【命の環の話/父の葬儀の日に赤ん坊が産まれた】

〜2009年10月23日、26日の日記から〜


★2009年10月23日

父が他界した。享年69歳。告別式は26日。

父の人生は壮絶の一言だった。かつて、T辺製薬の製薬・技術部で薬の開発にかかわっていた父は、同社が薬害スモン事件(服用者が下肢対麻痺に陥った)を引き起こし集団訴訟で告発された際、社員であるにもかかわらず原告側(被害者団体)の味方になって出廷し、内部告発を行なった。会社では社長が社内放送で「被害者に協調する者は、今後会社の敵と見なす」と警告。その状況で証言台に立った父の行動は会社への裏切り行為とされ、当時(30代)、係長で課長になる直前だった父は“懲罰人事”で平社員に降格。その後、50代で退職するまで全く出世できず、最後まで平社員だった。

正義感が強かった父は居住する団地の自治会会長になり、盆踊りから排除されたヤクザ(テキ屋)が嫌がらせで祭りに乱入してくると、自分の両腕を背中で組んで「俺の腕は後ろだ。こっちからは何も出来ん。指1本でも触れてみろ、その瞬間に傷害で警察に連絡するからな」と、自分の胸を突き出して体でヤクザを押し返した。他にも、それまで緊急車両が通れないほど酷かった違法駐車を、警察の力を借りずに自治会だけで無くしたり、団地の中に図書館を作ったりした。この図書館は建設に賛成した住民たちが持ち寄った本だけで成り立ったもの。大きな団地ゆえ、たくさんの本が集まった。

父の“正義感”は政治活動にも向けられた。まだソ連など東側諸国が崩壊する前だったので、父は社会主義・共産主義に理想を抱き、活動家として給料の多くを“コイツなら信頼できる”と思った議員や色んな平和団体にカンパしていた。おかげで家はいつも金がなかったけど、父は自分の活動の意味を家族にも日々語っていたので、誕生日もクリスマスも、一度もオモチャを買ってもらえなくても不満はなかった。

父の行動力に一番驚いたのは、ソ連がアフガニスタンに侵攻した時、自ら内戦中のアフガンまで行って現地の実態を見に行ったこと。米国(CIA)とイスラム・ゲリラ(ここにビン・ラディンらもいた)が密接に繋がっていることから、父は「ソ連とゲリラの戦争は長引くし、ソ連撤退後はイスラム勢同士の内戦になるだろう」と予測していた。

父の理想主義は妥協を知らなかったので、共産党であろうと、当時の最大野党・社会党であろうと、少しでも“間違っている”と思った時は真っ向から批判した。その為、共産党からは除名され、社会党の事務所でも煙たがられ、父は半ば一匹狼のような状態で活動していた(もちろん過激派の暴力主義も否定)。そして「草の根の民間交流が平和の第一歩じゃ!」と、東西の冷戦真っ只中の時代に、どういうツテがあったのか分からないけど、“ソ連領事館”の人たちを団地に招待して「寄せ鍋パーティー」を開いたりした。ロシア人と近所のおばちゃんたち(@大阪)が一緒に同じ鍋をつついている構図は、“ソ連脅威論”が声高に叫ばれていた70年代には、とってもシュールな光景だったと思う。

子供心に不思議だったのは、父が電話で時々偽名を使っていたこと。ある時、理由を聞くと“公安(警察)に盗聴されているから”との返事。これは大袈裟な話じゃなく、家の向かいの棟の一室を公安が借りあげ、家に出入りする人間をチェックしていた。彼らは“見ているぞ”とプレッシャーをかけるためか、わざと双眼鏡をチラつかせた(小さな僕は怖かった)。また郵便物を調べられるので、父は集合ポストにダイヤル式の鍵をつけた(30年前は郵便受けの施錠が珍しく、僕の棟では父が最初だった)。

父が人と会う時は尾行をまく為にパチンコ屋に入って裏口から出たり、満員電車に乗る時は罠にかけられないよう、両手をいつも吊革に置いていた。こうした一連のことは薬害訴訟の時期と重なっており、「(政治活動だけが原因じゃなく)製薬会社が俺の弱味を握りたく、その筋から公安に働きかけているのだろう」と父は語っていた。やがて幾ら父をマークしても何も出て来ないと諦めたのか、公安の張り込みはなくなった。

