〔 映画『シッコ(sicko)』の素晴らしさについて 〕



 
『シッコ』は公開時に医療ドキュメンタリーと聞いて“退屈そう”と思い、結局観に行かなかった。こんなに良い作品なら足を運べば良かった!なんと米国では同時期に上映された『ダイ・ハード4』よりも観客が入ったという。
この映画が素晴らしいのは、医療問題を描きながら最終的には人間の“生きる姿勢”にまで踏み込んでいること。拝金主義・弱肉強食の社会はもうこれくらいにしようと思わせる強烈な力がある。しかもユーモアを交えて語っているので全く説教くさくない。

多くの国では国民の誰もが加入できる健康保険があるけど、米国は先進国で唯一“国民皆保険”の制度がない。人々は民間の医療保険に入るんだけど、高い掛け金や持病の問題で加入できない人が全米で約5千万人もいる。米国の乳児生存率は西側諸国で最低だ。映画の冒頭に事故で指を手術した人が出てきて「2本の指を切断したんだけど、接合費は中指が6万ドル(630万円)、薬指が1万2千ドル(126万円)と言われ、金がないので薬指だけにした」と苦笑い。そしてスーパーの倉庫で働いている79歳のお爺さんが登場。いわく「妻の腰痛の薬を買おうとしたら213ドル(22000円)と言われて絶句した。死ぬまで働くしかない」。

ところが保険に入っていても安心できない。保険会社は何だかんだと難癖をつけて保険金を払ってくれないからだ。手術費用が出ない為にガンが転移して死んでいった人や、子供が発作を起こしたのに保険会社の系列病院に行けと命令され、最寄りの病院に行けなかった為に死亡した親、交通事故に遭ったのに事前許可のない救急車の使用には保険が下りないと言われた人(信じられん!)、その他、保険が支払われなかった驚くべきケースが次々と紹介される。
治療費を払いたくない保険会社は、契約書の小さなミスを見つけたり、加入者ですら知らない既往症(きおうしょう、保険に加入できない持病)を徹底的に調べ上げて、申告漏れを理由に契約を破棄する。ある元保険会社の社員は、加入者から治療(支払い)の申請を受けても、ノルマで最低10%以上は否認する必要があったと実態を暴露する。
米下院公聴会である医師(審査医)はこう証言した「私の唯一の任務は医師としての専門知識をいかし、保険会社に利益をもたらすことだった」。手術を拒むことが保険会社の利益になるので、否認率1位の医師には業者からボーナスが出たという。
保険金の支払いは業界用語で“医療損失”と呼ばれ、保険会社はあらゆる手段を使って支払いを拒否し、空前の利益を上げている。病院に行くのに契約保険会社の許可が必要ということにも唖然。保険会社で働く医師たちが患者の命を奪っている恐怖の実態がここにある。“国民皆保険”制度があると良いのに、政治家が保険企業と癒着しているので、何年経っても制度ができない(製薬会社とグルになり、薬を不必要な量まで処方し儲けている問題もある)。
 
映画の後半は各国との比較。カナダ、英国、フランス、キューバなどは医療費が無料であり、これは日本人にも目からウロコだ。
英国の国民保険パンフ(1948年)にはこう書かれている。「全ての国民は医療・歯科・看護のケアを受けることができます。収入にかかわらず老若男女誰でも利用できます。無料が原則で、保険に入るのに審査はありません」。国営病院は入院費も無料で出産費用はタダ。病院に会計窓口があるが、そこでは病院までの交通費を払い戻してくれるんだ。英国の薬局では30錠買っても120錠買っても、何錠であろうと基準の6ポンド65(約10ドル)で、HIVや本来高価な癌の薬も同じ値段だ。しかも16歳以下か60歳以上なら薬代は無料。

フランスの医療制度は世界第1位と言われている(2位はイタリア)。フランスには24時間無料の往診システム(SOSメドサン)があり、夜中でも医者が家まで来てくれる。保育園は無料or低料金だし、大学まで学費は無料だ。法律で決められた有給休暇は正社員でもパートでも最低で5週間から(!)。大企業なら8〜10週間の場合も。っていうか、勤務は週にたったの35時間(7時間×5日)だし、原則残業ゼロ!もし35時間以上働いたら代休が出る。引っ越しにまで法律で2日間の有給がつく。また、育児疲れにならない為に、乳児がいる家庭には週に2日無料でヘルパーが派遣される“子育て支援制度”がある。
パリ在住の米国人はいう「この国には絶望感がなく、人々が人生を謳歌している」。実際、少子化どころかベビーブームだ。「フランスでこういう制度が成り立っているのは、政府が国民を恐れているから。国民の抵抗を政府が怖がっている。米国では立場が逆で、国民は政府に対して行動を起こすことを怖がっている。フランスでは大規模デモが日常茶飯事だよね(笑)」。
大学教育もタダ、医療費もタダ、政府派遣の乳母…。ムーアは言う「フランス人を見ていて思った。なぜ米政府もマスコミもフランスの悪口を吹き込むのか?国民がフランスびいきになると困る?フランスの制度に憧れるから?」。

