カントレフ、彷徨
                                         
                              
カジポン・マルコ・残月

第10回

 (五)ペテルブルグ・レクイエム

 
翌夕、ネフスキー大通りを行くカントレフの足は『汐吹亭』へ向いていた。今朝起きた時から、仕事帰りに画集のお礼を言いに行こうと決めていたのだ。例え短時間でもいいから、昨夜のあの感動をどうしても伝えたかった。駅前のズナミョンスカヤ広場を出た瞬間から、既に胸は高鳴っていた。
 普段、ネフスキーを歩く彼は、まるで“死すべき命、ながらえて”といった風体で、どんどん周りの者に掻き分けられていたが、今日の彼は逆に掻き分ける側だった。
 (目的を持って歩くというのは、こうも気持ちいいものだろうか。)
足どりは弾むように軽かった。

 その時、彼のすぐ側を二台の警官馬車がサイレンと共に通り過ぎていった。
 (やけに騒々しいな。)
彼は肩をすくめて歩き続けたが、馬車が『汐吹亭』に続く道の方に左折して行ったので、妙な胸騒ぎがして少し歩く速度を上げた…急ぐとびっこになってしまう左足を、やはり気にしながら。
 やがて『汐吹亭』が視界に入った時、彼は驚いて立ちすくんだ。玄関前に大勢の人々が群がっていたのである。そして人々の隙間から、先程の警官馬車が停まっているのが見えた。彼の体は雷に打たれたように短く痙攣し、次の瞬間には全力で駆け出していた。
 息絶え絶えにたどり着いたカントレフは、群集の一番外側にいた大柄な中年女性に問いかけた。
 「ど、どうしたんです、一体何があったのですか!?」
彼女は振り向かずに、もっと奥を見ようと踵を上げ下げしていたが、彼への返事はハッキリと答えた。
 「よく分かんないんだけどね、何でも偉い先生が自殺したらしいんだよ。」
 「そ…そ…そんな!」
彼の全身の毛は逆立ち、体中から音を立てて汗が噴き出した。猛烈に膝がガクガクッと震えたかと思うと、突然まったく力が入らなくなり、ちょうど尻もちをつくような感じで路上に崩れた。彼の反応に彼女は驚いた。
 「あんたの知り合いだったのかい?」
彼は喉が痙攣してうまく言葉が出ず、アゴでうなずいた。
 「だったら早く中に入んな。たぶんまだあそこにいるよ。」
そう言って彼女は窓から警官の後ろ姿がチラチラ見える二階の一室を目くばせした。
 その時、一台の救急馬車が去って行った。
 「その先生を発見した大家の爺さんが心不全を起こしてね、あれに担ぎ込まれたんだよ。可哀相に、爺さんよっぽどその先生のこと気に入ってたみたいだねぇ。」彼女はカントレフがなかなか自分で立てそうになかったので、彼の左腕を取ってグイと引き上げてやった。
 彼女に『さあ!』と背中を押され、人だかりの奥へと彼は分け入った。口の中では“信じられない…信じられない…”と、うわ言のように繰り返していた。
 (イゴーリン教授、生き続けることが復讐なのではなかったのですか!?)

 「申し訳ありませんが、今は立入禁止です。」
玄関口では歳の頃二十二、三の若い警官が壁となった。だがその警官はカントレフの顔色が真っ青なことにすぐ気づき、言葉を続けた。
 「肉親の方でしょうか?」
 「肉親では…肉親ではありませんが、昨夜一緒だったもので…。」
それを聞いて警官の目の色が変わった。
 「昨夜ですか?彼にどこか変わった所がありましたか?…いえ、やはり直接見て頂いてからお話を伺うことにしましょう。御案内します。」
エデンに着くまでその若い警官は、教授が午前中は普段通りに大学に出ていたこと、午後四時頃に銃声があったこと、警察としては自殺の線でいっているが目撃者がいない以上他殺の線も捨てたわけではない、そういったことを説明していた。
 カントレフは半ば放心状態でそれらの話を聞いていたが『他殺』という言葉を聞いた時、彼は教授の革命発言に思い当った。世は社会民主労働者党“ボリシェビキ”が台等し、右翼や秘密警察が前年から非常に神経過敏になっていた。
 (もし教授が公にあの手の発言をしていれば、危険人物として連中は絶対見逃さないだろう…。)
そんなことを考えているうちに、二階奥の部屋に着いた。

