世界巡礼烈風伝〜南北朝鮮半島の巻

《韓国編》


2001年9月4日午前8時。その2日前に平壌の外港・南甫(ナンポ)を出港した船は、定刻通り韓国の仁川(インチョン)に入港した。このように客船がダイレクトに北朝鮮から韓国に入るなんてことは、前年6月に南北首脳会談が実現するまでは考えられなかった。
半世紀に渡って対立してきた両国だが、少しずつ雪解けが始まっているのは確かだ。

北朝鮮は首都でさえ人影がまばらで閑散としていただけに、上陸したときには、通りを闊歩する人の渦と、視界に溢れかえる看板広告の量に度肝を抜かれた。底抜けにエネルギッシュと言おうか、とにかく街を包む空気そのものに活力がある。それもそのはずで、韓国は国土が北朝鮮より狭いにも関わらず、逆に人口は2倍を超えている。国力差で言えば、北朝鮮の国民総生産が200億ドル強に対し、韓国は5000億ドル近くあり25倍とケタ違いだ。

海に面した仁川から内陸部のソウルまでは列車で約1時間。韓国は交通費が安く、大阪〜京都間(or東京〜千葉)ほど乗っても約100円!切符を買う為にウォンに両替したら、1万ウォンがちょうど千円。何かを買う時はゼロを一つ取るだけで円換算できるので、計算がとても楽だ。

ソウルに接近するにつれて車内は混み始めたが、誰一人観光客の僕をジロジロと見る人はいない。要するに、誰も僕を外国人と気付いていないのだ。
…この体験はとても新鮮だった!!
南米やアラブではこっちが観光してるのか、あっちが自分を観光しているのかよく分からない状態だったが、韓国だと顔や服装に大きな違いがないので、黙っている限り外国人だとはわからないのだ。実際、ソウルでは通行人に4,5回ほど道を尋ねられたし(笑)。
列車はソウル中心街に近づくと、地面に潜って地下鉄となった。

ソウル市内に到着して最初に目指した場所は、半島を500年以上(1392〜1910)という長きに渡り支配した、李氏朝鮮王朝の王族の墓だ。この王朝は日本に植民地化されるまで、26代も続いた驚異的長期政権だ。

『人生の恩人に直接お礼を言う為に墓参する』---僕の巡礼行脚の主旨からすると、庶民の上に君臨した王族・貴族に墓参するというのは、まったくもって説得力に欠ける。だが、4代目の世宗のように、いまだに民衆に愛さ続けている国王もいる。
それに---これは墓マイラーとしての血がウズいたのだが---なんと彼らの墓“宗廟(チョンミョ)”はユネスコの世界遺産に認定されているのだ!世界遺産に指定された墓とは、一体どんなものだろうか…正直に言うと、埋葬されている人間より、“墓そのもの”が見たいという好奇心で僕の頭がヒートアップしていたことを、ここに白状する。

僕は宗廟への最寄の地下鉄駅から地上に弾け出ると、すぐさま目的地へ向かってダッシュした!
宗廟全体の敷地は18万uで甲子園の約5倍。その中央に位置する正殿が王族の墓だった。ところが、宗廟の門が遠目に閉ざされているのが見え、怪訝に思いながら接近すると、ガビーン!入場チケット売り場には『火曜休み』の看板が!
「ホキョ〜ッ!」
思わず僕は門に頭から突っ込みそうになった。腕時計のカレンダーはチューズデー。トホホ、なんでこ〜なるの!?定休日は7分の1の確率なのに、ここのところビンゴ連発。うぐぐ。

しばし放心状態になっていたが、幸い翌日までソウルに滞在出来るので墓参を明朝にまわし、気を取り直して国立博物館の仏像たちに拝謁しに行った。
現在日本で国宝に指定されている飛鳥仏の大半が朝鮮半島からの渡来人によって彫られたものであり、法隆寺の百済観音のように直接海を渡ってきた名仏も多い。仏像ファンにとって、百済当時の仏像を収める国立博物館は這ってでも訪れるべきスポットであった。

