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| 1999 | 1999 | 2003 |
| 墓前の石碑に刻まれた、火の鳥、アトム、 リボンの騎士、BJ、手塚御大、ジャングル 大帝、お茶の水博士、ヒゲオヤジ!感動! |
「オロロ〜ン!」三十路男3人で大阪から上京し、夢にまで 見た手塚先生と感動の謁見!そして即、全員号泣! 周囲のセミを沈黙させた慟哭は、東京23区に響き渡った! |
4年後に再巡礼。もし先生が ご存命なら、今の世界を どう感じていらっしゃるだろう |
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| 先生が眠る總禅寺の山門。 住宅街の中にありちょっと分かりづらい |
2010年、7年ぶりに墓参! 冒頭に紹介した石碑(レリーフ)は墓の左手前にある |
右側は『陽だまりの樹』で 描かれた曾祖父・手塚良仙 |
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| いつも熱血!マンガLOVE! | ヒゲオヤジに扮する先生 | アニメ版アトムの制作風景 | 60年の人生を駆け抜けた |
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| 宝塚の手塚治虫記念館(2009) | て、て、手塚先生ッ! | 人気キャラが勢揃い |
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本名、治。60年というけっして長くはない生涯の間に700作品、17万ページに及ぶマンガを描き残した世界マンガ史の神様。
大阪府豊中市出身(後に兵庫県宝塚市に移る)。中学時代からマンガを描き始め、好きだった昆虫の中から、名前が似ていて害虫を食べる善玉虫のオサムシをペンネームに使う。手塚治虫の創作パワーの源、それは自伝的作品『紙の砦』にうかがい知れる。青春時代を過ごした戦時中の事が描かれており、「この非常時にマンガを描きやがって!」と軍人にリンチされたことや、空襲で火傷を負って川へ逃げると、川は既に地獄絵巻で「これ…みんな人間かい…人形の焼けたんじゃないのかい…」と絶句する場面等があり、最後の頁には終戦の知らせに氏が歓喜して「ウワーハハ!ぼくは生きてるぞ、生き延びたんだーっ!ウワーウワー!これからはマンガが描けるぞーっ!」と嬉し泣きしている場面が描かれている。マンガを描きたくても禁止されていた時代、いつ自分が死ぬか判らなかった時代、それらを体験したことが原動力(バネ)になって、怒涛の作品群を生むことになったんだろう。
悲惨な戦争体験から生命の尊さを学んだ手塚は、阪大医学部に進んで医学博士となり、医者の免許をとった。しかし、彼のヒューマニズムは愛してやまなかったマンガを通して発揮されることになる。氏は在学中からマンガの才能を開花させ、17歳で早くも新聞に4コママンガ『マアチャンの日記帳』を連載、世にマンガ家としてデビューした。翌年、劇的なストーリーと映画的手法を駆使して、従来の子ども向けマンガの常識を打ち破った長編『新宝島』を描き上げ、大ベストセラーになる。
1950年(22歳)、世間一般では文化的に低く見られていたマンガの地位を向上させるべく、ゲーテ原作の『ファウスト』を発表。その後もドストエフスキー作『罪と罰』(手塚は学生時代に劇団に所属していて、「罪と罰」の舞台にもあがっている)、シェイクスピア作『ベニスの商人』など、名作文学のマンガ化に積極的に取り組んだ。そしてこの年11月、初の本格的な長編連載作品『ジャングル大帝』の執筆を開始!
