なんという気持ちのいい笑顔!見てるだけで爽快になる! (ベートーヴェン交響曲第4番) |
墓の側にクライバー記念館(Spominska Soba CARLOSA KLEIBERJA)がある。 管理人のマルコさんがカルメンを流してくれた |
クライバーの墓はお花がいっぱい! 彼はリハーサル前に徹底して作曲家の 自筆譜を調べ、自らの音楽として挑んだ |
奥さんが亡くなった半年後、後を 追うようにカルロスも旅立った。 生涯フリーランスの指揮者だった |
顔をクシャクシャにして見送って くれた情の厚いマルコさん |
2004年のある7月の朝。新聞の片隅に「カルロス・クライバー死去」という7行の短い記事を読み、全身から力が抜けてしゃがみ込んだ。1983年の秋頃、当時高校2年の僕はたまたま立ち寄ったレコード屋で、外国人の指揮者が歓喜の表情で指揮棒を振っているポスターを見た。宣伝コピーは『ここでカルロスのタクトが火を噴いた!』。人生でこれほどの笑顔を見たことがなく、僕はポスターの前に立ち尽くした。「クラシックは人間にこんな表情をさせる音楽なのか!」と度肝を抜かれた。“自分は一生のうちに何度こんな笑顔をできるだろう?”、
クラシック・ファンになればこんな体験が待っているのかと、一枚のレコード・ジャケットをきっかけに縁遠かったクラシックを聴き始めた。お気に入りの曲からクラシックの世界に入っていくのが普通で、写真をきっかけにクラシックを聴き出す例はあまりないと思う。
そして…クライバーさんの笑顔は真実だった!それまで僕がクラシックに持っていたイメージは“退屈”“地味”“長い”“根暗”というものだったけど、そんなクラシック観が激変した。涙するほど美しく、同時に超刺激的&エキサイティングな世界が、音符の向こうに待っていたッ!もし、あのジャケットに出会っていなかったら、クラシックに目覚めるのはもっと遅かった、あるいは一生目覚めなかったかも知れない。そういう意味でも、クライバーさんは僕にとって命の恩人だ。
クラシックを聴き始めると、クライバーさんがレコード化した曲がベートーヴェンの「交響曲第4番」ということに好奇心を刺激された。「運命」や「第九」のような知名度はない。“有名な曲だけが名曲じゃない、知られてない傑作が山ほどある”ということを、クライバーさんは教えてくれた。目の前にあっても見えていなかった、芸術という無限に広がる美と感動の海の存在を、クライバーさんが教えてくれた!
1986年、クライバーさんを「生き神様」と崇めたてていた19才の僕は信じられないニュースを聞いた--「カルロス・クライバー来日決定!大阪フェスティバルホールのプログラムは、ベートーヴェンの4番と7番!」。これを驚天動地というのだろう。僕はチケット発売日の何ヶ月も前から、横断歩道は黄信号になったら無理に渡らない、電車には駆け込まない、腐りかけた食べ物を強引に食べない等、生活上のあらゆる危険を避け、非常に慎重に生き始めた。チケット発売日は始発列車で梅田に乗り込み、店頭販売分をゲットした!!
チケットを手に入れてからは、新たな心配で生きた心地がしなかった。毎日毎日、新聞でクライバーさんが病気になったり、事故にあってないかを調べた。というのも、クライバーさんの存在が生前から伝説化していたのは、演奏会の回数が極端に少ない(過去5年間で指揮をしたのは5日間だけだった)ことに加え、その完全主義ゆえに、少しでも体調が不良だったり、本番当日までに120%満足のいく仕上がりにならなければ、演奏会は即刻キャンセルされたからだ。コンサート当日になっても、幕が開いて自分の目で姿を確認するまでは、聴衆は誰も安心できなかった。クライバーさんは「指揮をした」という事実そのものがビッグニュースになる、現代では唯一の指揮者だった!
