日本巡礼烈風伝・7の巻
(3日目その5)

『リベンジ!青山霊園〜5人と1匹』(つづき)


★星 新一

SF作家の雄、星氏の巡礼には感慨深いものがあった。実は昨夏にも墓参を試みていたのだ。偶然ある雑誌に氏の墓写真が掲載されていたので、その切り抜きを片手にここへやって来たのだった。その時は着いたのが18時半と遅かったので、既に事務所が閉まってて霊園地図をゲットできなかった。しかし、手元の写真には墓の周囲に木が写っててこれが目印になったし、昨夏は3人で訪れていたので、こりゃプッチンプリンをきれいに落とすより楽勝じゃな、と余裕こいてた。

ところが!
霊園内は単に広いだけでなく、あちこち木々だらけだった。写真と同じ構図の墓はそこらじゅうにあり、案の定、いくら探せど簡単には見つからなかった。そのうち完全に日が暮れてしまい、懐中電灯をかざしての墓捜索となった。墓地の中で胎内のやすらぎを感じている倒錯した僕と違い、他の2人は“夜の墓地は不気味だ”と、いたってノーマルな反応。夜空を覆うほどのヤブ蚊の大群は、3人の顔を判別できぬくらいに腫上がらせ、全員を貧血、というより出血多量で救急車を呼ぶ状態に追い込んだ。
生きて帰ってこその墓巡礼である。涙の撤退とあいなった。

今年はその復讐戦、リベンジであったのだ。星氏には何の責任もないが、僕には因縁の墓じゃった。今回は墓マップのおかげで拍子抜けになるほど、瞬時に面会できた(前回に、半ベソで探していた場所とはかなり離れていた)。

星文学をSF小説と先に書いた。しかし、SFといっても宇宙船が光線を撃ったりする内容ではなく、日常生活上のちょっとした“もしも”の話である。ジャンルとしてはSFに入るが、ただの娯楽作品ではなく作品の根底を貫くのはヒューマニズムであり、不正義への怒りであり、ブラックユーモアの形をとった反権力である。その日本人離れした視野の広さ、無国籍な感覚は驚嘆に値する。

短いもので1ページ、長いもので20ページという手頃な規模は誰にでも読みやすく、その短さゆえに構成の妙など氏の非凡さを体感できる。
(僕が強烈に読書を勧めたい作品は、全人類が走馬灯のように一斉に過去を見てしまう『午後の恐竜』だ)


★北里柴三郎


青山霊園コーナーの最後の一人は細菌学者の北里柴三郎だ。彼についてどうしても紹介したいエピソードがここにある。

北里はペスト菌を発見したり、破傷風菌の血清を作ったりと大活躍したが、それが学界の大物学者たちの嫉妬の対象となった。中でも最も激しく彼を敵視したのが、名誉欲の権化であった東大医学部。連中は文部省を動かして、こともあろうに北里らの国立伝染病研究所を東大付属にしてしまった。

これで無残にも北里は東大側が選ぶテーマでしか、研究活動が出来なくなった。彼はキレた。
「おんどりゃーっ、ふざけんじゃねぇ!東大と文部省がグルになっては自由な研究が出来ぬわい!」
と激怒した彼は辞表を叩き付け、おかみに対抗して自ら北里研究所を設立した。

僕が感動したのは、この時の周囲の反応だ。北里が辞すと他の所員も連座して辞表を提出し、なんとその全員が彼の研究所へと馳せ参じたのだ。その中に門衛や用務員までが混じっているのを知った北里は、感極まって号泣したという…。


ふう。これでやっと巡礼3日目が終わった。僕は再び上野の安宿街に向かい、カプセルホテルへ吸い込まれていった。

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日本巡礼烈風伝・8の巻
(4日目その1)


京浜急行新馬場駅1番ホーム先端、朝7時集合。これがS氏との約束だった。僕は6時15分に上野を発ち、ラッシュ前の山の手線に乗り、品川で乗り換えた。大江戸巡礼も3日目。最終日だ。
“さすがにS氏も今日は不参加かも知れんの〜”そう思いきや、彼は僕より早く到着していた。
目が合ってお互いに軽く手を挙げた後、歩み寄り無言のまましっかりと握手をした。彼は読んでいた文庫本を鞄にしまった。
「さあ、行こうか」と僕。
「ええ」とS氏。
一昨日、そして昨日と、死線をくぐってきた2人の間に余計な言葉は必要なかった。


