哲学者の墓
世界恩人巡礼大写真館

哲学者、茶人、精神分析学者コーナー

20名

アランの墓
ヴィトゲンシュタインの墓
キルケゴールの墓
サルトルの墓
ショーペンハウアーの墓
デカルトの墓
ニーチェの墓

パスカルの墓
フロイトの墓
ヘーゲルの墓
マルクスの墓
ユングの墓
鈴木大拙の墓
西田幾多郎の墓


●茶人
織田有楽斎の墓
小堀遠州の墓
千利休の墓
蒲生氏郷の墓
古田織部の墓
細川三斎の墓



★カール・マルクス/Karl Marx 1818.5.5-1883.3.14 (イギリス、ロンドン郊外 64歳)1989
Highgate Cemetery (East), Highgate, London, England



1989年の夏に巡礼したんだけど、この半年後、いきなりベルリンの壁が撤去されておったまげた。墓石には、ソ連や
東欧の社会主義政権が崩壊し、今や死語となった言葉『万国の労働者よ団結せよ』が刻まれている。哀!続けて
墓碑に『哲学者たちはただ世界をいろいろな風に解釈してきた。だが世界を変革することこそが大事なのだ』の言葉も。




★ニーチェ/Friedrich Nietzsche 1844.10.15-1900.8.25 (ドイツ、レッケン 55歳)2002
Rocken Churchyard, Rocken, Germany

以下の言葉はすべてニーチェの言葉だ---
『人間は地球の皮膚病なり』
『昼の光に夜の闇の深さが分かるものか』

『人間とは神の失敗作にすぎないのか、それとも神こそ人間の失敗作にすぎぬのか』
『人間のみがこの世で苦しんでいるので、笑いを発明せざるを得なかったのだ』
嗚呼、このダークさ!ニーチェ最高ッ!(晩年ニーチェは狂死)





ドイツ人でさえ「そんな土地聞いたコトない」という田舎
レッケンの、古い教会の壁沿いにニーチェの墓はある。
普段、荷物を駅のロッカーに預け軽装で巡礼に向かうが、
レッケンには鉄道が通っておらず、駅のある町からバスか
タクシーを使うしかない。とにかく現地の情報が皆無だっ
たので、どんな不測の事態にも対応出来るよう、全荷物
をしょって墓参を敢行した!
ヒゲづらガンコ親父のニーチェに
ブチュ〜!むろんタイマー撮影だ。


この時の為に持ってきた黒ビールを取り出す。
ニーチェと男同士、サシで酒を酌み交わすという、
長年の夢が実現ッ!これぞ墓参の醍醐味!!








94年以前、“墓はワイマール”というガセネタを信じ、一日中ワイマールの墓地をさ迷った体験があるので)、今回レッケンでたどり着けて本当に感無量だ!







夢中で写真を撮った後、駅に戻るべくバス停に向かって絶句。最終バスは19時3分だった(この時19時5分)!田舎とはいえ、まさか19時でバスが最後とは想像もしなかった(涙)。不覚!町外れでしばらくヒッチハイクに挑戦したが、どの車も完全無視。タクシーを電話で呼ぶにも公衆電話がどこにもない。やむを得ず、電話を借りるべく付近の民家のベルを一軒ずつ鳴らすが、夕食時だからか、ドイツ語が通じないのか(この可能性が高い)、僕の容姿に警戒したのか(これもあり得る)、どこも扉を開けてくれない。途方に暮れていた所、一台の車が帰宅したので猛然とダッシュ!全身全霊の泣き落としで電話を借りようとしたら、なんと車に乗っていた若夫婦は駅まで送ってくれるという!カールさんというお菓子のような名前の夫婦、この2人に出会ってなければ、自分はこの日どうなっていたことか。ううっ、有難う!!

ニーチェはライプチヒで作曲家リヒャルト・ワーグナーと出会う。彼は『悲劇の誕生』でワーグナーを賛美しており、23回もワーグナー邸を訪問した。両者は31歳も年が離れていたが良き友だった。ところがニーチェはワーグナーの音楽が次第に俗化していくように感じられ、バイロイト祝祭劇場で『パルジファル』を見た時は、失望のあまり途中で抜け出してしまう。彼はワーグナーとの決別宣言として『人間的な、あまりにも人間的な』を記す。ワーグナーは立腹し2人の関係は断絶した。しかし、晩年のニーチェは「私はワーグナーを愛していた」という言葉で、いつもワーグナーの思い出話を締めていたという。



★サルトル/Jean-Paul Sartre 1905.6.21-1980.4.15 (パリ、モンパルナス 74歳)1989&2002
Cimetiere de Montparnasse, Paris, France



1989 2002
「死は人生の最終章ではあるが、やはり、人生である」(サルトル)
実存主義哲学の雄サルトルは、ボーヴォワールと同じ墓に眠っている。2人は最良のパートナーとして長く同棲生活を送り、そのまま彼が先に亡くなるまで籍は入れなかった。結婚など紙切れ一枚の問題とでも笑うかのように。現在2人はモンパルナス墓地の一角に愛の巣を構えている(正門を入ってスグの一等地!)。クーッ、妬ける墓だぜ。