※クライバーさんはまた、オペラの最中に観客の拍手で流れが中断されることを嫌い(それが感動による拍手であっても)、各座席には「全幕が終了するまで絶対に拍手をしないで下さい」と注意書きが配られていた。
そして運命の5月15日18時半!舞台上にはバイエルン国立歌劇場管弦楽団のメンバーを従えたクライバーさんの姿があった。神は降臨した!!聴衆はクライバーさんを嵐のような拍手で迎えた。演奏はこれからだというのに、隣席の老夫婦は「よかった、ちゃんと来てくれた。本当によかった…!」と、もう終わったかの如く満足気な会話。僕がクライバーさんを知るきっかけとなった交響曲第4番が始まると、“これは現実だよな?現実なんだよな!?”と、指揮台の上で蝶の様に舞うクライバーさんの後ろ姿を、ひたすらジッと見つめていた。
2曲目のパワフルな第7番は興奮し過ぎて、断片的な記憶しか残っていない。ベートーヴェンの作った曲の中でも、最もハチャメチャ&ド迫力な終楽章は、「うおーッ」「ふぬーッ」「グガーッ」「ドヒーッ」そんな言葉が全身を駆け巡ってるうちに終わった。僕の魂はベートーヴェンの最後の一音が鳴り終わった時に、音符と共にミューズやアポロンら芸術神の世界へ連れ去られてしまった。
15分経っても鳴り止まぬ拍手の渦の中で呆けていると、クライバーさんはアンコールの声に応えて登場し、優雅で軽やかな喜歌劇『こうもり』序曲と、“クライバー火山大爆発”のポルカ『雷鳴と電光』の2曲を演奏してくれた!大編成オーケストラで演奏される『雷鳴と電光』は、指揮棒から放たれる電光が文字通り僕の脳を直撃し、最後の方は身体からプスプス煙が上がっていた。隣席の老夫婦は「長生きはするもんだねぇ」としみじみ。
★生前から聴衆、音楽家の双方より神格化されていた“最後のマエストロ”カルロス・クライバーは、1930年7月3日にベルリンで生まれた。父は20世紀前半を代表する指揮者の一人、エーリヒ・クライバー(1890-1956)。ウィーン生まれの父エーリヒはマーラーの指揮に感動して指揮者を志し、1923年に33歳でベルリン国立歌劇場の音楽監督に就任した。1926年、エーリヒはアルゼンチンで客演し、その際に米国大使館職員、ユダヤ系アメリカ人のルース・グッドリッジと惹かれあい後日結婚する。1930年、エーリヒが40歳のときにカール(カルロス)をもうけた。
1932年7月、選挙でナチ党が第一党の座を占め、1933年1月にヒトラーが首相に就任。翌月ナチスは自演のドイツ国会議事堂放火事件を起こして左翼を大弾圧し、同年3月、ヒトラーは全権委任法を国会承認させて立法権を手に入れ、どんな法律も議会抜きで制定できるようになる。
1934年8月19日、ヒトラーが総統となって独裁権を掌握。11月、ナチスはユダヤ人と親しく交流する作曲家パウル・ヒンデミット(1895-1963)を弾圧し、オペラ版『画家マティス』を上演禁止にする。ベルリン・フィルの名指揮者フルトヴェングラー(1886-1954)はこれに怒って「ヒンデミット事件」と題する抗議声明を新聞に寄せ、ベルリン・フィル音楽監督を辞任。またナチスはアルバン・ベルク(1885-1935)の作品に「退廃音楽」のレッテルを貼り、ベルクの『ルル交響曲』初演を禁じたことから、ナチスの芸術への介入に怒ったエーリヒは、『ルル交響曲』演奏禁止命令の5日後に国立歌劇場音楽総監督を辞任し、フルトヴェングラーと共闘した。
翌1935年、エーリヒはユダヤ系の妻を守るために5歳の息子と共に家族でアルゼンチンに亡命。その際に子どもの名前をドイツ名のカールからスペイン語のカルロスに改名した。翌年、パリのオペラ座、ミラノのスカラ座と並ぶ「世界三大劇場」のひとつ、コロン劇場(テアトロ・コロン)の首席指揮者となる。エーリヒは13年間この職を務めながら、南米各地のオーケストラで客演した。戦争が終わり、1948年、ロンドン・フィルに客演したことを機に欧州楽壇に復帰する。
