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| 1989 花瓶の代わりのボロボロのペット ボトルが寂しげに立っていた |
2002 墓前はとても賑やかになっていた! 良かったね、ボードレール! |
2009 若い女性たちが墓前で彼の詩を朗読中! 他界から140年経ってもモッテモテ! |
| 「ボードレールは新しい戦慄を創造する」(ヴィクトル・ユゴー) 「ダンディズムとは退廃の世における英雄性の最後の輝きである」(ボードレール) パリの“良心的知識人”階層を震え上がらせた、反モラル・アウトロー詩人ボードレール。詩集『悪の華』は刊行当時、“公共の道徳に反する”理由で発禁処分を受けた。 だが反社会的詩人というそのスキャンダラスな一面のみで彼は語れない。詩集と向きあったとき、その絶望の奥底に崇高な良心を見出すことができる。 「虐げられる奴隷となって、時間の手中に堕ちざる為に、恐るべき時間の重荷から逃れる為に、絶えず汝を酔わしめてあれ!酒によって、詩によって、徳によって、恋によって、とにかく汝の好むがままに!」(『巴里の憂鬱』) 「永久の快楽と苦悩の歌い手よ、哲学者よ、詩人よ、芸術家よ、不朽の名に於いて、私は御身に敬礼する!」(『巴里の憂鬱』) |

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中也と親しかった小林秀雄は言う「中原は詩人というよりむしろ告白者だった」と。山口県湯田町生まれ。文学への目覚めは早く、13歳で短歌が新聞に掲載され、15歳の時には友人と歌集を出していた。ところが文学以外の学業はからっきしで、落第したことを期に翌年京都に転校する。17歳、3つ年上の小劇団の女優と同棲生活に入る。18歳の春、大学受験を目指し彼女と東京へ移り、そこで5歳年上の仏文科学生小林秀雄と知り合う。小林を通してランボーやヴェルレーヌといったフランス象徴詩に出合った彼は、そ詩風に大いに影響を受けていく。小林との親交もますます深まったが、上京から半年後の11月、なんと中也は彼女を小林にとられてしまう(否、とられたという言葉は不適切かも。より魅力的だった小林に彼女が走ったという方が正確だ)。3人の話し合いの結果、奇怪な三角関係がしばらく続いたが、やがて彼女をどうあがいても取り戻せぬと自覚した彼は、小林に絶交宣言を叩き付けた(ただし、5年後に彼女が出産した際に中也は名付け親を頼まれてることから、彼女と中也に関しては友情が続いていたようだ)。
20代に入って中也は大岡昇平らと同人誌を作り、精力的に作品を発表していくが、“破れかぶれの悲しみ”をいつも首から引っさげていた彼は、次第に自暴自棄の傾向を強めていく。酒場で隣りの客の愚劣に耐えられないで、いきなり喧嘩を吹っかけては体の弱い彼の方がいつもひどい目にあった。渋谷で酔って店のガラスを壊し、29日間留置場へブチ込まれたり、議員の家の玄関を破壊して逮捕されたことも。
そんな中也が“軌道修正”するきっかけとなったのが、26歳の時の結婚と、それに続く長男・文也の誕生だった。生活は貧しかったが、彼は生まれて初めて知る精神の充足と安定感を味わった。1934年(27歳)、自費で第1詩集『山羊の歌』を出版。「四季」「文学界」に作品を発表する一方で、『ランボオ詩集』を翻訳するなど仏詩人の紹介にも努めた。詩壇では徐々に彼の名声が高まっていったが、29歳の時にまだ2歳の愛児が病で死んでしまう。彼は悲嘆のあまり精神的に異常をきたし、翌年、極度の神経衰弱から千葉の脳病院に入院する。彼いわく『何もする気が起こらない“悲しみ呆け”の状態』だった。あくる1938年、鎌倉へ転院したもの心身の疲労は続き、彼は故郷に帰ろうと心に決める。そして秋、結核性の急性脳膜炎の為、彼はわずか30歳で夭折した。
中也は死の2ヶ月前に、新たな詩集の原稿をかつて絶縁した小林秀雄に託していた。死の翌年、小林は亡き友との約束を果たすべく、中也の第2詩集『在りし日の歌』を刊行した。
この詩集には愛児へのレクイエム「また来ん春」がある。“在りし日”とは、そういうことだ。
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●また来ん春 また来ん春と人は云う しかし私は辛いのだ 春が来たって何になろ あの子が帰って来るぢやない 思えば今年の5月には お前を抱いて動物園 象を見せても猫(にゃあ)といい 鳥を見せても猫(にゃあ)だった 最後に見せた鹿だけは 角によっぽど惹かれてか 何とも云わず 眺めてた ほんにお前もあの時は この世の光の只中に 立って眺めていたっけか… |
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中也が亡くなったのは、盧溝橋事件、第2次上海事変の直後で、日本が中国と事を構えていく最中だった。小林秀雄はこう追悼した--「彼は一流の抒情詩人であった。字引き片手に横文字詩集の影響なぞ受けて、詩人面をした馬鹿野郎どもから色々な事を言われながらも、日本人らしい立派な詩を沢山書いた。事変の騒ぎの中で、世間からも文壇からも顧みられず、どこかで鼠でも死ぬ様に死んだ」。そして次の詩を刻んだ…
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●死んだ中原(抜粋) ほのかながら確かに君の屍臭を嗅いではみたが 言うに言われぬ君の額の冷たさに触ってはみたが とうとう最後の灰のかたまりを箸の先で積んではみたが この僕に一体何が納得出来ただろう アア 死んだ中原 僕にどんなお別れの言葉が言えようか 君に取返しのつかぬ事をしてしまったあの日から 僕は君を慰める一切の言葉をうっちゃった アア 死んだ中原 例えばあの赤茶けた雲に乗って行け 何の不思議な事があるものか 僕達が見て来たあの悪夢に比べれば |
| 中也が眠る吉敷の上東墓地は、JR湯田温泉駅が最寄り駅。湯田温泉通りの6番バス停(JRバス)から「美祢」か「中尾口」行きに乗車し、「吉敷郵便局前」で下車。進行方向へ道沿いに歩くと「中原中也の墓」という看板が出ている。田んぼの中にポツンとある墓地だ。バスは本数が多くないので、タクシーを利用してもいいかも。千円以下でいけるのでそんなに高くないッス。 |

| ドヒーッ!あの絶壁の上(教会)に彼が! | 丘ふもとの村内へ突入 |