宗廟の裏通りは問屋街になっていて観光客は一人もいない。オシャレな繁華街とは随分様子が違ったが、その雑然とした雰囲気が楽しかった。博物館までは約2キロ。屋台で買った焼き鳥を頬張り、てくてく歩く。
辿り着いて入館料を見ると大人70円。素晴らしい!かなり大きな建物だったので、地図で仏像コーナーの位置をチェックすると、他の展示物には脇目も振らずに直行した。

目指す仏像展示室に足を踏み入れて驚いた。日本の国宝指定第1号は京都・広隆寺の弥勒菩薩半伽思惟像(みろくぼさつはんかしいぞう)だが、その有名なポーズ---右足首を左の腿に乗せて坐し、右頬に右手指先をチョコンと添える---とまったく瓜二つの御仏(みほとけ)がそこで微笑んでおられるではないか!なるほど、確かに古来から頻繁に文化交流があったことが良く分かる。

仏像はどれだけ眺めていても見飽きることがなかった。少し見る位置を変えるだけで全く新しい表情を見せて下さる(敬語)。
しかしそれだけが理由ではない。
どんなに尊く神々しい仏像であっても、ひとつとして最初からこの世にあったものはなく、すべて僕らと同じ人間が彫ったものなのだ。僕は目の前に立つ仏像が荘厳であればあるほど、同じ人間がこのように崇高なものを生み出すことが出来るという、その創造する力、その可能性に感動した。阿弥陀仏や観音菩薩の御威光ではなく、それを彫り上げた仏師が存在したという“事実”に胸が震えた。

そして、その製作過程を思い描いた…この仏を彫った仏師はどんな気持でノミを握っていたのだろうかと。高句麗、百済、新羅の間で300年以上も続いた、いつ果てるともない三つ巴の戦い。相次ぐ戦乱の日々の中で、その無名の仏師は“世を仏の慈愛で満たしたい”“何とか、すさんだ人の心に平穏を”そう思って、ひと彫り、ひと彫り、祈りを込めてノミを刻み、土をこねたのかもしれない。
仏師たちは、自分で納得出来ぬ仏像を世に送ることは、自らが信ずる仏の慈悲への冒涜になると考え、自己の存在意義をかけて、満足のいく仏像を完成させるべく、その手にノミと木づちを持って挑み続けたのであろう。

仏像は、ただの人間が作った。だからこそ、見飽きない。

僕は仏像の前で耳を澄まし、約1500年前に生きた人間たちの、ノミを刻む音、土をこねる音に、しばし耳を傾けた---。


《韓国編》第2回

国立博物館を出たのは午後2時。続いて向かった場所はソウルの北外れにある西大門の刑務所歴史館だ。ここは、かなり衝撃的だった。

ガイドブックには、日本が占領していた35年間に独立(抗日)運動に関わった多くの朝鮮の人々がその刑務所に送られ、拷問、獄死、処刑が連日のようにあったと書かれていた。正直言って、教科書&靖国参拝問題の直後3週間で訪問するのは勇気がいったが、国立博物館からは地下鉄でたったひと駅ということもあり、意を決して訪れてみた。