サルトルは1964年に59歳でノーベル文学賞に選ばれたが同賞を辞退した。理由は「どんな人間でも生きながら神格化されるには値しない」。ちなみに文学賞辞退は旧ソ連の詩人パステルナークと彼の2人だけ。パステルナークはノーベル文学賞が西側文化を一方的に擁護し東西対立を深めていると抗議した。

「日記は自分の内部に起こりつつある事を、はっきり当人に知らせてくれる」(サルトル)



★キルケゴール/Soren Aabye Kierkegaard 1813.5.5-1855.11.11 (デンマーク、コペンハーゲン 42歳)1994
Assistens Cemetery, Copenhagen, Denmark



『死に至る病とは絶望である』との言葉を残し42歳で亡くなったセーレン・オービエ・キェルケゴール。彼はあまりに繊細すぎた。
コペンハーゲンの中心部にある同墓地には、デンマーク人の誇り、アンデルセンの墓もある。

キルケゴール(Kierkegaard)はデンマーク語で「教会の庭」「墓地」の意。デンマーク人は墓地を不吉な場所と思ってないらしい。




★デカルト/Rene Descartes 1596.3.31-1650.2.11(フランス、パリ 53歳)2005
Saint-Germain-des-Pres, Paris, France


「我思う、故に我あり!」
  

パリ最古の教会に眠っている。3枚の黒石版の真ん中がデカルトだ!
当初はスウェーデンに埋葬され、後にパリへ改葬された。




★ショーペンハウアー/Arthur Schopenhauer 1788.2.22-1860.9.21 (ドイツ、フランクフルト 72歳)
Hauptfreidhof, Frankfurt-on-Main, Germany


27歳のショーペンハウアー 衝撃の髪型

 
「あきらめを十分に用意することこそ、人生の旅支度をする際には何よりも重要だ」墓は美しいが残した言葉は暗い

ゴリゴリの無神論者で生涯独身を通した。女性に深いコンプレックスを持ち「男同士は本来お互いに無関心なものであるが、女というものは生まれつき敵同士である」
など問題発言も多く、その意味で女の敵。(失恋した男性は“ちくしょー、女なんて…わーん!”とショーペンハウアーを読んで、ちょっと慰められる)

「生とは苦痛であり、生の苦痛から解脱するには、意志を否定し、禁欲と静寂、涅槃(ねはん)の境地に達することだ」



★パスカル/Blaise Pascal 1623.6.19-1662.8.19 (フランス、パリ 39歳)2005
Saint Etienne-Du-Mont, Paris, France


画面の一番右端の柱に注目 天才パスカルはココ!

ジャンルは哲学者にしたけど、科学者でもあり、数学者でもあるんだよね〜



★フロイト/Sigmund Freud 1856.5.6-1939.9.23 (イギリス、ロンドン郊外 83歳)2002
Golders Green Crematorium, London, England



精神分析学の創始者。人間の行動はすべて性的エネルギーに突き動かされたものと言い切った。彼の墓は活動の本拠地だった
ウィーンにあると思っていたら、ナチスのユダヤ人弾圧を逃れて死の前年に英国へ亡命しており、ロンドンの郊外にあった。




★ユング/Carl Jung 1875.7.26-1961.6.6 (スイス、キュスナハト 85歳)2005 精神分析学者
Protestant Church Graveyard, Kusnacht, Switzerland

すごくきれいにしてもらってるユングの墓。墓前に小さな池がある

分析心理学の創始者。当初は20歳年上のフロイトと共同研究していたが、心的エネルギーが性的エネルギーに勝るとしてケンカ別れ。



★ヘーゲル/Georg Wilhelm Friedrich Hegel 1770.8.27-1831.11.14 (ドイツ、ベルリン 61歳)2002
Dorotheenstadtischer and Friedrichswerder Cemetery, Berlin, Germany



ドイツの首都ベルリンに眠っている大哲人ヘーゲル。地味な墓で探すのにひと苦労。この日の
ベルリンは猛暑で、カンカン照りの墓地の中、僕は脱水症状の為に倒れそうになった。

ヘーゲルの生前の希望により、彼はドイツ観念論の哲学者フィヒテ夫婦の墓の隣に埋葬されている。




★アラン/Alain 1868.3.3-1951.6.2 (パリ、ペール・ラシェーズ 83歳)2002
Cimetiere du Pere Lachaise, Paris, France
本名:Emile Auguste Chartier



『我々は現在だけを耐え忍べばよい。過去にも未来にも苦しむ必要はない。
過去はもう存在しないし、未来はまだ存在していないのだから』

『幸福だから笑うわけではない。むしろ、笑うから幸福なのだと言いたい』(以上アラン)

パリ最大のペール・ラシェーズ墓地にアランの墓がある。著名人は道沿いの目立つ場所に眠って
いる場合が多いんだけど、彼は無数の墓に紛れ込んでて、なかなか発見できなかった…!




