(注)このレポートは拉致事件で多数の死者が出ているという悲劇が発覚する前に記したものです。今なら違う視点で書いたと思いますが、ここに記したことは実際に北を旅して感じた“当時の自分”にとっての事実であり、特に文章をいじらずにそのまま載せておきます。それにしても、色々なことが分かるにつれ、北朝鮮の指導部に激しい怒りを感じます。人生を狂わされ、家族と引き裂かれた拉致被害者の方が、一日も早く再会できる日が来ることを祈ると共に、若くして非業の死を遂げた被害者の方の御冥福を祈ります。また北朝鮮国民についても、100人に1人が放り込まれている政治犯強制収容所で、日常的にリンチや公開処刑にあっており、彼らに早く言論の自由が保証された民主的な世の中が到来することを熱望します。国民を弾圧し、飢えさせ、収容所を作り、核を開発する北朝鮮指導部は狂気の沙汰です!(2002.12.23)


カジポン・タイムズ外伝〜世界巡礼烈風伝82
南北朝鮮半島の巻


「ド根性墓マイラーとしては、こりゃ朝鮮半島の墓参も行かねばのう」
僕がそう言った時の周囲のリアクションは、これまでとはちょっと違った。
今まで南米や中東の墓参に行く時は
「強盗には逆らうなよ」
「密売人になるんじゃないぞ」
とかジョークを飛ばしてた人が
「教科書問題で対日感情が悪いからボコボコにされるよ」
と真顔で言うわけ。
実際、“生徒の身の安全を保障出来ない”という理由で、韓国への修学旅行を取り止めた学校が、’01年夏以降激増しているとのこと。

結論から先に言うと、実際は全然そんなことはなかった。っていうか、みんなメチャクチャ優しかった!

《北朝鮮編》


※北朝鮮国内の観光事情はその時々の社会情勢に大きく左右される為、僕の巡礼ルポも“この時はたまたまそうだった”的な感覚でお読み下さい。

●記念碑的巨大建造物の都へ


2001年8月27日。僕は神戸港から朝鮮半島を目指して旅立った。最初に目指したのは北朝鮮の首都平壌(ピョンヤン)から50キロほど離れた港町、南甫(ナンポ)だ。
北朝鮮とは正式な国交がないので旅行出来ないと思っている人が多いけど、それはあくまで個人旅行の話で、団体での観光は可能だ。団体といえば大袈裟だが、たった2名でも「団体」として認められる。
ビザは申請してから発給まで約1ヶ月もかかるが、これは日本に北朝鮮大使館がない為で、中国やロシア国内の大使館を通じて申請することになるからだ。(郵送で可)
出入国の際はパスポートではなくビザにスタンプを押すので、事実上パスポートには朝鮮出入国の記録が残らない。これも国交がないからか。

渡航ルートも色々あって
1.北京経由(フライトor鉄道)
2.ロシア経由(フライトor鉄道)
3.名古屋空港からの直行便(団体100人以上の場合のみ)
4.船(複数のNGO団体が不定期で交流船を出している)
などなど。今回は国際親善を目的にNGO団体が企画した船旅を利用した。

北朝鮮を旅するにあたって一番特筆しなければならないこと、それは現地の滞在中は最低でも必ず2人の“ガイド”(日本語ペラペラ)がつくことだ。外国人は観光可能な地域が限定されているので、好き勝手に国内を移動しないようガイドたちは“監視”しているのだ。
旅人に開放されている地域は平壌・南浦・開城・元山の4都市と白頭山妙香山・七宝山・金剛山のみで、市場の見学は許可されていないし、街で出会った個人の家を勝手に訪問することもできない。だからツアーの客が増えれば、当然ガイドも10人、20人と増えていく。
ただ“監視”といっても威圧的な雰囲気はなく、なるべく旅行客の要望を聞いていこうという協調姿勢をモットーにしていることを付け加えておく。

ガイドは真面目一徹の人から、寅さんのようにひょうひょうとした人まで実に個性豊か。どんなガイドとペアになるかで随分旅全体の印象も変わるようだ。

●入国初日!


