カントレフ、彷徨

                                         
                              
カジポン・マルコ・残月

第2回
 

  第二部 魔都をさまよいし者、ここに


   (一)家路にて

 
三月になっても、ロシアの冬将軍は一八〇〇年代との別れを惜しむかのように、例年にも増して熾烈さを極めていた。特に西部ロシアでのその暴君ぶりは凄まじく、村によっては住民の半数が犠牲になる所もあった。その結果として、地方の貧村から多くの人々が食と暖を求めて帝都ペテルブルグになだれ込み、帝都の人口は前年の三倍以上という空前のものになっていた。
 ありとあらゆる階層の人間がひしめきあう帝都は、人々の生きんとするエネルギ−と、そこから生まれる様々な欲望が沸騰せんばかりに充満し、まさに“魔都”と化していた。街の中心を貫いているネフスキ−大通りを上空から眺めれば、黒い外套をはおって移動する群衆が、あたかも黒き河のごとく見えていたであろう。
 しかしその魔都の中にあって、この小説の主人公アレクセイ・ドゥルガ−ノフ・カントレフはその長年にわたる孤独な生活ゆえに、ギラギラした生命力とは無縁の男であった。

 ひっそりと魔都の片隅に住む靴職人のカントレフは、今日も誰に声をかけられることもなく、日没後のネフスキ−大通りを一人家路についていた。
 (それにしても、三十五年なんてあっという間だったな。)
この日、彼は三十五才になった。家と反対のネフスキ−をわざわざ歩いていたのは、さすがに真っすぐ帰るのが寂しかったからだ。雑踏の中で彼は様々な思いを巡らせていた。
 (なぜこうも時が経つのが早いのだろう。独り者には人生はないと結婚した弟は言っていたが、別に孤独な日々が続いているからといって、俺が生きておらぬわけではないと思うのだが…。確かに独りで生きていると共通の過去を体験した相手がいない為に、和気あいあいと思い出話をするなどという事は殆どなく、結果として自分の過去からどんどん現実感がなくなっているのは事実だ。)
一瞬、寒風が顔を叩きつけたので、彼は襟元を引き寄せた。
 (誰とも人生を共有していないから、昨年あった出来事さえ、それが現実なのか、俺の想像だったのか、まるで判別が出来ぬ有様だ。共に誰かと過去を振り返るという確認行為が出来ぬのは、こうも致命的なのか。どうにも時の流れを実感できん!)

 もちろんカントレフもかつては大多数の者がそう望むように、おのが伴侶、おのが母港を切実に探し求めていた。ところが今の彼は七年以上も錨を下ろせないでいる。
 彼はこれまでに二度錨を下ろそうと試みたが、その都度、船は激しく暗礁に乗り上げ、ものの見事に難破船と成り果てた。無論、時々母港に近い入り江にさしかかったと思うこともあったが、後になってみればそれらもやはり錯覚だった。

 広大な魔都の大海原で、カントレフの漂流は続く…。


   (二) ソ−ニャ(前)

 
決定的な二度の座礁のうち、最初のものは実に十一年前までさかのぼる。相手の女性はペテルブルグの聖マリアとまでいわれた、十八才の娼婦ソ−ニャだった。彼女は、当時二十四才だった彼にとっての、初めての女性であった。それまで彼は例の左足のこともあって、女性の前では決して自分の衣服に手を付けなかった。しかし、人づてにソ−ニャが心の優しい女性だという噂を聞いたとき、娼館の闇の中でなら左足の呪縛から解き放たれると思い、センナヤ広場とネヴァ河に挟まれたその娼館『サルビア』の扉を、勇気を奮い起こしてくぐったのだ。
 まだ早い時間だったせいか、彼は一番客だった。案内係がすぐに彼の希望を聞き、彼女の部屋まで誘導した。                          
 「初めまして、ソ−ニャといいます。」
 カントレフは、彼女を目のあたりにして息を呑んだ。美しく波打つ金色の髪、まるで新雪そのものの白い肌、そしてランプのともしびでもはっきりと分かる凛(りん)とした青い瞳。
 「君の瞳…。」
 「私の瞳がどうかしましたか?」
 「まるで…まるでロシアの冬晴れの空だ。あの空の色と同じだ…静かで…澄んでいる…。」
 「そんな…。」
彼女はうつむきかげんに横を向き両目を伏せた後、少し間をおいてから呟いた。
 「でも、有難うございます。」
 冬のロシアはいつも灰色の雪雲に覆われていて、ほとんど晴れることがない。それだけに人々には偶然に近い形で時おり垣間見ることが出来る真っ青な空が、まるで人生のあらゆる辛さから自身を救い出してくれるように思えるのだった。目の前にいるソ−ニャの瞳はまさにそれであった。
 「あの、お客さん…ランプを消しますか?それとも…。」
 「点けておいてください。」
彼は足の事を忘れ、彼女の瞳を見ていたいばかりに、ついそう答えてしまった。
 「いえ…すみませんが、やはり灯をおとしてください。」
彼女は一瞬とまどったが、すぐに何かしらの理由を察し、黙ってその通りにした。

 暗闇の中で起こった出来事は、彼がまだ幼い頃に、教会で初めての聖餐式の際に味わった、高揚感、陶酔感、浄化感、それら全ての感覚を思い起させた。彼は自分の全神経が時に非常に鋭敏になり、時に完全に麻痺してしまうことを感じた。色んな感情が彼の全身を駆け巡り、やがて彼の意志とは関係なしに、徐々に体が震え始めた。
 気がつくと、ソ−ニャはカントレフの左足をそっと両腕で包み込み、長い間接吻していた。そして彼の耳元に顔を近づけると小さく囁いた。
 「お願いです、どうか震えないで下さい…私、本当に嬉しかった…瞳のこと…。」
彼女はさらに小さな声で続け、彼は耳をすませてそれを聞いた。
 「瞳(め)は心の住みか…そうですよね…そうですよね…。」

 店を出て、センナヤ広場の人込みにもまれた時、彼は自分の頬がどんどん濡れていくのを感じたがそれを拭おうとはしなかった。そして広場のベンチにうずくまった。
 (なぜだろう…最後に彼女の中の悲しみが堰を切ったように全身に流れ込んでくるような気がした…。この涙は何だ?ええい、すきに流れさせておけばいい!どうせこのペテルブルグでは誰も気づいたりしない!)

 その夜、人々が“聖マリア”と彼女を呼んでいることを、どういう気持ちで耳にしてるのだろうかと、カントレフは考えずにはいられなかった。
 

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