★西田 幾多郎/Kitarou Nisida 1870.5.19-1945.6.7 (神奈川県、鎌倉市、東慶寺 75歳)1999



鎌倉には文人や哲学者の墓が多い。日本が生んだ最初の世界的哲学者・西田幾多郎もまたしかり。
代表作『善の研究』は、発売日前日から学生が書店の前に並んだというからすごい。




★鈴木 大拙(だいせつ)/Daisetu Suzuki 1870.10.4-1966.7.12 (神奈川県、鎌倉市、東慶寺 95歳)1999



日本の禅研究の第一人者、鈴木大拙(金沢出身)。英文で禅思想を世界に広めた。
苔むした、渋いたたずまいの良い墓だ。本名は貞太郎(ていたろう)。




★ヴィトゲンシュタイン/Ludwig Wittgenstein 1889.4.26-1951.4.29 (イギリス、ケンブリッジ 62歳)2005
Ascension Parish Burial Ground, Cambridge, England






調査ではここに墓があるはずだった 入口は狭いのに、中にはけっこう墓があった 刻々と日が暮れる。一向に墓が見つからない




倒れている墓も多く名前の確認に手間取る うっそうと樹木が生い茂り光を遮る 「うわ!草がボーボーじゃないか!」
この後、いっきに日没になり捜索は断念。悔しい!

「また挑戦するんだニャ〜」

無念!ケンブリッジ郊外の墓地までたどり着いたにもかかわらず、時間切れでヴィトゲンシュタインの墓を発見できなかった!
(っていうか墓地内も荒れ果てすぎ!)ケンブリッジ在住or訪問の予定がある方、彼の墓を見つけたら、ぜひぜひお知らせ下さいましーッ!




『ヴィトゲンシュタインの幻の墓』※画像はこの海外サイトから引用しました!

八人兄弟の末っ子。男兄弟4人のうち3人までも自殺している。彼の最期の言葉は「素晴らしい人生だったと伝えてくれ」だった。
※10代後半に通っていたリンツの学校の生徒にはヒトラーがいて、2人が収まっている集合写真がある。



★千 利休/Sen Rikyu 1522-1591.2.28 (大阪府、堺市、南宋寺&京都市、北区、大徳寺 69歳)1999&2003 茶人

 
竹一重切花入 銘『園城寺』 千利休像(長谷川等伯筆) 黒樂茶碗 銘『俊寛』
利休作の竹の花入れ。わざと
ヒビ割れを正面にした大胆さ!
天下人秀吉を前に、一歩も
己の美学を譲らなかった!
利休が愛した黒樂茶碗
利休いわく「黒は古き心なり」



待庵の外観 待庵の床(とこ) 待庵の“にじり口” 竹茶杓 銘『泪』(筒は古田織部作)
現存する最古の茶室!
400年以上前のもの

もちろん国宝ッ!!
わずか2畳の究極の茶室
(超ストイック)
まるでブラックホールか
宇宙の入口のようだ…

切腹前に削り最後の茶会に使った茶杓。弟子
の織部に与えた。織部は窓付きの筒を作り、
窓を通して位牌代りにこの茶杓を拝んだという

大徳寺山門。秀吉はこの2階に安置された
利休の木像を理由に切腹を申しつけたという







なんと利休が自害した場所は、現在陰陽師・
安倍晴明を祀った「晴明神社」になっている(2008)
利休が最期の茶をたてた水の
井戸には五芒星が刻まれていた
神社の鳥居脇にある
「千利休居士聚楽屋敷址」

【堺の墓地】

千家一門の墓!中央が利休。左側が裏千家、右側が表千家。 利休の墓だけ大きい。木洩れ陽が良い感じに当たっている。

隣は利休の師・武野紹鴎(1502-1555.10.29)。侘茶の開祖
村田珠光の茶風を継いで、茶の湯のさらなる簡素化に努めた
そして向かいが利休のライバル、津田宗達一門の墓


【京都の墓地】






1999






2004 今日庵(裏千家)
京都大徳寺。利休が庵を結んだこの寺にも墓がある。
墓地の前で独り風流に粗茶をたしなむ図。利休とお茶会!
千家では利休切腹の1ヶ月後を命日としており、表千家は
3月27日、裏千家では3月28日に大徳寺で追善茶会を開いている

●前編
信長、秀吉という2人の天下人に仕え、茶道千家流の始祖となった“茶聖”千利休。本名は田中与四郎、号は宗易(そうえき)。大阪堺の魚問屋『ととや』に生まれる。当時の堺は貿易で栄える国際都市であり、京の都に匹敵する文化の発信地。堺は戦国期にあって大名に支配されず、商人が自治を行ない、周囲を壕で囲って浪人に警備させるという、いわば小さな独立国となっていた。そして多くの商人は優れた文化人でもあった。

