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| 2000年7月。博物館は改修中で、エジソンが眠っている 私邸への見学ツアーはなかった。せっかくニュージャージー まで来たのに…トホホ。しかも改修はあと3週間で終了だった。 |
そして2003年8月。一度開館した後、再び改修に 入っていた!次の開館は2年後とのこと。んなアホな! ※ボディラインのそり具合が嘆きの深さを表している! |
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| “ハイ、そうですか”と引き下がれるわけがねぇ! こういうこともあろうかと3年前の涙の写真を持参 していたので、この小屋の中にいる守衛に「一目 だけでも墓参させて欲しい」と説得した(3年前と 同じ中年の黒人の守衛だった!)。守衛はずっと 「ノー」「ソーリー」ばかりだったが、最後に根負け したのか、エジソン邸の“方角”だけを教えてくれ た(自分が教えられるのはここまでだ、とも)。 |
教えてもらった方向にどんどん行くと、ゲート が行く手を阻んだ。この街(ウエスト・オレンジ) は治安が悪く、金持ちは一ヶ所に集まって要塞 の中で暮らしていたのだ。先ほどの守衛は、 このゲートがあるからエジソン邸には行けぬと 言っていたのだ。 |
「えーい、行くしかないだろう!」意を決して門番を説得すべく突撃した!やはり3年前の写真を持って!“もう後がないぞ!”自分はシェイクスピア俳優ばりに、涙を溜め声を震わせて、極限までオーバーな演技で門番に「すぐに帰ってくるから」と吠えまくった!「分かった。行って来い!坂を登って右側に見えてくるオレンジの家だ!」感激。皆さん、これがエジソン邸っす! |


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| 付近の墓とはまったく異なる家の形をした墓 | ロンドン・セントポール寺院の祈念碑 |
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| ウギャー!スッポリと覆われている | 問題のプレート | グーテンベルク像 |

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| TVで解説を始めた頃 | “サヨナラおじさん”の名で愛された | 最晩年、宮崎駿監督と |
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| 素晴らしい名解説をもっと聞きたかったです〜ッ! (兵庫・須磨寺にて) |
生涯を銀幕に捧げた 「映画の伝道師」 |
05年の淀川長治賞に輝いて 喜ぶジャッキー・チェン |
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映画評論家。神戸出身。ハイカラな港街で芸者小屋を営む両親に連れられ、4歳の頃から映画を見まくった。子どもの頃から良い作品は他人に紹介せずにいられなかった性分らしく、一人で面白い映画に出くわすと、劇場の電話を借りて家に連絡し、親類の席を約10人分予約して、改めてもう一度観たという。
中学時代、「映画ばかり見ずに数学の勉強をしろ」と説教した先生に、「公開中の『ステラ・ダラス』を観てからそれを言って下さい」と抗議し、先生が数人で劇場に足を運んだところ、感動的な自己犠牲のラブ・ストーリーに一同はむせび泣き、以降は学校行事として映画を見に行くようになった。作品の選定は淀川に一任され、自分が薦めた映画で級友たちが、笑い、泣き、楽しむ様子を見て、「もっと多くの人に映画の素晴らしさを伝えたい!」と思うようになった。 1927年(18歳)、上京して雑誌「映画世界」編集部でアルバイト。1932年(23歳)には、米国の映画会社ユナイトの大阪支社宣伝部に入った。1936年3月(27歳)、『チャップリンと新妻ポーレット・ゴダードが、新婚旅行で極秘に神戸港へ船で立ち寄る』という大ニュースをキャッチ、ホノルルからクーリッジ号で入港したチャップリン(当時47歳)にアポなし突撃取材を敢行する。甲板で5分間だけという約束だったのが、淀川がチビッコ時代から観てきたチャップリン・ムービーの様々な名場面をパントマイムで再現しているうちに、炎のファン魂がチャップリンのハートに燃え移ったのか、「ねぇ、君!中に入って話をしよう!」と船室に招待してくれ、そこで一時間も2人きりで話をするという、人生最大最高の体験をする。チャップリンは淀川に、買い物に出るポーレット・ゴダードの為の神戸ガイドを依頼した。 1938年(29歳)、次第に日本が戦争に深入りしていく中、東京支社に転勤となり両親と上京。1940年(31歳)、彼が担当した『駅馬車』が空前の大ヒットを記録する。しかし、翌年に日米開戦となり、ハリウッド作品は敵性映画として終戦まで公開禁止になる。この当時、ディズニーの長編アニメ『白雪姫』を会社の試写室で密かに見た淀川は、色彩あふれるカラー映像に驚愕し「こんな国と戦争したら絶対に負ける」と絶句したという。1942年、東宝の宣伝部に移籍。 1945年、36歳で終戦を迎えてセントラル映画社に入社。翌年、雑誌『スクリーン』の編集委員となる。1947年(38歳)、映画世界社の「映画之友」編集部に入り、翌年から1967年まで20年も同誌の編集長を務める。その間、1951年(42歳)に初めてハリウッドを訪れ、念願だったチャップリンとの再会を果たす。スタジオで『ライムライト』を撮影していたチャップリンの第一声は「アイ・リメンバー・ユー!」。神戸港でのあの楽しいひと時を彼は忘れておらず、淀川をスウィート・ボーイと呼んだ。チャップリンは62歳。淀川は15年の間にチャップリンの髪の色がすっかり変わったことを知り、思わず泣きそうになる。「なぜ泣く?」「グレー・ヘアー」「……」。チャップリンは黙って淀川の肩を抱いた。 「映画之友」編集長として、彼は読者との定期的な交流会(友の会)を企画。映画への一途な熱愛ぶりが参加者に伝わり、映画ファンの間で名が知れ渡っていく。テレビでの初仕事は1960年のTVシリーズ『ララミー牧場』の解説。51歳のブラウン管デビュー。親しみやすい解説で一躍脚光を浴びた。 1966年(57歳)、新番組『日曜映画劇場』がスタート。この番組は劇場映画を毎週オンエアするという、業界初の試みだった。解説を依頼された淀川は「より多くの人へ映画の魅力を伝える」ことが可能なこの仕事を喜んで引き受けた。以後、一度も休むことなく32年間も(死の前日まで)解説を続けることとなった。 放送が始まると、丁寧で分かりやすい解説だけでなく、番組冒頭の「ハイ、またお会いしましたね」から最後の「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」に続く一連の「淀川節」が大ブレイク。独特の口調で映画の素晴らしさを嬉々として語る姿は人々に愛され、“サヨナラおじさん”の愛称でお茶の間の人気者となった。当初は「サヨナラ」の回数が毎回異なっていたが、子ども達が回数を賭けているという噂を聞き、それからは3回に決めた。 1967年(58歳)、テレビ、ラジオ、雑誌で引っ張りだこになった淀川は、「映画之友」を離れてフリーになり、各方面に活動の場を広げていく。
