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温厚かつ陸軍きっての名将 | 今村家の墓域 | 輪王寺の墓地は広大!墓は三重塔に近い |
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今村大将のような人ばかりだったらどんなに良かったか! | 同墓域に建つ『今村均累代之墓』 |
日本陸軍にも名将がいた!住民弾圧もナシ!僕が敬愛する今村均(1886-1968)陸軍大将を全力で紹介したい。今村大将の存在は愚将の多い軍上層部の中で燦然と輝いている!
1886年、仙台生まれ。父は裁判官。中学を首席で卒業し、一高(東大)への進学が期待されたが、父が他界し経済的に 厳しくなり陸軍士官学校へ。1907年(21歳)、陸軍歩兵少尉に任官、20代半ばに陸軍大学校に進学した。幼少期より夜尿症にる睡眠不足に苦しんでいたが陸大を首席で卒業し、陛下から恩賜の軍刀を賜る。1918年(32歳)、イギリス大使館附武官補佐官として渡英。1922年(36歳)、陸軍歩兵少佐に昇進。
1927年(41歳)、インド公使館附武官として渡印。1935年(49歳)、陸軍少将に昇進。1941年(55歳)、第16軍司令官として開戦を迎え、5万5千の兵力で蘭領インドネシアを攻略する。空挺部隊や航空兵力を効果的に活用し、わずか9日間で約2倍の敵兵=蘭軍約9万3千、英豪軍約5千を無条件降伏させ、最重要戦略目標のパレンバン油田地帯を制圧した。この戦いでオランダ側に流刑されていたインドネシア独立運動の指導者スカルノやハッタら政治犯を「これから貴殿たちは自由だ」と解放し、さらに資金物資を援助した。
軍政指導者としても腕を振るい、石油精製施設を復旧して石油価格をオランダ統治時代の半額にしたり、蘭軍から没収した金で各地に学校の建設を行い、集会の自由を保証し、民衆にはオランダ統治下で禁歌となっていた独立歌「インドネシア・ラヤ」を解禁した。日本兵には略奪禁止を命じ、一般オランダ人には外出の自由を認め、捕虜軍人の待遇もよく寛容な軍政を行った。
大本営がジャワ産白木綿(しろもめん)を日本へ大量輸入するよう求めてきたが、今村司令官は「現地人から白木綿を取り上げれば日常生活を圧迫する」として拒否した。内地から批判の声が起き、1942年、軍政最高顧問・児玉秀雄がジャワへ赴任し実態調査を行った。児玉は「治安状況、産業の復旧、軍需物資の調達において、ジャワの成果がずばぬけて良い」「原住民は日本人に親しみをよせ、オランダ人は敵対を断念している」と 報告し今村司令官の軍政を賞賛した。
だが、軍中央からの今村司令官への圧力は続き、陸軍省軍務局長・武藤章や人事局長・富永恭次は、シンガポールの如く強圧的な軍政に転換するよう求めた。これに対し、今村司令官は陸軍参謀本部起案の『占領地統治要綱』に書かれた「公正な威徳で民衆を悦服させ」という一文を出して方針変更に抵抗した。同年11月、今村司令官はわずか在任10ヶ月で第16軍司令官を解任され、新たに第8方面軍司令官としてニューギニアのラバウ ル(ニューブリテン島)に左遷された。
※今村司令官の後任でジャワを統治した原田熊吉中将は、今村司令官と逆に強圧的な軍政を行ったため、ジャワでは抗日ゲリラの動きが活発になった。
1943年(57歳)、陸軍大将に昇進。同年4月に旧知の山本五十六海軍大将(今村より2歳年上)が撃墜され嘆き悲しむ。この頃、ガタルカナル島が陥落するなど太平洋の各島は次々と米軍に占領されていた。 今村大将はラバウルが本土や他島から補給線が切れることを予測し、自給自足体制を確立するため島内に大量の田畑を作らせ、自ら農具を握り開墾した。同時に米軍上陸や爆撃に備えるため、堅牢な地下要塞を構築。要塞内には長期戦を見込んで弾薬生産工場まで保有していた。マッ カーサーはラバウル上陸を断念し、兵糧攻めを狙った迂回進撃・飛び石作戦を行うが、自活体制が整い充分に物資が備蓄されたラバウルに効果はなく、米軍勢力圏にあって終戦まで日本軍が駐留した。
1945年(59歳)、日本降伏。今村大将はラバウル戦犯者収容所に収容され、豪州軍の裁判を受ける。現地住民の好意 的な証言などから禁錮10年となった。ジャワ島時代の責任を問う裁判では無罪となる。1950年(64歳)、東京の巣鴨拘置所に移されるが、翌月「(部下 は南方の監獄なのに)自分だけ東京にいることはできない」とニューギニア・マヌス島で服役する事を希望。マッカーサーいわく「私は今村将軍が旧部下戦犯と 共に服役する為、マヌス島行きを希望していると聞き、日本に来て以来初めて真の武士道に触れた思いだった」。3月よりマヌス島刑務所にて服役。1953年 (67歳)、刑務所閉鎖につき東京の巣鴨拘置所に移った。68歳、刑期を終え出所。その後は自宅の片隅に建てた謹慎室に自身を幽閉し、戦争を反省。質素な生活の中で「回顧録」を出版し、印税をすべて戦死者や戦犯刑死者の遺族の為に用いた。出所から14年後、1968年10月4日に82歳で他界。温厚な人柄で部下から慕われ、指揮官としても将兵の命を終戦まで守り抜き、戦後の真摯な行動も実に立派。猪突猛進、無責任な指揮官が多い軍部にあって、別格の存在と いえる。
※ラバウル駐留軍だった水木しげる先生いわく「(今村大将は)私の会った人の中で一番温かさを感じる人だった」。戦時中の新聞は今村大将を「教養に富み部下を愛する謙虚な風格ある将軍である」「人情将軍」と紹介している。 ※大陸での南寧作戦(1939)では第5師団長として指揮を執り、数十倍の戦力を有した中国国民党軍の大攻勢を数十日間もしのぎきった。
※ジャワ島攻略の際、重巡洋艦「最上」の魚雷誤射で搭乗艦が撃沈され、真夜中に重油の海を3時間泳いで救助される経験をしている。
※第14軍司令官・本間雅晴中将はフィリピン・バターン攻略に難航した。これを大本営が問題視した際、今村大将は本間 中将に同情し、杉山参謀総長に大本営批判を行った「バターンの苦戦は大本営の状況誤認に因るところが多く、兵力不足の状態で占領を急かされた本間にのみ責任を被せるというのは酷すぎる」。
※戦史研究で知られる作家・半藤一利(はんどう・かずとし)は、“名将”として今村均・山本五十六、栗林忠道、石原莞
爾・永田鉄山、米内光政・山口多聞、山下奉文・武藤章、伊藤整一・小沢治三郎、宮崎繁三郎・小野寺信をあげ、“愚将”として牟田口廉也・瀬島龍三、服部卓
四郎・辻政信、石川信吾・岡敬純、特攻隊責任者の大西瀧次郎・冨永恭次・菅原通大をあげている。
※スカルノ(1901-70)…インドネシア共和国初代大統領。在任1945〜67年。ジャワ島スラバヤ出身。在学中から民族運動に参加し、1929年(28歳)にオランダ当局に逮捕される。2年後に釈放となったが、1933年(32歳)に再逮捕され流刑となった。9年 後の1942年(41歳)、今村均中将(当時)によって釈放され、対日協力のかわりに政治指導者の地位を認められた。1945年8月17日(44歳)、日本降伏直後にインドネシア独立を宣言し初代大統領に就任。再植民地化を狙うオランダと戦い、1949年(48歳)に独立を承認させた。その後、1955年 (54歳)にジャワ島・バンドンで第1回アジア・アフリカ会議を開催するなど反帝国主義運動をリード。1965年(64歳)、新興国家の指導者として反米色をより強めて国連を脱退。1967年、軍部トップのスハルトに大統領権限を奪われ、翌年第2代大統領となったスハルトによって監禁。2年後(1970 年)に軟禁状態のまま病没した。
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海軍兵学校…明治から敗戦まで存続した海軍の初級士官養成を目的とした教育機関。試験が難しく合格者はエリート中のエリート。月謝はなく三食付き。
予科練(海軍飛行予科練習生)…海軍が小学校高等科卒業生を対象に少年航空兵を養成した機関。
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“マレーの虎”と呼ばれた山下大将 | 墓前の岩。隙間から草が生え生命力を感じた |
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多磨霊園の墓域(2010) | 正面に「山下奉文墓」、左側面に「妻ヒサ」とある | 山下大将の追悼碑 |
陸軍大将。マレーの虎。高知県出身。1916年(31歳)陸軍大学校を卒業、参謀本部員として渡欧し、スイス、ドイツに駐在。オーストリア大使館付武官を経て、帰国後に陸軍省軍事課長、軍事調査部長を歴任した。1936年(51歳)、二・二六事件が勃発し、反乱軍の皇道派青年将校と親交があった山下は天皇の不興を買い、国外勤務に移され、歩兵第40旅団長(朝鮮)、北支那方面軍参謀長(北京)などを務めた。1940年(55歳)、航空総監に就任し、軍事視察団長として独伊を訪問、ヒトラーと面談する。 1941年12月8日(56歳)、太平洋戦争の開戦に当たり、第25軍司令官としてマレー半島上陸作戦を指揮。翌年2月に、イギリス軍の東アジア最大の拠点シンガポールを攻略、英軍パーシバル将軍に無条件降伏を迫り、開戦から約3カ月で陥落させた(英軍降伏時、山下は通訳に対して「イエス・オア・ノー」と言ったが、これが誤ってパーシバルに言ったもの=敗者に高圧的と伝えられた)。シンガポール陥落時、司令部参謀の辻政信による華僑虐殺事件(犠牲者6千人)を防げなかったことが、後年の戦犯裁判で不利となった。山下はマレー半島における快進撃により国民的英雄となったが、二・二六事件の影響で最後まで昭和天皇に拝謁が叶わなかった。また、陸軍統制派・東条英機は山下を疎んでマレーから満州に配属した。 1943年(58歳)、大将に昇進。翌1944年9月26日 、フィリピン守備の為に山下の才能が必要となり、第14方面軍司令官としてフィリピン防衛戦を担当。10月20日、マッカーサー将軍は650隻もの艦隊と10万5千人の米兵を率いてフィリピン・レイテ島に再上陸した。 これに対して大本営は誤情報(台湾沖航空戦で戦果を過大評価)に基づいた作戦を立案。作戦ミスを指摘した山下の注進を聞かない南方軍総司令官・寺内寿一の無能さもあって日本軍は敗北を重ねた。米軍がマニラを擁するルソン島に上陸すると、山下率いる第14方面軍は持久戦を選び山岳地帯にこもった。一方、岩渕三次少将率いるマニラ守備隊は米軍と3週間にわたって戦い玉砕。日本軍の死者約1万2千人、米軍戦死者1010人、巻き込まれたフィリピン市民の犠牲者は約10万人にのぼった。 日本政府は8月15日に降伏し、山下らも9月3日にフィリピン・バギオにて降伏。降伏式に立ち会ったのは、かつてシンガポールで降伏したパーシバル将軍と、満州の捕虜収容所から救出され、東京湾上ミズーリ号の降伏式で署名したジョナサン・ウェインライト中将だった。 10月下旬から戦犯裁判が始まり、12月に死刑判決が下る。1946年2月23日、山下はシンガポールでの華僑虐殺事件、フィリピンにおける捕虜虐待などの責任を問われ、マニラ郊外でBC級戦犯として絞首刑になった。享年60。辞世の句「待てしばし勲のこしてゆきし友 あとなしたいて我もゆきなむ」(しばらく待って欲しい、武勲を残して逝った友よ。君の後を慕って私もそちらに行くから)。妻への辞世「満ちて欠け晴れと曇りにかわれども とわに冴え澄む大空の月」。 多磨霊園の他にも埼玉県さいたま市の「青葉園」に山下大将の墓がある。同地は戦後日本で最初の民営墓地であり、山下奉文のために作られた。(本墓は青葉園とのこと) 〔山下大将の遺言より〕※要約のため抜粋、現代語に置き換えています。原文はコチラのブログに。 「新日本建設には、私達のような過去の遺物に過ぎない職業軍人あるいは阿諛追従(あゆついしょう=へつらい)せる無節操なる政治家、侵略戦争に合理的基礎を与えんとした御用学者等を断じて参加させてはなりません」。 「日本の前途を思うの余り一言申し添えたいと思うのであります。踏まれても、焼かれても強い繁殖力を持った雑草は春が来れば芽を吹きます。国ことごとく破れて山河のみとなった日本にも旺盛なる発展の意志を持った日本の皆様は、再び文化の香り高い日本をあの1863年の丁独戦争(ドイツ・デンマーク戦争)によって豊穣なるシュレスリッヒ、ホルスタイン両州を奪われたデンマークが再び武を用いる事を断念し、不毛の国土を世界に冠たる欧州随一の文化国家に作り上げたように建設されるであろう事を信じて疑いません。私ども亡国の徒は衷心(ちゅうしん、心底)からの懺悔と共に異国の地下から日本復興を祈念いたします。新に軍国主義者どもを追放し自ら主体的立場に代られた日本国民諸君、荒された戦禍の中から雄々しく立上がって頂きたい。それが又私の念願であります」 「私の刑の執行は刻々に迫って参りました。もう40分しかありません。この40分がいかに貴重なものであるか、死刑因以外には恐らくこの気持の解る人はないでしょう。私は森田教誡師と語ることによって、いつかは伝わるであろう時を思い、皆さんに伝えて頂くことに致します。聞いて頂きたい…」 《新しい日本に必要な3点》 (1)高い道徳性に基づいた義務の履行 「自由なる社会におきましては、自らの意志により社会人として、否、教養ある世界人としての高貴なる人間の義務を遂行する道徳的判断力を養成して頂きたいのであります。この倫理性の欠如という事が信(信用)を世界に失い醜を万世(ばんせい、永遠)に残すに至った戦犯容疑者を多数出すに至った根本的原因であると思うのであります。人類共通の道義的判断力を養成し、自己の責任に於て義務を履行するという国民になって頂きたいのであります」。 (2)科学教育の振興 「一度海外に出た人なら第一に気のつく事は、日本人全体の非科学的生活ということであります。合理性を持たない排他的な日本精神で真理を探究しようと企てることは、あたかも水によって魚を求めんとするが如きものであります」 「我々は優秀なる米軍をくい止めるため、百万金にてもあがない得ない国民の肉体を肉弾としてぶつける事(神風特攻)によって勝利を得ようとしたのであります。必殺肉弾攻撃・体当り等の戦慄すべきあらゆる方法が生れました。(略)我々は資材と科学の貧困を人間の肉体をもって補おうとする、未曾有の過失を犯したのであります。この一事をもってしても、我々職業軍人は万死に価するものがあります」 「あの広島、長崎に投下された原子爆弾は恐怖にみちたものであり、それは長い人間虐殺の歴史において、かくも多数の人間が生命を大規模に、しかも一瞬の中に奪われたことはなかったのであります。獄中にあって研究の余地はありませんのでしたが、恐らくこの原子爆弾を防御し得る兵器は、この物質界において発見されないであろうと思うのであります。(略)この恐るべき原子爆弾を防御し得る唯一の方法は、世界の人類をして原子爆弾を落としてやろうというような意志を起こさせないような国家を創造する以外には、手はないのであります」 「私がこの期にのぞんで申し上げる科学(の振興)とは、人類を破壊に導く為の科学ではなく、未利用資源の開発あるいは生存を豊富にすることが平和的な意味において、人類をあらゆる不幸と困窮から解放するための手段としての科学であります」。 (3)女子教育 「日本婦人の自由は、自ら戦い取ったものではなく占領軍の厚意ある贈与でしかないという所に危惧の念を生ずるのであります」。 「従順と貞節、これは日本婦人の最高道徳であり、日本軍人のそれとなんら変る所のものではありませんでした。この虚勢された徳を具現して、自己を主張しない人を貞女と呼び忠勇なる軍人と讃美してきました。そこにはなんら行動の自由、あるいは自律性を持ったものはありませんでした。皆さんは古い殻を速かに脱し、より高い教養を身に付け、従来の婦徳(ふとく)の一部を内に含んで、しかも自ら行動し得る新しい日本婦人となって頂き度いと思うのであります。平和の原動力は婦人の心の中にあります。皆さん、皆さんが新に獲得されました自由を有効適切に発揮して下さい。 自由は誰からも犯され奪はれるものではありません。皆さんがそれを捨てようとする時にのみ消滅するのであります。皆さんは自由なる婦人として、世界の婦人と手を繋いで婦人独自の能力を発揮して下さい。もしそうでないならば与えられたすべての特権は無意味なものと化するに違いありません。 最後にもう一つ婦人に申し上げ度い事は、皆さんは既に母であり、又は母となるべき方々であります。母としての責任の中に次代の人間教育という重大な本務の存することを切実に認識して頂き度いのであります。(略)私のいう教育は幼稚園、あるいは小学校入学時をもって始まるのではありません。可愛い赤ちゃんに新しい生命を与える哺乳開始の時をもって始められなければならないのであります。(略)母は子供の生命を保持することを考えるだけでは十分ではないのであります。大人となった時に、自己の生命を保持しあらゆる環境に耐え忍び、平和を好み、強調を愛し人類に寄与する強い意志を持った人間に育成しなければならないのであります。皆さんが子供に乳房を哺(ほ)ませた時の幸福の恍惚感を、単なる動物的感情に止めることなく、さらに知的な高貴な感情にまで高めなければなりません。母親の体内を駆け巡る愛情は乳房からこんこんと乳児の体内に移入されるでしょう。(略)こんな言葉が適当かどうか、専門家でない私には分りませんが、私はこれを「乳房教育」とでも言いたいのです。どうかこの分かりきった単純にして平凡な言葉を、皆さんの心の中に止めて下さいますよう。これ が皆さんの子供を奪った私の最後の言葉であります」。 |
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いち早く航空機を利用 | 故郷・長岡市の山本五十六記念館 |
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2002 多磨霊園にて初巡礼『元帥海軍大将 正三位大勲位功一級山本五十六墓』 |
2010 夕暮れ時。米内光政が墓石に揮毫 |
墓前から眺める茜色の空 |
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2012 巡礼者で溢れかえっている! | 映ってないけど右隣が東郷元帥、左が古賀大将 | この時は墓前に可愛い植木鉢が! |
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山本家の菩提寺・長興寺(2013) | 「山本五十六墓所」の案内板。当寺に改葬 | 山本家の墓域全景。山本勘助に連なる名門 |
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右から3番目(中央)の墓石が五十六。戒名で眠る | 「大義院殿誠忠長陵大居士」 |
「アメリカと戦争することになれば、この日本は2度3度も焦土と化すだろう」(山本五十六)
第26、27代連合艦隊司令長官。旧海軍において米内光政、井上成美(しげよし)と共に「知米・非戦派」として知られる。新潟県出身。旧越後長岡藩士・高野貞吉の六男。父が56歳の時に生まれたことから“五十六”と名付けられた(母45歳)。中学3年のときに難関の海軍兵学校に入校しようと志を立て、朝食が済むと昼飯と晩飯用に大きな握り飯を4つ持って勉強部屋にこもった。1901年(17歳)、海軍兵学校32期に200名中2番で入校。同級生は塩沢幸一(成績1番)、嶋田繁太郎、吉田善吾、堀悌吉(ていきち/成績3番、卒業時は首席)など。堀悌吉は生涯にわたる無二の親友となった。1904年(20歳)、日露戦争が勃発。同年、海軍兵学校卒業。翌年、少尉候補生として巡洋艦「日進」に乗船し、日本海海戦でバルチック艦隊と対決。砲弾の炸裂で左手の人さし指と中指を失い右太ももがえぐれた。海戦3日後、佐世保病院に入院。同病院には負傷したバルチック艦隊司令長官ロジェストベンスキー提督も捕虜として収容されていた。退院後、巡洋艦「須磨」、戦艦「鹿島」、海防艦「見島」、駆逐艦「陽炎」で海上勤務。1908年(24歳)、中尉として巡洋艦「阿蘇」や「宗谷」(艦長・鈴木貫太郎)に乗船し、宗谷で井上成美、草鹿任一、小沢治三郎らを指導した。1911年(27歳)、海軍砲術学校と海軍経理学校の教官に就き、同僚で4歳年上の米内光政と親交を結ぶ。
