近代文学の父! |
2メートルもある大きな一枚岩(2006) | 花もなく寂しげ…(1991) |
前回、前々回と曇っていたけど、3度目の巡礼でついに晴れた!光に包まれた!墓前に花もいっぱい!(2010) |
本名、長谷川辰之助。明治の小説家。筆名の「二葉亭」は、父親の口癖だった「くたばってしまえ!」をもじったものだ。江戸時代までの書物といえば漢文体が一般的だったが、1887年(23歳)、彼は小説『浮雲』を現代の小説同様に“話し言葉”(言文一致)で執筆し、この日本初の本格的口語体小説に同時代の読者は仰天した。漱石が『我輩は猫である』を発表するより18年も早く、文字通り近代文学の父だ。彼はエスペラント語やロシア語に堪能で、『浮雲』の執筆中など文章に詰まると、いったん原稿をロシア語で書いて、あとからそれを翻訳したという逸話がある。だが、二葉亭の夢は文学者として大成することではなく、世界を股にかけ活躍する国際人だった故、20年後に『其面影』を執筆するまで長く筆を置く。内閣官報局局員や新聞社の特派員として海を渡り大いに活動するが、ロシアからの帰国途中、インド洋を渡る船内で肺結核のため45歳で病死した。 “恋はくせもの、こう睨み付けた時でもなお「美は美だ」と思わない訳にはいかなかった”〜『浮雲』で主人公の文三が、自分の想いを寄せている女性の、移り気、派手さ、軽薄さを憎みつつも、その外部の美を内部の美と混同して、ついもらしてしまうこの言葉は、多くの男性の共感と悔悟の涙を搾り取ってきたに違いない…。 二葉亭が眠る染井霊園は、敷地が広いものの随所に案内板が立ててあり、比較的に巡礼しやすい。彼の墓は荼毘に付されたシンガポールの日本人墓地にもある。 |
日本人以上に日本を愛した |
1991年 | 2002年 花に埋もれた小泉家の墓所。中央が八雲 | 2008年 いつ訪れても花が絶えない |
2010年 野草のような小さく可愛い花が供えられていた |
文学者、随筆家。本名パトリック・ラフカディオ・ハーン(Lafcadio
Hearn)。ヘルンとも。父はアイルランド人軍医、母はギリシャ人。ギリシア西岸のレフカダ島生まれ。「レフカダ」の地名がミドルネームの「ラフカディオ」になった。1歳半の時に父がインド赴任になり、アイルランドの父の実家に母と住むが、4歳で母は精神を病みギリシャに帰国、その後離婚する。1865年(15歳)、寄宿学校で遊具のロープがあたって左目を失明する。翌年、父はインドからの帰国途上で病死、ハーンを養育してくれた大叔母は破産する。極貧となって学業を続けられなくなり、1869年に19歳で移民船に乗って渡米し、23歳でオハイオ州シンシナティの新聞記者になる。翌年、黒人女性と結婚するが当時は黒人との結婚は違法であり、黒人牧師に式を挙げてもらった。この結婚が会社で問題になって解雇され、何度も勤務先を変え、3年後に離婚。28歳からニューオーリンズで記者として9年間働く。 1884年(34歳)、ニューオーリンズの万国博覧会で日本文化に触れ興味を抱く。 1890年(40歳)、ジャーナリストとして日本旅行記を書くために来日(明治23年)。日本文化に魅入られ、そのまま島根の松江中学で英語教師となり、出雲とギリシャが多神教の神話を持つことから風土にさらに関心を持つ。 1891(41歳)、身の回りを世話してくれた松江藩士の娘、小泉セツ(23歳、節子とも/1868-1932)と1月に結婚する。家族を養うため高給の仕事を探し、嘉納治五郎が校長をしていた熊本の第五高等学校(現熊本大学)講師になる。暮れに長男が誕生、後に三男まで授かる。 ハーンは仕事の合間に日本各地を渡り歩き、1894年(46歳)に日本を西洋に紹介した著作『知られざる日本の面影』を米国で出版。同年、神戸の英字新聞『クロニクル』紙に入社する。 1896年(46歳)、日本に帰化し、妻の姓を名乗り小泉家を継ぐ。“八雲”の名は古事記にあるスサノオノミコトの短歌「八雲立つ…」からきているが、八雲を音読みすると“ハウン”となり、ピッタリ彼の名前と重なる。同年、東大英文学部講師に招かれ7年間この職にいた(後任は漱石)。教え子に土井晩翠、上田敏。また、この年は『心』を執筆し、翌年に『仏の畑の落穂』を著すなど、日本の風土と精神の紹介に努める。 1904年、「雪女」「耳なし芳一」など民話を再編した『怪談』を米国で刊行し、物語作者としての才能も発揮。余分な修飾を極力削ぎ落とした文体が米国で評価された。若い頃に左目を失明した彼は、後年右目の視力も低下したことから、盲目の僧・耳なし芳一の説話に深く感銘を受け、『怪談』の執筆中は芳一になりきっていたという。 4月から早稲田大学(当時東京専門学校)講師に就くが、9月26日に狭心症で妻に看取られながら亡くなった。享年54歳。 墓所は東京の雑司ヶ谷霊園。島根県松江市に「小泉八雲記念館」と旧居があり、記念館の入口脇に遺髪塔が建つ。1971年に三男のアトリエで見つかった遺髪が納められている。 浴衣を着て書斎で静かに蝉の声を聞くのが好きだったハーン。夜風に揺れる竹やぶの葉擦れの音を聞いて「聞こえますか。あれ、平家が沈んでいきます」と妻に語るなど、繊細な八雲の心は日本人以上に日本の文化や自然を愛した。また、書斎の座布団の上で煙管(キセル)を吹かすのが大好きで、盆の火がなくなった時には愛蔵のホラ貝を吹いて夫人に知らせるという、茶目っ気もあった。物書きとして「原稿は9回書き直さなければまともにならない」という信条を持っていた。 ハーンが海外に向けて書いた日本についての紹介文は胸を打たれるものがあり、没後刊行された『神国日本 解明への一試論』から、西洋の花束と日本の生け花を比較した部分を抜粋。 「神々の国の首都」第20章 日本人は我々野蛮人とは違い、花を茎や枝から無残に切りはなして無意味な色のかたまりに作り上げたりはしない。そういうことをするには自然愛が強すぎる。彼等は花の自然な魅力がどれほどその配置や盛り上げ方、すなわち花が葉や茎に対する関係に負うところが多いかを充分心得ている。そこで彼等は優美な枝や茎をたった一本、自然が作り上げたままの姿で選び出す。 諸君(西洋人)はこういうものを見せられてもさっぱり分からないだろう。こういうものを理解することでは、そこいらのごく平凡な労働者と比べても、こちらはまだまだ野蛮人なのだ。だが、この素朴でささやかな展示会に大衆が興味を寄せるさまを不思議がっているうちに、諸君にもその魅力が次第に分かり始め、やがて悟入(ごにゅう)の喜びにひたる時が来るだろう。そして西洋人特有の優越感があっても、これまで西欧諸国で目にして来た花の展示の如きは、それら数本の素朴な若枝の自然な美しさと比べれば、ただもう醜怪なばかりだと分かって恥ずかしい思いをすることだろう。 更に花の後ろに立てられた白か水色の屏風がランプや提灯(ちょうちん)の明りに助けられて、どんなに効果を高めるかということにも気付くだろう。屏風はそれに映る植物の影の、えも言われぬ見事さを特に見せようという目的で置かれているからである。その上に映る枝や花の鮮明な影は、どんな西洋の装飾美術家も到底想像できないくらい美しい。 ●ハーン語録 「ニューオリンズにもこんな迷信がある。鶏が水を飲む。水を飲んでは上を向く。あれは神様に水を下さったお礼を申し上げてる、と言うんだ。科学的にはナンセンスだ。しかし、鶏を見て、ああ水を飲んでる、と思うだけの人間と、ああ神様に感謝していると思う人間と、どちらの心が本当の意味で豊かだろう」 「私は迷信を打ち壊すと、一緒に壊れる心もあると思っている。今のアメリカは科学と合理主義で荒れていく一方だ」 |
本名、島崎春樹。この寺墓地の住職の話では、藤村は火葬されず棺ごと土葬されたのだが、その後なぜか掘り出されて石棺に移され、今は地中に戻されずにそのまま写真のように置かれているのだという。地面の上に置かれたままなんて、ちょっとビックリ。 |
1999 | 2005 | とても繊細な印象を受ける筆跡だ |
東京出身。高校時代からフランス文学にしたしむ。19歳の時に、萩原朔太郎の『青猫』を読んだことがきっかけになり、文学の道を志すようになる。室生犀星を訪ね、さらに芥川竜之介と親交を結び、堀は両者を生涯の師とする。同年、震災で母を隅田川に亡くす「地震わが母を見わけぬ恨みかな」。この冬に肺を患い、以降亡くなるまで30年間も病と背中合わせに生きることになる。22歳、東大在学中に中野重治らと同人誌「驢馬(ろば)」を創刊、フランス現代文学の翻訳などを発表した。23歳の時に芥川が自殺し、全集の編纂に係わる。1930年(26歳)、コクトーやラディゲの影響を受けて書き、“まるで心の内側が肉眼で見えているようだ”と横光利一が評した『聖家族』を発表。鋭い心理描写によって文壇に認知される。
1934年(30歳)、高原の美しい自然を背景に、内面世界を巧みに描写した『美しい村』を刊行。前年に軽井沢で出会った矢野綾子と9月に婚約する。翌年7月、自分より症状の重い綾子に付き添って信州富士見のサナトリウム(療養所)に入院するが、5ヵ月後の12月に婚約者は亡くなった。堀はこの療養生活をもとにペンを握り、1938年(34歳)、徐々に重態になっていく恋人と、その死を見つめた恋愛小説『風立ちぬ』を完成する。堀は同作に「普通の人々がもう行き止まりだと信じているところから始まる」愛を描き込んだ。同年、三好達治らと詩雑誌『四季』を創刊し、若い立原道造らに影響を与える。またこの年に、綾子の死後に出会った女性と結婚している。翌年、堀が心から将来を期待していた立原が24歳で夭折する。1941年(37歳)、『菜穂子』を発表。以降は、肺結核が悪化し、毎春のように喀血を繰り返し、入院と安静の日々を病床に送った。1953年、軽井沢の自宅で夫人に看取られながら48歳の人生を終えた。
ゆっくりと衰弱していく婚約者の死を見届け、自らも長く病を患うことで、人一倍に“生”を深く見つめ、自己の存在を掘り下げた彼。その文体の静けさ、透明感。読んでいると自分の身体までが透き通っていく気がする。文字に触れるだけでこれほど清浄な波動が全身に満ちていく作家を他に知らない。墓石には自筆で名前が刻まれていた。それはまるで風にそよぐような細い文字だった。
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文壇を代表する趣味人 | 奇行で有名だった |
