カジポン・タイムズNO.112

●映画『リリイ・シュシュのすべて』は凄絶だった


「自分で遺作を選べるなら、これを遺作にしたい」(岩井俊二)

監督の岩井俊二がこう語る話題作『リリイ・シュシュのすべて』を先日観てきた。2時間26分に渡る14歳の地獄絵巻だ。

僕は見終わった後、足に力が入らず、すぐに立てなかった。自分が体験した2時間半の出来事をどう消化すればいいのか分からず、茫然としていた。
客席を出た後も、ロビーからガラス越しに劇場の外を行き来する大勢の通行人を見ると、とてもじゃないが世間に直ぐさま飛び出す「勇気」が湧かない。人間の心というものの繊細さ、壊れやすさが改めて怖くなった(分かっていたはずなのに)。

“僕は、たまたま生き延びたんだ”
---これが最初の感想だ。

劇中では、いじめ、万引き、恐喝、暴行、援交、リンチ、自殺、そうしたドロドロの現実が淡々と描かれてゆく。主人公はいじめを受けている少年。だが、この映画は“いじめ”そのものがテーマではない。あぶり出されたものは『閉塞感』だ。それも、側で死がポッカリと口を開いて待っている最悪の閉塞感だ。誰もが多かれ少なかれ14歳前後に体験してきたであろう、あの恐ろしい行き詰まりだ。

僕は学校や家の他にも違う世界があることを、大人になった今では知っているけど、あの時代はすぐ目の前の生活圏しか見えなくて、本当に窒息寸前の毎日だった。逃げ場のない空間(と当事者が思ってる)でもがいていた日々は、成長と共にいつの間にか過去になったが、過去になる前に散ってしまう者もいる(99年度の中高生の自殺者は約200人)。
多様な人生観が形成される前の、コミュニケーションの難しさ。僕は中学の頃の複雑な人間関係を生々しく思い出し、めまいを覚えた。
(それにしても、この年代のいじめの陰湿さはひどい。人生経験が浅く、まだ相手の苦しみを想像することが出来ないからか、いじめには限度というものがない)

自分の体験でいえば、14歳の頃に出来たことは、ただ泣くか、叫ぶか、死ぬかしかなかったように思う。大抵の人間は二十歳前後になると、それぞれに「生き続けるコツ(考え方)」を身に付けているが、10代前半では生き方の選択肢に関する情報が圧倒的に少なく、直面した惨禍からまともに衝撃を受け打ちのめされる。
授業と部活とプレイステーションだけでは逃げ場がすぐになくなってしまうのだ。

この映画のキャラクターの多くは、そういう現実世界の「痛み」に負けてしまう。ある者は死を選び、ある者は他者を傷つける側にまわる。この時代を生き延びた僕らは「大人になる」ということが「痛み」を抱えて生きていくことだと知っているが、先の見えない彼らはどうすれば、生きていく力を持つことが出来るのだろう?

(タイトルになっているリリイ・シュシュは劇中で主人公の蓮見が夢中になっているカリスマ・ミュージシャンの名前であるが、映画は別にリリイの生涯を描いているわけではなく、題名に深い意味はない。第一、当のリリイが登場しない)

主人公の蓮見はいう、
「僕にとって、リリイだけが、リアル」
と。裏を返せばリリイ以外は、いじめも友人の裏切りも、この世のすべてはリアルではなく、だから彼は生き続けることが出来るということか。
一方、彼をいじめている少年もリリイの音楽を心の拠り所にしており、加害者と被害者は同じ音楽を聴いて癒されている。双方が現実を否定しようとあがいている。

この作品が今までの映画と異なるのは、生活と密着したネットの存在が描かれていることだろう。現代の若者にとって匿名空間のネットは、自分の心を裸にして他人と向き合える貴重な場となっている。主人公と、彼をいじめる少年は、リリイのファン・ページで名前を変えて出会い、両者は互いを理解し支え合う心の友となる。なぜ2人は実生活でも友人になれなかったのか…これは観ていて本当に切なかった。

辛く息苦しい場面の多い作品だが、そうした殺伐とした映像の合間には、雲ひとつない眩しい青空や、地平線まで続く水田の緑が随所に挿入されており、作品全体は不思議な透明感で満たされていた。重いのに、重くない。

映画のキャッチ・コピーは『十四歳の、リアル』。十四歳をリアルに描いたのではなく、十四歳に“とっての”リアルを描いた映画であり、今までどの映画監督も描けなかった、「あの時代」を空気までも描ききった類まれなる傑作だ。


★以下はラストに触れるので、映画を未見の人は読まないように


蓮見(フィリア)と星野(青猫)のネット上のやりとりは、後から思い出すと本当に切ない----------

「死のうと思いました。何度も何度も。でも死にきれなかった。堕ちる!堕ちる!堕ちる!永遠のループを。落下し続ける。誰か!僕を助けてくれ!誰か!ここから助け出してくれ!」(蓮見)
「あなたは感じているはず、透明なエーテルを。誰よりも、深く。」(星野)
※エーテルは全宇宙を構成しているといわれている物質の総称。
「分からない。僕には分からない。」(蓮見)
「僕には、分かる。何故なら僕も、きっとあなたと同じ、痛みの中にいるから。」(星野)

「僕は大きく息を吸ってみる。『呼吸!』もうそれだけで僕はすべてを理解できる。リリイの意図するそのすべてを。」(星野)
「『呼吸!』僕は声に出して言ってみる。『呼吸!』」(蓮見)
「生きている!生きている!純粋なエーテルの中を!僕らは、生きている!」(星野)
「呼吸!呼吸!呼吸!」(蓮見)
「共鳴!共鳴!共鳴!」(星野)

「僕は空を飛んでいる!飛んでいる!飛んでいる!」(星野)
「青猫さん、あなたに会えて良かった。」(蓮見)

星野は自分自身と他者への破壊衝動を抑えられなくなり、助けを求めているように見えた。だから蓮見は星野を刺したことで、図らずも彼を救ったように思う。しかし、14歳の少年にとっての救い=死というのは、あまりに辛い。
観終わって10日近く経った今、星野が夕暮れ時に「ワァーッ」と叫ぶシーンを一番よく思い出す。

津田詩織も悲しすぎる。彼女が「久野は大丈夫」と蓮見に言って、当の津田自身が「大丈夫」ではなかったのは痛々しかった。久野が最後まで自己の尊厳を保ち、毅然として生き続けたことが、この作品のささやかな救いだ(蓮見にとっても、ね)。

久野が星野に、星野が蓮見に、蓮見が津田にリリイを伝えたことで、登場人物4人が全員リリイを共有していた。だが久野がリリイを聴くシーンは一度もない。彼女はもうリリイを必要としないのだろう。
エンディング。ヘッドホンで周囲の風景を遮断して、リリイの世界に浸っているのは、蓮見と、既に死んでる星野・津田だけということに泣いた。


(P.S.)コンサート会場の前で星野がどうして蓮見のチケットを捨てたかについてだけど、小説版の解釈はこうだ------

「星野=青猫は、リンゴを持ってフィリア(正体を星野は知らない)が来るのをしばらく待ってた。が、誰も会いに来ない。そのうちコンサートが始まってしまうので、リンゴを蓮見に預からせて外で番をさせることにした。そのため、チケットを捨てて蓮見を外に立たせっぱなしにした」

青猫もまた、極限の絶望の中にいた。


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