※たぶん、どの本にも載っていないエピソードを紹介。80年代前半、まだレンタルビデオ店というものが世になかったので、高校生の僕は『日曜洋画劇場』を毎週必ず観ていた。一度、酒に酔ったまま解説した回があって、あの衝撃を今でもハッキリと覚えている。「ハイ、皆さん今晩は。今日は私の顔、赤いですね。ちょっとスタジオに入る前、お酒を呑みましたね。フラフラですね。そういうわけで、今日は私、少しご機嫌さんでキャメラに向かってますが、舌がもつれたら皆さんごめんなさいね。さて、今日の映画は…」。師匠も凄いがこの収録をボツにせずオンエアしたテレ朝もブッ飛んでると思った。そしてこう考えた。つまり、番組の現場スタッフは日頃からその人間的魅力に惚れ込んでいて、親近感の湧く“ご機嫌さん”バージョンをどうしても人々に見せたかったのだと。翌週のオンエアでは「あらまあ、先週はごめんなさいね」と謝っていた(笑)。 あと、「サヨナラ」ではなく「にぎにぎバイバイ、にぎにぎバイバイ」と右手を“にぎにぎ”した回があった。翌週から「サヨナラ」に戻ったけど、あれは一体…!? 『日曜洋画劇場』で解説を収録する前に、「それだけ責任あるから」と作品を三回以上見たという。映画文化を支えていく強い自負がそこにはあった。しかし、理由はそれだけではない。毎週の放送ともなると、“箸にも棒にもかからぬ救い難い駄作”を解説する回もあった。「どんな映画でも何か一つは必ず良いところがある。それを拾って皆に説明するのが私の使命」、この映画愛のたまものだ。 また“吹替え版”には次の意見を持っていた。「吹替え版はセリフのノーカット版。字幕は一度に2行しか表示できず、どうしても要約せざるをえない。複数の人間が同時に喋る場面にも対応できない。この問題を克服し、全てのセリフを楽しめるのが吹替え版のメリットだ」。 淀川は自分の人生観、人間観について、よく次の様に語っていた。 「私はいまだかつて嫌いな人に会った事がない。好きになる事がどんなに人を助けるか私は知っている」 「ウエルカム・トラブル、苦労来たれ、苦労が人間を強くするんだ。悲しいなぁ辛いなぁと泣いたことがある人が偉いんだ」 「最近の親友と申したい監督が、香港生まれのウェイン・ワン監督。親友といってもじかに話したこともない。好きな映画を見せてくれた監督は私には親友だ」 「イランがどこにあるのか調べるといい。各国の映画が国境を越えて日本に訪れ、“人間”は同じという事を知る。これほど平和を生むものは他にはない」(イラン映画『友だちのうちはどこ?』のコメント)
“好きになることが相手を助ける”“知識は(異文化への)恐怖を取り除く”…これらはすべて映画が教えてくれたのだという。
名シーンを細部まで再現する驚異的な記憶力は、年をとっても全く衰えず、「映画の生き字引」と呼ばれた。1984年(75歳)、勲四等瑞宝章受章。1992年(83歳)、雑誌「ROADSHOW」創刊20周年記念として、映画文化の発展に功績のあった人や団体に贈られる“淀川長治賞”を集英社が設立(第1回受賞者は翻訳家・戸田奈津子)。晩年の口癖は「明日、来週、新しい映画がくるかと思うと、死ねない」。そして『日曜映画劇場』の為に、テレビ朝日に近い全日空ホテルで生活していた(まるで出家者のようだ)。 後期の黒澤映画が、世間から「“七人の侍”の頃のエネルギーがなくなった」「クロサワはもうダメだ」と叩かれていた頃、淀川は『夢』(1990)を「日本映画史上最高の映画美術と申したい」と評し、『まあだだよ』(1993、遺作)には次のコメントを残した。
「若い映画ファンの多くが、この師弟の物語を観て“時代おくれ”“照れくさい”“ついていけない”と言う。馬鹿かと思った。なぜ監督の、美を一途に追い求める姿勢が分からないのか。日本中が今、この温かさを受けつけなくなった。怖いし、悲しい。干からびた地面からは、このような枯れ木の若者が伸びるのか。この映画、乾いた土に水の湿りを与える」。 1998年9月、長年親交があった黒澤監督が他界。ひとつ年上の淀川は、自らの死を予期していたのか、棺で眠る黒澤に「泣かないよ。僕もあとから追いかけるから、もうすぐだよ」と語りかけた。
2ヶ月後の11月10日、『日曜映画劇場』の解説用にブルース・ウィリスの『ラストマン・スタンディング』を観て、番組の収録を終えた後に体調を崩して倒れる。そして翌11日午後8時7分、腹部大動脈瘤(りゅう)破裂が原因による心不全で逝去した。享年89歳。最期の言葉は、病室に駆けつけた姪御さんに言った「もっと映画を見なさい」だった。 名物の「サヨナラ」は32年間に1500回以上も流れ、多くの日本人が、これからもずっと日曜夜に繰り返されると漠然と思っていたのが、突然4日後(15日)のオンエアで最後になった。
※その日、僕は朝から緊張していた。新聞に「最後の解説」と書かれていたからだ。午後9時、放送開始。89歳の淀川翁が、かすれた声を振り絞って、懸命に作品の見所を伝えている。すると画面の下方にテロップが静かに流れ始めた--『ご覧の映像は永眠される前日に収録された最後の解説です』。…激涙。僕は“翌日に亡くなった”という事実に圧倒された(収録は何週も前だと思っていた)。まさに、映画に殉じたのだ。死ぬまで映画に身を捧げた、本物の「映画の伝道師」だった。
『ラストマン・スタンディング』は、邦画の『用心棒』をハリウッドがリメイクしたもの。若い頃から外国映画の魅力を語り続けてきた淀川が、最後に日本映画が外国からリスペクトされた作品を解説する、そこにもまた感慨深いものがあった。まして『用心棒』は盟友・黒澤監督の作品。運命的なものさえ感じた。
葬儀の『淀川長治さん・さよならの会』には、杉浦孝昭(おすぎ)ら親しかった映画関係者ら約500人が出席。祭壇の遺影には、本人が最も気に入っていたという、チャプリン『独裁者』のポスター前でニッコリ笑う淀川の写真が選ばれた。棺には愛用の眼鏡やチャプリンの写真が収められ、黒澤監督が愛用したひざ掛けがかけられた。 チャプリンの『ライムライト』の美しいテーマ音楽が流れる中、全国から集まった一般ファン約2500人が白いカーネーションを祭壇に献花した。各国からの弔電もたくさん届き、そこにはベルナルド・ベルトルッチ監督、侯孝賢(ホウ・シャオシェン)監督、アラン・ドロン、ブラッド・ピット、アーノルド・シュワルツェネッガー(“シュワちゃん”は淀川のネーミング)、スティーブン・セガールなど、名監督や銀幕のヒーローたちのそうそうたる名前が並んだ。アカデミー賞ともカンヌとも関係ない、ただ一人の映画評論家の死を、こんなにも多くの人々が国境を越えて悲しんだ。
「淀川さんが一番いいね。純粋に映画を楽しんでいる。映画は理屈じゃないんだよね」(黒澤明)
※戒名は「長楽院慈眼玉映大居士」。意味は“慈しみの目であらゆる映画を珠玉の名作として長く楽しんだ者”。
※「批評家は多いが、無声映画時代から映画に人生をささげた方は、ただ一人だと思う」(戸田奈津子)
※淀川は「邦画に関して私はアマチュアだ」と公言しており、仕事柄、筆で評論することはあっても、テレビで解説することはなかった。 ※「結婚をしていないと映画の中の男の気持ち、女の気持ちの両方がわかる」と生涯独身を通したが、同性愛者でもあった。しかしそれは“あっけらかん”としたものであり、本人は特に隠してなかったし、恥じてもいなかった。
※「映画館で映写が終わったのに、まだ座っている老人がいる。従業員が終わりましたよと声をかけると、死んでいた」--理想の死をそう語った。 ※僕が今改めて脱帽するのは、その膨大な知識(記憶力)はもちろんのこと、作品の魅力が10あれば10すべてを聞き手に伝えきる天才的な話術。解説が、分かりやすく、かつ熱狂的。この“熱狂”がないと人は引き込まれない。しかし“分かりやすさ”と“熱狂”は、非常に両立が難しい!映画に詳しい人はゴマンといるが、相手の心を掴むトークをできる人は少ない。氏は声色を巧みに使い分け、話のポイントを確実に押さえ、作品に対する自分の主張を明確に伝えている。そしてまた、(これは非常に重要な点だけど)自虐的なユーモアをふんだんに散りばめる為、評論家にありがちな傲慢な姿勢、権威主義的な部分がこれっぽちも感じられず、聞いてて押し付け感が全くないんだ。ホント、偉大な方でした。m(_