1991年 寂しい… | 2002年 今回は花が! | 2008年 お元気そうで何より | 2010年 墓域には3基並んでいる |
本名永井壮吉。号は断腸亭主人、金阜山人。“正義の宮殿にもおりおり鳥や鼠の糞が落ちていると同じく、悪徳の谷底には美しい人情の花と芳しい涙の果実が却って沢山に摘み集められるというものだ”(墨東綺譚※墨は“さんずい+墨”)。こういう視点から世間を捉えている荷風が僕は大好きだ。1903年(24歳)にアメリカに渡り、1907年(28歳)にフランスに渡るという、当時の日本では考えられないコスモポリタン(国際人)。荷風は西洋の猿真似に狂奔する近代日本を批判し続け、失われた江戸文化を熱愛した。荷風が40年間書き続けた“断腸亭日乗”(日記文学の傑作)には、戦時中にもかかわらず軍国主義を批判し、俗物的な人間をこき下ろした言葉が刻まれていた。 永井荷風日記『摘々録 断腸亭日乗』から。戦争に流されていく日本人の負の特性を鋭く言い当てている。※カッコ内は僕。 昭和十六年六月十五日「日支今回の戦争(日中戦争)は日本軍の張作霖暗殺及ぴ満洲侵略に始まる。日本軍は暴支膺懲(ようちょう/意味は野蛮な中国を“こらしめる”)と称して支那の領土を侵略し始めしが、長期戦争に窮し果て俄(にわか)に名目を変じて聖戦と称する無意味の語を用ひ出したり。欧洲戦乱以後、英軍振はざるに乗じ、日本政府は独伊の旗下に随従し南洋進出を企図するに至れるなり。然(しか)れどもこれは無智の軍人等及猛悪なる壮士等の企るところにして一般人民のよろこぶところに非らず。国民一般の政府の命令に服従して南京米(外米の通称)を喰ひて不平を言はざるは恐怖の結果なり。麻布聯隊叛乱(二・二六事件)の状を見て恐怖せし結果なり。今日にて忠孝を看板にし新政府の気に入るやうにして一稼(もうけ)なさむと焦慮するがためなり。元来日本人には理想なく強きものに従ひ、その日その日を気楽に送ることを第一となすなり。今回の政治革新も戊辰の革命も一般の人民に取りては何らの差別もなし。欧羅巴(ヨーロッパ)の天地に戦争やむ暁には日本の社会状態もまた自ら変転すべし。今日は将来を予言すべき時にあらず。」(断腸亭日記) 憲兵が目を光らせている中でこんなことを書いた作家を荷風の他に知らない。良家に生まれ当代きっての趣味人と言われた荷風だが、晩年は非常に孤独で、誰にも看取られず吐血し、スーツ姿にマフラーという外出姿のまま死亡しているのを、翌日お手伝いさんに発見されるという野垂れ死に同然のものだった。 |
浄閑寺(投げ込み寺)の山門 |
新吉原総霊塔。正面の石板には「生まれては苦界、 死しては浄閑寺」という花又花酔の川柳が刻まれていた |
新吉原総霊塔の前には永井荷風の文学碑がある。 この場所に作られたことに胸が熱くなった |
荒川区南千住の浄閑寺に荷風の文学碑が立つ。江戸時代、身寄りのない吉原の遊女が病死すると、この寺の門前に打ち捨てられた。江戸後期の“安政の大地震”の際には、多数の遊女の亡骸が投げ込まれたことから「投げ込み寺」と呼ばれている。寺の墓地には新吉原総霊塔があり、塔の下に無数の白い骨壺が納められている。寺の方の話では「一壺に数十〜数百人分の骨が入っており全部で2万人にのぼる」とのこと。衝撃的だった。故郷に帰ることが出来なかった彼女達の悲しみを思い言葉を失った。この新吉原総霊塔の前にあるのが荷風の文学碑だ。彼は悲しい運命を背負った遊女達に心から同情を示し、生前にこの寺を何度も訪れていた。他のどの作家でもなく、荷風だからこそ、文学碑という形で彼女達を側で見守っている姿に胸を打つものがあった。(もともとは総霊塔の側に墓を建てるつもりで土地を購入したという) |
本名満寿二。釣り好きだったので筆名を鱒二に。広島県出身。28歳、親友の死の悲しみを『鯉』に刻む。1929年(31歳)、『山椒魚』を発表し、独特のユーモアを込めて生命の悲哀を語り注目を受ける。31歳、叙情的な『屋根の上のサワン』を執筆。39歳には『ジョン万次郎漂流記』で直木賞を受賞した。43歳、陸軍に徴用されてタイ、シンガポールに従軍。戦後は、人情物語『本日休診』(51歳)、戦争犠牲者としての復員兵を描いた『遥拝隊長』(52歳)を発表。1966年(68歳)、庶民の視線で原爆の悲劇をとらえた『黒い雨』を刊行し、文化勲章を受章する。95歳まで生き、肺炎で没する。
井伏が中学生だったころ、鴎外は毎日新聞に歴史小説を連載していた。彼は目ざとく史実との違いを見つけ指摘し、まんまと鴎外から直筆の返事をもらった。井伏は後年、“あれは生涯で最大の悪戯だった”と後述している。鴎外を誰よりも愛していた彼のこのエピソードは、僕の大好きな話だ。 井伏は太宰が最も慕っていた作家としても知られている。井伏文学には、はにかみと哀しみが多分に漂っており、それが太宰の文学と底でつながっていたからだと思う(井伏は太宰の葬式で葬儀委員長を務めた。当時49歳)。わずか10ページの小品『山椒魚』。学生の頃は特に何の感慨もなく読み飛ばしていたが、三十路になって読み返した時、最後の「今でも別にお前のことを怒ってはいないんだ」にむせび泣いた。 |
日本文学史上、原稿料だけ で生計をたてた最初の人物 |
代表作『東海道中膝栗毛』の弥次喜多像。 旅のゴール、京都三条大橋の側に建つ |
東陽院の門前に立つ「東海道中膝栗毛作者 十返舎一九」の石碑 | 敷地が狭いため、なんと2階が墓地になっている! |
2001 屋内の墓地は初めてでビックリ | 2009 8年ぶりに再巡礼 | 元々浅草にあったお寺。関東大震災で被害を受け移転 |
まず1階でお寺の人に挨拶をしてから、2階へ上がらせて頂く。 一九の墓は墓所の入口を入ってすぐ左手! |
本名は「重田」さん。中央の熊手の絵は “知識を掻き集めた”という意味 |
墓石側面に辞世の句が刻まれ、解説の立札もある 『此(こ)の世をば どりゃお暇(いとま)に 線香の 煙と共に 灰左様なら(ハイさようなら)』を |
いやはや、驚いた。この墓地はお寺の2階にあったのだ!1階には普通に人が住んでいた。屋内の、しかも2階の墓地なんてビックリ仰天。十返舎一九の墓には熊手と宝珠の絵が彫られている。知識を掻き集めたことから熊手をトレードマークに選んだとのこと。墓石の側面には辞世の言葉が彫られていて、これがもう、肩の力を抜いた茶目っ気たっぷりなもので最高にカッコ良かった! 『此(こ)の世をば どりゃお暇(いとま)に 線香の 煙と共に 灰左様なら(ハイさようなら)』 1765年、現在の静岡市に生まれた一九(本名・重田貞一)は、江戸→大阪→江戸と奉公先を転々とする。30歳の時に奉公していた江戸の製本屋で、彼の文才に気付いた店主に勧められ執筆活動を開始。毎年20作ほど書きまくってる内に、“弥次・喜多”というデコボコ・コンビが江戸から伊勢に至る珍道中を描いた『東海道中膝栗毛(ひざくりげ)』が空前のベストセラーとなる。時に一九、37歳。20代の頃に東海道を往復した体験が作品に活かされたのだ。 『東海道中膝栗毛』がブレイクしたのは、「弥次さん喜多さん」という主役の2人が、旅先で次々と巻き起こすトンマな騒動が面白いだけでなく、各地の名景や特産品、方言等の風俗が、実に鮮烈かつ詳細に書き込まれており、“そこを訪れたらこれを食べなきゃ始まらない”といった旅行ガイドブックとしての実用性があったからだ(元祖“地球の歩き方”というところか)。 当時は庶民階層にも、ようやく経済的なゆとりが少しずつ生まれ、寺社参りなど“旅”が娯楽の一部になり始めていて、そんな時代背景も一九に味方した。ユーモラスな失敗談の間に“安倍川餅”“ういろう餅”など、具体的に未知の情報が挿入される“膝栗毛”は、大いに庶民の好奇心をくすぐった。 弥次喜多の2人は自分たちのドジを笑い飛ばしながら、底抜けの脳天気さで、明るく愉快に旅を続けて行く。旅を楽しくする最大の秘訣は、どんな事態に遭遇しても常に“陽気であり続ける”ことだ。ぶっちゃけ、それ以外のことはたいして重要ではない。そこがちゃんと描かれているのがいい。 風刺描写なども大衆に受け、調子に乗った一九は“膝栗毛”の2年後に、秀吉をヘビ、信長をナメクジにたとえた『化物太平記』を書き上げるが、これは“武士階級を侮辱し過ぎ”と幕府を激怒させ、50日間の手鎖(手錠)生活、出版元は罰金、作品絶版という刑をくらった。しかし、これは逆に庶民の一九人気をさらに高めるものとなり、膝栗毛シリーズは続編に続編を重ね、21年に渡る超ロング・シリーズとなった。 (ちなみに弥次喜多は一九の死後も他の作家の手で旅を続け、明治に書かれた“西洋道中膝栗毛”では、ついにロンドンの万国博覧会まで2人は見てくることに…) 晩年の一九は長年の深酒がたたって体がボロボロになり、1831年、66歳で生を終えた。遺言は「死後は体を洗わず、着物を替えるな。必ず火葬にしろ」。弟子たちが遺言を守って火葬にすると、一九が着物の中に隠していた花火が打ち上がったという(笑)。 生涯に残した著作は約580作。これは、江戸時代の作家としては最大の作品量である。 ※花火のエピソードは、江戸の落語家・初代林家正蔵(1781-1842)の創作説(ウィキ)のほかに、宮武外骨が「江戸時代の落語家・林家六助が葬儀でやったことが一九にすり替わった」と書き残しているという。この林家六助の生没年を調べてみたが出てこず。何がどうなっているのやら…。 |
約470作品も執筆! | 茗荷坂に面したこの樹木の奥が深光寺 | 馬琴の墓は本堂の手前左側 |
発巡礼時(2000) | 10年後。ほとんど変化なし。戒名は著作堂隠誉蓑笠居士(2010) |
馬琴の墓の左側の道を入っていくと… | 息子の嫁・お路さんの墓がある |
馬琴生誕の地(江東区深川老人福祉センター前) | 生誕地には里見八犬伝全106巻が積み上げられている!(2010) |
