世界巡礼烈風伝・2の巻

(2日目)


『ハードボイルド墓・松田優作』


91、94、99年に続く4度目の大江戸墓巡礼の火蓋がきって落とされた。気力体力の充実している内に遠方のハードな墓を先に周るのが、墓マイラーのイロハのイ。僕は東京都あきる野市という、日付変更線を2、3本越えた因果地平にたたずむ街を最初に目指した。
(今日から三日間、漫画家を目指して上京中の元どくされ旋盤工S氏が従軍!)

松田優作の墓は都心から遠く、駅からも遠く、墓の入口からも遠いうえに、山の上にあった。雲ひとつない炎天下、急性の脱水症状を起こしつつ、這うように墓へ向かった。

ようやく辿り着いた時…その墓のカッコ良さとしぶさに疲労が瞬時に吹き飛んだ!黒い墓石に“無”の一字のみが彫らりつけられ、墓前には線香の代わりに数本の紙巻煙草が添えられていたのだ。
裏に回ると小さく松田優作・三十九才と刻まれていた。享年三十九才。日本映画界の損失はあまりに大きい。

(その帰途、同墓地で“赤とんぼ”の山田耕作の墓を発見した)


『わが青春の武者小路』

続いて隣接する八王子市へ、作家の武者小路実篤を訪ねに行った。氏の小説『友情』は、何を隠そう高2の夏に親友から勧められて、僕が生まれて初めて読んだ小説なのだ(世の中には中学時代から文学ファンという早熟な人もいるが、自分はあまり早くない)。

『友情』は小説としては短い作品だが、“惚れる”ことのリアルな表現に、固唾を飲んでページをめくっていた。あれから16年。僕を文学に目覚めさせた実篤に、やっとお礼を言うことが出来た。

墓地には実篤の以下の文学碑があり胸にしみたので記したい…
「死んだものは生きている者に大なる力を持ちうるのだ。生きているものは死んだ者に対してあまりに無力なのを残念に思う」


『新選組副隊長・土方歳三』

新選組の前身、新徴組隊士の証言
「土方は近藤と共に名高いが、彼は温厚の君子で、近藤のような覇気はなかったが、近藤と非常に仲良しで、近藤を兄として敬っていた。近藤も、土方がいなかったら、或いは勤王党の者に不意の襲撃を受け、もっと早く京都で殺されていたかも知れぬが、土方が細心の注意を払って、近藤に余りな無謀なことをさせなかったから、近藤の命もあれだけ続いたのだろうと思う。土方がおらねば、近藤は部下を御する才が欠けているから、新選組はもっと早く分裂したろうが、土方が近藤と隊員との間の連鎖となって、よく隊員等の面倒をみていたから、うまくいったのだ。土方とは対座しても決していやな感じがせず、まことに親しみのある人物だという感じがした。」

二本松藩士の証言
「色は青白い方、身体もまた大ならず、漆のような髪を長ごう振り乱してある、ざっと言えば、一個の美男子と申すべき相貌に覚えました」

幕府典医の証言
「歳三は、鋭敏沈勇、百事を為す雷の如し。近藤に誤なきは、歳三ありたればなり」

敵対する勤王派侍の証言
「近藤勇、土方歳三ノ如キハ、暴悪無頼ノ兇党ニシテ、ソノ行状残忍酷烈ナラザルナシ」


西郷や竜馬を愛する僕がなぜ新選組の墓を訪れるのか。簡単だ。討幕派、幕府派ともにその思想こそ違えども、自分の命を勘定に入れず、真に国や社会を憂いて生き抜いた連中だからだ。考えてみれば、あの時代はどちらの側も行動した者は、ほとんど非業の死をとげている。吉田松陰を無残に処刑した井伊直弼は暗殺され、竜馬たちを血祭りにあげた新選組も全滅し、かつての同志、西郷を討った大久保利通も殺された。
生き残ったのは皇族と巨大財閥だけだ。