_)m
〔淀川長治が選んだ各ベスト〕 外国映画ベスト5(1980年) 1.黄金狂時代(チャールズ・チャップリン) 2.戦艦ポチョムキン(セルゲイ・エイゼンシュテイン) 3.グリード(エリッヒ・フォン・シュトロハイム) 4.大いなる幻影(ジャン・ルノワール) 5.ベニスに死す(ルキノ・ヴィスコンティ) 日本映画ベスト3(1979年) 1.残菊物語(溝口健二) 2.羅生門(黒澤明) 3.戸田家の兄妹(小津安二郎) 男優ベスト5(1985年) 1.チャールズ・チャップリン 2.オーソン・ウェルズ 3.ルイ・ジューヴェ 4.ローレンス・オリヴィエ 5.スペンサー・トレイシー 女優ベスト5(1985年) 1.メリー・ピックフォード 2.グレタ・ガルボ 3.マレーネ・ディートリッヒ 4.ベティ・デイヴィス 5.イングリッド・バーグマン 「映画は皆のもの。映画館の中で、こっちに学校の先生、あっちにソバ屋のおかみさんがいる。お爺ちゃんも、子供もいる。皆が学問や教養に関係なく、一緒になってひとつの映画をみている。僕はそういうのが好きなの。映画は人の垣根も国の垣根も取り払ってくれる。それがいいの。それが映画なの」(淀川長治) |
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| 214枚の日本大図はこんなに巨大だッ!※’04年、名古屋ドームにて(撮影kooichi.ikaiさん) |
2000 |
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| 巡礼で愛用しているアトラスの地図を見せて、今はコン ビニまで載るほど地図が進化していると墓前に報告! |
ドグサレ漫画家のS氏と。2年前と比べて花が たくさんあり、伊能先生もゴキゲンに見えた。 |
56歳を過ぎてから肉体をメジャーに、 17年間をかけて全国を歩ききった、 その不屈の精神力とパワーに脱帽! |
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江戸後期の測量学者。本名、神保三治郎。千葉県九十九里町に生まれ、18歳の時に酒造家伊能家の婿養子となる。彼が伊能家に来た時、家業は衰え危機的な状態だった。忠敬は倹約を徹底すると共に、本業以外にも、薪問屋を江戸に設けたり、米穀取り引きの仲買をして、約10年間で完全に経営を立て直した。1783年(38歳)の天明の大飢饉では、私財をなげうって地域の窮民を救済する。こうした功績が幕府の知る事となり、彼は苗字・帯刀を許された。やがて50歳を迎えた忠敬は、家業を全て長男に譲り、幼い頃から興味を持っていた天文学を本格的に勉強する為に江戸へ出る。浅草には星を観測して暦(こよみ)を作る天文方暦局があったからだ。
※人生50年と言われていたこの時代、隠居後は盆栽を育てたり孫と遊んだり、のんびり余生を送るものだけど、50歳から“勉強の為に”江戸に向かう知識欲、知的好奇心の大きさにオドロキ! 暦局に着いた忠敬は、この当時の天文学の第一人者、高橋至時(よしとき)の門下生となった。第一人者とはいえ、高橋至時はまだ32歳。一方、弟子入りを申し込んだ忠敬は51歳。忠敬は家業を通して、長年人を使う立場にあった男。しかも時代は儒教精神から年上は常に敬われ、メンツを何より重んじる封建社会だ。普通の男なら、20歳も年下の若造に頭を下げて弟子入りを請うことに抵抗があるだろう。しかし忠敬は違った。燃え盛る向学心の前では、そんなプライドなど取るに足らないことだったんだ! 当初、至時は忠敬の入門を“年寄りの道楽”だと思っていた。しかし、昼夜を問わず猛勉強している忠敬の姿を見て、彼を“推歩先生”(すいほ=星の動き測ること)と呼ぶようになった。忠敬は巨費を投じて自宅を天文観測所に改造し、日本で初めて金星の子午線経過を観測したりもした。 この頃、暦局の人々の関心ごとは、“いったい地球の直径はどれくらいなのか”という疑問だった。オランダの書物から地球が丸いということを知ってはいたが、大きさがよく分からなかったのである。そこで忠敬は「北極星の高さを2つの地点で観測し、見上げる角度を比較することで緯度の差が分かり、2地点の距離が分かれば地球は球体なので外周が割り出せる」と提案。この2つの地点は遠ければ遠いほど誤差が少なくなる。師弟は考えた…江戸からはるか遠方の蝦夷地(北海道)まで距離を測ればどうだろうか、と。 当時、蝦夷地に行くには幕府の許可が必要で、至時が考えた名目こそが“地図を作る”というものだった!外国の艦隊がやって来ても、幕府には国防に欠かせぬ正確な地図がなく、そこを突いたのだ。結果、幕府は蝦夷地はもちろん、東日本全体を測量しても良いという許可を与えたのだった。(ただ幕府の援助はなく、すべて自費。忠敬は30年間しっかりと家業を勤めてきたから、この測量が可能だったのだ) 忠敬は幕府に手紙を送った「隠居の慰みとは申しながら後世の参考ともなるべき地図を作りたい」。 1800年(55歳)、忠敬は江戸を出発。測量の方法は、歩幅が一定になるように訓練し、数人で歩いて歩数の平均値を出し、距離を計算するというものだった。目撃者の記録には「測量隊はいかなる難所もお通りなされ候」とあり、雨、風、雪をものともせず、海岸線の危険な場所でも果敢に突っ込んでいった。 昼は測量、夜は宿で天体観測し、両者を比較しながら誤差を修正、各数値の集計作業に追われた。江戸にいた至時は手紙を書いて忠敬を励ました「今、天下の学者はあなたの地図が完成する時を、日を数えながら待っています。あなたの一身は天下の暦学の盛衰に関わっているのです」。 忠敬は3年間をかけて東日本の測量を終え江戸に戻ると、さっそく本来の目的であった地球の大きさの計算に取り組んだ。その結果を、後に至時が入手したオランダの最新天文学書と照らし合わせると、共に約4万キロで数値が一致し、師弟は手に手を取り合って歓喜したという。この時忠敬が弾き出した数値は、現在分かっている地球の外周と千分の一の誤差しかない正確なものだった!
しかし、その喜びの中、至時は天文学書の翻訳等に無理を重ねたため病に倒れ、翌年39歳の若さで永眠する。忠敬は深く打ちのめされた--。 半年後、11代将軍家斉に東日本の地図を披露し、そのあまりの精密さに、立ち会わせた幕閣は息を呑んだ。そして忠敬には“続けて九州、四国を含めた西日本の地図を作成せよ”と幕命が下る。彼の測量はもはや個人的な仕事ではなく、多くの人の期待を担う正式な国家事業に変わった! 1805年(60歳)、再び江戸を出発。今度の測量隊は時に100人以上になることもあった。忠敬は暦方の皆から「西洋人が科学に携わる時には、自分の為にではなく、人の為、天下の為に命がけでやるといいます。天に尽くすつもりで事業を達成されますように祈っております」と励まされた。
だが西日本の測量は、体力が衰え始めた忠敬には過酷だった。3年で終わるはずが、内陸部の調査が加わったり、思いのほか四国が広かった為に、予定の3年が経っても九州は全く手付かずだった。ようやく九州に入った忠敬が娘に出した手紙には「(10年も歩き続け)歯は殆ど抜け落ち一本になってしまった。もう、奈良漬も食べることが出来ない」と書かれていた。また、ずっと相棒だった測量隊の副隊長がチフスで死んでしまう悲劇もあった--。
そして、1815年2月19日!最終測量地点の東京・八丁堀で、忠敬はすべての測量を終えた。時に忠敬70歳。彼が15年以上かけて歩いた距離は、実に4万キロ、つまり地球を一周したことになる!
