大腿部から切断したが、それでも執念で義足をつけて舞台に上がった。 |
群馬県出身。本名植木正義。父が芝居好きで、9歳の時に11代目片岡仁左衛門が主宰する片岡少年劇(少年歌舞伎)に入り舞台に立つ。以降、青春時代を歌舞伎の修業に捧ぐ。仁左衛門は癇癪持ちで千恵蔵に対し「貴様は鈍な役者だ!」と真剣のミネで激しく殴りつけ、そのカツーンという音を聞いた嵐寛寿郎は「歌舞伎や古典やと偉そうにいうけれど、阿呆でも名門のセガレは出世がでける。才能があっても家系がなければ一生冷や飯食わされる、こんな世界に何の未練もないと思うた」と歌舞伎界から映画界へ移り、千恵蔵や長谷川一夫もその後に続く。
1923年、20歳で映画『三色すみれ』に初出演。その後、作家直木三十五の紹介で“日本映画の父”牧野省三のマキノプロに入り、24歳の時に吉川英治原作『万花地獄』で“片岡千恵蔵”の名でデビュー、美剣士ぶりが話題になる。翌年25歳の若さで京都嵯峨野に片岡千恵蔵プロダクションを設立。山中貞雄、マキノ正博、伊丹万作、稲垣浩ら才能ある様々な個性派監督と組んだ後、9年後に千恵プロを解散。1937年に日活へ移って内田吐夢監督のもとで初めて現代劇『人生劇場』に挑む。1942年に大映へ移籍。阪東妻三郎(バンツマ)、嵐寛寿郎(アラカン)と並ぶ時代劇の大スターに成長してゆく。
※1939年の『鴛鴦歌合戦』は戦争中とは思えない超陽気な時代劇オペレッタで、僕は初めて見た時、笑い過ぎて椅子から転げ落ちた。「ボ〜クはワカ〜イ殿様〜♪」と町を練り歩くディック・ミネは超シュールだし、戦後に黒澤映画の重鎮となる志村喬まで喉を聴かせているのが圧巻。千恵蔵はクールな「貧乏」浪人を演じていて、これが貧乏に誇りを持っているイキな男。未見の人、絶対に観て下さいッ!
戦後はGHQ(占領軍)からチャンバラの立ち回りを禁止され、1946年(43歳)、千恵蔵は日本刀をピストルに持ち替えた現代劇『多羅尾伴内』シリーズや、横溝正史の「金田一耕助」シリーズなどミステリーに活路を見出す。チャンバラの封印が解けると1950年(47歳)に“遠山の金さん”を演じ、これが18作もシリーズ化される最大の当たり役となった!1951年(48歳)、東映創立。千恵蔵は市川右太衛門と共に取締役に選ばれ、両者は「御大」と呼ばれる重役スターに。1955年(52歳)、内田吐夢と組み『血槍富士』に出演、各方面から絶賛される。1957年『任侠清水港』では清水次郎長を、1959年(56歳)のオールスター映画『忠臣蔵』では大石内蔵助を演じトップスターの座を維持し続けた。1963年の『十三人の刺客』の後、テレビが普及するにつれ映画産業がじわじわ下火に。右太衛門は主役以外の仕事を断ったが、千恵蔵は脇役でもどんどん引き受けて、その役を楽しんだ。とにかく演じることを愛していた。
50年の長きにわたり日本映画黄金期の顔であり続けた千恵蔵は80歳で永眠。出演作は実に325本を数えた。東映は長年の映画界への貢献を称えて「東映葬」を執り行なった。
墓のある蓮華寺の近くには東映太秦映画村があり、施設内には千恵蔵を語った「人気、実力とも、今後彼に勝るほどのスケールの大きい映画俳優は現れないかもしれない」との最大限の賛辞と共に、愛用の特製麻雀牌(家紋入り)や、楽屋で使った化粧箱など遺品の一部が展示されている。
墓前には千恵蔵と縁の深い実業家・五島昇が一回忌の時に建てた、重量感のある立派な墓誌がある。そこにはこう刻まれていた『俳優片岡千恵蔵は映画と共に生き、半世紀に亙り人々を夢と希望とロマンの世界へ誘ない、生きる勇気を与えた。常に日本映画の最高のシンボルであり東映の基を築き、終生大スターであり続けた。千恵蔵は我々の内に永遠に生き続けるだろう』。
※出演作325本!駆け出しの頃から様々な身分の人間を演じてきた千恵蔵。とにかく役のレンジが広い。近藤勇、鼠小僧、森の石松、水戸黄門、遠山金四郎、大石内蔵助、浅野内匠頭、め組の辰五郎、国定忠治、北条時宗、織田信長、宮本武蔵、金田一耕助、多羅尾伴内、貧乏浪人etc。時代劇から現代劇まで、各ジャンルで名演を残した。