| 写真では分かりにくいけどメチャ急勾配! | ずっとこの調子。5分で虫の息に |
| ゼェゼェ、やっと接近してきた | ぐおお、あともう少し! |
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| リ、リ、リルケーッ!我が心の友よ!全ての 孤独者の代弁者よ! |
荷物を預かってくれたうえ、タダで売り物のリルケの絵葉書 をくれた、ラロン駅キオスクの女性。あなたは天使だ! |
| “今日僕は何も格別期待していなかった。僕は自然な至極簡単なことのように元気よく家を出た。だが僕は、また紙くずのようにクチャクチャに揉まれて無慈悲に投げ捨てられてしまったのだ。無残なものだった。あっと思うまもない、ごく容易な、しかし気が狂いそうな激痛を与える無遠慮な仕打ちである” “僕は人を愛してはならぬと強く心を固めていた。それは「愛される」という恐ろしい地獄へ誰をも突き落とさぬ配慮だった” “恋に恋している人物にとって、自分の愛に答えられることが一番恐ろしい恐怖なのだ” “本を開けると絶望者の一群がまるで堰(せき)をきったように、静寂の中にいる僕に襲いかかって来る作品がある” “地上ではこのような息苦しい紛糾が行われているのに、どこか天上の一画では死者が美しい神の光を受けて輝きながら天使と仲良く身体を持たせ合ってるなどと、どうして想像できよう” “神という観客の前で、僕はもう演ずることをやめてしまった”〜『マルテの手記』から “あなたの孤独を愛して下さい。あなたに近い人々が遠く思われる、とあなたは言われますが、それこそあなたの周囲が広くなり始めたことを示すものに他なりません” “ある事が困難だということは、一層それをなす理由であらねばなりません。愛することもまたいいことです。なぜなら愛は困難だからです”〜『若き詩人への手紙』から 孤独地獄も一線を越えると実は快楽に転生するという隠れた事実を、初めて目の前に提示してくれたのがライナー・M・リルケだ。大学の下宿時代、この手記に病みつきになり、授業中も机にこの小説の紹介を書きまくってた。 ※リルケは27歳の時に彫刻家ロダンと出会い秘書をつとめた。ロダンはリルケに、詩にも彫刻のような硬度をもった造型と完結性を与えるべきである事を教えた。 |
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| 死して愛するベアトリーチェと再会した、人類史上最高の詩人 |
| ダンテが愛した女性、ベアトリーチェは25歳で病に倒れた。神曲は彼が地獄の最下層『コキュートス』から彼女に救い出される壮大な詩集だ。ダンテはこの詩集を残すことで、彼女を現世に復活させ永遠の命を与えた。この、死者すら蘇らすことが出来る文学の力に僕は畏敬の念を感じると同時に、こうした奇跡を人間が起こせる事実が嬉しくてならない。 |
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| フランコ将軍の軍事独裁政権に逮捕されたロルカは、抵抗運動をしていたグラナダ市民と共に郊外の丘に連行され、 無惨に処刑された。その丘は現在「ロルカ公園」として保存され、広場には彼の詩を書き込んだ8枚の陶板がある。 |
タクシーのホセさん(67歳)は親切に詩を 解説してくれた。…ただしスペイン語で(汗)。 |
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| 橋の上にあるランボー博物館 | 駅前のランボー公園 | もちろんイケメンだ |
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| 本屋からカフェまで、小さな町のいたる所にランボーが出現 | ||



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| 2002 | 2009 | 墓上のハイネ像。渋い! |
| 愛の詩人ハイネ。ドイツ生まれ。24歳で最初の詩集を出版、繊細な表現力で注目を集める。30歳(1827)の時に出版された詩集「歌の本」は、 同じ歳の若きオーストリアの作曲家シューベルトが曲をつけ、これによってハイネの抒情詩人と名声はさらに高まった。1831年にパリへ移り、 そこでショパンやバルザックらと親交を結ぶ。臨終の言葉は「花!花!ああ、自然は美しい」だった。 ※「書物を焼く国は、やがてその国民も焼くであろう」(ハイネ) |
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| 手前に墓、上にモニュメント | ギリシアで亡くなり運ばれてきた | 水もしたたるフェロモン詩人 |


| 愛知県生まれ。本名金子安和。大学中退後に渡欧しベルギーでボードレールなどフランスの詩を研究。帰国後、28歳で詩集「こがね虫」(1923)を刊行し注目された。1928年から5年にわたって東南アジア〜ヨーロッパまで放浪、視野を広める。53歳、戦時中に書きためた詩「落下傘」(1948)を発表。抵抗(レジスタン)詩人として高く評価される。人間の真の姿を描き続けた。妻は作家の森三千代。 「天下の一大事や、英雄的な出来事、そんな事のために無にした平凡な生活が惜しくてたまらない」(金子光晴) |
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| 29歳 | 智恵子と2人で |
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| 1991 | 2006 |
| 光太郎は愛妻・智恵子と同じ墓に眠っている | |