さて、地下鉄駅から地上へ出たものの、周囲を見回しても刑務所らしきものはない。地図を見たが、そもそも南北が分からない。オタオタしていると、公園のベンチで日向ぼっこをしている初老のおじさんと目が合った。片言の韓国語で道を尋ねると、
「アナタ、ニホンジンデスカ?」
と日本語で返事が返ってきた!そうなのだ、この国の一定の年齢以上の人は、戦時中、強制的に日本語を学ばされ、母国語を使うと処罰された過去を持っているのだ。
おじさんはベンチの端に寄り“マア、スワリナサイ”と言う。で、僕に日本の何処から来たかとか、歳はいくつかとか、怒涛の質問ラッシュを浴びせた。歴史館に行こうとしてることに好感を持ったのか、立ち去ろうとすると“マアマア”と言って引き止めにかかり放してくれない。こっちはなぜオジサンが日本語を話せるのか理由を知っているだけに、ドギマギしっぱなしだった。
しばし雑談していたが、他に観光したい所もあり、そんなにゆっくりもしてられない。
「あのう、歴史館の閉館時間が…」
「ソウダッタ!」
オジサンは“おっと!”という表情をすると方向を教えてくれ、僕は辞典を必死
でめくりながら“韓国語”で御礼を言って歴史館へ向かった。


●暗黒時代と向き合って


刑務所歴史館。
赤レンガで出来たこの大きな監獄は、本来15棟で構成されていたが、現在はうち6棟のみが保存され歴史館となっている。

欧米各国がアジアに植民地を展開していく中で、日本も新たな領土(市場)の獲得とロシアの南下をけん制する目的で、まず1905年に韓国の外交権を奪い、07年に内政権をもぎとって軍隊を解散させ、08年にこの刑務所を作って反日運動を取り締まり、1910年には国家そのものを併合(吸収)した。
日本はソウルに統治機関(朝鮮総督府)を置き、韓国のすべての政治団体に解散を命じ、あらゆる集会や演説会を禁止し、朝鮮語の新聞を廃刊にした。

※これらの交渉にあたった伊藤博文を暗殺した安重根(アン・ジュングン)は、日本ではテロリストだが、韓国では“救国の英雄”であり、ソウルには彼を讃える記念館まである。ちなみに墓は投獄、処刑された中国旅順(現・大連)。

この併合が国際法上合法的なものであったかどうかはともかく、朝鮮半島にとって悲劇だったのは、併合が当時の世界で黙認されたことだ。朝鮮側は万国平和会議に使者を送って日本の行為を直訴しようとしたが、すでにアジアでの既得権擁護について日本と合意していた米、英などの反対で、使者は会議の参加を拒否されてしまった。

続く1912年。朝鮮の人々が経済的に最も深刻なダメージを受けた土地調査令が発布される。土地を持っている者は申告せよ、というものだ。農民の多くは文盲であったため期限を限られた複雑な登録手続きが出来ず、土地を失うことになった。
総督府は所有権がハッキリしない、届け出がない、などの理由で朝鮮の全農地の40%を「合法的に」没収し、その所有者となって、今度は日本からの移住者に格安で転売した。こうして土地を失った多くの朝鮮人が日本や満州へ流れていった。
※海を渡って来た半島の人のことを「貧乏で食えないので勝手に来た」と見下げる意見をたまに聞くが、こうした背景を知っていればそんなこと言えないと思う。

言論の自由も選挙権も、土地という経済的基盤さえも奪われた人々の間には独立の機運が高まり、それが1919年3月1日に爆発する。これが“三・一独立運動”だ。
この民衆蜂起は「独立万歳」を合言葉に、またたく間に全土に広がった。当初は平和的デモ行進だった運動も、弾圧強化にともなってしだいに戦闘的となり、日本人、朝鮮人の双方に、特に朝鮮人には総督府の発表で5万人以上の死傷者(うち死者は7500人)が出た。
逮捕、投獄、拷問、虐殺など日本側の徹底弾圧により約2ヶ月でほぼ鎮圧されたが、この運動を受けて総督府は締め付けをやや緩和し、朝鮮語の新聞の発行を許可するようになった。

さて、歴史館の敷地に足を踏み入れるとすぐ見えるのが女囚用の地下監獄だ。ここは別名・柳寛順(ユ・ガンスン)獄と呼ばれている。彼女の名は日本では無名に近いが、“韓国のジャンヌ・ダルク”と呼ばれ、韓国の小学生で知らぬものはいない。
柳寛順はデモに参加した両親を目の前で殺された16才の女子学生。独立運動の際に地方でリーダー格になるが逮捕され、容赦のない拷問と栄養失調により、この地下監獄で18才の誕生日の1ヶ月前に短い生涯を終えた。

