世界巡礼烈風伝(第55回)

〜史上最高の音楽家、パブロ・カザルス〜その1



25歳の頃 人類史上最高のチェリスト!


今回、敬愛するカザルスのことを書けて、涙がチョチョ切れるほど嬉しいッス!タイトルに“史上最高の音楽家”と書いたのは、単に優れた演奏技術を持つ今世紀最高のチェリストという意味ではなく、人格者としての彼に、その生きる姿勢に、気高い人間性に対して史上最高と書かずにおれなかったんだ。
さあ、さっそく巡礼報告スタート!


2000年11月20日、午後2時。
僕はスペイン、カタロニア地方のバルセロナから鉄道に乗り、列車が揺れるまま身をまかせていた。約60キロほど南西に進んだ場所にあるという、エル・ベンドレルという小さな田舎町を目指して。
そこに“スペインの良心”と言われた音楽家、パブロ・カザルスの墓があるからだ。

そもそも今回のスペイン遠征は、バルセロナに眠る建築家アントニオ・ガウディの墓参がメインであった。
カザルスの墓が生まれ故郷のベンドレルにあることは日本での事前調査から分かってはいたが、小さな町ゆえ、いくら地図を眺めてもスペインのどこにあるのか、さっぱり分からなかったからだ。

バルセロナに入ったその朝、さっそく観光局を訪れダメモトでベンドレルの場所を尋ねてみた。オードリーに似たその可憐な女性職員は、
「ベンドレルはけっこう近いの。ここから列車で1時間ほどのところよ」
と、ヒマワリのようなラブリー・スマイルで答えてくれた!

“そんな近くに眠っているのか!”
墓マイラー歴15年の経験をもとに誓って言うが、正確な場所を知らずにその国を訪れ、いきなり“1時間ほどの距離”だと言われる確率は、ネッシーの大群が国連本部を襲う可能性同様、限りなくゼロに近い。
“約1時間!”
これは奇跡に等しかった。僕はすぐさま地下鉄に乗って、バルセロナの国内列車のメインゲート、国鉄サンツ駅に向かった。

バルセロナは大都市だがほとんど英語が通じず、切符を買うのも一仕事。巨大なサンツ駅で勝手が分からず目が泳いでいると、いろんな人が声をかけ助けてくれた。僕はそこであらためてカザルスの偉大さを思い知った。
つたないスペイン語で懸命に説明しなくても、少しチェロを弾くジェスチャーをするだけで
「オーッ、ベンドレルのカザルスだな」
と相手に通じてしまうのだ…!
カザルスがチェリストで良かった。作家や画家だとジェスチャー難易度Dだもの(笑)。

さて、無事に切符はゲットできたが、そこから時刻表があってないようなスペイン国鉄とのバトルが始まった。
14時7分発と教えられたが、14時7分に列車は入ってこず、2分後に入って来た列車は違う行き先だった。同じホームに様々な行き先の列車が到着するのでボーッとしているわけにはいかない。列車が入って来る度に運転席のドアをアグレッシブに叩きまくり、ノートに大きくベンドレルと書いてホームから見せ、マルかバツかをジェスチャーしてもらった。
6本目にやっと運転手にマルをしてもらい、額の汗を拭いて乗車した。

“もし乗り過ごしてしまったらどうしよう…”
乗ったはいいが、新たな不安が僕を包んだ。スペイン語の車内放送は早口でさっぱり分からないし、車内にある路線図はバルセロナのすぐ近くまでしか載っておらず、ベンドレルまであと何駅あるのか見当もつかない。

1時間ほどで着くと聞いていたので、50分が過ぎた頃からいてもたってもおられず、停まる度に必死の形相で駅名をチェックした。そしてその作業は40分続いた…列車はさらに遅れ、結局1時間半かかってしまったからだ。
無事にベンドレルの駅に降り立った時は、しばらくヘナってしまった。

しかし、余裕をこいてる時間はない。時計は15時半を指しており、すぐに墓地探しに移らねばならなかった。11月下旬の冬期なので、墓地の門が17時に、否、ヘタをすると16時に閉まる可能性があったからだ。
幸い駅に小さな観光カウンターがあったので、係の男性に問うてみた。英語は通じなかったがここでもチェロを弾くジェスチャーがきいた。まだ学生に見えるその若い担当者は、墓地までの略図を書き、歩いて15分ほどと教えてくれた。