あとは各地の地図を一枚に繋ぎ合わせるだけだ。地球は球面なので、地図という平面に移す場合の数値の誤差を修正する計算に入った。だが、既に高齢になっていた忠敬は肺を病んでしまう。そのまま忠敬は回復することなく、1818年、73歳で病没する。高橋景保(至時の息子)や弟子たちは“この地図は伊能忠敬が作ったもの”、そう世間に知らしめる為に、彼の死を伏せて地図の完成を目指した。 1821年、江戸城大広間。幕府の重鎮が見守る中、ついに日本最初の実測地図「大日本沿海輿地(よち)全図」が広げられた。これらの地図は3万6000分の1の大図が214枚、21万6000分の1の中図が8枚、43万2000分の1の小図が3枚という、途方もない規模のものだった。
この地図の後日談にこんなエピソードがある。忠敬の死から43年後の1861年、来訪したイギリス測量艦隊が幕府に強要して日本沿岸の測量を始めた時、幕府の役人が忠敬の地図の一部を携帯していたのを船長が見てびっくり仰天し、“この地図は西洋の器具や技術を使っていないにも関わらず正確に描かれている。こんな地図があるなら今さら測量する必要はない”と測量を中止してしまったのだ。そしてイギリス海軍は忠敬の地図を基に海図を完成させ、巻頭に「日本政府から提供された地図による」と書き記した。鎖国状態にあった日本を、西洋の知識人は未開の文明後進国だと決め付けていたが、世界水準の正確な地図を持っていることに驚き、見下すことを改めたという。 忠敬は、遺言にこう残した--「私が大事を成し遂げられたのは、至時先生のお陰である。どうか先生のそばに葬ってもらいたい」。その願いは聞き届けられ、上野の源空寺の墓地で、彼は既に200年近くも恩師の傍らで幸せな時を過ごしている。忠敬の墓石の側面には、こんな文面が彫られている“忠敬は星や暦を好み、測量にはいつも喜びを顔に浮かべて出かけて行った”と。 「地球の大きさを知りたい」、このとてつもなく巨大な好奇心を満たす為に、測量を始めることになった忠敬。当時の平均寿命を考えると、50代後半から4万kmを踏破したなんて信じられない。第一、200年前の海岸線など、道なき道に等しいものだ。コンビニがある今だって徒歩で一周なんて考えられない。忠敬が残してくれたのは地図だけじゃない。彼は人間の底知れぬ可能性を後世の僕たちに見せつけてくれた!本当に有難う、推歩先生!! ※地図を仕上げた高橋景保は縮小図を持っていた。シーボルトは“世界地図と交換したい”と働きかけ、その写しを国外に持ち出したのだった。この流出事件で景保は捕らえられ、失意のうちに獄死した--「私は罪を認める、罰も受けるが、この世界地図は日本の為になる」(高橋景保) 主な参考文献:NHK「その時歴史が動いた」、エンカルタ総合大百科、世界人物事典(旺文社) 僕は上野署の前でS氏と待ち合わせた。警察署の前をランデブー・ポイントにしたのは、伊能忠敬の眠る源空寺が、手持ちの地図に載っていなかった為だ。我が愛用の地図本は、誰もが認める地図の最高傑作、アトラス首都圏マップ(2700円)なのだが、日本初の本格地図師・忠敬の墓寺を掲載しとらんのは不届き千万、猛省を求む! |

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| 1991.3.15 | 2005 14年ぶり。側の木が変わってた | ロシア語で名を刻む |
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| 「ゾルゲとその同志たち」 皆、終戦直前に非業の死を遂げている |
尾崎秀実(ほつみ) |
ゾルゲに情報をリークしていた尾崎秀実の墓。なんと三島由紀夫の斜め後ろに 墓がある。思想的には両極の2人がすぐ側で眠っているのも墓地ならでは(*^v^*) |
| ドイツ人でありながら反ファシズムの信念からソビエトのスパイとして戦時日本で諜報活動をしていたリヒャルト・ゾルゲ。彼がモスクワへ送った“日本、南進せり。ソ連に侵攻する恐れなし”の情報のおかげで、ソ連軍はヨーロッパ戦線に兵力を集中できドイツに勝利できたのだった。国王でも大統領でもない、ただ一人のスパイが後世の歴史を変えたのだ。最期は密告により投獄されロシアの革命記念日に処刑された。その墓には「戦争に反対し世界平和のために命を捧げた勇士ここに眠る」と刻まれていた…。ファシズムは倒れたが、戦後半世紀を経た現在でも人類は戦争と訣別していない。ゾルゲの死を犬死にとするかどうかは後世を生きる人間次第だ。 ※誕生日は4月10日とする説も多い。 ※少し歩いた所に同志・尾崎秀実も眠っている。 |

| 世界初の映画『汽車の到着』は1895年にリュミエール兄弟がパリで発表した作品。彼らはパリのカフェに自ら製作した映写機を持ち込み、35人の観客に1フラン(今の千円)で上映した。リュミエール家は街の名士(実業家)。一族の墓の一番右端に兄弟の名があった。姓のリュミエールは仏語で「光」の意。偶然とはいえ映画を生んだ2人にふさわしい名前だね。 ※その後映画産業は発展し、現在の全世界の映画興行収入は約258億ドル、実に3兆円にものぼる。日本では年間400本が製作されている。 |
![]() ルクソール |
![]() カイロ |
| 王位継承をめぐる政争に巻き込まれ、18歳の若さで毒殺 された悲劇の王ツタンカーメン。彼はエジプト南部ルクソー ルにある、王家の谷のこの石窟に何千年も眠っていた! |
ミイラが納まっていた黄金の棺は、現在カイロの国立 博物館で公開されている。よく盗掘されなかったものだ! |

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| 墓所はとても分かりにくい。表通りの 『史蹟平賀源内先生之墓』で曲がる |
住宅街の中に源内の墓所がポツンとある |
獄死した源内の墓を建てたのは、無二の親友・杉田玄白 |
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| 奇才・異才と呼ばれる江戸のダ・ビンチ |
毎月第1土・日と命日の18日しか 墓参できないので要注意!(2004) |
初巡礼の際、非公開と知らずに訪れて ガックリ。で、友人の肩車で塀の外から パチリ。この暗がりに墓がある(2000) |
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| エレキテル | 西洋婦人図(源内画) | 万歩計 |
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江戸中期の博物学者・作家・画家・陶芸家・発明家。あらゆる分野に才能を発揮した日本のダ・ビンチ!本名、国倫(くにとも)。高松藩足軽白石良房の三男。24歳の時に藩の命令で長崎に留学、蘭学を修める。続いて江戸において植物を主にした漢方医学の“本草学”を学ぶ。1757年(29歳)、全国の特産品を集めた日本初の博覧会を開き、それを元に図鑑「物類品隲(ぶつるいひんしつ)」を刊行。世人の注目を浴びる。
本草学者として名を成した彼は、高松藩の薬坊主格となったが、藩の許可がなくては国内を自由に行き来できない事に不便を感じ脱藩する(33歳)。この際、高松藩は源内を「仕官御構(おかまい)」に処した。これは他藩へ仕官することを禁止するものだ。源内は自ら“天竺浪人”と名乗り、秋田秩父での鉱山開発、木炭の運送事業、羊を飼っての毛織物生産、輸出用の陶器製作、珍石・奇石のブローカーなど、様々な事業に手を出し、また静電気発生装置“エレキテル”、“燃えない布”火浣布(かかんぷ、石綿)、万歩計、寒暖計、磁針器、その他100種にも及ぶ発明品を残した。正月に初詣で買う縁起物の破魔矢を考案したのも源内だ。一方、画才、文才も惜しみなく発揮。彼は油絵を習得して日本初の洋風画「西洋婦人図」を描き、司馬江漢、小田野直武(「解体新書」の挿絵画家)らに西洋画法を教えた。浮世絵では多色刷りの技法を編み出し、この版画革命を受けて色とりどりのカラフルな浮世絵が誕生した。