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詩人・彫刻家。仏師・高村光雲を父として東京に生まれた。22歳の時、ロダンの彫刻『考える人』の写真を見て衝撃を受ける。23歳で欧米に留学。父親譲りの彫刻技術でニューヨーク美術学校の特待生になる。翌年ロンドン、翌々年パリに移り住み見聞を広める。欧州社会において自由で近代的な精神を身につけて帰国した26歳の光太郎は、日本の社会にこびり付いている古い価値観や美術界の権威主義と衝突、これに強く反発する。光太郎は、詩を書くことについて、『自身の彫刻の純粋さを守るため、彫刻に文学など他の要素が入り込まないようにするためだ』といっている。28歳の時に3つ年下で、雑誌「青鞜」創刊号(平塚雷鳥創刊)の表紙絵を描いた女流洋画家・長沼智恵子と出会う。3年後、第1詩集『道程』を刊行し、同年智恵子と結婚する(1914年、31歳)。当初の光太郎の詩は、「一切が人間を許さぬこの国では/それ(近代的自我)は反逆に他ならない」と、社会や芸術に対する、怒り、迷い、苦悩に満ちたものだったが、智恵子と出会ってからは、穏やかな理想主義とヒューマニズムに包まれるようになった。光太郎は語る、「私はこの世で智恵子にめぐり会った為、彼女の純愛によって清浄にされ、以前の退廃生活から救い出される事が出来た」と。
『牛』(抜粋) “道程”から
牛は急ぐことをしない / 牛は力いっぱい地面を頼って行く / 自分を載せている自然の力を信じきって行く / ひと足 ひと足 牛は自分の力を味わって行く / ふみ出す足は必然だ しかし、1931年頃から智恵子は実家の破産などもあって精神を病み(統合失調症)、睡眠薬で服毒自殺を図る。それは未遂に終わったものの狂気は進み、1938年10月5日、7年の錯乱の末、智恵子は肺結核で死去する。死の3年後、光太郎は30年に及ぶ2人の愛を綴った詩集「智恵子抄」を刊行した(58歳)。
智恵子の死後、日本は太平洋戦争に突入。文学者や芸術家の大半が戦争に協力していくなか、人道的詩人であったはずの光太郎もまた、戦意高揚を目的とした戦争詩を作ってしまう。終戦後、ほとんどの知識人が「時代のせいだった、仕方がなかった」と活動を続ける中で、光太郎はこうした態度をよしとせず、自らの戦争協力を深く後悔し、自己批判の為に岩手県花巻郊外の山間で、62歳から69歳まで7年間の謹慎生活に入る。そこは周囲に人家のない孤立した山小屋で、たたみ三畳の小さな土間と自分で切り開いた畑しかなかった。その地で、心の中に生きている智恵子と暮らした。
最期は智恵子と同じく肺結核でこの世を去る。享年73歳。 「愛する心のはちきれた時 / あなたは私に会ひに来る / すべてを棄て、すべてを乗り越え / すべてを踏みにじり / 又嬉々として」(光太郎) |
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●樹下(じゅか)の二人
あれが阿多多羅山(あたたらやま) あの光るのが阿武隈川(あぶくまがは) かうやつて言葉すくなに坐つてゐると、 うつとりねむるやうな頭の中に、 ただ遠い世の松風ばかりが薄みどりに吹き渡ります。 この大きな冬のはじめの野山の中に、 あなたと二人静かに燃えて手を組んでゐるよろこびを、 下を見てゐるあの白い雲にかくすのは止しませう。 あなたは不思議な仙丹(せんたん)を魂の壺にくゆらせて、 ああ、何といふ幽妙(いうめう)な愛の海ぞこに人を誘ふことか、 ふたり一緒に歩いた十年の季節の展望は、 ただあなたの中に女人の無限を見せるばかり。 無限の境に烟(けぶ)るものこそ、 こんなにも情意に悩む私を清めてくれ、 こんなにも苦渋を身に負ふ私に爽かな若さの泉を注いでくれる、 むしろ魔物のように捉えがたい 妙に変幻するものですね。 あれが阿多多羅山、 あの光るのが阿武隈川。 ここはあなたの生れたふるさと、 あの小さな白壁の点点があなたのうちの酒蔵。 それでは足をのびのびと投げ出して、 このがらんと晴れ渡つた北国の木の香に満ちた空気を吸はう。 あなたそのもののやうな此のひいやりと快い、 すんなりと弾力ある雰囲気に肌を洗はう。 私は又あした遠く去る、 あの無頼の都、混沌たる愛憎の渦の中へ、 私の恐れる、しかも執着深いあの人間喜劇のただ中へ。 ここはあなたの生れたふるさと、 この不思議な別箇の肉身を生んだ天地。 まだ松風が吹いてゐます。 もう一度この冬のはじめの物寂しいパノラマの地理を教へて下さい。 あれが阿多多羅山、 あの光るのが阿武隈川。 ●あどけない話 智恵子は東京に空が無いといふ。 ほんとの空が見たいといふ。 私は驚いて空を見る。 桜若葉の間(あひだ)に在るのは、 切つても切れない むかしなじみのきれいな空だ。 どんよりけむる地平のぼかしは うすもも色の朝のしめりだ。 智恵子は遠くを見ながら言ふ。 阿多多羅山(あたたらやま)の山の上に 毎日出ている青い空が 智恵子のほんとうの空だといふ。 あどけない空の話である。 2.精神病に侵された後 ●山麓の二人 ※磐梯山=福島北部の火山 二つに裂けて傾く磐梯山(ばんだいさん)の裏山は
険しく八月の頭上の空に目をみはり 裾野(すその)とほく靡(なび)いて波うち 芒(すすき)ぼうぼうと人をうづめる 半ば狂へる妻は草をしいて坐し わたくしの手に重くもたれて 泣きやまぬ童女のやうに慟哭する ――わたしもうぢき駄目になる 意識を襲ふ宿命の鬼にさらはれて のがれる途(みち)無き魂との別離 その不可抗の予感 ――わたしもうぢき駄目になる 涙にぬれた手に山風が冷たく触れる わたくしは黙つて妻の姿に見入る 意識の境から最後にふり返つて わたくしに縋(すが)る この妻をとりもどすすべが今の世に無い わたくしの心はこの時二つに裂けて脱落し 闃(げき)として二人をつつむ此の天地と一つとなつた ●千鳥と遊ぶ智恵子 人つ子ひとり居ない九十九里の砂浜の 砂にすわつて智恵子は遊ぶ。 無数の友達が智恵子の名を呼ぶ。 ちい、ちい、ちい、ちい、ちい―― 砂に小さな趾(あし)あとをつけて 千鳥が智恵子に寄つて来る。 口の中でいつでも何か言つてる智恵子が 両手をあげてよびかへす。 ちい、ちい、ちい―― 両手の貝を智恵子がねだる。 智恵子はそれをぱらぱらに投げる。 群れ立つ千鳥が智恵子を呼ぶ。 ちい、ちい、ちい、ちい、ちい―― 人間商売さらりとやめて、 もう天然の向こうへ行つてしまつた智恵子の うしろ姿がぽつんと見える。 二丁も離れた防風林の夕日の中で 松の花粉をあびながら私はいつまでも立ち尽す。 3.智恵子が亡くなった後、最初に書かれた詩