日本の歴史学者には日韓併合には韓国側のメリットも多かったと公言してはばからぬ人が少なくない。その論拠は鉄道網を整備し、学校や病院をたくさん建て、識字率を3倍以上に上げ、人口を倍増させた云々だ。それは確かにメリットだと僕も思う。では、なぜ独立運動が瞬時にして全国に広がったのか?
個人にとって、教育や施設が与えられたことは「メリット」だが、自由を制限されたことは「デメリット」になる。いったい、国や民族また個人にとって、文化や信仰、歴史や言語をないがしろにされる「デメリット」よりも価値のある「メリット」などあるのか。
建物は壊れても簡単に新しいものを作り直せるが、アイデンティティーを否定され、傷ついた心はそういうわけにはいかない。奪ったものの大きさを理解することなく、「〜してやった」という発言の傲慢さが、さらなる反感を呼ぶことに気づいて欲しい。

本館に入ると、他にも10人ほど日本人観光客がいた。彼らには中年男性の日本語ガイドがついていたので、僕も一緒に説明を聞いてまわった。
展示室ごとに当時使用された拷問の道具や各種資料が展示されていて、日本人としてはなかなか見ているのが辛かったが、極めつけは地下の拷問室だった。そこには反日活動をした政治犯が仲間の名前を自白するよう強いられ、様々な拷問にあっている様子が“動くロウ人形”で再現されていて、超リアルな悲鳴がスピーカーから聞こえていた…。
ロウ人形があることは本で読んで知っていたので、ある程度覚悟はしていたが、悲鳴のことは知らなかった(後日思ったけど聴覚は視覚より記憶に残る)。特にキツかったのが女性への拷問だ。壁や床に飛び散っている血が、セットとは分かっていても正視出来ない。
「夫や恋人の隠れ家を自白させる為に拷問されています」
ガイドからそう説明された。

日本の弾圧や戦争犯罪をパネルや人形を使って解説した歴史館は、シンガポールや中国にもあるが、ソウルの歴史館が他と大きく異なるのは、前述したように拷問現場がそのまま歴史館になっていることだ。
新たに建築された歴史館ではなく、当時の監獄がそのまま使用されている…自分の足下で半世紀前に、多くの血が流されたと思うと、足がすくみ額が汗ばんだ。

次に他の獄舎に移り、見学者に開放されている独房に入ってみた。過去に実際にそうしたであろうと、自分も床に座って小さな窓を見上げてみた。左右からの壁の圧迫感がすごい。狭い房内は薄暗く、冬季の寒さは相当なものだったと思う。

ガイドが最後に案内した場所は、敷地の片隅にひっそりと建っていた処刑室だ。途中には獄死者の追悼碑があり、故人の名前が100人近く刻まれていた。
そこでは次のように説明された。
「日本軍がここから撤収する際に、囚人名簿や記録をすべて焼いてしまったので、誰がいつ処刑されたのか何も分からなくなりました。ソウル以外の他の刑務所でも同様でしたが、焼かれずに見つかったファイルが若干見つかり、そこに記載された名前を追悼の意を込めてここに刻んだのです」

処刑室は木造で、学校の教室の半分ほどの小屋だった。周囲は静まりかえっており、空気がどんよりとして異様に重い。内部には絞首用のロープが吊ってあり、地下には遺体搬出用の通路が延びていた。
冗談抜きで処刑室周辺では気温が数度下がったように感じ、見学者の中には「気分が悪い…頭が痛い…」と唇が土色になる人もいた。付近にはポプラ並木があったが、刑場手前のポプラだけ背が低く、ガイドは“人々の無念の叫びを聞き続け、成長が止まったのです”と解説していた。