“あと15分後に、夢にまで見たあのカザルスに会える!”
外に飛び出た僕は、地図を片手に駆け出した。途中、5人の前でチェロを弾き、さらに走り続けると、とうとう畑のド真ン中に白壁で囲まれた墓地が見えて来た!
“もうすぐ、もうすぐだ!”
いやがうえにも興奮は高まる。スピードはマッハを超えた。

だが、嬉々としてもう一段加速しようとしたその時、門がすでに閉じているのが遠目に見えた。心の中に不安がよぎった。
“まさか、まだ15時台だぞ。あれはきっと休日だけ開くメインゲートで、平日はきっと通用門みたいなのを利用してるに違いない”
そう信じきって門の手前まで来ると、何やら長さ50センチほどの白い看板がぶら下がっていた。ゼエゼエと、肩で息をしつつ接近した。

ちゅど〜ん!ズババババーッ!!
僕は額からギャグマンガのように顔面スライディングした。
看板には『月曜休み』と短く刻まれていた。そしてまさしく、その日は、まぎれもなく月曜日であった(号泣)!!


世界巡礼烈風伝(第56回)


『カザルスが非常に偉大な芸術家であるということを、私が今さら宣言する必要はどこにもない。なぜならこの点に関しては、すでに世界の意見が一致しているからだ』(アインシュタイン)

『彼の演奏を聴いて深い印象を受けたが、それはまさに、彼が深みのある人間だからこそなのだ』(シュバイツァー)

●カザルス、その人 ※伝記の部分は民放『知ってるつもり?!』を参考にしてます。

パブロ・カザルスは、1876年12月29日にスペイン、ベンドレルで生れた。
11歳のときに家族からチェロをプレゼントされたのをきっかけに、その暖かみのある優しい音色のとりこになってゆく。

やがて音楽院に入学した彼は革新的なチェロ奏法を編み出す。カザルスが登場するまで、チェリストは脇を締め小さくなって弾くのが常識だったし、音楽院でもそう教えていた(肘が上がらぬよう、脇に本を挟ませて弾かせる教師もいた)。ところが彼は脇をひろげ指を立てて弦を抑えることで、音色が明るく外向的になることを“発見”し、型にとらわれない自由な演奏スタイルを確立させる。

やがて、カザルスはより本格的に音楽を学ぶために、パリ留学の為の奨学金を申請する。奨学金の募集枠は一名だったが、カザルスは音楽院を見事に首席で卒業し、これで彼はパリに行けると確信した。しかし、フタを開けてみると最終的に選ばれたのは、街の有力者の息子であった。
…何らかの不正が行われたことは明らかだった。青年カザルスは社会に絶望する。

『その事件以来、私は自分の周囲の醜さに突然気付き始めた。不正な暴力、不平等、貧富の差。人々は利己主義で身を固めている。なぜこのような悪が存在するのか。それに答えすら出せない音楽が一体何の役に立つのか。音楽が無力だとするなら、自分など生きていても仕方がないではないか。』

虚無感に落ち込んだ彼に母ピラールはこう語った。
「誰の心にも悪魔と天使が住んでいます。大切なことはあなたがどちらを選ぶかなのです。あなたは自分でその答えを見つけねばなりません。全てはあなたの心の中にあるのです」

彼はこの言葉を受けて、自分にとって音楽とは何なのか考え抜く。
『芸術家も、あらゆる職人も結局は人間という大きな存在の一部分にすぎない。だとすれば、大切なことはこの人間という大きな存在にどのような姿勢でいどむかという事だ。音楽家は音楽を通して人間と出会ってゆく。音楽を通して自分を語る。そう、音楽は人生へのひとつの挨拶なのだ。』
彼は聴き手の魂と1対1で向き合う音楽を通じ、全存在をかけた交流を始めた。

カザルスは自分の人格形成に決定的な影響を与えた、以下に記す出来事をよく他人に話していた。

『ある時、弟エンリケにスペイン陸軍から召集令状が届いた時に母はこう語った。
「お前は誰も殺すことはありません。また、誰もお前を殺してはならないのです。人は殺したり殺されたりする為に生まれたのではありません。行きなさい、この国から離れなさい」
と。弟はアルゼンチンへ脱出し、18年間の亡命生活を送った。母は息子の命を救おうとしたのではない。間違ったことはしない、正しいと思ったことをする、という原則を守っただけなのだ。
母はいつもこう言っていた。
「特定の法律はある人達を守りはするけれど、他の人々には危害を与えることもある。法律ですら善悪の判断は自分でしなければならない」
と。
もし、世界中の母親が息子に向って私の母と同じことをしたなら、世界から戦争はなくなるだろう』