●レモン哀歌 そんなにもあなたはレモンを待つてゐた かなしく白くあかるい死の床で わたしの手からとつた一つのレモンを あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ トパアズいろの香気が立つ その数滴の天のものなるレモンの汁は ぱつとあなたの意識を正常にした あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ わたしの手を握るあなたの力の健康さよ あなたの咽喉に嵐はあるが かういふ命の瀬戸ぎはに 智恵子はもとの智恵子となり 生涯の愛を一瞬にかたむけた それからひと時 昔山巓(さんてん=山頂)でしたやうな深呼吸を一つして あなたの機関はそれなり止まつた 写真の前に挿した桜の花かげに すずしく光るレモンを今日も置かう 4.晩年、智恵子の死から11年後。山小屋にいた時の66歳の詩。
●案内 三畳あれば寝られますね。 これが小屋。 これが井戸。 山の水は山の空気のやうに美味。 あの畑が三畝(うね)、 今はキャベツの全盛です。 ここの疎林(そりん)がヤツカの並木で、 小屋のまわりは栗と松。 坂を登るとここが見晴らし、 展望二十里南にひらけて 左が北上山系、 右が奥羽国境山脈、 まん中の平野を北上川が縦に流れて、 あの霞んでいる突き当りの辺が 金華山(きんかざん)沖といふことでせう。 智恵さん気に入りましたか、好きですか。 後ろの山つづきが毒が森。 そこにはカモシカも来るし熊も出ます。 智恵さん 斯(か)ういふところ好きでせう。 |


| ジョン・ダンは英国の詩人。戦乱の続く中世の欧州で、彼が書き残した次の詩を、ヘミングウェイは20世紀の スペイン内戦を題材にした『誰が為に鐘は鳴る』の冒頭で掲げた。(この詩では戦争を「波」にたとえている) 『何人も孤島ではない 何人も一人では完全ではない 人はみな、大いなる陸のかけら その陸のかけらが波によって奪われ 欧州の土が無くなるのは さながら岬が失せるようだ あなたの友人やあなた自身が失せるようだ 誰が死にゆくのもこれに似て 自分が死にゆくのに等しい なぜなら、私もまた人類の一部だから だから聞かないで欲しい 誰の為に弔いの鐘は鳴らされるのか、と それはあなたの為に鳴らされるのだから』(訳:煎茶さん) 人類とは私であり、私はあなたでもある、他者の死は皆の死--中世において、すでに“人類の一部” (I am involved in mankinde)という感覚を持つジョン・ダンは、なんとスケールの大きい、偉大な魂の持ち主で あったことか! |
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| 24年の生涯はあまりに短すぎる(1999) | 07年、再訪すると卒塔婆が増えていた | 死の前年。何ともはかなげ。 |
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昭和初期に活躍した叙情詩人の第一人者。東京日本橋に生れる。大学の専攻は建築学。高校時代から短歌をつくったが、三好達治の4行詩に感動して詩作に入る。1937年(23歳)、『萱草(わすれぐさ)に寄す』『暁と夕の詩』の2つの詩集を刊行する。立原は詩集を楽譜のように自ら装丁し、収録詩をすべて音楽的な響きを持つソネット形式(十四行詩)とした。彼が愛した信州の雄大な自然に、自身の心を重ねてうたいあげた、はかなくも美しい珠玉の詩群は、読み手の心に深く沁み込み、堀辰雄、室生犀星らによって将来を期待されたが、詩集発表の翌年暮れに肺結核が悪化し入院する。立原は見舞いに来た友人に「五月のそよ風をゼリーにして持って来て下さい」と願ったが、その5月まで命は持たず、3月29日に24歳の若さで夭折した。死から8年後、堀辰雄が第3詩集「優しき歌」を編んだ。青春の憧れや痛みがうたわれた立原の詩集は多くの若者に愛され、今でも命日近くの日曜日には、立原を慕う人々によって「風信子忌(ヒアシンスキ)」が催されている。墓は谷中墓地に近い多宝院の壁際にある。
萩原朔太郎は立原の死後、「不思議なことは、彼の肉体の亡びた後でも、彼の抒情詩のエスプリだけが、不易に実在して居る」 (不易、ふえき=変化のないこと)と評したが、萩原がこの言葉を語ってから60年以上経った現在でも、立原の繊細で透き通った音楽は詩集から鳴り響き続けているように思う。
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●またある夜に(抜粋)
私らはたたずむであらう 霧のなかに
霧は山の沖にながれ 月のおもを なげやのやうにかすめ 私らをつつむであらう 灰の帷(とばり)のやうに ●落葉林で あのやうに あの雲が 赤く 光のなかで 死に絶えて行つた 私は 身を凭(もた)せてゐる おまへは だまつて 脊を向けてゐる ごらん かへりおくれた 鳥が一羽 低く飛んでゐる 私らに 一日が はてしなく 長かつたやうに 雲に 鳥に そして あの夕ぐれの花たちに 私らの 短いいのちが どれだけ ねたましく おもへるだらうか ●ひとり林に‥‥
だれも 見てゐないのに 咲いてゐる 花と花 だれも きいてゐないのに 啼いてゐる 鳥と鳥 通りおくれた雲が 梢の 空たかく ながされて行く 青い青いあそこには 風が さやさや すぎるのだらう 草の葉には 草の葉のかげ うごかないそれの ふかみには てんたうむしが ねむつてゐる うたふやうな沈黙(しじま)に ひたり 私の胸は 溢れる泉! かたく 脈打つひびきが時を すすめる |

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| 1990 | 2004 |
| ホントにこんな大きなピラミッドがローマ市内にある。シェリーもキーツもピラミッドの側の英国人墓地に眠っていた。 1990年に墓の写真も撮ったんだけど、後日、悪党にフィルムごとリュックを盗まれてしまった…。 |
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![]() 「ガーン、再びショック…」 |
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| で、2004年に写真を撮る為に再訪(リベンジ) したら、今度は月曜で閉まっていた(涙) |
沈黙と共に立ち塞がる門。ああ無情! |
門柱の落書きが、なぜか「千と千尋の神隠し」 |
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| キーツは「This Grave of YOUNG ENGLISH POET」と彫られている |