最後に歴史館を出る際、今回の教科書問題の前後で邦人の来館者数に変化があったか職員に尋ねてみた。
「それまでは修学旅行の学生さんが見学に訪れていたのですが、あの騒動の後、訪問者は3分の1ほどに激減してしまいました。こういう時だからこそ、足を運んでもらいたいのですが…」
そんなふうに嘆いていた。

ここを訪れた邦人の感想は色々だ。中には、
「こんな反日的な思想を教える韓国とは親しくなれそうにない」
という意見もある。その気持ちが全く理解できないわけではないが、実際に1945年8月15日まで、ただ祖国の独立を目指しただけの人々が数多く処刑されたわけであり、抗日闘争の悲劇の地ではこうした内容になるのも理解できる。

僕が特筆したいのは韓国側の展示姿勢だ。
韓国内にはソウルの歴史館よりさらに残虐な拷問シーンを擁す独立記念館があるのだが、入口には次のようなメッセージが記されている。
『過去の不幸な歴史の加害者を許すことは出来ますが、これらは決して忘れてはならないことです。日帝占領期の歴史を展示することは、過去の苦痛を記憶することだけが目的ではなく、共に発展的な未来を目指そうという意思の表れなのです』
また、僕が歴史館でもらった小冊子には、一言も「日本は謝罪せよ!」なる文言はなかった。

また、歴史館に入る前にこんなことがあった。
歴史館の周辺は公園になっており、ソフトクリームの屋台で僕は3人の若い日本の女の子達と偶然一緒になった。そのうちの1人はお腹がいっぱいだったようで注文せずにいると、屋台のおばさんが“あら?あなたは食べないの?”みたいなことを言い、どうするのかと思ったら余分にひとつソフトクリームを作り、
「フォー・ユー!」
と満面の笑顔でその女性にプレゼントしたのだ!おばさんの口調や身振りから察するに、“友達同士で一人だけアイスを食べられないのは可哀想”、そんな思いが読み取れた(もらった女性は戸惑いながらも素直に喜んでいた)。

教科書問題の時にニュースで見た、日本大使館前で抗議集会をしている怒りまくったソウル市民の映像から、対日感情は最悪だろうと思っていただけに、日本語トークのおじさんや、このおばさんのフレンドリーな雰囲気には正直驚いた(また、この旅全体を通じて、この2人が特別でないことも分かった)。
韓国の世論調査の数字に出てくる対日感情の悪さや、抗議デモの映像とは全く別の韓国人の横顔を見るにつれ、よく言われることだが、人間は実際に会ってみなければ分からないとあらためて思った。

韓国の一般の人々は、半世紀も前のことを謝罪して欲しいというよりも、日本人が過去の歴史を学ぶことを第一に望んでいる。一度書き加えられた植民地支配に関する教科書の記述が、被害者数や法律の上での「正しさ」にこだわるあまりに、本当の目的である「相互理解」が二の次になっている今の現状は、残念だが、過去を忘れ去ろうとする姿勢に映ってしまう。

独立記念館は戦後すぐに“日本憎し”で建てられたものではなく、’80年代に日本の閣僚から侵略を正当化する発言が相次いだことへの憤りから建設されたものだ(刑務所歴史館も同様の流れで’98年に開館した)。「拷問コーナー」は過去の行為の恨みを現在の日本人にぶつけるのが目的ではなく、日本人の歴史認識の甘さに対する怒りの“アピール”のとして作られたように思える。

日本人はもう過去の日本人ではないし、過去の日本人にならないと多くの人が思っているだろう。そのことを打ち消すような言動をとらずに友好的な交流を続けていれば、拷問コーナーのような残酷な展示物は、自然と撤去されていくのではないだろうか。