1936年カザルスが60歳のときにスペインで大事件が起こった。その年の2月に選挙で樹立した左派連合“人民戦線”の共和政府に対し、7月にフランコ将軍率いる軍部がクーデターを起こしたのだ!スペインは国民同士が銃口を向け合う内戦状態に突入した。

フランコの反乱軍を支持したのは、スペイン王党派や保守派、地主層などの富裕層で、一方の共和国支持派は、共和制支持者や左翼政党、労働者などのほかに、地方のバスク人やカタロニアの自治を主張するグループだった。バルセロナやマドリードでは市民、労働者が武装してフランコ軍と対抗した。

軍事独裁政権を目指したフランコ将軍の反乱軍は、独のヒトラー、伊のムッソリーニから大量の最新武器や兵員の援助をうけた。一方、共和国政府軍には反ファシズムや自由のために作家のヘミングウェー、アンドレ・マルロー、カメラマンのロバート・キャパなど、世界中から約4万人もの人々が国際義勇軍に参加し共和国政府を支援した。

義勇兵の出身国と人数は仏1万人、米3千人、英2千人、亡命独人5千人、亡命伊人3千人、その他57カ国(!)に及んだ。ヘミングウェーの作品『誰(た)がために鐘は鳴る』は、米義勇兵の活躍と死を描いたものだし、キャパの最も有名な写真『崩れ落ちる兵士』は内戦開始から2ヵ月後に、共和国政府軍を最前線で撮影したものだ。

翌1937年4月26日、スペイン北部で反乱軍に根強く抵抗していたバスク地方に対し、フランコはヒトラーへ爆撃を要請した。選ばれた町の名は“ゲルニカ”。この人口5千人の小さな町はドイツ空軍機の大空襲を受け、一瞬で壊滅した。この爆撃と機銃掃射は、逃げ惑う市民に向けられた史上初の無差別攻撃となった(ゲルニカの火災は3日間続いたという)。

※ゲルニカ空爆の知らせを聞いたスペイン人のピカソは、強い抗議の意味を込めて、3ヵ月後に開催されたパリ万博のスペイン館の壁に、8X3.5mの巨大な絵”ゲルニカ”を掲げた。画面全体に虐殺された市民の嘆きが描かれていた。“ゲルニカ”は万博後もスペインからの亡命者の救援資金を集める為に世界各国を旅した。スペインに到着したのは実に1981年のことである。パリが独軍に占領された時にピカソのアトリエに独軍兵士が踏み込んだ
時のこんなエピソードがある。
「おい!ゲルニカを描いたのは貴様か!」
「いいや。あなた方だ。」

共和国軍は健闘したが、独伊空軍の1300機に対し彼らには中古の飛行機100機しかなく、徐々に戦線は後退し始め、エブロ河の戦いでは共和国軍10万人のうち生き残ったのは3万人しかいなかった。

カザルスは全世界へラジオで絶叫する。
「スペインを見殺しにしないで下さい!スペインで独裁者の勝利を許せば、今度はあなた方自身が彼らファシストのいけにえになるでしょう!」


世界巡礼烈風伝(第57回)

“スペインを見殺しにしないで下さい”カザルスは各国にそう叫んだが、近隣の英仏両政府はドイツとの衝突を恐れ、結局中立政策をとってしまった。しかし、この選択が大きな誤りであることは、歴史が示している。世界はこの後、第2次世界大戦へ雪崩れ込んだのだ。
「スペイン内戦は我が独軍の最新兵器の実験場に最適だった」
と、後にヒトラーは語っている。

内戦開始から3年後の1939年、最後までもちこたえていた東部のバルセロナ、首都のマドリードがあいついで陥落し、共和国政府は壊滅した。
およそ100万人の生命を奪い、60万人が難民と化し、人民戦線側の20万人が処刑されるという膨大な犠牲を払ってこの内乱は終結した。
スペインには軍事独裁政権が誕生し、フランコは総統になり、支持基盤の“国民運動党”以外の党をすべて非合法化し解体させ、憲法を廃止すると共に自らを終身国家元首に任じた。

カザルスは難民となった60万人の同胞の為に、演奏活動で得た自身の財産を投げ打ち、各国で救援声明を出してその救済に奔走したが、世界はその直後から世界大戦へ突入し、誰もスペインを気にかけるような余裕を持たなくなってしまった。