手前の墓がシェリー |
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| 東京から各停に約3時間揺られ、次に前橋駅からバスに20分乗車。 最後にバス停から15分ほど歩く。さすがにもうヘトヘト! |
朔ちゃんの膝まくらで幸せなひと時 を過ごす。これぞ墓参の醍醐味! |
従来の堅苦しい文語体の詩ではなく、生活に密着した自由で生命力あふれる口語体の詩を書いた20世紀初頭の革命的詩人、萩原朔太郎。彼の詩世界はとにかく繊細!あまりに感受性が鋭すぎて、読んでるとドギマギ緊張してしまう。 |
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| 「竹」 ますぐなるもの地面に生え、 するどき青きもの地面に生え、 凍れる冬をつらぬきて、 そのみどり葉光る朝の空路に、 なみだたれ、 なみだをたれ、 いまはや懺悔(ざんげ)をはれる肩の上より、 けぶれる竹の根はひろごり、 するどき青きもの地面に生え。 「猫」 まっくろけの猫が二疋(ひき)、 なやましいよるの屋根のうへで、 ぴんとたてた尻尾(しっぽ)のさきから、 糸のやうなみかづきがかすんでゐる。 『おわあ、こんばんは』 『おわあ、こんばんは』 『おぎやあ、おぎやあ、おぎやあ』 『おわああ、ここの家の主人は病気です』 「野景」 弓なりにしなった竿の先で 小魚が一匹 ぴちぴちはねている おやぢは得意で有頂天だが あいにく世間がしづまりかえって 遠い牧場では 牛がよそっぽをむいている。 「こころ」(『ゲド戦記』のテルーの歌のモト) こころをばなににたとへん こころはあぢさゐの花 ももいろに咲く日はあれど うすむらさきの思ひ出ばかりはせんなくて こころはまた夕闇の園生のふきあげ 音なき音のあゆむひびきに こころはひとつによりて悲しめども かなしめどもあるかひなしや ああ、このこころをばなににたとへん。 こころは二人の旅びと されど道づれのたえて物言ふことなければ わがこころはいつもかくさびしきなり。 |

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| 2002 | 2009 奥まった場所で分かりにくい。墓石の形が頼り | |
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| 墓上にあったアポリネールの詩。どうやら別れの詩のようだ |
墓石にうっすらとハート型に文字が並ぶ。 なんて書いてあるんだろう? |
| 『時は静かに過ぎる葬列のようだ お前は泣くだろう 泣いて過ごす今の時も 他の時と同じように あまりに早く去ってしまったと』(アポリネール) かつてルーブルからモナリザが盗まれた時に、彼は無実にもかかわらず容疑者の一人として獄中に繋がれた。上記の詩は獄中の中で書いたものだ。 本名ヴィルヘルム・アポリナリス・コストロヴィツキ。現代詩の開祖。世にシュールレアリスムという言葉を普及させパリ文壇の中心にいた彼だが、第1次世界大戦が始まるとポーランド人のアポリネールは義勇兵としてフランス軍に従軍し、ドイツと戦った。最前線で頭部を負傷した彼は、その傷が原因で38歳の生涯を閉じた。アポリネールの死でフランスの詩は20年遅れたという。マリー・ローランサンと恋愛関係にあった。 |
| ミラボー橋 ミラボー橋の下をセーヌ川が流れ われらの恋が流れる わたしは思い出す 悩みのあとには楽しみが来ると 日も暮れよ 鐘も鳴れ 月日は流れ わたしは残る 手と手をつなぎ 顔と顔を向け合おう こうしていると 二人の腕の橋の下を 疲れたまなざしの無窮の時が流れる 日も暮れよ 鐘も鳴れ 月日は流れ わたしは残る 流れる水のように恋もまた死んでゆく 恋もまた死んでゆく 命ばかりが長く 希望ばかりが大きい 日も暮れよ 鐘も鳴れ 月日は流れ わたしは残る 日が去り 月がゆき 過ぎた時も 昔の恋も 二度とまた帰ってこない ミラボー橋の下をセーヌ川が流れる 日も暮れよ 鐘も鳴れ 月日は流れ わたしは残る |
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| 1991 | 2005 |
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| 本名、北原隆吉 | 『雨雨フレフレ』『トンボの眼鏡』を合唱して供養 |
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詩人・歌人・童謡作家。福岡県柳川市の旧家(造り酒屋)に生まれた。16歳で白秋を号す。22歳、与謝野鉄幹が主宰する『明星』に詩歌を発表し注目を浴びると同時に、同誌を通して石川啄木、与謝野晶子らとも親交を結ぶ。23歳、文壇を支配していた自然主義文学に反抗し、志を同じくした高村光太郎や谷崎潤一郎らと耽美主義の文学運動を展開した。1909年(24歳)、鴎外を盟主とする『スバル』の創刊に参加、退廃美の世界に耽溺した官能の第1詩集『邪宗門』を刊行する。26歳、幼年時代を鮮烈にうたいあげた第2詩集『思ひ出』を世に送り、上田敏から「和洋の芸術を融合させた若き天才詩人」と激賞され名声を得る。27歳、いよいよ創作活動が絶頂期を迎えようとしたその時、白秋は隣家の人妻と恋に落ち、その夫から姦通罪で告訴され警察に2週間拘留される。さらに故郷の実家が破産したため、一家の生活を負担することになり、一気に暮らしが困窮した。28歳、離婚した彼女と入籍し、この間の一連の精神的打撃を、最初の歌集『桐の花』に昇華させたが、次の年に生活苦から離婚する。31歳、再婚し葛飾に住む。1918年(33歳)から児童雑誌「赤い鳥」に参加し、『トンボの眼鏡』『雨雨フレフレ』『からたちの花』『この道』など多くの童謡を書き上げた。童謡は白秋に創造者としての歓喜を与え、生涯に作った童謡は870篇にもなった。35歳、離婚。36歳、再々婚。37歳、山田耕筰と音楽誌を創刊。38歳、自然に即した静かな境地をうたうようになった白秋は、枯淡な趣のある詩集『水墨集』を刊行する。その後も浪漫派の盟主として歌集『白南風』(49歳)をうたうなど、アララギ派の現実的歌風に精力的に対抗していく。52歳、糖尿病と腎臓病により失明。国民的詩人となった白秋は、約200冊の著作を残し、57歳で永眠した。門下からは萩原朔太郎、室生犀星らが育っていった。