 室内では三人の男が事務的に現場検証をしていた。若い警官が『主任!』と合図すると、おそらくカントレフと同年代の、背が高く肩幅の広い、色白で端正な顔立ちの男が近づいて来た。
 「私はこの現場の主任をしておりますミヒャエル・カレンスキーという者です。あなたは?お名前を何と?」
 「A・D・カントレフです。昨晩一緒でした。」
 「ほう、昨夜ですか。A・D・カントレフ…この封筒はあなた宛ての物ですね。」
 「えっ?私にですか!?」
耳を疑ったが、確かに真新しい封筒の上に自分の名が書き記されていた。
 「少し、少し時間を頂きます。」
カントレフはエデンには入らずに、廊下の奥にさがった。そこで封を切ろうとしたが、あまりに指先が震えるので、封の頭をつかむ事さえままならかった。
 何度か深呼吸を繰り返してようやく開封すると、中にたった一枚の便箋が入っていた。そこへは、僅かに一行の言葉だけが、走り書きのように刻まれていた。カントレフの全身が硬直した。

 「自殺で間違いないでしょう。偽装なんかじゃありません。」
ひと泣きして、やや落ち着きを取り戻してから、彼はエデンに戻るなり警官たちにそう告げた。すぐにカレンスキーが質問した。
 「根拠があるのですか?その手紙に、何かトラブルの事が書かれていませんでしたか?」
カントレフは片手を上げてカレンスキーの質問を制止した。
 「私が自殺だと言ったのは、それが教授の“理にかなって”いたからです。」
 「理にかなう?自殺がですか?」
警官たちに説明する必要が生じた。これ以上この聖墳を、警官とはいえ部外者が好き勝手にウロウロすることを、教授が喜ぶわけがなかったからだ。
 (しかし、話すにはあまりにもプライベート過ぎる!)
カレンスキーはその職業がら、カントレフの困惑した表情より何かしらの事情を察し、部下たちに少しの間、廊下へ出ているよう命じた。
 カレンスキーと二人きりになったカントレフは、昨夜教授と交わした会話の事をかいつまんで話したが、はたして自分宛の手紙まで見せていいものかどうか迷っていた。だが相手が発した一言で即、見せる決心が着いた。カレンスキーはこう言ったのだ、『立場上、任務に私情を抱いてはいけないのですが…私は…かつて、ペテルブルグ大学の哲学科にいました…教授が就任され初めて教壇にお立ちになった時、私はそこににいたのです。』と。

 渡された手紙に目を通した瞬間、カレンスキーは絶句した。
 「アリストテレス!」
その声が廊下にまで響いたので、部下の警官たちは何事かと顔を見合わせた。室内ではカレンスキーが、残された一行の言葉がアリストテレスのものだとカントレフに説明していた。


 『生きられるだけ生きるのではなく“必要”なだけ生きよ』


 
今度はカレンスキーが、自分の足が震える事を止める事が出来なかった。大学卒業後、国家という体制側に身を置き安定そのものの人生を歩んできた彼にとって、かつて学んだ哲学テーマより、三日前の食事の内容を思い出す方が、今や記憶を呼び起こす努力を必要としなかったからだ。
 「ばかな、ばかなばかな!二三〇〇年も前の言葉で本当に命を絶つなんて!こんなことが認められるわけが…。」
 「認めるしかないでしょう、カレンスキーさん!」
 「しかし…。」
 「あなた現場検証してたのでしょう?部屋にたちこめたこの匂いが、血の匂いでなくて何なんです?これが現実です。“言葉”で人は死ぬんですよ!」
 先程ここに来た時から、カントレフは遺体の存在に気づいていたが、視界の隅に入ってもあえて焦点を合わせないでいた。それは心のどこかでこれが夢であって欲しかったからだ。タチの悪い冗談であって欲しかったのだ。今、カレンスキーに対する自分の言葉が、逆に彼の覚悟を決めさせた。二人の目線の先には教授の遺体があった。 教授は書斎机に突っ伏しており、心臓を撃ち抜いたナポレオン時代の旧型単発式拳銃は、その垂れ下った右手の中にあった。相当な威力だったらしく、床にはおびただしい血が流れていた(もっとも、既に変色し固まっていたが)。床がやや傾斜していた為、二人共が血の池の中に立っていた。
 多くの現場に立ち合ってきたはずのカレンスキーの目がうつろになっていた。
 「我々警官が現場検証を実務的にこなすのは、慣れてしまったからだとお思いですか?」
 「違うのですか?」
 「検証の手順は必要があってシステム化されたのです…黙々と行なうことで、いかなる現場でも正気を保ち続けられるように…。目撃者がいないときは死因を疑う、それがマニュアルなんですよ…。」
 「はい。」
 「ですが、この自殺を疑うことがどれだけ教授を冒涜する事になるのか、その手紙を見て分かりました。もう、部下たちは馬車に戻します。」
カレンスキーが廊下へ出ている間、カントレフはまんじりともせずに遺体と向き合っていた。手紙を読んだ時とは違って、もう涙は出なかった。目の前の遺体がこう語っていたのだ、『すべて分かったうえでだ』と。
 戻って来るやいなやカレンスキーが尋ねた事、それはなぜ急に死を決意したのかということだった。カントレフは少し間をおいて返事をした。
 「おそらく神との戦いに決着をつけたくなったのでしょう。」
 「つまり、破れて自殺したと?」
 「いえ、その反対です。神に何も手出しさせなかったのです。引金は神にそそのかされて引いてしまったのではなく、完全に教授個人の意志だけで引いたものです。神があれほどまでに非運を用意しても結局奪うことの出来なかったその命を、教授は“充分に生きた”という確信から自分の手で天寿をまっとうさせたのですよ!」
カントレフの口から、彼自身も驚くほど次々と言葉が出てきた。三十五年をかけてつちかわれてきた彼の内面世界は、それまで本人が認識していなかっただけで、人一倍多くの様々な価値観が、混乱することなく見事に同居していた。それらは頭の引出しに、既に体系づけられて納まっていた。今まで引出しを開けるきっかけが、なかっただけの事なのだ。
 カレンスキーは続けて聞いた。
 「ではあなたが昨夜お聞きしたという『生き続けることが復讐』という考えはどうなったのでしょう。」
 「今日まで現に生き続けてきたのが復讐で、自殺が神へのトドメです。そういうことです。」
 「自殺まで含めたものが神の定めた運命とはならないのですか?」
 「運命とは、自分の手の内に選択権が無い状態で行なった決断のことを言うんですよ。自分の力ではどうすることも出来ないものをね。」
 「これはあくまでも教授の自由意志であり、神は全くその決断に参加できなかった、そういうわけですね。」
二人は黙ったまま遺体を見つめた。数時間後には、大学を通じて連絡をつけた教授の親族の者が亡骸を引取りにくる手筈になっていた。