さて3日の船旅の後に南甫へ入港したわけだが、入国するにあたって北朝鮮当局による持ち物検査があった。携帯電話、双眼鏡(6倍以上)、韓国の本、日本の週刊誌、ラジオ、録画済ビデオテープなどは持ち込み禁止なのだ。念の為に記しておくが、北朝鮮は韓国とまだ終戦協定を結んでおらず、あくまでも現在は休戦中、つまり戦時下である。ケータイや双眼鏡はスパイ道具になるのでダメってわけ。週刊誌は“有害図書”といったところか。

14時に南甫から40分ほどバスに乗って平壌を目指す。
港から街中に入り、続いて農村地帯を突っ切った。これまでに報道で近年の北朝鮮は度重なる水害で数十万人の餓死者が出ていると聞いていたので、荒廃した廃墟のような国土を想像していたけど、街中の公園ではバアチャンたちが木陰でのんびりと「ガニ股座り」で井戸端会議をし、農村では農機具を片手にワイワイ話しながら歩く農民たちとすれ違い、川では子供たちが水遊びをしている、そんなごく普通のアジアの光景がずっと車窓から見えていた。

担当のガイドは徐(ソウ)さんと李さん。35才&25才の中堅コンビだ。他の北朝鮮の男性同様、2人とも陽に焼けて真っ黒だった。若い李さんは徐さんの助手のような存在で、ほとんどの仕事を徐さんが取り仕切っていた。
徐さんは一見ガンコで怖そうな感じの人だけど、話してみたらとっても気さくな性格で、写真撮影についても
「軍事施設はダメですが、その他は自由にバンバン撮って下さいね!」
と寛大だ。事前に読んだ北朝鮮旅行記に“バス中からの撮影は禁止されている”と書かれていたので、このオープンさは意外だった。

やがて前方に白い高層ビル群が見えてきた。いよいよ平壌市内だ。50階はあろうかという巨大マンションが林立しており、さすがは首都だと思っていると…あれれ?何か様子が変だ。夏だというのに窓を開けてる家が一件もない。破綻寸前の経済状態でクーラーが全家庭に普及してるとは到底思えないんだけど…。しかし一番奇妙だったのは、洗濯物を干している家がただの一件もなかったことだ!(外に干してはいけないという条例があるのなら別だが)

ウ〜ム、これは一体どうしたことか?


《北朝鮮編》第2回


首都平壌は『喧騒』という言葉と完全にかけ離れた空間だった。確かに市民はいるのだが、まばらにしか歩道を歩いていない。
“街が呼吸していない”
そう感じるほどガラガラだった。高層マンションの周辺でもそれは同じだ。
これには2つの理由が考えられる。

1.国土は韓国よりも広く、西日本全体の面積に匹敵するのに、国の総人口が2000万しかいないので(韓国の半分)、人口密度が低いのは当然。っていうか、国民は東京都の人口より少ない。これなら首都が閑散としていてもおかしくないかも?

2.北朝鮮の人々は自宅から40Km(東京〜横浜くらい)以上移動する際は、必ず警察から「旅行証明書」の発給を受けねばならなく、簡単に首都に近づけない。また、これが一番の理由だと思うが、平壌に居住する事は当局から特別に承認番号(市民番号)を得たエリートだけに許されており、一般の国民は身内の結婚や死亡以外の個人的な事情で首都に出入することを禁止されている。
しかも平壌市の中でさえ中心区と周辺区に分かれており、周辺区の住民が市内に入る場合にも旅行証明書が必要となっている。こうして中心部への人々の流入が管理されているのでガラガラになるのだろう。

街並みが地味な理由には、企業の広告看板がないということもある。広告なんかない方がスッキリしていいかも知れないが、日本で賑やかな看板を見慣れていると、どうしても街が無機質に見えてしまう。
ただし!
ビルの上には何もないわけではなく、所によって、広告看板とは別のものが掲げられていた。
それは…
「北朝鮮労働党万歳!」
「祖国統一に向けて団結しよう!」
「慈悲深い偉大なる金正日将軍様に栄光あれ!」
「偉大なる金日成首領様は私たちの中に生きている!」
など赤い字で書かれた政治スローガンと、この国の前支配者と現支配者、つまり金日成&金正日親子の巨大肖像画だった!