父は平和主義者だったけど、僕と弟(3つ下)を叱る時は容赦なかった。一度、怒り狂った父が襖(ふすま)を外して手裏剣のように投げ、僕と弟が同時に吹っ飛んだことがあった。“究極奥義・襖手裏剣”は一発で2人を制裁できて一石二鳥らしい。他にも、ウイスキーの固い角グラスを投げられ、それが僕の左腰に命中して割れて破片が入り、30代まで傷が残っていた。でも、そういうことで父を逆恨みしたことはなく、「確かにこっちが悪いよな」と弟と話し合っていた。

だが、あることが原因で、僕・母・弟の3人は父と喧嘩が絶えなくなり、ついには家族がバラバラになってしまった。理由は父の深酒だった。度を超えていた。毎晩、記憶がなくなるまで飲み倒し、糖尿病になってからはインシュリン(注射)を打ちながら酒を飲んでいた。メチャクチャだ。理想主義者ゆえに現実とのギャップが耐えられず、会社、自治会、政治活動で抱えたストレスを全部酒にぶつけていたのだ。
家族は酒を止めさせようと、家にある酒を全部台所に流したり、近所の飲み屋に出入り禁止にしてもらうよう頼んだり、色んな努力をした。でもダメだった。父は「なぜ酒を捨てた」と怒鳴り散らし、どこかの知らない店で酔い潰れるだけだった。
この辺りのことは書き手も読み手も暗くなるので、これ以上は書かないでおく。とにもかくにも、その後、まず高2の夏に僕が家を出て、その4年後に弟が“とにかく父から離れたい”と関東の大学に逃れ、最後に母親が愛想を尽かして家を出た。ほどなく離婚が成立し、父は独りぼっちになった。

それから数年が経ち、父は母に去られたことが余程ショックだったのか、すっかり心を入れ替え、酒の量が劇的に減っていった。父は引っ越して生活を仕切り直し、退職金を注ぎ込んで碁会所(囲碁や将棋をする場所)を経営した。自分でレジを打ち、客にお茶を運び、囲碁・将棋の相手もこなした。この頃、僕はトラックの運転手をしていて、配送ルートと父の碁会所が近かったので、時折店を覗いては、生き生きとしている父の姿に驚き、“今の父なら母も見直すかも”と思ってもみたが、母は既に再婚しておりそれは不可能だった(ちなみに母の再婚相手はとても誠実な男性。僕はこの人も尊敬している)。

父が碁会所のマスターになって2年が経った頃、「お前に紹介したい女性がいる」と連絡があった。それまで全くそんな話が出てなかったので仰天したけど、9歳下の女性客(Mさん)が父のことを好きになってくれ、再婚することになったという。
※お通夜の時に分かったけど、Mさんは開店第1号の客なんだそうだ。住んでいるマンションの1階に父の店が出来たので、興味半分で入ったのが始まり。父がその場所に店を持たなければ出会うことがなかったわけで、縁というものは面白い。

04年(64歳)、父は脳梗塞で倒れた。店のカウンターで朦朧とし始めたのをお客さんが見ており、すぐに救急車を呼んだお陰で一命をとりとめた。だが、右半身に障害が残り、支えなしの歩行は困難になった。僕が忘れられないのは、遠方から駆けつけた弟と父が数年ぶりに対面した時のこと。父は弟に向かって涙を流しながら「今まで悪かった。すまんかった」と、か細い声で謝った。弟は黙って聞いていたけど、病室を出て階段に差し掛かったところで座り込み、顔を手で覆って号泣した「あんなに怖かった親父が…」。弟は僕より長く実家にいた分、父と衝突した体験がずっと多い。この時、弟は34歳。しゃがみ込んでオイオイ泣いている弟を見たのは小学校以来であり、この日、父と弟が和解できたことが嬉しかった。(ちなみに、父が他界したのは弟の誕生日!なんたる偶然。“しっかり生きてくれ”という、弟へのラストメッセージにも思える)

2年後、再び脳梗塞が父を襲った。この時も何とか命は助かったものの、手足の機能をかなり奪われ、完全に車椅子の生活になった。記憶が混だくし、近い出来事を覚えられなくなる。それでも、父はジョークを言ってはMさんを笑わせ、ヘルパーの人に感謝の言葉を忘れなかった。