利休の父は堺で高名な大商人であり、彼は店の跡取りとして品位や教養を身につける為に、16歳で茶の道に入る。18歳の時に当時の茶の湯の第一人者・武野紹鴎(じょうおう)の門を叩き23歳で最初の茶会を開いた。
紹鴎の心の師は、紹鴎が生まれた年に亡くなった「侘(わ)び茶」の祖・村田珠光(じゅこう、1423-1502)。珠光はあの一休の弟子で、人間としての成長を茶の湯の目的とし、儀式としての形よりも、茶と向き合う者の精神を重視した。大部屋では心が落ちつかないという理由で、座敷を屏風で四畳半に囲ったことが、後の茶室へと発展していく。

紹鴎は珠光が説く「不足の美」(不完全だからこそ美しい)に禅思想を採り込み、高価な名物茶碗を盲目的に有り難がるのではなく、日常生活で使っている雑器(塩壷など)を茶会に用いて茶の湯の簡素化に努め、精神的充足を追究し、“侘び”を具体的に表現した。
利休は師の教えをさらに進め、“侘び”の対象を茶道具のみならず、茶室の構造やお点前の作法など、茶会全体の様式にまで拡大した。また、当時は茶器の大半が中国・朝鮮からの輸入品であったが、利休は新たに樂茶碗など茶道具を創作し、掛物は禅の「枯淡閑寂」の精神を反映させた水墨画を選んだ。利休は“これ以上何も削れない”という極限まで無駄を省いてイブシ銀の緊張感を生み出し、村田珠光から100年を経て侘び茶を大成させた。

活力に湧く自由都市・堺に目をつけたのが1568年に上洛した信長だった。彼は圧倒的な武力を背景にして、堺を直轄地にし、軍資金を差し出させ鉄砲の供給地とした。そして、新しもの好きな信長は、堺や京の町衆(町人)から強制的に茶道具の名品を買い上げ(信長の名物狩り)、武力・政治だけでなく文化の面でも覇権を目指した。信長は許可を与えた家臣にのみ茶会の開催を許し、武功の褒美に高価な茶碗を与えるなど、あらゆる面で茶の湯を利用しまくる。

※現代でも高価な茶碗は重宝されるが、戦国武将たちにとって名物茶器は一国一城に値するもので、その価値は今とは比較にならないものがあった。有名なエピソードでは名物茶釜「平蜘蛛釜」を所有していた大和の武将・松永久秀。彼は数度にわたって信長を裏切っており、冷酷な信長なら問答無用で捕らえて斬首するハズなのに、1577年、信貴山城に籠もった久秀を2万の兵で包囲した降伏勧告で、「もし平蜘蛛釜を渡せば命までは奪わぬ」と説得した。かねてから信長が喉から手が出るほど平蜘蛛釜を欲していた事を知っていた久秀は、「信長にはワシの首も平蜘蛛釜もやらん!」と、なんと平蜘蛛釜に火薬を詰めて自分の首に縛り付け、釜もろとも爆死して天守閣を吹っ飛ばした。現代では信じられなけど、茶器が人の命を左右する時代が日本にあったんだ。(利休は43歳の時に久秀主催の茶会に茶匠として招かれている)。また、信長配下の滝川一益は、武功の恩賞に茶器「珠光小茄子」を希望していたのに、信長が上野一国と関東管領の身分でガッカリしたという話もある。まさに“国より茶器”を象徴するエピソードだ。

信長は堺とのパイプをより堅固にするべく、政財界の中心にいて茶人でもあった3人、今井宗久(そうきゅう)、津田宗及(そうぎゅう)、利休を茶頭(さどう、茶の湯の師匠)に重用した。利休は1573年(51歳)、1575年(53歳)と2度、信長主催の京都の茶会で活躍している。信長の家臣は茶の湯に励み、ステータスとなる茶道具を欲しがった。彼らにとっての最高の栄誉は信長から茶会の許しを得ること。必然的に、茶の湯の指南役となる利休は一目置かれるようになった。
利休60歳の1582年6月1日、本能寺にて信長が自慢のコレクションを一同に披露する盛大な茶会が催された。そしてこの夜、信長は明智光秀の謀反により、多数の名茶道具と共に炎に散った。

後継者となった秀吉は、信長以上に茶の湯に熱心だった。秀吉に感化された茶の湯好きの武将は競って利休に弟子入りし、後に「利休十哲」と呼ばれる、細川三斎(ガラシアの夫)、織田有楽斎(信長の弟)、高山右近、古田織部など優れた高弟が生まれた。
1585年(63歳)、秀吉が関白就任の返礼で天皇に自ら茶をたてた禁裏茶会を利休は取り仕切り、天皇から「利休」の号を賜った(それまで宗易と名乗っていた)。このことで、彼の名は天下一の茶人として全国に知れ渡った。
この翌年に大阪城で秀吉に謁見し、壁も茶器も金ピカの「黄金の茶室」で利休の茶を服した大名・大友宗麟は、「秀吉に意見を言えるのは利休しかいない」と記した。

