カントレフ、彷徨
                                         
                              
カジポン・マルコ・残月

第8回

  (三)教授からカントレフへ

 
カントレフが外套を羽織って外に出ようとした時、不意に教授が彼を呼び止めた。
 「待ちたまえ!」
振り向くとイゴーリンは壁一面の本棚からてきぱきと三冊の本を取り出した。
 「これを持ってお帰りなさい。」
 「これは…画集ですか?」
 「ウム。その本が、あるいは君を救うことがあるかもしれない。」
画集の表紙には『ルーベンス』『フェルメール』『レンブラント』と記されていた。カントレフは、哲学書ではなく、どうして絵なんだろうかと、教授の真意を計りかねた。
 「君、絵の方は明るいのかね?」
 「いえ、故郷の村に絵を描くものは一人もいませんでしたし、帝都での生活は絵と何の接点も無かったもので…。」
彼はそう答えたが、書店のガラスケースに入った新技法の色刷り画集はあまりに高価だった為、わざと無視していたのも理由のひとつだった。
 「なに、今だに国立美術館のないこの国の文化事情では、それが普通ですよ。ロマノフ王朝は絵画の至宝を一部の特権階級にしか公開していないんだから。皇帝はロシアに大画家を誕生させる気などサラサラないんだろう。革命でも起こしてあそこ(エルミタージュ)を開放せん限りどうにもならんよ。」
カントレフは『革命を起こして』という言葉が、公職の教授から飛び出したので耳を疑った。皇帝の秘密警察の耳に入れば、確実に裁判抜きで投獄されるだろう。その大胆さに感服したが、そうも言ってられないので慌てて別の角度から質問をしてみた。
 「よその国ではもっと人々と絵画が身近なのですか?」
 「少なくとも、フランスや英国の国立美術館は全国民に開放されているよ。以前学会でパリを訪れた時、ルーブルの館内が様々な階層の人でごった返していて面食らったものだ。それに市内のあちこちの街角で、画学生がよくスケッチをしていたねぇ。彼らは新しい絵画様式に夢中になっていてね、“ルーブル詣で”をする私を捉まえて、連中は『ルーブルなんて前時代の遺物はやめてこっちに行け!あんたは考古学者か!』と言い、御丁寧に別の展覧会を教えてくれたんだ。」
 「それはまた血の気の多い…で、どうでした?」
 「あっぱれ恐れ入ったよ。それは印象派と呼ばれる新進の画家集団の展覧会でね、当時私は絵画といえば宗教画か神話画、もしくは貴族たちの下劣な肖像画しかないと思っていたが…。」
 「思っていたが?」
 「連中は夕空や水面を描くんだ。」
そう言ってイゴーリンは肩をすくめた。
 「は?…テーマとかは無いのですか?」
 「テーマ。テーマねぇ。しいて言えば『光』かな。中には光しか描いてない絵もあったくらいだからな。」
今度はカントレフが肩をすくめた。
 「光を描く…言葉で聞くと、何だか雲をつかむような話ですね。」
 「画集があれば良かったのだが、なにぶん始まったばかりの運動でまともに出版されていないのが現状でね。ま、遅かれ早かれ連中は時代の本流になるよ。」
カントレフは手元の三冊に目をやった。
 「この三人は印象派ですか?」
教授は一瞬呆然とした。が、すぐに気を取り直した。こういうことは学生相手に日常茶飯事だったからだ。
 「いや、そうではない。その三人は二五〇から三百年も昔に生きていた画家で、印象派とは全く関係が無い。私がその画集を渡した理由のひとつは、君に灯台守は文学者だけではないということを、知ってもらいたかったからだ。音楽家の中にも、彫刻家の中にも、灯台守はいる。その三冊は“画家の灯台守”によって描かれたものなんだ。どんな時代が来ようとも決して色褪せることがない、魂のレベルで受け継がれていく作品なんだ。次の持ち主は君だ。」
 「しかし、よろしいのですか?こんな高価な本を…。」
教授はまたいたずらっぽい目で笑った。カントレフを安心させるその目を見るのは三度目だった。
 「あまりに何度も見過ぎて、今や、目を閉じればいつでもどこでも見られるんですよ。心配には及びません。」
 「では、今晩の内にさっそく目を通させて頂きます。」
 「最後にひとつだけ付け足しておくと、何かで落ち込んだ時に、画集ほど即効性のある秘薬はありませんよ。画集は開いた瞬間から効果があり、問答無用で、即、恍惚状態ですからね。そういう状態に至るまでには、没入するためのまとまった時間が必要な文学よりも、そして蓄音機など複雑な装置を必要とする音楽よりも、絵画は遥かに有効ですから。“非常事態”など緊急を要する際は特にね。」
 教授はカントレフの肩を軽く叩いた。
 「またいつでも顔を出したまえ。強烈な灯台守のゴヤを紹介するよ。それに来月に画集が出る、ちょうど十年前に自殺したオランダ人画家…名前は確かゴッホだったと思うが彼のも一緒に見ようじゃないか。彼に関する様々な噂から察すると、どうやら彼も灯台守の一族とみてまず間違いがないようだ。」
 「それは楽しみですが…私がお邪魔ではないのですか?」
 「とんでもない!我々の親戚は世界中にいますが、現代社会の中ではどこでも拝金主義者たちに圧されて、日々絶滅の道を歩んでいる民族です。私だってまだ彷徨が終わったわけではありません。君のような同族の彷徨者は大歓迎ですよ!」
カントレフは、教授が彼のことを同族と認めているのを聞いて、思わず涙が溢れそうになった。卑屈になっていたわけではないが、やはり心強かった。

 カントレフは丁寧にお礼を述べた後、廊下に出た。
 「それでは、おやすみなさい。」
 「おやすみ。」
扉が閉まった。扉が閉められる直前に教授が続けてポツリと呟いたが、そのまま閉まってしまったので彼は返答できなかった。それは次の様な小さい呟きだったが、あまりに鮮烈な言葉だったので、耳の奥底に刻み付けられた。
 「…では、神の犯した罪は誰が裁くのだ?」


次回第9回“今、扉は開かれ”