1913年(29歳)、両親が相次いで病死。翌々年、31歳のときに旧長岡藩家老・山本帯刀(たてわき)家の養子となる。山本家は武田信玄の軍師・山本勘助の血脈。同年、山本はフランス帰りの堀悌吉と一緒に暮らし始める。
※大親友の堀悌吉は1913年にフランスに赴任。その翌年、堀は第一次世界大戦を目の当たりにし、悲惨な総力戦、毒ガス戦に絶句する。堀は帰国後、『戦争善悪論』をまとめ「あらゆる場合において国家が行う戦争を是認して善しとなすべからず。戦争なる行為は常に、乱、凶、悪なり」と書いた。堀は、海軍は戦争を仕掛けるためのものではなく、平和維持だけのためにあると信念を持つ。
1916年(32歳)、山本は海軍大学校を卒業。直後に腸チフス、虫垂炎を発病、生死をさ迷う。翌年、山本と堀は共に結婚し、新居も同じ青山に構えて家族ぐるみの付き合いを始めた。同年、山本は海軍技術本部に所属し軍備研究に没頭していく。
1919年(35歳)、米国にて駐米武官となりボストンのハーバード大学に2年間留学。米国ではデトロイトの自動車工場、テキサスやカリフォルニアの大規模油田、日本の10倍以上の工場生産量、豊かな生活物資に圧倒された。当時、原油産出量は日本が741万バレル、米国は4億4293万バレルと約60倍の差があり、日本では珍しかった自動車が、米国では年間200万台も生産されていた。当時、飛行艇NC-4が大西洋横断に初めて成功しており、山本は航空機の進歩に最も関心を寄せた。
※1921年、堀悌吉はワシントン海軍軍縮会議に随員として出席。日本は軍艦建造の為に国家予算の3分の1を費やしており、首席全権の海軍大臣・加藤友三郎と堀は軍縮を望んでいた。日本海軍は戦艦保有量を対英米7割を主張していたが6割で合意した。
1922年(38歳)、欧州・米国を視察。今後の戦争における航空機の重要性をいち早く見抜き、帰国後に航空隊の教頭兼副長となる。1925年(41歳)に駐米大使館付武官として再び渡米し、翌々年、リンドバーグの大西洋“無着陸”横断飛行成功の熱狂に接する。欧米を入念に見聞した山本は、国際的な視野を持つ軍人となった。
1928年(44歳)、巡洋艦「五十鈴」艦長、空母「赤城」艦長を歴任。翌年、少将になった山本は補助艦の保有数を決めるロンドン海軍軍縮会議(1929-30)に次席随員として参加する(山本を推薦したのは堀)。日本海軍はこのときも対英米7割を主張したが、若槻禮次郎全権は10:10:6.975で締結した。あくまでも7割にこだわり受諾に猛反対した海軍随員を山本が「軍人は上が決めたら軍紀を乱すようなことはしてはならない、自重せよ」となだめた。
※ロンドン軍縮条約は海軍の組織に亀裂を生む。条約に賛成した“条約派”は加藤友三郎を中心とした堀悌吉、山梨勝之進ら「海軍省」。反対した“艦隊派”は加藤寛治など「軍令部」。
1930年(46歳)、海軍航空本部技術部長に就任し、航空兵力の強化を積極的に行い、民間企業に「欧米より速度で勝る航空機を開発せよ」と発破をかけた。
1931年(47歳)、日本陸軍が満州・柳条湖で南満州鉄道を爆破して中国軍のしわざと偽り、攻撃を開始する柳条湖事件が勃発。陸軍は5カ月で満州全土を制圧した。山本はこの軍事行動で日本が国際的に孤立することを懸念し、大陸における拡張戦略に反対した。上海に派遣された堀は、日本側の攻撃が民間人に被害を与えないよう留意せよと指示。これを艦隊派は「戦闘に消極的」と批判した。
1933年、日本は国際連盟からの脱退を通告。同年、海軍では大角岑生(みねお)海軍大臣ら艦隊派(軍拡派)による、条約派(軍縮派)追放人事=大角人事が始まり、最初に条約派の中心だった元海軍次官・山梨勝之進大将が軍を追われ、前軍令部長・谷口尚真大将も予備役にされた。山本は堀を守るために海軍トップ、艦隊派の中心人物・伏見宮博恭王(ひろやすおう)に「堀を要職にとどめて欲しい」と直訴した。
1934年、第二次ロンドン海軍軍縮会議の予備交渉の日本代表に任命された山本は渡航。その後、英国に堀悌吉が軍を追われ予備役に編入されたとの知らせが届く。山本は「巡洋艦1個戦隊と堀の頭脳の、どちらが重要か分かっているのか。海軍の大馬鹿人事だ」と憤った。山本の堀宛の手紙「君の運命を承知。海軍の前途は真に寒心の至りなり。このような人事が行われる今日の海軍に対し、救済のために努力するも到底難しく思える」(1934年12月9日)。1935年2月に帰国した山本は、故郷の長岡に引きこもり失意の日々を過ごす。退役まで考えた山本を、堀が「お前まで居なくなったら海軍はどうなるんだ」と説得し軍中央に戻した。12月、海軍航空本部長に就任。国産航空機の開発に精力を注ぐ。山本は堀が暮らす大分の農村まで何度も訪れ、再就職先の飛行機製造会社を紹介した。
1936年(52歳)1月、政府はロンドン海軍軍縮条約からの脱退を通告、以降、無期限軍備拡張の道を突き進む。同年2月26日に“二・二六事件”が勃発し、反乱派の海軍青年士官が同調を求めてきたところを一喝して追い返すと共に、岡田啓介総理大臣の救出に尽力、また銃弾3発を浴びた鈴木貫太郎侍従長のために医者を手配した。12月、永野修身海軍大臣から政治手腕を買われて海軍次官(海軍ナンバー2)に就任。
1937年(53歳)、大陸で盧溝橋事件が発生して本格的に日中戦争が始まる。中国・海南島の軍事占領について山本は米英との関係悪化を懸念して反対したが作戦は強行された。
1939年(55歳)、陸軍を中心にソ連けん制のためドイツ、イタリアとの軍事同盟を求める声があがる。両国はファシズム国家であり、軍事同盟は米英との対立を呼んでしまう。山本は駐米経験から日米の圧倒的な国力差を痛感していた。「現在、世界を見渡して、飛行機と軍艦では日米が先頭に立っていると思うが、しかし、工業力の点では全く比較にならぬ。米国の科学水準と工業力を合わせ考え、また、かの石油のことだけとってみても、日本は絶対に米国と戦うべきでない」。
祖国を危険にさらす軍事同盟を阻止するため、海軍次官の山本、海軍大臣の米内光政(2年前、山本が強く推挙し海軍大臣に就任)、海軍軍務局長の井上成美(しげよし)の3人で陸軍に抵抗した(米内は露・東欧に、井上はスイス・仏・伊に駐在経験があった)。米内は陸軍から対米戦争の勝算を問われ「勝てる見込みはありません」と断言したが、世論は日露戦争の勝利から「日本海軍は世界最強」「アメリカ恐るるに足らず」と浮き足立っていた。さらには、海軍内部からも同盟賛成の声が起きた。海軍と陸軍は予算の取り合いでしのぎを削ってきたため、軍艦建造で多額の予算を得てきた海軍が、今になって「戦争はできない」と言えない状況だったからだ。
山本、米内、井上の“非戦派3人衆”は「腰抜け」と批判され、軍務局に「米英仏が経済的圧迫を成したとき対抗策があるのか」と問いかける山本を、右翼は“国賊”と呼んだ。山本の暗殺計画が噂されるなか、三国同盟反対に命をかける決意をした山本は遺書を記した。「死んで君国(くんこく)に報いるのは武人の本懐だが、それが戦場であろうがなかろうが変わりはないのだ。いや、戦場で死ぬことよりも俗論(三国同盟賛成論)に抵抗し、正義を貫いて死ぬ方が本当は難しく大変なことなのだ」(1939年5月31日)。私服の護衛が付き、自宅に機関銃が備えられた。その後、日本との交渉が進まぬことからヒトラーはソ連と独ソ不可侵条約を締結。陸軍は「ソ連けん制のため」という大義を失い、三国同盟の交渉は打ち切られた。同盟に反対していた昭和天皇は「海軍がよくやってくれたおかげで、日本の国は救われた」と喜んだ。
同年8月、海軍大臣・米内光政は、“これ以上、山本が陸軍と対立すれば本当に殺害される”と身の安全を心配し、山本を政治の舞台から遠ざけるため海上勤務となる連合艦隊司令長官(旗艦“長門”)に任命する。その2日後、ナチスドイツがポーランドに侵攻し、欧州で第二次世界大戦が勃発した。
1940年、“56歳”で大将に昇進。同年6月、ドイツがフランスを屈服させて欧州の大半を支配すると、軍部では“ドイツは英国を倒すに違いない、ドイツと結ぶべし”と再び三国軍事同盟の気運が高まる。陸軍は日中戦争に行き詰まっており、状況打開のため同盟を求めた。当時英国と戦っていたドイツと手を結めば、米英との関係が決定的に悪化し戦争は避けられない。だが今の山本は連合艦隊に身を置き政治決断の場にいなかった。陸軍との協調を重んじる海軍大臣・及川古志郎は、陸軍大臣・東条英機に押し切られ、日独伊三国同盟の締結を決定する。この報を聞いた山本は後日及川大臣に詰め寄った「私が次官を務めておった時の政府の物資計画は、その8割まで英米圏の資材でまかなうことになっておりました。しかるに三国同盟の成立した今日では、英米よりの資材は必然的に入らぬはずでありますが、その不足をおぎなうため、どういう計画変更をやられたのか聞かせて頂きたい」「もう勘弁してくれ」「勘弁ですむか!」。
山本は近衛文麿首相から「もし日本がアメリカと戦争をすればどんな結果になると思うか」と問われ、こう答えた「実に言語道断。自分は戦艦で命を落とすだろう。そして東京や大阪あたりは三度ぐらい丸焼けにされてしまうだろう」。
1940年9月27日、日独伊三国同盟が締結され山本は記す。「内乱では国は滅びない。が、戦争では国が滅びる。内乱を避けるために、戦争に賭けるとは、主客転倒(しゅかくてんとう)もはなはだしい」。そして山本が恐れていた通り、米国は翌年8月、日本への石油禁輸に踏みきった。石油の8割を米国に頼っていた日本は追い詰められ、石油資源を得るために南方の英米蘭の植民地を奪う方針を立てる。
※「米国など大和魂の前ではひとたまりもない」という言論への山本の答え。「米国人が贅沢だとか弱いとか思っている人がたくさん日本にはいるようだが、これは大間違いだ。米国人は正義感が強く、偉大なる闘争心と冒険心が旺盛である。しかも世界無比の裏付けある資源と工業力がある。日本は絶対に米国と戦うべきではない」。
1941年(57歳)に入ると日本は対米開戦へと突き進み、皮肉なことに対米戦争を避けるべく努力していた山本が攻撃作戦を立案する立場になってしまう。近衛文麿首相から対米戦争の見通しを聞かれた山本はこう答えた。「是非やれと言われれば初め半年や1年の間は随分暴れてご覧に入れる。しかしながら、2年3年となれば全く確信は持てぬ。三国条約が出来たのは致し方ないが、かくなりし上は日米戦争を回避する様、極力御努力願ひたい」。
同年10月11日の堀悌吉への手紙「大勢は既に最悪の場合に陥りたりと認む。個人としての意見(開戦反対)と正反対の決意を固め、その方向に一途邁進の外なき現在の立場はまことに変なものなり。これも命(天命)というものか」。5日後、日米衝突を回避しようとしていた近衛内閣は退陣し、10月18日、東条内閣が成立した。
米国が相手となると通常の作戦では勝利の見込みがないため、山本は「真珠湾奇襲作戦」を計画。開戦と同時に先制攻撃で大打撃を与え、米国民の戦意をくじいて一気に戦争終結へと導こうとした。一方、いつでも真珠湾攻撃を中止して引き返す体制も組んだ。11月13日、海軍指揮官を集めて「(戦争回避の)対米交渉が成立したならば出動部隊に引き揚げを命令する。命令を受領したならば即時撤退せよ」と訓示。数名の指揮官が「我らはその時期には既に敵中に飛び込んでおり、現実的に実行不能」と異議を唱えると、「この命令を受けて帰還不可能と信じる指揮官は即刻辞表を出せ」と迫った。
1941年12月2日、最後まで戦争回避の望みを捨てなかった山本は、昭和天皇の弟である海軍参謀・高松宮宣仁親王に頼み込み、兄(天皇)に開戦を避けるよう直訴してもらった。これを受けて天皇は東条ら4人に相談したが、開戦路線に変更は無かった。この日、堀悌吉は山本に極秘で呼び出された。「どうした」「とうとう決まったよ」「そうか…」「万事休す…もっとも、もし交渉が妥結を見る様なことになれば、出動部隊はすぐ引き返すだけの手筈はしてあるが…どうもね」。2日後、堀は横浜駅で山本と握手を交わして見送る。「じゃ、元気で」「ありがと…もう俺は帰れんだろな」。これが2人の最後の別れとなった。
第4艦隊司令長官・井上成美の開戦決定後の回想「山本さん、大変な事になりましたねと言うと“うん”と言ってました。一体、嶋田海軍大臣はこういうことになったことも、国家の大事だということを分かってんでしょうかねと、非常に私は不安ですがと言ったのが、山本さんこう言ったですよ、“あれはおめでたい男だからな”って。だから山本さんも“ああ、ここまで来たけども、ああ”と考えたんじゃないですか」。
1941年12月8日、早朝6時(現地時間7日午前6時半)、6隻の空母を含む30隻の艦隊が真珠湾沖に到着。空母から350機の戦闘機、雷撃機、急降下爆撃機が飛び立った。米国は日本が軍事行動を起こすならマレー半島かフィリピンに上陸すると読んでいたため、完全に虚を突かれた。7時53分、「ワレ奇襲ニ成功セリ」を表す「トラ・トラ・トラ」が打電され全機突撃。「アリゾナ」など戦艦5隻を沈没させ9隻を大破し、188機の飛行機が滑走路で破壊され、米側は約3600人が死傷した(うち死者2400人)。ただし、最大の標的だった敵空母は演習のため港内にいなかった。第2波攻撃の必要があったが攻撃を指揮した艦隊派の南雲忠一・司令長官は航空が専門ではなく、艦艇の消耗を恐れて引き返してしまった。
この戦いに投入されたゼロ戦(零式艦上戦闘機)は機体が軽く、当時の常識を打ち破る航続距離と世界最高の加速を誇った。航空機が投下した魚雷はいったん50mほど沈んでから敵に向かって浮上していくが、真珠湾は水深が約14mしかないため、未熟なパイロットでは魚雷が海底に突き刺さってしまう。山本はパイロットたちを何度も訓練させて水面ギリギリから投下させることに成功した。訓練に訓練を重ね、不可能を可能にした。
真珠湾攻撃の1時間前に、日本陸軍はマレー半島の上陸にも成功。同日、日本海軍航空隊がフィリピン・ルソン島のアメリカ軍航空基地を爆撃し航空機を多数破壊した。
この奇襲後、山本は愕然とする。「奇襲であっても宣戦布告前に攻撃してはならない」という国際的ルールがあるため、山本は軍令部に対し、真珠湾攻撃の前に宣戦布告を行うことを何度も念を押していた。ところが事務的なミスで宣戦布告は米側に届いていなかった。これにより山本は武士の恥辱である“だまし討ち”の汚名を背負うことになる。ルーズベルト大統領は米国民に「二度とこのような薄汚い行為を許してはならない」と演説し、米国民は「リメンバー・パールハーバー」を合い言葉に団結。山本は自身が描いていた戦争の早期終結とは真逆となる全面衝突に米側の舵を切らせてしまった。米国は一年後には年間2万5戦機以上の航空機を生産する。
1942年(58歳)、真珠湾攻撃の翌月正月、国内は戦勝気分に沸き返っていたが、山本は古賀峯一宛の手紙に“真珠湾は英米にしてみれば飼い犬にちょっと手を咬まれたくらいなもの”と冷静な見解を記し、「国内の軽薄なる騒ぎは誠に外聞悪きことにて、この様にては東京の一撃にてたちまち縮み上がるのでは」「せめてハワイにて空母の三隻位もせしめ置かばと残念」(1942年1月2日)と綴っている。2月、旗艦を「大和」に変更。
6月5日、米国の国力を考えて早期決着にこだわった山本は、真珠湾攻撃で取り逃がした米空母を撃滅すべく、航空母艦4隻を基幹とする47隻の大機動部隊で、太平洋ミッドウェー諸島の米軍陸上基地を攻撃した。だが、暗号を事前に解読されて待ち伏せ攻撃を受け、空母を4隻も沈められ(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)、重巡洋艦1隻、航空機約300機、将兵約3000名以上を瞬く間に失った。片や米国は空母1隻、航空機約150機の被害にとどまり、この大敗を境に戦争の主導権がアメリカに移ってしまう。日本側にはレーダーがなかったことも勝敗の分かれ目となった。第二航空戦隊司令官の山口多聞中将は沈没する「飛龍」と運命を共にした。
1943年2月、ガダルカナル島で孤立していた日本兵(既に戦死2万、うち餓死者1万5千人)を救出するため、動ける駆逐艦を全て投入し約1万名の救出に成功。その2カ月後、4月18日に山本はラバウルで将兵を激励し、続けて最前線のブーゲンビル島バラレ基地へ部隊を見舞うため視察飛行中、暗号電報を解読した米軍P-38戦闘機18機の待ち伏せを受けた。山本を護衛する戦闘機は6機。この攻撃の前、太平洋艦隊司令長官・ニミッツは“山本よりも優秀な軍人が後任になるなら攻撃を手控えねば”と本国に伺いを立てた。回答は「山本に代わるような軍人は山口多聞だが、彼は先のミッドウェー海戦で戦死しているので山本機を撃墜して構わない」。山本機は7時45分に撃墜され、亡骸は日露戦争で失われた左手の指で本人確認がされた。山本は右手で軍刀を握ったまま絶命していた。享年59。山本はラバウルに向かう前に、遺髪を封筒に入れて堀に送っていた。
6月5日、元帥として国葬。国葬委員長を米内光政が務め、司祭長は海軍兵学校同期の塩沢幸一が務めた。平民が国葬にされたのは、戦前では山本ただ1人である。戒名は大義院殿誠忠長陵大居士。正三位・大勲位・功一級。人々の間で山本は神格化されたが、山本自身は軍人の神格化を毛嫌いしていたことから、“山本神社”の建立の話が出ると、「山本が迷惑する」と、米内光政、堀悌吉、井上成美らが強く反対し、神社は作られなかった。
墓は東京の多磨霊園のメインストリートともいえる特別区にある。墓石の文字は米内光政が揮毫。右に東郷平八郎元帥、左に古賀大将の墓が並ぶ。後年、遺骨は新潟県長岡市の長興寺に改葬されたが墓石は多磨霊園に残された。
「俺が殺されて、国民が少しでも考え直してくれりゃぁ、それでもいいよ」(海軍主計長・武井大助宛の手紙)
堀は1959年に75歳で没した。晩年の堀は山本の本心を世に伝えるため手記『五峯録(ごほうろく)』をまとめ、次のように山本の真意をまとめている。
・対外強硬論を疾呼して空威張りをするような言動を好まざりし事。
・日独接近三国同盟には身命を賭して反対したりし事。
・対英米戦争については大義名分の上より、及び、国家安危(あんき)の顧慮(こりょ)上よりして、根本的に反対したりし事。
・衷心(ちゅうしん/真心)より時局の平和解決を熱望したりし事。
・艦隊司令長官としては国家の要求ある時には、たとい個人としての意見と正反対なりとするも、勝敗を顧慮することなく最善を尽くしてその本務に一途邁進すべきものなりとなせる事。
※新潟県長岡市に山本元帥記念公園があり山本の胸像がある。公園内には生家の高野家が復元されている。
※山本は小学生からもらったファンレターにも丁寧に返事を書いていた。
※撃墜された搭乗機の左翼が長岡の山本五十六記念館で公開されている。
※山本は将来について「予備役になったらモナコに住み、ルーレットで世界の閑人の金を巻き上げてやる」と語っていた。
※軍縮会議で渡米中、山本がコーヒーに多量の砂糖を入れるため、同席者が「ずいぶん甘党ですね」と声をかけると、「できるだけアメリカの物資を使ってやるんだ」とジョーク。
※「公報や報道は絶対に嘘を云ってはならぬ。嘘を云う様になったら、戦争は必ず負ける」(1942年3月)。
※「敵はあえて恐れざるも、味方には恐れいることもあり。世相紛々(ふんぷん/滅裂)といふべきか」(1942年11月)
※山本は中国の兵書『司馬法』にある次の一節に共感していた「国(くに)大なりといえども戦いを好めば必ず亡ぶ。天下安しといえども戦いを忘れれば必ず危うし」。
※「一将一友を失いしを惜しむのときにあらず。ただ、この人去って、再びこの人なし」(堀悌吉)
〔参考資料〕『山本五十六のことば』(稲川明雄)、エンカルタ総合大百科、ブリタニカ国際大百科事典、『山本五十六の真実』(NHK)、『THE歴史列伝』(BS-TBS)、ウィキペディア。
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多磨霊園の奥まった場所に眠っている | 「井上家之墓」。反骨の海軍大将! | 左から3番目に「成美」 |