200作以上も書き上げ江戸文壇の頂点を極めた男。本名、滝沢興邦(おきくに)。号は曲亭馬琴。「滝沢馬琴」の名は明治以降の表記であり、馬琴自身は「曲亭」を使っていた。江戸深川出身。下級武士の5男として生まれる。9歳で父を亡くしてから一家は窮乏し、馬琴は様々な仕事と放浪を経る。俳諧が好きで文に親しんでいたこともあり、1790年(23歳)、酒一樽を持って6歳年上の流行作家・山東京伝の門を叩く。京伝は「古今、戯作者に師というものはないから弟子にすることは断るが、作品は見てあげよう」と、色々アドバイスを与えた。翌年、24歳で処女作『尽用而二分(つかいはたしてにぶ)狂言』を出版。その直後、京伝は吉原を舞台にした自作が寛政の改革の出版統制に引っかかり、“風紀を乱した”罪によって手鎖50日間の刑を受ける。馬琴はすっかり無気力になった京伝の代作をしたり、版元の蔦屋重三郎の仕事を手伝いつつ、自身の著作活動を続けた。 馬琴の作品は誰でも分かりやすい因果応報・勧善懲悪をベースにしながらも、ドラマ性に富んだ斬新で複雑なストーリー展開により、江戸っ子の心を捉えていく。従来の作家にはない“読み応え”が、新作を待ち望む熱狂的なファンを生み、30代半ばには名声を確立した。一方、鰻上りの馬琴の人気を京伝は嫉妬し、両者は袂を分かつ。 1814年(47歳)、“読本(よみほん、歴史小説)こそが自分の本領で、草双紙(くさぞうし、絵入り本)は生活の為”とかねてから思っていた馬琴は、ライフワークとなる大長編『南総里見八犬伝』を執筆開始。里見家の興亡と八犬士の波乱万丈の活躍を描いた本作は、中国の『水滸伝』を目標に馬琴が全身全霊を注ぎ込んで書き続けたもの。晩年、視力を失い妻子にも先立たれた馬琴は、『八犬伝』を完成させる為に、息子の嫁で文盲のお路に字を教えながら口述筆記させ、執念でこの江戸文学の記念碑を完成に漕ぎ着けた。『八犬伝』は脱稿までに28年を要し、全106巻という空前のスケールとなり、日本古典文学最長の名を欲しいままにしている。読本、黄表紙、随筆など生涯に表した著作は実に約470作品! ●墓巡礼記 深光寺は住宅地の中にあり若干分り難かったが、馬琴の墓自体は本堂の前にありすぐに見つかった。戒名は著作堂隠誉蓑笠居士。同墓地にはお路さんも眠っている。『南総里見八犬伝』が無事に完結したのは彼女の献身的な協力のおかげ!僕はたっぷりとお路さんの労をねぎらった。 ※馬琴の日記には物価や流行など生活一般が詳細に描写されており、当時の貴重な資料になっている。ちなみに馬琴は十返舎一九の2歳年下。 ※号の曲亭馬琴の発音は「くるわでまこと」(廓で誠)とも読める。遊廓で誠実に遊女に尽くす男というギャグだ。 |
聖イグナチオ教会は四ッ谷の上智大学の隣り |
礼拝堂はいつも静けさを保っている |
クリプタ(地下納骨堂)入口。 9時から16時まで入られる |
中に地図がある。Lを目指す | 遠藤さんはこのラインの「560-5」 | 「見つけたよ!560-5って書いてある!」 |
一番下の段に眠っておられました | 小さく「560-5」と番号がある | 奥様はマリア、先生はパウロ |
2003 | 2006 |
国内でカトリック教徒専用の墓地に訪れたのはこれが 初めて。遠藤氏の墓石には十字架が刻まれていた |
3年後に墓参して驚く。以前あったお墓の左後方の 樹木と、右前方の植木が消え、スッキリとしていた |
同墓地内には神父の墓が埋葬された一角がある。 戦前の古い墓(1924年など)もあり、神父たちの 人生の重みを感じた。異国の地でいま何を思う? |
人物彫刻が点在し、墓地内を歩いている と、海外の墓地にいる錯覚に襲われた。 そこが日本国内だと思えなかった |
墓地の中心にあったのが、このピエタ像。十字架から 降ろされた直後のキリストと彼を抱くマリアの姿だ。 キリスト教徒でなくても、深く胸を打つものがあった |
雅号は狐狸庵山人(こりあんさんじん)。32歳の時に『白い人』で芥川賞を受賞。幼児期にカトリックの洗礼を受け、信者として日本のキリスト教史を追究。43歳で『沈黙』(1966)を発表する。 遠藤には宗教色の濃い、というより宗教そのものがテーマとなった作品が多い。僕は若い頃、苦しむ者を「見守るだけ」の神に憤りを感じ、なぜキリスト者はそれでも神を信じるのか、と理解できないでいた。小説『沈黙』には1つの答えがあった。踏み絵のキリストは語りかける「踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ」--神を疑う自分の弱さを恐れていた伝道師は、踏み絵を踏むことによって、それでも神に赦され、愛されていることを理解する。「見守るだけ」なのではなく「共に苦しんでいる」神を知ることで信仰がより深まる。思わず目からうろこが落ちた。文化勲章受章。享年73歳。 お墓は円谷英二監督と同じカトリック府中墓地にあったが、2015年に都心の聖イグナチオ教会・地下納骨堂に改葬された。 |
本堂の近くに眠っている | 娘婿は幕医だった | 右端に「忠庵浄光先生」 |
ポルトガル人の司祭・神学者。29歳のときに来日、イエズス会の指導者として布教活動を行い欧州まで名が轟いた。キリシタン弾圧により53歳で捕縛され、5時間に及ぶ苛酷な拷問に耐えきれず棄教する(この時、中浦ジュリアン神父@天正遣欧少年使節は殉教)。その後、「沢野忠庵」の名を与えられ、日本の女性と結婚。フェレイラが殉教せず棄教を選んだことは当時のキリスト教社会に衝撃を与えた。江戸にて70歳で他界。墓所は谷中の瑞輪寺。娘婿で幕医の杉本忠恵の代々墓に合葬。1977年に駐日イタリア大使が墓誌を建てている。 ※ちなみに「神父」は「司祭」の敬称。 |
伝通院の端っこにひっそりたたずむ | 宣教師が帽子を被っているようだ | 駐日イタリア大使から! |
イタリア人宣教師。『沈黙』の主人公ロドリゴ司祭のモデル。作中ではフェレイラの弟子。棄教した宣教師仲間を救うべく密入国するも捕縛、激しい拷問を受け浄土宗に“転ぶ”。殉教した武士の後家を幕命で妻とすると共に、その男の「岡本三右衛門」の名を与えられた(妻の夫とは別人という説もある)。1646年から江戸小石川(文京区小日向)の切支丹屋敷に39年間も幽閉され(同屋敷の最初の幽閉者)、隠れキリシタンの吟味に協力、そのまま83歳で生涯を終えた。 小石川無量院に葬られたが廃寺となったため、墓石は雑司ヶ谷霊園に移され、そこから子孫のイタリア人持ち去った後、調布のサレジオ神学院に移された。一方、遺骨は最初の埋葬地にあると思われ、付近の小石川伝通院に「ジョセフ岡本三衛門」の名で供養碑が建立された。宣教師の帽子を被ったような墓になっている。墓碑銘は「入専浄真信士霊位、貞享二乙丑年七月廿五日」。 |
切支丹屋敷の跡地にマンションが建ち、 道路側に説明板と屋敷見取り図がある |
向かいの会社「映像新聞」の前には 屋敷発掘調査の際の新聞記事が掲示され→ |
「都旧跡 切支丹屋敷跡」の石碑、洋風の石碑、 そして殉教者の小さな墓が並んでいる |
イタリア人司祭。“最後の宣教師”。『沈黙』の神父ではないが切支丹屋敷の最終入牢者として有名。1708年に40歳で日本に潜入、捕縛される。新井白石の尽力もあり、「布教しないこと」を条件に助命され、切支丹屋敷に送られた(最初に入牢したキアラ司祭から62年後)。だが、6年後に監視役の世話係2人がシドッティから洗礼を受けたことが発覚し、屋敷内の地下牢に3人とも入れられ、10ヶ月後に衰弱死した。享年46歳。シドッティの死の10年に切支丹屋敷は火災で焼失。そして没後300年となる2014年に切支丹屋敷跡地を発掘した結果、3体の遺骨が発掘され、DNAから1体がイタリア系男性と判明、年代からシドッティと確定した。残りの日本人2体は例の世話係と思われる。 切支丹屋敷跡地には洋墓風の記念碑があり、僕はこの石をシドッティの墓と見立てて追悼。隣りには、拷問で殉教した信者の墓石と伝わる「八兵衛石」が現存する。 |
東京生まれ。本名は龍雄(たつお)。実業家の渋沢栄一は親類。少年期は「病気の問屋さん」とあだ名が付くほど病弱で、成長後も色白で小柄、優形だった。25歳で東大仏文科を卒業、卒論は「サドの現在性」。1954年(26歳)、10代後半から耽溺していたコクトーの翻訳を手がけ『大股びらき』を刊行。27歳、マルキ・ド・サドの『恋の駆け引き』を翻訳。以後、本格的にサドの研究と翻訳に力を注ぎ、続々とサド関連の著作物を刊行する。しかし、1960年(32歳)、前年に発表した『悪徳の栄え』の翻訳が、猥褻文書販売同目的所持の容疑で発禁処分となってしまう。翌年、東京地検により起訴。以後、10年間にわたって言論・表現の自由を巡る「サド裁判」が繰り広げられる。弁護側には、遠藤周作、大岡昇平、吉本隆明、大江健三郎、三島由紀夫らが名を連ねた。一審は無罪だったが二審で逆転敗訴し、最高裁に上告が棄却され、1969年に有罪が確定した(七万円の罰金)。
この裁判の間も1961(33歳)に傑作オカルト本『黒魔術の手帖』、35歳『毒薬の手帖』、36歳『世界悪女物語』、39歳『異端の肖像』など、人間精神のダークサイドを客観的かつ知的な筆先でとらえた作品を次々と刊行する。40歳、雑誌「血と薔薇」を創刊。続けて、1977年(49歳)『思想の紋章学』『東西不思議物語』、50歳『スクリーンの夢魔』『幻想博物誌』、51歳『悪魔の中世』、53歳『唐草物語』(泉鏡花賞)などで、怪奇、幻想、官能的な美への追求をさらに推し進め、独特の澁澤ワールドを築き上げる。1986年(58歳)、喉が慢性の炎症と診断され声帯を切除される。翌年、8月3日に頚動脈癌が発見され、その2日後に突然の頚動脈癌破裂により絶命。死後『高丘親王航海記』が刊行され読売文学賞を受賞した。それから5年を経て全22巻(別巻2巻)に及ぶ『澁澤龍彦全集』が刊行される(1993年)。
澁澤は古代ギリシャ語、ラテン語、独語、伊語に親しみ、世界中の奇書を内部に吸収した。その博識さは他に肩を並べる者がいない。一方、線の細さから受けるイメージとは裏腹に、澁澤は大変な酒豪で、酔えばバイオレンス爆発だったという。裁判所にもパイプを吹かしながら悠々と遅刻して登場したり、あるいは無断で欠席したりと、かなり心臓に毛が生えていたようだ。三島由紀夫、唐十郎、池田満寿夫、土方巽らから“大兄”と呼ばれて慕われたのは、その奔放で破天荒な人間的魅力にあったのだろう。
澁澤の墓石を見た時に「石はいわば永遠に時間に汚染されない純粋な物質、超時間性あるいは無時間性のシンボルなのだ」(『思考の紋章学』)を思い出した。墓石から永遠に続く時間を感じた。渋澤は理想の死を火山弾に当たって倒れた古代ローマの博物学者プリニウスに見ていたが、彼の最期は動脈破裂と即死に近く、その意味で願い通りの死だったといえる。ただ、59歳という享年はあまりに早い。澁澤は21世紀に入ってますます読者を増やしている。
※僕は「サド裁判」で彼を有罪にした裁判官に、世紀末美術の画家エゴン・シーレの言葉「芸術作品にはひとつとして猥褻なものはないのだ。それが猥褻になるのは、それを見る人間が猥褻な場合だけだ」を叩き付けたい。