※秀吉は茶会を好んだが、いかんせん本能寺で大量の名物茶道具が焼失したこともあり、自慢できる茶器が不足していた。そこで利休は積極的に鑑定を行ない新たな「名品」を生み出していく。天下一の茶人の鑑定には絶大な信頼があり、人々は競って利休が選んだ茶道具を欲しがるようになった。この過程で利休は自分好みの渋くストイックな茶碗を、ろくろを使用しない独自の陶法で樂長次郎ら楽焼職人に造らせた。武骨さや素朴さの中に“手びねり”ならではの温かみを持つ樂茶碗を、人々はこれまで人気があった舶来品よりも尊ぶようになり、利休の名声はさらに高まった。

1587年(65歳)、秀吉は九州を平定し実質的に天下統一を果たした祝勝と、内外への権力誇示を目的として、史上最大の茶会「北野大茶湯(おおちゃのゆ)」を北野天満宮で開催する。公家や武士だけでなく、百姓や町民も身分に関係なく参加が許されたというから、まさに国民的行事。秀吉は「茶碗1つ持ってくるだけでいい」と広く呼びかけ、利休が総合演出を担当した。当日の亭主には、利休、津田宗及、今井宗久、そして秀吉本人の4人の豪華な顔ぶれが並んだ。拝殿では秀吉秘蔵の茶道具が全て展示され、会場全域に設けられた茶席は実に800ヶ所以上になった!秀吉は満足気に各茶席を見て周り、自ら茶をたてて人々にふるまったという。

●ちょっと休憩〜利休の美学が垣間見える重要エピソードを紹介!
・ある初夏の朝、利休は秀吉に「朝顔が美しいので茶会に来ませんか」と使いを出した。秀吉が“満開の朝顔の庭を眺めて茶を飲むのはさぞかし素晴らしいだろう”と楽しみにやって来ると、庭の朝顔はことごとく切り取られて全くない。ガッカリして秀吉が茶室に入ると、床の間に一輪だけ朝顔が生けてあった。一輪であるがゆえに際立つ朝顔の美しさ!秀吉は利休の美学に脱帽したという。
・秋に庭の落ち葉を掃除していた利休が奇麗に掃き終わると、最後に落ち葉をパラパラと撒いた。「せっかく掃いたのになぜ」と人が尋ねると「秋の庭には少しくらい落ち葉がある方が自然でいい」と答えた。
・弟子に「茶の湯の神髄とは何ですか」と問われた時の問答(以下の答えを『利休七則』という)。「茶は服の良き様に点(た)て、炭は湯の沸く様に置き、冬は暖かに夏は涼しく、花は野の花の様に生け、刻限は早めに、降らずとも雨の用意、相客に心せよ」「師匠様、それくらいは存じています」「もしそれが十分にできましたら、私はあなたのお弟子になりましょう」。当たり前のことこそが最も難しいという利休。
・秀吉は茶の湯の権威が欲しくて「秘伝の作法」を作り、これを秀吉と利休だけが教える資格を持つとした。利休はこの作法を織田有楽斎に教えた時に、「実はこれよりもっと重要な一番の極意がある」と告げた。「是非教えて下さい」と有楽斎。利休曰く「それは自由と個性なり」。利休は秘伝などと言うもったいぶった作法は全く重要ではないと説いた。
・利休が設計した二畳敷の小さな茶室『待庵(たいあん)』(国宝)は、限界まで無駄を削ぎ落とした究極の茶室。彼が考案した入口(にじり口)は、間口が狭いうえに低位置にあり、いったん頭を下げて這うような形にならないと中に入れない。それは天下人となった秀吉も同じだ。しかも武士の魂である刀を外さねばつっかえてくぐれない。つまり、一度茶室に入れば人間の身分に上下はなく、茶室という小宇宙の中で「平等の存在」になるということだ。このように、茶の湯に関しては秀吉といえども利休に従うしかなかった。
・「世の中に茶飲む人は多けれど 茶の道を知らぬは 茶にぞ飲まるる(茶の道を知らねば茶に飲まれる)」(利休)

●後編
利休と秀吉の蜜月は茶の湯の最盛期となった「北野大茶湯」をピークとして、徐々に歯車が噛み合わなくっていく。秀吉は貿易の利益を独占する為に堺に対し、税を重くするなど様々な圧力を加え始め、独立の象徴だった壕を埋めてしまう。これは信長でさえやらなかったことだ。堺の権益を守ろうとする利休を秀吉は煩わしく思った。1590年(68歳)、秀吉が小田原で北条氏を攻略した際に、利休の愛弟子・山上宗二が、秀吉への口の利き方が悪いとされ即日処刑される。利休ショック。茶の湯に関しても、秀吉が愛したド派手な「黄金の茶室」は、利休が理想とする木と土の素朴な草庵と正反対のもの。秀吉は自分なりに茶に一家言を持っているだけに、利休との思想的対立が日を追って激しくなっていく。