「夕暮れのものあかき空/その空に百舌(もず)啼(な)きしきる/ウイスキイの瓶の列/冷ややかに拭く少女(おとめ)/ 見よ、あかき夕暮の空/その空に百舌啼きしきる」(『断章』) |
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| 正面ゲートの近くの大きなサークル沿いにヴェルレーヌは眠っている |
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| 男性の墓とは思えないキュートな墓。デコレーション・グレイブっす!(2005) | 4年後。花が減って若干寂しげ(2009) |


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| 2005 | 2009 | 金平糖のようだ |



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| 栗原さんは32歳の時に被曝した | 広島平和記念資料館にて。焼き尽くされた後、中央手前に残った建物が原爆ドームだ |
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| 強いインパクトを感じた『護憲』の2文字 | 故郷の山間部に眠る | 非武装をうたった憲法第9条の碑文が並んでいた |
| ●生ましめんかな こわれたビルデングの地下室の夜であった。 原子爆弾の負傷者達は ローソク1本ない暗い地下室を うずめていっぱいだった。 生ぐさい血の臭い、死臭、汗くさい人いきれ、うめき声。 その中から不思議な声がきこえて来た。 「赤ん坊が生まれる」と云うのだ。 この地獄の底のような地下室で今、若い女が 産気づいているのだ。 マッチ一本ないくらがりでどうしたらいいのだろう。 人々は自分の痛みを忘れて気づかった。 と、「私が産婆です。私が生ませましょう」と云ったのは さっきまでうめいていた重傷者だ。 かくてくらがりの地獄の底で新しい生命は生まれた。 かくてあかつきを待たず産婆は血まみれのまま死んだ。 生ましめんかな 生ましめんかな 己が命捨つとも |
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| JR可部線の終着点・可部駅 |
「下行森」のバス停付近から西側を眺める |
左写真の中央にある玉縄神社。この裏手を 登った場所(住宅街との境目)に墓地がある |
墓地の広さはこれくらい。住宅地にある ので接近するまで墓地と分り難い |
| 【日本国憲法・第九条】 (1)日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。 (2)前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。 |
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| 栗原さん自筆の草稿ノートを、長女の真理子さんに見せて頂いた。 何度も文章が推敲されてあり、創作の苦闘が伝わってきた |
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| 仙崎の港公園に建つみすゞの像 |
墓参者が絶えないみすゞの墓 |
駅前からのびる「みすゞ通り」に面した 全ての民家に、彼女の詩が掛けてあった |
| 『繭(まゆ)と墓』(金子みすゞ) 蚕(かいこ)は繭に はいります、 きゅうくつそうな あの繭に けれど蚕は うれしかろ、 蝶々になって 飛べるのよ。 人はお墓へ はいります、 暗いさみしい あの墓へ。 そしていい子は 翅(はね)が生え、 天使になって 飛べるのよ。 |
| 『私と小鳥と鈴と』 私が両手をひろげても、 お空はちっとも飛べないが、 飛べる小鳥は私のように、 地面(じべた)を速くは走れない。 私がからだをゆすっても、 きれいな音は出ないけど、 あの鳴る鈴は私のように たくさんな唄は知らないよ。 鈴と、小鳥と、それから私、 みんなちがって、みんないい。 |
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| 『私がこの世に生まれてきたのは、私でなければできない仕事が何か一つこの世にあるからなのだ。それが社会的に高いか低いかそんなことは問題 ではない。その仕事が何であるかを見つけ、そのために精一杯の魂を打ち込んでゆくところに人間として生まれてきた意義と生きてゆく喜びがあるのだ』 |
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『つまづいたって いいじゃないか 人間だもの』
『セトモノとセトモノとぶつかりッこするとすぐこわれちゃう どっちか柔らかければだいじょうぶ やわらかいこころを持ちましょう』 『うばい合えば足らぬ わけ合えばあまる うばい合えば憎しみ わけ合えば安らぎ』
『どうころんでもおれのかお』
『そんかとくか人間のものさし うそかまことか仏さまのものさし』
『あのときのあの苦しみも あのときのあの悲しみも みんな肥料になったんだなあ じぶんが自分になるための』※死の前年の詩 |
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| ヒンドゥー教徒なので聖なるガンジスに遺灰が撒かれた | アジア人初のノーベル文学賞 | カルカッタの街中にあった黄金像 |
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| カルカッタのタゴール・ハウス。彼はここで没した(今は州立大学) | 内部は写真撮影禁止なので門の外から中庭をパシャリ | とてもシブかったタゴール像 |
