カントレフ、彷徨

                                         
                              
カジポン・マルコ・残月

第3回

 

    (三) ソ−ニャ(後)

 
会うたびにソ−ニャが与えてくれる安らぎは、彼がそれまで体験したことのないものだった。彼はどんなに惨めで塞いだ気分の時でも、彼女が彼の髪を触りながら、一言『大丈夫?』と心配してくれるだけで“俺はロシアで一番幸せな男だ”と本心から思ってしまうのだった。
 カントレフは自分の気持ちがみるみる彼女に傾いていくのを抑えることが出来なかった。娼館にもかかわらず、彼は彼女との“会話”を最大の楽しみにしていた。
 (彼女の持つ優しさは決して仕事用のものではなく、彼女の人生によって裏付けされた思いやりだということは、もはや疑いようがない。俺は彼女を愛してしまった。だが、好きだからといって彼女に俺だけへの愛を要求することは、それは彼女の優しさに付け込む事に他ならぬのではないのか?第一、彼女の素晴らしさに気づいているのが俺一人のわけがない。俺のように自分をコントロ−ル出来ない者が、何人も彼女を困らせているに違いない。俺は…俺は彼女を苦しめたくない!)

 だがカントレフは初めて会ってから十ヵ月後、十二回目に彼女に会ったとき手紙を渡してしまった。つまり求婚したのである。彼女の立場を分かった上でのこの行動は、もちろん若さゆえの先走りがあったのも事実だ。しかし、あえてこう言い換えることも出来る、よくぞ十ヵ月間耐えたものだと。それほどまでにソ−ニャの存在は彼が彼自身でいられる為の、かけがえのないものになっていたのだ。
 彼は二週間後に返事を聞きに来るという言葉と共に、以下の手紙を手渡した。


 『ソ−ニャ、僕と結婚して欲しい。この手紙がルール違反だということはよく分かっている。だが人生は短い、僕は迷ってなどいられなかった。一日告白が遅れれば、一緒になれても君との未来が一日短くなる。だから、どうかこの突然の無礼を許して欲しい。

 もちろん僕は努力した…君を愛してしまわぬように。君の優しさは、僕に対してだけの特別なものではないと、いつも自分に言い聞かせてきた。しかし、君の魅力に対してどんなに抵抗しても、結局はムダだった。僕は君の魂の美しい輝きに、何度も全身を照らされた人間だ。素晴らしいものをそうではないとムリに思うことは、もうこれ以上不可能になった。

 人間の強さと弱さを知っている君、他人を理解しようとひたむきに生きる君を、どうして愛おしいと感じずにいられるだろう?君と出会ってしまった以上、好きにならぬ方が不自然だ。僕たちはたくさん色々なことを話した。だから、君とあまり話したことのない者が、“勝手に”君を美化してるわけじゃないってのは分かるよね?
 ソーニャ、呼吸だけなら君なしでも僕は出来る。でも“生きる”となれば話は別だ。君が側にいないとだめだ。君と一緒に体験したことだけが、思い出にする価値のあることだ。僕にとって君と分かち合えない出来事は、存在していないのと同じなんだ!

 でも、だからといって誤解しないで欲しい。僕は君のことを心から“必要”としているけど、それは“依存”とは別なものなんだ。“必要”と“依存”は違うものだよね?僕は一人で立てる、だから依存しない。…だけど、それで幸せかどうかは別だ。食事の時に独りぼっちでテーブルにつくのと、二人でテーブルを囲むのとでは、食べ物の味が全然違う。うまいものを食べた時に顔を見合わせたい…例え方はまずいかも知れないけど、“必要”っていうのはそういう小さなことすべてを通して感じることなんだ!