作家としてのペンネームは「福内鬼外(浄瑠璃号)」「風来山人(戯作号)」となかなかシャレている。35歳の時に書いた『根南志具佐(ねなしぐさ)』『風流志道軒伝』は江戸のベストセラーとなり、明治期まで重版が繰り返される。後者は主人公が、巨人の国、小人の国、長脚国、愚医国、いかさま国など旅するもので、江戸版ガリバー旅行記といった感じだ。(鎖国中でもあり、源内が生れる2年前に英国で刊行されたばかりのガリバー旅行記を読んでいたとは思えない。)『放屁(ほうひ)論』ではまず「音に三等あり。ブツと鳴るもの上品にしてその形円(まろ)く、ブウと鳴るもの中品にしてその形いびつなり、スーとすかすもの下品にて細長い」と屁の形態を論じた後、当時江戸に実在した屁の曲芸師(三味線の伴奏や鶏の鳴き声を奏でた)を引き合いに出し「古今東西、このようなことを思いつき、工夫した人は誰もいない」と称賛し、さらに半ば自嘲気味に「わしは大勢の人間の知らざることを工夫し、エレキテルを初め、今まで日本にない多くの産物を発明した。これを見て人は私を山師と言った。つらつら思うに、骨を折って苦労して非難され、酒を買って好意を尽くして損をする。…いっそエレキテルをへレキテルと名を変え、自らも放屁男の弟子になろう」と語っている。ちなみに「土用の丑の日はうなぎを食べると元気になる」は、蒲焼屋の知人に頼まれて源内が考えたコピーで、それまで夏にウナギを食べる習慣はなかった。
多方面にわたる才能を持ちつつも、キワモノ扱いされて当時の社会に受け入れられず、やがて彼自身も世間に対して冷笑的な態度を取り始める。著作では封建社会をこきおろす作品を発表し、幕府行政の様々な矛盾を痛烈に暴露した。
晩年(1778年)、50歳になった源内は自分を認めてくれぬ世に憤慨し、エレキテルの作り方を使用人の職人に横取りされたこともあって人間不信、被害妄想が拡大し悲劇が起きる。自宅を訪れた大工の棟梁2人と酒を飲み明かした時のこと。源内が夜中に目覚めて便所へ行こうとすると、懐に入れておいた筈の大切な建築設計図(田沼意次の別荘)がない。とっさに“盗まれた!”と思った彼は大工たちに詰め寄り、押し問答の末に激高し、ついに2人を斬り殺してしまう。だがその図面は、源内の懐ではなく、帯の間から出てきたのであった…。発狂した源内は、厳寒の小伝馬町の牢内で破傷風にかかって獄死した(享年51歳)。
源内の墓標を建てたのは、彼と同様に好奇心が強かった無二の親友、杉田玄白。玄白は「ああ非常の人。非常のことを好む。行ないこれ非常なり、なんぞ非常に死するや」と源内の墓標に刻んだ。 現在、 墓は“あしたのジョー”の丹下ジムで有名な泪橋の近くにある。彼が中世イタリアに生れていたなら、間違いなくルネサンスの巨人として人類の歴史に名を刻んでいただろう。墓前で冥福を祈った。
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| 源内の墓の背後には弟子が眠っており、「平賀源内家来」と刻まれていた |
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| 墓前にはカラフルな石が 敷き詰められていた |
登山を身近にした 功績は計り知れない |

| 古本屋の店主だった彼が出版業に転じ、それまで高価だった文学書を「文庫本」という形で“安く”世に出してくれたおかげで、若者でも手軽に名作に触れることが可能になった。また、多岐にわたって続々と刊行されたことで、目当ての作品を読むために全集をまとめ買いしなくてもよくなった。最初に出版した作品は、親しくしていた漱石の『こころ』であり、芥川は遺書で岩波に全集の出版を託した。岩波の人間性が如何に信頼されていたのかが分かる。1927年、文庫本発刊の際に「持ち運びの便利さと価格の低さを最優先にしたので外観は粗末だが内容に関しては厳選した」との言葉と共に岩波が書いた刊行の言葉は世紀の名文だ!「真理は万人によって求められることを欲し、芸術は万人によって愛されることを自ら望む。(略)生命ある不朽の書を少数者の書斎と研究室とより開放して街頭にくまなく立たせ、民衆と肩を並ばせるであろう!」 |
| COMING SOON |
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| 2001 | 2005 |
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| 唯一無二の名優だった!! |
宮崎監督の名作『ルパン三世・カリオストロの城』収録風景。 担当キャラは、右からルパン、次元、不二子、五エ門、銭形 |
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東京生まれ。俳優エノケン(榎本健一)を尊敬していた山田は、22歳の時に早大英文科を中退して「民芸」に入団し、続いて27歳からは劇団「テアトル・エコー」に所属する。「日本人のへそ」「表裏源内蛙合戦」「珍訳聖書」「道元の冒険」といった一連の井上ひさし作品では看板俳優として好演した。一方、海外TVドラマが全盛だった60年代当時、吹き替えの役者は新劇団の若手が務めていたことから、山田は西部劇「ローハイド」のヒーローや、クリスト・イーストウッド、ジャン・ポール・ベルモンドの吹き替えを担当した。また「お笑いスター誕生」では中尾ミエと司会を担当した(デビュー当時のドリフターズに演技指導をしたという裏話も)。1995年、突然の脳出血により大田区の都立病院で急逝する。享年62歳。『ルパン三世 くたばれ!ノストラダムス』で追悼テロップ「永遠のルパン三世 山田康雄さん ありがとう」が流された。声優とは役者の一部という信念から、若い声優に対するアドバイス--「声優を目指すな。役者を目指せ。演技は全身でするものだ」が口癖だった。
山田康雄といえば切っても切り離せないのが、1971年から放送が始まった『ルパン三世』!当初、ルパン三世の声には野沢那智や広川太一郎などの候補がいたが、「オレは信用のおける泥棒だぜ」といったキザでトボケた味わいのあるセリフを、違和感なく言いのける声優を、演出担当の大隈正秋は、なおも必死で探していた。その時、井上ひさしの『日本人のへそ』に出演中だった山田(当時38歳)を発見、電気が走ったという。
「舞台狭しと軽やかに飛び回り、時にニヒルで、どこかに暗さがあって、まさに僕の思い描いていたルパンがそこにいた、その男こそ山田康雄です」(大隈正秋)
「“ルパンやんない?”“やるッ”、これで決まり。原作のまんが読んでて、すごく好きだったし」(山田康雄)
以降、彼は日本一有名な声優として知られることになった。
●次元役の小林清志が語る思い出〜「ルパン三世よ永遠に・山田康雄メモリアル」(徳間書店)から
『ある収録の時である。「ドリフターズ」の長さんが、顔を出した。続いてドリフの面々が顔を出す。口をそろえて、「山田さん、どうも。」と挨拶をしにくる。隣のスタジオで連中が仕事をしていたらしいな。なにせ小生の息子が、当時夢中になってテレビにかじりついて見ていた人気者たちを、直に見たから小生も、興奮の極みである。ヤスベエ(山田康雄)はというと「よう、お前たち頑張ってるか、おい」ってなもんである。どうしたもんだ、これ。何か、いわくがあるなと思って聞いてみたら、ドリフの面々のデビューしたてに、なんと演技指導をしたというのだから、そりゃ挨拶にやってくるわな。納得。榎本健一さん、エノケンさんを崇拝していたというヤスベエのこと。そういう世界の名人っちとの交流もあったのは、当然のことと言えよう。
それから苦言まじりにひとこと。最近のアニメの番組制作のなかで気になるのは、線画だけ、色も動きも口の動きもひどい時にはどんな人物なのかわからない仕上がりで声を入れなければならない場合が多い。それまでのスタッフの苦労も充分わかるのだが、なんとかならないかなぁと思う。しかし「ルパン三世」に限っては、それがないのだ。これは山田康雄が口をすっぱくして、スタッフに要望した結果である。 ともかく、愛すべき、そして見事なルパンを作りあげた男、山田康雄に、乾杯!』 |

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| 『鬼の上前をはねる奴』は 実に上手いキャッチ・コピー |
夕日の中にたたずむ安倍晴明。墓所は住宅街の中にあり 非常に分かりにくい。式神を使って根性で探そう(2001) |
正面に五芒星 (ごぼうせい)が! |
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| 2007年、6年ぶりに再訪! |
