(22号)

啄木が26才で死ぬ直前まで書いていた短歌集「悲しき玩具」。
中高生時代に授業で“習わされた”啄木と、ここであらためて対面する啄木の差に、オヌシが生きてきた齢(よわい)を感じるがよ〜い!

@この四五年空を仰ぐといふことが一度もなかりき。かうもなるものか?

A「石川はふびんな奴だ。」、ときにかう自分で言ひて悲しみてみる。

B本を買ひたし、本を買ひたしと、あてつけのつもりではなけれど、妻に言ひてみる。

Cあやまちて茶碗をこはし、物をこはす気持ちのよさを今朝も思へる。

D真夜中にふと目が覚めてわけもなく泣きたくなりて蒲団をかぶれる。

E或る街に居し頃の事として、友の語る恋がたりに嘘の交じる悲しさ。

F話しかけて返事のなきによくみれば泣いていたりき、隣りの患者。

G看護婦が徹夜するまで、わが病ひ、悪くなれともひそかに願へる。

H枕辺(まくらべ)に子を坐らせて、まじまじとその顔を見れば、逃げてゆきしかな。

Iある日、ふと、やまひを忘れ、牛のなく真似をしてみぬ−妻子の留守に。

J久しぶりに、ふと声を出して笑ひてみぬ−蝿の両手を揉むが可笑しさに。

K何となく明日はよき事あるごとく思ふ心を叱りて眠る。

L呼吸(いき)すれば、胸の内にて鳴る音あり、こがらしよりも寂しきその音!

M子を叱れば、泣いて、寝入りぬ。口すこし開けし寝顔に触りてみるかな。

N汚れたる手を洗ひし時のかすかなる満足が今日の満足なりき。

O途中にてふと気が変り、勤め先を休みて、今日も、河岸(かし)をさまよへり。

Pすっぽりと蒲団をかぶり、足を縮め、舌を出してみぬ、誰にともなしに。

Q五歳になる子に、なぜともなくソニヤといふロシア名をつけて、呼びては喜ぶ。

R誰か我を思う存分叱りつくる人あれと思ふ。何の心ぞ。

S笑うにも笑われざりき−長いこと捜したナイフの手の内にありしに。

ダ〜ッ!(T_T) ウルウル
8番、12番が特にたまらない。啄木!



(23号)

ベートーヴェンは聴覚を失った31歳の秋、ウィーン郊外で自殺を図っている。結局、未遂に終わったのだが、彼は再度生きてゆくにあたって、一文をしたためている。
今回、その貴重な日本語訳文を手に入れたので、彼の魂の為に転送することにした。

『自ら命を絶たんとした私を引き止めたものは、ただひとつ“芸術”であった。自分が使命を自覚している仕事(作曲)をやり遂げないで、この世を捨てるのは卑怯に思われた。その為、このみじめで不安定な肉体を引きずって生きていく。
私が自分の案内者として選ぶべきは“忍従”だと人は言う。だからそうする。願わくは、不幸に耐えようとする決意が長く持ちこたえてくれればよい。・・・そして不幸な人間は、自分と同じように不幸な者が、自然のあらゆる障害にもかかわらず、価値ある芸術家、価値ある人間の列に加えられんがため、
全力を尽くしたことを知って、そこに慰めを見出すがよい!』

第九も、月光も、運命も、すべて彼がこの時に命を断たなかったおかげで、今、わしらが聴くことができる。ダンケ・シェーン、ベートーヴェン!



(おまけ)なぜ年末になると第九を演奏するのか?

2説の理由がある。

その1
1943年、太平洋戦争の状況が悪化する中、学生にも徴兵令が下り始めた。徴兵された東京芸大音楽部の学生達は、入隊間近の12月初旬に、繰上げ卒業式の音楽会で『第九』の第4楽章を演奏した。出征した多くの学生が死に、終戦後、生還した者たちで「別れの際に演奏した『第九』をもう一度演奏しよう」ということになった。つまり、“暮れの第九”の始まりは、戦場で散った若き音大生の魂を慰める鎮魂歌(レクイエム)だったのだ。

その2
第九は1927年からN響が演奏レパートリーに持っていたが、年末の演奏が定番化したのは終戦直後の混乱期から。食糧不足など厳しい生活を送っていた楽員たちは、年越しの費用を稼ぐために12月は『第九』を演奏する機会が増えた。なぜなら『第九』は曲そのものに人気があるうえ、合唱団員が多く出演するためその家族や友人がチケットを買ってくれ、確実な収入が保障されているからだ。同様の理由で“年末の第九”が、プロ、アマを問わず定着していった。(現在12月の国内での第九は150回を超えている) ※ドイツは例外として、近年の海外の「年末第九」の習慣は日本から。


(29号)

北斎展。驚きを隠せない。まさかこれほど素晴らしい企画だったとは!

順を追って話そう。
先に鑑賞していた友人たちの熱いメールを読み、これで北斎展に足を運ばなかったら、文芸ジャンキーとして自分の存在意義が否定されると危惧し、万難を排して公開最終日の本日、会場へ乗り込んだ。

入口正面。いきなり肉筆画のシブすぎる自画像が目に飛び込み、冒頭から放心モードに突入。作品は続けて年代順に展示されていた。その数、前代未聞の240点。
僕は北斎と言えば富嶽三十六景といったぐあいに、もろ風景画家のイメージがあったが、若い頃は人物画のオンパレードで驚いた。非常に多くの美人画があったのだ。

それから東海道五十三次や忠臣蔵を題材にした絵を見た後、のびのびとした筆致がメチャクチャ美しい六歌仙の人物画にぶつかった。絵の前に立った瞬間、画面からブワッと暖かい風が吹いたような錯覚にとらわれた。
尋常ではない開放感を、北斎の流水的な筆さばきから味わったのだ。

しかし本当のメインはこの後に待っていた。90歳まで生きた北斎が晩年名乗った名前は「画狂老人」。その名を冠した肉筆画に、本日僕がまる1時間も釘付けになった1枚の絵、『昇り龍』があった。
北斎渾身のこの水墨画は高さが1メートル以上あり、小さな絵が大半の彼の他作品からすると、かなりの大作に思えた。

龍は天を目指しているが、下半身から尻尾の先まで背景に墨がふんだんに使われ、まるで漆黒の闇まで天へ引き上げようとしてるかのようだった。なんという力強さ。それはまるで狂気じみてるほどの力強さだった。
その荘厳なエネルギーを真正面から浴び、ほとんどの体力を『昇り龍』の前で使い果たし、もう、その後は虫の息だった。

最後のコーナーはユーモラスな北斎漫画。ホッって感じ。彼は現代の全漫画家の、言わずと知れた生みの親だ。鼻の穴に箸を入れてるマンガは表情が実に滑稽で、帰りに売店コーナーをのぞき、図版(目録)を買い求めてしまった。

最後に。
わずか大人一人500円という入場料金に、京阪百貨店の壮絶なまでの誠実さを垣間見た。精神的ゴージャスの極み、ここにありき。

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