※北朝鮮では首領様といえば金日成を、将軍様といえば金正日を指し、両者とも名前の前に必ず“偉大なる”とつけねばならない(汗)。

特に偉大なる首領様の故・金日成主席は建国の父だけあって、肖像画以外にも巨大銅像がいくつも作られていた。
ほんと、気が付けばそこに2人の肖像画があるといった感じで、僕は変な偏見は日本へ置いてこの国へやって来たつもりだが、常識的に考えてあれだけ個人崇拝が徹底されていると、やはり異様な印象を受けた。(今のところ偉大なる将軍様の銅像はないようだ)

さて、平壌入りして最初に見学したのは『朝鮮劇映画撮影所』。バスでゲートをくぐると、いきなり偉大なる首領様の金色に輝く巨大銅像(約10m)が僕らの訪問を歓迎して下さった。その後バスから降りて、中国街や日本街のオープンセットを散歩した。
映画館のセットに大好きな黒澤監督の名作『酔いどれ天使』の看板が掛かってたので、思わずすっとんきょうな声を上げ、狂ったようにシャッターを切った。

次に訪れたのは『学生少年宮殿』というクラブセンター。600クラスもある巨大建築で、子供たちが放課後に絵画、習字、手芸、ピアノなどを習いに来てた。
徐さんにどうして“宮殿”と呼ぶのか尋ねると、
「北朝鮮では子供は王様といわれ、大切にされているからです」
と返ってきた。なるほど。
この日は火曜だったので、毎火曜&金曜に行なわれる学生たち(といってもほとんど小学生)の公演を観た。

その約1時間のコンサートでは、ずっと驚嘆しっ放しだった。
ステージ上には約200人の子供たちがギッシリと楽器を持って並び、左右からは計60人のコーラス隊を乗せたひな壇が“ゴゴゴゴ…”とスライド移動で出現し、オーケストラ・ボックスには100人もの子供管弦楽団員が大人顔負けのド迫力演奏を繰り広げた。

ここで北朝鮮名物とまで言われている“統一スマイル”に触れておこう。ステージ上の大勢の子供たちは、口元は微笑んでるのに目が全然笑っていないため、笑顔がすべて同じなのだ!
まさに“統一”スマイル。そして、その顔のままで飛んだり跳ねたりのアクロバティックな歌謡ショーをするんだからビックリだ。

子供たちの名誉の為に記しておくが、彼ら、彼女たちのコーラス、踊り、楽器の演奏技術、そのどれもが膨大な練習量に支えられているであろうハイレベルなものだった。“統一スマイル”の話題ばかりが色んな旅行記に書かれているけど、彼らはお世辞抜きで超一流のエンターテイナーだった。

特に観客の度肝を抜いたのが一人の小さな女の子(小学一年生くらいか?)がマイクを片手にソロで歌ったときだ。大ホールの隅々まで声が沁み込むような豊かな声量で、低音から高音まで見事に歌い上げる圧倒的な歌唱力の高さに、言葉の分からん僕でも背中に電気がビリビリ走った。彼女は米国でデビューすれば間違いなくグラミー賞を軽く10部門は同時制覇しそうな実力で、その才能を半鎖国体制の状況下で埋もれさすのは、世界的損失だと思った!

かん高いナレーションで様々なプログラムがこれでもかと紹介された後、いよいよ感動のクライマックスだ。
舞台前の噴水から赤くライトアップされた水がズババーッと飛び出たと思うと、同時に中央の大スクリーンへ慈悲深い笑顔をたたえた“偉大なる金正日将軍様”の勇姿がババーンと映し出されたのだ!
流れている曲は『敬愛する金正日将軍のため常に備える』。

「ドヒャ〜ッ!」
周囲の観光客から色んな反応が聞こえてきた。フィナーレの大コーラスでは客席にいた現地の人が一斉に立ち上がって割れんばかりの拍手。
“す、すごいものを見てしまった”
終演後、軽くめまいを覚え、足元をふらつかせて宮殿を去った。


《北朝鮮編》第3回


18時半、宿に到着。
これから3泊することになる羊角島(ヤンガクドン)ホテルは、1997年の秋にオープンした新しいホテルで、地上47階、1000室というモンスターホテルだ。外壁は全て銀色で三角すいの形をしている(僕は未来少年コナンに登場した“三角塔”を思い出した)。
地下にはボーリング場やカジノ、サウナがあり、最上階は回転レストランになっているという、北朝鮮国内で最も「反人民的」なゴージャス空間だった。

で、このホテルがまたえらい場所に建っていた。平壌の中心を流れる大同江という河の中州だ。つまり、僕は首都にいながら同時に陸の孤島にいたのだ。ちょっとその辺を散歩、というわけにはいかない。監視されてはいなかったが、自由行動をとったところで当局が懸念している平壌市民との接触などあり得ない…。

食事は全食がバイキング形式。鶏肉、魚、もやし炒め、ポテト、キムチ、チジミ、スープ他、ご飯もおかわり自由で、食糧難なのにいいの?とこちらが心配してしまったくらいだ。
僕が個人的に気に入ったのは食堂の隅に置かれていた“みかん水”。明らかに果汁ゼロ、合成着色料入れまくりの粉末ジュースだったが、とにかく味が懐かしい。毎食ごと5杯は浴びるように飲んだ。