“陰陽師”ではなく“陰陽博士” と墓前には刻まれている |
その後、いかがお過ごしですか |
缶コーヒー(BOSS)とワインという 微妙な組合わせで供えられてた |
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| 京都市上京区の晴明神社 | 鳥居の真ん中には五芒星! |
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| 晴明神社の本殿。五芒星尽くし!左右の提灯にも! | 屋根の下の照明にも! | 屋根の上にはダブルで五芒星! |
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| 夢枕獏、京極夏彦、荒俣宏、岡野玲子が 名前を連ねた豪華絵馬!欲しいッ! |
野村萬斎!他にも沢口 靖子、今井絵理子等々 |
晴明と式神の顔出しパネル(笑) テーマパーク状態 |
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| 神社境内に移されてきた旧・一条戻橋 | 式神がいた! | 現・一条戻橋。晴明はこの橋の下に“式神”を隠してた |
| 「その占いの効果、神の如し」「わが国第一の陰陽家」と言われた平安時代の天才陰陽師。鎌倉から明治初期まで宮廷の陰陽寮(天文・暦のことを司る役所)を統括した安倍氏(土御門家)の祖。父は阿倍仲麻呂の子孫を称する下級貴族で、宮中の食事を担当した大膳大夫、安倍益材(ますき)。母は巫女といわれているが、白狐が人間に化けた葛乃葉(くずのは)という伝説もある。出身地は大阪説、讃岐説、茨城説など複数あるが、大阪市阿倍野区の安倍晴明神社には生誕地の碑(ただし江戸中期に建立)と晴明の産湯の井戸の跡があり、中世の人々は土地の名前を名字にしたので「阿倍野区」説はなかなか説得力がある。またこの神社には「晴明の生誕地へ帝が神社を建てさせた」という記録も残っている。 晴明がどんな青春期を送ったのかハッキリした記録はないが、没後まもなく編纂された『今昔物語集』では、当時最高の陰陽師、賀茂忠行&保憲父子に陰陽道を学んだとされている。何歳で結婚したのかは不明だが、33歳の時に長男吉平が生まれている。 ※若い頃の晴明を『今昔物語集』はこう記す…ある夜、師匠・忠行が牛車で出かけた時に晴明がお供でついて行くと、前方から恐ろしい鬼の群れ、百鬼夜行がやって来るのが見えた。晴明が師匠に報告すると忠行は隠形呪文で自分たち一行の姿を鬼の視界から隠して無事にやり過ごした。忠行は鬼を見ることが出来る晴明の素質に惚れ込み、自身のすべての知識を受け継がせたと言う。(今昔物語巻二十四 安倍晴明、忠行に随ひて道を習ふ語、第十六) 当時の日本では科学と呪術(占い)がワンセットであり、宮廷には天体観測を基に国家の吉凶を占う役職“天文博士”があった。そして朝廷は、年中行事を成功させるために、儀式の日をいつにすれば縁起がいいのかを占わせた。「天の意志」を読み取った天文博士は、予測した未来の情報を極秘裏に天皇へ伝えた。晴明の陰陽道の師匠・賀茂保憲は同時に天文博士でもあり、960年(39歳)、師が天文博士を引退した時に、彼は天文博士の見習い、天文得業生となった。 晴明は唐に渡って、陰陽道の本場城刑山で伯道仙人に学び、帰国すると日本独特の陰陽道を築き上げる。972年(51歳)、12年間の修業を経て天文博士となった。晴明は6代の天皇(朱雀、村上、冷泉、円融、花山、一条)や藤原道長の信頼を集め、58歳で那智山の天狗を封ずる儀式を行ったり様々な記録を残している。晴明は天文博士の一方で陰陽師としても名を極め、呪術によって式神(鬼神)を自在に操るなどして、宮廷内の政争に一役買うことも少なくなかった。※晴明は、青龍、勾陳、六合、朱雀、騰蛇、貴人、天后、大陰、玄武、大裳、白虎、天空という12体の式神を下僕として使役させていたという。 後年は主計権助、大膳大夫、左京権大夫、播磨守などの官職を歴任し、最晩年の1001年(80歳)には従四位下まで出世した。晴明は一代にして超一流の陰陽師として天下に名を成し、2人の息子も優秀な陰陽師に育ったことから、阿倍家は師匠である賀茂家と並んで2大陰陽家となった。 ※賀茂家は晴明が台頭するまでずっと天文道と暦道を担当していたが、保憲はあまりに晴明が賢い弟子なので、晴明には天文道、息子の光栄には暦道と分けて教えた。晴明の次男は晴明でさえなれなかった「陰陽頭」にまで出世している。 晴明は邸宅を平安京の鬼門に当たる北東に構え、都に侵入しようとする魔物や邪鬼を防いでいた。そうして1005年、84歳という当時ではかなりの長寿で人生の幕を閉じた。没後、晴明を惜しみ、彼に対する生前の官位が低すぎたと感じた時の天皇は、京都晴明町の住居跡を「晴明神社」に、大阪の生誕地を「安倍晴明神社」とした(晴明が稲荷大明神の化身と信じられていたことも神社で祀られる理由の一つ)。晴明桔梗印(五芒星)と呼ばれる祈祷呪符が神紋になっている。 晴明の墓は京福嵐山線嵯峨駅から南へ徒歩5分の角倉町、長慶天皇陵の横。墓の裏側は角倉神社。墓所までは細い路地裏が続くので迷いやすい。角倉町に入ったら地元の人に尋ねよう。命日の9月26日には毎年墓所祭が催されている。 晴明の伝説は『信田妻(しのだづま)』『蘆屋道満大内鑑』など文楽や歌舞伎になりいっそう世に広まった。1993年にはマンガの主人公となり、生誕1080年目(2001年)にはついに映画の中で大活躍した。 【晴明伝説】 晴明が他界した後、かなり早い段階から“鳥が話す言葉が分かった”など、その存在は伝説化されていた。晴明に関する逸話は『古事談』『大鏡』『宇治拾遺物語』『古今著聞集』『今昔物語集』『體源抄』『日本紀略』『権記』『平家物語』『大江山絵詞』『元亨釈書』『源平盛衰記』『発心集』など、文献は多岐にわたっており、いかに当時の晴明がスーパー陰陽師だったかを雄弁に語っている。 伝承で最も有名なのは先述した『今昔物語巻二十四 第十六』。鬼の一群とすれ違う話以外にも、色々なエピソードが記されている。例えば… ・陰陽道を身につけて得意になった僧侶(智徳法師)が、噂に聞こえる晴明の実力を確かめようと自分の式神を連れて会いにいったら、晴明に式神を隠されてしまい、彼に謝って出してもらう話。 ・仁和寺の僧侶らが晴明の力を試そうとして、陰陽術で庭先の蛙を殺すよう要求した。晴明は「罪作りなことを…」と言いつつ草の葉に呪文をかけて蛙に投げると、蛙は葉の下でペチャンコになった。僧侶らは真っ青になって震え上がった。 ・晴明は客がいない時には家で式神を家事に使っており、人影がないのに勝手に戸が上下し、門が開閉していた。 他の文献でよく知られているのは… ・雨が降ると頭痛に苦しむ花山天皇について、晴明は天皇の前世の頭蓋骨が野ざらしで岩に挟まっていると指摘、実際にその通りで、雨が降ると岩が膨張し骨がきしんでいた。骨を取り出したら頭痛は治った。(古事談) ・天体の異様な動きから天皇が退位し出家することを予知。(大鏡) ・藤原道長が外出しようとすると愛犬に止められた。晴明は式神の攻撃を犬が察知したと判断。果たして道を掘り起こすと道長を呪う土器が埋められていた。晴明が紙を鳥形に折って空に投げ上げると式神=白鷺に変身して南へ飛び、犯人の陰陽師・蘆屋道満(あしやどうまん、道摩)の家に落ちた。道満は自分の黒幕が道長の政敵・藤原顕光であることを白状したので、道長はこれを赦して故郷播磨へ追い返した。(宇治拾遺物語 御堂関白の御犬晴明等奇特の事) ※道満は能力のある民間陰陽師で晴明のライバルと伝えられている。一条戻橋で道満に父を殺された晴明は、術を駆使して父を蘇生させた。この橋は今でも現存し、晴明は自分の式神2人をこの橋の下に普段は隠していたという(妻が式神を不気味がるんだって)。 ※晴明の著書に「占事略決」がある。 ※奈良・安倍文殊院境内の小高い丘(展望台)は、かつて晴明が天文観測を行った場所と伝えられている。 ※晴明神社のある場所はかつて千利休の屋敷があり、利休が自害して果てた終焉の地でもある。 ※ちなみにマンガ『陰陽師』で晴明の親友として登場する音楽好きの源博雅は実在の人物で、晴明よりも3歳年上の918年生まれ。966年(48歳)、「長秋譜」を作曲し、「博雅笛譜」「長竹譜」を作成した。980年に62歳で亡くなっている。今昔物語集でも源博雅は琵琶“玄象”を探して活躍する。 |