一方、エーリヒの姿を見て育ったカルロスは自身も音楽に魅了され、20歳からブエノスアイレスで音楽の勉強を始めた。だが、父が音楽の道に進むことを反対したため、1952年、22歳でスイス・チューリヒの工科大学に進学。結局、音楽への情熱を抑え切れず、同年にアルゼンチンのラ・プラタ歌劇場で初めてオーケストラを指揮した。翌1953年、23歳でミュンヘンの劇場で無給の見習い指揮者となり、24歳でポツダムの劇場でオペレッタを指揮し欧州デビューを飾る。この頃、カルロスは親の七光りと思われるのが嫌で、この頃は「カール・ケラー」と名乗っていた。
一方、父エーリヒは1954年には古巣であるベルリン国立歌劇場の監督に任命されたが、同劇場を所轄する東ドイツの社会主義政権と意見が対立し辞任。1956年(カルロス26歳)、モーツァルト生誕200年となる1月27日当日に、エーリヒは客演旅行で訪れたチューリヒにて56歳で客死した。
カルロスは1960年に30歳でライン・ドイツ・オペラの指揮者に就任、ヴェルディの『椿姫』を振った。
1964年(34歳)からチューリヒ歌劇場指揮者を任され、期待の若手として注目される。
1968年(38歳)にミュンヘンのバイエルン国立歌劇場となり、リヒャルト・シュトラウス『ばらの騎士』で大成功を収め、名声を手に入れた。カルロスは5歳から約15年間、青春の日々をアルゼンチンで過ごしており、ラテンアメリカの陽気な歌心と厳格なドイツ正統派の精神の両方を併せ持った指揮者として、聴衆を魅了した。カルロスはバイエルンで『ばらの騎士』を生涯に通算82回演奏する。
1970年(40歳)、南ドイツ放送交響楽団(現シュツットガルト放送交響楽団)とヨハン・シュトラウス2世の喜歌劇『こうもり』序曲、ウエーバーの歌劇『魔弾の射手』序曲のリハーサルと本番の様子をテレビ収録し、貴重な映像資料として後世に残る。
※この映像から喜歌劇『こうもり』序曲のリハーサル風景を以下に紹介。当時の南ドイツ放送交響楽団は大半の団員が年配者。若いカルロスが自らの音楽的要望を伝える為に、お世辞を言ったり脅かしたりしながら必死で格闘している姿が伝わり、カルロスの親しみやすい人柄が分かる。
〔カルロス・クライバーかく語りき〕
「オーボエは何かを語るかのように。例えば何か不幸な歌詞をつけて…“嫌だな、またこの曲か…”とかね」
「グロッケン(鐘)の音は少し大きいかも。済まないがちょっと離れてくれますか?舞台の奥に物置の様な場所があるから」※そこへ入れということ!この時の映像にはスゴスゴとグロッケンをひきずっていく団員の姿が映っている。
「バイオリンは弦に触れる前にきちんと準備して下さい。既に音が出ていたかの如くまず弦が振動していなければ。その後初めて響きに到達するんです。荒っぽく弦を押さえないで。皮膚に触る時、まず産毛を感じてから初めて肌に手が触れる、あの感触で。いきなり握手をして“今日は!”と言う様な表現はここにはそぐわない」
「くすぐるように!」
「皆さんの演奏が勝り、私が無用になること、そんな演奏が私の夢です」
「ここでは皆さんの想像の世界の美女の心を捕らえて下さい。彼女は皆さんのバイオリンの音色に酔いしれること請け合いです」
「まだ表情不足です。ここは気まぐれにそっぽを向いて去って行くように…もちろん難しい表現ですが、どうしてもその表現が必要なのです」
「私は皆さんに何かを求めて欲しいのです。それを味わったり、表現の方向性ときっかけを私は与えるだけにしたい」
「“8日間も一人きり”と彼女は歌う(※オペラ「こうもり」の歌詞)。“一体どうすればいいの”と言って空涙を流す訳だが、女性には一種の真実だ。嘘泣きでも涙は涙だから。心からの様に“神よ何故こんな苦しみを…”と歌う。この大袈裟な感じが必要なのです」
「ここにも泣きを入れて!たっぷりと!」
「この14番(楽譜にふってある番号)は難しすぎて、私にはきちんと振り切れません」※素直すぎ!(笑)
「まだ説明するから楽器は構えないで!」