夕食後、一行は市内の公会堂へ移動し、平壌の交流チーム(レクレーション担当?)から北朝鮮版フォークダンスの手ほどきを受けた。何とか見よう見まねで挑戦したが、一番盛り上がったのがジェンカもどき。とにかく前の人の肩を持って蛇のように繋がるだけでいいので、運動神経が壊滅的に退化している僕でも問題なかった。踊りは言葉の壁がないからいいね!
正式な国交がない両国だが、踊っている時は自然と笑顔がもれる人間と人間、絶対に良い隣人関係を築けるはずだと全身で実感した。

その帰り道。
21時半に夜の平壌をホテルへ向かった訳だが、慢性的な電力不足のため外は真っ暗。点灯している街灯がなく、もちろんネオンなどあるわけない。近代都市がここまで暗くなるのかと驚いた。
ただ、各家には一応電気がきてるようで、外からけっこう室内が見えた。多くの家が、わざわざ通りから見える場所(壁)に偉大なる親子様の写真を掲げていた。(窓際に置く暗黙のルールがあるのかな?)

寝る前に最上階の回転レストランを覗いてみた。非常にゆっくりだが確かに移動している。しかし前述したように夜景といっても暗闇の中にポツリポツリと光が見えるだけで、回転していても意味がなかった(汗)。
でもまあ、せっかくだからジュースを頼んでみる。150円というのが嬉しかったし。
※観光地ではほとんど日本円が通じる。っていうか、日本円を要求される。両替の必要なし。

どんなジュースが運ばれて来るのかと思っていたら、ウエイターがスッとグラスと缶ジュースをテーブルに置いた。そして、缶にはハッキリと日本語で「ポッカ」と書かれてあった!ウーム、海外に来て日本の缶ジュースをレストランで飲むことになろうとは…。
ちなみに、北朝鮮滞在中にコーラを最後まで見なかった。これはコーラがにっくき米国資本の象徴だからか?僕はコーラの魔の手(笑)が伸びていない国を他に知らない。(パレスチナでさえあったよ)

翌朝は6時半の出発なので、この日は早め(23時)に寝た。部屋は空調もよく効いていたし、浴室のお湯もガンガン出て、かなり快適だった。テレビをつけてみると、チャンネルは2つだけで、三国志のような歴史ドラマと、仙人が出てくるアニメをやっていた。子供が寝てるこんな時間に、なんでアニメなんかやっとるのだろうと首を傾げた。
(後日分かったのだが、このアニメは国民的人気番組らしく、土産物屋で“歯抜けおじさん”など登場キャラのお面を売っていた。また、日曜日はチャンネルが4つに増えるらしい)

●2日目〜南北軍事境界線“板門店”へ!


1950年に勃発した朝鮮戦争はわずか3年の間に350万以上もの戦死者を出した激しいものだった(内、民間人は200万以上)。これは日本の先の大戦15年間の戦死者310万人を上回る死者数だ。この朝鮮戦争の休戦ラインが北緯38度線で、線上にあった板門郡の農村地帯(この一帯を板門店という)において、1953年に休戦協定が結ばれた。
今日はそこへ行くのだ。

早朝5時過ぎにモーニング・コールで飛び起き、5時半に朝食を食べ、6時半にはすでにバスの中という、観光客というより修行中の禅僧のような朝一番の忙しさだった。板門店は厳粛な場所なのでTシャツ、短パン、サンダルは御法度。普段はボロ雑巾をまとっている僕も、この朝はダイエーで買ったYシャツ(980円)に着替える。
バスが出発する時間にちょうど日の出になり、大同江に目をやると川面にたちこめた朝もやが金色に輝き実に幻想的だった。
気温も25度でちょうど良い感じだ。

平壌から板門店までは約170km南下せねばならないが、93年に開通した高速道路のおかげで片道2時間で済む。この高速道路は速度制限ナシ、料金所ナシ、ついでに道路&トンネルの照明もナシとないない尽くしだ。途中には高句麗の首都だった開城の街がある。
ガソリン不足の北朝鮮ではあまり車が走っておらず、朝夕の平壌市内でさえ渋滞に巻き込まれることはまずない。高速道路でも対向車には10分に1、2台しかすれ違わなかった。