やがて第2次世界大戦が連合国の勝利で終結。
カザルスは歓喜したが、歴史は皮肉な結末を用意していた。ヒトラーやムッソリーニが死んでいく中で、フランコだけは戦後も独裁者として居座り、諸外国もこれに協調したのだ。諸外国は、スペインが戦前の内戦における国力の疲弊を理由に、第2次大戦で中立を守ったことを評価したのだった。

しかし、カザルスはフランコの横暴に徹底抵抗ののろしを上げた。彼はほとんど孤軍無援で戦い続け、各新聞に抗議広告を出した。
「なぜ、フランコは政権を続けるのか」
と。

70歳の大巨匠として、音楽界の頂点に君臨していた彼は、ついにある決意表明を全世界に宣言した。
「私が持っている武器はチェロだけだ。だから、フランコと協調する国では、もう演奏はしない。(どの国も協調しているので)私はもう…演奏はやめた。」

カザルスはフランコが支配するスペインを去り、フランス南部の山あいの、小さな寒村にひきこもってしまった。
彼は音楽家としての栄光を捨て、自身が一番愛していた自分の芸術を封印してしまった。芸術家にとって自らの表現手段を封印すること以上に苦しいものなど他にはない…。

毎月世界各国から天文的な額のギャラを示したコンサートの依頼書が届いたが彼はすべて無視する。
「フランコ政権を認めるという大きな過ちを犯している国々に、私はのこのこと出掛けていくことなど出来ない」

彼の演奏の素晴らしさを知っている音楽家たちは、カザルスに言った。
「あなたは抵抗よりも音楽的な創造をもっとするべきです」
返事はこうだ。
「創造し、抵抗する。両方ではいけませんか。抵抗は、時には最も難しく、最も必要とされる創造行為です。」

しかし、彼が懸命になって示した音楽や人間に対する深い愛情、暴力や不正に対する激しい怒りなどを嘲笑うかのように、世界は水爆など大量破壊兵器の開発競争に入っていった。そして、軍縮派としてカザルスが熱い信頼を寄せていたケネディは暗殺され、米国はベトナム戦争の泥沼へ陥ってゆく…。

1971年。カザルスはニューヨークの国連本部に招かれ約30年ぶりに、海外でチェロを弾いた。この時のアンコールが、あの『鳥の歌』である。
彼は会議場での演奏に先立ちこう語った。

「私の故郷カタロニアでは、鳥たちが、ピース、 ピース、ピースと鳴きながら大空に飛んでいくのです」

「なぜ私が今日ここに来たのか。それはこの長い年月、私が自分自身に課してきた制限や道徳感に変化があったからではありません。今日、人類すべてを脅かしている巨大な恐るべき危機に比べれば、他の全てのことは二の次だと思ったからです。誤ったナショナリズム、他のものを一切認めない狂信、自由の欠如と不正さは、不信感と嫌悪感を増大させ、集団的な危険を日々増大させています。さらに、核兵器による世界の不安も日々増しています。これらの解決の為には、全ての人々によって戦争の無益さと非人道性を基盤とした対話がなされなければなりません!」

1973年10月22日、カザルス永眠。96才まで生きたが、ついに存命中にフランコは倒れなかった。彼は遺書にこう記した。
『私の遺体はフランコが倒れ自由が祖国に戻ったとき、カタロニアに運んで欲しい』

1975年フランコ死去。スペインは民主主義国家として再生の道を歩み始める。その4年後、ついにカザルスは故郷ベンドレルに帰還した。

世界巡礼烈風伝(第58回)

〜史上最高の音楽家、パブロ・カザルス〜その4

●そして彼の墓前へ!

『月曜休み』

しばし放心状態で墓地の門前に立ち尽くした。
あれだけ苦労して、ここまでやって来たのはこの看板を見るためだったのか。門に両手をかけ揺さぶってみたがビクともしない。
「ウガーッ!」
叫んでみたが、無人なのに返事があるわけない。墓地内の猫が振り向いただけだった。

田舎の墓地というのに門や壁は6メートル近くあり、見上げるような高さ。こんなのルパンだって登れない。目の前が真っ暗になった。
今まで失恋する度に心を強く鍛えられてきたので、多少の悲運は平気だったが、これはさすがにキツかった。

しばらく門前でしょんぼり三角座りをしていた僕は、ロッテンマイヤーさんすら涙ぐむような深い溜め息をひとつつき、自分でほっぺをピシャリと叩くと気合を入れて立ち上った。
「なあに、長い人生、こういうこともあるさ!」
いじわるな運命の女神に肩をすくめてみせ、とりあえず門の写真をパシャパシャ撮った。

