★ロンメルという男

「敵の指揮官ロンメルは、きわめて勇敢な、きわめて巧みな敵将だ。戦争という行為は別として、偉大な人物だ。…悔しいが!」(byチャーチル)

物資不足の少数ドイツ軍戦車隊を率いて、数倍の兵力のイギリス軍をアフリカ戦線で撃破し続けた敵将ロンメルに、英首相チャーチルが思わずもらした言葉だ。
ヒトラーの話題が出たので、僕の大好きなエルウィン・ロンメルというあるドイツ軍の将校を紹介させて欲しい(朝日の日曜版の記事をメインに、他の資料と私見を入れて構成した)。
えっ?「カジポンは軍人嫌いのハズなのに!」って?
まあちょっと読んで下さいな。

“砂漠の狐”ロンメル将軍。
様々な奇策で敵軍を翻弄した彼だが(わずか300人の兵力で8000人の敵兵を捕虜にした)、中でもリビア砂漠の戦いは特に有名だ。彼は自軍を大軍に思わせる為に、最前列だけ本物の戦車を配置し、後方は自動車に木枠をかけたニセ戦車を大展開し、しかもニセ戦車にほうきや鎖を引きずらせて大規模な砂煙を立たせる周到ぶり。
英軍は2ヶ月をかけてやっと占領した陣地を戦わずして放棄、我先にと撤退した。
英軍が去った後には砂漠用のゴーグルが落ちていた。彼はそれを手に取り言った。
「良いデザインだ。もらうよ。」
それ以来、彼は敵軍のゴーグルを使っていた。他の将軍は“敵の物を身につけるとは何事か”と非難したが、ロンメルは素知らぬ顔。これは彼のトレードマークになった。

実は英軍がパニックを起こした理由はもうひとつあった。ドイツ軍が事前に行なった軍事パレードを見た英国のスパイが、「ロンメル部隊に大戦車隊あり」と報告していたからだ。しかし、いくらなんでもスパイがニセモノの戦車に騙されるはずないとお思いだろう。何のことはないパレード自体が既にロンメルの罠だったのだ。パレードの戦車は会場を中心に円を描き、ひたすらグルグルまわっていたのだ(爆)。

しかし僕がロンメルが才将だった為に惚れたのではない。
ロンメルは当時貴族出身か特権階級の士官しかなれなかった師団長の地位を、平民出身で初めて手に入れたからでもない。
彼が己の信念で最後までナチスに入党しなかったからだ。
彼の息子はこう回想している…彼が15歳の頃、ナチの人種差別理論を得意げに父に語ったら、
「私の前でそういう馬鹿げたことを2度と喋るな!」
と激怒したという。
ロンメルは他の士官がやるように、自分の家族をヒトラーやナチス幹部に引き合わせたりしなかった。社交界へは妻にせがまれて、渋々と一度だけ舞踏会に顔を出した。
『英雄ロンメル』は会場に入るなり着飾った女性たちに取り囲まれ身動き出来なくなった。この時の彼の反応がケッサクだ。彼はすごい形相で
「私を通して下さいっ!」
そう怒鳴り、周囲が静まり返ったという。

戦力で勝るのに連戦連敗が続いた英軍内には“神がロンメルを守っている”と噂が流れた。また、ロンメルがユダヤ人部隊を捕虜にした際に、ベルリンの総司令部が“捕虜として扱わず、即射殺せよ”と指示を出したが、ロンメルはその命令書を焼き捨てたというニュースが報道され、いよいよ英軍兵士には彼に“敬意”を表わす者が続出し、実際に英軍司令部が『ロンメルは人間である』という内容の、前代未聞の布告を出したのだった。

ロンメルは自殺した、というより自殺“させられた”。
いよいよ連合軍の総反撃が開始した時に、勝ち目がないと判断した彼は撤退の許可をベルリンに求めた。
ヒトラー「勝利か死か。それ以外に道はない」
ロンメル「総統は犯罪者だ。祖国が壊滅するまで戦うつもりか」
彼は、独断で退却を命令した。
ベルリンに戻った彼はノルマンディーの敗退を見て、ヒトラーに戦争の終結を進言しようとした。ヒトラーは怒りを爆発させた。
「元帥、出て行きたまえ!」

3ヶ月後、ヒトラーの使者がロンメル邸に現れる…毒薬を持参して。
「貴公に総統暗殺未遂の疑いがかかりました。この毒を飲むなら家族の命は保証しましょう」
ロンメルは家族の一人一人に別れを告げた後、そのまま自宅の裏の林に入り、木々の間で毒をあおいだ。