※「血槍富士」「獄門砦」「人生劇場」で映画大衆賞。
※京都宇多野の弁慶足型池は「千恵蔵遭難の池」と映画人に呼ばれている。かつて千恵蔵が池の周りで満開になっていた桜に見とれて、新車のキャディラックごと池に落ちてしまったという。桜に見とれて、っていうのがイキな理由だねぇ。 |
わが国初の映画スター! |
立命館大のキャンパス北側。大学と墓地がくっついてる ので驚いた。松之助の墓は墓地に入って左側(2010) |
石柵に囲まれた一画のなか、 左から2番目が彼の墓(2007) |
こちらは高野山の墓。台座に 「京都」と刻まれていた(2009) |
明治から大正期にかけて日本映画の草創期に活躍した日本最初の映画スター。目を見開き見得を切る演技から“目玉の松ちゃん”の呼び名で愛された。本名中村鶴三(かくぞう)。岡山出身。6歳で初舞台に立ち、18歳で芝居一座の座長となり巡業を開始。1902年(27歳)、尾上松之助を襲名する。29歳、牧野省三監督と出会い映画界に勧誘される。1909年(34歳)、牧野省三監督の『碁盤忠信(ごばんただのぶ)』で主演デビュー。以降、生涯に出演した時代劇は1000本以上。1925年、50歳のときに主演した1000本記念映画『荒木又右衛門』では、従来の歌舞伎調の立ち回りからリアルな殺陣に演技を進化させ、さらに名声を高めた。翌年心臓病の為に惜しくも他界。人格者で慈善事業にも取組み、私費を投じて貧困者の為の長屋を建設。こうしたことからも人々に慕われた。京都で行われた葬儀には5万人(知事を含む)が参列し、葬列の沿道は20万の市民で埋め尽くされたという。 |
夕陽を浴びる裕次郎。階段の両側にも「裕次郎」と彫られている | 圧巻の迫力。戒名は「陽光院天真寛裕大居士」 |
横浜市鶴見区の総持寺の墓所に眠る。 お寺そのものも巨大でビックリした |
墓碑の夫人の言葉「美しき者に微笑を、淋しき者 に優しさを、逞しき者に更に力を、全ての友に思い 出を、愛する者に永遠を。心の夢醒める事無く」 |
このカリスマぶり! 案内板は数カ所ある |
神戸生まれ。昭和30年代に絶大な人気を博したスーパーアイドルで日活のドル箱スター。兄・石原慎太郎が享楽的な若者を描き芥川賞に輝いた『太陽の季節』の映画版に、当時慶応大学生だった22歳の裕次郎が出演。脇役にもかかわらず大きな話題を集め、続いて『狂った果実』で主役を演じた。1957年(24歳)には『俺は待ってるぜ』『嵐を呼ぶ男』が大ヒット。主題歌もまた人気を呼んだ。その後も『陽のあたる坂道』『錆びたナイフ』など、立て続けにヒット作を生みだし、徐々に演技派路線を目指していく。1963年(29歳)、石原プロを設立し、俳優の養成、テレビ映画の制作にも乗り出す。同年、市川崑監督の『太平洋ひとりぼっち』で芸術祭賞を受賞。歌手としては昭和30年代の10年間に100曲以上を録音し、500億円以上の売り上げを記録する。1972年(38歳)、『太陽にほえろ!』の放映開始。『大都会』シリーズも人気を集め、出演俳優は「石原軍団」と呼ばれた。1981年(47歳)、大動脈瘤で入院した際は見舞い客12000人、手紙5000通、花束2000束、千羽鶴1000束というからハンパじゃない(この時の主治医は向井千秋さんだった)。1987年、肝癌のため52歳で他界。酒とタバコとヨットが大好きだった。 |
本名の佐々木で眠っている | 墓誌には千秋実と彫られている |
北海道、現・美深町出身。本名、佐々木勝治(かつじ)。劇団員として舞台で活躍中に黒澤明監督から映画出演を勧められ、1949年(32歳)、同監督の『野良犬』で銀幕デビュー。その後、『羅生門』(1950)、『白痴』(1951)、『生きる』(1952)、『七人の侍』(1954)、『隠し砦の三悪人』(1958)、『天国と地獄』(1963)など、黒澤映画11作品に出演し、大きな存在感を放つ。1985年(68歳)、『花いちもんめ。』で日本アカデミー賞最優秀主演男優賞に輝く。1999年、急性心肺不全で他界。『七人の侍』では最初に命を落とす侍役だったが、七人の役者の中では一番最後まで生きていた。