最後の海軍大将。宮城県出身。山本五十六、米内光政らと日独伊三国同盟に反対した。大艦巨砲主義を批判し、海軍の空軍化を力説。軍務局長・第四艦隊長官・海軍次官などを歴任。海軍軍令部が主導した「軍令部令及び省部互渉規定改正案」に強く反対し、南雲忠一が「お前のような奴は殺してしまうぞ」と激昂すると、用意していた遺書を出して「さあやるならやれ。死んでも意志は変わらない」とはねつけたという。軍務局長・第四艦隊長官・海軍次官などを歴任。開戦決定時、部下から「開戦おめでとうございます」と言われ、「何がめでたいだバカヤロウ」と叱りつけたという。 ●井上成美語録 ・「ヒットラーは日本人を想像力の欠如した劣等民族、ただしの手先として使うなら、小器用で小利口で役に立つ国民と見ている。彼の偽らざる対日認識はこれであり、ナチス日本接近の真の理由も其処にあるのだから、ドイツを頼むに足る対等の友邦と信じている向きは、三思三省の要あり、自戒を求む」 ・「国軍の本質は、国家の存立を擁護するためにあり。他国の闘いに馳せ参ずるごときは、その本質に違反す。前大戦(第一次大戦)に、日本が参戦するも邪道なり。海軍が同盟(日独伊三国同盟)に反対せる主たる理由は、この国軍の本質という根本観念に発する。いわゆる自動的参戦の問題なり。たとえ締盟国が、他より攻撃せられたる場合にも、自動的参戦は絶対に不賛成にして、この説は最後まで堅持して譲らざりき」※集団的自衛権に反対している。 |
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日米開戦に反対した勇気ある海軍大将 | 墓前の案内柱には「救国の偉人 米内光政之墓」とあった |
第37代内閣総理大臣であり日米開戦に反対した海軍大将。第23代連合艦隊司令長官。日露戦争に従軍後、ヨーロッパに駐在。内外の国力差を痛感する。天皇の信頼も厚く、1940年、60歳で海相から首相となるが、日独伊三国同盟に反対し、陸軍により半年で辞職に追い込まれた。 東条退陣後、小磯内閣で4度目の海相に復帰し、鈴木、東久邇、幣原の各内閣の海相をさらに歴任し、太平洋戦争終結と戦後処理に尽力した。勲一等、従二位。 |
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海津城主(松代城)高坂弾正も眠るので軍旗がたなびく | 明徳寺の山門に「エコール・ド・マツシロ」の暖簾 | お寺と仏語のコラボに驚いた(佐久間象山筆?) |
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正面の案内板に「栗林忠道」の名前がドーンと出ている |
「硫黄島からの手紙・上映記念 クリント・ イーストウッド監督」と刻まれた境内の石柱 |
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夕陽を浴びる栗林忠道の墓。日米開戦に反対していた | 「陸軍大将」とある | 硫黄島の日本兵は水不足で苦しんだので、ミネラルウォーターが4本も供えられていた |
硫黄島の戦いを指揮した陸軍大将。長野生まれ。若い頃はジャーナリストを志望していた。1914年(23歳)、陸軍士官学校卒業。1923年(32歳)、陸軍大学校を次席で卒業し、天皇から恩賜(おんし)の軍刀を授与される。同年結婚し三子を授かった。
1927年(36歳)、武官補佐官として米国ワシントンD.C.に駐在し、ハーバード大で学ぶ。1931年(40歳)、カナダ公使館付武官となりカナダへ赴任。1940年(49歳)、陸軍少将に昇進。日米間に戦争の気運が高まるなか、海外生活が長く米国通の栗林は最後まで開戦に反対する。1941年(50歳)、12月に開戦すると第23軍参謀長として香港へ。1943年、陸軍中将に昇進。そして1944年(53歳)6月8日に硫黄島の守備隊総司令官として着任する。
栗林は米国との圧倒的な戦力差を熟知しており、硫黄島に巨大な地下陣地を築き全島を要塞化し、米軍上陸前の艦砲射撃をトンネルでしのいだ。1945年2月19日に米軍が硫黄島に上陸を開始すると、最新鋭の装備でかためた米海兵隊7万人に対し、武器も食料も乏しい日本兵2万人がゲリラ攻撃で徹底抗戦した。2月23日に拠点の摺鉢山を米軍に占領されるも抵抗は続く。栗林は兵たちに無謀な玉砕突撃を禁じ、本土防衛の時間稼ぎのために持久戦へ持ち込んだ。硫黄島の面積は東京都の面積の100分の1しかなく、米軍司令部は「5日間で攻略可能」と考えていたが、日本軍はこれを一ヶ月半も守りきった。3月16日、栗林は大本営に最後の決別電報を打電。兵たちに最後の指令を下した「兵団は17日夜総攻撃を決行し敵を激砕せんとす。最後の一兵となるもあくまで決死敢闘すべし。私は常に諸君の先頭にあり」。これを受けて大本営は、栗林を陸軍最年少となる53歳で陸軍大将に昇進させた。決別電報の10日後、3月26日に行なわれた日本軍最後の総攻撃に栗林は階級章を外して加わり散った。栗林は日本軍で史上初めて敵陣へ突撃死した陸軍大将となった。辞世の句は「国の為 重き努を 果し得で 矢弾尽き果て 散るぞ悲しき」。
死後22年が経った1967年に勲一等に叙せられ、旭日大綬章が授与される。2006年、栗林の最後を描いた映画「硫黄島からの手紙」(クリント・イーストウッド監督、渡辺謙主演)が公開され、その名が広く知られるようになった。
硫黄島の戦いでは、日本軍20,933名のうち、実に96%を超える20,129名が戦死した。一方、米軍側もまた戦死者6,821名、戦傷者21,865名という膨大な犠牲を出した。1平方キロあたり1400名の両軍兵士が死んだ硫黄島は、今、日米双方が合同慰霊祭を行なう世界で唯一の土地になっている。
※硫黄島から幼い次女(たこちゃん)に送った手紙。「お父さんは、お家に帰って、お母さんとたこちゃんを連れて町を歩いている夢などを時々見ますが、それはなかなか出来ない事です。たこちゃん。お父さんはたこちゃんが大きくなって、お母さんの力になれる人になることばかりを思っています。からだを丈夫にし、勉強もし、お母さんの言いつけをよく守り、お父さんに安心させるようにして下さい。戦地のお父さんより」。 |
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3万人を超える日本兵が死亡したインパール作戦。佐藤中将は1万数千人の部下を餓死から救うため、 陸軍史上初となる命令違反の独断撤退を行った。それは軍法会議における死刑覚悟の行動だった |
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乗慶寺の入口は国道47号線と反対側! | 山門は細かい彫刻がたくさん施されている | 乗慶寺の本堂。左手に進むと墓地へ |
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「佐藤幸徳中将追慕の碑」の矢印 | 境内には佐藤中将の墓参者のために標識が |
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本堂脇に眠っていた! | うおお、お会いしたかったです!! | 部下による顕彰碑が後方に立っている |
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「佐藤幸徳家之碑」 |
戒名は「義光院玄峰幸徳居士」 |
「つわものの生命救いし決断に 君は問われし抗命の責め」 インパール作戦のインド国コヒマ攻略戦において将軍の 撤退決断により生かされた我らここに感謝の誠を捧げる 昭和六十年九月十六日 第三十一師団生存将兵有志建之 |
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顕彰碑のさらに後方に、佐藤中将を紹介する案内板 |
最後の部分「幸徳中将は郷土が生んだ誇り高き 武人であり、偉大な先人として後世に語り継いで いきたい 平成二十年十二月 佐藤幸徳顕彰会」 |
陸軍中将。山形県出身。インパール作戦において、日本陸軍史上、前代未聞の師団独断退却を行い、多くの兵を餓死から救った。1913年(20歳)、陸軍士官学校卒業(25期)。1921年(28歳)、陸軍大学校を卒業(33期)。1930年(37歳)、陸軍参謀本部の戦史課に2年間配属され、ここで東條英機(後の第40代首相)や小磯國昭(後の第41代首相)など統制派と交流し、超国家主義的な秘密結社・桜会の規約作成にも関与した。桜会の活動を巡り、同じ参謀本部で皇道派の総務課長・牟田口(むたぐち)廉也と激しい喧嘩になったという。この牟田口とは、約15年後に陸軍全体を揺るがす決定的な衝突をする。1936年(43歳)、皇道派が二・二六事件を起こすと、当時第6師団参謀だった佐藤は統制派として断固鎮圧を主張した。
1938年(45歳)、満州国東南端の国境でソ連軍と衝突した張鼓峰(ちょうこほう)事件では、歩兵第75連隊長として参戦し、損害が5割に達しながらも停戦まで陣地を死守し、剛将として名を馳せる。 1944年(51歳)、軍上層部がビルマ(ミャンマー)からインドのインパールを攻略する「インパール作戦」を計画すると、佐藤は補給の困難を主張し、このままでは部下の大半がアラカン山中で餓死すると、第15軍司令部に作戦時の補給量の確約を求めた。第15軍司令官は因縁のある牟田口中将だった。 ●1944.3.8-7.3 インパール作戦 インパール作戦は日本軍が歴史的敗北を喫し、“無謀”行為の代名詞となった作戦。1944年、太平洋でアメリカ軍との苦戦が続くなか、日本軍は日中戦争を早く終わらせ、中国大陸に派遣している100万人の日本兵を援軍として南へ送る必要があった。一方、連合国はインド東部からヒマラヤ越えの空路で中国・国民党軍に軍事物資を送り、中国の徹底抗戦が続いた。行き詰まった日本軍は、インド東部の都市インパールを攻略し、中国支援ルートを遮断しようとした。 作戦を担当したのは牟田口廉也司令官の第15軍、8万6千人の大部隊。第15軍は、第15師団(山内正文師団長)、第31師団(佐藤幸徳師団長)、第33師団(柳田元三師団長)で構成されている。英印軍はこの日本軍を倍近い15万もの兵で迎え撃った。 作戦立案当初、軍内部では当作戦があまりに補給を軽視し無謀すぎると反対の声があがった。インパールに至る道は険しい山岳地帯で、戦場に着くまでに日本兵は参ってしまうと考えられた。 戦史研究者・吉川正治氏は「この作戦が如何に無謀なものか」を分かりやすく説明している→「インパ−ルを岐阜と仮定した場合、(佐藤の第31師団が目指す)コヒマは金沢に該当する。第31師団は軽井沢付近から、浅間山(2542m)、長野、鹿島槍岳(2890m)、高山を経て金沢へ、第15師団は甲府付近から日本アルプスの一番高いところ(槍ケ岳3180m)を通って岐阜へ向かうことになる。第33師団は小田原付近から前進する距離に相当する。兵は30kg〜60kgの重装備で日本アルプスを越え、途中山頂で戦闘を交えながら岐阜に向かうものと思えばその想像は付く。後方の兵站基地(物資集積場)は宇都宮に、作戦を指導する軍司令部の所在地メイミョウは仙台に相当する」。 ![]() ![]() 密林と2000m級の山々。ただでさえ行軍の困難さが予想されるうえ、間もなく雨季に入ることも大問題だった(年間降水量9000ミリ。日本の平均は約1700ミリ)。滝のように降り続ける雨で泥状になった山道を大部隊で進軍できるのか。車を使えぬ密林でどうやって食糧を補給するのか。そもそも第15軍は56万トンの補給物資が必要なのに、6万トン弱の輸送力しかなかった。第15軍内部で作戦に反対していた参謀長・小畑信良少将は、就任から僅か1か月半で牟田口司令官に罷免され、上級司令部にあたる南方総軍では、作戦実施に反対した総参謀副長・稲田少将が更迭された。インパール作戦反対者は「大和魂が足りない」と排除される雰囲気が軍に漂い、反対者は次第に口を閉ざしていった。 牟田口司令官は「物資不足は敵補給基地を占領すれば心配なし」と考え、また補給問題を解決する策として「ジンギスカン」作戦を考案。それは、牛、ヤギ、羊などに荷物を積んで行軍させ、必要に応じて食用にしていくものだった。結果、ビルマ牛3万頭や羊、ヤギが部隊と移動を共にした(これら3万頭の牛は現地調達されており、農家は命の次に大事な牛を供出された)。その他、千頭もの象と、軍馬1万2千頭が物資運搬用に使役された。 かくして3月8日、インパール攻略戦が始まった。第15師団と第33師団は直接インパールを目指し、佐藤の第31師団はインパールに近いコヒマに進撃した。当初の行軍は順調だったが、これは奥地へ誘い込むための連合軍の罠だった。ジャングルの進軍は困難を極め、家畜の半数が川幅600mのチンドウィン川渡河時に流されて水死、さらにジャングルや山岳部で兵士が食べる前に脱落し、「ジンギスカン」作戦は初期の段階で破綻した。そもそもビルマの牛は低湿地を好み、長時間の歩行にも慣れておらず、牛が食べる草も確保できていなかった。3万頭の家畜と共に徒歩行軍する日本軍は敵爆撃機の格好の標的となり、家畜たちが荷を負ったまま逃げて多くの物資を失った。険しい地形は重砲などの運搬を困難にし、武装は小火器中心となり戦闘力が激減した。 やがて懸念されていた雨季が始まり、増水した川が行く手を遮り、行軍速度はさらに低下する。英軍の大規模な反撃も始まり、補給線は寸断され、栄養失調の日本兵は次々とマラリアに感染していった。前線では戦う前に餓死する兵が続出し、日本軍にとってはインパールで戦うどころか、たどり着くことさえ絶望的になった。 この過酷な状況で佐藤が率いる第31師団は果敢に戦い、インドとビルマの国境地帯コヒマを制圧する。ところが、一粒の米、一発の弾薬も届かぬため、コヒマ維持が不可能になった。佐藤は何度も「作戦継続困難」と撤退を進言したが、牟田口司令官は「気合いの問題」と拒絶し、作戦継続を厳命した。そして5月末、ついに佐藤中将は「日本陸軍初」となる師団長クラスの命令違反=“独断撤退”を断行する。これは陸軍刑法第42条(抗命罪)に反しており、佐藤は軍法会議で死刑になるのを覚悟のうえで逆らった。部下達に「余は第31師団の将兵を救わんとする。余は第15軍を救わんとする。軍は兵隊の骨までしゃぶる鬼畜と化しつつあり、即刻余の身をもって矯正せんとす」と告げ、司令部に対して「善戦敢闘60日に及び、人間に許されたる最大の忍耐を経て、しかも刀折れ矢尽きたり。いずれの日にか再び来たって英霊に託びん。これを見て泣かざるものは人にあらず」と打電し、第31師団をコヒマから補給基地ウクルルまで退却させ、そこにも弾薬・食糧が皆無だったため、さらに後退した。 この際、佐藤はビルマ方面軍宛に、次の激しい司令部批判電報を送った。 「でたらめなる命令を与え、兵団がその実行を躊躇したりとて、軍規を楯にこれを責むるがごときは、部下に対して不可能なることを強制せんとする暴虐にすぎず」 「作戦において、各上司の統帥が、あたかも鬼畜のごときものなりと思う…各上司の猛省を促さんとする決意なり」 「久野村参謀長以下幕僚の能力は、正に士官候補生以下なり。しかも第一線の状況に無知なり」 「司令部の最高首脳者の心理状態については、すみやかに医学的断定をくだすべき時機なりと思考す」 牟田口司令官は激怒し、佐藤師団長を更迭。すると今度は第33師団長の柳田中将が作戦中止を進言したため、牟田口は柳田中将も、そして残る第15師団の山内中将(マラリアに感染)も更迭した。作戦参加師団の全師団長が更迭される異常事態である。そもそも牟田口には天皇が直接任命した師団長を解任する権限はなく、この解任は統帥権を犯す行為であった。山内師団長の戦闘詳報(現地の記録)には「撃つに弾なく、今や豪雨と泥濘の中に傷病と飢餓の為に戦闘力を失うに至れり。第一線部隊をして、これに立ち至らしめたるものは、実に軍と牟田口の無能の為なり」と怒りが綴られている。日本兵は英軍輸送機が投下した敵方の物資を拾って飢えを凌いだため、この物資を拾う決死隊が組織される有様だったという。 牟田口が人望を失った理由に、司令部での行動が前線に伝わり怒りを呼んだこともある。兵士たちが飢餓に苦しんでいるのに、牟田口は司令部に料亭を併設。毎日午後5時に仕事を切り上げ、その後は芸者遊びに明け暮れていた。牟田口は自身の道楽の為に、わざわざ芸妓、女中、料理人、髪結い、三味線屋、鳴物屋、仕立屋、洗濯屋、医者(婦人科兼泌尿器科医)を計150人も呼び寄せていた。「牟田口閣下の好きなもの、一に勲章、二にメーマ(ビルマ語で女性)、三に新聞記者(記者に大口を叩く)」と部下たちは呆れていた。「牟田口が畳の上で死ぬのだけは許せない」「無茶口め」と激高する兵士もいた。 作戦開始から4カ月が経った7月3日、ようやく作戦中止が正式に決定する。だが退却戦でも地獄は続いた。食糧がない状況は変わらない。赤痢、マラリアが猛威を奮い続々と行軍から脱落していった。退却路には餓死者が延々と続き、亡骸は豪雨に叩かれ、虫に食われ、すぐに白骨化した。撤退中にジャングルで道を見失った時は、友軍の白骨が後続部隊の道しるべとなった。日本兵たちはその路を「白骨街道」と呼んだ。 日本軍は参加8万6千人のうち死傷者7万4千人=戦死3万2千人(大半が餓死)、負傷者4万2千人(多くが飢餓からくる戦病)という未曾有の犠牲者を出し壊滅した。 牟田口は参謀の藤原岩市に自決を匂わせたが、口先だけと藤原参謀は見抜いていた。 (牟田口)「これだけ多くの部下を殺し、多くの兵器を失った事は、司令官としての責任上、私は腹を切ってお詫びしなければ、上御一人(かみごいちにん=天皇)や、将兵の霊に相済まんと思っとるが、貴官の腹蔵のない意見を聞きたい…」 (藤原)「昔から死ぬ、死ぬと言った人に死んだためしがありません。司令官から私は切腹するからと相談を持ちかけられたら、幕僚としての責任上、一応形式的にも止めないわけには参りません。司令官としての責任を、真実感じておられるなら、黙って腹を切って下さい。誰も邪魔したり止めたり致しません。心置きなく腹を切って下さい。今回の作戦(失敗)はそれだけの価値があります」 結局、牟田口は自決しなかった。 7月10日、牟田口は幹部を集めて泣きながら訓示した「諸君、佐藤師団長は軍命に背きコヒマ方面の戦線を放棄した。食う物がないから戦争は出来んと言って勝手に退(しざ)りよった。これが皇軍か。皇軍は食う物がなくても戦いをしなければならないのだ。兵器がない、やれ弾丸がない、食う物がないなどは戦いを放棄する理由にならぬ。弾丸がなかったら銃剣があるじゃないか。銃剣がなくなれば、腕でいくんじゃ。腕もなくなったら足で蹴れ。足もやられたら口で噛みついて行け。日本男子には大和魂があるということを忘れちゃいかん。日本は神州である。神々が守って下さる…」。この訓示が延々と1時間以上も続いたため、栄養失調で立っていることが出来ない幹部将校たちは次々と倒れた。そして牟田口自身は、各師団が帰還する前に、「北方撤退路の視察」を理由に司令部を離れてそのまま帰国した。 牟田口は佐藤の精神鑑定を要求し、ビルマのラングーンにマニラの陸軍病院から精神科の軍医大尉・山下實六と南方総軍軍医部高級部員の宮本軍医中佐が派遣された。7月22日に佐藤が到着し、24日から鑑定が始まる。佐藤はマラリア等疫病による心身喪失の可能性を検査され、面談で精神状態を診断された。山下軍医大尉による診断結果「作戦中の精神状態は正常であった。(略)法曹界のいわゆる心神喪失はもちろん、心神耗弱状態にも相当しない正常範囲の環境性反応である」。“精神病ではない”という診断について、山下いわく「鑑定結果は(精神病であって欲しいという)林軍司令部の期待に添えなかった」。 佐藤中将は抗命罪による死刑の心構えは出来ており、軍法会議で堂々と作戦の愚かさを糾弾するつもりだったが、最終的に上層部は佐藤を“心神喪失”扱いにして退役させ、病気という理由で処罰しなかった。これは裁判によって作戦失敗の追及が上層部に及ぶことを回避すると共に、佐藤を罰してしまうと親補職(天皇から直々に任命される役職)に問題人物を任命した天皇の「任命責任」が問われるためであった。 インパール作戦は補給を軽視した無謀・ずさんな作戦のため、多くの犠牲を出して終わった。この作戦失敗で、それまで英印軍とは互角の形勢にあった日本軍の西方戦線は崩壊した。英軍の第14軍司令官スリム中将は回想録で「日本陸軍の強みは上層部になく、その個々の兵士にある」と下士官兵を賛辞。その一方で指揮官については「最初の計画にこだわり、応用の才がなく、過失を率直に認める精神的勇気が欠如」「日本の高級司令部は我々をわざと勝たせた」と皮肉っている。 1959年2月26日、佐藤は65歳で病没した。インパール作戦後、牟田口は予備役(退役)となり、佐藤の死の7年後(1966年)に77歳で他界。その葬儀において、「私は悪くない、部下が悪い」と自説を記したパンフレットを、遺言により参列者に配布させた。牟田口のこの“強気”の背景には、ある英軍中佐が「佐藤師団があのまま進軍していたらコヒマの先にある要衝ディマプールは落ちていたかもしれない」と語ったことにあるが、落とせたところで補給もなく維持できないのは明白だった。 戦後、かつて軍上層部にいた者は保身のために佐藤の命令違反を“臆病”と叩き続け、山形県内の著名人を網羅した『山形県大百科事典』にもその名前が出てこない。佐藤の墓は故郷庄内町の乗慶寺にある。そして墓域には佐藤のおかげで生還した部下たちが建立した顕彰碑が立つ。その文面は以下の通り。 『つわものの生命救いし決断に 君は問われし抗命の責め インパール作戦のインド国コヒマ攻略戦において将軍の撤退決断により生かされた我らここに感謝の誠を捧げる 昭和六十年九月十六日 第三十一師団生存将兵有志建之』 晩年の佐藤を知る同寺の住職・阿部博邦いわく「(佐藤)将軍は一切弁明しませんでした。戦死者の家に出向いては黙って焼香していた後ろ姿が目に焼きついてます」。 「大本営、総軍、方面軍、第15軍という馬鹿の四乗がインパールの悲劇を招来したのである」(佐藤幸徳)。 ※「俺は東條首相に受けが悪くてね、張鼓峰事件の時も連隊長として派遣され、今度もまた一番悪いところへやらされたよ」(佐藤幸徳)。 ※インパール作戦の抗命撤退で第31師団の四国出身者が多く救われた。香川県高松市には元兵士らが建立した佐藤の顕彰碑がある。 ※ウィキペディアには軍事史研究家・土門周平氏がインパール作戦時の佐藤中将と部下の宮崎繁三郎少将との不仲を1979年の『歴史と人物 増刊 秘録・太平洋戦争』(中央公論社)に記したとある が、宮崎少将の発言の出典をいくら調べても分からない。土門氏しか書いていない。佐藤中将の墓所に立つ生還者の感謝の石碑を見ると、宮崎少将の言葉から受ける印象に違和感がある。いつどこで宮崎少将が佐藤批判発言をしたのか、出典が知りたい。 〔参考資料〕『NHKスペシャル/ドキュメント太平洋戦争 第4集・責任なき戦場〜ビルマ・インパール』、『昭和の名将と愚将』(半藤一利、保阪正康/文春新書)、ウィキペディアほか。 |