そして翌1591年!1月13日の茶会で、派手好みの秀吉が黒を嫌うことを知りながら、「黒は古き心なり」と利休は平然と黒楽茶碗に茶をたて秀吉に出した。他の家臣を前に、秀吉はメンツが潰れてしまう。
9日後の22日、温厚・高潔な人柄で人望を集めていた秀吉の弟・秀長が病没する。秀長は諸大名に対し「内々のことは利休が、公のことは秀長が承る」と公言するほど利休を重用していた。利休は最大の後ろ盾をなくした。
それから1ヵ月後の2月23日、利休は突然秀吉から「京都を出て堺で自宅謹慎せよ」と命令を受ける。利休が参禅している京都大徳寺の山門を2年前に私費で修復した際に、門の上に木像の利休像を置いたことが罪に問われた(正確には利休の寄付の御礼に大徳寺側が勝手に置いた)。大徳寺の山門は秀吉もくぐっており、上から見下ろすとは無礼極まりないというのだ。秀吉は利休に赦しを請いに来させて、上下関係をハッキリと分からせようと思っていた。

秀吉の意を汲んだ家臣団のトップ・前田利家は利休のもとへ使者を送り、秀吉の妻(ねね)か母(大政所)を通じて詫びれば今回の件は許されるだろうと助言する。だが、利休はこれを断った。「秘伝の作法」に見られるような、権力の道具としての茶の湯は、「侘び茶」の開祖・村田珠光も、師の武野紹鴎も、絶対に否定したはずだ。秀吉に頭を下げるのは先輩茶人だけでなく、茶の湯そのものも侮辱することになる…。
利休には多くの門弟がいたが、秀吉の勘気に触れることを皆が恐れて、堺へ向かう利休を淀の船着場で見送ったのは、古田織部と細川三斎の2人だけだった。

利休が謝罪に来ず、そのまま堺へ行ってしまったことに秀吉の怒りが沸点に達し爆発した。
2月25日、利休像は山門から引き摺り下ろされ、京都一条戻橋のたもとで磔にされる。
26日、秀吉の気が治まらず堺から京都に戻って来いと呼び戻される。
27日、織部や三斎ら弟子たちが利休を救う為に奔走。
そして28日。この日は朝から雷が鳴り天候が荒れていた。利休のもとを訪れた秀吉の使者が伝えた伝言は「切腹せよ」。この使者は利休の首を持って帰るのが任務だった。利休は静かに口を開く「茶室にて茶の支度が出来ております」。使者に最後の茶をたてた後、利休は一呼吸ついて切腹した。享年69歳。利休の首は磔にされた木像の下に晒された。

利休の死から7年後、秀吉も病床に就き他界する。晩年の秀吉は、短気が起こした利休への仕打ちを後悔し、利休と同じ作法で食事をとったり、利休が好む枯れた茶室を建てさせたという。さらに17年後の1615年。大坂夏の陣の戦火は堺の街を焦土と化し、豊臣家はここに滅亡した。

●後日談
利休の自刃後に高弟の古田織部が秀吉の茶頭となった。秀吉が没すると、織部は家康に命じられて2代徳川秀忠に茶の湯を指南したが、織部の茶が高い人気を集め始めると、かつての利休のように政権に強い影響力を持つのを家康は恐れ、大阪の陣の後に織部が豊臣方と通じていたとして切腹を命じた。(この時代、茶をたてるのも命がけだ)
利休、織部に切腹命令が出たことは茶人たちを萎縮させた。徳川幕府の治世で社会に安定が求められると、利休や織部のように規制の価値観を破壊して新たな美を生み出す茶の湯は危険視され、保守的で雅な「奇麗さび」とされる小堀遠州らの穏やかなものが主流になった。
利休の子孫は、大徳寺にいた孫の千宗旦が家を再興し、宗旦の次男・宗守が『武者小路千家官休庵』を、三男・宗佐が『表千家不審庵』を、四男・宗室が『裏千家今日庵』をそれぞれ起こした。利休の茶の湯は400年後の現代まで残り、今や世界各国の千家の茶室で、多くの人がくつろぎのひと時を楽しんでいる。

※利休が公式に開いた最後の茶会の客は家康(切腹の1ヶ月前)。
※利休は『竹一重切花入・銘園城寺』『竹茶杓・銘ゆがみ』など、自作した茶道具を茶会に組み込んだ。
※秀長の死からわずか1ヶ月で利休が葬られたことから、強大な政治権力を持つ利休を目障りに感じた家臣らに排斥されたとも言われている。また秀吉が利休の養女お吟(ぎん)を側室に所望したのを断った為とする説もある。
※利休十哲の中には高山右近、蒲生氏郷、古田織部といった熱心なキリスト教信者がいた。茶の湯は誕生時から宗教を超越していた。
※1989年、奇しくも利休を描いた2本の映画が同じ年に公開され話題になった。『千利休/本覺坊遺文』(利休・三船敏郎)と『利休』(利休・三國連太郎)だ。