| タゴールの遺灰はガンジス河に撒かれたので、河そのものが墓といえる。カルカッタには生家&没した場所のタゴール・ハウスがあり遙拝した。 1909年(48歳)、アジア人として初のノーベル文学賞を受賞したインドの詩聖。ベンガル語の詩集『ギーターンジャリ』を英訳し高い評価を得る。ガンジーのインド独立運動を積極的に支持し、タゴールの詩は彼の死後独立したインドの国歌「ジャナ・ガナ・マナ」(インドの朝)と、バングラデシュ国歌「我が黄金のベンガルよ」に採用された。戦前の日本に5度も来日するほど親日家だったが、日本が西欧列強にならって「対華21ヶ条要求」を出すなど帝国主義に走ってからは「西欧文明に毒された行動」「日本の伝統美の感覚を自ら壊すもの」と激しい怒りを表明していた。 「すべての赤子は、神がなお人間に絶望していないというメッセージをたずさえて生まれてくる」(タゴール) |
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| JR羽前大山駅。町の中心からやや離れている | 歩いて市街地へ行き庄内交通バスの「加茂・湯の浜温泉行き」に乗車 |
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| 加茂港が見えたら下車。久々の日本海! | 漁村の中の小道を抜けると淨禅寺の山門が見えてくる |
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| 裏山の風光明媚な墓地におられます! ※本名の三浦で眠る |
生命の尊さを力強く、そして 女性の自立を明るくうたった |
墓前からは日本海が見える。背後に山、 前方に海という素晴らしい場所 |
本堂に茨木さんの資料コーナーが ある。この写真は初めて見た! |
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| 境内のポニョ。映画を観た直後で思わず撮った | お寺のファイルには、なんと茨木さんの自筆の文字が |
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本名、三浦のり子。戦後の詩壇をリードした詩人、脚本家、童話作家。“戦後現代詩の長女”とも評される。大阪生まれ。父は医師だった。高校時代を愛知県で過ごし、上京して現・東邦大学薬学部に入学。その在学中に空襲や勤労動員(海軍系の薬品工場)を体験し、1945年に19歳で敗戦を迎える。戦時下で体験した飢餓と空襲の恐怖は、命を大切にする彼女の感受性を育んだ。帝劇で鑑賞したシェークスピア「真夏の夜の夢」に感動し、劇作家の道を目指す。すぐに「読売新聞第1回戯曲募集」で佳作に選ばれ、自作童話がラジオで放送されるなど社会に認知されていった。
1950年(24歳)に医師の三浦安信と結婚。この頃から詩も書き始め、1953年(27歳)に詩人仲間と同人誌『櫂』(かい)を創刊。そこから谷川俊太郎、大岡信など多くの新鋭詩人を輩出した。1958年(32歳)、詩集『見えない配達夫』を刊行。その後も、1965年(39歳)に『鎮魂歌』、1977年(51歳)に『自分の感受性くらい』、1999年(73歳)に『倚(よ)りかからず』を発表するなど詩への創作意欲は衰えず、韓国語を学んで出した『韓国現代詩選』(1990)では読売文学賞を受賞した。2006年、自宅で病死しているのを親戚が発見。きっちりと生きることを心がけた彼女らしく遺書が用意されていた。享年79歳。 戦争への怒りを女性としてうたい上げた「私が一番きれいだったとき」は多くの教科書に掲載されている。人生を明るく、そして力強くうたう茨木の詩は、没後も多くの人を魅了し、晩年の『倚りかからず』は詩集としては異例となる15万部のベストセラーになっている。エッセイ本も多数。 |
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【カジポン選・茨木のり子の詩〜7選】
1.自分の感受性くらい ぱさぱさに乾いてゆく心を ひとのせいにはするな みずから水やりを怠っておいて 気難しくなってきたのを 友人のせいにはするな しなやかさを失ったのはどちらなのか 苛立つのを 近親のせいにはするな なにもかも下手だったのはわたくし 初心消えかかるのを 暮らしのせいにはするな そもそもが ひよわな志しにすぎなかった 駄目なことの一切を 時代のせいにはするな わずかに光る尊厳の放棄 自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ 2.一人は賑やか 一人でいるのは 賑やかだ 賑やかな賑やかな森だよ 夢がぱちぱち はぜてくる よからぬ思いも 湧いてくる エーデルワイスも 毒の茸も 一人でいるのは 賑やかだ 賑やかな賑やかな海だよ 水平線もかたむいて 荒れに荒れっちまう夜もある なぎの日生まれる馬鹿貝もある 一人でいるのは賑やかだ 誓って負け惜しみなんかじゃない 一人でいるとき淋しいやつが 二人寄ったら なお淋しい おおぜい寄ったなら だ だ だ だ だっと 堕落だな 恋人よ まだどこにいるのかもわからない 君 一人でいるとき 一番賑やかなヤツで あってくれ 3.娘たち イヤリングを見るたびに おもいます 縄文時代の女たちとおんなじね ネックレスをつらねるたびに おもいます 卑弥呼のころと変わりはしない 指輪はおろか腕輪も足輪もありました 今はブレスレット アンクレットなんて気取ってはいるけれど 頬紅を刷(は)くたびに おもいます 埴輪の女も丹(に)を塗りたくったわ ミニを見るたびに 思います 早乙女のすこやかな野良着スタイル ロングひるがえるたびに おもいます 青丹(あおに)よし奈良のみやこのファッションを くりかえしくりかえす よそおい 波のように行ったり 来たりして 波が貝殻を残してゆくように 女たちはかたみを残し 生きたしるしを置いてゆく 勾玉(まがたま)や真珠 櫛やかんざし 半襟や刺子(さしこ) 家々のたんすの奥に 博物館の片隅にひっそりと息づいて そしてまた あらたな旅立ち 遠いいのちをひきついで さらに華やぐ娘たち 母や祖母の名残の品を 身のどこかに ひとつだけ飾ったりして 4.あほらしい唄 この川べりであなたと ビールを飲んだ だからここは好きな店 七月のきれいな晩だった あなたの坐った椅子はあれ でも三人だった 小さな提灯がいくつもともり けむっていて あなたは楽しい冗談をばらまいた 二人の時にはお説教ばかり 荒々しいことはなんにもしないで でもわかるの わたしには あなたの深いまなざしが 早くわたしの心に橋を架けて 別の誰かに架けられないうちに わたし ためらわずに渡る あなたのところへ そうしたらもう後へ戻れない 跳ね橋のようにして ゴッホの絵にあった アルル地方の素朴で明るい跳ね橋! 