この3賢者(カスパール、メルキオール、バルタザール)のことを、新約聖書では「マギ」と呼んでいる。 ・カスパール(没薬)は白髪白髭の老アラブ人。象徴は受難(死)と信仰。 ・メルキオール(黄金)は青年のインド人。カスパールの弟。象徴は王権と愛。 ・バルタザール(乳香)は中年のエジプト人。象徴は神性と善行。 |

| 生け花・草月流創始者。本名はナ一(こういち)。東京生まれ。木の根を使ったり、鉄、プラスチック、コンクリート、動物の頭蓋骨、とっくり、ヤカンなど斬新な素材との組み合わせで「前衛生け花」ブームを巻き起こす。1955年(55歳)に渡欧すると、生け花と彫刻を融合した作風が海外でも話題を集め、ミロやダリが讃え、タイム誌は“花のピカソ”と呼び、生け花界のカリスマとなった。華道500年の伝統を破壊した蒼風は、岡本太郎や写真家・土門拳らとも連帯して前衛運動を繰り広げ、78歳で他界した。「生け花は、生きている彫刻である。生け花は、生命を持った花の彫刻である」(蒼風)。 |
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| 平家の滅亡と運命を共にした幼き天皇。「安徳天皇阿弥陀寺陵」は壇ノ浦にある | 平時子の墓(清盛の妻) |
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| 案内板で大助かり。 これなら迷わない |
心月院にて。左が正子、右が次郎。正子の墓には梵字で 「十一面観音」、次郎の墓には「不動明王」と刻まれている |
五輪塔を薄くスライス。石を次郎が 選び、正子がデザインした |
| “昭和の鞍馬天狗”と呼ばれた伝説的実業家。兵庫の名家に生まれ、10代後半で英国ケンブリッジ大に留学。身長185センチ、スポーツ万能。超行動派かつカー・マニアとあって高級自動車を乗り回し、20代半ばにはスペイン南端のジブラルタルまでヨーロッパ大旅行を終えていた。1928年(26歳)に帰国し新聞記者となる。翌年、友人の妹と結婚(随筆家の白州正子)。その後、商社や食品会社の取締役を歴任し、商用で渡航する際に駐英外交官の吉田茂と親交を深め、イギリス大使館をホテル代わりに使っていた。1940年(38歳)、太平洋戦争を予期して事業から離れ、農村に隠居し畑仕事の日々を送る。戦時中は吉田茂と共に反戦の立場から終戦工作に取り組んだ。戦後は吉田の要請で終戦連絡中央事務局の参与に就任。「我々は戦争に負けたのであって奴隷になったのではない」と占領軍を相手に啖呵を切り、マッカーサーを叱りつけたり、語学力を褒めるGHQの准将を「あなたももう少し勉強すれば上手くなる」とやり込めるなど、その破天荒さは当時の日本人の枠から突き抜けた存在だった。白州はGHQから「従順ならざる唯一の日本人」と呼ばれた。1948年、“戦後の日本は貿易立国として発展するしかない”という信念から貿易庁(通産省)の初代長官に就任。1951年(49歳)、サンフランシスコ講和会議に顧問として随行し、受諾演説を英語でしようとする吉田首相の原稿を書き直し、「独立国なのだ」とあえて日本語で演説させた。後半生は政治と縁を切り、電力会社や大洋漁業(現マルハ)、日テレ、証券会社の顧問などを歴任。日本人で初めてジーンズをはいた男と言われ、三宅一生のモデルを務めたことも。老いてなお80歳まで68年型ポルシェ911Sをかっ飛ばしていたが、1985年に胃潰瘍と内臓疾患で死去。享年83歳。遺言書には「葬式無用 戒名不用」とあった。まさにスーパー日本人。 |
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| 台東区のHPには瑞泉寺に墓があると あったが、墓地を探してもいなかった |
住職に尋ねてみると「関東大震災の大火災で墓も焼けてしまい、 境内のどこに蔦屋が眠っているのか分からなくなった」とのこと。 僕はこの敷地全体を彼の墓と受け止め、寺に向って合掌した |
多くの絵師や作家を援助した蔦屋。 寺の前の言葉は、芸術を世に送った 彼を表しているかのようだった |
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| 台東区の正法寺にも墓があるという情報をキャッチ!しかしこの正法寺、目の前まで来てるのに なかなか場所が分からなかった。だって、まさかこんな大きなビルがお寺なんて思いもよらなかったよ〜! |
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| あれは…! | 確かに…! | ついに蔦屋に墓参できた! |
| 江戸中期の出版人。江戸吉原生まれ。短く“蔦重”(つたじゅう)とも呼ばれる。人の才能を見抜く事に長けており、浮世絵師の写楽や歌麿の名作を世に送り、作家の十返舎一九、曲亭馬琴、山東京伝らをバックアップした。1773年、蔦屋は23歳で吉原に書店を開業し、ベストセラーを次々と刊行。33歳で一等地の日本橋に店を構えるようになる。イケイケドンドンで事業を展開するなか、寛政の改革で出版物が風紀違反に咎められ過料(罰金)の処罰を受ける。歌麿や山東京伝は手鎖の刑となった。1794年(44歳)、写楽を見出し役者絵を出版。その3年後に脚気で他界した。享年47歳。開業から約25年の間に800点以上も出版した。写楽の絵がこの世にあるのは蔦屋のおかげだ。 ※フランキー堺は最晩年に映画『写楽』の中で蔦屋を演じた。どうしても死ぬまでにこの役をやりたかったとのこと! ※レンタル大手のTUTAYAは、創業者が「現代の蔦屋になりたい」という思いで付けた名前という。一気にTUTAYAの好感度アップ! |
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| 井原鉄道で吉備真備駅へ | 車内は超・和風テイスト! | こんなに気持が落ち着く列車に乗ったのはマジで生まれて初めて! |
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| 吉備真備駅に到着 | 朝6時からさっそく墓参! | 駅前は中国風 | まきび公園の高台に眠る |
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| 墓所はお堂の裏側に隠れており気付きにくい | 真備さんは遣唐使で大陸に渡った | カタカナを創作したという説もある |
| 奈良時代の学者・政治家。父は吉備地方の豪族・下道圀勝(しもつみちのくにかつ)。717年、22歳で唐に留学生として渡り、18年後の735年(40歳)に帰国した。真備は帰国時に、書籍、楽器、武器、日時計など、大陸の膨大な文物を日本に持ち帰った。その優れた学識から、帰国後は聖武天皇や光明皇后から寵愛を受け、最終的には右大臣まで進んだ。地方豪族としては異例の出世であり、近世以前に学者から大臣まで駆け上がったのは、真備と菅原道真のたった2人だけだ。 |
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| 本居宣長、61歳の自画像 |
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| 駅からもバスの路線から離れた場所にあり、 しかもタクシーはここまで。登るしかない! |
どんどん山に分け入っていく。 竹のトンネルが凄かった |
本居参道。右に行けば 宣長の眠る奥墓だ |
いったん道が開け、また 前方の山に入っていく |
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| お墓に到着!嬉しい!宣長が生前に こよなく愛した山桜のもとに墓がある |
宣長が遺言にデザインした墓所の形に 2001年に復元整備したそうだ |
『本居宣長之奥墓』! 墓石の字は宣長の直筆 |
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| 樹敬寺にも墓がある。この本居夫妻 の戒名も宣長の自筆とのこと |
『史蹟本居宣長墓』の石柱と 背中合わせの宣長夫妻と長男夫妻 |