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「深見進介は、自分の身体が熱く涙で濡れ、その頬が涙で輝くように洗われた後の、心の中一杯にふくれ上がって来た苦しみが一度彼の心の窪みに収められて、しかも溢れ出る涙は止まりながらも心の周囲にまだ涙のうるみのあるというような、いよいよ鮮やかに苦悩ばかりが集まったという精神の状態にある時、彼は改めてあの百姓ブリューゲルの絵に面し直したのである」(『暗い絵』)
野間の文体は、カンバス上に絵の具を入念に塗り重ねていく過程を見ていくようで、その緻密さに息が出来なくなる。が、読み進むうちに、この緊張感こそが魅力になっていくのだから不思議だ。
神戸生まれ。11歳で父を亡くす。高校時代から同人誌にフランス象徴詩風の詩を発表し、京大では愛読するジードの影響でマルクス主義に接する。1941年(26歳)、補充兵として召集されフィリピン戦線に出征。翌々年、治安維持法で摘発され思想犯として大阪陸軍刑務所に半年間投獄される(1943年)。敗戦の翌年、戦前に反戦を叫びながら獄死していった若者たちを描いた処女作『暗い絵』を発表(31歳)。本作は戦後文学の第一声と位置づけられ、文壇で大いに脚光を浴びる。 「そう、彼は決行するだろう。そしてすぐに逮捕されるだろう。ただ旗を揚げ、旗の位置を示すだけで。そう、それは決して成功しやしない。そして木山はそのことをよく知っている。それを知りながら俺の許(もと)を去って行く。永杉や羽山の許へ行くために。あの偉大な自己、偉大な仕事、偉大な学問の確立の野心に充ちた、そして苦しみに貫かれながら将来を目指して一歩一歩進んでいた木山省吾が、俺から去って行く。」(『暗い絵』から。木山は主人公の大親友。思想犯として獄死した友人、永杉、羽山の弔い合戦として、木山は反戦ビラを撒き逮捕され、彼もまた獄死する) 33歳の時に、安部公房、埴谷雄高らと「夜の会」を結成。1952年、37歳で発表した初の長編『真空地帯』は、軍隊内部の腐敗、兵営(内務班)の非人間性を、軍機構の末端から暴くことで軍国主義を批判し、社会に衝撃を与えた。 「たしかに兵営には空気がないのだ。それは強力な力によってとりさられている。いやそれは真空管というよりも、むしろ真空管をこさえあげるところだ。真空地帯だ。ひとはそのなかで、ある一定の自然と社会とをうばいとられて、ついには兵隊になる」(『真空地帯』)。 その後も人間を、生理、心理、社会の3方向から総合的に捉える全体小説を試み、1971年(56歳)には23年という執筆期間を経て「青年の環(わ)」全6部を完成させる。アジア・アフリカ作家会議の一員としても積極的に活動し、民主主義文学の代表的存在として生を終えた。 野間の父親は親鸞の教えを広める仏教一派を興した教祖。その影響もあり、野間が心酔した親鸞の墓所・東大谷祖廟に近い墓地に、2万基を超える信者の墓と共にある。山の斜面に建つため、墓前からは都市内を一望できる。 ※野間が南方戦線で戦闘時や行軍中に頭に浮かんだのは、ドストエフスキー『罪と罰』のソーニャの愛。人類としての気高い思想だけが、地獄に身を置く兵士としての苦悩を受け止めてくれたと言う。 ※野間は反戦文学の雄、大岡昇平の6歳年下。 |
大谷墓地は西大谷の北門を右折して歩き始めるとすぐに見えてくる。司馬のお墓は親鸞上人が眠る御廟の裏手にあり、少しでも親鸞の側で眠りたいと思う真宗の門徒にとっては夢のような場所だ。ただし、付近には多数のお墓があるうえ、墓石の正面には「南無阿弥陀仏」としか彫られていないので、墓参には少し時間を要するかもしれない。周辺の目印(1)一段下がった墓域にある(2)近くにてっぺんがドーム型の巨大な石塔がある(3)その石塔の裏に門徒宗の墓がズラリと並び、この少し先に司馬の墓がある。※南谷1段中部264−1号地。 |
本名福田定一(ていいち)、大阪生まれ。ペンネームは、権力に逆らってでも歴史の真実を記そうとした『史記』の著者、前漢の司馬遷に敬意を払い、司馬遷に遼(はるか)に及ばずという意で司馬遼太郎とした。大阪外大で蒙古語を専攻し、1943年(20歳)、学徒出陣で中国に出征。戦車隊士官として22歳で敗戦を迎える。満州で大陸的な広い世界観を育んだ司馬は、戦争で荒廃した国土を前に立ちすくむ。「日本人はいつからこんなに馬鹿になったのだろう。いったい誰が国家をめちゃくちゃにし、こんなにつまらない民族にしてしまったのか。ここから私の小説は始まった」。1956年(33歳)、新聞社に勤務する傍ら執筆していた小説『ペルシャの幻術師』が第8回講談倶楽部賞を受賞。1959年(36歳)、忍者小説『梟の城』が直木賞に輝くと、これを機に退職し本格的に執筆生活に入った。 司馬は幕末から明治初期に活躍したエネルギッシュな若者たちを漢(おとこ)と呼び好んで描いた。それは「果たしてこれが同一の国だろうか」「こんなのは日本ではないと灰皿を叩きつけたくなった」(『この国のかたち』)と後に痛嘆することになる、大正、昭和という暗い時代への反動からだ。 日本の近代史を司馬はこう見る--「日露戦争の勝利が、日本をして遅まきの帝国主義という重病患者にさせた。泥くさい軍国主義も体験した。それらの体験と失敗のあげくに太平洋戦争という、日露戦争の勝利の勘定書というべきものがやってきた」「日露戦争の勝利が日本と日本人を調子狂いにさせた」。 大正期に入って日本が行なった中国への21ヶ条要求と、シベリア出兵については「他国とその国の人々についての無神経な感覚」と怒り、「わずかに残っていた日本の心のマシな部分を甚だしく腐食させた。この種の腐食こそ国家の滅亡につながることを、当時の“愛国者”たちは気づかなかった」とした。そして「(昭和元年から20年までは)武力と警察力、それに宣伝力で幕末の人や明治人が作った国家を粉々に潰した」と嘆く。「(ロシアから満州を勝ち取り)ガラにもなく、“植民地”を持つことによって、それに見合う規模の陸海軍を持たざるを得なくなった。“領土”と分不相応の大柄な軍隊を持った為に、政治までが変質していった。その総決算の一つが、“満州”の大瓦解だった。この悲劇は、教訓として永久に忘れるべきではない」(『ロシアについて、北方の原型』)とも。 昭和初期の指導者を「手の付けようのない侵略妄想の権力集団」とした司馬の憤怒は並大抵ではない。戦車隊にいた司馬は、攻撃力がなく(砲身短すぎ)、防御力もない(装甲薄すぎ)、世界最弱クラスの戦車の中から、軍部の視野の狭さを痛感した。極端に薄い装甲について参謀本部の見解は「防御鋼板の薄さは“大和魂”でおぎなう」というもの。こうした精神論中心の非合理性は明治初期には無かったものだ。司馬は当時の状況をこう刻む-- 「政治好きで気違いそのままの政治的空気をもった陸軍軍人は、参謀本部に集まっていた。日本は超一流の軍事国家だと思っているこの連中が、この戦車(の採用)を決めたのである。(略)むろんそれでも悪くはなかった。戦前の日本が専守防衛の非侵略国家でゆくという建前ならばである。ところが手の付けようのない侵略妄想のこの権力集団が、いざ兵器となると、技術本部を脅し上げてまで自己の卑小を守り続けたのは、財政の窮屈さという束縛があったからだというものではなく、元々この権力集団がいかに気が小さく、貧乏くさく、『国際的水準』という眩しい白日(はくじつ)の下の比較市場に自己を晒し出すことが恐ろしく、むしろ極東の片隅で卑小な兵器をコソコソと作ってそれを重々しく『軍事機密』にして世界に知られないようにするという才覚の方へ逃げ込んだと見る方が、当時の日本国家の指導者心理を見る上で当たっているように思える」。 「常識ではとても理解できないような精神の持ち主が、国中が冷静を欠いた状態にある時には出てくるものである。また権力の実際的な中枢にいる者の頭も変になり、変にならねばその要職に就くことができない。また要職に就けばいっそう変にならねば部内の人気が得られない。(略)あの当時の変な加減というのは狐狸(こり)妖怪が自分で自分を騙しつつ踊り回っているようで、冷静な後世の常識では到底信じ難いことが多いのである」。 このように昭和の世に暗黒を見た司馬は、活力のあった明治初期に光を見出し、新世界を創り上げた維新の立役者たちに熱い視線を注ぎ始め、矢継ぎ早に歴史小説を生み出していった。主な作品は、新選組を描いた『燃えよ剣』(41歳)、竜馬の生き様を描いた『竜馬がゆく』、斎藤道三を見つめた『国盗り物語』、『関ヶ原』(全て43歳)、乃木希典を語った『殉死』(44歳)、河井継之助が主人公の『峠』(45歳)、吉田松陰と高杉晋作を描いた『世に棲む日々』(48歳)、日清・日露戦争を描いた『坂の上の雲』、大村益次郎が主人公の『花神』(共に49歳)、『空海の風景』(52歳)、西郷隆盛を描いた『翔ぶが如く』(53歳)、中国を舞台にした『項羽と劉邦』(57歳)、若者に向けた『21世紀に生きる君たちへ』(66歳)、『民族の原像、国家のかたち』(69歳)等々。また、歴史紀行として『街道をゆく』が1971年から没年まで25年間連載されたことも付け加えておく。 こうした歴史小説は従来ありがちだった武勇伝や単なる英雄譚ではなく、人道主義に立つ歴史分析と鋭い文明批判、近代日本社会批判に貫かれており、菊池寛賞、吉川英治文学賞、芸術院恩賜賞など数々の賞を受賞、1993年(70歳)には文化勲章も受章している。 1996年、腹部大動脈瘤破裂のため急逝。享年72歳。司馬が好んでいた菜の花に因み、命日は「菜の花忌」と呼ばれている。 多作だった司馬だが、最後まで「昭和」を題材に小説を書かなかった。否、書けなかった。40代、50代はあれほど精力的に作品を発表してきたのに、晩年はエッセイや批評ばかりになった。実はその裏で1939年にロシアとの戦いで1万人以上の死者を出したノモンハン事件の取材を15年以上も続けていたが、それはついに形にはならなかった。「昭和という時代は精神衛生に悪い時代。発狂状態になってしまう。内臓がズタズタになって死んでしまう」「昭和は思いが重くて、嫌な事が多くて、書けない」。あの司馬をして一文字も書けなかったほど、昭和の闇はあまりに暗かったのか。「教科書に嘘を書く国、特にごく近代のことをすり替えた修辞で書く国は、やがて潰れます」と晩年に残した。 ※近年、司馬はいわゆる左右の思想家から同時に愛されている珍現象が起きている。