土方は維新軍との最終決戦となった箱館五稜郭の戦いで徹底抗戦したが、幕府軍が降伏する直前に
「ここで降伏しては、地下の近藤に合わせる顔がない」
と一人敵地に飛び込み、腹部に銃弾を受けて戦死した。享年34才。日野市石田寺の墓前には、彼の写真(確かに超美形)が置かれていた。そう、130年前から歳をとらなくなった彼が。


『行動作家・徳富蘆花』

15時30分。早朝から巡礼していたにもかかわらず、この蘆花を含めてたったの4ヶ所しか周れなかった。東京はでかいのう。

蘆花は決して知名度が高い作家ではないのだが、東京都の蘆花に対する尋常ではない厚遇に、巡礼して腰を抜かした。蘆花公園駅で鉄道を降り、少し歩いて蘆花公園に入ると、その中には蘆花の文学資料館があり、さらに奥へ行くと蘆花夫妻の墓があったのだ(その資料館はなんとタダだった!)。
一人の作家の墓の為にこれだけの施設があるとは驚きだ。同時代に死んだ漱石や鴎外の普通の墓と比べてすごい差なのだ。
僕は蘆花が大好きなので構わんが、蘆花は反権力を貫いた作家なので、この役所の対応にとまどっているのだ。

1910年に大逆事件(天皇暗殺未遂事件)が起こった時、作家でもあり東大教授でもあった蘆花は、授業中になんと政府を糾弾する「謀反論」を展開、死刑判決を受けた活動家24人は無実だと訴え社会的事件となる。生徒の中には、かの芥川龍之介もいた。
保守層は激怒し謝罪を求めるも蘆花はがんとして譲らず、それどころか『天皇陛下に願い奉る』という抗議文を起こし、また首相にも批判書を送りつけ、とうとう学長の新戸部稲造の更迭問題に発展した。

結局逮捕者は密室裁判のあと問答無用で処刑されたが、この時、文学者で堂々と異議を唱えたのは蘆花ただ一人だった。モノ言えば唇寒しのその時代、右翼のマジ脅迫を考えると、これは冗談抜きで命懸けの行動だった。

他にも蘆花は敬愛するトルストイに会う為に根性でロシアまで行ったり、国家主義者の実兄に絶縁状を叩き付けたりと話題性盛りだくさんなのだ。先の資料館にはトルストイから届いた英語の手紙が展示されている。また、蘆花の次の言葉も壁にかけてあり深く胸をうった…

「人間は書物のみでは悪魔に、労働のみでは獣になる」


『寅次郎新宿慕情』

徳富蘆花と会ったあと、上野に向かう途中で僕らは新宿に繰り出し、ビル街にもかかわらず陸の孤島のようにひとけのない源慶寺に入った。そこは寅さんこと渥美清の御魂が最後の長旅に出発した、寅さんファンの聖地なのだ。

比較的に墓地が小規模だったので、これなら日没までに何とかなるかもと2人で墓石を捜し始めたが、いっこうに渥美家の墓が見当たらない。徐々に場所の真偽が不安になり、寺の宿坊で尋ねてみた。
「アア、田所康雄さんの墓ですね」
「田、田所さん!?」

案内された田所家の墓には、墓石のどこを探しても渥美清の名前はなく、“アッチャ〜、こりゃ分からんわい”と、僕とS氏は顔を見合わせた。

烈風伝を書くにあたって彼の遺言を調べてみた。
『死んでいくのは田所という男であって、寅ではない。寅は生き続けているのだ。だから墓には絶対に本名以外彫るな!』
家族はその意向を尊重し、上記の墓とあいなった(葬式等が全て終わるまで、マスコミにはその死さえ秘密にされていた)。

田所康雄、役者の中の役者である。
その後、上野駅前のカプセルホテルへ18時にチェックインし、20時には早々と昏睡状態に陥った。


      


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