昨年2月。朝からデイサービスに行っていた父は、昼食のおでんが喉に詰まって窒息し、救急車が到着した時は心肺停止になっていた。電気ショックで蘇生したものの、医者は「10分近く心臓が止まっていたので、蘇生しただけで奇跡。明日までもつか分からない」と告げた。集中治療室のベッドの上で、ケイレンを繰り返し、何度も全身が跳ね上がっている父の姿は、あまりに惨たらしかった。

だが、父はタフだった。病院が替わったり肺炎になる度に「せいぜいもって1週間」と医者に言われたのに、その都度ピンチを乗り切った。CTスキャンで見た父の脳は、9割かた組織が死んでいたけど、見舞いに行って声をかけると、眼球が動いて視線が合うこともあった。あくびをしたり、表情が緩むこともあり、医者がいくら「残念ですがただの反射の一種です」と言っても、僕らは希望を捨てなかった。

そして09年10月22日、今までにないことが起きた。父の妹さんが見舞いに行き、子供時代の思い出話や阪神大震災の話(神戸の叔母の家が半壊し、父は大阪から自転車に弁当を載せられるだけ載せて送り届けた)をしていると、急に父は顔をクシャクシャにして涙を流したという。そんなことは窒息以来一度もなかった。「それはスゴイ!」と僕は興奮し、翌日に夜見舞いに行くつもりでいたら、午後になって「お父さんが亡くなった」とMさんから連絡があった。
“父が?なんで?元気になったんじゃ…?”僕は事態が理解できなかった。父は容体が急変し、家族に連絡する間もなく旅立ったという。絶句した。まだまだ、もっともっと、父とは話したいことがあった。人生のことはもちろんのこと、米国も日本も政権が変わり、核廃絶の動きも出てくるなど、今の世界について父の意見を聞いてみたかった。

“身内が誰も最期を看取ってあげれなかった”と僕が亡骸の前で落ち込んでいると、叔母は「私はお父さんらしい、良い最期だと思うよ。自由奔放に生きて、最期も1人でサクサク行ってしまうところが」。“良い最期”という言葉で涙が堰を切って流れた。

父が心肺停止後、1年8ヶ月も生きることができたのは、毎日碁会所が終わると必ず病院に行って父の髪や手を撫でてくれたMさんのお陰だ。父は意識が戻らなくても、Mさんの愛情を肌で感じていたはず。父は人生の最後に、こんなにも自分を愛してくれる人と出会えて、本当に幸せだったと思う。父さん、育ててくれて本当に有難うございました。

※死の直前に命の炎が一瞬輝くと聞くけど、前日の父の涙がそうなんだと思う。
※僕は子供の頃に父が泣いているのを見たことがないんだけど、お通夜で弟が「僕は一度だけ見たことがある」と言うので、シチュエーションを聞いて大笑いした。なんと、父が泣いたのはハイジの最終回でクララが立ったシーンだった!弟は父が鼻をすする音が聞こえるので、まさかと思って横目で見ると、滝のようにボロ泣きしていたらしい。これには皆が笑った!

  元気な頃の父



★2009年10月26日

今日、赤ちゃんが産まれた!元気な男の子。体重は3200グラム。身長48.4cm。父の葬儀と同じ日に産まれてくるなんて、こんな映画みたいなことが実際にあるのかと、自分でも信じられない気持ち。僕は41歳で父になった。

1月の末、妊娠が分かった時にこの日記に書こうとも思ったけれど、妻はひとつ年下で高齢出産となり、しかも初産ということで、無事に産まれてくるまで本当にどうなるか分からず、もしもの時は2人の胸にしまっておくつもりだった。妊娠の後半まで逆子になっていたり、前置胎盤気味だったり、いろいろ不安なことがあったし、出産予定日が10月16日なのに、25日になっても一向に産まれてくる気配がなく、“このままでは母子共に危険になるのでは”と最後までハラハラした。

ところが昨夜、父のお通夜の最中(23時頃)に「ちょっと痛くなってきたので病院に行ってくる」とメールが入り、早朝4時半には「子宮口が5cm開いたので朝までに産まれそう」と付き添っていた彼女の母親から連絡があった。葬儀場から病院まで車で約1時間。速攻でタクシーを呼んだけど、時間が時間なだけにすぐにつかまらず、葬儀場の入口で足踏みしながらタクシーの到着を待った。その15分間の長かったこと!運転手さんに事情を話すと「この時間なら道も空いてるし40分で行ったる!」と心強い言葉。僕は心の中で“間に合え!間に合え〜ッ!”って祈っていた。5時半に分娩室に入ると彼女が歯を食いしばって「ヒッ、ヒッ、フーッ」と頑張っていた。間に合った!