1952年(24歳)、後に氏の代表的作品となり、17年間にわたる長期連載となった『鉄腕アトム』を生み出す。アトムは11年後(1963年)に日本初の連続TVアニメとなり、先の『ジャングル大帝』は初の連続TVカラーアニメとなった。 〔以降の有名作品〕
1953(25歳)『リボンの騎士』…日本初のストーリー少女マンガ。瞳にキラキラと輝く星を描き込む少女マンガの定番は手塚氏によるもの。少年時代を宝塚市で過ごしたこともあり、宝塚歌劇の雰囲気が少女マンガに取り入れられた。
1954(26歳)『火の鳥』…『ジャングル大帝』の連載終了後に始まった。「テーマはいつの世にも変わらぬ人間の生への執着と、それに関連して起こる様々な欲の葛藤です」刊行当時、手塚氏はこの様に語っている。火の鳥(フェニックス)は永遠の命を持つ生命体。手塚氏は火の鳥の視点で人類の興亡を見つめ続け、「限りある命」を精一杯生きることの尊さや、生命そのものへの讃歌を、この後34年間に渡って描き続けた。物語は太古の昔から超未来へ続く全時代を舞台にしており、前代未聞の巨大スケールの大河マンガだ(あの「鉄腕アトム」ですら構想では「火の鳥」の一部だった)。
1965(37歳)『マグマ大使』
1967(39歳)『どろろ』『悟空の大冒険※アニメ』 1969(41歳)『海のトリトン』 1970(42歳)『ふしぎなメルモ』『時計仕掛けのりんご』 1972(44歳)『ブッダ』10年にわたる長期連載に。 1973(45歳)『ブラックジャック』『ミクロイドS』 1974(46歳)『三つ目がとおる』『紙の砦』
1976(48歳)『MW(ムウ)』『ユニコ』 1981(53歳)『七色いんこ』 1983(55歳)『アドルフに告ぐ』 1987(59歳)『ルードウィヒ・B』 1988(60歳)『ネオ・ファウスト』 マンガは子どもが読むものという偏見を変え、痛快な冒険活劇だけでなく、心の闇を描いた犯罪サスペンスも、文明批判や宇宙の深淵を覗くような哲学ドラマもある手塚ワールド。これらすべての作品の根底には、少年期の戦争体験で痛感した“生命の尊厳”がうたわれている。芸術家として、常に新しいマンガの表現方法を模索しつつ、様々な投稿ページの選者として、後輩マンガ家の発掘と指導に骨身を削った手塚治虫。疾走し続けたその人生は、1989年2月9日、胃ガンによって60年の幕を閉じる。最期の言葉は、「仕事をする。仕事をさせてくれ!」だった。
菩提寺の総禅寺は都電荒川線新庚申塚駅から近いものの、住宅街の真っ只中にあり、寺門も近くまで接近しないと分からないので、必ず地図で調べてから墓参しよう(線香代として100円入用)。墓地の中央付近に眠っており、墓石の側にはアトム、レオ、ブラック・ジャックなど有名キャラクターが掘り込まれた記念碑がある。手塚先生は知名度も高く、都内に墓があるので、さぞかし巡礼者が多いだろうと思いきや、巣鴨に墓所があることはあまり知られておらず(宝塚にあると思っているのかな?)、お盆や命日以外はあまり人が訪れないということだった。僕は墓前で手を合わせていると、手塚先生という巨大な銀河の渦の中に吸い込まれていく気がした。
(おまけ) 『鉄腕アトム』の“電光人間の巻”の名セリフを紹介。ロボット芸術博覧会の会場でお茶の水博士が「(人型ロボットとして)つくづくアトムは最大の芸術品だと思うね」と感嘆すると、スカンク草井が背後でこう呟く--「アトムは完全ではないぜ。なぜなら悪い心を持たねえからな」。善も悪もどちらでも行なえる状況にいるのが本当の人間で、“善を選択する”ことにこそ意味があるんだという、重く深いメッセージだ。(プログラムで善を選ばされるのではなく、自分の意思で選ぶことが重要!) NHK『手塚治虫・最後の講演』から…他界の3ヶ月前に小学校で子ども達に話した、文字通りのラストメッセージ。印象的だったのは漫画家になる前の話。氏が病院の研修医として働いていた時、担当した患者が臨終の瞬間に、それまで額にシワを寄せて苦悶していたのが、苦しみを全部忘れたようにコロッとすごく良い顔になったという。それを見て、宇宙全体が生命そのもので、患者はそこに帰った(在り方が変わった)だけで生命は繋がっていると実感したとのこと。そして生命の尊さを伝える為にペンを取り、ライフワークとなった『火の鳥』の中で、“この宇宙の何もかも全部が生命力を持っている。例えば星も太陽も地球もみんな生命力を持って生きている。あなたもその一部だ”と、不死鳥・火の鳥を通して人間やあらゆる生物を励ましたという。30分の講演の中で20回以上も“いのち”という言葉を子どもに繰り返した先生。数々の素晴らしい作品を本当に有難うございました。 |