「つくる会」の藤岡信勝は、日本人の美徳を描いた司馬を真の愛国者として持ち上げており、一方で護憲の立場をとる井上ひさしや大江健三郎は、司馬が「戦後憲法は個人を創りだしてくれた」と賛美していることから、護憲の象徴として紹介している。中国や朝鮮をこよなく愛し、先の戦争を完全に否定している司馬は、「つくる会」のいう自虐史観そのものだと思うんだけど、それは「健康なナショナリズム」(?)となるらしい。とにかく、司馬は現代日本人の歴史観の基本を作った重要な一人であることは間違いない。 2001年11月、没後5年を経て、東大阪市の自宅の横に安藤忠雄の設計による司馬遼太郎記念館が開館した。高さ11mという巨大な書架には司馬の蔵書2万冊が収められている(しかしこれで驚いてはいけない。自宅には4万冊の蔵書があったという)。これら膨大な資料文献を基に、入念に時代考証を重ねて執筆された司馬作品。そのリアリティは、歴史を素材として司馬が考えたフィクションが、「史実」として一人歩きするほどだ。『竜馬がゆく』のセリフを全部竜馬本人が言ったことだと思っている読者も少なくない。この為、司馬を批判する歴史家は「史実と違う」「通説ではない」と主張するが、氏の作品はあくまでも「小説」なのだ。学術書でも伝記でもない。そこを誤解して非難するのは論点がズレている。これは吉川英治の宮本武蔵を批判する歴史家にも言えること。なまじ文献を調べ込んでいるだけに、「歴史書」として見られてしまうが、あくまでも「史実に基づいたドラマ」なのだ。大切な事は竜馬が「言った」「言ってない」ではなく、竜馬の魂が描かれているかどうかだ。そして多くの人々が「描ききった」と感じていることに議論の余地はないだろう。作品の行間から、今まさに竜馬が立ち上がらんとする興奮。これは無味乾燥な研究書では感じられないことだ。 司馬作品は生前に1億部以上も読まれただけでなく、死後も約10年で既に2千万部以上も売れており、現役作家を凌ぐほどの人気を持ち続けている。これは今の閉塞した時代の中で、登場人物たちの爽やかさと、逆境をものともしない信念の強さが、読者の心を揺り動かすからだろう。著者が主人公に向ける眼差しに優しさがあり、それが読み手に共感として伝わってくるのもいい。司馬が歴史を語るまで、日本史は年表を暗記する為のものだった。臨場感の溢れる描写は、読者に歴史的瞬間に立ち会う感動を教えてくれた。イキイキとした文体で志士や戦国大名を描き、それまで教科書の中に閉じこもっていた人物が、突如として目の前で息づき出す。時空を超えて心臓の鼓動が伝わり、人々は現在の自分と過去の人間が繋がっていることを実感した。歴史をただの知識とせず、先人の生きる姿勢を通して人間賛歌としたのだ。素晴らしい。 ※三島由紀夫自決の際、司馬遼太郎は痛烈な批判文を寄稿した(毎日新聞)。「この死に接して精神異常者が異常を発し、かれの死の薄よごれた模倣をするのではないかということをおそれ、ただそれだけの理由のために書く」。 ※司馬遼太郎の東條英機評は「集団的政治発狂組合の事務局長のような人」とかなり手厳しい。
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(優しさは)本能ではない。だから私達は訓練をしてそれを身につけねばならないのである。その訓練とは簡単なことである。例えば、友達が転ぶ。ああ痛かったろうな、と感じる気持を、そのつど自分の中で作り上げていきさえすればよい。自分に厳しく、相手には優しく。いたわり。それらを訓練する。訓練することで自己が確立されてゆくのである。以上のことは、いつの時代になっても、人間が生きていくうえで、欠かすことができない心構えというものである。(司馬遼太郎) |
「肉親であれ、他人であれ、自然死であれ、不自然死であれ、死と出会うことで心に年輪がきざみこまれるものである」(『破れた繭/耳の物語』)。酒造メーカーのコピーライターから芥川賞作家となり、ベトナムに飛び死線を越えて戦場を記録し、釣竿を片手に大自然に入る。なんというバイタリティーだろう。一人の人生とは思えない。死と出会うことは生きること--様々な人生の局面を見てきた開高だからこそ言える言葉ではないだろうか。「辛い時はええ酒飲まなアカン」洋酒をこよなく愛した開高の墓にはレミーマルタンが供えられていた。 開高が眠る円覚寺の松嶺院は、墓地の入口が院の門よりも手前(坂道を下った場所)にある。石段を上りきったところ、入ってすぐの所に彼は永眠している。 |
国民的作家 | 『宮本武蔵』が大ブームに | 「吉川英治」とだけ彫られた湯飲み型の墓(2010) |
2000 | 2005 | 2010 |
神奈川県出身。本名英次(ひでつぐ)。幼少の頃に父親が事業に失敗し、吉川は小学校を中退、その後一度も学校へ通う機会がなく、家計を支える為に、活版工、雑貨商店員、土工手伝い、横浜ドックの船具工など転々とした。親兄弟がバラバラになるという苦しい生活の中にあって、彼の最大の楽しみは知的好奇心を満たしてくれる文学書であり、俳句や川柳の投稿、懸賞小説の応募だった。22歳、ようやく生計が安定し、再び家族が共に暮らせるようになった彼は、精神の安定を得て本格的にペンを執るようになる。仕事は新聞記者を選んだ。31歳、関東大震災で社屋が全焼し、失職した吉川は焦土の上野で牛飯を売って生計を立てる。これが人生を変える重大な転機となった。毎日多くの避難民と出会い、様々な人生に触れていく過程で、人と人を結びつける文学の役割を再認識したのだ。ことに大衆文学は人々が感動を共有できる芸術だ。彼は身辺の物を全て売り払って信州・角間温泉にこもり、冬中読書に明け暮れる。モノを書くには知識が必要だと判断したからだった。
1926年(34歳)、『剣難女難』が注目を集め、それに続く伝奇物語『鳴門秘帖』が大きな人気を呼び、大衆小説作家として名声を得る。36歳、波乱万丈の少年小説『神州天馬侠』を、39歳、自伝的小説『かんかん虫は唄ふ』を、そして42歳、ユーモア小説『あるぷす大将』を世に送った。44歳からは社会的ブームとなった『宮本武蔵』を3年間新聞に連載する。『宮本武蔵』はそれまで娯楽的要素だけが重視された大衆小説にあって、自己の完成を目指して精神を磨き修行する主人公の姿を描き、大衆小説というジャンルそのものを大きく変化させることになった。
戦後の代表作は1957年に完結した大長編『新・平家物語』。吉川はこの作品を書くために、58歳から65歳までの7年間、他の全ての仕事の依頼を断って執筆に集中した。68歳、文化勲章を受章。69歳、歴史の流れを描いた『私本太平記』を発表。肺癌に侵され亡くなる直前に、彼は文学を志す新人の為に、『私本太平記』で受賞した賞金を基に吉川英治賞を設立した。享年70歳。
墓は文机の上に湯飲茶碗が載っているような形で、そこに自筆で吉川英治と刻まれていた。広い敷地、小さな墓標、一輪の花。気さくな人柄と同じく、なんとも心地良い空間ではないか。
「小説というものは小説を読んでいる気で、読者は実は自分を読んでいる。(略)つまり僕の場合は、読者の持っているものを呼び起こさせるとういうか、呼び水を僕がかけているのです」 |
正面に下部に「本墓」とあるのは、東京の 伝通院に分骨墓があるからだろう(2005) |
名前は右側面に刻まれているけど、彫り方が浅い 為にかなり注意して見ないと見逃してしまう(2010) |
和歌山生まれ。中学時代から「明星」「スバル」に歌を投稿していた。17歳の時、地元の文芸講演会で反保守的な言説をとった為に無期停学の処分を受ける。翌年上京。与謝野寛の新詩社に入り、続けて永井荷風の『あめりか物語』に感動、荷風に師事した。小説を書き始めた春夫は25歳の時に「西班牙(スペイン)犬の家」を執筆、芥川から好評を得る。春夫と芥川は同じ年齢。2人は意気投合した。谷崎潤一郎(当時32歳)の推薦で本格的に文壇へデビューし、耽美主義の影響を受けた1919年(27歳)の『田園の憂鬱』が高い評価を受け、芥川と共に次世代作家として世間から注目される。 しかし、この頃から春夫は約10年間に及ぶ苦しい片想いを体験していく。好きになった女性が谷崎の夫人千代だったのだ。谷崎夫婦には幼い娘がいたが、夫の気持ちは妻の妹に移り、愛情は冷め切っていた。当初、春夫は千代に同情を寄せていたが、やがてそれが恋心になった。深く愛する人に手が届かない、しかもその人はとても寂しい境遇にいる…。春夫の苦悩を察した谷崎は妻と別れる約束をしたが、離婚の直前になって心境が変化、絶望した春夫は谷崎と絶交した。谷崎との関係を断絶したので、もう夫人とも会えない。春夫は神経症になり故郷紀伊に閉じこもった。そして谷崎夫婦の沈黙の食卓を思い出し、苦渋に満ちた胸の内を『秋刀魚の歌』として記した。 『秋刀魚(さんま)の歌』(抜粋) あはれ 秋風よ 情あらば伝えてよ、 夫を失はざりし妻と 父を失はざりし幼児とに伝えてよ ― 男ありて 今日の夕餉(ゆうげ)に ひとり さんまを食ひて 涙をながす、と。 さんま、さんま、 さんま苦いか塩っぱいか。 そが上に熱き涙をしたたらせて さんまを食ふはいづこの里のならひぞや。 あわれ げにこそは問はまほしくをかし。 冷たい秋風に思いを託さねばならない孤独、流れ落ちる涙、そういった物悲しさが詰め込まれた詩。この『秋刀魚の歌』を収めた第一詩集『殉情詩集』が1921年(29歳)に出版されると、多くの人が胸を打たれた。 親友の芥川とは共著で漢訳詩集を出す相談をしていたが、1927年、芥川が35歳で自殺してしまい衝撃を受ける。その2年後、図らずも単独で出すことになった漢訳詩集『車塵集』の扉に、春夫は「芥川龍之介のよき霊に捧ぐ」と刻んだ。 1930年(38歳)、8月19日。新聞各紙の報道に世間が仰天した。谷崎、千代、春夫の3人の連名による関係者への挨拶状が掲載されたのだ。「我等三人はこの度合議をもって、千代は潤一郎と離別致し、春夫と結婚致す事と相成り…」なんと、谷崎と千代の電撃離婚と千代と春夫の電撃結婚の同時報告だった。谷崎と春夫の交際は従来通りだという。社会はこれを「夫人譲渡事件」(失礼だなぁ)と呼んで大騒ぎした。 1935年(43歳)、芥川賞が設立されると春夫は初代選考委員になる。戦後も戯曲、歴史小説、随筆、評論、童話、紀行文と各ジャンルで精力的にペンをふるった。辛口の批評の中にも詩心のある作家であり、その門弟は3千人といわれている。1960年(68歳)、文化勲章を受章。1964年、自宅でラジオ録音中に「私の幸福は…」と言いかけ、心筋梗塞で急逝する。享年72歳。 墓は知恩院の法然の御廟の近く、「勢至堂」の墓域の奥にある。文字の彫りが浅く名前は殆ど読み取れないが、墓石は笠を被っているような特殊な形をしているので、それを目印に探そう。東京都文京区の伝通院にも墓があるが、知恩院の墓の台座には「本墓」と彫られていたので、おそらく東京の方が分骨だろう。 |
