【 巡礼特選フォト・レポート 】
ウィーン/モーツァルト&ポーランド/ショパン


★モーツァルト/Wolfgang Amadeus Mozart 1756.1.27-1791.12.5 (オーストリア、ウィーン 35才)

ザンクト・マルクス墓地はトラムの「ザ
ンクト・マルクス」駅より、ひとつ終点に
近い方から降りた方が圧倒的に近い
停留所の側のマンション背後
に線路がある。橋の下を目指そう
すると線路を横断できる隙間が
あるので、これを抜けると墓地!







ザンクト・マルクス墓地正門 入って左に案内地図がある 179番が彼の墓 墓の手前にあった案内板




バーン!周囲に墓はなく、このエリアはモーツァルトだけの為にあった!破格の待遇!(2005)

墓地にはなぜか“野良孔雀”がいて驚いた。鳩や雀ではなく、
クジャクだ。他にも目撃者がいるので、ここの名物らしい(1994)
薄っすらと涙を浮かべているよう
にも見えるモーツァルト像…

「人生の生き甲斐とはジュピターの第2楽章だ」(ウディ・アレン)
「死とはモーツァルトが聴けなくなることだ」(アインシュタイン)

ウォルフガング・アマデウス・モーツァルト。彼の曲は大半が宮廷用、もしくは貴族のお抱えオーケストラ用だったので、単純に聴いてて楽しい曲が多いんだけど、時たま本人の為だけに書いたとしか思えない“何なんだ!?”という暗い曲がある。そういうダークな曲は、どれも深く胸を打つ名曲で、哀愁を帯びた旋律が聴く者の涙を絞り取る。けっして明るいだけではないモーツァルト。だからこそクラシック・ファンは彼の陽気な曲をこよなく愛し、今日もCDの電源を入れるのだ。

父レオポルドは宮廷音楽家。モーツァルトは3歳でピアノを弾き、5歳でピアノ小曲「アンダンテ・ハ長調」を作曲し、8歳で交響曲第1番を、11歳で最初のオペラ『アポロとヒアキントス』を作曲した。彼の記憶力の良さを伝えるこんな逸話がある。カトリックの総本山ヴァチカンには、楽譜を持ち出すことも、写譜も禁じている、絶対秘曲「ミゼレーレ」があった。13歳のモーツァルトはシスティーナ礼拝堂でこの合唱曲を聴くと、宿に帰って全曲を譜面に書き写してしまった。結果、門外不出だった「ミゼレーレ」は秘曲ではなくなってしまう。この曲は9声部(9つのパート)が10分以上も重なりあい、絡みあう複雑なもの。一発で9声部を聞き取って記憶するとは!あ、圧巻!!
アカデミー賞に輝いた映画『アマデウス』の冒頭で流れ、一躍有名になった交響曲第25番を作曲したのは17歳。32歳の時には、わずか2ヶ月で交響曲第39番、第40番、第41番「ジュピター」を書き上げた。恐ろしく作曲スピードが速いうえ、そのどれもが傑作というのがスゴ過ぎ。
オペラの作曲に関してエピソードが残っている。約束の締切りの前夜にうっかり眠ってしまったモーツァルト。当日の朝、彼は妻のコンスタンツェに叫んだ。
「しまった!コンスタンツェ、眠ってしまった!」
「あなた、あと2時間しかないわよ」
「な〜んだ、2時間もあるのか」
そしてあっという間に書き上げてしまった。既に頭の中に完璧な譜面が出来上がっているので、後はそれを書き写すだけでよかったのだ。