“なんだかんだ言っても軍人は軍人だ”、そんなことは百も承知している。
ただ、僕はドイツを吹き荒れたあの狂気の中で、良心のかけらを見出したことが嬉しいのだ。

以下、ロンメル語録X2
『軍の上層部は、表面だけスベスベで中は腹黒い大理石野郎ばかりだ』
『死んだヒトラーは生きているヒトラー以上に危険だ』

最近のネオナチの活発な動きを考えると、2番目の言葉は重い。

ロンメルの死は、国民には「戦傷で死亡」と報道され、形ばかりの国葬が行われた。


★幽霊の話

このコーナーを深夜読んでる人がいたら、先に謝っとくね。

世紀末に公開された映画『シックス・センス』(主演ブルース・ウィリス)を御存知だろうか。
この映画は画期的だった。ジャンルはホラーというより、人間ドラマだ。幽霊を単純に恐怖の対象として描いていないのだ。

「幽霊を怖がらず、幽霊を愛し、理解しろ」

幽霊だって生きてる人間と同じで、悩み苦しんでいるのだ、そんなぶっとぶメッセージを観客に与えた前代未聞の作品だった。

・・・限りなく、優しい映画だった。
“取り返しがつかぬ”と後悔し続けていることを、死後でも“やり直せる”という夢を与えてくれたのだから!本当にそうならどんなに有り難いだろう、って思ったな。

で、ここからが本題。
先日、友人から以下のメールが届いた。本人の許可を得たので、そのまま載せますね。

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カジポン。
私が勤めている保育園、出るんです。
正確に言うと、今、園舎新築の為、仮園舎にいて、そこが、病院が隣接していた看護学校の跡地で・・・「出る」の。

と、いっても、私が見えるわけじゃなくて見えるのは子ども。

しかも、2歳児以上は見えなくて、1歳児に見える。

怖がって泣く子もいる。でも、どうやらいい人(?)らしくて「おじちゃん、来たよー!」って、言ってニコニコして近寄って行く子もいる。

もちろん、人間はいない。
部屋の角とか、廊下に向かって子どもは話しかけてる。
「はい、どうぞ」
って、ままごとのごはんを差し出してなにやら2人(?)で話し込んでる子も。

おじちゃんや、おねえちゃん達、けっこうたくさんいるらしい。

あの子達には、いるのが自然に見えるんだろうなぁ。
私も
「そっかぁ。おじちゃん、ニコニコ笑ってる?」
って。
「うん!ニコニコ!」
って、子ども。
「よかったねぇ。おじちゃんニコニコで、うれしいねぇ。」
「うん!」

いないはずのおじちゃんやおねえちゃんがいるのが当たり前の状態に私もなってる。

・・・子どもはホントにうれしそうで、私もうれしくなった。

そういうものって、私自身も大切にしなくちゃって思った。

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(上のメールから数日後)

子どもに見えてるおじちゃんやおねえちゃんってきっとすごく何かを伝えたいんだろうなぁ。

その人達(?)は、ホントにいろいろみたいで笑ってたり、怒ってたりするらしいの。子ども談だけど。

「わー!!先生!おじちゃん、いっぱい入ってくるよ!!」
って言ってた子もいて、兵隊か!?と思ってみたりする。

かと思えば、とても穏やかなおじちゃんだったりして、
「わーい!おじちゃーん!」
と言って、ついていってしまったりも・・・。
「おじちゃんも、おうちでごはん食べるんだって。XXちゃんもごはん食べようね。バイバイしておいで。」
って言うと、
「バイバーイ!」
と、嬉しそうに手を振っておじちゃんを見送る。

そのおじちゃんやおねえちゃんは何がしたいのかはわかんないけど、怖いことにならなければ(怪我とか病気とか・・・)、子どもも嬉しそうだし、いて欲しいなぁ、なんて思う。

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(後日談)

・・・私は、4月から転勤で、違う保育園に配属になりました。

前の保育園、例の「出る」保育園ですが。あれから、仮園舎から新園舎に移ったんだけど、それからも、いろいろ「出て」きてくれて。

2歳児女の子が
「せんせい、朝、居た子は?しょう君は?」
と、聞くので、私は「???」。

「しょう君って誰?」
って聞くと
「朝、いたじゃん。せんせいも一緒に遊んだあの子だよ。」

・・・おんなの子には、見えていたのね・・・。しかも、私も一緒に遊んでいたとは・・・。

その後もたびたび「しょう君」は来ていておひるね中
「せんせい。しょう君が窓のところにいるよ」
とか、
「しょう君が車に乗ってる」
とか。

しょう君は、車の事故でなくなってたのかな?そんな感じがする。子ども達の言うことを聞くと。

私のひざの中にも、入ってきてるかもしれないって思うと、なんだか、クラスの一員のようで、ついつい見たこともない“しょう君”のことを毎日思ってしまっていたのでした。


今は、その園も離れ、“しょう君”がどうなったかはわからないけれど・・・。


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僕がこの短いメールでたまげたのは、
>おじちゃんや、おねえちゃん達、けっこうたくさんいるらしい。
っていうとこ。
けっこうたくさん、というのが凄い。また、“ニコニコ”笑うっていうのは、感情があるってことだよね。

今回、冒頭に『シックス・センス』の話をもってきたのは、そういうわけなんです、ハイ。
願わくば、すべての死者に安らぎが訪れんことを。
(この件について感想とか…ありますか!?)