『反骨の僧・沢庵和尚(たくあんおしょう)』


2代徳川秀忠は政権安定の為にも、僧侶が巨大な力を持つことを好まず、各地の有力な寺に弾圧政策をとった。そんな幕府に反抗し続け、抗議文を送り付けた為に流刑罪となった反骨の僧がいる。現在、発案した漬物の呼称として名を残している彼の名は、沢庵宗彭(たくあんそうほう)。

流刑5年目に秀忠が死ぬと、3代家光は歯に衣を着せない沢庵のかねてからの大ファンだったので、流刑を解除してしまう。そして家光は沢庵の為にわざわざ品川に東海寺を建て、説得してそこに住んでもらった。家光はイエスマン以外の相談役が欲しかったのだ。実際に家光が75回訪問したという記録が残っており、沢庵の人間的魅力がよく分かる。

逸話をもうひとつ。
無敗伝説で有名な宮本武蔵。実は武蔵がまだ駆け出しの頃、京都大徳寺の大仙院で沢庵と戦って負けている。対決時間はわずか数秒。沢庵と正面から向き合った武蔵は剣を抜くこともなしに、和尚の目を見ただけで“参りました”と頭を下げたのだ。

墓は東海寺の本堂からかなり離れた場所にある。墓の上には楕円形の岩がドシンと乗せてあり、それがまるで漬物石そっくり!実にユニークな墓だった。


『板垣死すとも!』


沢庵和尚と別れた後、そのまま足をのばして品川神社の板垣退助に会いに行った。

維新後の混乱の中で、徳川300年間に武士と農民の間が完全に断絶したことを感じ取った板垣は、明治新政府に国民全般の意見を反映できる“国会”を開設すべきだと主張した。国が活力を得るのには、民の政治参加が不可欠だと確信していたのだ。

“欧米に活力があるのは、国民誰もが政治に参加できるチャンスがあり、自分たちが国を作っているという意識を皆が持てるからだ”そういった信念から彼は自由民権運動に取り組んだのだった。
「板垣死すとも自由は死せず!」
これは四民平等を説いて全国を遊説しているおりに、保守派の暴漢に襲われ、血みどろになって叫んだ言葉だ。

大名出身の板垣は伯爵の位を持っていたが、“もはや人間を身分で区分けする時代ではない”という彼の信念から、遺言で子孫に“肩書きでなく、自らの力で生きよ”と爵位を辞退させた。う〜む、あっぱれじゃ。墓は品川神社の境内の裏の方にひっそりとあった。


『壮絶!立ち並ぶ墓石47個』


もう一度京浜急行に乗った僕らは、終点の泉岳寺駅で降りた。泉岳寺。歴史ファンならピンとくるであろうその寺は、例の忠臣蔵・赤穂浪士の面々が眠る場所なのである。以下、忠臣蔵のことは実は良く分からんという読者の為に、ごく簡単に討ち入り事件の顛末を書く。

浪士たちの主君であった浅野長矩は、江戸城での儀礼作法を学ぶ際に、指導者の吉良が不親切であったばかりでなく、彼の失敗をあざ笑ってイモ侍呼ばわりした為、プッツンして吉良に切りかかった。神聖な江戸城内で刀を抜くというのは前代未聞であり、浅野は即日切腹、将軍家との御家断絶を言い渡された。一方、身分の高い吉良は一切おとがめなしだった。

非業の死をとげた主君の仇討ちは、吉良家への討ち入りで見事に成功するが、将軍家お膝元の江戸本所で47人が刀を振り回すという行為は、幕府が日頃から繰り返し強調してきた一揆・徒党を禁ずる法を真っ向から破ることになり、事件から一ヶ月半後、47人全員に切腹の判決が下った。

墓は主君のすぐ側に、まず討ち入りメンバーのリーダーだった大石内蔵助がいて、その周りに全浪士が居並ぶという、非常に胸を打つ光景だった。47人が切腹をしたこの泉岳寺の現場は、どんなありさまであったろう。テレビや映画とは違い、目の前の墓は本物だ。僕はそんなに大勢の切腹者の墓前に立つのは、もちろん初めてだったので、さすがにガクガクと足が震えた。恐怖からではなかった…たぶん生き様の迫力に呑まれたのだと思う。


巡礼開始から2時間が経過した午前9時。どぐされ漫画家という修羅道を目指しているS氏は、生活の糧を得る為に建設現場でバイトをしており、これ以上僕と巡礼を続行するのは不可能だった。彼は次なる戦いに向けて旅立った(たった2時間の為に早朝から出て来たS氏にこの場を借りて敬意を表したい)。
皆さん、S氏が心血を注いだ大感動巨編学園マンガ『気くばり番長』が日の目を見た時は、ぜひ乾杯してやって下さい!
(それにしても『気くばり番長』とは、今時すごいタイトルじゃ)


      


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