カントレフ、彷徨

                                         
                              
カジポン・マルコ・残月

第6回



第三部・灯台守、イゴ−リン教授

  (一)邂逅

 
帝都に霧が出始めていた。彼がそろそろ家に帰ろうと、徐々にネフスキ−から離れようとしたその時、通りの少し先の方から人々の頭上を越えてたくさんの賑やかな声が聞こえてきた。
 「いらっしゃい!いらっしゃい!帝都最大の書店だよ!いらっしゃい!」
彼がうつむいていた顔を上げると、その視線の奥に、凍てつくような霧の中、こうこうと照明に浮かび上がった巨大な書店が見えた。ものすごいガス燈の数だった。
 (そういえば、あの新しい書店は今日が開店日だと何かに書いてあったな。面白い。俺の誕生日と同じとは。)
彼はこの日、誕生日といっても別段何も普段と変わらぬ一日を送っていたので、せっかくだから自分自身に本の一、二冊でも買ってあげようと思い、少し寄り道する事にした。店に近づくと『プーシキン』という看板が見えてきた。
 彼はこの“自分に買ってあげる”というフレ−ズが、何とも自虐的で妙に気に入り、自己憐憫の快楽に耽った。
 (いつか俺を好きだと言ってくれる女性と“偶然”巡り会えたら、こういう寂しい誕生日も懐かしい思い出になるのだろうか。)
 “偶然”の出会い。独り身のカントレフは、一定の年齢を過ぎた頃から故郷の両親や仕事場の親方から、結婚について、とやかく言われることがなくなった。『早く落ち着け』というのが『こればかりは縁だからねぇ』という言葉に、時の流れと共に変化していった。苦い恋を経てきた彼は、そういう“偶然”に大きな期待を持つことをあえて抑制していたが、クリスマスや誕生日にポツンと部屋にいると、さすがに早く“偶然”が来て欲しいと切望してしまうのだった。なかでも、ペテルブルグ中の寺院の鐘が一斉に鳴り響く新年の瞬間がとりわけきつく、いつもベッドの中で強く両耳を押さえ付けている状態で新年を迎えていた。

 人々の波を縫って『プーシキン』に入ると、中は激寒の外と大違いで、ひしめきあう大勢の客のひといきれで、外套を羽織ったままでは汗をかいてしまうほどだった。彼はとりあえず、入口近くの新刊本の一角を適当に物色することにした。すると、ちょうど巷で話題になっている、例のドストエフスキ−氏の特別コ−ナ−が設けられていた。何種類もの本があったので、適当に本を手にとってパラパラとめくっていると、悪夢としか思えないような言葉が目に飛び込んで来た。

 『偶然のない人生もある。』

 彼はまるで熱湯が手にかかったかのように、小さく叫び声をあげて反射的に本を投げ出した。周りにいた何人かの客が驚いて振り向いたが、彼は身を引いたまま固まっていた。少し間を置いて、側にいた一人の客が、静かに床の本を拾いあげた。
 「顔色がよろしくありませんが、大丈夫ですか?」
きちんと身だしなみの整った、紳士的な中年男性だった。
 「す、すみません。」
その男性は、まだ少しカントレフの視線が定まっていないことに気づいた。
 「あなただけではありませんよ、彼の作品にギョッとするのは。むろん、彼のはそこがいいんですがね。」
そう言って彼は片目をつむってみせた。
 「そこがいい…彼を愛読されているので?」
 「愛読?言葉にするとそうなるかな。しかしだね、君、彼の作品はまるでアヘンだよ。取りつかれたように、何度も手が伸びてしまう。畢竟、あの緊張感に病み付きになってしまったんだな。抗うなんてことはできやしない。」
 「生半可な気持ちで本を読むと、ヤケドしかねないということは、分かっていたつもりだったのですが…不覚でした。」
すると相手は、いたずらっぽい目でニヤリと笑いながら言った。
 「かつては私も、“てひどく”ヤケドを負わされたクチなのですよ。」
 『ドストエフスキーでヤケドをする』という体験は、それを知るもの同士にあっては、ある種、秘教の信仰告白に近いものがある。互いが初対面の場合、これ以上に相手から同族の匂いを嗅ぎ取る接点はない。両者の間には、瞬時にして強烈な親近感が漂った。そしてごく自然に、どちらからともなく名を名乗りあった。
 男性は、名をイゴーリンといい、ペテルブルグ大学でギリシャ哲学の教壇に立っているとのことだった。改めて見ると非常に背が高く、歳は四十四で、彼とは約十年離れていた。口髭をたくわえ、声がかなり低く、カントレフには信じられなかったがまだ独身だった。少し雑談した後、イゴーリンが切り出した。
 「実は先日、かなり上物のワインが思いがけず手に入ったのですが、どうも栓を抜く機会がなかなかなくて…。家はすぐ近くですので、もしお急ぎでなければ、お近づきの印にひとつどうです?」
その話し方は、一部の学者に見られるような高慢な部分がまったくなく、実に丁寧で控えめなものだった。
 「いやこれは、ぜひお言葉に甘えさせていただきます。」
誰よりも自身の非社交性をよく知っている彼は、自分の口から出た言葉に驚いた。普段このように答えることがまずなかったからだ。彼は心の中で、自分に対し“ほう”と呟いた。