※『隠し砦の三悪人』で千秋実が演じた農民が『スター・ウォーズ』のC-3POのモデルとなったのは有名な話。
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日本最高の女優。 女優の中の女優! |
本名の“石山”で眠っている。墓前の石碑には「自分で 選んで歩き出した道ですもの〜女の一生より」とある |
富士山に近い素晴らしい環境。雨天が残念至極。 晴れの日に再巡礼したいな |
芸能生活70年、日本演劇界の中心的存在として活躍した広島県出身の新劇女優。本名は石山春子。遊女の私生児として色街に生まれる。幼少時に両親が他界し養女となった後、成長して女学校の音楽教員となる。1926年(20歳)、築地小劇場(後の俳優座)の広島公演に胸を打たれ、翌年上京して入団。1937年(31歳)、岸田国士らによる劇団文学座の結成に参加した。
1945年4月(39歳)、戦争末期に渋谷で初演された『女の一生』(森本薫作)の主人公・布引けいを演じ、この演技が喝采を浴びる。1948年(42歳)、芸術院賞受賞。1963年(57歳)、これまで順調に来ているように見えた文学座だったが、あまりに杉村の権力が大きくなったため、反発した岸田今日子、芥川比呂志、小池朝雄、仲谷昇ら中堅の劇団員が大量に脱退してしまう(脱退組は“劇団雲”を結成)。続けて、これまで杉村のために度々戯曲を書いていた三島由紀夫が右傾化を強めたため、新作戯曲の上演を拒否したところ、怒った三島や古株の劇団員が脱退してしまった。創立以来最大の危機を迎えた文学座だったが、杉村は若手の江守徹、樹木希林、太地喜和子、高橋悦史らを育成してこれを乗り越えた。 『華岡青洲の妻』、『鹿鳴館』、『欲望という名の電車』など、様々な舞台に挑戦する一方、映画界では名監督から引っ張りだこに。1951年(45歳)に『めし』(成瀬巳喜男)、1953年(47歳)に『東京物語』(小津安二郎)と『にごりえ』(今井正)、1955年(49歳)に『野菊の如き君なりき』(木下惠介)、1965年(59歳)に『赤ひげ』(黒澤明)、1995年(89歳)には『午後の遺言状』(新藤兼人)など、実に約100本に出演。テレビを含めて幅広く活躍した。1974年(68歳)、東山千栄子、初代水谷八重子に次ぐ女優の文化功労者に選ばれたが、1995年の文化勲章はまだ現役であることを理由に辞退。
1996年、90歳になり杉村は51年間演じてきた『女の一生』の布引けい役を交代。初演から半世紀、上演回数947回という大記録となった。 翌1997年、膵臓ガンで倒れ3ヶ月後に他界した。享年91歳。死の翌年、新人賞としての杉村春子賞が創設された。2人の夫は共に結核で先立った。 「(杉村の映画『小島の春』を見て)あれ以上の衝撃を以降感じたことはありません。演技の師匠を持たない私が、心から尊敬しお手本としたのは10代から憧れた杉村先生ただ一人です」(森光子)
「(『小島の春』を見て)仕方なしにやっていた役者稼業に以後本気で取り組むようになった」(高峰秀子) 「美しい所作の先生は杉村さんです」(吉永小百合) |
『寅次郎夕焼け小焼け』の“ぼたん”、最高デス! | 杉村春子の後継者だった |
勝林寺の墓地に入り住宅側の壁際に建つ。たくさんのユリの花が美しかった! | 墓誌より |