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栗林の墓は舞鶴山の大本営跡のすぐ近く。 戦争末期、陸軍はここに政府機関を移転しようとした |
皇居の予定地は現在気象庁地震観測室になっている。 パネルで「天皇の間」「皇后の間」が公開されている |
内部の見取り図。天皇の間は1号庁舎だ。 終戦時に松代大本営は75%まで完成していた |
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大坑道(地下壕)の入口 | 地下御殿へ続く階段 | ここを降りてきた | これより先は立入禁止ゾーン |
太平洋戦争末期、日本の国家中枢機能移転のために松代の山中に掘られた地下壕。舞鶴山、皆神山、象山の3箇所の地下壕の長さは計10kmにもなる。僕が訪れた舞鶴山は“天皇の間”など皇居の予定地だった。松代が選ばれた理由は次の6点。(1)近くに飛行場がある(2)岩板が固く10t爆弾にも耐える(3)山に囲まれている(4)長野は労働力が豊富(5)長野の人は純朴で口が堅い(6)信州=神州。1944年11月から掘削が始まり、この突貫工事にはのべ300万人の人員が強制的に動員された(最盛期は朝鮮人7千人、日本人3千人が12時間交替で投入)。敗戦時は既に75%まで完成していた。現在は気象庁が1947年から日本最大規模の精密地震観測室を置いている。
※陸軍主導で造られた松代大本営に対し、海軍は奈良県天理市(一本松山)に大本営の移転を考えていた。 ※僕が乗ったタクシーのオヤジさんは「大本営が来る前に戦争が終わって良かった。来ていたら何度もここが空襲され、まだ5歳にもなってなかった自分は生きていたかどうか分からない」。
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東京・多磨霊園の本墓。隣は山本五十六の墓だ。 都心から離れている多磨霊園は平八郎が眠った おかげで現在のような人気霊園になった |
故郷の鹿児島・多賀山公園の墓。こちらには遺髪が入っている。墓前は花がいっぱい! |
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1879年、31歳の 平八郎in英国 |
鹿児島中央高校の一角にある石碑「東郷平八郎君誕生之地」。 西郷や大久保も同じ鍛治屋町に生まれている |
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あんな上にいる! | 多賀山公園から鹿児島市街や鹿児島湾、そして桜島を望む東郷 |
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弟・実猗の子、吉太郎の墓(青山霊園) | その墓域の右隅に平八郎の母益子が眠る |
海軍元帥。17歳で薩英戦争に出陣。戊辰戦争では軍艦春日丸に乗船。維新後は海軍の留学生として帆船ハンプシャー号で世界一周を体験し、英国の造船所で日本軍艦の建造に立ち会って新鋭艦で帰国した。日露戦争では旗艦の三笠から「皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ」と将兵を激励。見事にロシア・バルチック艦隊を壊滅させ、海外でも“東洋のネルソン”として知られる。 東郷は秀吉軍が朝鮮を侵略した時に防戦した韓国側の軍師・李舜臣(イ・スンシン)を尊敬していた。李舜臣は潮の満ち引きや、海岸線の地形を利用した臨機応変な戦術を駆使し、当時世界最強の鉄甲船を考案した。日露戦争終結後の祝勝会の席で、東郷は「イギリスのネルソン提督と李舜臣に並ぶ」と褒め称えられると、「(ナポレオンを破った)ネルソン提督はともかく、自分は名将・李将軍にはとても及ばない」と賛辞を返上した。明治政府が格下と思っている朝鮮軍の武将を、大ロシアを破った東郷が賛辞する謙虚さに人徳が垣間見える。 |
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『坂の上の雲』のモックン は確かに似ている |
広大な鎌倉霊園に眠る |
第17区9側を入ってしばらく歩くと、右手に秋山家の墓がある |
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すっきりとシンプルな洋風の墓 |
著名な軍人であることは外見から分からず、 真之の真摯な人間性が伝わるようで好感 |
うっすら名前 が確認できる |
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青山霊園の南端近くに墓がある | 鎌倉に眠る弟・真之に比べ墓域はかなり広い | 写真の後方に見えるのは六本木ヒルズ |
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日本騎兵の父 | 司馬遼太郎『坂の上の雲』で一般人にも有名に | 都心にあり墓参しやすい | 好古(よしふる)確認 |
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日露戦争で戦死し軍神第1号となった | 右が武夫。左は兄で帝国海軍少将の広瀬勝比古 |
「軍神」第1号。明治の大日本帝国海軍軍人。現大分県竹田市出身。小学校教師を経て海軍兵学校に入校。1894年(26歳)、日清戦争に従軍。翌年、大尉に昇進する。1897年(29歳)、ロシアに留学して語学を学びながらロシア貴族や軍人と交流する(露海軍大佐の娘アリアズナ・アナトーリエヴナ・コワリスカヤと親しくなった)。そのままロシア駐在武官となり、1900年に31歳で少佐となる。翌年帰国。1904年(35歳)、日露戦争が勃発し、ロシア艦隊を旅順港に閉じ込める閉塞作戦(港の入口に意図的に艦船を沈没させ港を使用不能にする)に参加。第2回閉塞作戦で閉塞船福井丸を指揮し、撤退時に行方不明となった部下(杉野孫七上等兵曹)を救助するべく船内を3度捜索。その後、救命ボート上で頭部に敵砲弾が直撃し即死した。享年35。没後、中佐に昇進。明治政府は広瀬を神格化し、軍神として讃え、他界8年後(1912年)に文部省唱歌『廣瀬中佐』が作られた。
※大侠客、清水次郎長と親交があった。
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海軍中将。日本海軍を代表する名提督。超名門の開成中学開校以来の秀才といわれ、1921年(29歳)、米国プリンストン大学に留学。1934年(42歳)には在米国大使館付武官となった。軽巡洋艦「五十鈴」艦長を経て、1937年(45歳)、戦艦「伊勢」艦長となる。1940年(48歳)、第二航空戦隊司令官に就任。山本五十六や井上成美と同じく日米の国力差を熟知しており、真珠湾攻撃では第二撃の必要性を暗に主張したが南雲司令は受け入れなかった。 ミッドウェー海戦に対しては“搭乗員の訓練時間が必要”と猛反対したが、作戦は決行されてしまう。山口は空母「飛龍」に乗艦し、敵主力空母「ヨークタウン」を大破させる。「飛龍」が被弾すると山口は総員退艦を命じ、自らは艦長・加来止男と共に艦に残って運命を供にした。 翌年、山本五十六の搭乗機がブーゲンビル島上空で撃墜される際、米情報部は「(ヤマモトが死んで山口がトップになるとやっかいだが)山口は既にミッドウェーで戦死しているから安心だ、ヤマモトに代わり得る人物は日本には他におらず撃墜可」と判断した。 正三位 勲一等功一級。兄の妻は大久保利通の姪。 |
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陸軍の数少ない理性派 | 墓所は青山霊園の飛び地、立山墓地。めちゃくちゃ迷った!相楽総三の墓から近い | 「陸軍中将 永田鐵山」とある |
「永田の前に永田なく、永田の後に永田なし」と言われた陸軍きっての逸材。陸軍中将。陸軍大臣を通じて合法的に国家総力戦体制を樹立することを目指した「統制派」の中心人物。長野県出身。陸軍幼年学校を2位、陸軍士官学校を首席、陸軍大学校を2位で卒業し、恩賜の軍刀を授与される。1920年(36歳)、駐スイス大使館付駐在武官となり、翌年、陸士同期の小畑敏四郎、岡村寧次、一期下の東條英機らとドイツで密会し、陸軍近代化のために薩長閥を排除することを誓う。永田はエリート将校40人が結集した一夕(いっせき)会のホープで、ドイツの国防国家建設の思想を最初に陸軍へ持ち込んだ。1932年(48歳)、陸軍少将に昇進。その後、陸軍省軍務局長となる。永田には6年間の欧州駐在経験があり、日本と欧米の国力差を正確に把握していた。外務省が満州問題でこじれた国際関係の修復に乗り出すと、永田は「ソビエトと平和外交を進めようとする外務省の考えに賛成です」と外務省幹部に接近した。永田は宮中、元老、政党と支持を広げ、陸軍皇道派(急進派)を追い詰めていく。そして悲劇が。1935年8月12日、白昼の陸軍省で皇道派の相沢三郎中佐に斬殺された。享年51。発見時、刀が肺に突き刺さっていたという。 「永田が殺されていなければ日本の姿がよほど変わっていた。あるいは大東亜戦争も避けられたかもしれない」(元陸軍中将鈴木貞一)。 ※同郷出身の岩波茂雄(岩波書店創立者)は親友。 〔皇道派VS統制派〕 ※皇道派…天皇中心の国体至上主義を信奉し、直接行動による国家改造を企てた急進派。反ソ・反共。中心人物は荒木貞夫大将、真崎甚三郎大将。 ※統制派…合法的に陸軍大臣を通じて国家総力戦体制を樹立することを目指した。反英・反米。中心人物は永田鉄山、東條英機。永田の死後、全体主義色の強い軍閥に変容していく。永田さーん!! |
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麻布十番、賢崇寺の長い長い参道 | 境内の奥に墓地がある | 花が絶えることがないという |
二・二六事件で処刑された“皇道派”若手軍人19名と自決した2名、そして相澤三郎中佐の合同墓。相澤中佐は“統制派”の陸軍軍務局長・永田鉄山中将を陸軍省内で暗殺した人物。反乱部隊の首魁の一人、栗原安秀中尉が賢崇寺の檀家であった縁から、当寺に墓所が築かれた。 墓石の背後に彫られている埋葬者の名前は命日順に (1936年2月29日)野中四郎大尉※自決 (3月6日)河野寿大尉※自決 (7月3日)相澤三郎中佐 (7月12日)香田清貞大尉※首魁、安藤輝三大尉※首魁、栗原安秀中尉※首魁、竹島継夫中尉、對馬勝雄中尉、中橋基明中尉、丹生誠忠少尉、坂井直中尉、田中勝中尉、中島莞爾少尉、安田優少尉、高橋太郎少尉、林八郎少尉、渋川善助、水上源一 (8月19日)村中孝次・元歩兵大尉※首魁、磯部浅一・元一等主計※首魁、、西田税・元少尉※首魁、北輝次郎(北一輝)※首魁。 |
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最後の連合艦隊司令長官 |
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大吉寺は東急電鉄・世田谷駅の駅前 | 本堂裏の墓地の中央の道を奥へ | 線路まで数メートルの場所に眠る |
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『小沢治三郎墓』。子孫は海外にいるらしい | 「大雄院殿浄誉治濤大居士」 |
海軍軍人。日本海軍最後の連合艦隊司令長官。1886年、宮崎に生まれる。海軍大将・井上成美は海軍兵学校の同期。柔道の達人で、学生時代に後の“柔道の神様”三船久蔵をケンカで投げ飛ばした。入学当時の兵学校では上級生が下級生を無分別に殴っていたことから、これに反対して鉄拳制裁をやめさせた(ちなみに陸軍はビンタで海軍はゲンコツ)。卒業後、小沢は水雷(魚雷、機雷など)の専門家となって1938年には水雷学校の校長まで務めていたが、いち早く航空戦の重要性を見抜くと、1939年(53歳)に第一航空戦隊司令官に就任し、空母を集めて集中的に活用する機動部隊を誕生させる。1940年(54歳)中将に昇進。翌年、海軍大学校校長となる。1941年の開戦時は南遣(なんけん)艦隊を任され、寄せ集めの艦隊で陸軍と連携し、マレー上陸作戦を成功させた。 小沢は日本軍航空機の航続距離の長さを生かし、敵の射程外から一方的に攻撃する「アウトレンジ戦法」を編み出す。だが、残念ながら小沢が機動部隊を指揮できる地位(第1機動艦隊司令長官)に就いたのは1944年(58歳、敗戦の前年)であり、そのころにはもう、アウトレンジ戦法を実行できる技量のあるパイロットが既にいなかった。かくしてマリアナ沖海戦では空母3隻と航空機400機余を失う。この歴史的敗北の最大の原因は、作戦前に福留繁(連合艦隊参謀長)が捕虜になり、暗号書や作戦計画書を全部奪われていたことだ(海軍乙事件)。暗号をすべて解読され(参加する兵士の数、艦船・航空機の数、補給能力、指揮官の名前まで全部バレてた)、作戦が成功する訳がない…。 続いて、レイテ海戦では囮(おとり)部隊の指揮を命じられ、横浜の安全な地下作戦室(連合艦隊司令部)から指令を出す豊田福武(とよだそえむ/第29、30代連合艦隊司令長官)に、「本気で戦うなら豊田司令長官が大和に乗ってレイテ湾に殴り込むべきだ」と息巻いた。1945年5月、連合艦隊司令長官に就任(このとき、小沢は海軍大将昇進を断っている)。その3か月後に敗戦を迎える。 降伏後、軍内に切腹する者が出たことから、小沢は若手を集めて「君たちは死ぬ必要はない。みんな死んだら誰が日本を再建するんだ」と説得した。戦後の小沢は、優秀な若者をたくさん殺してしまったという自責の念から、遺族や旧軍人のために恩給制度充実に向けて尽力し、1966年11月9日に他界した。享年80歳。葬儀に際し、昭和天皇から七千円の祭祀料が御下賜された。米国の戦史研究家サミュエル・モリソンは次の弔辞を寄せた。「偉大なる戦略家であり船乗りだった小沢提督の死を心より悼む」。 敗北につぐ敗北だったが、少なくとも小沢は常に前線で戦い続けた。「開戦の責任は俺にはない。しかし、敗戦の責任は自分にある」(小沢治三郎)。 小沢の宿敵、米太平洋艦隊司令長官・チェスター・ニミッツ元帥の言葉。「(小沢について)勝った指揮官は名将で、負けた指揮官は愚将だというのは、ジャーナリズムの評価にすぎない。指揮官の成果は、むしろ、彼が持つ可能性にある。敗将といえども、彼に可能性が認められる限り名将である。オザワ提督の場合、その記録は敗北の連続だが、その敗北の中に恐るべき可能性をうかがわせている。おそらく部下は、彼の下で働くのを喜んだにちがいない」。 ※ウィキペディアには小沢治三郎の墓所が鎌倉霊園になっている。WHY!? ※陸軍の名将・今村均大将は小沢の伝記に寄せた序文が絶筆となった。 ※参考文献『昭和の名将と愚将』(半藤一利・保阪正康/文春新書)、ブリタニカ国際大百科事典、ウィキペディアほか。 |
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親友の山本五十六(左)と | 戦争を「悪」と考える異色の軍人だった |
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豪徳寺の山門。井伊大老の墓所でもある | 本堂裏に広がる一般墓地 | 墓地の中央付近、道沿い右手に眠る |
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格子状の柵で墓所が囲まれている | 最も墓参したかった軍人の一人!尊敬! | 『堀家之墓』 |
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墓前の墓誌 | 良い戒名「賢明院殿」 | “俗名 堀悌吉”とある | 後方から。奥に見える林が彦根藩の墓所 |