●墓
墓は利休が参禅していた堺の南宗寺と京都大徳寺にある。南宗寺は大阪の陣で全焼したが沢庵和尚が再興し、千家一門の墓の他にも師匠・武野紹鴎の墓もある。



★織田 有楽斎/Urakusai Oda 1547- 1622.12.13 (京都市、東山区、正伝永源院 74歳)2005






































愛用していた有楽井戸 波乱万丈の人生だった 有楽斎 国宝の茶室・如庵

茶道・有楽流の創始者。織田信長の実弟として生まれ、本能寺の変、関ヶ原の決戦、大坂の陣、その全ての現場にいた。信長、秀吉、家康の3人を最も近い場所で見てきた男と言われている。
 
本名長益(ながます)、通称源五。1582年6月2日、35歳の有楽斎は信長の長男・信忠と共に織田軍の一員として武田家征伐を終え、京都妙覚寺に入っていた。明智光秀が本能寺を襲ったことを知り、信忠と共に二条城に立て籠もる。やがて多勢に無勢と信忠は自害。多くの武将も討ち死にしていく中で、有楽斎は奇跡的に脱出に成功し、安土城を経て岐阜へ落ち延び一命を取り留める。
その後、信長の次男・信雄に仕え、秀吉と家康が対決した「小牧・長久手の戦い」では、信雄の使者として両者の調停役を務めた。巧みに家康を説得したこともあり、信雄が失脚した後は秀吉が参謀に招き入れた。
 
兄の家来だった秀吉に仕えることになった有楽斎は、戦国の世の全てが虚しく思えたのか、剃髪して出家し有楽斎如庵と号した。当初は無楽(楽しいことは何も無し)と名乗っていたが、秀吉からあまりに陰気すぎると指摘され有楽に改めたという。千利休の弟子になって茶の湯を習い始めると、その勤勉さから『利休七哲』に数えられ、師から最高位修得の印に台子(だいす、棚)を授かった。利休自害後は秀吉の茶の湯をつかさどる(44歳)。
 
隠居生活に入っていた有楽斎だが、時代がそれを許さなかった。秀吉が没したことで世は混迷を深め、53歳の有楽斎は家康の要請を受けて関ケ原の戦いに出陣する。東軍として石田三成軍の猛将・蒲生真令を討ち取ったことで3万石を与えられた。
 
関ヶ原後、徳川方と豊臣方の対立が深まっていくと、有楽斎は微妙な立場に立たされる。豊臣秀頼の母淀殿(幼名茶々)を生んだのは彼の実姉・お市の方であり、姉亡き後に姪を育てたのは有楽斎なのだ。1614年(67歳)、大坂の冬の陣が勃発すると、豊臣方の盟主におされ大坂城に入り、城外北方の天満を守備しつつ秀頼を補佐した。一方、攻め手の2代将軍徳川秀忠の妻もまた有楽斎の姪(淀の妹)。両陣営の間で板挟みになった彼は、家康と秀頼・淀殿の橋渡しとして奔走し、和議を成立させた。翌年、夏の陣が始まるまで互いの融和に努めていたが、戦が不可避と判断すると、武家であることがホトホト嫌になり、開戦直前に大坂城を退去。京都東山の建仁寺正伝院に身を置き、今度こそ完全に隠棲した。
 
建仁寺に入ってからは6年後に他界するまで茶に明け暮れ、のんびり気楽に余生をおくる。4歳年上の大茶人・古田織部が豊臣方に通じていた嫌疑で自害させられると、有楽斎は茶人の頂点に立った。70歳の時に設けた茶室如庵(じょあん、国宝)は、師の利休がわびやさびを求めたのに対して、木漏れ日を演出する“有楽窓”を考案するなどやすらぎを求めた。1621年74歳で永眠。家康は既に5年前に他界していた。
有楽斎の茶説は甥が「貞置集」にまとめ、有楽流が誕生した。有楽斎愛用の高麗井戸茶碗(有楽井戸)は現存し、有楽斎を茶祖とする織田流煎茶道は、今の家元で十五代になる。
 
有楽斎が眠る正伝永源院は、建仁寺境内の北側。もとの名は永源庵。1873年に廃寺となったので、祇園の正伝院を同地へ移し、名を永源と併せて正伝永源院とした。有楽斎の墓は祇園の旧地に残ったままだったので、1962年に改葬された。法名正伝院如庵有楽。隣に眠っている妻・清は、信長のうつけぶりを諌(いさ)めて自害した重臣・平手政秀の娘。
本能寺からも大坂城(夏の陣)からも逃亡し、「卑怯者」「臆病者」と呼ばれた有楽斎。秀吉の参謀だったのに関ヶ原では東軍についた要領の良さ。歴史ファンには有楽斎を嫌っている人も多い。しかし、僕は卑怯ではなく鋭い分析力と高い政治感覚を持っていたのだと思っている。信長の弟という立場で殺されずに天寿をまっとうしたのはアッパレ。最後は茶人として天下をとった。兄の信長は天下をとる直前に散ったが、有楽斎は武力の世界ではなく芸術の世界で天下一になったんだ。
 