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| 「お会いしとうございましたァーッ!」「もっと長生きして欲しかったですーッ!」 全国のファン約40名で一緒に巡礼!全員が線香をあげたのですごい煙に…! |

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| 1964年、オバQを発表した年に 先生が31歳で建立された |
先生!ドラえもんは、今や国境を越えて 世界中の子供に愛されています! (1999) |
約10年ぶりの巡礼。墓前の線香入れが 新しい形に変わっていた (2008) |
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| 可愛いドラえもんの花瓶 | 仁王さまのごとく線香入れの左右に立つドラちゃん | 四次元ポケットが名刺入れになっている |
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| 〔主な作品〕 1964年(31歳)『オバケのQ太郎』※翌年アニメ化 1967年(34歳)『パーマン』 1970年(37歳)『ドラえもん』※’79年にアニメ化 1971年(38歳)『21エモン』『ウメ星デンカ』 1973年(40歳)『ジャングル黒べえ』 1974年(41歳)『キテレツ大百科』 〔参考:安孫子の作品〕 忍者ハットリくん、怪物くん、プロゴルファー猿、まんが道、 笑ゥせぇるすまん、魔太郎が来る!! |
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| 豊島区椎名町5丁目の「花咲公園」に建つ “トキワ荘”の記念碑 (2010) |
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| 祥雲寺の山門 要町駅のすぐ近く | 手前に石ノ森キャラ、背後に2本の塔という未来チックな墓 2008 | 木洩れ陽の中の石ノ森先生 1999 |
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| 上にペンを持った先生、中心にイラスト、 下部の文字は“森羅萬象” |
SFヒーローものから、ギャグ、時代劇まで 24作品のキャラのレリーフがあり大賑わい! |
墓前にはギネスに認定された時の記事があった 「全集500冊770作品・漫画最多出版、ギネス入り」 |
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| サイボーグ009のメインキャラの横顔が彫られている | 傍らに立つ009、003、佐武と市、仮面ライダー | 加速装置の舞を奉納 |
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| 1956年 トキワ荘にて(18歳) | 60歳の死はあまりに早い! | 眼鏡を外した珍しい写真 |
| 1938年生まれ、宮城県石森町(現登米市)出身。本名、小野寺章太郎。森羅万象を描く“萬画家”と称した。子どもの頃、病弱の姉のために外で起きたことをイラストで見せていたのが萬画家人生の原点。 中学時代、「毎日中学生新聞」の4コマ漫画に入選し、マンガ雑誌にも投稿を重ねる。1953年(15歳)、『漫画少年』の投稿仲間と漫画研究会を結成し、漫画同人誌『墨汁一滴』を創刊。「宮城県に天才がいる」と漫画業界で噂になった。1954年、高2の春に手塚治虫から「シゴトヲテツダツテホシイ」とブッ飛ぶ電報が届き学校を休んで上京。アシスタントとして『鉄腕アトム』を手伝った。どのキャラも手塚タッチでさらりと描き上げ、その実力に手塚は仰天したという。同年暮れ、『漫画少年』誌上にて「二級天使」で連載デビューを飾る。1956年、高校卒業と同時に、手塚治虫、藤子不二雄、赤塚不二夫らマンガ家が住むトキワ荘に5年間入居する。 ※石ノ森はトキワ荘の男性マンガ家では最年少。手塚の10歳年下、藤子・F・不二雄の5歳年下、藤子不二雄?の4歳年下、赤塚の3歳年下。 1958年(20歳)、石ノ森の最大の理解者で、活動をずっと応援してくれていた優しい姉が病死。翌年、東映動画の劇場アニメ『西遊記』の制作現場に、手塚の代理として参加。これが縁となり、東映は後に石ノ森の原作で特撮ヒーロー作品を作るようになる。 1961年(23歳)、各出版社から原稿料を前借して70日間の世界旅行に出かけ、人生の見聞を広げる。この体験は1964年(26歳)から連載を開始した代表作『サイボーグ009』に結実。作中では世界各地から集められた9人が、国籍や人種の違いを超えて悪と戦った。同年、手塚が仲人となって結婚。 1967年(29歳)、明瞭なストーリーを持たず、絵とコマ運びで美しい詩情を表現した実験的作品『ジュン』を連載開始。この作品は読者から絶賛されたが、“ストーリー命”の手塚は読者への手紙で「あれはマンガではない」と斬り捨てた。落ち込んだ石ノ森は連載打ち切りを宣言。これを知った手塚が夜半に石ノ森のもとを訪れ「君に嫉妬していた」「なぜあんなことを言ったのか分からない」と謝罪した。これを受け、石ノ森は『ジュン』の連載を続ける。 1968年(30歳)、石森章太郎プロを設立。大人向けの時代劇『佐武と市捕物控』では、画面のコマ割りバリエーションの可能性の限界に挑む。同作と『ジュン』により第13回小学館漫画賞を受賞。 1971年(33歳)、仮面ライダーを生み出し大ブームを起こす。翌年に「人造人間キカイダー」、1975年(37歳)には現在まで続く戦隊ヒーローの元祖『秘密戦隊ゴレンジャー』を創作した。1981年(43歳)、日本漫画家協会理事に就任。 油がのりきった1984年(46歳)、デビュー30周年を機に初心に戻る意味で“石ノ森”に改名(故郷では石森をイシノモリと読む)。1988年(50歳)、「マンガ日本経済入門」で、大人向けの教養マンガという新しいジャンルを切り開き、翌年、マンガ芸術はあらゆる事柄を表現できることから「漫画は萬画である」と“萬画宣言”を行なった。 1998年、心不全により60歳で逝く。戒名は「石森院漫徳章現居士」。没後、勲四等旭日小綬章が贈られた。最終章の構想がまとまっていた『サイボーグ009』を完成したいと最後まで願っていた。45年間の萬画家生活で描き上げた原稿は12万8千枚。アシスタントには後に大成する永井豪や竹宮惠子もいた。石ノ森はファンを大切にし、もらったプレゼントはどんな些細なものでも大事にとっていたという。 他界から2年後の2000年、故郷の宮城県登米市中田町石森に「石ノ森章太郎ふるさと記念館」が建ち、2001年には宮城県石巻市に「石ノ森萬画館」が開館した。2008年、全500巻770作品という途方もないスケールの『石ノ森章太郎萬画大全集』により、「1人の著者によって出版された最多コミック記録」としてギネスに認定される。 ※石ノ森の猛烈な創作スピードは有名で、藤子不二雄は『まんが道』に、自分たちは一日に2人で5、6枚しか描けないのに、石ノ森は15〜20枚も描いていたと描写。赤塚が手伝ってくれたトキワ荘時代は月650枚も描いていたという。後年は、石ノ森いわく「最近では歳だから300枚でフウフウいう」。 ※主な萬画作品 サイボーグ009(1964) さるとびエッちゃん(1965) 佐武と市捕物控(1966) 仮面ライダー(1971)※主題歌を作詞 人造人間キカイダー(1972)※主題歌を作詞 変身忍者 嵐(1972) イナズマン(1973) がんばれ!!ロボコン(1974)※主題歌を作詞 秘密戦隊ゴレンジャー(1975)※主題歌を作詞 HOTEL(1984) マンガ日本経済入門(1986) マンガ日本の歴史(1989) 特撮原作として、「宇宙鉄人キョーダイン」「大鉄人17」「快傑ズバット」「仮面ライダー」「仮面ライダーV3」「仮面ライダーBLACK」など。テレビドラマ原作に「がんばれ!レッドビッキーズ」。他に「キカイダー01」主題歌、「新サイボーグ009」主題歌(誰がために)などを作詞。「仮面ライダー」や「イナズマン」等に釣り人役や爆弾犯役などでカメオ出演している。 ●墓巡礼記 墓は池袋から一駅、要町駅に近い祥雲寺にあり、本堂裏手の壁際に眠っている。墓石の傍らにはサイボーグ009や仮面ライダー、キカイダー、猿飛びえっちゃん等24作品のキャラクターのレリーフが建つ。あれなら絶対に寂しくないと思う。墓石の色はレッド・ブラウン。魅入ってしまうほど美しい色だった。墓前に「全集500冊770作品・漫画最多出版、ギネス入り」と記録が認定されたことを記した新聞が供えてあった。 |

