『小説家たらんとする青年に与う』(抜粋)  (1923年、菊池寛・35歳)
 
 僕はまず、「25歳未満の者、小説を書くべからず」という規則をこしらえたい。全く、17、18ないし20歳で、小説を書いたって、しようがないと思う。
 とにかく、小説を書くには、文章だとか、技巧だとか、そんなものよりも、ある程度に、生活を知るという事と、ある程度に、人生に対する考え、いわゆる人生観というべきものを、きちんと持つということが必要である。
 とにかく、どんなものでも、自分自身、独特の哲学といったものを持つことが必要だと思う。20歳前後の青年が、小説を持ってきて、「見てくれ」というものがあっても、実際、挨拶のしようがないのだ。で、とにかく、人生というものに対しての自分自身の考えを持つようになれば、それが小説を書く準備としては第一であって、それより以上、注意することはない。小説を実際に書くなどということは、ずっと末の末だと思う。

 小説を書くということは、決して紙に向って筆を動かすことではない。我々の普段の生活が、それぞれ小説を書いているという事になり、また、その中で、小説を作っているべき筈だ。どうもこの本末を転倒している人が多くて困る。ちょっと1、2年も、文学に親しむと、すぐもう、小説を書きたがる。しかし、それでは駄目だ。だから、小説を書くということは、紙に向って筆を動かすことではなく、日常生活の中に自分を見ることだ。すなわち、日常生活が小説を書く為の修行なのだ。学生なら学校生活、職工ならその労働、会社員は会社の仕事、各々の生活をすればいい。そうして、小説を書く修業をするのが本当だと思う。
 では、ただ生活してさえ行ったら、それでいいかというに、決してそうではない。生活しながら、色々な作家が、どういう風に、人生を見たかを知ることが大切だ。それには、やはり、多く読むことが必要だ。

 小説というものは、或る人生観を持った作家が、世の中の事象に事よせて、自分の人生観を発表したものなのである。
 だから、そういう意味で、小説を書く前に、先ず、自分の人生観をつくり上げることが大切だと思う。
 そこで、まだ世の中を見る眼、それから人生に対する考え、そんなものが、ハッキリと定まっていない、独特のものを持っていない、25歳末満の青少年が、小説を書いても、それは無意味だし、また、しようがないのである。

 僕なんかも、始めて小説というものを書いたのは、28の年だ。それまでは、小説といったものは全く一つも書いたことはない。紙に向って小説を書く練習なんか、少しも要らないのだ。
 とにかく、自分が、書きたいこと、発表したいもの、また発表して価値のあるもの、そういうものが、頭に出来た時には、表現の形は、あたかも、影の形に従うが如く、自然と出て来るものだ。
 そこで、いわゆる小説を書くには、小手先の技巧なんかは、何んにも要らないのだ。短篇なんかをちょっとうまくまとめる技巧、そんなものは、これからは何の役にも立たない。
 これほど、文芸が発達して来て、小説が盛んに読まれている以上、文学の才のある人は、誰でも上手く書くと思う。
 そんなら、何処で勝つかと言えば、技巧の中に匿された人生観、哲学で、自分を見せて行くより、しようがないと思う。

 それから、小説を書くのに、一番大切なのは、生活をしたということである。実際、古語にも「可愛い子には旅をさせろ」というが、それと同じく、小説を書くには、若い特代の苦労が第一なのだ。金のある人などは、真に生活の苦労を知ることは出来ないかも知れないが、とにかく、若い人は、つぶさに人生の辛酸をなめることが大切である。
 作品の背後に、生活というものの苦労があるとないとでは、人生味といったものが、何といっても稀薄だ。だから、その人が、過去において、生活したということは、その作家として立つ第一の要素であると思う。そういう意味からも、本当に作家となる人は、くだらない短篇なんか書かずに、もっぱら生活に没頭して、将来、作家として立つための材料を、収集すぺきである。
 かくの如く、生活して行き、そうして、人間として、生きて行くということ、それが、すなわち、小説を書くための修業として第一だと思う。