東京都出身。本名の太地は“たいじ”と読む。高校時代に東映6期ニューフェイスオーディションに合格。志村妙子の名で映画の脇役を務める。東映と解約した後、1964年(21歳)に俳優座養成所に入り、1967年(24歳)文学座に入団する。同年に主演した映画『花を喰う蟲』の演技が評価され、さらに1968年(25歳)、『藪の中の黒猫』(新藤兼人)の体当たりの演技が大きな話題となった。舞台でもポスト杉村春子として『欲望という名の電車』、『近松心中物語』などで熱演し注目を集める。1974年(31歳)、俳優仲間と結婚したが間もなく離婚。その後、尾上菊五郎、三國連太郎、中村勘三郎と浮名を流すが再婚しなかった。1976年(33歳)、『男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け』(第17作)でマドンナの“ぼたん”を好演。
1992年、舞台『唐人お吉』の公演期間中、乗っていた車が深夜の海に転落。同乗者の外山誠二と大滝寛は脱出したが、太地は泥酔していたうえカナヅチであったため溺死した。享年48歳。芸能界きっての酒豪として知られていたが、事故という形で死を早めてしまった。
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海外で先に成功した | “川上家之墓”とある | 鶴見にある総持寺の奥の方の墓地 | 墓誌に『春の波涛』の文字 |
日本の近代女優第一号。明治〜大正期に活躍。本名は貞。東京出身。生家は両替商を営んでいたが維新で没落。7歳で芸者置屋の養女となる。「奴」の名で芸者となり、才色兼備ゆえ伊藤博文や西園寺公望に気に入られ“日本一の芸妓”となったが、1891年、20歳の時に新演劇の川上音二郎と出会い、3年後に23歳で結婚した。翌々年、音二郎が神田に川上座を新築開場。しかし、音二郎が2度にわたって衆議院議員選挙で落選し、1899年(28歳)に川上座は開場から3年で人手に渡ってしまう。これを機に一座はアメリカ巡業に出発。 女優貞奴としての初舞台は『娘道成寺』。サンフランシスコで急遽代役として公演し話題となった。だが、公演資金を興行師に全額持ち逃げされ、一座は無一文となり餓死寸前でシカゴに着き、空腹の悲壮な演技が“真に迫っている”として喝采を浴びた。アメリカを横断後にロンドンで巡業し、1900年(29歳)のパリ万博に出演した。その際、歌舞伎『鞘当(さやあて)』と『道成寺』をミックスした演目「芸妓と武士」が大当たりとなり、国際女優マダム貞奴として一躍有名になった。エキゾチックな日本舞踊や貞奴の美貌もあって、ピカソ、ドビュッシー、ジッドらも演技を絶賛した。フランスの大統領から官邸の園遊会にも招かれ、オフィシェ・ダ・アカデミー勲章が授与された。「マダム貞奴」の名は欧米に轟いた。 日本での初舞台は海外で成功を収めた後の1903年(32歳)。シェークスピア『オセロ』のデズデモーナ役である鞆音(ともね)を演じ、さらに『ハムレット』でオフィーリア役の“おりえ”に扮した。同年から児童劇の走りとなるお伽芝居(童話劇)にも取り組んだ。1908年、帝国女優養成所(帝国劇場付属技芸学校)を開設。1911年(40歳)、音二郎が病死。“貞奴一座”として活動を続け、1917年(46歳)、明治座で引退興行『アイーダ』を演じた。後年は実業家の“電力王”福澤桃介と結ばれ、名古屋で幸せに暮らした。享年75歳。1985年、生涯がNHK大河『春の波涛』でドラマ化された。 |
黄門さまといえばこの笑顔 | 黒澤監督『七人の侍』では、人質をとりスローモーションで倒れる悪党を演じた |
群馬県富岡市出身。『水戸黄門』で初代の黄門さまを1969年8月4日から1983年4月11日まで14年、全381回に わたって演じた。黄門さま独自の豪快な高笑いは、3年がかりで練り上げたという。思想はリベラル。 |
父娘共に演劇人。今日子はムーミンの声でも知られる | テーブル型の珍しい墓 | 右から3番目に岸田国士、5番目に今日子 |