★フェルメール展にGO!

オランダ人の画家ヤン・フェルメール(1632〜1675)。
43歳で没している。元々薄命だった上、一年で2枚ほどしか描かなかった為(ゼロの時もあった)、現存するものはわずか30作前後。そして、そのどれもが人類史に残る傑作といわれている。

2000年に日本で公開されたのは『天秤を持つ女』〜ワシントン・ナショナル・ギャラリー
『リュートを持つ女』〜ニューヨーク・メトロポリタン
『真珠の耳飾りの少女』〜ドイツ・ベルリン
『地理学者』〜ドイツ・フランクフルト
他に彼が模写した『聖プラクセデス』の計5点。

どれも各美術館の目玉作品、門外不出のシロモノばかり。
日本&オランダ交流400周年記念という特別な理由ゆえに実現できた激レアのイベントだ。
フェルメールが同時に一ヶ所に集まるのは極めて稀で、惑星直列や皆既日食、七夕に夜空が晴れる確率以下のミラクル現象といえよう。
特に“天秤…”や“真珠…”は、その作品に出会う為だけに世界各国から美術ファンがワシントンやベルリンを訪れるほどの逸品。

これはつまり…2000年はワシントンとベルリンが阿鼻叫喚の地獄絵巻になったということだ。
だってそうではないか!はるばる旅してたどり着いたのに、目的のフェルメール・コーナーには『日本で公開中』の張り紙が貼ってあるんだから!
以下、3作のミニ解説を書きます。

『真珠の耳飾りの少女』

悪名高いヒトラー。彼は青年時代に画家を目指しており、絵画収集にはとりわけ熱が入ってた。アムステルダムを無差別爆撃する際に「今から2時間後に大爆撃を開始するからそれまでにレンブラントの絵を郊外に“疎開”させておくように」とオランダ政府に御丁寧に打電する気合いの入れようだ。

ドイツ軍がヨーロッパ各地に攻め込んだ時、あちこちで美術品を奪いまくったが、ヒトラーはフェルメールの価値が分からぬ前線の粗暴な兵士が作品を傷つけては大変だと、『フェルメール部隊』という直属の特別部隊を編成し、慎重に各国から“強奪”させた。もちろん、フェルメール以外にも様々な名作がベルリンへ運び込まれたのだが、ヒトラーが個人的に自宅へ持ち帰ったのはただ一枚、この『真珠の耳飾りの少女』だけだった。
つまり、これ一枚でもう充分だったのだ。

あの残虐な独裁者がこんな愛くるしい作品を腕に抱えてる姿は、実にブラックな光景じゃないか(というか、人間の持つ2面性が空恐ろしくなる)。

そう、この作品は紛れもなく“愛くるしい”のだ。
この絵はこの少女の結婚式にあたって描かれたもので(真珠は純潔の象徴)、彼女の人生の節目に残されたものだ。
我々は350年前の遠いオランダの地に“彼女”が生きていて、そこに人生があったことを知る。彼女は画面上で絵を観る者に向かって、小首を傾げながら振り向いている。まっすぐにこちらを見つめ、小さなかわいい口を開かせ、まるで何かを語り掛けてくるようだ。
シンプルな絵でありながら細部まで細かく描写されており、耳飾りの真珠には衣装の襟が反射して映り込んでいて絶句した。
また、余分な物を一切排した暗闇のような背景が、光の当たった彼女の姿を立体的に浮かび上がらせ、まるで時を越えてそこで息づいているようだった(闇は同時に観る者の意識を人物に集中させ、その内面世界まで見事に感じ取らせていた)。


『地理学者』

この当時、科学者は教会側の弾圧に始終さらされていた。その頃のキリスト教では、聖書に記されたもの以外を知識として得ることを、“人類の越権行為”と見なす風潮があったからだ。その意味で天文学者や地理学者は戦士であった。
この絵の人物は机に地図をひろげ、コンパスを手に距離を調べている。少し手を止めて、物思いに耽けるように窓の外を見る…そんな一瞬を捉えたドラマチックな作品だ。「物思いに耽ける」といっても、決してうつろな目をしてるわけではなく、鷹のような毅然とした目で彼は自分の考えを推考していた。
真理を探究する者の強い意志を感じさせる、素晴らしい作品だ。
(私事ながら自作の小説“カントレフ、彷徨”で主人公が衝撃を受けた絵が、まさにこの絵だった!)

『天秤を持つ女』
絵の中に、もう1枚『最後の審判』の絵が描かれており、これは女性が持つ天秤と暗示的にリンクしている。
先日の日曜美術館で仰天した人も多いと思うが、この絵は構図へのこだわり方がハンパではない!絵にタテ・ヨコ・ナナメに対角線を引くとそれぞれの交点や分割点に天秤、女性の顔、キリスト像、画中画の額縁の枠などが寸分も狂わず配置されているのだ。
1枚の絵にこれだけの懲りよう。そりゃ、年に1、2枚しか描けないよ〜。

(完)


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