赤ちゃんは子宮口が10cm開くと出て来られる。7時半の時点で9cmになり、先生も「山の9合目まで来ましたね」とおっしゃり、“もうじきだ”と手に汗を握った。しかし、ここからが本当の戦いだった!最後の1cmがなかなか開かず、2時間、4時間が経っても9合目から先に進めない。他の病院では2時間変化がなければ陣痛促進剤を投入することが多いけど、この病院はなるべく自然の力に任せるという方針だったので、6時間変化がなくても「もう少し待ってみましょう」ということだった。隣室ではイザという時の為に帝王切開の準備も進められていた。彼女は「フーッ、ウンッ、フーッ、ウンッ」とめちゃくちゃ苦しそう。リキみ過ぎて脳の血管が破裂しやしないかと焦った。僕は助産婦さんから「腰をさすってあげて」と言われていたので、7時間、8時間と、ひたすらさすっていた。

一方、この頃葬儀場では父の告別式が迫っており、弟が「兄ちゃん、後のことは任せてくれ。骨を拾ったらそっちへ行く」と言い、Mさんも「お父さんなら分かってくれるし、“ワシのことよりそっちを優先しろ”ってきっと言うわ」と言って下さったので、僕はそのまま妻の側で出産に立ち会うことにした。
さらに時間が経過した午後2時(昨夜23時の陣痛開始から15時間、9合目になって約7時間)、“パンッ”という音が部屋に響いて彼女の体に破水の衝撃が走った。子宮口は10cm。ヨッシャー!いよいよ分娩は最後の段階へ。赤ちゃんの黒髪が見えてきて、すぐそこに新しい生命があると思うと、なんかもう言葉にならない熱いものが胸にこみ上げてきた。(後から分かったけど、妻は先の見えない不安と長時間分娩の赤ちゃんへの影響を考え、陣痛促進剤か帝王切開をお願いする寸前だったらしい。その矢先に破水した)

助産婦さんは「今から小一時間かかるので、上手くいけば3時だね」。これまではリラックスするのが大切だったけど、これからは定期的にくる陣痛の波をうまくピークで掴まえて、上手にリキむことが重要。だがしかし!そう簡単には出て来てくれない。普通は1分くらい陣痛が続くので、一度の波で5回ほどリキめるんだけど、妻は30秒しか続かないので2回しかリキめなかった。髪は見えているのにそこからがなかなかだった。小一時間のはずが3時間経過。妻はヘトヘトで「もう腰が痛すぎてお腹がどうなっているのか分からない」「本当に産まれるのかな」と弱気になっていた。先生は「陣痛が弱いので吸引器を使うべきかも知れないが、永遠に産まれないわけはなく、私としてはもう少し自然分娩にかけてみたい」とのこと。

助産婦さんが分娩室に音楽を流してくれたので、僕はとっさに「これって“持ち込みCD”もアリですか!?」と尋ねるとOKとの返事。急いで妻の個室に戻り、胎教用に作って毎日聴かせていた「カジポン特製8枚組スペシャル胎教CD」を持って分娩室に戻った。ところがケースを開けると、一番よく聴いていた1枚目のディスクがない!「しまった!家のCDデッキの中だ!」。そのディスクはバッハの『G線上のアリア』(5分)が、オーケストラ、ギター独奏、パイプオルガン版など、様々なバージョンで入っている大のお気に入り盤だ。やむなく他のディスクをかけてもらったけど、他の作曲家は何かが違い、しっくりこない。“やはりバッハでないと!”。家まで走って往復10分。僕がいないことで妻が不安がるといけないので、彼女に気付かれないようソッと分娩室を抜け出し、ジャマイカのボルト選手を余裕で上回るスピードで家まで走り、サイボーグ009の加速装置を圧倒する速さで分娩室に戻った。「ゼーハー、ゼーハー、こ、このCDを、かけて下さぁあああい!」。

取りに戻って大正解だった!助産婦さんが『G線上のアリア』をかけると、1度目のリキみで頭が3分の1ほど出て、2度目で口のあたりまで出て、3度目で一気に“スッポーン!”と足の先まで全部出て来た!そしてほぼ同時に西日本全体に轟きわたる声で「オンギャーッ!!」。なんという高らかな泣き声!泣き声に“高らか”というのも変だけど、本当にそんな感じだった。ときに09年10月26日17時21分。18時間半をかけた出産になった。