《韓国編》第3回

16時。韓国の思い出が仏像と墓と刑務所だけではあまりに華がない。やはり繁華街も見ておかねばと、ソウル中心街の明洞(ミョンドン)を訪れた。明洞は、人、人、人!
カラフルな広告・看板が視界の彼方まで続いており、耳にはディスカウント・ショップからの威勢のいい呼び込みが飛び込んできた。物凄い活気だ。若者もいっぱい。ケータイの店やCDショップも多く、マクドナルドの看板がハングルなのを除けば、日本の若者の街とほとんど変わらなかった。

考えてみれば朝から焼き鳥1本とソフトクリームしか食べてないので、名物の石焼ビビンバを食してみた…アチチッ!超猫舌の僕はしばし美術品の如くビビンバを見つめる。小皿4品とスープが付いて400円なり。

食後は夕闇迫る街中を散策しつつ、安宿エリアに向かってガイドブックを見ながら北上し、光化門付近まで2kmほど歩く。
ソウルの宿泊代はホテル・ロッテの3万円クラスから裏通りにある旅館の千円代までピンキリだ。僕が目指したのはソウル市内で最低料金の宿、『大元(テウォン)旅館』。1泊が千円なうえ開業20年の歴史があり、バックパッカーの間で知らぬ者はいない名物旅館だ。“沈没者”と呼ばれる長期滞在者が多数いるうえ、18部屋しかないので予約なしだと厳しいとのことだったが、とにかくひと目でもその外観を見たいと思って足を運んだ。

それにしても、某『歩き方』のソウル市内地図は極悪だ。大きな道路以外にも所々に細い路地が描き込まれてるのはいいんだけど、微妙にその位置がズレているんだ。大元旅館の周辺地図は特にいい加減で、地図が指し示す場所に来てから、小一時間も付近を探しまくった。
すっかり日の暮れた異国の地で道に迷うことほど心細いものはない。結局、“まさかこの道ではないだろう”と思っていた一番狭い路地裏に大元旅館はあった。細く暗い道にはいかがわしい店や飲み屋が点在し、僕は客引きの声を振り切りながら突き進み、20時40分、ようやく旅館の前に立った。

なるほど、2階建ての小さな宿だ。赤レンガの壁に瓦葺き屋根の門が建っており、ドキドキしながら中を覗くと、薄暗い電灯の下で談笑している数名の人影が見えた。どうも日本人のようだ。玄関をくぐるとすぐ脇が宿主一家の居間になっていて、そこから陽に焼けた人の良さそうな親父さんが出てきた。
空き部屋があるのか半ば祈るような気持ちで尋ねると、
「チョット、マッテクダサイ」
と日本語での返事。僕は用意された丸椅子に腰を下ろし、一息つく。

中庭がそのまま談話室になっており、庭の隅には沈没者の物だろうか、洗濯物がドッサリ干されている。トイレとシャワーは共同のようだった。
親父さんは部屋を幾つか出たり入ったりしていたが、5分ほどして
「OKデス。コチラデス」
と案内してくれた。ホッ。胸を撫で下ろしてついて行った後、部屋に入って今度は胸を“撫で上げた”!4人部屋なのはいいとして、置いてある荷物を見ると、明らかに他の3人は女性ではないか〜っ!

思わず自分が男であることを強く主張すると、
「ダイジョウブ、ダイジョウブ」
と、なだめられた。いや、僕はともかく彼女たちの方が嫌がるだろう!?そこへちょうど1人の白人女性が帰って来た(後で国籍を訊くとフランス人だった)。目が合うと彼女が笑顔で「ハーイ」と挨拶してくれたので、親父さんは“ほらネ”という顔をしてフツーに去っていった。さすがは海外にも名の通った国際安宿、国籍だけでなく性もボーダーレス。
続いてデンマークの子が帰ってきて、その子も「ハーイ」。(あとの1人は一晩中帰って来ず、国籍は不明のまま)
4畳半ほどの広さに2段ベッドがふたつあり、部屋は御世辞にも広いとは言えない。さすがに気詰まりに感じて、中庭へ出る。