印象的だったのは車内から見えていた山々だ。かなり長時間に渡って山が左右に見えていたが、そのどれもが頂上まで完全に禿げ上がり、木が1本も生えてないのだ。徐さんは米軍の爆撃のせいだと言ってたが、あれだけ無数の山がすべて爆撃の被害で岩肌になったとは思えない。おそらく木々を切って農地に変えたり、燃料にしてしまったのだろう。

これではすぐ洪水になってしまうのも無理はない。木のない山は保水力を失い、降った雨はそのまま麓へ流れ込み、少量の雨ですぐに洪水が発生する。小さな台風が半島に上陸して、韓国側に殆んど被害がなくても、北朝鮮で大水害が発生してしまうのはこの為で、天災ではなく国土開発計画のミスによる人災だ。
(しかも、一度禿山になると、養分の高い表面の土壌が雨で流出して死の山になり、取り返しがつかなくなる)

幸い、今年はまだ水害が発生しておらず、バスの窓からは広大な面積に青々とした水田が見渡す限り続いてるのが見えた。
90年代後半は大凶作&飢餓地獄だったので、このまま無事に秋の収穫が出来ることを心から祈った。
※ただ、雨が降らなさ過ぎるのも問題で、今年の春先に北朝鮮は“千年に一度”と言われる記録的な日照りに襲われ、なんと百日間も雨が降らなかったそうだ。

午前9時。バスはもう38度線の直前だ。


《北朝鮮編》第4回

38度線が近づくにつれ、兵士の数が増えていく。付近一帯がすべて地雷原なので、いやが上にも緊張感は高まる。バスは鉄条網や検問所を越えて突き進み、休戦ライン(軍事境界線)の板門店にたどり着いた。
平壌から170km、ソウルまでたった42kmだ。

現地に着いて一番驚いたのは、国境そのものの簡素さだ。両国は戦争中(今は休戦)なので、僕はベルリンの壁のような高い塀があると勝手に想像していた。ところが、塀はおろか簡単な柵さえなく、国境には高さがほんの5cmほどの小さなコンコリート・ブロックが目印に置かれているだけだった。東西ドイツが統合された時は壁を砕くパワーショベルが必要だったが、板門店の場合はヒョイとラインをまたぐだけでいい。
歴史的背景うんぬんはともかく、3歳児でも一人で行き来できそうな簡単な国境は、こんなもので国が分断されることの不条理さを、視覚を通して強く実感させた。

境界線を挟んで韓国兵(国連兵)と北朝鮮兵が、それぞれ4、5人ずつ配置され、両軍の兵士は約3mという近距離に立っていた。休戦ラインの線上には、両国が共同管理している小さなプレハブの会議場があり中を見学できた。
国境の向こう200mほど先には韓国側の展望台があり、観光客が鈴なりになってこちらを見ていた。北朝鮮側と同様、あちらの観光客も全員外国人だった。韓国でも一般市民は板門店に来れないのだ(10km以上手前から立ち入り禁止になっている。板門店見学ツアーは外国人専用)。

国境を挟んでお互いに観光客同士が指を差し合うのは、妙にこちょばゆい。双方の間には何ともいえない微妙な空気が流れていた。

前号で、板門店は厳粛な場所だからTシャツなどラフな服装は御法度だと書いたが、韓国側から訪問するとそんなものではない。観光客はパスポートの携帯が義務付けられ、移動は2列縦隊、ゲストバッチを付けねばならず、何より『見学中にいかなるアクシデントが発生しても、責任は一切問わない』という宣誓書を書かされるとのことだ。

興味深かったのは兵士の向きで、南の兵士は北を、そして北の兵士も“北を”向いていた。韓国兵は相手が攻めて来ればすぐ銃を抜けるよう見張り、北朝鮮兵は見学者が、国境に接近するのを監視している構図だった。服装チェックもそうだが、現地に限って言えば、北朝鮮側の方が案外のんびりしている印象を受けた。

半島全体の人口6000万のうち、突然引かれた軍事境界線のせいで離散した家族は1000万人にのぼる。すでに分断から50年近く経っており、再会を果たせぬまま亡くなる人が年々増えている。板門店にいると、外国人でありながら、現実の理不尽さに腹立たしさを感じた。
昨年、両国の首脳は握手を交わした。少しでも関係が前進するようにと、世界中が見守っている。