海軍中将。1883年、大分の現・杵築市に生まれる。1901年(18歳)、難関の士官養成学校である海軍兵学校に成績3番で入校、同じ32期には吉田善吾、嶋田繁太郎、塩沢幸一のほか、無二の親友となる山本五十六がいた。1904年、同校をトップで卒業し、同期生から「神様の傑作のひとつ堀の頭脳」と讃えられた。 1905年(22歳)、日露戦争で戦艦「三笠」に乗船し、日本海海戦にてバルチック艦隊に勝利する。数隻の戦艦で海上経験を積み、1913年(30歳)から2年間、第一次大戦中のフランスに駐在。そこで世界大戦の現実を目の当たりにし、悲惨な総力戦、毒ガス戦に絶句する。そして、“海軍は戦争を仕掛けるためのものではなく、平和維持だけのためにある”との信念を持つ。帰国後、『戦争善悪論』をまとめ「あらゆる場合において国家が行う戦争を是認して善しとなすべからず。戦争なる行為は常に、乱、凶、悪なり」と記した。1917年(34歳)結婚。 1921年(38歳)、ワシントン軍縮会議の随員となって首席全権の海軍大臣・加藤友三郎を補佐。日本は軍艦建造の為に国家予算の3分の1を費やしており、加藤や堀は軍縮を望んでいた。海軍強硬派は戦艦保有量を対英米7割を主張していたが6割で合意。1927年(44歳)戦艦「陸奥」艦長に就任。そして1929年(45歳)に海軍省軍務局長となり、いずれ次官、大臣と目された。 1930年(47歳)、ロンドン海軍軍縮会議において、堀は英米との戦争を避けるため軍縮を目指す。そして条約派(軍縮派)の次官・山梨勝之進を補佐。補助艦の比率を巡り、艦隊派(軍拡派)が主張する「米英に対し7割」の声を抑え込み、若槻禮次郎全権は対米比10:10:6.975の軍縮案を受け入れた。この締結は海軍に亀裂を生み、後に艦隊派が台頭すると堀は中央から遠ざけられた。 1931年(48歳)、陸軍が満州・柳条湖で南満州鉄道を爆破して中国軍のしわざと偽り、攻撃を開始する「柳条湖事件」が勃発。陸軍は5カ月で満州全土を制圧した。上海に派遣された堀は、日本側の攻撃が民間人に被害を与えないよう留意せよと指示。これを艦隊派は「戦闘に消極的」と批判した。 第3戦隊司令官や第1戦隊司令官を経て、1933年に50歳で海軍中将に昇進。同年、日本政府は国際連盟からの脱退を通告する。海軍では大角岑生(みねお)海軍大臣ら艦隊派による、条約派追放人事=大角人事が始まり、最初に条約派の中心だった元海軍次官・山梨勝之進大将が軍を追われ、前軍令部長・谷口尚真大将も予備役にされた。山本五十六は堀を守るために海軍トップで艦隊派の中心人物・伏見宮博恭王(ひろやすおう)に「堀を要職にとどめて欲しい」と直訴する。 だが、翌1934年(51歳)、堀もまた軍を追われ予備役に編入されてしまう。この知らせを、山本は第二次ロンドン海軍軍縮会議の予備交渉で滞在していた英国で受け取る。山本は「巡洋艦1個戦隊と堀の頭脳の、どちらが重要か分かっているのか。海軍の大馬鹿人事だ」と憤った。山本の堀宛の手紙「君の運命を承知。海軍の前途は真に寒心の至りなり。このような人事が行われる今日の海軍に対し、救済のために努力するも到底難しく思える」。 堀は帰国後の山本が故郷長岡に引きこもって退役を考えていたため「お前まで居なくなったら海軍はどうなるんだ」と説得し、軍中央に戻した。その後、堀が暮らす大分の農村まで山本は何度も訪れ、再就職先の飛行機製造会社(日本飛行機)を紹介、堀は1936年(53歳)取締役社長に就任する。この年、日本政府は堀が尽力して締結したロンドン海軍軍縮条約からの脱退を通告。これにより、日本は太平洋戦争の一因になった無期限軍備拡張の時代に突入した。 アメリカの国力を熟知している山本は、対米開戦を避けるため日独伊三国同盟に反対するが、陸軍との協調を重んじる及川古志郎海軍大臣が東条英機陸軍大臣に押し切られ、1940年に三国同盟の締結を決定する。そして運命の1941年。堀は真珠湾攻撃の2カ月前に山本から手紙を受け取る。いわく「大勢は既に最悪の場合に陥りたりと認む。個人としての意見(開戦反対)と正反対の決意を固め、その方向に一途邁進の外なき現在の立場はまことに変なものなり。これも命(天命)というものか」。12月2日、最後まで戦争回避の望みを捨てなかった山本は、昭和天皇の弟である海軍参謀・高松宮宣仁親王に頼み込み、兄(天皇)に開戦を避けるよう直訴してもらった。これを受けて天皇は東条ら4人に相談したが、開戦路線に変更は無かった。この日、堀は山本に極秘で呼び出された。「どうした」「とうとう決まったよ」「そうか…」「万事休す…もっとも、もし交渉が妥結を見る様なことになれば、出動部隊はすぐ引き返すだけの手筈はしてあるが…どうもね」。2日後、堀は横浜駅で山本と握手を交わして見送る。「じゃ、元気で」「ありがと…もう俺は帰れんだろな」。これが2人の最後の別れとなった。12月8日、日米開戦。 1943年4月18日、山本はラバウルで将兵を激励し、続けて最前線のブーゲンビル島へ部隊を見舞うため視察飛行中、米戦闘機18機の待ち伏せを受け撃墜される(享年59)。山本はラバウルに向かう前に、遺髪を封筒に入れて堀に送っていた。山本の国葬後に“山本神社”建立の話が出ると、軍人の神格化を山本が毛嫌いしていたことから、堀や米内光政、井上成美らは「山本が迷惑する」と強く反対し、神社を作らせなかった。晩年、堀は山本の本心を世に伝えるため手記『五峯録(ごほうろく)』をまとめた。1959年5月12日、東京世田谷で他界。享年75。 ※遺骨は故郷の大分県杵築市八坂生桑生家裏山に分骨されているとのこと。 |
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戦艦「大和」と運命を共にした艦隊司令長官。沈没前に「有為な人材を殺す ことはない」と自分の判断で作戦中止命令を出し、兵士達を全滅から救った |
「大和」特攻前に妻子に宛てた優しい遺書を残す。 中央が伊藤。右端の長男は父の死後神風で特攻 |
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この民家の間に入っていく | すると伊藤家の広い墓所(ポール付き)が見えてくる | 墓前には大きな陶器が水入れ用(?)にある |
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正面に金字で「海軍大将伊藤整一之墓」 | 墓後方に旭日旗 | 独自判断で若い命を救った | “四月七日戦死” |
戦艦「大和」と共に散った海軍大将。日本海軍で唯一現場判断で作戦中止命令を下し部下を救った司令官。福岡県三池郡高田町(現・みやま市)出身。海軍兵学校39期。1912年、22歳で海軍少尉に任官。伊藤は頭が良く、1923年(33歳)、海軍大学校を首席で卒業した(21期、教官は山本五十六)。同年少佐に進級。 1927年(37歳)、米国に派遣され見聞を深める(この駐米武官時代も上官は山本五十六)。同年暮れに中佐に進級。1931年(41歳)、大佐に任官。1933年(43歳)、巡洋艦「木曾」艦長となる。その後、巡洋艦「最上」「愛宕」艦長、戦艦「榛名」艦長や人事局の勤務を経て、1941年(51歳)に軍令部次長となり、同年海軍中将に進級する。 1944年(54歳)、341空司令・岡村基春大佐の特攻決行(神風)の意見に対し、まだ体当たり攻撃を命ずる時期ではないと否定した。同年12月第2艦隊司令長官に任官。 1945年3月28日、及川軍令部総長が昭和天皇に航空総攻撃「菊水作戦」の実施を伝えると、天皇は「海軍にもう艦はないのか、海上部隊はないのか」と質問。動転した及川軍令部総長は「水上部隊を含めた全海軍兵力で総攻撃を行う」と答えてしまい、すぐさま大和を旗艦とした連合艦隊第二艦隊に沖縄出撃の命が下る。それは片道分の燃料(3往復分との説あり)で沖縄の海岸に乗り上げ、水上砲台となって戦えという「水上特攻」の指令だった。 水上特攻は連合艦隊主席参謀・神重徳(かみ しげのり)大佐が発意し、豊田副武(とよだ そえむ)連合艦隊指令長官が決定した。 軍が考えていた元々の作戦では、大和を使って米艦隊を本土の側まで誘い出し、空と海から叩くというものだった。しかし天皇の言葉で作戦は激変、「畏レ多キ御言葉ヲ拝シ恐懼(キョウク)ニ堪ヘズ…」と緊急電報で特攻が告げられた。 4月5日、瀬戸内海に浮かぶ「大和」艦上の朝のコーヒー時。特攻命令を伝えに来た連合艦隊参謀長・草鹿龍之介中将に対し、第2艦隊司令長官の伊藤は「航空機支援もない無謀な作戦で無駄死にだ」と抗議。草鹿参謀長自身も作戦に疑問を持っていたため黙りこくってしまうと、作戦参謀・三上作夫中佐が「要するに、一億総特攻のさきがけになって頂きたい、これが本作戦の眼目であります」と説得。伊藤は「わかった。作戦の成否はどうでもいいということなんだな」「我々は死に場所を与えられた」と覚悟を決めたが、“ただし”と一つ条件を出した。「作戦がいよいよ遂行できなくなった時は、その後の判断は私に任せて欲しい」。草鹿参謀長はうなづいた。慌ただしく出航準備が整えられ、4月6日夕刻、大和は護衛の軽巡1隻、駆逐艦8隻と共に10隻で出撃する。 伊藤は妻に宛てて「親愛なるお前様に後事を託して何事の憂いなきは此の上もなき仕合せと衷心より感謝致候 いとしき最愛のちとせ殿」、娘に宛てて「私はいま可愛いあなたたちのことを思っております。そうしてあなたたちのお父さんはお国のために立派な働きをしたと言われるようになりたいと考えております。もう手紙は書けないかもしれませんが、大きくなったらお母さんのような婦人におなりなさい。というのが私の最後の教訓です。御身大切に。父より」と遺書を残した。 この「大和」出撃に際し、鹿屋基地司令官・宇垣纏中将は途中まで護衛戦闘機隊をつけ、その中に伊藤の長男・伊藤叡(あきら)中尉の零戦もいた。 ※「死ニ方用意」。約3千名の乗組員に作戦内容が特攻と知らされたのは出航の後。動揺し、特攻の是非を巡って衝突する乗組員に対し、“これは無駄死にではない”と臼淵大尉の悲壮な決意が語られる。「進歩のない者は決して勝たない。負けて目覚めることが最上の道だ。日本は進歩ということを軽んじ過ぎた。私的な潔癖や徳義にこだわって、真の進歩を忘れていた。敗れて目覚める。それ以外にどうして日本が救われるか。今目覚めずしていつ救われるか。俺たちはその先導になるのだ。日本の新生に先駆けて散る、まさに本望じゃないか」。 天一号作戦は暗号解読で米軍に筒抜けで、大和は出航から半日で米潜水艦に捕捉された。出撃の翌日正午過ぎ、鹿児島・坊ノ岬沖を航行中に米艦載機が来襲。386機(戦闘機180機・爆撃機75機・雷撃機131機)もの米艦載機から猛爆を受けた。 米軍で攻撃命令を下したのは、伊藤が30代の頃、駐米時代に親友となったレイモンド・スプルーアンス(後の米太平洋艦隊司令長官)。米航空機はは左舷を集中的に狙って魚雷10本を命中させ、上空から爆弾3発を投下(米側の記録では魚雷30〜35本・爆弾38発)。14時20分、船が20度左傾。この時点で艦隊は2隻が沈没、3隻が航行不能で、動けるのは大和と駆逐艦4隻のみだった。伊藤は「(若い)有為な人材を殺すことはない」と考え、全艦隊に「作戦中止」命令を出し、大和乗組員には総員退去を命じた。その後、伊藤は長官室に入ると内側から鍵をかけ、二度と出てこなかった。 交戦開始から約2時間後、大和はゆっくりと横転し、直後に大爆発を起こし、14時23分、艦体は2つに分断されて轟沈した。伊藤司令長官と有賀幸作艦長はあえて脱出せず大和と運命を共にした。 伊藤は同日付で海軍大将に特進。勲一等旭日大綬章。 ※長男・叡は父を空から見送った2週間後、4月28日に沖縄海域で神風特攻を行い戦死した。 大和の乗組員3332人のうち3056人が戦死。生存者は1割以下の276人。同時に大和を護衛していた軽巡「矢矧」、駆逐艦「磯風」「浜風」「霞」「朝霜」も沈没し、護衛艦の乗組員計3890人のうち981人が戦死した。この天一号作戦では計4037人が戦死している。生存者を救助した駆逐艦「冬月」の士官によれば、大和乗組員は重油で真っ黒であったという。 伊藤司令長官の作戦中止命令がなければ、大和乗組員を救出した駆逐艦は、そのまま沖縄に艦隊特攻をかけて玉砕していた。現在、大和の最期が語り継がれているのも生存者がいてこそ。伊藤の英断のおかげだ。 ※海軍兵学校同期の遠藤喜一、高木武雄、山県正郷と伊藤も含めた4大将は全員中将で戦死し、死後大将に特進している。 ※天一号作戦への軍令部次長・小沢治三郎中将の当時の反対意見が的確。「積極的なのはいいが、それはもはや作戦と呼べるのか」。 ![]() |
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日本最初の元帥となった |
大河『八重の桜』より |
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墓所に続く道。左右の石灯籠は東日本大震災で倒壊 | 正面の門の奥が墓所 |
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門は閉まっているけど外から墓が見える | 『議定官内大臣陸軍大将元帥従一位大勲位功一級公爵 大山巌之墓』。神道式の墓 |
薩摩藩士。日本最初の元帥。西郷隆盛の従弟。陸相・参謀総長を歴任。1855年、13歳で上京して倒幕運動に参加。1863年(21歳)の薩英戦争で決死隊砲台長として初陣。江戸で砲術を学び、戊辰戦争では砲隊長として会津藩など旧幕府側を攻撃した。維新後は4年間渡欧し、1877年(35歳)、西南戦争に第5旅団司令官として参加。1885年に43歳で陸相就任。国産兵器の生産を進める。1894年の日清戦争で第二軍司令官として出征、日露戦争では満州軍総司令官になった。長州の山県有朋と陸軍を薩長閥に2分した。陸軍大将。1916年、74歳で他界。ルイ・ヴィトンの日本人初顧客とのこと。 |
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看守の関東軍 上等兵千葉十七 |
伊藤博文を暗殺し 処刑された安重根 |
千葉十七の菩提寺、宮城の大林寺。千葉は当初 暗殺犯の安を憎んでいたが、敬意を抱くようになった |
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大林寺の本堂前に建つ記念碑。処刑前の安の絶筆「為国献身軍人本分」 (国の為に身を捧ぐるは軍人の本分なり)が、自筆を拡大して彫られている |
“旅順獄中” |
記念碑にキムチとマッコリが供えられていた |
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本堂裏手の墓地に眠る千葉夫妻 | 『初代千葉十七夫婦之墓』 |
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墓前にも安の絶筆(遺墨)碑があり、安の手形も彫られている。指が欠けているのは 安が同志と薬指を切り、その血で国旗に「大韓独立」の文字を書き染めたから |
遺墨の石碑の背後に由来が。千葉夫妻の 養子が1994年に供養で建立。撰文第26世 |
真っ赤な夕陽が反射。 下半分はハングル文字 |
1909年10月26日、初代韓国統監・伊藤博文がハルビン駅で安重根(アン・ジュングン、30歳)に撃たれ絶命する。安はロシア官憲に取り押さえられ、日本側に引き渡された。安はもともと親日家で、日露戦争で日本が勝つと“アジアが西欧を倒した”“日本はアジアの希望”と喝采を贈っていた。ところが、日露戦争後の日本は、韓国に内政干渉し、外交権を奪い、皇帝を退位させ軍や警察まで解散させた。深く失望した安は、独立運動のためロシアへ亡命して「大韓義軍」を組織し、同志と共に薬指を切り、その血で国旗に大韓独立の文字を書き染める筋金入りの抗日活動家になった。
暗殺事件後、安は取り調べに際し、伊藤暗殺に至った理由を述べた。「韓国皇帝を廃位させたこと」「韓国の軍隊を解散させたこと」「義兵鎮圧に際し多数の良民を殺害させたこと」「不平等条約を結ばせたこと」「韓国の学校教科書を焼却させたこと」「韓国人民に新聞購読を禁じたこと」等々。その中には「(伊藤らが)明治天皇の父君(孝明天皇)を暗殺したことは韓国民みなが知っている」という驚愕の理由も含まれている。
翌年2月、事件から4ヶ月後に死刑判決が下る。安は母から「あなたの死はあなた一人のものではなく、韓国民の怒りを背負っている。控訴をすればそれは命乞いになってしまう」と手紙を受け取り控訴しなかった。
※安の怒りは逆の立場にすると理解しやすい→「日本の天皇を廃位させたこと」「日本の軍隊を解散させたこと」「義勇兵の鎮圧に際し多数の市民を殺害したこと」「不平等条約を結ばせたこと」「日本の学校教科書を焼却させたこと」「日本国民に新聞購読を禁じたこと」等々。 当初、暗殺犯の安を憎んでいた日本人看守の千葉十七(関東軍上等兵)は、安が主張する“日本の非”は韓国人からすれば筋が通っていること(幕末に異国脅威を訴え、攘夷に燃える勤王の志士と通じるものがあった)、「国の平和とは、貧しくても人々が独立して生きていけることだ」という安の信念に心を動かされ、会話を通して人柄や思想に共感を覚えた。そして安は旅順監獄(現・大連)で「東洋平和論」を書きあげる。
死刑執行は判決の翌月、3月26日。安は絞首刑の直前、千葉に「為国献身軍人本分」(国の為に身を捧ぐるは軍人の本分なり)と書き贈り、最後に「東洋に平和が訪れ、韓日の友好がよみがえったとき、生まれ変わってまたお会いしたいものです」と語った。ときに、安31歳、千葉25歳。千葉は帰国後もこの書を大切にし、安の冥福を祈る日々を過ごす。 また、安は裁判担当の日本側検事を「韓国のため実に忠君愛国の士」と感嘆させたほか、旅順監獄の刑務所長・栗原貞吉も安の人となりに共鳴し、法院長や裁判長に“助命嘆願”を書いたり、煙草等を差し入れ、処刑前日には絹の白装束を贈っている。執行後、栗原所長は安の死に胸を痛めて故郷広島に帰ったという。安の処刑を知った孫文は、追慕詩「100年生きることはできなくても、死んでから1000年生きるだろう」を贈った。
※晩年の伊藤博文は日韓併合に傾いていたが、それでも政府内では併合慎重派だった。安は伊藤を暗殺したことで、結果的には併合を加速させ、処刑5カ月後に大韓帝国は地図上から消滅してしまう。安は二人の弟に「祖国が独立するまでは遺体をハルビン公園に仮葬して欲しい」と頼んだが、安の墓地が朝鮮独立の聖地になることを恐れた日本政府は、秘密裏に刑務所の共同墓地に埋葬した。結果、今日まで遺骨は見つかっていない。1970年、ソウル市内に安の偉業を伝える「安重根義士記念館」が建設された。 千葉十七の墓がある宮城県栗原市の大林寺には安の顕彰碑が建立され、毎年日韓合同で安重根・千葉十七夫妻の供養が執り行われている。安の正確な埋葬場所も遺骨も不明のため、大林寺境内の顕彰碑を供養塔としたい(法要も行われている)。 ※2008年に安が獄中で使った硯(すずり)が見つかり大林寺に奉納された。硯の裏には「庚戌3月 於旅順獄 安重根」と刻まれており、3月26日に旅順監獄で処刑される直前まで使用した物とみられる。処刑前に安は千葉に書「為国献身軍人本分」「日韓友誼(ゆうぎ)善作紹介」を贈っており、その遺墨に使われた硯だろう。千葉は2人の友情の証として遺墨を故郷で大切に保管し、安の生誕100周年にあたる1979年に子孫が韓国へ返還。かの地で国宝に指定された。この硯も韓国では間違いなく国宝級。硯を発見したのは埼玉の古い硯の収集家。旧満州鉄道のコレクションの中にあった。収集家いわく「安重根の魂のこもった品だから、硯に刻まれた思いを大事にしてくれる場に寄贈しようと思った」。そして千葉十七と安の法要を毎年営む大林寺に、安が使用したとみられる墨片と一緒に08年4月に奉納したとのこと。 |
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愚将論もあるが名将と評価する人も多い | 殉死当日の乃木夫妻 |
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青山霊園の一角、『乃木将軍墓所』 | 『陸軍大将乃木希典之墓』 |
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左は静子夫人。共に殉死した | 乃木将軍の正面に両親の墓 | 日露戦争で死んだ2人の息子 |
明治期の陸軍大将。「海軍の東郷、陸軍の乃木」と並び称された。長州の支藩、長府藩士・乃木希次の三男。幼名は無人(なきと)。少年期に左目を失明している。学者を志していたが、1865年(16歳)の幕府による第二次長州征伐では長府藩士の報国隊に加わり、奇兵隊と合流して戦闘に参加(砲兵)。小倉城一番乗りの武功を挙げる。1871年、22歳で陸軍少佐に任官。1877年(28歳)、西南戦争に小倉歩兵14連隊長として参戦。その際、連隊旗手・河原林雄太少尉が戦死し軍旗を西郷軍に奪われてしまい、これが生涯のトラウマとなる。1876年、「萩の乱」で反乱軍に加わった実弟・正諠が戦死。1878年(29歳)、静子と結婚。30代後半にドイツに留学。1894年(45歳)、日清戦争に歩兵第一旅団長(少将)として従軍し、旅順要塞の攻略戦に加わり、わずか1日で陥落させた。続く戦闘でも清国軍を粉砕し、「将軍の右に出る者なし」と讃えられた。1896年(47歳)台湾総督として着任、日本側の汚職に目を光らせ綱紀粛正を行った。内政整備が進まず2年後に辞職。 1904年(55歳)、日露戦争において第3軍司令官(大将)として旅順攻囲戦を指揮。5カ月をかけて陥落させるも、肉弾攻撃の強行で兵13万人のうち、約6万人が死傷した。乃木自身、長男の勝典が金州南山で戦死(享年25)、次男の保典が203高地で戦死(享年23)している。長女と三男は早逝しており、息子2人の戦死で乃木家の血は途絶えた。 旅順陥落翌年には日露戦争最大の陸戦となった奉天の会戦を制し、日本は戦争に勝利する。帰国後に盛大な歓迎会が催されたが、乃木は旅順攻略の犠牲の多さから招待をすべて断った。そして戦死者の遺族を訪れ、「乃木があなた方の子弟を殺したにほかならず、その罪は割腹してでも謝罪すべきですが、今はまだ死すべき時ではないので、他日、私が一命を国に捧げるときもあるでしょうから、そのとき乃木が謝罪したものと思って下さい」と謝罪した。また、戦役講演では登壇を勧められても上がらず、「諸君、私は諸君の兄弟を多く殺した者であります」とむせび泣いたという。乃木は戦傷病者のために何度も見舞い、多くの寄付を行った。 1907年(58歳)、学習院の院長となり、皇族や華族子弟の教育を行う。乃木は裕仁親王(後の昭和天皇)も厳しく指導。1912年7月30日に明治天皇が崩御し、「大葬の日」である9月13日夜、静子夫人と共に自邸で自刃、殉死した。享年62。遺書には「西南戦争時に連隊旗を奪われたことを償うため」とあった。葬儀には十数万の民衆が自主的に参列、各地に乃木を祀った乃木神社が建立された。贈正二位・勲一等・功一級・伯爵。就寝時も軍服を脱がなかったという。墓所は青山霊園。旅順攻略後、乃木が降伏したロシア兵に寛大な処置を与えたことから、世界各国から賞賛の書簡が寄せられた。 |