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アメリカの漫画家で人気漫画『ピーナッツ』の作者。1922年、米国北部のミネソタ州ミネアポリスに生まれる。父はドイツ系移民で貧しい理髪師。シュルツは子どもの頃から絵が得意だった。小学生の頃、クラスで仲間外れにされた事があり、味わった孤独感が後に内気な“チャーリー・ブラウン”を生むことになる。13歳の時に飼い始めた雑種犬「スパイク」はとても賢く、またユニークな行動をとることから、後年スヌーピーのモデルとなった。高校卒業後、通信講座で漫画の描き方を学ぶ。1943年(21歳)、母が病死。第2次世界大戦末期に招集されてヨーロッパ戦線に送られた。
戦後は美術学校に就職。新聞へ漫画を投稿し続けた結果、1947年(25歳)、地元紙に『リル・フォークス』(『ピーナッツ』の前身)が掲載された。主人公の名前“チャーリー・ブラウン”は職場の同僚の名前から付けられた。3年後(28歳)、漫画配給会社が『リル・フォークス』を買い上げ、タイトルを『ピーナッツ』に変更し、1950年10月2日に全米8紙で配信した。チャーリー・ブラウンと妹のサリー、愛犬スヌーピー、小鳥のウッドストック、友達のルーシー、ペパーミント・パティ、マーシー、“セーフティ・ブランケット”を持つライナスなど、個性的で可愛いキャラクターは一気に人気者になった。 ルーシー 「時々、あなたはどうして犬なんかでいられるのかと思うわ…」 スヌーピー 「配られたカードで勝負するっきゃないのさ…。それがどういう意味であれ」 登場キャラはウィットに富み、大人顔負けの達観した人生論を披露する。日常の様々な試練をしのいでいく姿が共感を呼び、掲載誌は増え続けた。 1955年(33歳)、米国漫画界の最高の栄誉“リューベン賞”を受賞(64年にも受賞)。1967年(45歳)、『ピーナッツ』がミュージカル化され、タイム誌の表紙をチャーリー・ブラウンらが飾った。1978年(56歳)、国際漫画家賞を受賞。1984年(62歳)、『ピーナッツ』の掲載誌が2千誌となりギネスブックに認定。1990年(68歳)、“あの”ルーブル美術館で回顧展が開催されフランス芸術勲章を受章。最終的に『ピーナッツ』は21カ国語に翻訳され、掲載紙は75カ国2600以上、読者数3億5000万人に達した。
1999年、大腸癌のため現役引退を表明。その3ヶ月後の2000年2月12日、カリフォルニア州サンタローザの自宅で心臓発作により他界した。享年77歳。『ピーナッツ』は1400冊に達し、テレビアニメ(エミー賞を受賞)は50本を超えた。シュルツは売れっ子になってもアシスタントを使うことなく、最後まで自分の手で描き続けたという。死の翌日、『ピーナッツ』日曜版の最終回が掲載された
※ハリウッドのウォーク・オブ・フェイムにもシュルツの名が刻まれている。
※チャーリー・ブラウンが惚れている“赤毛の女の子”は、かつてシュルツが失恋した相手がモデル。
※1969年、アポロ10号はスヌーピーのぬいぐるみを乗せて月に向かい、指令船は「チャーリー・ブラウン」、月着陸船は「スヌーピー」と名付けられた。
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| 現地の警官ケインと、奇しくも僕が乗ることになったパトカー |