 君が僕のものになるでもなく、僕が君のものになるのでもなく、お互いが別々の存在としてありながら、しかも同じ未来を見つめていけたらどんなにいいだろう!人生に対する僕たち二人の眼差しはすごく似ている。それは大きな共通点であると同時に、それ以上に大切なのは他にないと思う。

 ソーニャ、僕と結婚して欲しい。

 
かけがえのない君に、心からの愛と敬意を!
                (アレクセイ・ドゥルガーノフ・カントレフ)』


 
二週間。この二週間はカントレフの人生の中で、最も長い二週間だった。もともと夢想癖のある彼は、この間にありとあらゆる今後の状況を頭に思い描いていた。
 (俺の気持ちは彼女にすべて伝わっただろうか?彼女を賛美する連中はたくさんいる…俺は連中と同じ様な浮き足立った男ではないと自分では思っているのだが…。)
 約束の日、『サルビア』を訪れたカントレフは、二、三言を女将と交わした後、その場で卒倒した。真後ろに昏倒したのだ。店に彼女は、ソーニャはもういなかった。娼館を出ていったのである。手掛かりは何もなく、娼館の女将も首を横に振るだけだった。
 失恋という悲劇は当然予想の範囲にあった。その際は、実に辛い選択になるのだが、“友人”という道を選ぶつもりだった。なのに、まさかこの様な事になろうとは!
 自室に辛うじてたどり着いた彼は、二週間前に手紙を書き記したその同じ机に突っ伏した。
 (この広大な帝都で、彼女と再び会える可能性なんてありはしない!)
友にすらなれなかったという点で、これは彼にとって最悪のシナリオだった。
 (し、しかし…だが何故なんだ、ソ−ニャ!それほど俺は君を追い詰めてしまったのか?)
彼は自分の見通しの甘さを悔やんだ。そして人を恋する事の難しさに言葉を失った。求婚の手紙はあれでも随分感情を抑えて書いたもので、決して激情に駆られて書きなぐった類のものではなかったのに、結局この結果を生んでしまったからである。
 (だが、あれ以上に感情を封じてしまっては愛する気持ちが伝わらぬではないか。彼女を求める俺の気持ちは、そんなちっぽけなものではないのに!)
 翌日から彼は帝都のどこを歩いても、人の波にソーニャの影を探した。それがどれだけ不毛な事か分かっていても、それでも探さぬわけにはいかなかった。その視線には力強い生命力はなく、ただ悲愴感だけがあった。

 三ヵ月後。普段どおり帰宅した彼は小さな叫び声をあげた。ソーニャから手紙が来ていたのだ。驚いたことに消印はイルクーツクとなっていた。
 (イルクーツク?シベリアじゃないか!一体どういうことなんだ!?)
カントレフは震える指で封を開いた。


 『大切な御手紙の御返事が、こんなにも遅くなって本当にごめんなさい。私は今、ある人を追って、シベリアの流刑地にほど近い村にいます。その人には、心の拠り所がもう何もないのです。辺境にいて独りぼっちの彼は、あなたよりももっと私を必要としています。私は彼の近くにどうしても居てあげたいのです。
  …あなたの御手紙はとても嬉しかった。でも、今の私には彼がすべてなのです。あなたは心が温かく、優しい殿方です。すぐに私よりもっと素晴らしい女性が現れるでしょう。その方を大切にして、どうかお幸せになってください。あなたの幸せを心より祈っております。

  それでは、お体にお気をつけて…。
                    (あなたの心のお友だち ソーニャ)』


 カントレフはそこまで読んだ後、しばらく茫然と立っていた。
(『彼はあなたよりもっと私を必要としています』だって?どうしてそんな言葉が出てくるのだろう、こんなにも君を必要としているのに!その男には拠り所がないと言うけれど、それじゃあ俺には拠り所があるとでも言うのかい?その男は何も持っていなくて、俺は何かを持っていると本当にそう思うのかい?畜生!その男って誰なんだ、俺はその男に負けたのか!?)

 彼がソーニャに関するいきさつを色々と知ったのは、数年後に新進作家のドストエフスキー氏が発表した、ある若い犯罪者のドキュメンタリー『罪と罰』によってであった。カントレフはその本にソーニャの名を見い出し、心底仰天した。同時に彼女が追ったそのラスコーリニコフという男が、どういう男かということも知った。
 (人殺しとはいえ、確かにその男は純粋なヤツだった…共感する部分もある…しかしそれにしても、現実として俺は学生上がりの青二才に敗れたのだ。何ということか!俺が負けた相手は、人生経験の豊かなもっと年上の奴だと思っていたのに!)

 カントレフは悲しみを紛らわす気晴らしを持たぬ分、彼にとってこのダメージは直接かつ最高度のものだった。この後、彼の瞳に再び生命の灯がともるまで、実に四年の月日を必要とした。


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