※モーツァルトは幼い頃からヨーロッパ中を演奏旅行していた。1762年、ウィーンのシェーンブルン宮殿に一家で招かれ、神聖ローマ帝国の女帝マリア・テレジアの前で姉と共に御前演奏をした時のこと。6歳のモーツァルトは宮殿の床に滑って転んでしまった。起き上がるのを助けてくれたのは、テレジアの当時7歳の末娘マリー・アントワネット。モーツァルトは彼女にこう言ったという「君は優しい人だね、大きくなったらボクのお嫁さんにしてあげる」。このプロポーズが実現してたら歴史が変わってたね(笑)。
※彼はとてもひょうきんな性格で、姉への手紙の末尾には「相変わらずマヌケなウォルフガングより」などと記していた。
※文献によってはモーツァルトが英国訪問時にバッハと会ったと書かれているけど、モーツァルトはバッハの死後6年後に生れているので、彼が会ったのはバッハの息子クリスチアン。
※絶対王政のこの時代、音楽家の地位は非常に低く、モーツァルトでさえ宮廷では召使い同然の扱いしか受けなかった。彼は風刺オペラ「フィガロの結婚」でバカ貴族を笑い者にしたが、台本を書いた元神父ロレンツォ・ダ・ポンテは国外追放、モーツァルトも宮廷の仕事を干されてしまう。
※モーツァルトは交響曲第41番「ジュピター」を作曲した後、まだ3年間生きていたのに、新しい交響曲を書かなかった。ジュピター終楽章のサビは、なんと彼が8つの時に作った交響曲第1番と同じメロディー。これはモーツァルト自身が、「シンフォニーではやりたい事を全てやったぜ」と満足していたのかも知れない。

「ウィーンはモーツァルトがサリエリに毒殺されたという噂でもちきりです」(ベートーヴェンの筆談メモ)。
モーツァルトの死因は当時から毒殺説が囁かれるなど100説以上あり、真相は謎に包まれている。『レクイエム』(死者の為の鎮魂歌)の作曲中に死んだのも何か象徴的だ。彼は死の4時間前までペンを握り、レクイエム第6曲“涙の日/ラクリモサ”を8小節書いたところで力尽きた。12月5日午前0時55分没。
晩年のモーツァルトは経済的に困窮し、墓すら建てる余裕がなかった。映画『アマデウス』にも彼の死体袋が貧民用の「第三等」共同墓地(ただの穴)に無造作に投げ込まれ、伝染病防止の為に石灰をかけられるシーンが出てくる。死から10年後、同土地は別用途に使用する為に掘り起こされ、その際にかつて彼を埋葬し、どの身体がモーツァルトか知っていた墓掘り人が頭蓋骨を保存した。それは様々な人の手を転々とした後、1902年に国際モーツァルテウム財団が保管することになる。2004年、頭蓋骨の真偽論争に決着を着ける為、ウィーン医科大学教授らの研究チームが、ザルツブルグに眠る父親や姪の遺骨を掘り出し、DNA鑑定をすることになった。この結果は生誕250年の2006年に発表される予定だ。

「私はモーツァルトの曲に触れて、神を信じるようになった」(ゲオルグ・ショルティ)指揮者
「モーツァルトの音楽は、あたかも天国の記憶のようだ」(小林秀雄)文芸評論家
「その音楽は宇宙にかつてから存在していて、彼の手で発見されるのを待っていたかのように純粋だ」(アインシュタイン)

※絶対に音楽の教科書には載っていないモーツァルトの横顔、それはオゲレツちゃん(汗)。有名なのは21歳の青年モーツァルトが19歳の従妹ベーズレに宛てた、俗に言う『ベーズレ書簡』。(以下、全て海老沢敏、高橋英郎編訳/モーツァルト書簡集から)
「お休みなさい。花壇のなかにバリバリッとウ○コをなさい。ぐっすりお眠りよ。お尻を口のなかにつっこんで。(略)ありゃ、お尻が火のように燃えてきたぞ、こりゃ一体なにごとだ!きっとウ○コちゃんのお出ましだな?(略)でも、なんだか焦げるような匂いがする」
家族への手紙の中にも
「小生はズボンにウ○コをたれましょう」「おケツでも嗅ぎやがれ」「僕らがその上にチン座しますタマは別として」「くそったれ=ローデンルの主任司祭ディビターリは、人へのお手本として、彼の女給仕のお尻をなめた」
といった言葉が“普通に”飛び交っている…。 
   
