日本巡礼烈風伝・5の巻
(3日目その3)

『執筆二人三脚』


志ん生の還国寺から歩いて北上した後、茗荷谷(みょうがだに)の深光寺で『里見八犬伝』の著者、滝沢馬琴に会った。
全106冊という、押しも押されぬ日本最大の長編小説を完成させる為に、要した期間は何と28年。しかも、晩年には失明しており、文盲だった息子の嫁・お路(おみち)に字を教えながら口述書き取りさせ、ド根性で完成させたのだ。

お路の墓は馬琴のすぐ側にあった。“八犬伝”が無事に完結したのは彼女の献身的な協力のおかげ。僕はたっぷりと彼女に労をねぎらった。


『すべて一途な恋ゆえに』

茗荷谷から今度は東方へ歩を進めた。諸君は“八百屋お七”と呼ばれた女性を御存知だろうか。地下鉄白山駅の近くに彼女の墓はある。

彼女は1682年に江戸が大火で包まれた際、地域の避難所になった寺で、一人の青年に猛烈に恋してしまった。火事になればまた会えると思って、その翌年に再会したい一心から江戸に火を放ち捕らえられた。わずか18年の生涯だった。
大火の多い江戸では、放火は最大の罪であり、即、死罪とる大罪だ。18才のお七がそのことを知らぬはずもなく、まさに死を覚悟しての行動だった。
彼女に下された判決は放火という罪状ゆえの火刑(生きたまま焼かれる)。徳川300年の間で火刑になった女性は彼女ただひとりだ。

この事件は放火の動機が一途な恋であったことや、お七がまだ18才ということがあいまって、当時の人々の同情を多く集め、処刑のニュースは異例の速さで全国に伝わり(遠くは琉球まで)、人々は瓦版を手に胸を痛めたという。
彼女の墓前にはその死因ゆえか、なみなみと水の入った木桶が2杯も置かれていた。


『爆進!青山通り』


16時になっていた。長かった今日の巡礼もそろそろ墓地の閉門と共に終わろうとしている。我々は井伏鱒二に手を合わせる為に青山に急いだ。閉門までに間に合ってくれと念じつつ。

地下鉄駅から地上に上がって絶句した。その日は神宮方面で花火大会があるらしく青山通りは、浮かれ気分の人、人、人!若い女の子は浴衣を着込み、野郎たちも群れて、はしゃいでいた。人ごみで前進を阻まれている間にも、どんどん時間が経っていく。墓地へ先を急ぐ僕らの目がピキュィーンとつりあがった。
「どけーっ!この極楽ハッピー・ヤングどもーっ!」(僕)
「このクソ忙しい時に余計なこと(花火大会)すんじゃねーっ!」(S氏)
むさくるしく汗臭い三十路男2人組は、憤怒の表情で人波を掻き分けた。都民のお楽しみイベントも、聖なる巡礼者にはジャイアンのリサイタル同様に、はた迷惑なだけだった。
…16時半、ようやく墓場にたどり着いた。

井伏が中学生だったころ、鴎外は毎日新聞に歴史小説を連載していた。彼は目ざとく史実との違いを見つけ指摘し、まんまと鴎外から直筆の返事をもらった。井伏は後年、“あれは生涯で最大の悪戯だった”と後述している。鴎外を誰よりも愛していた彼のこのエピソードは、僕の大好きな話だ。

自殺した太宰が生前に最も慕っていた作家が井伏であった。井伏文学には、はにかみと哀しみが多分に漂っており、それが太宰の文学と底でつながっていたからと思う。
「今でも別にお前のことを怒ってはいないんだ」というセリフで終わる、たった10ページの小説“山椒魚”。ガキの頃に教科書で読んだ時にはな〜んも感じなかったが、30代になってから読むと、それはもう…。
5分で読めるので、諸君もひとつどうだろうか。

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世界巡礼烈風伝・6の巻
(3日目その4)