“能力バトルもの”という日本の漫画アニメ系作品の始祖的な存在となった時代小説『甲賀忍法帖』を世に出した作家、山田風太郎(1922-2001)。本名山田誠也。兵庫県生まれ。 子ども時代に父母を失うが、本をよく読み、17歳から「山田風太郎」のペンネームで受験雑誌の懸賞小説に応募を開始。東京医大に進み、在学中に推理小説を発表し、学生作家のはしりとなる。 『水滸伝』に忍法をとりいれた奇想天外な「忍法帖」シリーズがが1960年代のベストセラーとなり、『魔界転生』『幻燈辻馬車』『八犬伝』『警視庁草紙』『明治断頭台』『戦中派不戦日記』など多くの作品をのこした。偉人の臨終エピソードをまとめあげた『人間臨終図鑑』は墓マイラーの聖典。 2001年に79歳で他界。生前に戒名を「風々院風々風々居士」と自ら定め、上川霊園の緑色の墓石には「風ノ墓」と彫られ、その名前にふさわしく石には風が吹いているような美しい模様がある。パーフェクトな墓だ。 「人生の大事は大半必然に来る。しかるに人生の最大事たる死は大半偶然に来る」(山田風太郎) ※「『人間臨終図巻』は、山田風太郎文学の最高傑作である」(五木寛之) |
「日本人の国民性のひとつに“無責任”ということがありはしないか。こう考えるのは、開戦時における陸海軍首脳の無責任を思い出すからだ。アメリカを相手に開戦して勝てるかと言うと、陸軍も、海軍も、自信がなかった。自信のないまま、ズルズル開戦してしまった。これが一般国民とか、一般軍人ならいい。しかし、国家の存亡を担う首脳として、あまりに無責任な考えである。彼らは海軍の名誉利害、陸軍の名誉利害ばかり考えて、日本の名誉利害を考えなかった。ようするに、日本人の無責任性が最悪の形で表れたものとしか言いようがない」(1960年の日記)。 |
本名寛(ひろし)。高松に生まれる。26歳の時に第3次『新思潮』が創刊され、学生時代の友人芥川龍之介と参加。1916年(28歳)には芥川らと第4次「新思潮」を発刊し、肉親の情愛の葛藤を描いた戯曲『父帰る』を発表した。卒業後は記者をしながら作品を書き続け、31歳の時に『恩讐の彼方に』『藤十郎の恋』を世に出した。テーマを絞り込んだ簡潔で力強い構成が高く評価され、ヒューマニズムとリアリズムの作家として名声を得た。翌年からは『真珠夫人』など、通俗小説の分野でも広く活躍。35歳、雑誌「文芸春秋」を創刊。38歳、文芸家協会を設立。1935年(47歳)、文壇の登龍門として芥川賞・直木賞を設定するなど、「文壇の大御所」として雑誌経営や後進の育成にも力を尽くす。晩年は大映社長として文化的事業を行い、作家の地位向上に貢献した。1948年(59歳)、菊池は一週間続いた腹痛が治まり、友人たちと自宅で全快祝いをしている最中に心臓発作に襲われ、約10分で還らぬ人となった。墓石には川端康成が「菊池寛之墓」と刻んでいる。
28歳から小説を書き始めた菊池寛は、後年「25歳未満の者、小説を書くべからず」という規則をこしらえた。この言葉の真意は、“まず生活して自分の人生観を持て。それがないのに書いてもしょうがない”というもの。全くその通りだと思う。「我に神を頼まざるがごとき、力を与えたまえ!」--これはどの作品に書かれていたのかどうしても失念して思い出せないんだけれども、僕は菊池寛のこの言葉を、自分の心が弱くなりかけた時にいつも思い出して発奮してきた。芥川賞の創設者の菊地寛。いつかご縁がありますように…。
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『小説家たらんとする青年に与う』(抜粋) (1923年、菊池寛・35歳)
僕はまず、「25歳未満の者、小説を書くべからず」という規則をこしらえたい。全く、17、18ないし20歳で、小説を書いたって、しようがないと思う。 とにかく、小説を書くには、文章だとか、技巧だとか、そんなものよりも、ある程度に、生活を知るという事と、ある程度に、人生に対する考え、いわゆる人生観というべきものを、きちんと持つということが必要である。 とにかく、どんなものでも、自分自身、独特の哲学といったものを持つことが必要だと思う。20歳前後の青年が、小説を持ってきて、「見てくれ」というものがあっても、実際、挨拶のしようがないのだ。で、とにかく、人生というものに対しての自分自身の考えを持つようになれば、それが小説を書く準備としては第一であって、それより以上、注意することはない。小説を実際に書くなどということは、ずっと末の末だと思う。 小説を書くということは、決して紙に向って筆を動かすことではない。我々の普段の生活が、それぞれ小説を書いているという事になり、また、その中で、小説を作っているべき筈だ。どうもこの本末を転倒している人が多くて困る。ちょっと1、2年も、文学に親しむと、すぐもう、小説を書きたがる。しかし、それでは駄目だ。だから、小説を書くということは、紙に向って筆を動かすことではなく、日常生活の中に自分を見ることだ。すなわち、日常生活が小説を書く為の修行なのだ。学生なら学校生活、職工ならその労働、会社員は会社の仕事、各々の生活をすればいい。そうして、小説を書く修業をするのが本当だと思う。 では、ただ生活してさえ行ったら、それでいいかというに、決してそうではない。生活しながら、色々な作家が、どういう風に、人生を見たかを知ることが大切だ。それには、やはり、多く読むことが必要だ。 小説というものは、或る人生観を持った作家が、世の中の事象に事よせて、自分の人生観を発表したものなのである。 だから、そういう意味で、小説を書く前に、先ず、自分の人生観をつくり上げることが大切だと思う。 そこで、まだ世の中を見る眼、それから人生に対する考え、そんなものが、ハッキリと定まっていない、独特のものを持っていない、25歳末満の青少年が、小説を書いても、それは無意味だし、また、しようがないのである。
僕なんかも、始めて小説というものを書いたのは、28の年だ。それまでは、小説といったものは全く一つも書いたことはない。紙に向って小説を書く練習なんか、少しも要らないのだ。 とにかく、自分が、書きたいこと、発表したいもの、また発表して価値のあるもの、そういうものが、頭に出来た時には、表現の形は、あたかも、影の形に従うが如く、自然と出て来るものだ。 そこで、いわゆる小説を書くには、小手先の技巧なんかは、何んにも要らないのだ。短篇なんかをちょっとうまくまとめる技巧、そんなものは、これからは何の役にも立たない。 これほど、文芸が発達して来て、小説が盛んに読まれている以上、文学の才のある人は、誰でも上手く書くと思う。 そんなら、何処で勝つかと言えば、技巧の中に匿された人生観、哲学で、自分を見せて行くより、しようがないと思う。 それから、小説を書くのに、一番大切なのは、生活をしたということである。実際、古語にも「可愛い子には旅をさせろ」というが、それと同じく、小説を書くには、若い特代の苦労が第一なのだ。金のある人などは、真に生活の苦労を知ることは出来ないかも知れないが、とにかく、若い人は、つぶさに人生の辛酸をなめることが大切である。 作品の背後に、生活というものの苦労があるとないとでは、人生味といったものが、何といっても稀薄だ。だから、その人が、過去において、生活したということは、その作家として立つ第一の要素であると思う。そういう意味からも、本当に作家となる人は、くだらない短篇なんか書かずに、もっぱら生活に没頭して、将来、作家として立つための材料を、収集すぺきである。 かくの如く、生活して行き、そうして、人間として、生きて行くということ、それが、すなわち、小説を書くための修業として第一だと思う。 |
1999 | 2005 | 2010 |
墓誌に本名「平井太郎」「日本探偵作家クラブ初代会長」 | 「江戸川乱歩墓所」(2010) |
名探偵明智小五郎や怪人二十面相の生みの親。本名は平井太郎だが、アメリカの推理作家エドガー・アラン・ポーを崇拝し、名前をもじってペンネームとした。様々な仕事を体験した後、1923年に29歳で書き上げた探偵小説『二銭銅貨』で、世間にミステリー作家として認められる。 1937年(43歳)に日中戦争が始まると、いわゆる探偵小説は“犯罪を誘発する反体制的なもので文学ではない”と警察当局から見なされた。後年の乱歩いわく「度々内務省から書き換えを命じられた。僕はブラックリストに載って探偵小説はいかんということになった。編集者は恐れをなして(仕事を)頼みに来なくなった」。負傷兵を主人公にした「芋虫」の発行禁止を皮切りに、1941年(47歳)には探偵もの、怪奇もの、少年ものに至るまで、全ての作品が発売中止・絶版にさせられた。この時乱歩は日記に「探偵小説全滅」と刻み、戦後の探偵作家クラブ設立まで6年間筆を折った。 近年は、映画に舞台にと、作品世界の再評価が著しい乱歩ワールドだが、少年時代の僕は、乱歩のことを単純に少年探偵団が活躍する冒険談の作者と思っていた。やがて、奇抜な科学的トリックや着想の斬新さだけが魅力の正体ではなく、息づまるような心理サスペンスの裏にある、倒錯的ともいえる爛熟したエロスの香りの存在を知り、クラクラと目まいがした。墓石には「平井家之墓」と彫られているが、墓前に「江戸川乱歩墓所」と自筆を模して刻んだ石碑があり、墓参者には分かりやすい。 「ミステリーは民主主義の社会でないと成熟しない。基本的人権が尊重され、命の重さを皆が知っているからこそ感情移入できる。ミステリーはその国の社会における基本的人権の実態のバロメーターになり得る」(森村誠一) |
「五重塔」と露伴の墓。このアングルが欲しかった! | 岸部露伴じゃないよ | 娘さんの幸田文も同じ墓域 |
1999 | 2005 |
右が横光、左が若き岡本太郎!(太郎のパリのアトリエにて) |
墓所全景 | 1991 枯淡な雰囲気が漂う | 2010 約20年が経ち、墓前の木も大きく |
本名は利一(としかず)と読む。福島県出身。昭和文学を代表する作家の一人。川端康成らと「文芸時代」を創刊し、新感覚派の斬り込み隊長となって運動を展開。後に新心理主義文学に移った。代表作は「日輪」「上海」「機械」「紋章」「旅愁」など。 松尾芭蕉の家系を引き、本人も数多くの句を作った。 |