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知米派の海軍大将。開戦回避のため日米交渉に努力 | 野村吉三郎とハル国務長官(左) |
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国際法に詳しかった | 大きな墓誌 |
海軍大将。国際法の権威であり、日米開戦時の駐米大使として知られる。戦争回避のためギリギリまで日米交渉に奔走した。和歌山出身。1898年(21歳)に海軍兵学校を卒業した後、オーストリア、ドイツ駐在武官を経て、1914年(37歳)から4年間を駐米大使館付武官としてアメリカで過ごす(このとき米海軍のフランクリン・ルーズベルトと親交を結んでいる)。パリ講和会議やワシントン会議に随員として出席。1926年(49歳)、軍令部次長に就任。横須賀鎮守府長官を経て、1932年(55歳)、第3艦隊司令長官に着任し第一次上海事変に参戦した。停戦交渉中の同年4月29日、上海の天長節(天皇誕生日)祝賀会場にて朝鮮人独立運動家・尹奉吉(いんほうきち/ユン・ポンギル)が日本人要人席に投げた手榴弾で右眼を失明する(ちなみに特命全権公使・重光葵は右脚を失い、上海派遣軍司令官の白川義則陸軍大将は翌月死去)。 1933年(56歳)大将に昇進。59歳で予備役に編入され、学習院院長を務める。1939年(62歳)、欧州で第二次世界大戦が勃発し、豊富な海外経験を買われて阿部信行内閣に外相として入閣。翌1940年11月(63歳)、ルーズベルトと知り合いだったことから、第二次近衛内閣において駐米大使となった。太平洋を横断して米国に上陸する直前「太平洋は本当に広いな。日米戦争なんて想像するだに大変だな」と吐露。米国の巨大な国力を知っていた野村は、戦争回避のために真珠湾攻撃の直前までハル国務長官と会談するなど尽力するが、日本政府はハワイ奇襲に踏み切り、米側から卑怯者と糾弾され苦悩する。戦後、日本ビクター社長や参議院議員を歴任。1964年に他界。享年86。戒名は玄海院殿寿峯吉翁大居士。従二位勲一等功二級。「陸奥(宗光)は偉かったね。松岡とはくらべものにならぬ」(野村)。 |
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東郷平八郎 | 野村吉三郎 | 山本五十六 | 永野修身 |
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開戦にも特攻にも反対 | 九品仏(くほんぶつ)浄真寺の参道入口 |
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連合艦隊司令長官、海軍大臣、軍令部総長という 海軍の3大ポストをすべて経験した唯一の軍人 |
「永野家之墓」。一般の和墓とは異なる。 浄土宗の寺だが神道信者として埋葬 |
東京裁判の公判中に他界。 獄中における虐待死といわれている |
海軍の3大役職である、連合艦隊司令長官、海軍大臣、軍令部総長をすべて経験した唯一の軍人。海軍元帥。太平洋戦争では軍令部総長として途中まで作戦指導にあたった。高知出身。1900年(20歳)海軍兵学校、1910年(30歳)、海軍大学校卒業。33歳から35歳までハーバード大に留学し、さらに40歳〜43歳までワシントンD.C.にて大使館付き武官を務める。1928年(48歳)、海軍兵学校校長となり、伊藤整一と共に体罰の禁止など教育改革を推進する。その後、軍令部次長を経て、1931年(51歳)にジュネーブ軍縮会議全権委員となった。1934年、54歳で大将に昇進。ロンドン軍縮会議全権を歴任し、1936年(56歳)に広田弘毅内閣の海相となる。 1937年(57歳)、連合艦隊司令長官に任官。対米戦争に繋がる三国軍事同盟を回避するべく、非戦派の山本五十六を中央に入れて海軍次官とし、タカ派から大角人事で追放されていた条約派・軍縮派を復活させた。1941年(61歳)4月に軍令部総長に就任。「軍人は極力政治に関わるべきでない」という信条を持っていたが、7月30日に昭和天皇に「海軍としては対米戦争を望んでいない」「しかし三国同盟がある限り日米交渉はまとまらず対立関係に入る」「日米交渉がまとまらなければ石油の供給を絶たれる」「国内の石油備蓄量は2年、戦となれば1年半しかもたない」「この上は打って出るしかない」と上奏した。その上で勝算については「書類には持久戦でも勝算ありと書いてあるが、日本海海戦のような大勝はもちろん、勝てるかどうかも分かりません」と率直に告げた(いわゆる“永野上奏”)。 9月6日、御前会議にて『帝国国策遂行要領』が採択され、永野は統帥部代表としてこう語った「戦わざれば亡国と政府は判断されたが、戦うもまた亡国につながるやもしれぬ。しかし、戦わずして国亡びた場合は魂まで失った真の亡国である。しかして、最後の一兵まで戦うことによってのみ、死中に活路を見出うるであろう。戦ってよしんば勝たずとも、護国に徹した日本精神さえ残れば、我等の子孫は再三再起するであろう。そして、いったん戦争と決定せられた場合、我等軍人はただただ大命一下戦いに赴くのみである」。 永野は立場上、このように述べたが、米国滞在の経験から国力の差を痛感しており、本心は開戦回避にあった。11月1日、最後の国策方針を決める連絡会議で、永野は東條首相兼陸軍大臣に「日米不戦」を提案。“陸海軍は矛を収めて政府に協力し、交渉だけで問題を解決する方針”を提示した。これに対し、東條は「交渉条件を低下させることはできない」と却下された。※この日の会議では東郷茂徳外務大臣と賀屋興宣大蔵大臣も戦争を避けるよう訴えている。 開戦後は初戦こそ勝利したものの、米国の巻き返しは凄まじく、1942年6月のミッドウェー海戦で日本機動部隊は四隻の空母を一度に失った。翌1943年4月、山本五十六戦死。12月、永野は黒木博司中尉と仁科関夫少尉から「人間魚雷」を提案されるが、「それはいかんな」と却下した。戦局悪化につれ、陸軍兵力を南方に移すよう嶋田繁太郎海相と共に陸軍と交渉したが難航し、航空機生産に対するアルミニウムの配分でも海軍の要求が通らず、1944年(64歳)2月21日、永野は軍令部総長を辞職し、嶋田海相が軍令部総長を兼任した。永野が要職を去った後、7月にサイパンが陥落し、8月にグアムも落ち、10月には神風の特攻が始まる。 そして1945年8月14日、敗戦の前日。永野は遺書を書き終え自決を決意したが、親友の国務大臣・左近司政三(さこんじ せいぞう/海軍中将)から「責任者がこんなにどんどん死んでし まって誰が陛下を戦犯からお守りするのだ、貴様は辛いだろうが生きていろ」と諭され自決を思いとどまった。 戦後、永野は真珠湾作戦を許可した責任を問われ、A級戦犯容疑者として極東国際軍事裁判に出廷。この裁判において永野は故人となった山本五十六に真珠湾攻撃の責任を押しつけず、「責任の一切は自らにある」と言い続けた。永野の牢獄は真冬にもかかわらず窓ガラスが割れており、新聞紙を貼って北風を防ごうとしたが許されず、また水風呂を強要されたという。その結果、1947年1月2日、急性肺炎にかかり巣鴨プリズンから聖路加国際病院へ移送されたが、3日後の1月5日に他界した。享年66。元外相の重光葵はこう追悼した「元帥の 居眠りついに さめずして 太平洋の 夢路たどらん」。没後31年目の1978年、戦死ではなく病死ではあったが、法務死として靖国神社に合祀された。 墓は世田谷の浄真寺と高知市の筆山墓地にある。米国を仮想的とした三国同盟を解消して日米交渉をまとめない限り戦争になる、それを分かっていながら開戦を阻止できなかったことを永野はずっと悔やんでいた。 ※永野修身が家族に宛てた文書『戦争発生と吾人の立場』の要約→ 「A級戦犯の権謀策動者と同列に取り扱われるのは誠に遺憾。自分はかって一切の謀略や政治的策動に関与したことはなく、終始海軍軍人として公明正大な生活を営んできた。(開戦8カ月前の)1941年4月、伏見宮が軍令部総長を病気離職の際、後任に推されたが自分には持病があり、また陸軍に対峙する自信もなく進退に苦慮したが、陸軍にいる(好戦的な)多数の長老に釣り合う人間として、古参である自分が総長の職に就く外ないと信じ、身を捨て国難に当たった次第だ。その判断には今も後悔はない。 さて、軍令部総長に就任した当時の状況は、日中戦争が四年目に入り、(早期終戦という)陸軍の予想を裏切り、また到底敵を屈服できる見込みもなかった。前年の三国同盟締結後、軍閥が開戦に向けて指導宣伝し、右翼陣営の活動は一層激しく、テロ団の威嚇も頻繁にあり、米英との関係はどんどん悪化し、これを緩和矯正することは至難であった。陸軍はドイツを信頼しすぎ三国同盟を弱めることが出来ず、英米はそのような陸軍の態度に反発し交渉の好転を期待できなかったし、また陸軍を説得して態度を変換させようとする者もいなかった。 日中戦争が難航を続けているなか、陸海軍が確執を続ければ、抵抗する中国兵の戦意を発奮させ、米英も足許を見透かして態度を強化する恐れがあった。陸海軍の対峙は絶対に避けねばならない事情にあって、陸軍開戦派が作った時代の流れを誰も変えることが出来ず、ついに最悪の渕へ突入したのは誠に遺憾である。ただ、これは日本だけの責任ではない。米国の指導者階級や軍人の中にも反日、侮日の人が沢山いて活動した。石油禁輸は武器を使わずに人を殺す手段である。中国に対する抗戦援助も行き過ぎていた。なんにせよ、対米英戦争の阻止に努めたが、陸軍を中心とする時代の流れに抗することが出来ず、ついに今日の状況を見るに至ったことは実に遺憾に堪えず、恐懼(きょうく)の至りだ」。 |
陸軍中将。山形県鶴岡生れ。日中戦争勃発当時の参謀本部作戦部長。満州事変の首謀者。 関東軍参謀として満州事変を引き起こし、五族協和を掲げて満州国創設を推進した。最優先すべきは来たるべき「米ソ対決後」の世界に備えて日本の国力を高めることと考え、消耗戦となる中国での戦線拡大には猛反対した。 石原は満州国を満州人自らに運営させることを重視してアジアの盟友を育てようと考えており、これを理解しない東條を「東條上等兵」と呼んで馬鹿呼ばわりにした。「憲兵しか使えない女々しい奴」とも。また、東條が制定した「戦陣訓」をこき下ろし、激怒した東條に左遷され1941年予備役に編入。 世界最終戦論を唱え、東亜連盟を指導した。 墓所は山形県飽海(あくみ)郡の遊佐(ゆざ)町菅里(すがさと)字(あざ)菅野(すがの)の林のなか。 「油(石油)が欲しいからといって戦争する馬鹿があるか」(石原莞爾) 「皆さん、敗戦は神意なり!負けて良かった!勝った国は今後ますます軍備増強の躍進をするであろうが日本は国防費が不要になるから、これを内政に振り向ける。敗れた日本が世界史の先頭に立つ日が来るのですよ!」(石原莞爾) 「(今後、他国から)日本は蹂躙(じゅうりん)されても構わないから、我々は、絶対、戦争放棄に徹して生きていくべきです」(敗戦後の石原莞爾) |
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法要にあわせて墓参 | 水野広徳の親族の方もおられた | 墓域の「平和護念碑」 |
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水野広徳著作集(八巻)出版記念 |
「水野氏累代之墓」 | 背面に和歌 | 側面に戦没した長男 |
平和主義者となって非戦を訴えた海軍大佐。1875年5月24日に松山で生まれる。水野家は旧松山藩の下級武士でとても貧しかった。生まれた翌年に母を、5歳で父を亡くし、兄弟5人はバラバラに親戚に引き取られ、広徳は父方の伯父の家で使用人のように育つ(母方の伯父の妻は秋山好古・真之兄弟の親戚筋)。朝は一番に起きて掃き掃除、かまどの火付け、朝食の用意をして通学した。小学生の頃から、権力を振りかざす者への反抗心と、弱者の屈辱に対する同情心を抱き、大塩平八郎や義民・佐倉宗吾に興味を持った。1889年(14歳)伊予尋常中学校に入学。 「当時の学校は規則が少なく、学生ははつらつと自由に過ごしていました。それに比べると、窮屈きわまる箱詰め教育を強いられている今の学生たちは気の毒なことです。明治・大正における日本の飛躍的な発展は、僕らの時代の自由な教育の結果だったと信じています」※以下、水野の言葉は基本的に『水野広徳自伝』(南海放送)から 徴兵による兵役義務では、些細なミスで殴打されるため、水野はこれを避ける唯一の道、軍の士官を目指す。陸軍より海軍が有望と聞き、海軍兵学校を受験するが試験は難しく、20歳のときに5度目の挑戦で合格した。水野を育てた親戚の伯父は、初めて実父の遺言状を見せ、そこに養育を頼むこと、倹約して貯めたお金を預けるとあり、水野は涙ぐむ。病気になった父は「どうせ助からぬ命、少しでも多く子ども達のために」と、好きなものも食べず、薬代まで子ども達に回してくれていた。 23歳で海軍兵学校を卒業し、少尉候補生として軍艦『比叡』(初代)に配属。翌年、実地練習のための遠洋航海で、米シアトル、サンフランシスコなどを巡る。28歳の海軍大尉時代、佐世保港滞在中に転機が訪れる。天長節(天皇誕生日)に泥酔して上陸、こともあろうに祝賀宴会中の海軍長官邸に迷い込み、最上席に座っていた東郷平八郎・第一艦隊長官の前に立ち「長官、御杯(ぎょはい)を頂きます」と言ってしまった。東郷長官は笑って酌をしてくれたが、隣りの上村彦之丞・第二艦隊長官は「お前たちの来る所じゃない!」と一喝、カチンときた水野は「何じゃ、上村彦之丞の馬鹿野郎め!」と怒鳴り返した。止めに入った連中と取っ組み合いになり、翌朝宿屋の二階で気がつく。今さらになって真っ青になり、どんな処分が下るのかビクビクしていたら、翌月、水雷艇長に配置転換された。水雷艇は魚雷で敵艦を肉迫攻撃する高速小型の艦艇。「こんな乱暴者は水雷艇にでも乗せて、旅順港のサメのエサにでもしてやれというのか」。 ※旅順港…遼東半島の港(現・大連市)。ロシアの旅順艦隊(太平洋艦隊)が停泊していた。 1904年(29歳)2月、日露戦争が勃発すると、ロシアに向かう指令が下る。水野は水雷艇長として旅順港の封鎖作戦に参加した。司令部から実戦記を書くよう命令が来たため、自分の体験を感じたままに綴ったところ、海軍には従軍記者がいなかったことから新聞や雑誌に掲載された。ちなみに、水野は兵学校入学試験の漢作文で受験者中の最高点をとっている。この旅順閉塞隊記は大評判となった。 1905年(30歳)5月、当時最強といわれたロシア海軍バルチック艦隊と雌雄を決した日本海海戦に参加。終戦後、実戦記の人気をきっかけに、1906年(31歳)から日露海戦史編纂委員として東京の海軍軍令部に約5年間勤務することになった。薄給で夜遊びは出来なかったが、かわりに多くの書物を読み、軍人とは違う層との付き合いによって社会の実状を見た。 「大砲と水雷と、酒と女と、命令と服従との外に、別な世界のあることを僕は発見した。僕は読書に依って世界の動きを教えられた。そこには不法の圧迫と不当搾取とに泣く多くの不幸なる被征服民族の声を聞かされた」(『剣を解くまで』)。 33歳で少佐に昇進、翌年に大内モリエと結婚、長男の光徳(1910-1945)を授かる。35歳で舞鶴水雷団・第二十艇隊司令に就任、4隻の水雷艇を率いた。 1907年(32歳)、軍部は『日本帝国の国防方針』として「帝国の国防は攻勢をもって本領とす」と定め、水野も軍隊を中心に対外膨張政策を進めるべきと考える。「小国の富は、畢竟(ひっきょう※つまるところ)大国の餌。これを防ぐは軍国主義にあり」(『剣光銃影』) そして!1911年(36歳)、戦いの様子を記録した日本海海戦記『此一戦(このいっせん)』を刊行しベストセラーとなる。同書では軍隊がいかに国民を守る存在かを書いた。同年、軍需工場の佐世保海軍工廠(こうしょう)に転任。翌年、海軍省文庫主官に任じられ東京に戻る。職務内容は図書監理者であり、ますます読書に親しむ機会が増えた。37歳で海軍中佐に昇進。 1913年(38歳)、日米戦争仮想記『次の一戦』を匿名で出版する。同書で日本の敗戦を予想し、海軍の強化を訴えた。海軍内の調査で著者と発覚、軍に無許可で書物を出版したため謹慎処分を受ける。 1914年、各国の膨張政策が激突し、第一次世界大戦が勃発。この戦争は従来のものとは異なっていた。戦場には、航空機、戦車、毒ガスなど新兵器が登場し、大量殺戮を可能にした。 1915年、水野は海上勤務を強く希望し、巡洋艦「出雲」副長、戦艦「肥前」副長を務める。同年、ドイツが飛行船ツェッペリンを使って英国を初めて都市空爆。 1916年(41歳)、大戦争の戦時下にある欧州を、ぜひ自分の目で視察したいと考え、2年間の私費留学を希望し認められる。費用は『此一戦』の印税が役に立った。7月に東京を出航し9月にロンドンに到着。この時点でドイツ軍の空襲は飛行船約50回、飛行機で約25回行われていた。水野もロンドンでドイツ軍3機による空襲に遭遇し、爆撃後に地下室(壕)から出ると、5分前に通ったばかりの家屋が破壊されていた。この時の市民の死者は約150人、負傷者は450人。水野は5分違いで命を拾った。 1917年(42歳)、第一次世界大戦は4年目に入り、水野はフランス・パリを訪れる。北フランスの戦場は、敵味方700万の大軍が3年間もにらみ合っていた。次にローマに入って様々な遺跡や廃墟を見学し、「いかなる人間の力も、時間の前には何の権威も持たぬ」と感慨に耽る。ロンドンに戻ると、物価は戦前の3倍に達しており、食べものの確保が難しくなってきたことから、アメリカ経由の帰国を決意。イギリスを出航する船はドイツ潜水艦の魚雷の目標になる可能性が高く、水野は妻に遺書を書き、子どものために乗船前日に写真を撮った。船は三昼夜をかけて無事に潜水艦の活動圏外へ逃れた。ニューヨークに着くと、マンハッタンの摩天楼に圧倒され、その繁栄ぶりは、ロンドン、パリの比較にならなかった。そして男尊女卑の日本と真逆で「アメリカではまさに女は男の君主」と目を丸くする。一方、戦争遂行に不利益となる言論には大弾圧を加える様子に「自由の国アメリカは、今や極端な圧政の国と化した」と心を曇らせる。大陸を横断し、サンフランシスコから日本行きの船に乗って1年ぶりに帰国を果たす。 帰国後、水野はロンドン滞在記を新聞に連載する。そして空爆体験に基づく危機感を綴った。石造建築が中心の西洋と違って、日本は都市に木造家屋が密集しており、空襲になれば東京は一夜にして灰燼に帰す。最新式飛行機の飛行距離は約500マイル(800km※東京〜広島の距離)であり、艦艇甲板での発着に成功する兆しがあることから、敵に優秀な艦隊とパイロットがいれば、海上から日本の都市を襲うことが可能になる。「今や敵が東京を攻めようと思えば陸兵を相模湾に上陸させる必要はなく、艦隊を東京湾に進める必要もなくなった」と懸念を示す。 「もし、日本の如き繊弱なる木造家屋ならんには、一発の爆弾に三軒五軒粉々となりて飛散せん。加うるに我が国には難を避くべき地下室なく、地下鉄なく、従って、人命の損害莫大ならんのみならず、火災頻発、数回の襲撃に依って、東京全市灰塵に帰するやも図られず」「灯火陰滅の暗黒策を以て安心する勿(なか)れ、…戦時、東京は敵機襲撃の第一目標たらん」(1917『バタの臭い』) 東京大空襲の実に28年も前にこの警鐘を鳴らしていた。 1918年(43歳)、海軍大佐に昇進。同年11月、欧州でようやく休戦条約が締結され大戦が終わった。