| ネットが普及する前、海外の墓巡礼は“聞き込み調査”が基本だった。多くの著名人は母国の首都に眠っているので、まずは首都の観光局で情報を収集。次に故人ゆかりの記念館(大抵は生家)に足を運び館長に聞き、さらには終焉の地で警察署を訪れ、葬式のあった教会を教えてもらい、そこで手がかりを得ることも。 チャールズ・シュルツさんが2000年2月に他界した際、新聞記事に「サンタローザの自宅で死去」とあった。訃報の5ヶ月後、僕はその情報だけを頼りに渡米し、サンフランシスコからローカル・バスに乗り、約70km北のサンタローザ、セバストポルに到着した。 この巡礼は一生忘れられないものになった。バス停で住民から警察署を教えてもらい、約10分で着く。さっそく警察で質問すると、幸運にも担当警官は埋葬された墓地を知っており、コピーした地図に赤丸を入れ渡してくれた。重いバックパックを預かってもらい、車道を歩くこと30分。汗と埃にまみれようやく目的の墓地に到着。 約300m四方あり、自力で探すのは困難と判断し管理人事務所へ。扉には「本日不在。用のある方は電話を」の張り紙。周囲に公衆電話なんてない。腹をくくってローラー作戦を開始するも、2時間かかっても一向に見つからない…。 グッタリしていると、墓地の広場で子ども達がキャッチボールを始めた。彼らいわく「シュルツさんのお墓はこの町だけど違う墓地だよ」。ドッカーン!フラフラになって警察署に戻ると、先ほどの警官がいた。名前はケイン。僕が「ユー!ミステーク!」と涙目で訴えると、ケインは調べ直して「悪かった。確かに違う墓地だった」。そして「ちょっと待っとけ」と署の前にパトカーを横付けし、「送ってやるから乗れ!」。 嬉しかったけど、シスコに帰るバスの時間まで1時間を切っていた。事情を話すとケインは一言「ノー・プロブレム」。頭上で回転灯が点滅しサイレンが鳴った!これにはたまげた。急発進し、助手席でダッシュボードにしがみ付いた。 |
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| シュルツさんの墓とパトカー | お花がいっぱい。スヌーピーとウッドストックもいた(墓標の左端) |
| 「キキーッ!」音速で墓地に着くと、管理人のおじさんが正門で待っていた(いつの間にか署から連絡していたようだ)。ケインは後部座席に管理人さんを乗せると、すぐさまナビゲートさせて、45秒でシュルツさんの墓前へ!かわいらしい花束と共に、小さなスヌーピーの人形が供えてあり、涙腺が決壊寸前に。シュルツさんは作品を通して、気楽に生きるための人生哲学、肩をすくめて不運をやり過ごす生き方を教えてくれた。「素晴らしい作品を有難うございました!」。しばし、ソウル・トークに突入。 |
| まさかのアメリカ留置場体験 |
「泣く真似をしろ」と脅迫された(笑) ※ケインが撮影 |
| 帰りもパトカーに乗ったので時間に余裕ができ、車内で「映画を見るとよく留置場が出てくるけど、どんな所?」などと聞いていたら、署に戻ったケインがニヤリと笑い「お前はラッキーだ。今からスペシャル・ツアーを行なう!」と宣言、署内の奥へ奥へと連れて行き留置場の前へ(他の警官はあっけにとられていた)。そして“シャレ”で僕をブチ込むと「カメラを貸せ、さあ泣け、ちょい左だ、ようしナイス・ショット!」とシャッターを切った。さらに「この写真を今からお前の両親に送る。保釈金100万ドルを俺の口座に振り込むよう伝えろ」と“脅迫”。2人で大笑い。僕はまさか生きているうちに、アメリカで本物の留置場に放り込まれるとは夢にも思わなかった。ホント、人生って何が待ってるか分からない。 |
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| 約10年ぶり。お久しぶりですシュルツさん! | 今回はパトカーではなくレンタカー | 墓の前にスヌーピーたちが描かれた大型ベンチが登場! |
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| 墓参後、懐かしの警察署へ。10年経ってるし、 きっとケインは異動してるだろうなぁ |
警察署の玄関ロビーにあった集合写真 |
右端のこのドッシリ 体型はもしや!? |
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| ケインだったーッ!運良くちょうど署内にいたので再会できた!奇跡!パトロール中や非番なら会えなかったところ。「僕を覚えてますか?」 「オフコース!クレイジー・ボーイ!」。“クレイジーはお互いさま”と思いながら握手。「パトカーで誰かを墓まで連れて行ったのはあれっきりだ。 忘れるはずがない」とのこと。歓談後、別れ際にケインいわく「それじゃ、10年後にまた来いよ」。ラジャー、大将もその時までお元気で!! |