そのあと帰る前に、せっかくだからと墓地の外周を一回りすることにした。
とぼとぼ歩いていると、やがて壁が途切れている部分が見えて来た。
「!?」
なんと、それは裏門だった!
4メートルほど高さはあったものの、それでも正門よりか低かった。施錠してあったが、幸運にも鍵自体が足かけに使えそうだった。ただし…ただし門(鉄柵)のてっぺんはトゲトゲになっていたが…。

“仮にあのトゲトゲで串刺しにならなくても、法律的には住居不法侵入罪になるのだろうか。しかし墓場は“住居”なのか?いや、住居といえば確かにある意味“住居”だ。誰かに通報されて異国の地で御用になれば、ここで裁かれ、刑に服し、最後は日本への強制送還が待っている。それに東スポの1面にプッツン墓マニアとか書かれてしまうかも知れないし…”
躊躇して二の足を踏んでいる間、野良猫が出たり入ったりしていた。
“そうだ!僕を猫ということにしてもらおう!人間扱いしてもらえなくてけっこう。オイラは野良猫なのだ〜っ!”
僕はこうして裏門に手をかけたのであった。

“て、て、転落したら死ぬ…!”
4メートルというのは、上から見るとメチャクチャ高く感じる。鉄柵のトゲは僕をモズのハヤニエにすべく、不気味な鈍い光沢を放っていた。高所でのバランスとりは非常に難しいうえ、僕はカメラが3台入ったリュックを背負っていた(1台は予備用、もう1台は強盗に差し出す用)。
しかも、この難行を通行人が来る前に完了させねばならない。焦りまくった。

Tシャツのあちこちに穴を開けつつ、何とか聖地に着地。すでに誰かに目撃されているかも知れんので、速攻で探知活動に突入した!
墓地内は意外と広かったが、墓レーダーをイッキに臨界点までフル稼働させ、風を読み、耳を澄ませ、心眼とスタンドでカザルスの墓を探した。そして多数の墓からわずか3分12秒でカザルスを探し出し、その瞬間、自分がニュータイプだと確信した!…というのは大袈裟で、きっと人々に慕われていたから正門付近だろうと見込んで向かったら、本当に入ってすぐの所に彼は眠っていたんだ。
しかも、墓石はチェロの形をしていたので、遠目にも簡単に分かった。

僕はすぐさま石棺に覆い被さり、全身でカザルスに会えた喜びを伝えた。もう、幸せの極致だった。大好きな人に会えることほど嬉しいことはない。我が心に一点の曇りなし。これぞ人生の醍醐味!
晩秋のスペインの田舎の墓場で、季節外れの我が世の春を謳歌した。

結局、運が良いのか悪いのか分からなかったカザルス巡礼は終了し、18時に無事バルセロナに帰還したのであった。


カザルスの墓は彼の故郷に… 「ヒシッ」墓石はチェロの形をしていた!


(P.S.)無伴奏チェロ組曲
昨今、映画やCMに多用されているバッハの『無伴奏チェロ組曲』。この曲は“チェリストにとっての旧約聖書”と呼ばれる名曲中の名曲だ(“新約”はベートーヴェンのチェロ・ソナタ)。
実はこの300年前の名曲は、バッハの死後長いあいだ埋もれていた。存在自体を忘れられていたのだ。19世紀末、カザルスはバルセロナの古本屋でこの古い楽譜を偶然“発見”し、その場で前後不覚になるほどの感動を覚える。この曲は、カザルスに見出されたおかげで、僕らも現在味わうことが出来るようになったのだ。

(P.S.2)カザルスの口ぐせ
「音符をただ音にするのではない、音符の意味を表現するのだ!」

(P.S.3)カザルスから世界の子供たちへ
『学校はいつになったら2プラス2は4とか、フランスの首都はパリとかではなく子供たち自身が何であるかを教えるのだろう。子供たちよ、君は驚異だ。二人といない存在だ。君はシェークスピアにもベートーベンにも、どんな人にもなれるのだ。
だからこそ、君と同じ存在である他人を傷つけることなど出来ないのだ。
敵対するものは殺すべしという掟がはびこる時代に生きなければならなかったことを私は悲しく思う。祖国への愛、それは自然なものである。では、なぜ国境を越えて他の国々の人々を愛してはいけないのか?私たち個々の人間は全てひとひらの木の葉に過ぎず、全人類が樹なのである』

(完)


      


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