※現在国宝に指定されている茶室は、京都山崎妙喜庵内の待庵、大徳寺龍光院内の密庵、そして愛知県犬山の名鉄ホテル庭園内の如庵の三名席のみ。如庵は東京や大磯など転々と移設された為、「流転の名跡」と言われている。
※関ヶ原後、有楽斎は家康から江戸に屋敷を与えられた。この屋敷のあった場所は現在「有楽町」と呼ばれている。



★古田 織部/Oribe Furuta 1544−1615.6.11 (京都市、上京区、興聖寺 71歳)2008



 
中央の墓が“へうげもの”古田織部の墓 戒名の「雲了院殿金甫宗屋大居士」が刻まれている


同じ墓地に茶道織部流歴代家元の二代から十七代までの墓がある 左手前の歴代墓の斜め向かいに古田織部の墓がある

JR土岐市駅前にある「織部の里」案内板 そして切符売り場には“ジャンボ抹茶碗” こちらはジャンボ水指。織部もビックリ!

通称左介、諱は重然(しげなり)。利休の高弟(高位の弟子)。利休は秀吉と対立して秀吉から切腹を命じられたが、織部もまた大坂夏の陣で豊臣方に通じていたとして、家康から切腹の命を受けた。利休と織部は、時の権力者と対立しても自分の信念を貫く炎の師弟だ!

※古田織部の指導の下で作られたのが織部茶碗だ。ゆがみを強調した形状や、豊かな装飾性と多種多様な色合いで、ひときわ異彩を放っている。
※興聖寺の墓地は入口が分かり辛い。境内の奥に広がっている。



★小堀 遠州/Ensyu Kobori 1579−1647.2.6 (京都市、伏見区、仏国寺 68歳)2008




 
お寺の人の案内がなければ絶対に分からなかった!
この茂みの奥に遠州の墓が隠れている。完全に死角だ
木洩れ陽の中の遠州
※写真はきれいけど、大量のヤブ蚊とクモの巣だらけッス!



滋賀県長浜市の遠州生誕地 東京新宿区の小堀家分家の墓 茶道・小堀遠州流

古田織部の弟子で、秀吉と家康に仕えた。遠州の茶は“きれいさび”と呼ばれ、門下に沢庵和尚がいる。建築や作庭にも才能を
大いに発揮し、名古屋城天守、京都南禅寺や大徳寺の庭、桂離宮の石橋など、各地に優れた作品を残した。




★蒲生 氏郷/Ujisato Gamo 1556−1595.2.7 (福島県、会津若松市、興徳院 39歳)2007


  
利休七哲の一人。こんなに墓参道が美しい墓はそうそうない。彼は会津の人から本当に愛されてるね!
※この興徳院の墓は遺髪墓
五輪塔「空・風・火・水・地」
の五文字がカッコイイ!

 
京都大徳寺・黄梅院の墓。氏郷は刀を抱いた形で埋葬されたとの事!(2008)※一般非公開



★細川 三斎(忠興)/Tadaoki Hosokawa 1563.11.13-1645.12.2 (熊本県、熊本市、立田自然公園・細川家墓地 82歳)2008


三斎(忠興)と妻ガラシャ(奥)の廟が並ぶ。写真には写って
ないけど右側には父・幽斎(藤孝)の廟がある
墓石はド迫力の五輪塔




  
京都の大徳寺高桐院は細川家の菩提寺で、当寺
にも墓がある。美しい苔寺として有名だ(2008)


高桐院の墓。石灯籠そのものが墓石で忠興の歯が埋まっている。妻のガラシアもこの下に。この石灯籠は利休
が天下一と美しさを讃えたもの。名声を聞いた秀吉が権力に任せて奪おうとした際、利休はわざと背後を割ってキズ
モノにし譲渡を断った。そして切腹時に遺品として弟子の忠興(当時28歳)に贈った。それから約50年後、80歳に
なった忠興は熊本からこの石灯籠を高桐院に運んできて、忠興とガラシアの共同の墓と遺言し3年後に他界した



忠興が作った茶室「松向軒」 忠興の石灯籠の横には細川家初代〜12代の墓が並ぶ 中央の幽斎は微妙に傾く

忠興は熊本藩細川家初代。利休七哲の一人で茶道・三斎流の開祖。父は細川幽斎(藤孝)。妻は明智光秀の娘・玉子(ガラシャ)。
号は三斎宗立。足利義昭、信長、秀吉、家康と歴代の大物に仕えた。





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