30分ほど周囲を見学した後、次に来る時は“旧国境跡”になっていることを祈りつつ、平壌への帰途についた。

※板門店を警備する北朝鮮の青年兵士と、若い男性見学者がこんな会話をしていた…
「(兵士に)ここが舞台になっているJSAという映画を御覧になりましたか?」
「いいえ。どうせまた北朝鮮の兵士を酷く描いているのでしょう?」
「それが、北の兵士をとても良心的に描いてましたよ」
「(ジーンとして)そうですか…それは、とても良い映画ですね」


●再び平壌にて

午後は平壌のザ・北朝鮮的巨大建造物を2ヶ所まわった。

まずはシンボル・オブ・ピョンヤン、泣く子も黙る現代のバベルの塔、『チュチェ思想塔』からだ。とにかくこの塔は170mと高〜い!
チュチェとは“主体”を意味し、これは1965年に先代の偉大なる首領様が
「思想における主体、政治における自主、経済における自立、国防における自衛」
と、国のあり方を明確化なさった尊い思想だ。当時、隣国であり同じ社会主義国だった中ソが対立していく中で、北朝鮮はどちらにも組せず自主路線を行く、そう宣言した思想なのだ。

この塔は花崗岩で出来ていて、上部20mが炎の形になっている。思想がメラメラと熱く燃えていることを表しているのだ。そして驚くべきことに、この巨塔は1982年に偉大なる首領様の70才の誕生日を祝って、御子息の将軍様が贈った「バースデープレゼント」なのだ〜っ!
さすがは寅さんが好きだという、人情家の将軍様。嗚呼、なんて美しい親子愛…なんて心優しい将軍様…。

偉大なる父子の情愛には数々のエピソードがある。
『1963年の夏、最高司令部に移って金日成主席とともに暮らすようになった金正日青年は、主席の散歩する庭の小道を一日中歩き回り、突き出た石のかけらを掘り出してきれいにならした』
『深夜、金日成主席が執務していると、それまでうるさく鳴いていたコオロギの声が静かになった。不思議に思って外を見ると、そこには夜つゆに濡れながら懸命にコオロギを追い払っている金正日少年がいた』
『早朝、金日成主席が眠っていると、それまでうるさく鳴いていたスズメの声が静かになった。不思議に思って外を見ると、そこには朝つゆにぬれながら懸命にスズメを追い払っている金正日少年がいた』
え〜と…(汗)。

生前に偉大なる首領様は親愛なる将軍様のことをこう語っておられる…
『 (我が息子は)非常に頭脳が明晰だ。彼は学生時代から探究心が強く並外れていた。マルクスの古典や世界文学選集を読んでも、彼の掘り下げ方は非常なものだった。また、どんな問題でも比較・研究し、推理・総合して新しいものを発見し、創造する能力はずば抜けていた』
『 金正日同志は、人民の指導者としてもつべき、素晴らしい風貌と品格をすべて備えている』
『 金正日同志は、あらゆる面で理想的な人間であり、我々の時代における真の人間の典型だといえる』
『彼は私の健康のために必要ならば、空の星でもとってくるでしょう』
ウ〜ン、首領様、ご、ごちそうさまです…。

せっかくだから親愛なる将軍様の聡明なお言葉も少しだけ紹介。
『何かが不可能であるなどというのは、朝鮮語にはない』
『主席(首領様)は人類の太陽であり、金正日は太陽の戦士だ』
『私は人類が築き上げた知性の塔を残らずよじ登るつもりだ』
『人は己を知れば革命家となり、己を知らなければ奴隷となる 』
『仕事が私の休息だ』
『人間にとって良心は心臓と同じである 』
2行目が…。


さて。
思想塔は地上150mの所が展望台になっているので観光客が押し寄せていた。エレベーターが一基しかないので長い行列だったが、並んだ甲斐はあった。展望台から眺める平壌市内の大パノラマは、それはもう圧巻の一言だったからだ。

僕は展望台で、ある建物を必死で探した。錦繍山(クムスサン)記念宮殿だ。なんと、そこには偉大なる首領様が、遺体に保存措置を施され、埋葬されずに安置されているのだ!今回巡礼しようとしたが、4月から建物が改修工事に入っており、当分の間非公開とのことだった。残念。だから、せめて外観だけでもひとめ見たかったのだ。
徐さんから教えてもらった方向へ目を凝らすと、遠方の森の中に白い建物が見えた。
「おお〜、あれが、あれが、かの…!」

※夜になると思想塔はライトアップされ中々ファンタスティックだ。てっぺんの炎は光ながらウネウネと動く仕掛けになっていて、昼間に見るよりもメラメラ度は格段にアップしている。これも思慮深い将軍様の心憎い演出か。


(北朝鮮・後編へ!)



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