「大切なのはこの密かな猥雑な感じを出すことです。小太鼓は悪巧みを始める様に忍び込んできて、この“悲劇かな?いや喜劇だ!”という支離滅裂な配合を巧みに。すべてバランス曲芸です。テンポを守り過ぎないで!」※“支離滅裂な配合を巧みに”なんて言われても(汗)。太鼓に“テンポを守るな”なんて言う指揮者は初めて見た。
「コントラバスは最初から強すぎず、徐々に大きくしていくように。始めはほとんど弾かないぐらいに…そう、例えば皆が何かを合わせている横でコッソリ他の曲を練習する時のように。それって、オペラの練習でよく聴くんだけどね」
「もっと各自が曲の内容を把握しなくては!しっかりアンテナを張って。皆さんはひとつのオーケストラでしょう?寄せ集めの群集でも指揮者のご機嫌伺いでもない。各自が音楽の展開を推測する楽しみと義務を持っているのです」
「ここは本物の“スーパー・スタッカート”で!針の様に鋭い“スタッカーティッシモ”でッ!」
「もっと大きく!フォルティッシモ!こんな質問をされるかもしれない--“ヨハン・シュトラウスをこんな音量で?”。なぜ大きくていけないんだ?一度は発散しよう!」
「フルートとクラリネットはもう少し私に…楽しんで吹く姿を見せて下さい」
「さっきから止めてばかりで申し訳ないが、皆さんはアカデミックすぎます。ここは軽くて硬い空手チョップのように。そういう音楽を聴くと本当に楽しい」
「私は呑み込みが遅い人間だが、何が足りないか分かってきた。8分音符がニコチンの少ない煙草の煙のように物足りない。もう少し毒気がなければ。酔った時を思い出して…ただし、歩けない程には飲み過ぎないで。まだ運転が出来るくらいの酔い加減でね(団員から笑い)」
「ホルンは旋律以外の後打ちが単純すぎます。私がその部分を歌うから感じを掴んで、それに合わせて下さい。ラララ〜♪」
1973年(43歳)、ウィーン国立歌劇場にて『ばらの騎士』『トリスタンとイゾルデ』でデビュー。
1974年(44歳)、ウィーン・フィルとベートーヴェン『交響曲第5番“運命”』を録音、ドラマチックで情熱的な演奏が絶賛された。同年、バイロイト音楽祭で『トリスタンとイゾルデ』を指揮し、1976年まで3年連続で同作品を任される。また、この年にバイエルン国立歌劇場と共に初来日し『ばらの騎士』を指揮。ロンドンのロイヤル・オペラでもデビューするなど大いに活躍した。
1975年(45歳)、三大歌劇場のミラノ・スカラ座に『ばらの騎士』でデビュー。
1977年(47歳)、サンフランシスコ歌劇場でヴェルディの『オテロ』を指揮し、初めてアメリカの舞台に立った。
1978年(48歳)、シカゴ交響楽団を指揮。※これがアメリカデビューとする資料もある。
1979年(49歳)、ウィーン・フィルの定期演奏会を初めて指揮。
1981年(51歳)、2度目の来日公演。ミラノスカラ座とヴェルディ『オテロ』、プッチーニ『ラ・ボエーム』を演奏。
1982年(52歳)、カール・ベーム追悼コンサートでバイエルン国立管弦楽団を指揮、ベートーヴェン『交響曲第4番』をライブ収録。名盤として話題を集める。世界各地で輝かしい成功をおさめる一方、カルロスはこの交響曲第4番の解釈を巡って名門ウィーン・フィルと衝突し、「なぜこの通りに出来ないんだ!」とリハーサル中に指揮棒を叩き折り立ち去ったという。両者は6年後に和解した。
1983年(53歳)、アムステルダム・コンセルトヘボウとベートーヴェンの交響曲第4番&第7番を演奏。
1986年(56歳)、3度目の来日公演。この時はバイエルン国立歌劇場管弦楽団とベートーヴェン『交響曲第4番』『第7番』、ウェーバー『魔弾の射手』序曲、モーツァルト『交響曲第33番』、ブラームス『交響曲第2番』といろいろ取り上げ、アンコールでヨハン・シュトラウス二世の喜歌劇『こうもり』序曲を演奏した。ウィーン・フィルとケンカしていなければ、ウィーン・フィルと来日していたという。※筆者はこの年の来日公演を大阪で聴きました。