米政府やメディアはこうした医療の無料システムを“社会主義医療”と呼んで批判している。「きっと機能していない」「米国では数日待ちの手術が数ヶ月待ち」「少ない診療報酬で医者のやる気なし」「社会主義医療の内容は最低ライン」「健保制度そのものが病気」と米国民は信じ込まされている。だが、ムーアの取材でそれらがことごとく大袈裟なデマであったことが証明された。英仏カナダ人の平均寿命は米国人より長い。そこで彼は思い至る。米国でも色んなものが無料だと。例えば、警察や消防は無料だし、公立校の授業料はタダ、郵便料金は安く、図書館では無料で本を貸し出してくれる。消防や警察は命に関わることだから無料ならば、医者代だってタダにすべきことじゃないのかと。「なぜ他国に出来ることが米国にできない?」。

米国では入院費を払えない患者をタクシーに乗せて貧民街に捨てる事件が多発しており、ムーアは嘆く。「僕らは何者だ?これが僕らの国なのか?入院費が払えないという理由で市民をゴミ同然に歩道に捨てる国。底辺に生きる者への接し方で、その社会の本質が分かる」。
なんとか社会を変えることは出来ないのか?英国の元国会議員T・ベンは語る「労働者の借金苦は体制側に有利。借金漬けの者は希望を失い疲れ果て、“誰が議員でも同じ”と選挙に行かない。もし本当に労働者が自分の代弁者に投票したら真の民主主義革命が起こる。それは困るから体制側は希望を奪う。国民を支配する方法は2つある。まず恐怖を与え、次に気力を失わせること。教育があり健康な国民は統治が難しい。ある種の人間は“国民には教育も健康も自信も与えたくない、与えると手に負えなくなる”と考えている。世界の人口の1%が80%の富を独占していることによく皆は耐えていると思うが、それは貧しく気力もなく、権力を恐れているからだ。命令を聞いて最善を祈るのが一番安全だと思い込まされてるんだよ」。

ムーアは映画をこう締めくくる。「僕はこの撮影を通してやっと気づいた。結局、人は皆同じ船の乗客なのだと。どんな違いがあるにせよ、一緒に泳ぐか沈むか。米国以外の国はそうしてる。彼らは意見の違いを超えて助け合ってる。米国人は外国の良いものを取り入れる。良い外車があれば乗るし、美味しいワインがあれば飲む。それなら病人への優れた対処法や、子供の教育法や、赤ん坊の育て方、互いを思いやる気持、それもマネていい。なぜ出来ない?“私”ではなく“私たち”を大切にする、その基本が出来なきゃ僕らは何も直せない。これじゃあ権力者達の思う壺だ。彼らは西側諸国で唯一の“国民皆保険”のない国でいいと思ってる。もし足かせが外せたら?医療費や学費の借金や養育費、僕たちを縛りつけている不安がなくなったら?その時は御注目、新たな米国の始まりだ」。

社会派ドキュメンタリーでありながらジョークをふんだんに交えてエンターテインメント性もある本作。欧州の高い消費税(後述)のことや、フランスでは失業問題が原因で騒動が起きていることに触れず、単純に称賛する姿勢には抵抗があるけれど、残業ゼロで休暇が多く、病気になってもお金の心配がない社会が実現しているのは、紛れもない事実。旅をしていても人々の表情に余裕があるのがよく分かる。
人間に必要なのは、家族と食事したり趣味に費やす自由な時間と、病気や老後に対する安心感。入院患者の放置や、保険証が無くて病院に行けない人が多いのは日本でも問題になっている。日本はフランス以上の経済大国だし、健康保険は3割負担なんだから、天下りやムダ金をなくせば、18歳未満と60歳以上の医療費、それに出産費は無料に出来るはずだ。この作品が発しているヒューマニズムの輝きに泣けた。

※フランスの消費税率は20%。とはいえ、日本のように一律ではなく、医薬品、食料品、公共交通、電気、ガス、介護サービスなどの生活必需品や、美術館・演劇の入場料や書籍といった文化的なものは5.5%で日本と変わらない。

※sickoの意味は“イカれた奴”のスラング。発音的にはシッコというよりシコーに近い(日本語的に後者にすればいいのに)。あとムーアはもっと痩せるべし(笑)。


●追記 TPPに断固反対!(2011.11.4)

話題の京大・中野剛志准教授(40歳、経産省出)によるNHK『論点視点』出演時の解説(9分52秒)。いかにTPPがアメリカの危険な罠か様々な例をあげて力説している。10分弱しかないので、是非視聴をお薦めします。これを見ると“交渉に参加すべき”といってる政治家・財界があまりに自己の利益しか考えてないことが分かりマス!




 



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