泣きまくっていた赤ちゃんは、へその緒を切られ、妻の胸に抱かれた瞬間にピタッと泣き止んだ。ほんと、瞬時におとなしくなった。それにもビックリ。ちゃんと一番安心できる場所って分かってるんだなぁ。赤ちゃんが泣き止む一方、こっちは緊張の糸が切れて安心感に包まれ、文字通り“滝泣き”だった。

分娩室の外では、実母と義父、妻の母が12時間も待ち続けてフラフラになっていた。面会が可能になって対面した時の喜びようは、盆と正月とクリスマスと全祝日が同時に来たような騒ぎだった。妻は産後4日間入院するので、朝から殆ど何も食べてなかった母たちと4人で食事に出かけ、祝杯をあげ喜びを分かち合った。
僕も妻も若くないので、親は孫の顔を見られるのか内心不安だったと思う。僕たち夫婦だって、子供のいない老後の生活設計を考えていた。全くもって、人生は分からない。

僕は迷信とかあまり信じる方ではないんだけど、予定日から10日も遅れて、父の葬儀と同じ日、それも火葬のすぐ後というタイミングで、バトンタッチするように産まれてきた我が子に、不思議な縁を感じてならない。この子は自分では気付いていないけれど、既にたくさんの人を幸せにしてくれた。父を失って悲しんでいる人の皆が、葬儀後に届いた赤ちゃんの誕生の知らせを心から喜んでくれた。

この子がどんな人生を送るのか未知数だけど、僕は初めて抱っこした時にこう語りかけた「お前の生まれてきたこの世界は、とても美しく、素晴らしい世界なんだよ。良い音楽や絵がたくさんある。優しい人も一杯いる。とーちゃんと、かーちゃんが、それを教えてあげるね」。赤ちゃんはキョトンとしてた。

以上、長文を読んで下さり有難うございました!子育てを通して、自分の人生観やモノの見方が、いろいろ変わっていく気がします。

ようこそ、芸術が溢れる
この美しい世界へ!
(まだ生後30分デス)
ちっちゃな手で
しっかり握ってる


※名前は性別がどちらでも産まれる前から“風(ふう)”ちゃんに決まっていた。誰でも読めて覚えやすいだけでなく、3つの大切な願いが詰まってる。
(1)風に国境は関係ないように、世界を自由に生きて欲しい
(2)風が人々の間を通っていくように、いろんな人と出会いながら歩み続けて欲しい
(3)今の社会はすぐに“結果”ばかり求め“過程”が重視されない傾向がある。ガンジーは「重要なのは行為そのものであり結果ではない。行為が実を結ぶかどうかは、生きているうちに分かるとは限らない。正しいと信ずることを行いなさい。結果がどう出るにせよ、何もしなければ何の結果もないのだ」と語り、ベートーヴェンも「行為の動機が重要であって結果は関係ない。精神生活が旺盛なら結果を考慮しないし、貧困と不幸は単に事柄の結果であるにすぎない」と語っている。風は生まれた(吹き始めた)場所では何の力がなくても、その風がやがて遠くへ吹き渡った時に、何を動かしどんな影響を与えるのか分からない。この子も、たとえ努力が周囲に認められなくても、自分の信じる道を歩んで欲しい。希望をもたらす“黄金の風”になってくれたらと願っています!
→出産の時は風ちゃんを取り上げてくれた婦長さんが「風ちゃんいらっしゃい」と声を掛け、助産婦さんたちも「風ちゃんようこそ」「風ちゃん待ってたよ」と声を掛けて下さった。“ヒッ、ヒッ、フーちゃんだね”とかジョークも飛び出し可笑しかった。

●YouTube 誕生から30分後の風ちゃん(58秒)

●ルイ・アームストロングが歌う『素晴らしきこの世界』(ホワット・ア・ワンダフル・ワールド)と影絵とのコラボAmazing Hand Shadowが心に浸みマス。

●子育てブログを開設しました。タイトルは風ちゃんの名前と、世阿弥の“風姿花伝”をもじった“風詩歌伝”

※「カジポン特製8枚組スペシャル胎教CD」…曲目リスト





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オヌシは 番目の旅人でござる