1988年(58歳)、ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場にプッチーニ『ラ・ボエーム』でデビュー。同年、4度目の来日公演。ミラノスカラ座のプッチーニ『ラ・ボエーム』を指揮。
1989年(59歳)、仲直りしたウィーン・フィルと有名なニューイヤー・コンサートで共演。指揮が全世界に中継された。
1992年(62歳)、他界したレナード・バーンスタインの代理で再びニューイヤー・コンサートを指揮する。一方、カルロスは初めてウィーン・フィルと来日する予定だったが体調不良でキャンセルとなり、シノーポリが代役を務めた。カルロスは箱根の温泉や和食を好み、何度かお忍びで日本を旅行し、この年、来日中のチェリビダッケと遭遇している。
1994年(64歳)、5度目かつ最後の来日公演。リヒャルト・シュトラウス『ばらの騎士』をウィーン国立歌劇場と東京で6回公演し、最終日の10月20日の演奏が、生涯最後のオペラ公演となった。カルロスいわく「生涯最高の『ばらの騎士』の演奏ができた」。
以降の最後の10年間は、演奏会がゼロという年も多く、世界中の音楽プロモーターがカルロスを引っ張り出そうとしたが、練習回数無制限、ギャラ無制限という破格の条件を付けても、よほど気が乗らない限り出てこなかった。カルロスの出不精について、帝王カラヤンが「ヤツは冷蔵庫が空っぽにならないと演奏会に出てこない」とからかっている。
50代後半から指揮の回数が2、3年に数公演というペースになり、「クライバーが指揮をした」というだけで世界のニュースとなっていった。
最後の舞台は1999年(69歳)のバイエルン放送交響楽団との共演。
以降、没するまでの5年間は人前に姿を現すことがなく、夫人の故郷スロヴェニアで癌の闘病生活を送る。
2003年、12月にバレエダンサーの夫人が66歳で他界。同年、20年前に収録したベートーヴェン交響曲第6番「田園」のライヴ版が突如CDリリースされる。この演奏はカルロスが息子にせがまれ渋々指揮したという。
2004年7月13日、半年前に亡くなった夫人の後を追うように癌で他界。享年74。亡骸は4日後に埋葬された。生涯にわたってフリーの立場で活動し、音楽監督に就任しなかった。他界の2カ月後、ウィーン・フィルは定期演奏会でカルロスを追悼するためニコラウス・アーノンクールの指揮でモーツァルトの『フリーメイスン葬送音楽』を演奏した。
カルロスが熱狂的に音楽ファンから愛された最も大きな理由は、音楽と向き合う姿勢から深い誠実さが伝わってきたからだ。父エーリヒはベルリン国立歌劇場音楽監督時代に、ベルクのオペラ『ヴォツェック』を初演までに137回も練習したというエピソードがある。その血を受け継いだのであろう、カルロスもリハーサルに膨大な時間を費やし、本番までに満足できなければ公演をキャンセルするなど、究極の完全主義者と呼ばれた。だが、けっして暴君として楽団員の上に君臨したのではなく、自己が求める音楽的な高みにオーケストラの演奏レベルが達する事が出来なければ、「作品と作曲者への冒涜」となるとして、音楽と真摯に向き合った態度が生んだ公演中止だった。
クラシック音楽には星の数ほど作品があるが、カルロスは一曲を完成させるまで、作曲家本人の自筆譜を研究するなど練りに練るため、レパートリーが極端に少ない。演奏記録が残っているのは30曲にも満たない。特定楽器のソロの演奏者ではなく、様々な作品と触れる機会が多い指揮者であるのに、少数の限られた楽曲しかタクトを振らなかった。人気曲をいろいろ録音してレコードを売れば莫大な利益が入ってくると分かっていても、カルロスはお金のために自己の芸術を表現することは一度もなかった。
〔 カルロス・クライバー 全レパートリー27曲 〕
●ハイドン…交響曲第94番「驚愕」 ●モーツァルト…交響曲第33番、第36番「リンツ」