ただこれらは超下品ではあるものの、原文のドイツ語では韻を踏んで音楽的な響きがある。そこはモーツァルトといえるかも。
「だから、必ず来てよ。でないと、クソくらえだ。来てくれたら、ぼくが御みずからあなたにご挨拶し(コン・プリメンティーレン)、あなたのお尻に封印し(ペチーレン)、両手に口づけし(キュッセン)、臀部小銃を発射し(シーセン)、あなたを抱擁し(アンブラシーレン)、前からも後からも浣腸し(クリスティーレン)、あなたからの借りをすっかり一毛のこらず返済し(ベッアーレン)、勇ましいおならをとどろかし(エアシャレン)、ひょっとすると何かを落下(ファレン)させるかもね。」
…お見事。

  

プラハのベルトラムカ(モーツァルト博物館)には彼が愛用したピアノ、遺髪などが展示されているッ!
※この館で歌劇ドン・ジョバンニが作曲された




ウィーンのモーツァルトの家(フィガロ・ハウス)は生誕250年となる06年にリニューアル・オープンするべく改装中だった(05年)



★ショパン/Fryderyk Chopin 1810.3.1-1849.10.17 (ポーランド、ワルシャワ&パリ、ペール・ラシェーズ 39才)



ショパンの心臓を納める聖十字架教会。正面のキリスト像はかなりドラマチック

左側の柱の中に心臓がある 巡礼者が後を絶たない








2002 パリのショパンの墓 2005 すごい人気ぶりだ




ワルシャワの巨大ショパン像。なかなか悩ましい表情をしている

ピアノの詩人ショパンは、祖国ポーランドに帰る日を夢見ながら異国の地で果てた。葬式では彼の希望を受け、モーツァルトのレクイエムが奏でられた。ショパンがパリに埋葬された時、彼が終生ずっと大切にしていた故郷の土(20歳の頃、旅立つ時に友人がくれたもの)が棺の上に撒かれたという。死の翌年、遺言により彼の心臓は姉ルドヴィカの手でポーランドに運ばれ、首都ワルシャワの聖十字架教会の石柱に納められた。この柱には「あなたの宝の場所にあなたの心がある」(マタイ伝)と刻まれている。
大戦中はナチスが同教会の3分の1をダイナマイトで破壊し、ショパンの心臓が入った壷も奪われてしまったが、終戦後に教会は修復され、彼の命日に心臓は戻された。この時に演奏されたのは、ショパンがポーランド独立の暁に披露しようとしていた軍隊ポロネーズだった。

ショパンは7歳で既に公衆を前に演奏していた。最初の作品は同じく7歳の時に作った民族舞曲のポロネーズ。最後の作品は、民族舞曲のマズルカだった。パリではベルリオーズ、ハイネ、バルザック、リスト、ドラクロワら作家・芸術家と親交を結んでいた。女流作家ジョルジュ・サンドとの熱愛は有名。生涯の作品数は約200曲。ピアニストの登龍門「ショパン国際ピアノ・コンクール」は5年に一度開催され、命日(10月17日)にモーツァルトのレクイエムがワルシャワ・フィルによって演奏された後、翌日から本選が始まる。

ショパンの、次第に内にこもっていく曲調が自分は好きだ。どんどん魂の奥底へ意識が沈んでいく。左手(低音)を伴奏専門から解放したピアノの革命家に乾杯。

※画家ドラクロワはわざわざショパンの為にピアノを買い、アトリエに置いていた。もちろん、ショパンが遊びに来た時に聴けるから!
※パリのショパンの墓の3つ右隣に、“ピアノの化身”と言われたジャズ・ピアニスト、ミシェル・ペトルチアーニが眠っている。



ワルシャワのユースホテルの職員イェージー君はドラゴンボールの大ファン!2人で一緒に「かめはめ波」!!(2005)