『リベンジ!青山霊園〜5人と1匹』


東京で著名人が亡くなった場合、大抵は郊外の多磨霊園か都心の青山霊園かのどちらかに埋葬される。それだけ双方共に敷地が広大であり、身一つで墓地に飛び込むのは、太平洋横断に犬かきで挑戦するようなもの。無謀としか言いようがない。事務所に行けば詳細なフリーマップを貰えるので、是が非でもゲットせねばならない。むろん、こう力説するのは鋭い読者ならお察しの通り、自らが過去に辛酸を舐めているからだ。それは後ほど述べよう。

花火大会への人波を、鯉の滝登り状態で逆流し霊園に着く。前述の霊園地図を事務所で手に入れたが、いかんせん若干古い。淀川長治、星新一、埴谷雄高の3者が掲載されていなかった。事務所のカウンターで聞いてみた。後の2名はすぐに場所が判明したが、肝心の淀川氏がどうしても分からない。事務所には年配の職員が3名いたが、誰も今までに氏を訪ねて来た者はいないという。

それから管理人と僕らで、氏が亡くなった98年秋以降の膨大な埋葬者ファイルから、手分けして“ヨドガワ”という名前を探し出す作業にとりかかった。本名が違う可能性もあったので、それっぽい名前も探してみた。

猛暑の行軍で疲弊しきっていた為、時間の経過と共に絶望感がうなぎ上りで増していった。どうしても氏の名前を確認できない。
「ここ、違うんじゃないですか?」
S氏が僕の耳元で囁いた。それは小さな声だったが、“もう、よしましょうや”と書かれた直訴状を握り締めて、大名行列に捨て身で突っ込んで行く村長の姿とS氏をダブらせた。

結論。淀川長治・青山霊園説はガセネタだった。情報源はネット。うぐぐぐぐ。今回どんなに会えるのを楽しみにしてたことか。だが、僕の情報網では同時に淀川長治・兵庫県説もキャッチしており、西日本遠征に賭けることにした。

※ダーッ!このペースではいつになっても東京から先へ話が進まぬ。もっとシンプルにせねばなら〜ん!以下、巡礼順にこの霊園のエピソードをまとめて書くことにします。

★大久保利通

討幕運動のかつての同志であった、同じ薩摩藩の西郷を維新後に殺した非情な男。西郷とは生まれたのも同じ町で、大久保は3歳下だった(西郷については烈風伝の九州編で詳しく書く)。ではなぜ、そのような冷酷な男の墓に僕は行ったか。

自分の目で欧米を視察し、その巨大な国力に縮み上がった彼は、周囲の反感を買うのが心の内で分かっていても、急激な近代化を推し進めずにはいられなかった。土方歳三の項でも触れたが、やはり彼もその急進的な国家改革が元武士たちの反発を買い、47歳で刺し殺されることになる。

墓は5メートルはあろうかという、ぶっとぶ巨大さだった。

★ハチ公

「いとしや老犬物語。今は亡き主人の帰りを待ちかねる7年間。東横電車の渋谷駅、朝夕真っ黒な乗降客の間に混じって人待ち顔の老犬がある。」(1932年10月4日の朝日から)

墓マイラーとして14年、まさかハチ公の墓を巡礼する日が来ようとは…。こればかりは自分でも読めなかった。HP上の墓ベストでも、どう扱って良いやら分からず“番外編”という苦肉の策を取った。
さて肝心の巡礼理由であるが…これは強靭な忍耐力に対する畏敬の念、とでもしておこうか。墓は飼い主の側にあり、墓前にはビクターレコードの犬(分かる?)の人形が置かれていた。

実は有名なハチ公像は、彼の生前に完成されており、自分の銅像を見て“はにかむ”ハチ公の写真も現存している。

★西 周

明治の洋学者。国内で初めてフィロソフィーを『哲学』と訳した。哲学は彼の造語なのだ。“より多数の人の幸福”を説き、封建的道徳観を批判した。完。

★埴谷雄高

告白するが、その生涯をかけて執筆した長大な思想小説かつ彼の代表作『死霊(しれい)』は、僕にとって全く手付かずの作品だ。この書き始めから51年を要した9章の小説を、僕も避けては通れぬのだが。墓は本名の般若豊。“般若”なんてド迫力の姓を見たのは初めて!


      


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