●ウェーバー…魔弾の射手 ●シューベルト…交響曲第3番、第8番「未完成」
●ブラームス…交響曲第2番、第4番 ●ヨハン・シュトラウス…こうもり、ウインナーワルツ
●プッチーニ…ラ・ボエーム ●R.シュトラウス…英雄の生涯、ばらの騎士
●バタワー…イギリス田園詩曲第一番 ●ベルク…ヴォツェックからの三つの断章
●ドヴォルザーク…ピアノ協奏曲 ●マーラー…大地の歌 ●ビゼー…カルメン
●ワーグナー…トリスタンとイゾルデ ●ヴェルディ…椿姫、オテロ ●ボロディン…交響曲第2番
●ベートーヴェン…コリオラン序曲、交響曲第4番、第5番「運命」、第6番「田園」、第7番
このうち、スタジオ録音はベートーヴェン「運命」「第7番」、ブラームス「第4番」、シューベルト「第3番&未完成」、ヴェルディ「椿姫」、ウエーバー「魔弾の射手」、ヨハン・シュトラウス2世「こうもり」、ワーグナー「トリスタンとイゾルデ」の9曲のみ。
上記のように、チャイコフスキー、バッハ、ヘンデル、メンデルスゾーン、ブルックナー、シューマンの曲は、一曲もない。またモーツァルトにしても有名な交響曲第40番や「ジュピター」がないし、ドヴォルザークは「新世界」がない。ブラームスの交響曲第1番、マーラーの全交響曲、ワーグナーの「指輪」、ラヴェルの「ボレロ」など、音楽史の金字塔がごっそり抜け落ちている。裏を返せば、楽譜を血肉となるまで読み解き、作曲者の真意を完全に理解したという確信が持てない曲を、彼が振ることはないということだ。カルロスが指揮台に立った時は、それだけで120%名演になることが約束されたようなもの。それゆえ、クラシック・ファンや批評家だけでなく、多くの音楽家仲間からも絶対的な信頼を得ていた。
厳選されたレパートリーを極限まで掘り下げ、時には圧倒的なスピード感と切れ味抜群のリズム感で聴衆を熱狂させ、また時にはとろけるように優美な音色と鮮やかな色彩感で、聴衆だけでなく楽団員までも恍惚&至福の世界に導いた。その指揮棒は、バレエのごとく優雅かつ流麗に宙を舞い、誰もが認めるカリスマだった。
※正規に発売された音源はわずかだけど、ベートーヴェンの交響曲第4番、第5番「運命」、第7番、ブラームスの交響曲第4番は、過去にも未来にもカルロスの演奏を超えるものはないと思っている。僕が個人的に最も無念なのは、カルロスがベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」、そして人類史上最大最高の名曲、第九番「合唱つき」を振らないうちに旅立ってしまったことだ!なんてこった!カルロスは周囲からどれだけ「第九」の指揮を請われても、「今の私ではまだ振れない」「時期尚早だ」と首を縦に振らなかった…。謙虚すぎるよ(涙)。ベートーヴェンがこの世界と人類を黄金の精神で全肯定した第九を、音楽を通して生命の賛歌を歌い上げていたカルロスが指揮していれば、宇宙消滅の日まで語り継がれる伝説の名演になるハズだった…。
1989年にカラヤン、1990年にバーンスタイン、1997年にショルティという、偉大なマエストロたちが亡くなり、ついにカルロスまで去った。カルロスが亡くなった2004年7月13日で世界は大きく変わったのに、その死はテレビや新聞でトップ・ニュースになることもなく、国連が喪に服そうと呼びかけることもなく、人々はいつもと変わらぬ日常を送っている。天体の運行も変化ナシ。太陽は今日も東から昇り西へ沈む。これでいいのか。地球はたとえ数分間だけでも自転を止めて黙祷すべきだッ!
(>_<) ワーッ
普通の指揮者なら、リハーサルで「ニコチン」や「空手チョップ」を引き合いに出さない。だけど、僕が演奏家ならこんな人の指揮の下で演奏したいし、聴衆としては同じ曲を聴くのならこういう熱いハートを持った指揮者の演奏を聴きたい。カルロスが生れてきてくれて、人類は本当に幸運だった。もしあの世があるのなら、そこでこそ「第九」を聴かせてもらいますッ!!