大きなテーブルを囲んで日本人男性4人(18〜38才と幅広い)と中国人の青年が2人、少し離れた小さなテーブルにはドイツ、イギリス、イスラエルの青年、女の子は日本人とオーストラリアの子がいた。イスラエルの彼は、ず〜っと日本の子を口説いていた(最後は玉砕)。僕は皆にハローと軽く挨拶した後、とりあえず空いている席につく。
テーブル上には宿のサービスで、韓国の特産酒マッコルリ(発酵酒)&キムチが並んでいた。白く濁っているマッコルリは、ほんのりと甘味があり、喉ごしはなかなか爽やかで、いくらでも飲めそうだ。
「それ、調子に乗って飲んでるといきなり来ますよ〜」
おかわりしようとしたら、1ヶ月もここに滞在しているという日本人の学生さんが注意してくれた。危ない危ない。
(彼になぜ長期滞在してるのか訊いたら“愛ゆえに”との返事。おお〜。)

墓巡礼は観光地からルートが外れていることが多く、僕はあちこち行ってる割には、あまり他の旅人と情報交換する機会がない(交流があるのは墓の管理人や警官ばかり)。だから、こういう場はとても新鮮だった!
皆の旅話を色々聞いてたが、興味をひいたのは世界各地で“沈没”している日本人の若者の話。タイ、インド、ネパール、パキスタンあたりでは1泊が200円ほどの激安宿があり、そういうところで“葉っぱ”、ようするに大麻=マリファナをキメまくってるとのことだった。
(“葉っぱ”はヘロインと違い、使用を中止しても禁断症状を起こさないから、むしろニコチンを含む煙草より問題ないというのが彼らの主張)

1泊200円ということは1年間泊まり続けても7万3千円だ。食事も同様にメチャ安なので、彼ら“沈没者”たちは日本で1ヶ月だけ建設現場で猛烈に働き、残りの11ヶ月は腕時計を外した王侯貴族の暮らしをしているという。
好きな時に起きて、好きな時に寝て、あとは葉っぱでトリップしてる…う〜ん、話を聞く分には面白いが、文芸ジャンキーの僕には芸術こそが“葉っぱ”なので、その生活はできそうにない。(っていうか、一応インドでも大麻は違法だし)

一日中歩き回っていたのでシャワーを浴びたかったが、そもそも世界遺産の宗廟が定休日でなければ、午前中に墓参を終え船に帰って寝るつもりだったのでタオルも石鹸も何もない。宿の親父さんにレンタル可能か尋ねると、ふたつ返事で快くタオルを2枚貸してくれた(石鹸類は備え付けてあった)。
もともと格安の宿泊料金なわけだし、幾らか余分に払おうとしたら、親父さんは優しく首を振って笑うだけ。ジ〜ン。

シャワー後も零時までマッタリ喋っていたが、僕は明朝7時にチェック・アウトするつもりだったので、早目にベッドに入った。

ところが、暑過ぎて眠れない!クーラーがないうえ、ベッドも上段だったので、熱がこもってどうにもならない。天井に大型扇風機が付いていたのでスイッチを入れると、ヘリが着陸するかのような号音!すでに下段ではフランスの彼女がクカーッと眠っていたので慌ててOFFにした。女性がいるので下着で眠るわけにもいかない…。

心頭滅却すれば火もまた涼し。腹をくくって横になった。やがて肉体の疲労が暑さをねじ伏せ、翌朝「8時」まで爆睡した。

次の朝、宿主夫婦に“また必ず再訪します”とお別れを言い、あたふたと旅館をあとにした。最後に外から写真を1枚撮ろうとしてファインダーを覗くと、日本語で『こちらが大元旅館です』と書かれた看板がそこにあった。
ここって、明るいうちに来てたらこんなに簡単に分かったんだね…。


(第4回へ)



【最新ランク】 DVDトップ100 本のベストセラー100 音楽CDトップ100 玩具のトップ100/(GAME)