娘は誘惑されなくちゃいけないの それもあなたのようなひとから 5.さくら ことしも生きて さくらを見ています ひとは生涯に 何回ぐらいさくらをみるのかしら ものごころつくのが十歳ぐらいなら どんなに多くても七十回ぐらい 三十回 四十回のひともざら なんという少なさだろう もっともっと多く見るような気がするのは 祖先の視覚も まぎれこみ重なりあい霞(かすみ)立つせいでしょう あでやかとも妖しとも不気味とも 捉えかねる花のいろ さくらふぶきの下を ふららと歩けば 一瞬 名僧のごとくにわかるのです 死こそ常態 生はいとしき蜃気楼と 6.わたしが一番きれいだったとき わたしが一番きれいだったとき 街々はがらがらと崩れていって とんでもないところから 青空なんかが見えたりした わたしが一番きれいだったとき まわりの人達が沢山死んだ 工場で 海で 名もない島で わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった わたしが一番きれいだったとき 誰もやさしい贈り物を捧げてはくれなかった 男たちは挙手の礼しか知らなくて きれいな眼差だけを残し皆(みな)発っていった わたしが一番きれいだったとき わたしの頭はからっぽで わたしの心はかたくなで 手足ばかりが栗色に光った わたしが一番きれいだったとき わたしの国は戦争で負けた そんな馬鹿なことってあるものか ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた わたしが一番きれいだったとき ラジオからはジャズが溢れた 禁煙を破ったときのようにくらくらしながら わたしは異国の甘い音楽をむさぼった わたしが一番きれいだったとき わたしはとてもふしあわせ わたしはとてもとんちんかん わたしはめっぽうさびしかった だから決めた できれば長生きすることに 年とってから凄く美しい絵を描いた フランスのルオー爺さんのように ね 7.倚(よ)りかからず ※73歳の作品 もはや できあいの思想には倚りかかりたくない もはや できあいの宗教には倚りかかりたくない もはや できあいの学問には倚りかかりたくない もはや いかなる権威にも倚りかかりたくはない ながく生きて 心底学んだのはそれぐらい じぶんの耳目 じぶんの二本足のみで立っていて なに不都合のことやある 倚りかかるとすれば それは 椅子の背もたれだけ 【私的コメント】 1.初めて読んだ時、ハンマーで頭を叩かれたようだった。“時代のせいにすることは自身の尊厳の放棄”…これ、ホント大事なことッス!(これは戦時中に生活から芸術・娯楽が消えていく中で思っていた事だそう) 2.まったくもって、その通り!! 3.これほど美しく、そして雄大な時の流れを感じさせる詩は他にないと思う! 4.照れ隠しで『あほらしい唄』と題名がつけられた、彼女の一番カワイイ唄。 5.最後の2行に圧倒された。生まれる前の時間、そして死後の時間の永遠を思うと、確かに死が“常態”であり、生きてる今は特殊状況下にある。それを「いとしき蜃気楼」という言葉で表現するとは…凄すぎデス。 6.1926年生れの茨木さんは、15歳で日米開戦、19歳で終戦をむかえた。 7.2006年2月19日他界。享年79歳。合掌。 |

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| フィルハーモニーホールの側のプーシキン像(2005) | モスクワ駅の近くにあるプーシキン像(2009) |
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| ペテルブルグのプーシキンの家 (2階)。決闘に敗れここで夭折 |
家のすぐ近くには美しい ロシア正教会が建つ |
近所を流れる雄大なネヴァ河。在りし日の プーシキンもこの夕陽を見ながら散歩したのだろう |
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| ロシア文学博物館にある彼のデスマスク | プーシキンが決闘で使ったピストル |
| 「人は誰でも失敗の前には凡人である」(プーシキン) 詩人、作家。ロシア語の美しさを作品に引き出したロシア文学の父。貴族の彼は10代後半から社交界を出入りするが、自由を愛する精神から地下革命運動に加わり反体制詩を書きペテルブルグを追放された。1820年(21歳)、長編詩『ルスランとリュドミーラ』を発表し脚光を浴びる。24歳、ウクライナのオデッサへ追放。そこでも上官と対立し公職を解かれ親の領地に追放される。26歳、史劇『ボリス・ゴドゥノフ』を脱稿(発表は6年後)。翌年、皇帝ニコライ1世は民衆の間に広がるプーシキン・ブームに押されて謹慎を解いた。 1831年(32歳)、近代ロシア小説の誕生となる韻文小説『エフゲーニー・オネーギン』を書き上げる。33歳で長編叙事詩『青銅の騎士』を、35歳で『スペードの女王』を、1836年(37歳)には『大尉の娘』を発表。名声が頂点を極める中、翌年妻を口説こうとした青年士官と決闘して撃たれ、これが致命傷となって2日後に絶命した。享年37歳。彼の早死にはロシアだけでなく人類全体の文化的喪失であり、プーシキンを撃った青年士官は絶対に許せない。この若者自身も、プーシキンの新作を二度と読めなくなるというのに、なんちゅう取り返しのつかないことをしてくれたんだ…! ※プーシキンの墓は両親が住んでいたエストニア近くのPskov(プスコフ)にあるという。早く巡礼したい〜! ※「プーシキンの言葉こそが唯一主要な聖物なのだ」(ゴーゴリ) ※「私は無学な人間です。これまでにわずかしか読んでいません。そして今プーシキンの本と出会ったわけです…ワーリニカさん、こういうこともあるんですね、こうして生きていながら、自分のすぐ近くに、自分の一生がすっかり事細かに書かれてる本があることを知りませんでした。それに、自分でもそれまで思ってもみなかったことが、そういう本を読み出すにつれて、何もかも少しずつ思い出しもするし、発見もするし、その謎も解けてくるといったことが!」(ドストエフスキー『貧しき人々』から) |
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