本名は淳(きよし)。東京浅草生まれ。若い頃はフランス象徴主義やアナーキズムに傾倒。36歳(1935)、『佳人』でデビュー。翌年の『普賢』で芥川賞に輝く。日本が戦争に突入していく1938年(39歳)、『マルスの歌』が反戦思想とされ発禁に。戦時中は江戸文学からパロディ精神を学ぶ。戦後は『紫苑物語』(1956)といった小説だけでなく、多くのエッセーも残した。号は夷斎(いさい)。 |
1999 | 2009 |
山梨県出身。本名清水三十六(さとむ)。多くの大衆小説を発表し、権力に抵抗する庶民や弱者への共感に貫かれた作品が多くの読者から愛されている。封建時代に気高く生きる女性を描いた「日本婦道記」で直木賞に選ばれるもこれを辞退。代表作は「樅ノ木は残った」(1956)、黒沢監督が映画化した「赤ひげ診療譚」(1958)、自伝的小説「青べか物語」(1960)など。すべての文学賞を拒否し、文壇ではどのグループにも属さない一匹狼だった。
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約1000作品を発表! | 墓地の中央道を上っていく | 西8段区2側 |
高台に眠る | 2006 初巡礼 | 2010 再訪時 |
名前のみで“墓”と書かれていない | 八王子が見渡せる | 背面に戒名「清閑院釋文張」 |
戦後日本を代表する社会派推理作家。社会派ミステリーを創始し、現代史発掘にも尽力した。福岡県小倉出身(広島説あり)。1909年生まれ。本名は清張(きよはる)。少年時代を下関で過ごす。11歳から小倉で暮らし、親は小さな食堂を開いた。小学校を卒業後、家が貧しいため、15歳から電気会社の給仕や版下工など職業を転々とした。それらの日々の中で、芥川龍之介、菊池寛、田山花袋などの小説を熟読。1929年(20歳)左翼文学にも関心をもった為に、思想犯の容疑で刑務所に約2週間留置された。27歳で結婚し、3子に恵まれ、版下職人として家族を支える。1941年(32歳)、朝日新聞社に入社。日米開戦後は、陸軍が補充兵教育で行う教育召集により衛生兵となる。1944年(35歳)の臨時召集で南方戦線に向かう部隊に配属されたが、戦況の変化で南方へは出征せず朝鮮で終戦を迎えた。 1951年(42歳)、生活費を稼ぐため勤務しながら書いた処女小説『西郷札(さつ)』が「週刊朝日」懸賞小説に入選、直木賞候補となった。1952年(43歳)、作家・木々高太郎のすすめで、森鴎外研究家の情熱と失意に迫った『或る「小倉日記」伝』を発表、坂口安吾から絶賛され、翌年の芥川賞に輝いた。 1953年(44歳)朝日新聞東京本社に転勤となり上京、歴史書や民俗学の書物を愛読。1955年(46歳)『張込み』で推理小説作家に転じ、作家業に専念するため翌年に退社した。 1957年(48歳)に大規模な詐欺犯罪を描いた『眼の壁』と短編集『顔』(日本探偵作家クラブ賞)を発表、1958年(49歳)に時刻表を巧みに駆使して官庁の犯罪を描いた『点と線』、1959年(50歳)に帝銀事件の真相究明を訴えた評伝的小説『小説帝銀事件』、1960年(51歳)に戦争の傷跡が連続殺人に繋がった『ゼロの焦点』と、GHQ占領期日本の構造的犯罪の解明を試みたノンフィクション『日本の黒い霧』(日本ジャーナリスト会議賞受賞)、1961年(52歳)にハンセン病患者の悲劇に触れた『砂の器』を発表、社会派推理作家としてヒット作を生み出し続けた。中でも『点と線』は、完全なアリバイを崩す過程の面白さ、ごく普通の人間が人を殺してしまう恐ろしさを描いてベストセラーになり、清張ブーム(社会派推理小説ブーム)に火をつけた。他に日本神話、邪馬台国を探究した古代史エッセーや、歴史の波に沈んだ薄幸の人を描いた時代小説などを書く。 1963年、江戸川乱歩の後任で日本推理作家協会理事長に就任(後に会長)。1964年(55歳)、右翼から圧力を受けるなか、二・二六事件に至る昭和初期の事件を描いた『昭和史発掘』を連載開始。同作の単行本発行部数は300万部を突破し、後に菊池寛賞を受賞。 1967年(58歳)、ベトナム戦争に反対し、『ワシントン・ポスト』紙に掲載する反戦広告募集の呼びかけ人の一人となり、「ベ平連」に多額の寄付を行う。1970年(61歳)、「自分は作家としてのスタートが遅かったので、残された時間の全てを作家活動に注ぎたい」とコメント。 1983年(74歳)に政界の闇を描いた『迷走地図』を発表。1987年(78歳)、フランスで開催された「世界推理作家会議」に日本の推理作家として初めて招待され、講演を行った。1989年、80歳でヨーロッパ取材旅行に向かう前日に遺書を書き「自分は努力だけはして来た」と記す。 1992年8月4日、肝臓がんで他界。享年82。法名は清閑院釋文張。他界の2年後、松本清張賞が制定され、1998年に松本清張記念館が北九州市に開館した。作品がテレビドラマ化された回数は450回以上(2015年5月)。映画化されたものでは『張込み』『黒い画集 あるサラリーマンの証言』『砂の器』の三作を高く評価していた。 ●墓巡礼記 単なるトリック技巧に走ったミステリーではなく、世の不正に怒り、社会問題を扱いながらエンターテインメントに昇華させた清張。作家生活約40年の間に約1000本もの作品を書き上げた創作パワーにただただ驚嘆。そのバイタリティに惹かれて墓前へ。墓は墓地の高台(西8段区2側)にあり、墓前からの見晴らしがとても良い。背後に戒名「清閑院釋文張」と刻まれている。墓前に向かう途中、中央道の右手(東3段区)に漫画家・赤塚不二夫の墓がある。 ※富士見台霊園は八王子駅から2キロ強。バスの場合は八王子駅から西東京バスで向かい、「八王子郵便局」バス停からさらに徒歩約15分。 |
案内板で大助かり。 これなら迷わない |
心月院にて。左が正子、右が次郎。正子の墓には梵字で 「十一面観音」、次郎の墓には「不動明王」と刻まれている |
五輪塔を薄くスライス。石を次郎が 選び、正子がデザインした |
東京生まれ。“韋駄天お正”と呼ばれるほどの行動派で、「骨董の目利きではないが自分の好きなものだけはハッキリわかる」と、自らの信じる美を追求した随筆家。同時に、仏像、工芸、芸能、古典の研究家でもある。特に東西の古美術(骨董)に詳しい。4歳から能を学び始め、6歳で梅若六郎(2世梅若実)に師事。14歳、女人禁制の能舞台に女性として初めて立つ。10代半ばで渡米し米国の学校で学ぶ。18歳で帰国し、兄の友人で実業家の白洲次郎と出会う(翌年結婚)。趣味人であった夫婦の周囲には、志賀直哉、柳宗悦、小林秀雄、大岡昇平ら、そうそうたる顔ぶれの文化人の姿があった。交流を通して大いに刺激を受けた正子は、元々能や骨董に造詣が深かったことから、日本の風土や文化、美をテーマに多くの随筆を記すようになった。代表作は『能面』『かくれ里』(共に読売文学賞)、『明恵上人』『私の古寺巡礼』『西行』『西国巡礼』等々。 |
字も見えず案内板の意味 なし。立て直してあげて! |
この時代は早逝の文豪が多い |
紅葉の絵が彫られた花受け |
丘の上にあり周囲に似たような墓地も多く、探し出すまで 大変苦労した。墓前の句碑は「木蓮や堀の外吹く俄風」 |
墓地にいた猫。 名前はノラ?クルツ? |
墓の手前にあった動物慰霊碑 ネコ好きの百閧ヘ嬉しいと思う |
墓は横尾忠則作。なんとこの球体が墓らしい。眠狂四郎の「円月殺法」をモチーフにしているのかな? |
バス路線から外れているので利用 したら、初乗りがたったの280円! |
坂口家の墓所。大地主の同家は「阿賀野川の水が 尽きても坂口家の富は尽きることがない」と言われた |
新潟は米どころ。付近は田園地帯だ |
墓前には「あちらこちら命がけ 安吾」とあった | 「坂口安吾」という独立した墓石はなく、この中央の「坂口家墓域」の中に合葬されているとのこと |
安吾と語り合っているうちに日が暮れた |
本名、坂口炳五(へいご)。新潟生まれ。旧家の坂口家は大地主。敗戦直後の1946年(40歳)に、「生きよ、堕ちよ」と戦後の人間のあり方を主張した『堕落論』や、無垢な人間との戦時下での出会いを描いた短編小説『白痴』を発表して社会に衝撃を与えた。安吾は終戦の混乱の中で時代の寵児となり、太宰治、織田作之助、石川淳らと並ぶ新文学の旗手と評価され、無頼派、新戯作派と呼ばれた。だが、安吾はヒロポン(覚醒剤)、アドルム(睡眠薬)などの薬物中毒に陥って入退院を繰り返し、1955年に脳出血のため48歳で他界した。
「天皇というものには実際に尊敬に値する理由はない。日本に残る一番古い家柄、そしてずいぶん昔に日本を支配した名門であるということの外に特別な意味はなく、古い家柄といっても単に家系図をたどりうるというだけで、人間誰しもただ系図を持たないだけで、類人猿からこのかた、みんな同じだけ古い家柄であることは論をまたない」(坂口安吾) |