開戦から4年4カ月、参戦国は30以上、死者1200万、戦費4000億円、文字通りの世界大戦だった。 1919年(44歳)、水野の人生の最重要年。1月軍国主義を擁護する論文を『中央公論』に書く。水野はこの時点まで、戦争抑止力としての軍備は強力であるべきとする軍国主義者だった。対米戦争に反対しても、それは「戦えば負ける」という軍事上の理由だった。同年3月、敗戦国ドイツを見るために再び一年間の私費留学を願い出る。まず北フランスに入り古都ランス(Reims)を訪れた。戦勝国なのに、すべての家屋が被害を受け、ホテルも大劇場も崩れ落ち、瓦礫が道を埋め、廃墟そのものだった。付近の村落は壊滅し、田園は荒れ果て、生き物の姿がない。塹壕(ざんごう)の中ではドイツ兵が武装したまま白骨化していた。戦場の至るところに十字の墓標と、盛り上がった土饅頭があった。 ※原文版「破壊と殺戮とを欲しいままにしたる戦いの跡は、見るも悲惨、聞くも悲哀、誠に言語の外(ほか)である。村落は壊滅し、田園は荒廃し、住民は離散し、家畜は死滅し、満目(まんもく)これ荒涼、惨(さん)として生物を見ない」 水野は衝撃をさらに綴る。「まるで墓の海のようです。いかに戦争とはいえ、あまりにも人間の命の安いことではありませんか。これが平時であれば、誰か一人殺されても、社会の大事件として、告発だ、裁判だという騒ぎになるでしょう。それが戦争のためなら、この大量殺人を行ってもいいのです。僕は荒れ果てた無人の草原に乱れ立つ十字の墓標を眺めつつ、戦争の道徳価値と人間の生命価値を考えざるを得ませんでした」 続いて水野は、第一次世界大戦における最大の激戦地ベルダンを訪れた。この土地には仏軍の要塞があったため、4年にわたり激しい攻撃を受け続け、50万人以上が戦死していた。日露戦争の日本軍の戦死者は8万人でり、その6倍以上がこの戦場で死んでいた。一帯の老人、女性、子どもも巻き添えになっている。 「市街地は完全に破壊され、人の住む家はなく、まるでポンペイの発掘跡のようでした。独軍は50万の兵を投入して、一度はこの地を占領しましたが、仏軍によって全滅させられました。彼らは決して死にたくて死んだのではない。ただ国家のために己の命を捨てたのです。彼らは国家の要求によって、いや応なしに命を取り上げられたのです」 ここに至り、水野は戦死者について、国家のために命を捨てたのではなく、有無を言わさず命を取り上げられたと見なすようになった。 「然(しか)るにこれ等の国家は多数国民の貧困を救う為に、少数国民の富を犠牲に供(きょう)することを敢えて為さない」(大勢の貧しい国民のために少数の富裕層の富を差し出すことをあえてしない) 「弱い国民からはその掛け替えのなき生命をさえ奪いながら、強い国民からはその有り余れる富すらも奪い得ぬ国家、それが最高の道徳と言い得るであろうか」(「剣を解くまで」) その後、初めて敗戦国ドイツの地を踏む。数十万台の自動車を連合国に没収されたドイツでは、痩せてあばら骨が浮いた馬が馬車をひいていた。首都ベルリンでさえ駅前の広場に馬糞が積み重なって異臭を放っている。道端では国家のために戦った廃兵(傷病兵)が物乞いをしており、同じ軍人として胸が締め付けられた。ドイツの貨幣価値は、戦前の4分の1以下に過ぎず、泥棒も多い…これが敗戦。現地で会った日本人いわく「国民道徳の退廃こそは、戦争でドイツがこうむった無形の大損害と言えるだろう」。 水野は戦争の不毛さ、理不尽さを見つめる。「戦死者1200万を出したこの戦争、敗戦国ドイツとオーストリア、革命の起きたロシアは言うまでもなく、勝ったイギリスやフランス、イタリアにせよ、その国民は戦前よりも果たして幸福になっているでしょうか。どの国も物資の欠乏と生活難、労働不安に襲われています」。 これらの体験から、水野は思想的に180度の大転換をとげる。軍国主義者から人道的平和主義者に生まれ変わった。 「僕はまず北フランスの戦場を見て、戦争の恐るべき実状を知りました。戦勝国でさえ、戦利で得たものは、戦争で失ったものを償うには足りないのです。戦争は国家発展の最良手段と考えていた僕の軍国主義思想は、根本から覆(くつがえ)されました。そしてドイツで敗戦がもたらす社会の様子を見て、人類と戦争について深刻に考えざるを得ませんでした。戦争でひともうけしようという利己観念を離れて、公明正大に、人道上の良心に訴えて戦争の悲惨な損害を見れば、誰もが戦争は避けるべきと思うでしょう。たとえ戦争に勝っても国家としてほとんど利益がないのは、大戦が実証しました」 「国際連盟は、国の安全を保ち得る最小限にまで軍備を縮小することを規約しています。しかし、最小限度の基準をどう定めるかという、最も重要な点を規定していないのです。軍備の縮小は、戦争の発生をとどめる効果はあるかもしれませんが、戦争を防止し絶滅することは出来ません。軍備がある限り、仮想敵国は想定され、戦争の脅威があります。確実に戦争を絶滅し、永久の平和を確立しようとするなら、各国の軍備を全廃し、国際連盟の管理の下、世界警察軍を設置することも一つの手段でしょう。国際連盟が真に世界の永久平和を実現しようと思えば、軍備縮小などという消極的な手段に頼らず、個々の軍備を撤廃し、国際連盟軍の編成まで持って行かなければなりません。戦争を絶滅するもう一つの方法は、国民に戦争の真相と実状を、正確に知らせることです。政治的に、経済的に、軍事的に、国民が戦争の正体をはっきりと認識するならば、少なくとも一部の野心家が企てる侵略戦争だけは避けられるでしょう」 「今なし得るのは軍備の撤廃です。ここで問題になるのは、軍人の存在です。国家は永久に軍事力によってのみ立つと信じている軍人が政治の実権を握る国には、常に戦争の危険があります。“軍備は平和の保障なり”というのは、武装平和論者の理論です。大戦前の帝国主義的政治家や軍人は、侵略の野心をこの理論によってカモフラージュし、軍備の拡張に努めました。しかし、その結果はどうだったでしょう。世界の明日が平和であってほしいなら、平和の成立を妨(さまた)げる一切のことを除去する勇気がなければなりません。武装平和の名に隠れて、表向きは平和を唱えながら、裏で軍備の必要を説くのは卑怯者の偽善です」 1919年8月31日の天長節の日、在ベルリン日本人約25人が「ホテル・カイザーケラー」に集まった奉祝(ほうしゅく)の会で、水野は初めて軍備撤廃の意見を公表した。 「あの凄惨な北フランスの戦跡、そしてこのドイツの陰惨な国民生活の実状を見て、現代戦争の惨禍に心を暗くしない人はいないでしょう。この未曾有の大戦が残したものは、果たして何でしょうか。ただ地を覆う千万の墓標と、数百万の未亡人と孤児、そして新たな国際間の怨恨のみです。いかにしてこの憎むべき戦争を避けるかは、現代人に課せられた責務と使命であると信じます。戦争を防ぎ、避ける方法は一つでは足りないでしょうが、すぐに出来ることは、各国民の良心と勇断とによる軍備の撤廃のみです。国際連盟の唱える軍備縮小などは、断じて戦争を絶滅する方法ではありません。ことに今、第2のドイツとして世界から冷たい視線を浴びている日本としては、極力戦争を避ける手段を考えなければならないでしょう。そのために、わが国は列国に率先して、軍備の撤廃を世界に向かって提唱すべきであり、これが日本の生きる最も安全な策であると信じます」 ※原文「戦争を防ぎ、戦争を避くる途は、各国民の良知と勇断とに依る軍備の撤廃あるのみである。第二のドイツとして世界猜疑の中心に立てる日本としては、極力戦争を避けるの途を考えねばならぬと信ずる。これが為に我国は列国に率先して、軍備の撤廃を世界に向かって提唱すべきである。これが日本の生きる最も安全策であると信ずる」 このスピーチに陸軍の軍人が武装平和論をもって反対したが、その他は大多数の共鳴と賛成を得た。 「人類の将来が平和であらねばならぬと信ずる僕は、世界の明日が平和であらんことを欲する僕は、軍備第一の軍国主義の殻を脱ぎ棄てて翻然(ほんぜん)軍備撤廃主義者となった」(「剣を解くまで」) 1920年(45歳)5月、帰国の挨拶で海軍大臣・加藤友三郎を訪ねた際、「何か得るものはあったか」と問われ、水野は軍備撤廃の持論を得たと回答した。 1921年(46歳)、大戦後の平和主義の広がりに対する軍人の不満を見聞きするにつれ、水野は長く身を置かせてくれた海軍に深く感謝しつつも、人類最大の幸福である世界平和の実現は軍備の撤廃にあるという信念が、軍職と両立しなくなったことを痛感する。そして8月、兵学校以来25年6カ月の軍人生活に別れを告げ、ジャーナリストとなった。水野にとって軍備の撤廃が目標であったが、まずは現実的な軍縮から訴え始めた。 「もし軍備撤廃が困難でありとすれば、せめて各国協定のもとに軍備を縮減し、もってその競争的拡張を阻止することが必要である」(中央公論『ワシントン会議と軍備縮減』) 水野は軍国主義者から非国民と攻撃されたが「どちらが非国民かは、時の力が実証してくれるでしょう」と一歩も引かなかった。日本の軍事費は歳出の約5割に達しており、国民は増税にあえいでいた。それゆえ、水野の主張は国民に広く受け入れられていく。軍事費の負担に苦しんでいたのは欧米列強の国民も同じだった。 同年11月から世界初の軍縮会議となるワシントン会議が開催される。目的は各国の主力艦の保有量制限。水野は「軍備縮小同志会」に参加(メンバーに尾崎行雄や石橋湛山)、ペンを握って軍備縮小の必要性を訴え続けた。 翌年、ワシントン海軍軍縮条約が採択され、アメリカ10に対して日本は6となった。日本の全権委員として会議に出席し、積極的に軍縮を推進したのは、水野が「軍備撤廃の持論を得た」と報告した加藤友三郎だった。水野はワシントン条約の締結を「有史以来人間のなしたる最も神聖なる事業」と熱讃した。続いて陸軍の縮小に取り掛かる。 「海軍の縮小は世界的に協約を要するも、陸軍は隣国の情勢に応じて国内的に処理することが出来る。陸軍縮小は今や国民の声である。国民の要求である」(中央公論『陸軍縮小論』) 1923年(48歳)、軍部が米国を仮想敵国とする「新国防方針」を決定すると、水野は日米戦争を徹底的に分析し、日本の敗北を予言した「新国防方針の解剖」を発表した。「現代戦は、兵力よりも経済力、国力の戦いである。様々なことを検討すると、我が国は米国に対して圧倒的に劣り、長期戦に絶えられないだろう」「実際の戦争においては空軍が主体となり、東京全市は米軍による空襲によって、一夜にして灰燼に帰すであろう。さらに、長期戦になることを想定すると、日本の敗戦は免れない」「このような国防方針は、頭でもおかしくならない限りは、作ることができない」と断じた。水野はここでも東京大空襲の惨状を的確に予想している。彼は『中央公論』で毎月のように反戦・軍縮を訴え、当局から危険人物としてマークされた。同年、関東大震災の影響でモリエ夫人が他界。 1925年(50歳)、世論の軍縮熱に押され、陸軍が大規模な軍縮を行う。21個師団のうち4個師団を削減し、3万4千人が人員整理された。同年『中央公論』に反戦論文「米国海軍と日本」を発表。この論文は20年後に予想もしない形で世に再登場する(後述)。また「軍部大臣開放論」でシビリアンコントロールの重要性を説く。 1928年(53歳)、寺尾ツヤと再婚。 1930年(55歳)、ロンドンの海軍軍縮会議で軍縮条約を締結した日本政府に対し、海軍は「政府が軍の編成について条約を結ぶのは統帥(とうすい)権の干犯(かんぱん)である」と異議を唱える。統帥権とは軍の作戦などの最高指揮権。大日本帝国憲法第11条は「天皇は陸海軍を統帥す」と定めており、統帥権は天皇の大権だった。海軍は軍の編成も統帥権に属すると主張し、軍縮条約を結んだ政府を攻撃した。「統帥権」という言葉を持ち出されたことで、政府は口出しできなくなった。この時から、軍部の独走が始まる。水野は古巣に抵抗した。「軍部が統帥権をうんぬんして憲法の正文を無視せんとするは、憲政の将来を厄(やく)たいならしむるの恐れあり」(朝日新聞寄稿6月5日)。彼は軍部が統帥権を自分たちの権限のように解釈することで、国を誤らせてしまう可能性を危惧した。11月、ロンドン海軍軍縮条約調印を断行した浜口雄幸首相が、東京駅で右翼に狙撃されるという大事件が起きる。浜口首相は9カ月後に死亡した。軍の意に沿わないことを言えば身が危ない、そんな時代になった。 この年、水野は米国による東京大空襲を予言した未来戦記『海と空』を出版。作中、東京は数百機の米軍機が投下した焼夷弾とガス弾で焦土となった。 ※『海と空』国会図書館デジタルライブラリー http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1032592 1931年(56歳)、9月満州事変が勃発。関東軍(日本陸軍)が自作自演のテロを行い中国東北への侵略戦争を始めた。若槻内閣は不拡大方針をとったが関東軍は東北三省を占領。日中戦争の発端となる。 1932年(57歳)、3月関東軍が日本の傀儡(かいらい)国家、満洲国を建国。日本は景気低迷が続いており、国民は満州建国に景気の回復を期待し、マスコミも軍部の行動を支持、全国の新聞社のうち132社までもが満州国建国を歓迎する共同声明を出した。だが、水野は満州国の問題がアメリカを敵に回すことになると警告した。同年、日米戦争の仮想小説『打開か破滅か・興亡の此一戦』が発禁処分となる。文中に「日本の満州国承認は、国際連盟を驚愕せしめ、米国を憤慨せしめ、中国を悶殺(もんさつ)せしめた」とあり、これが検閲で問題になった。また、『海と空』と同様に恐ろしい描写で未来の東京大空襲が描かれている。 「東京では数百の飛行機が流星の如く暗空に去来して敵味方の識別も出来ない。逃げ惑ふ百万の残留市民、父子夫婦乱離混交(らんりこんこう)、悲鳴の声。跡はただ灰の町、焦土の町。死骸の町である」(「興亡の此一戦」) 内務省の「出版警察報」によると、満州事変からわずか1年で検閲による発禁処分は5千件にものぼっていた。 同年「五・一五事件」が起き、満洲国承認に慎重だった犬養毅首相が海軍将校たち暗殺され、政党内閣の時代が終わる。テロの恐怖から政府でさえも軍部に対してものが言えなくなっていく。この空気の中で水野は、「満州問題は日米戦争に発展し、日本は敗れ、甚大な被害を被る」と指摘し続けた。 1933年(58歳)、3月日本は国際連盟を脱退。8月水野は執筆で書けない分、自らの声で語ろうと講演活動を始める。だが「極東平和友の会」創立総会で演説中に暴漢に襲われたうえ、警官により演説自体を中止される。 1934年(59歳)、12月日本はワシントン海軍軍縮条約を破棄。本格的に戦争への道を突き進む。 1936年(61歳)、「二・二六事件」が起き、陸軍青年将校らが約1500名の部隊を率いて首相官邸などを襲撃。内大臣斎藤実・大蔵大臣高橋是清・教育総監渡辺錠太郎らが殺害される。軍部の政治支配力がさらに強化された。 1937年(62歳)、2月廣田(ひろた)内閣が総辞職し、後継に陸軍の大物でありながら軍部ファシズムに批判的だった穏健派・宇垣一成(かずしげ)による組閣が期待されたが、軍部タカ派の抵抗(軍部大臣武官制を使って妨害)で流れてしまう。 7月北京郊外の盧溝橋で日中両軍が偶発的に交戦し、ここから全面的な日中戦争が始まる。9月水野は反戦思想の持ち主として憲兵の尋問を受ける。陸軍は上海から首都南京に進撃し、12月に南京を陥落させて多数の市民が犠牲となる。捕虜殺害は4万人以上。新聞、雑誌は軍部の活躍を競うように報道し、国民も勝利に酔いしれた。南京陥落の翌日、全国で戦勝祝賀集会が開催され、東京では市民40万人が「バンザイ!バンザイ!」と勝利を祝う祝賀提灯行列を行った。ここに侵略者・加害者という意識はまったくない。この市民の提灯行列は軍部の戦線拡大を後押しし、ある意味、引くに引けない状況を作ってしまった。 1939年(64歳)、『水野広徳全集』が発売禁止となる。9月ドイツ軍がポーランドに侵攻し第二次世界大戦が勃発。同年暮れ、日記に「反逆児 知己(ちき、親友)を百年の 後(のち)に待つ」の 句を記す。 1940年(65歳)、12月言論統制を続ける政府と軍部は、その総仕上げとして内閣に「情報局」を設置、報道の一本化を狙った。最終的に、国民は大本営発表しか聞かされなくなる。 1941年(66歳)、2月26日、水野は情報局が出した執筆禁止者リストに載せられ、これでとうとう一切の発表の場を奪われた。そして12月8日に日本軍がハワイを奇襲攻撃、水野が最も恐れていた日米の太平洋戦争が始まる。国民には「日本軍優勢」「またしても大勝利」としか伝えられなくなる。 1942年(67歳)、6月中部太平洋のミッドウェー海戦で主力空母4隻を失う大敗、航空機約300機、将兵約3000名以上を一挙に失う。8月ソロモン諸島ツラギ島守備隊約400人が最初の玉砕。12月ガタルカナル島から撤退決定(約5ヶ月間で日本兵3万6千人のうち2万5千人が戦死あるいは餓死)。 1943年(68歳)、4月連合艦隊司令長官・山本五十六戦死、国葬。5月天皇列席の御前会議で『大東亜政略指導大綱』を決定し、「マライ(現マレーシア・シンガポール)、スマトラ(現インドネシア)、ジャワ(同左)、ボルネオ(同左)、セレベス(同左)は帝国領土と決定し、重要資源の供給地として極力これ開発並びに民心把握に努む」とする。建前上は「アジア解放の為の聖戦」だが、実際は占領地を「日本領」にすることを、御前会議まで開いて確認している。フィリピンについては戦争前から米国が独立を約束していたので、“解放”という大義名分の為にも早く独立させるしかなかった。ビルマに関しても、隣国インドの対英独立運動を刺激するために独立させた。大本営は軍政による徴発が占領地住民に重圧を及ぼすことを予想し、日米開戦の前月の段階で「(重圧は)これを忍ばしめ」(=耐えさせる)と打ち捨てている(『南方占領地行政実施要領』)。 1944年(69歳)、4月海軍乙事件。フィリピンで参謀長・福留繁中将が抗日ゲリラに捕らえられ、「Z作戦計画書」(太平洋海域での作戦計画書)や「暗号書」が入ったケースを奪われた。戦争全体を左右する大事件だが、「原住民は機密書類に関心がないだろう」と、海軍上層部はZ作戦計画も、暗号も何も変更しなかった。現実はゲリラから米軍に渡され、暗号がすべて解読された。6月太平洋戦争の命運を決したマリアナ沖海戦(あ号作戦)で完敗、空母3隻を失い378機もの航空機を損失、二度と機動部隊を核にした海戦を行えなくなった。一方米軍艦船の沈没はゼロ。「Z計画書」の入手で、日本側の戦略、参加艦船や艦載機、燃料量、各部隊の指揮官名まですべて把握していたからだ。 7月米軍の猛攻でサイパン島が陥落し、爆撃機B-29による日本本土爆撃の基地となった。サイパンを失ったことで日本は戦局の逆転や有利な条件で講和を結ぶ可能性が完全についえ、東條内閣は退陣する。 10月台湾沖航空戦。大本営は「空母19隻、戦艦4隻、巡洋艦7隻、艦種不明15隻撃沈・撃破」と歴史的大戦果を発表したが、実際は戦果ゼロに等しい「巡洋艦2隻大破」のみ、逆に航空機約700機を失っていた。この世紀の大誤報をもとに今後の作戦計画が練られ、生き残る可能性があった部隊まで全滅し、同月フィリピンのレイテ海戦では神風特攻が始まった。 1945年(70歳)、3月10日東京大空襲、10万人の死者。この地獄のような空襲があっても、国民は日本の勝利を信じて疑わなかった。3月26日硫黄島守備隊玉砕。2万933人のうち2万129人が戦死する。4月沖縄に米軍が上陸し地上戦が始まる。島民は「投降すれば酷い目にあわされる」という軍の言葉を信じ、集団自決していった。島民の4人に1人が亡くなった。同月、水野は瀬戸内海の大島に疎開。5月頃から米軍機が全国に降伏をうながすビラを458万4千枚撒き、その中には「水野広徳いわく」として反戦論文「米国海軍と日本」の一部が次のように記載されたものもあった。 「大正十四年四月の中央公論に水野広徳氏は次のように掲げた。『われ等は米国人の米国魂を買い被ることは愚かなるとともに、これを侮ることは大なる誤りである。米国の兵力を研究するに当り、その人的要素は彼我同等のものとして、考慮するにあらざれば、英国人に対したるドイツ人の誤算を繰返へすであろうことを恐れる』--軍部指導者は水野氏の注意された間違いをくり返したのである。彼等は今では誤算を自覚している。