 エデンを出る前に、カントレフはぐるりと室内を見渡し、本棚という“城壁”をはじめ、主(あるじ)を失い、やがて音を立てて崩壊していくであろう『要塞』最後の雄姿を両目に焼き付けた。
 (教授、あなたは勝ちました。神の敗北です。)
カントレフは深く一礼をしながら『おめでとうございます』と震える声で呟いた。そして“俺はこの目の前の光景を一生忘れない”と心に誓うのだった。
 (イゴーリン教授、本当にお世話になりました…では、子供たちと、そして大切な奥様によろしく…。)
 カントレフが扉に向かうと、扉のすぐ横にある小さなテーブルに、一冊の本が丁寧に置かれていた。それは、約束のゴヤの画集だった。教授のこういう律儀なところが彼にますます敬愛の念を抱かせた。本に手を伸ばしながら、彼はたまらないほど切ない気持ちになった。
 (教授には俺が今日来ることが分かっていたんだ!)

 彼はカレンスキーと抱擁を交わしてエデンをあとにした。両者に言葉はなかったが、その短くも強い抱擁がすべての気持ちを表現していた。
 『汐吹亭』の外にはまだ人だかりがあった。
 「偉い人の考えてる事はわからん。」
 「じき一九〇〇年代が見れるのに、もったいない。」
そんな声がいくつも彼の耳に入ってきた。

 (流れるものが見たい。)
こういう時に彼の足は、必ずネヴァ河に向く。極寒であろうと関係なかった。
 (教授、私はまだあなたのもとへは行きません!これっぽっちも充分に生きてなどおらぬのです!あなたは私にとって、二重の意味で灯台守でした…ひとつは人類全体の灯台守の一族として、もうひとつは霧の中を漂流していた私の針路を、その光で遠くまで照らして下さった私個人の灯台守として!)
そう思う彼の右腕にはしっかりとゴヤの画集が抱え込まれていた。

 半時間後、激烈な寒風の中、彼は外套の衿を掴んで、微動だにせず王宮橋のたもとに立っていた。対岸にはペテルブルグ大学の黒い塊りが見えた。
 周囲には誰一人おらず、彼は息を呑んで真っ暗な川面を凝視していた。こんな光景は魔都に出て来て以来初めてだった…なんと、あの大ネヴァ河が完全に凍りついていたのである。 
 その刹那、感情が爆発した。
 「流れていない!流れていない!!」
カントレフは絶叫した。あてにしていた退路を目の前で塞がれた、狩りで追い詰められた獲物の気分だった。狩る者は…神だった。
 「またアンタか!しかし俺はもうアンタを恐れん!アンタは決して無敵でも万能でもない!なぜなら俺はアンタを破った人間を知っているからだ!!」
彼の叫び声は渦巻くような強風に巻き上げられ、気味悪くゴウゴウと鳴り続ける漆黒の闇空へ吸い込まれていった。

                                第3部・完

物語はこのまま劇的クライマックスへ!
果して我らがカントレフに未来はあるのか?
第4部『再会』編に乞う御期待!