●墓巡礼
墓巡礼を長く続けていると、奇跡のような偶然が重なってたどり着けた、そんな墓も多い。カルロス・クライバーはその典型。
2004年7月にカルロスが他界した後、僕はどこにお墓が建てられるのか、ネットで情報を探し続けた。半年ほど経って海外の墓マイラー交流サイトで「クライバー氏の墓はスロヴェニアの首都リュブリアーナの郊外、コンスィツァ村」と書かれているのを発見した。「ス、スロベニア?」。スロベニアの方には申し訳ないが、すぐに場所が浮かばない。世界地図を広げると、イタリアの西側に位置し、旧ユーゴスラビアから1991年に独立した新しい国だった。面積は2万平方キロで北海道の4分の1ほど、人口は栃木県と同じくらいの約200万人。首都のリュブリアーナも地図で確認できた。問題はコンスィツァ村だ。あまりに小さな村で地図には載っていなかった。今ならネットですぐに場所も分かるけれど、グーグルマップ日本版が公開されたのは2005年7月14日であり、それ以前は外国の村の場所を特定するのは極めて困難だった。
「とにかくスロベニアに行くしかない、あとは現地調査だ」。飛行機で欧州に向かい、鉄道でイタリアからスロベニアに入った。この国はカルロス夫人の故郷。首都リュブリアーナで下車し、鉄道案内所でコンスィツァ村の最寄り駅を聞いた。答えは「そんな村は聞いた事がない、バスで行け」。僕は言われるがまま、駅前のバスロータリーに向かい、案内所で村に向かうバスがあるか聞いた。窓口にいた無精ヒゲのワイルドな中年男性は「知らない村だ」と肩をすくめた。ローカルの地理情報に誰よりも詳しいはずのバス案内所の人が知らない…僕は「リュブリアーナの郊外」というネット情報自体が嘘ではないかと疑い始めた。すると、その中年男性が「あっ」という表情をして人さし指を立て、「ちょっと待て、そう言えば…今朝のこの新聞に…あった!」と見せてくれたのが、『クライバー記念館(Spominska
Soba CARLOSA
KLEIBERJA)が昨日開館』という小さな記事。なんと一回忌に合わせて村に建てられたというのだ!「ほら、ここにお墓が近くにあると書いてある」。スロベニア語はまったく読めないけど、男性のその言葉に心が踊った。記事を切り取ってくれたので、大切にパスポートの間に挟む。時間は午後5時。今からだと仮にバスがあったとしても、帰りの最終バスに間に合わないらしく、安宿を探して1泊した。
翌朝、首都最大の旅行案内所が8時にオープンすると聞き、7時半に宿を出た。“あの新聞記事はコンスィツァ村の場所を調べる大きな手掛かりになる”、そう思うと自然と早足に。
観光案内所に入ると他に観光客はおらず、男女の職員が談笑していた。さっそく例の新聞記事を見せると、「ふむふむ、クライバー記念館…」とパソコンで調べてくれたが、今ほどネット回線が整っていないため検索に時間がかかった。15分ほどしてて、女性職員が「あったわ!」と、同館の公式サイトを発見、男性職員が記念館に電話をかけ行き方を尋ねてくれた。
やはりコンスィツァ村には公共交通機関が通っていなかった。電話はしばらく続き、僕の不安げな表情を見た男性職員が、受話器を片手で持ったまま、右手の親指を立てて“安心しろ”とサインを送ってくれた。電話を切ると「OK、よく聞くんだ」と説明が始まった。「クライバー記念館の館長が、君を最寄の鉄道駅から車で送迎してくれることになった。リティヤ(LITIJA)駅に着いたらこの番号に電話するんだ。駅から村までは20kmだ」。仰天した。なんて優しいんだ!
リュブリアーナ駅に戻り、ローカル線に乗って30分、首都から30km東のリティヤ駅に到着した。
僕はホームに降りて絶句した。電話も何もない無人駅だった!しかも土砂降りの雨。“どうやって館長に電話すれば…”。待合室の壁面に貼られたスロベニアの地図の前で、「Konjsica(コンスィツァ)」の文字を探したが…見つからない。途方に暮れて「これは困ったな…」と呟くと、突然背後から日本語で「ドウシマシタ?」と声をかけられた。「えっ!?」。そこには青い瞳のイケメン青年が立っていた。「ニホンゴ、ワカリマス」。腰を抜かした。彼はスロベニアの大学で日本語を専攻しており、「ニホンジンヲミタノ、ハジメテ」とのこと。僕がクライバー記念館に行くために電話を探していることを話すと、彼はニッコリ笑って「デンワハ、ココニアリマス。ボクニ、マカセテクダサーイ!」と自分のケータイを取り出し、僕の代わりにかけてくれた!彼の名前はドゥシャン君。間もなく次の電車がやって来たので、彼をプラットホームまで見送った。別れ際、握手をして「ヨイ、タビヲ」と彼。「ドゥシャン君、ファーラ!(ありがとう)」。奇跡の出会いだった。