 なるほど、イゴーリンの家は二、三分の所にあった。カントレフが驚いたのは、そこが彼と同じような、何の変哲もない都会の古ぼけた安アパートだったことだ(三階建てというのも同じだった)。彼はアパートの玄関前で、頭上に『汐吹亭』と描かれた大きな看板を発見した。字の上に汐を吹き上げている鯨の絵がそえられていた。
 「ああ、それですか。アパートなのに『汐吹亭』とは奇妙でしょう?ここの大家は面白い爺さんでね、歳をとって旅が出来なくなったせいか、辺境の作家の本ばかり読んでいるんです。それで昨年、確か、新大陸の作家の作品で、神の分身の様な白い鯨が出てくる話をえらく気に入りましてね、そこに登場する宿屋の名に変えてしまったんです。まったく、住人には何のことやら…。」
二人はおどけるように肩をすくめてから、そこをくぐった。続いて、部屋は二階の一室ということなので、二人が並んで階段を登り出すと、古階段はすごい音を立ててきしみ始めた。手摺りもボロボロだったので、カントレフは黙ってしまった。
 「教授が安アパートというのはおかしいですか?」
 「そうは思いませんが…いえ、本当は少し意外でした。」
 「なに、一人暮らしの私には、部屋数なんてどうでもいいことなんです。それに大家以外にも、ここの住人はユニークな人物が多くてね。」
そう彼が話してる矢先に、旅行鞄を持って厚着した男が挨拶しながら降りてきた。
 「それでは、さようなら教授。半年間でしたが、いい街でした。」
 「やはり故郷へ?」
 「ええ、南ドイツへ。またここの極寒が懐かしくなったら戻って来ますよ。」
二人は笑った。教授はその男のことを“枯葉”という名の放浪詩人だと紹介した。カントレフは“枯葉”氏と、おそらく最初で最後の握手を交わした。
 「もう少し帝都にいらっしゃればよろしいのに。」
カントレフがそう言うと、彼はうつむき加減に頭を掻いた。
 「そうしたいのはやまやまなんだが…。」
 「何かまずいことでも?」
 「いや、女がね。」
 「女?女ですか?」
 
「ウム。つきあっていた女と別れたんだが、相手がヒステリーを起こしてね。彼女に“私をふったら殺してやる”と追いかけまわされているんだ。冗談じゃない。確かに俺の方から彼女に別れ話を持ちかけたんだが、激しく愛し合った二人が別れる時は、ふった側が実は先にふられてるんだぜ?」
横で聞いていた教授は、カントレフの肩を軽く突いた。
 「カントレフ君、彼の恋愛観は実にユニークだろ。」
 「あの、今の『ふった側が、先にふられている』というのがよく分からないのですが…。」
 「分からないかい?一時的にでも深く愛し合った相手を、誰が自分から進んで嫌いになる!?気持は“冷める”ものではなく、いつだって“冷めさせられる”ものだ。ずっと好きでい続けたかったのに、そうさせてもらえなかったことを、俺は“ふられる”と言ってるんだ。俺は女にこう言ってやったんだ『相手の愛をつなぎとめる努力を怠る事は、その愛を進行形で踏みにじっている事と同じだ、お前  は俺をふったんだ』とね。そしたら包丁騒ぎさ。愛という感情は発生させることより、持続させることの方が遥かに難しい。それが愛の特性だ。もし恋愛に資格がひとつだけ必要だとすれば、その覚悟があるかどうかだけだ。」
“枯葉”氏は一気にそこまで言うと、汽車の発車時刻が目前だと告げ、韋駄天のように外へ飛び出していった。二階の通路に出ると、赤ん坊の泣き声や、夫婦喧嘩の金切り声、街の皆に口ずさまれてる流行歌や、物が割れる音などがひっきりなしに聞こえてきて、カントレフはその賑やかさに呆れ返った。教授が汐吹亭を愛してやまぬ理由が分かるような気がした。

 “枯葉”氏が住んでいた部屋の前を通った時、教授は扉を横目で見つつ彼について補足した。
 「いつだったかな、“枯葉”氏は自分が契約している版元の担当者に、そのカサノバぶりを注意された事があったんだ。その時の彼の答えがケッサクでね、『性行為は“最高度の芸術”であり、その創作活動を邪魔する者は野蛮人だ。』と叩きつけたんだ。」
 「野蛮人、ですか。」
 「そうだ。彼は自分の思想を『芸術五感論』と名付けていた。五感を楽しませるものは全て芸術だというわけだ。絵画は視覚を楽しませ、音楽は聴覚を、一流シェフの料理は味覚を、香水や花の香りは嗅覚を楽しませるといった具合にね。」
 「なるほど。で、残った“触覚”は、つまりあれだと。」
 「御名答。そして“最高度の芸術”と言ったのは、実際あれには触覚を筆頭に、視覚、聴覚、味覚、嗅覚の全てが総動員されるということ、それから(これが素晴らしいことなんだが)あれは人間が二人で協力して創りあげる芸術という点で、他の芸術をしのぐと強調していた。」
 「一人より二人で創りあげるものの方がいいというのは、良い意見ですね。」
 「ウム。そして彼に言わせてみれば、絵画にしろ音楽にしろ、芸術から生み出される快楽が『美』と呼ばれるのなら、性行為で快楽を与えあうことは『“最高度の芸術”から“美”を創りだす崇高な行為』となるわけだ。面白いだろ?」
そう言うと、教授は例のいたずらっぽい目をして吹き出した。
 「これはまいりました。」
 「本当にユニークな男だったよ。」
二人は二階の一番奥の部屋、すなわち教授の聖域、エデンに着いた。


(次回、教授が吠える!〜第7回“エデンにて”乞うご期待!)