宣長旧宅。12歳から死ぬまで住んだ家。1階を 診察室とし、2階の四畳半に書斎をおいた |
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江戸中期の国学者で、その頃既に誰も読めなくなっていた『古事記』を根性で解読し、注釈集の『古事記伝』を35年かけて執筆&発表した。『源氏物語』『日本書紀』も深く研究。号は春庵・鈴屋(すずのや)。三重県出身。23歳の時に医師となるべく京都にのぼり、熱心に漢学、医学を学んだ。また、都の暮らしから王朝文学に憧れるようになる。古典学者・契沖や儒学者・荻生徂徠(おぎゅうそらい)の著作と出合い多大な影響を受けた。1757年(27歳)、故郷の松坂に戻り医師を開業し、同時に国学の研究も本格的にスタート。先輩国学者の賀茂真淵(かものまぶち)を訪ねて弟子になり、師の影響で『万葉集』に激ハマり。50代になると藩主から呼び出されて古典の御前講義を行なうようになった。
宣長は文学について、儒教や道徳を説くことが本来の役目ではなく、万葉集や古典文学のように、素直にものに感じる心--「物のあはれ」を知る心を養うことが重要と主張した。
※仕事で江戸に向かう道中で、地図に掲載された宿や名所の場所が全然違っていてひどく苦労し、激怒した宣長は“それならば自分で”と、道中の情報をことごとく網羅した『大日本天下四海画図』を完成させた。
※宣長は安易な死刑に反対し、紀州徳川家に「法を守るためにと、(藩が)かえって軽々しく人を殺す事があるので、よくよく慎むべき。たとえ少々法から外れることがあっても、ともかく事情をよく調べて軽く取り扱ってはならない」と提言している。
※宣長は鈴マニアで、自宅の床の間に36個も鈴をぶら下げていたという。
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| 西鉄電車太宰府駅から天満宮へ続く参道 | 太宰府天満宮の本殿。この建物自体がお墓だ | 天神様と崇められ本殿には鏡がある |
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| 道真の棺を牽いた牛がこの地で動かなくなった ので、ここに霊廟として太宰府天満宮を建てた |
本殿前の梅は京都の道真邸の庭にあった という。左遷時に別れを告げた道真を慕って、 ここまで飛んできた飛梅伝説が伝わる |
なんて渋い電話ボックス |
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| 境内の『筆塚』。道真は「書道の神」として 信仰されており、この塚は使い終えた 自分の筆に感謝して納める場所だ |
『包丁塚』というのも側にあった。 古い包丁を納め、調理した鳥、 獣、魚菜の霊を慰める場所 |
こちらは947年創建の京都・北野天満宮。道真を祀る。 1587年に秀吉が付近一帯で“北野大茶会”を催した。 本殿(国宝)は秀頼が造営。いつも受験生がいっぱい |
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平安中期の学者。菅公(かんこう)といわれ、学問の神様として崇められる。877年に32歳で学者として当時最高峰の名誉となる文章(もんじょう)博士となる。和歌は「古今和歌集」など勅撰集に34首もとられ、百人一首には「このたびは幣(ぬさ)もとりあへず手向山もみぢのにしき神のまにまに」が入っている。晩年にまとめられた漢詩文も格調の高い詩風で大きな影響を与えた。政治家としては42歳に讃岐守として四国へ赴任。帰京後は宇多天皇から藤原氏の権勢を抑えるために良識派として重用された。道真はどんどん出世して、中納言、権(ごんの)大納言、899年(54歳)には右大臣まで昇進する。この時の左大臣は藤原時平(藤原基経の子)。大臣の要職を藤原氏が独占しつつあるなかで、時平には学者出身の道真が抜擢されることが面白くなかった。そして2年後(901年)に、突如として道真は天皇に謀反を企んだという濡れ衣を着せられ(時平の陰謀と言われている)、都から遙かに遠い太宰府に大宰権帥(だざいのごんのそち)として左遷される。道真は都への望郷の念をつのらせつつ2年後(903年)に他界した。
※太宰府で道真が詠んだ「こち(東風)ふかば にほひおこせよ 梅の花 あるじなしとて
春な忘れそ」(愛する梅よ、春風が吹いたら良い香りを送っておくれ。主がいなくても春を忘れるな)は、美しくも切ない歌として今も伝わる。
道真は遺言で「私の亡骸を牛車に乗せ、その牛に自由に牽(ひ)かせて立ち止まったところに葬れ」と遺した。そこへ建てられたのが今の太宰府天満宮だ。つまり天満宮の地下に道真は眠っており、本殿自体が“お墓”ということになる。死後、都では宮中の清涼殿に雷が落ち、道真左遷事件に関わった人間が死亡するなど異変が続き、「菅公の怨霊が雷神となった」と人々は噂し合った。死去から20年が経った923年、朝廷は道真の罪を公式に取り消し、後に最高位となる正一位太政大臣を贈った。京都の北野天神も道真の怨霊を鎮める目的で創建された。
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| (注意)ガーン!僕はてっきりコチラが魯山人と思っていましたが、読者の方の指摘では違う墓とのこと! 確かに周囲にはたくさんの北大路家のお墓があったけれど…(涙) |


| 民芸学者、柳宗悦。柳は1889年の東京生まれ。志賀直哉や武者小路たちと雑誌『白樺』を創刊し、そこで美術の啓蒙に努めていた。柳こそが初めて日本人にゴッホの存在を本格的に知らしめた人物だ。※板画家の棟方志功が白樺誌上で衝撃を受けたゴッホの“ひまわり”は柳が掲載したもの。 彼は民芸&美学者の立場から文化の多様性を重んじ、日本政府がアジアを同化させようとした動きに抵抗し、沖縄や朝鮮の独自の文化、生活様式を尊重せよと生涯に渡って運動していた。 そもそものきっかけは、柳が韓国併合の6年後、27歳の時に初めて半島を旅した時、朝鮮の優れた陶芸作品に強く心を動かされたことだった。超高温で焼かれ、ガラスのように引締められた白磁や青磁といった李朝の磁器は、手のこんだ装飾もあって現在でも特に美しい磁器として世界的に名高い。柳はこの深遠な磁器の輝きに心を奪われた。 1919年の「三・一独立運動」の弾圧で朝鮮の人々に多くの死者が出ると、柳はすぐさま武力に頼った植民地政策を強く批判し、日本の新聞に論文『朝鮮人を思う』を寄せた。 「余は朝鮮について知識のある日本の識者の思想が、深みもなく温か味もないのを知り、隣人の為にしばし涙ぐんだ。日本の古美術は朝鮮に恩を受けたのである。法隆寺や奈良の博物館を訪れた人はその事実を熟知している。我々が今国宝として海外に誇るものは、殆ど大陸の恩恵を受けないものはないだろう。しかし今日の日本は報いるのに朝鮮芸術の破壊をもってしたのである。余は世界芸術に立派な位置を占める朝鮮の名誉を保留するのが日本の行なうべき正当な人道であると思う」 これは日本国内のみならず、独立運動を経て創刊が許可された韓国の東亜日報に転載され、半島でも大きな反響を呼んだ。 またこの頃、日本側が朝鮮を支配するための統治機関、朝鮮総督府の建物を王宮(景福宮)内に建設する計画が持ち上がり、建設の邪魔になる光化門が破壊、撤去される方針が発表された。 この計画を知った柳は、雑誌へ『失われんとする一朝鮮建築のために』(1922)と題する以下の声明を発表した。 「光化門よ、光化門よ、お前の命が消えんとしている。お前がかつてこの世にいたという記憶が、冷たい忘却の中に葬り去られようとしている。どうしたらいいのであろうか。私は想い惑っている。むごいノミや無常の槌がお前の体を少しずつ破壊し始める日はもう遠くないのだ」 併合した国の王宮を壊し、そのド真ン中に植民地支配の為の管理機関を建設するという、現地の国民の神経を逆なでするようなことは、中世以前ならともかく、近代ではほとんど聞かない。 結局、柳らの強い反対運動が成果をあげ、1926年、光化門は破壊されずに移転されることとなった。 その代償として、柳は“危険人物”として渡航の際に警察の尾行がつくようになってしまったが。 3年後の1929年、朝鮮工芸への関心をさらに深めた彼は、ついにソウルに朝鮮民族美術館を開設するに至ったのであった。 |