この強欲非道的軍部指導者を打倒するには米国が日本本土を衝かなければならないのであろうか。祖国を救え!」 7月26日のポツダム宣言(降伏勧告)を無視した結果、8月6日に広島、9日に長崎に原爆が投下され、その間にソ連の参戦もあり、15日に日本は無条件降伏する。長男の光徳がフィリピンで戦病死したのは8月12日、あと3日生きていれば終戦だった。この戦争で日本人約310万人(軍属230万人、民間80万人)の命が奪われ、加害者としてはアジア・太平洋各占領地での食糧徴発がもたらした餓死者を含め2000万人以上(各国の政府公表の集計)の命を奪ったとされる。 敗戦翌月9月27日の水野の手紙「陸海軍の軍備撤廃と、戦争責任者の処罰とのみは、すこぶる我が意を得たるものとして大いに愉快と存じます」。10月12日、突発的に腸閉塞を発症。島の対岸の今治で手術を受けることになったが、小舟のエンジンが途中で止まり、丸一晩海上に漂ったために手術が遅れ、10月19日に他界した。享年70歳。平和国家として再出発する日本を見届けての旅立ちだった。息子の死は最後まで知らなかった。墓所は松山市の蓮福寺。 ※200m西の正宗寺の歌碑に刻まれている歌は「世にこびず人におもねらず我はわが正しと思ふ道を進まむ」。 1976年、他界の31年後、水野の遺品を整理していた親類が膨大な量の原稿を発見する。 「戦争を防ぎ、戦争を避くる途は、各国民の良知と勇断とによる軍備の撤廃あるのみである」。海軍大佐にまでなった軍人が、武力放棄を訴える平和主義者になることは、当時は考えられないものだった。豊富な軍事知識を持ち、日露戦争の旅順港封鎖戦や日本海海戦に従軍、第一次世界大戦真っ只中の欧州と、戦後すぐの荒廃した欧州を自分の足で見て回り、アメリカを横断して強大な国力を目撃、これらすべての体験から出されたものが水野の平和主義であり非常に現実的。お花畑と揶揄されるような平和主義ではない。もともとは「軍備は戦争抑止力として必要不可欠」と考えていた軍国主義者であったが、欧州の戦場を視察して、現代の武器はあまりに強力・残忍で、総力戦になると勝った方も犠牲が多すぎると絶句。戦勝国になっても、失われた多数の国民の命を取り戻せない、勝利しても「国家として殆んど利するところなき」と思い知る。「日本の如き貧乏国にして、しかも世界の孤立国は、如何にして戦争に勝つべきかと言うことよりも、如何にして戦争を避くべきかを考えることが、より多く緊要である」。当局に論文の寄稿も禁じられた後も、水野は非戦の思いを短歌や俳句に託していた。 「戦争に勝っても得られるものは払った犠牲に全く見合わない」。リアリストであった水野だからこそ「真に世界の永久平和を実現しようと思えば、軍備縮小などという消極的な手段に頼らず、個々の軍備を撤廃し、国際連盟軍の編成まで持って行かなければならない」「わが国は列国に率先して、軍備の撤廃を世界に向かって提唱すべきであり、これが日本の生きる最も安全な策」と確信していた。他界の翌年、1946年11月3日に戦争放棄の理想を掲げた日本国憲法が公布される。 ※人生を遡って見ると、水野が軍国主義者から平和主義者となったのは世界大戦後の欧州の惨状を見たからであり、その欧州を私費で視察できたのは『此一戦』がベストセラーになって印税を得たからであり、『此一戦』が書けたのは日露戦争に従軍したからであり、後方の留守艦隊ではなく前線に派遣されたのは泥酔して東郷平八郎と上村彦之丞に絡んだ結果という可能性が高く、人生というものは何がきっかけで激変するのか分からないもの。 【参考資料】 『水野広徳自伝』(南海放送) 『その時歴史が動いた 軍服を脱いだジャーナリスト・水野広徳が残したメッセージ』(NHK) 『水野広徳ミュージアム』 http://www.mizuno-museum.or.jp/shokai.html 松山市立子規記念博物館学芸員・平岡瑛二さんの講演 『ふるさと松山の心』(松山市教育委員会) 「日米戦争の敗北を予言した反軍大佐・水野広徳」http://www.maesaka-toshiyuki.com/war/3600.html 「カイゼン視点から見る第一次世界大戦」http://www.kaizenww1.com/959jpnsmilitary5.html 「近代史年表〜日本とアメリカ編」 http://kajipon.com/kt/peace-e.html ★水野広徳のここがスゴイ!(中学生向け) ・最初は「平和を守るためにたくさん武器が必要」と思っていたけど、外国の大戦争(第一次世界大戦)を自分の目で見に行って、考え方を変えた。 ・イギリスを見学しているときにドイツ軍の空襲があり、たった3分で500人も大怪我をしたり亡くなった人がでて、「燃えにくい石の家のイギリスでも被害があるのに、燃えやすい木の家が多い日本だど、爆弾が落ちると町が丸ごと燃えてしまう」と気づき、東京大空襲の30年くらい前からずっと危険を知らせていた。 ・戦争のあとを見学して、現代の武器はあまりに強力すぎて、戦争に勝ったとしてもたくさん国民に犠牲者が出る。現代の戦争に勝利者はいないとわかった。失った命につりあう勝利なんてない。 ・「みんなで武器を減らそう」と言っているだけじゃ戦争はなくならない。本当に平和を実現しようと思うなら、それぞれの国が持つ軍隊をなくし、国連軍だけを残すべきと訴えた。 ・昔の日本は、「持っている武器をへらそう」なんていえば、総理大臣でも軍隊に撃たれる時代だった。水野広徳はどんな危険な目にあっても、勇気を出して武器を捨てようと言い続けた。 |
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ロンドン、セント・ポール寺院の記念碑 | 無人駅のモートンから徒歩でドーセットの町へ | 片道45分。樹のトンネルを歩き続ける |
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とにかく歩け!ひたすら歩け! | 側にはゆっくりと草をはむ牛たち | やがて見えてきた墓地の門! | 朝陽に輝くロレンス! |
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背後に猫がいたとは知らなんだ | これほど人懐こい猫も珍しい | 墓石の上を散歩。やりたい放題 | バイク事故で死去 |
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ロンメル通り。彼は村の英雄だ | 墓地入口の案内板 | 山間の小さな墓地の一番奥が彼の墓 |
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北アフリカ戦線を風のように疾走し、英軍からは“砂漠の狐”と呼ばれた。トレードマークのゴーグルは英軍のもの! |
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ドイツの将軍でありながら堂々と ヒトラーを批判した勇気ある漢 |
花であふれかえったお墓。そして左手前の赤い花輪はッ! |
なんと!この花をそえていたのは イギリス戦車部隊!敵の献花※ |
「敵の指揮官ロンメルは、きわめて勇敢な、きわめて巧みな敵将だ。戦争という行為は別として、偉大な人物だ。…悔しいが!」「ヤツはナポレオン以来の戦術家だ」(チャーチル) 物資不足の少数ドイツ軍戦車隊を率いて、数倍の兵力のイギリス軍をアフリカ戦線で撃破し続けた敵将エルウィン・ロンメルに、英首相チャーチルが思わずもらした言葉だ。 “砂漠の狐”ロンメル将軍。様々な奇策で敵軍を翻弄した彼だが(わずか300人の兵力で8000人の敵兵を捕虜にした)、中でもリビア砂漠の戦いは特に有名だ。彼は自軍を大軍に思わせる為に、最前列だけ本物の戦車を配置し、後方は自動車に木枠をかけたニセ戦車を大展開し、しかもニセ戦車にほうきや鎖を引きずらせて大規模な砂煙を立たせる周到ぶり。英軍は2ヶ月をかけてやっと占領した陣地を戦わずして放棄、我先にと撤退した。 英軍が去った後には砂漠用のゴーグルが落ちていた。彼はそれを手に取り言った。「良いデザインだ。もらうよ。」それ以来、彼は敵軍のゴーグルを使っていた。他の将軍は“敵の物を身につけるとは何事か”と非難したが、ロンメルは素知らぬ顔。これは彼のトレードマークになった。 実は英軍がパニックを起こした理由はもうひとつあった。ドイツ軍が事前に行なった軍事パレードを見た英国のスパイが、「ロンメル部隊に大戦車隊あり」と報告していたからだ。しかし、いくらなんでもスパイがニセモノの戦車に騙されるはずないとお思いだろう。何のことはないパレード自体が既にロンメルの罠だったのだ。パレードの戦車は会場を中心に円を描き、ひたすらグルグルまわっていたのだ! しかし僕はロンメルが才将だった為に惚れたのではない。ロンメルは当時貴族出身か特権階級の士官しかなれなかった師団長の地位を、平民出身で初めて手に入れたからでもない。彼が己の信念で最後までナチスに入党しなかったからだ。 彼の息子はこう回想している…彼が15歳の頃、ナチの人種差別理論を得意げに父に語った時、「私の前でそういう馬鹿げたことを2度と喋るな!」と激高したという。 ロンメルは他の士官がやるように、自分の家族をヒトラーやナチス幹部に引き合わせたりしなかった。社交界へは妻にせがまれて、渋々と一度だけ舞踏会に顔を出した。『英雄ロンメル』は会場に入るなり着飾った女性たちに取り囲まれ身動き出来なくなった。この時の彼の反応がケッサクだ。彼はすごい形相で「私を通して下さいっ!」そう怒鳴り、周囲が静まり返ったという。 戦力で勝るのに連戦連敗が続いた英軍内には“神がロンメルを守っている”と噂が流れた。また、ロンメルがユダヤ人部隊を捕虜にした際に、ベルリンの総司令部が“捕虜として扱わず、即射殺せよ”と指示を出したが、ロンメルはその命令書を焼き捨てたというニュースが報道され、いよいよ英軍兵士には彼に“敬意”を表わす者が続出し、実際に英軍司令部が『ロンメルは人間である』という内容の、前代未聞の布告を出したのだった。 ロンメルは自殺した、というより自殺“させられた”。いよいよ連合軍の総反撃が開始した時に、勝ち目がないと判断した彼は撤退の許可をベルリンに求めた。 ヒトラー「勝利か死か。それ以外に道はない」 ロンメル「総統は犯罪者だ。祖国が壊滅するまで戦うつもりか」 彼は、独断で退却を命令した。ベルリンに戻った彼はノルマンディーの敗退を見て、ヒトラーに戦争の終結を進言しようとした。ヒトラーは怒りを爆発させた--「元帥、出て行きたまえ!」。 3ヶ月後、ヒトラーの使者がロンメル邸に現れる…毒薬を持参して。「貴公に総統暗殺未遂の疑いがかかりました。この毒を飲むなら家族の命は保証しましょう」ロンメルは家族の一人一人に別れを告げた後、そのまま自宅の裏の林に入り、木々の間で毒をあおいだ。 “なんだかんだ言っても軍人は軍人だ”、そんなことは百も承知している。ただ、僕はドイツを吹き荒れたあの狂気の中で、良心のかけらを見出したことが嬉しいのだ。 ●ロンメル語録X2 『軍の上層部は、表面だけスベスベで中は腹黒い大理石野郎ばかりだ』 『死んだヒトラーは生きているヒトラー以上に危険だ』 最近のネオナチの活発な動きを考えると、2番目の言葉は重い。 ロンメルの死は、国民には「戦傷で死亡」と報道され、形ばかりの国葬が行われた。 ![]() |
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一次大戦のエースP | ベルリンのInvalidenfriedhofに残る最初の墓(2015) |
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夕方で既に管理人室は閉まっていたけど | このお爺ちゃんが「地図があるよ」と教えてくれた | なるほどここに“レッドバロン”が眠っているのか |
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ベルリンから改葬されたとのこと | 一族が集まっている。花も綺麗だ | 名前と没年で彼の墓と確認 |
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欧州ルクセンブルクに米兵の集団墓地 |
見渡す限りの米兵の十字架。ファシスト から他国を助ける為に犠牲となった |
一番奥に眠るのがパットン |
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将軍だが墓の大きさは新兵と同じ | パットンの後方からの光景 | 礼拝堂の記帳。「Thank you」や中国人の「感謝」 |
アメリカの陸軍軍人。モットーは「大胆不敵であれ!」。ドイツ軍顔負けの「電撃戦」を実施、2週間で約1000キロを進撃。敵の補給路を遮断するため、機動力を生かして後方に回り込む戦法を駆使。ドイツ降伏の半年後、搭乗車が米軍トラックと衝突し12日後に肺塞栓症で死去。最期の言葉は「(自動車事故は)軍人の死に様ではないな」。 |
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1988年版 | 「宇宙を…手にお入れ下さい」 | 2018年版 |
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キルヒアイスの墓。献花はアンネローゼのもの | 夜の墓参から | あまりにも早すぎる死であった |
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友が墓に刻んだ碑銘は、ただ一言 「Mein Freund(マイン・フロイント/我が友)」 |
ラインハルトによる献花(第26話) |
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シャンゼリゼ通りの西端に建つ | 無名戦士の墓 | 月桂冠をかぶるナポレオン像 |
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墓前で「他に方法はなかったのか」と問いかけた | 「東條家之墓」 |
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ニャンコが墓前でくつろいでいた |
第40代総理大臣。陸軍大将。太平洋戦争開始時の首相。東京生まれ。父は陸軍中将。陸軍士官学校、陸軍大学校を卒業。1928年(44歳)、陸軍軍務局長・永田鉄山の陸軍統制強化論に影響を受けて陸軍省に入省。陸軍内に一大勢力“統制派”を永田と作り上げた。統制派は“皇道派=急進的青年将校”の動きに反発し、クーデターなどの直接行動ではなく、法に従って国家改造を行おうとした。だが、1935年(51歳)、永田は皇道派に暗殺される。翌年、二・二六事件で皇道派が決起に失敗すると、東條ら統制派が一気に軍中央の権力を握った。当時関東軍(満州)の憲兵司令官だった東條は、亡き永田の弔い合戦で満州の皇道派軍人を片っ端から監獄に送った。いわく「これで少しは胸もすいた」。 1937年(53歳)に関東軍参謀長になると、満州国を通して中国支配に奔走し日中戦争を拡大。近衛内閣で陸相になると、日米開戦を避けたい近衛首相に逆らい、日独伊三国同盟締結や武力南進政策を押し進め内閣を総辞職に追い込んだ。 1941年(57歳)、近衛の退陣後、現役軍人のまま首相に就任し、対米英開戦を強行した…というのが従来の説だが、近年の研究では東條も戦争を煽る国民やメディアに追い込まれていたことが明らかに。開戦前に首相官邸へ届いた投書は3千通。その大半が日米開戦を求めていた。御前会議で日米開戦が決定した後の東條と秘書官の会話。秘書官「この頃は総理に対して何をグズグズしているのかという投書が多くなりました」東條「“東條は腰抜けだ”と言っているのだろう…」。 平和外交を望んだ昭和天皇が、あえてタカ派の東條に組閣を命じたのは、戦争回避に向けて陸軍に統制がきく人間が東條しかいなかったから。首相になれば重責から慎重になるのではという期待があった。内大臣・木戸幸一いわく「東條を推薦したのは私。政治家はどこに行ったかわからなくなってた。器は大きくなくても東條しかいない」。一方、企画院総裁・鈴木貞一いわく「東條は海軍がやっぱり戦に不同意と言うことになれば、陸軍だってそんな戦は強いて主張しないと言っていた」。このような証言もあり、強硬派とされる東條にも迷いはあったようだ。東條いわく「(中国で)あれだけの人間(日本兵)を殺して金も使って、手ぶらで帰ってこいと言うことは出来ない」。 陸軍省軍務課長・佐藤賢了いわく「独裁的な日本の政治では無かった。だから戦争回避は出来なかったんです。こうした日本人の弱さ、ことに国家を支配する首脳、東條さんはじめ我々の自主独往の気力が足りなかったことが、この戦争に入った最大の理由だと思う」。つまり、国民を戦争に引きずり込んだヒトラーと異なって、日本の場合、独裁者がいなかったからこそ、戦争が避けられなかった。日本のトップ=大本営政府連絡会議はみんな責任を負うのがイヤで、弱腰とみなされ失脚するのが怖くて、戦争は愚かと気付いていながら戦争という道を選んでしまった。 開戦後、東條は内務・外務・陸軍・文部・商工・軍需の各大臣を兼任し、さらに参謀総長まで務めて権力の集中を計る。そして「大東亜共栄圏建設」をうたって戦争を遂行したが、補給軽視のずさんな作戦で多くの兵士が餓死。戦局はどんどん悪化し、1944年(60歳)にはマリアナ沖海戦で敗れて海軍を失い、サイパンも陥落してしまう。これで本土空襲が決定的になった。この事態を受け、東條内閣は総辞職。1945年(61歳)、日本降伏。東條の娘婿、古賀秀正少佐は玉音放送開始と同時に自決した。東條自身はA級戦犯容疑で逮捕される直前にピストル自殺を試みるも未遂に終わり、東京裁判で死刑となった。享年64。従二位。勲一等。 |
陸軍中将。盧溝橋事件や、太平洋戦争開戦時のマレー作戦やインパール作戦において部隊を指揮。補給を軽視したため、インパールでは日本軍8万6千人のうち死傷者7万4千人=戦死3万2千人(大半が餓死)、負傷者4万2千人(多くが飢餓からくる戦病)という未曾有の犠牲者を出した。日本軍の行軍ルートは餓死者が連なり、“白骨街道”と呼ばれた。※インパール作戦・徹底検証 |
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ドイツ中部の教会 | 2011年までこの場所に墓があった | 遺族はネオナチの聖地となるのを恐れた |
政治家。初期のナチス副総統。英独の開戦を避けるため、ヒトラーに無断で単独渡英し和平を試みたが、ナチ政権はヘスを精神異常と発表。英チャーチルはヘスを国家捕虜とし、ヘスはロンドン塔に幽閉された最後の人物となる。戦後に戦犯として裁かれ、ユダヤ人虐殺の「人道に対する罪」については無罪とされたが、「共同謀議」「平和に対する罪」で終身刑となった。93歳まで長寿し、戦犯裁判の最後の生き残りとなったが、1987年に刑務所の電気コードで首を吊った。墓がネオナチの聖地となることを懸念した墓地管理人とヘスの親族は墓石を撤去することで合意、2011年7月、深夜に撤去された。遺骨は火葬され海に散骨。 |
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ベルリンにて | やはり墓石は撤去されていた | ナチス高官は軒並みこのようだ |
「(海軍は)ミッドウェー海戦でなぜ負けたかという大反省会をやっていない。珊瑚海海戦でもやっていない。日本艦隊は本当にやらない。海軍だけじゃない。失敗の研究というのは陸軍もやっていない。いや、日本人全体がそうなのだ。本当に仲良し主義だから、そこまでやりたくない、というのがあるのでは。 失敗の教訓を、文書とか、きちんとした記録とか、証拠物件を集めて残しておこうという精神は、およそないんじゃないでしょうか。アメリカは物凄いです。アメリカは徹底的にやりますから。日本人は戦争というものの本当の酷さといいますか、残酷さといいますか、そういうものにきちんと向き合おうとしなかった」(半藤一利) |
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