●『もう軍備はいらない』 坂口安吾「文学界」1952年10月号から 国防は武力に限るときめてかかっているのは軽率であろう。 今日までの金持というものは、だいたいにねかせた財産をもち、その大小によって金持の番附がつくられるような富の在り方であった。莫大な預金、広大な所有地。そしてそれは泥棒が主として狙う富でもあった。だが、財産とか富貴というものがそれだけだとは限らない。泥棒がどうすることもできないような財産もありうるであろう。 高い工業技術とか優秀な製品というものは、その技能を身につけた人間を盗まぬ限りは盗むわけにはゆかない。そしてそれが特定の少数の人に属するものではなく国民全部に行きたわっている場合には盗みようがない。 美しい芸術を創ったり、うまい食べ物を造ったり、便利な生活を考案したりして、またそれを味うことが行きわたっているような生活自体を誰も盗むことができないだろう。すくなくとも、その国が自ら戦争さえしなければ、それがこわされる筈はあるまい。 このような生活自体の高さや豊かさというものは、それを守るために戦争することも必要ではなくなる性質のものだ。有りあまる金だの土地だのは持たないし、むしろ有りあまる物を持たずにモウケをそッくり生活を豊かにするためにつぎこんでいる国からは、国民の生活以外に盗むものがない。そしてその国民が自ら戦争さえしなければ、その生活は盗まれることがなかろう。 けれどもこんな国へもガムシャラに盗みを働きにくるキ印がいないとは限らないが、キ印を相手に戦争してよけいなケガを求めるのはバカバカしいから、さっさと手をあげて降参して相手にならずにいれば、それでも手当り次第ぶっこわすようなことはさすがにキ印でもできないし、さて腕力でおどしつけて家来にしたつもりでいたものの、生活万般にわたって家来の方がはるかに高くて豊かなことが分ってくるにしたがってさすがのキ印もだんだん気が弱くなり、結構ダンビラふりかざしてあばれこんできたキ印の方が居候のような手下のようなヒケメを持つようになってしまう。昔からキ印やバカは腕ッ節が強くてイノチ知らずだからケンカや戦争には勝つ率が多くて文化の発達した国の方が降参する例が少くなかったけれども、結局ダンビラふりまわして睨めまわしているうちにキ印やバカの方がだんだん居候になり、手下になって、やがて腑ぬけになってダンビラを忘れた頃を見すまされて逆に追ンだされたり完全な家来にしてもらって隅の方に居ついたりしてしまう。 もっともキ印がダンビラふりまわして威勢よく乗りこんできた当座はいくら利巧者が相手にならなくとも、相当の被害はまぬがれない。女の子が暴行されたり、男の子が頭のハチを割られ片腕をヘシ折られキンタマを蹴りつぶされるようなことが相当ヒンピンと起ることはキ印相手のことでどうにも仕方がないが、それにしてもキ印相手にまともに戦争して殺されぶッこわされるのに比べれば被害は何万億分の一の軽さだか知れやしない。その国の文化水準や豊かな生活がシッカリした土台や支柱で支えられていさえすれば、結局キ印が居候になり家来になって隅ッこへひッこむことに相場がきまっているのである。 腕力と文明を混同するのがマチガイのもとである。原子バクダンだって鬼がふりまわすカナ棒の程度のもので、本当の文明文化はそれとはまるで違う。めいめいの豊かな生活だけが本当の文明文化というものである。 (略) 人に無理強いされた憲法だと云うが、拙者は戦争はいたしません、というのはこの一条に限って全く世界一の憲法さ。戦争はキ印かバカがするものにきまっているのだ。 |
山門脇の壁際に本名の“杉山”で眠っている。九州の墓は金文字が多い |
福岡生まれ。本名、杉山泰道(たいどう)。30歳の頃から西日本新聞の記者をしながら小説を書き始める。数点の童話を書いた後に推理小説としてデビュー。1935年(46歳)、“狂人の書いた推理小説”という異常な設定に自身の思想を込め、夢野が「これを書くために生きてきた」とまで語った『ドグラ・マグラ』を自費出版。刊行の翌年に脳溢血で急死した。『黒死館殺人事件』(小栗虫太郎著)、『虚無への供物』(中井英夫著)と並ぶ「推理小説三大奇書」として『ドグラ・マグラ』は今もカルト的な人気を保っている。※本作は桂枝雀の主演で映画化された。
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文壇BAR“ルパン”にて (撮影/林忠彦) |
大阪・生国魂神社の境内にある織田作之助像(2014) |
楞厳寺は“りょうごんじ”と読む |
墓石の正面には織田信長の 家紋「織田木瓜」が入ってた! |
参考画像…信長を祀る 建勲神社(京都)の織田木瓜 |
墓地の奥の方、少し小高い場所に眠っている | 他の墓から独立しており迷いまくった(汗) |
墓石には「春風や 次郎の夢の またつづく」と刻まれていた | 氏は山好きだから、山の見える墓地で幸せだろう |
巨大な冨士霊園の中央奥にある「文学碑公苑」 | 石壁にズラリと作家の名が刻まれている! | 黒い石に「文学者之墓」と彫られている |
1969年に日本文芸家協会が建立した | 「日本に生まれ日本の文学に貢献せる人々の霊を祀る」 | 日本を代表する出版社が賛同者として並んでいる |
記念すべき第1期。巡礼時(2010)は8期に増えていた | 第1期の1人目は芥川賞を創設した菊池寛! | 代表作に何を選んでいるか興味津々。乱歩は「二銭銅貨」 |
開高健は『輝ける闇』。多作の人は選出に困るだろうな | 梶井基次郎は予想通り『檸檬』! | 司馬遼太郎は『空海の風景』だった。竜馬じゃないのか〜 |
新田次郎は『孤高の人』。赤文字の人は存命という意味 | 横溝正史は『八つ墓村』。墓地で八つ墓か…(汗) | なんと黒柳徹子も『トットちゃん』で入ってた! |
水上勉は他界が04年と近年なので第7期に! |
作品は『雁の寺』だった。この墓地は愛用のペンなどを 入れる人が多いけれど、水上氏は遺骨を納めたという |
“栗田家”の墓に眠る。土台には「五味川」とあった | 側面に「昭和47年 五味川純平建立」とある |
旧満州出身。東京外大英文科卒業後、満州の昭和製鋼所に入社。1943年(27歳)に召集を受け中国戦線を転戦する。1945年(29歳)、終戦直前のソ連軍の満州侵攻で部隊は壊滅状態になり数名のみが生き残った。1955年(39歳)これらの過酷な体験を基に書き記した『人間の條件』が1300万部以上の大ベストセラーとなる。以降も『戦争と人間』など多数の戦争文学を発表し続けた。1959年(43歳)に『人間の條件』が映画化され、これは全6部、9時間31分間の超大作となった。1978年(62歳)、菊池寛賞を受賞。 |
多磨霊園の奥の方に墓所(23区1種26側) | 「倉田百三之墓」 | 『出家とその弟子』文学碑 |
劇作家・評論家。広島県出身。西田幾多郎『善の研究』の影響を受け、1916年、25歳のときに親鸞語録『歎異抄』を題材に、親鸞、子、弟子を描いた戯曲『出家とその弟子』を執筆。求道的な姿勢が読者に感動を与えベストセラーになる。その後、宗教文学を開拓し、20代後半から白樺派と交流、社会問題に関心を寄せる。だが、1931年(40歳)の満州事変を皮切りに、日中戦争、太平洋戦争という流れの中で、自身も国粋主義、超国家主義に傾いていった(国民協会機関誌の編集長に就任)。1943年、東京の自宅で他界。享年51。法名は「戚々院釋西行水樂」。墓前に『出家とその弟子』より「筆折れていのち絶えなむ時さへやいやさか言はむすめらみことに」の碑文。 |
父娘共に演劇人。今日子はムーミンの声でも知られる | テーブル型の珍しい墓 | 右から3番目に岸田国士、5番目に今日子 |
劇作家・小説家・演出家。東京出身。娘は岸田今日子。陸軍士官学校を卒業後、東大仏文科で学ぶ。フランス近代劇を研究し、日本の現代戯曲と演劇理論の基礎を樹立するなど、日本の新劇運動を指導。1937年(47歳)、久保田万太郎、岩田豊雄と劇団文学座を結成。 1940年(50歳)に大政翼賛会文化部長となったことで、戦後はGHQにより公職追放となったが、岸田自身は就任の2年後に大政翼賛会の官僚化に抗議し辞任している。1954年、ゴーリキー『どん底』の舞台稽古演出中に脳卒中に襲われ翌日他界。代表作は戯曲『牛山ホテル』『紙風船』『歳月』『チロルの秋』、小説『由利旗江』『暖流』『双面神』、翻訳に『ルナアル日記』など。 |
瀧安寺は箕面の国定公園の中にある。車は 許可者しか入れないため、駅から徒歩で巡礼 |
箕面駅から20分、瀧安寺霊園前に到着。 紅葉の美しい季節に行って正解 |
この墓地の奥の方に眠っている |
左京さんの墓。ドーム型の個性的なデザイン | 台座正面に「小松家」。他界4か月後に建立 |
後方には自筆の署名が入っている | 「小松左京」と縦書きのサイン! |
「ミスターSF」。大阪出身。本名は小松実(みのる)。京大文学部イタリア語科卒。同年生まれの高橋和巳に大学で出会い、在学中に同人誌を発行、文学の道へ進む。5歳上の星新一、3歳年下の筒井康隆と“御三家”と呼ばれ、日本SF界の先駆者となった。土木工事の現場監督や記者などを経て、1962年(31歳)、『SFマガジン』創刊号に発表した『地には平和を』で作家デビュー。1964年(33歳)、ウイルスが人類を破滅させる『復活の日』を発表。1966年(35歳)、時間と空間をまたかけたスケールの大きな長編『果しなき流れの果に』を書き上げた(同作は31年後に『SFマガジン』500号記念号にて「日本SFオールタイムベスト」長編部門1位に輝いている)。 1970年(39歳)、大阪万博のサブ・プロデューサーを務める。1973年(42歳)、地殻変動で日本列島が沈没し、日本人が難民となって世界をさまようSF長編『日本沈没』が大ベストセラーとなった。同作は映画化され社会現象となる。翌1974年、日本推理作家協会賞を受賞。1985年(54歳)、『首都消失』で日本SF大賞を受賞。1990年(59歳)、「国際花と緑の博覧会」総合プロデューサー就任。古稀を記念して2001年から「小松左京マガジン」を発行(発起人は萩尾望都)。国際SFシンポジウムを組織するなど、あくなき好奇心と博学の持ち主であり、文明評論家としても知られる。2011年7月26日、肺炎のため大阪箕面で他界。享年80。宇宙作家クラブ顧問。 筒井康隆「自分は、自分の頭の中にある、知識やシチュエーションを組み合わせて、小説を考えていく。だが、小松左京は、まず『こういうテーマの小説を書く』と決め、それに沿って彼の頭をワッサワッサと揺り動かすと、膨大な関連する知識が落ちてきて、それをまとめあげていく」 岡田斗司夫「荒俣宏と立花隆と宮崎駿を足して3で割らないのが小松左京」。 |
八王子霊園は広大!洋式墓が多い | 本名の小菅(こすげ)で眠る |
背後に戒名「藤澤院周徳留信居士」 | 弱者に寄り添う視点で時代小説を描く |
山形県鶴岡市出身。本名、小菅留治(こすげ とめじ)。両親は農家。中学教師、記者を経て小説家を志す。1963年(36歳)、妻が28歳の若さで癌により急逝。悲しみの中で時代小説を書き始める。42歳で再婚。1971年(44歳)、『溟い海』がオール讀物新人賞に輝き作家デビューを果たす。翌1972年(45歳)、『暗殺の年輪』で直木賞受賞。以降、ユーモアを交ぜつつ、品のある整った文章で庶民の生活や政争に巻きこまれた下級武士の苦悩などを描き、「小説職人」と評された。1997年1月26日、肝不全のため他界。享年69。戒名は藤澤院周徳留信居士。映画化作品に『たそがれ清兵衛』『隠し剣 鬼の爪』『蝉しぐれ』『武士の一分』『山桜』『花のあと』『必死剣 鳥刺し』『小川の辺』。2010年、故郷の鶴岡市に「藤沢周平記念館」が開館した。 |
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