女優、声優、童話作家。妖しさを秘めた高い演技力、独特の声、唯一無二の存在感から、映画、舞台、テレビを問わず引っ張りだこだった。父は劇作家で文学座創設者の岸田國士(くにお)。俳優の岸田森は従弟。1953年(23歳)、今井正監督の『にごりえ』の端役で銀幕デビュー。翌年、仲谷昇と結婚。1963年(33歳)、文学座幹部(杉村春子ら)の運営に限界を感じていた山崎努、小池朝雄、芥川比呂志らと文学座を脱退。 1968年(38歳)、長女出産。翌年、娘のためにアニメ『ムーミン』のムーミンの声を担当。1975年(45歳)、「演劇集団 円」の設立に参加。多忙な生活の中で48歳で離婚。晩年まで精力的に俳優活動を続ける一方で、「九条の会」など護憲運動に身を投じた。2006年12月17日、脳腫瘍により他界。享年76。麻雀に強く阿佐田哲也に勝つほどの腕前。 |
2代目黄門さま | モダンなデザインの墓 | 本人自筆。非常に愛妻家だった |
俳優、声優。北海道札幌市出身。父は東洋初の人間型ロボット「學天則」(1928)を製作した生物学者の西村真琴。日本大学の在学中から舞台に立つも、1943年(20歳)に学徒動員で海軍航空隊にとられ、特攻隊員として出撃。出撃機不良で基地に引き返し終戦を迎えた。 戦後、東京芸術劇場研究所(劇団民芸)の第一期研究生となる。新劇俳優として舞台や映画でキャリアを積み、個性派俳優として認知される。1983年(60歳)、初代水戸黄門役の東野英治郎の後を受けて2代目黄門となり、1992年まで283回出演した(妻が他界し降板)。映画『帝都物語』では父・真琴役を演じた。また、劇場アニメ『ルパンVS複製人間』ではマモー役の声優を務めた。 晩年、食道がんを発病し、心不全のため他界。享年74歳。墓石には自筆で名を刻む。葬儀委員長を特攻隊仲間の裏千家15代家元の千玄室が務めた。ローラースケートの名手。 |
日本人初の国際スター。本名、早川金太郎。千葉県出身。1907年(21歳)、サイレント時代のハリウッドに単身渡米し、7年後の1914年、28歳でトマス・インス監督『神の怒り』でデビュー。同年、レジナルド・バーカー監督『タイフーン』、翌年にセシル・B.デミル監督『チート』と連続して出演し、エキゾチックなセックスアピールによってアメリカ人女性を虜にした。大ヒットした『チート』で残忍な悪役を演じた早川は、日本社会から「国辱俳優」の汚名を背負うことになったが、早川の人気は高まる一方で、イタリア人ルドルフ・ヴァレンティノ(1895-1926)と人気を二分する外国人スターとなった。 1922年(36歳)にはブロードウェイで主役を演じた最初の日本人となる。早川はハリウッドに4階建て32室の大豪邸を構え、次第に現地の邦人社会も早川を成功者として認めるようようになった。1929年(43歳)、英国人の新人女優と愛人関係になり、しかも子ども(雪夫)を産ませたるというスキャンダルが起き、ハリウッドでの人気が急降下し、活動の場をヨーロッパに移す。 1949年(63歳)、ハンフリー・ボガードの説得でハリウッドに帰還。その後、1958年(72歳)に『戦場にかける橋』でアカデミー助演男優賞にノミネートされ、再び世界から称賛を浴びた。1973年11月23日、急性肺炎で他界。享年87。デビューから半世紀以上も海外で活躍した本物の国際的映画俳優。ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームには「Sessu Hayakawa」が刻まれている。 ※妻の青木鶴子(1892-1961)は川上貞奴の夫・音二郎の妹の子で、彼女もハリウッド草創期の人気女優となった。鶴子は早川が浮気相手に生ませた実子でない3人の子供たちを育て上げた。 |
映画俳優。本名は大邊男(おおべ・ますお)。福岡県生まれ。舞台(新国劇)から時代劇入りし、剣劇俳優として成功。
「忠次旅日記」「血煙高田の馬場」「大菩薩峠」などに出演。当たり役は丹下左膳。悲愴感ただよう演技とスピード感あふれる殺陣で従来の時代劇スターの定型を破った。 阪東妻三郎、嵐寛寿郎、片岡千恵蔵、市川右太衛門、長谷川一夫と「時代劇六大スタア」と呼ばれた、戦前を代表する時代劇俳優。京都に大河内山荘を造営。 |
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