電話をかけてから半時間、白い車が駅前に乗り付け、眼鏡をかけた中年男性がやってきた。館長の名前はマルコさん。いわく「一昨日は記念館の開館式のイベントがあった。昨日は誰も来なかった。今日も誰も来ておらず、関係者以外では君が来館第1号だ」。霧雨の山道を車は進み、20分でコンスィツァ村を示す標識が見えた。村は東西に200mほどしかなく、民家が点在するなか中央に教会があり、隣接してクライバー記念館が建っていた。
中に入るとカルロスが世界各地で指揮台に立っている写真のほか、夫人と散歩しているプライベート写真、レコードアルバム、活動を紹介した新聞記事、自筆のサインなどが展示されていた。マルコさんは「こういうのもあるよ」と『カルメン』のDVDをテレビに映してくれた。カルロスの演奏を聴きながら写真を見ていると、一年前に旅立ったマエストロの存在を近くに感じた。
その後、マルコさんの案内で教会墓地へ。30基ほどの墓石が並ぶなか、クライバー夫妻の真新しい墓が敷地の端に建っていた。白い墓石に金色の文字で夫妻の名と生没年が刻まれていた。墓前には色とりどりの花が咲いており、山あいの静かな村の墓地で、風や鳥の声を聴きながら2人は眠っている。カルロスの墓に素晴らしい音楽体験の感謝を伝え、1986年の大阪公演以来18年ぶりの再会であること、ここに来るまで奇跡の連続であったこと、夫妻が当地に眠っていればこそ出会えた人の縁を報告した。
〔墓地の場所が不明という状態から、墓前に立つまでの6つの奇跡〕
(1)スロベニアを訪れた日が、たまたまクライバー記念館の開館翌日
(2)バス案内所のおじさんが、記念館の開館式の新聞記事を見て、お墓と記念館が同じ村と気づき、僕に教えてくれた
(3)その新聞記事のおかげで、観光案内所の職員が出来たばかりの記念館のサイトを発見、正確な住所がわかる
(4)記念館の最寄り駅からはバスもタクシーもなかったが、観光案内所の親切な職員が館長と交渉してくれ、車で送迎してもらえることに
(5)最寄り駅に移動するも無人駅で電話もなく、館長に到着を連絡できず頭を抱える。たまたま後ろに日本語を話せる青年がいて、携帯で連絡してくれた。スロベニアの田舎の駅で日本語で会話しているあり得ない状況。
(6)駅から山道を車で20分、館長がマイカーで送迎してくれた。館長は他にも文化事業の仕事をしており、翌日なら送迎できなかったとのこと。
※カルロスはベートーヴェンのピアノ協奏曲「皇帝」をアルトゥーロ・ミケランジェリとリハーサルしていた。レコーディングして欲しかった!
※カラヤンはカルロスのことを「正真正銘の天才」と認めていた。
※バーンスタインはカルロスが指揮したプッチーニの『ラ・ボエーム』を「最も美しい聴体験の一つ」と絶賛。
※バーンスタインいわく「カルロスは“庭の野菜のように太陽を浴びて成長し、食べて、飲み、眠りたいだけ”と言っていた」。
※エーリヒ・クライバーの墓はスイス・チューリヒの「Friedhof
Honggerberg」にある。同墓地にアインシュタインの次男エドゥアルト・アインシュタインの墓もある。
※毒舌で知られる大指揮者チェリビダッケは、カール・ベームのことを「芋袋」と呼び、カラヤンのことも散々にこき下ろした。これに心を痛めたカルロスは、オリジナル・スコアのテンポにこだわったトスカニーニに扮して“天国”から次の電信を打った「ブルックナーは“あなたのテンポは全て間違っている”と言っています。天国でも地上のカラヤンは人気者です」。
※スロベニアは2007年にユーロを導入しており、独自通貨に両替しなくても良くなった。それだけで随分旅行しやすくなっているはず。
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精神的求道者のような 最後の巨匠だった |
リハーサル映像が現存しているのは人類 の幸運!(ポール・ニューマンに似てる) |
1992年のニューイヤーコンサートにて。とても リラックスした穏やかな表情だなぁ(当時62才) |
※もしクラシックの入門としてクライバーが指揮したものを1枚選ぶならベートーヴェンの交響曲第5番「運命」&第7番が 有名な曲&値段も手頃(1800円)なので良いと思います!運命が感動的なのはもちろんのこと、音のシャワーを体感できる 第7番を、ぜひとも味わって欲しいっす。交響曲第4番はジャケットは素晴らしいけど、一曲しか入ってないし「運命」より高い…。 (僕がクライバーさんの発言を抜粋した「こうもり」のリハは「魔弾の射手」のリハとペアでDVDになって出ています) |
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