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| 2001 | 2005 | 陽射しでポカポカ |
| 『のらくろ』の作者田河水泡(本名:高見澤仲太郎)は、戦前の人気ナンバーワン作家。のらくろ人形が墓に寄り添っていた。のらくろは旧日本軍2等兵。マンガの内容が“軍隊を茶化している”との理由で軍部の圧力がかかり、1941年に連載中止へ追い込まれた。“皇軍兵士が犬畜生とは何事か!”というのも理由のひとつ。作品中には上官を批判する場面も出てくる。象を殺せと命令されたのらくろが「上官の命令だから仕方がない」と言うと、象から「お前の上官は自分の退屈しのぎの為に罪も無い象を殺し、部下を何人も怪我させてるのか」と説教される。“上官の命令は陛下の命令”とされていたあの時代に、こうしたセリフを書くことは勇気のいることだった。 ※小林秀雄の妹さんと結婚した。落語作家としてのペンネームは高沢路亭。 |

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| 1999 サザエさんの作者! | 2002 ドグサレ漫画家・S氏の熱い祈り |
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| 2004 春 | 2005 秋 |
| だんだん左右の植木が迫ってきてる。墓前には海を割ったモーゼの気分でたどりつく | |
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佐賀県出身。早くに父を亡くし、母と姉妹3人という女性4人の家庭に育つ。16歳の時に家族で上京し、母は漫画が好きな次女町子を『のらくろ』の作者田河水泡に入門させた。内弟子となった長谷川はすぐさま才能を開花させ、10代で「少女倶楽部」にデビューする。戦時中は福岡に疎開し、西日本新聞社絵画部に就職。1946年(26歳)、浜辺を散歩している時にアイデアを思いついたことから、キャラクター名を海の幸にした『サザエさん』を夕刊に連載する。磯野サザエは最終回で結婚し、フグ田サザエになった。28歳、長谷川家は再度上京。翌1949年、一度最終回を迎えた『サザエさん』が、新たに全国紙(朝日新聞)に連載されることになり、その後1974年2月まで25年間も長期連載されることとなった。フグ田サザエは24歳の若奥様。庶民の立場で戦後の焼け跡から復興していく日本と共に人生を歩む過程は「24歳の主婦の目で見た戦後史」と評された。1969年からはアニメとなってお茶の間に登場し、日曜夕方という放送時間(30年以上放送!)もあって、最もポピュラーな漫画となった。1966年(46歳)から5年間連載された『いじわるばあさん』も青島幸男主演でテレビドラマ化された。57歳、『サザエさん旅歩き』を発表し第一線から引退するが、1979年(59歳)に『サザエさんうちあけ話』がNHKの朝ドラで『マー姉ちゃん』のタイトルでドラマ化されている。1992年、72歳で永眠した。紫綬褒章、勲四等瑞宝章、国民栄誉賞の他、数々の賞を受賞した。遺言に「葬儀・告別式はせず、密葬。納骨が終わるまで公表しない」とあり、死の一ヵ月後の納骨時に知らされた。
お墓は広大な敷地の多磨霊園のメインストリート“名誉霊域通り”に面している。墓石の正面には十字架が掘り込まれていた。 ※死の翌年、遺骨が多磨霊園から盗まれ、遺族に数千万円を要求する事件があった。骨壷は数日後に、JR渋谷駅のコインロッカー内から無事見つかった。犯人のアホウ!
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| 島根県松江市出身。23歳の時に「毎日小学生新聞」に『がんばれゴンベ』を連載しプロデビュー。ほのぼのキャラで庶民の 喜怒哀楽を描き、アニメ化された『ギャートルズ』で人気を決定付けた。没する半年前に肝臓が癌に冒されていることが分か り、『ペエスケ』を連載3764回で最終回に、そして『がんばれゴンベ』を連載9775で最終回にした。30年連載したマンガを、 癌という理由で、最終回を描かねばならなかった無念さは察するに余りある。亡くなる10日前に親友の藤子不二雄A氏が 見舞った際、右手で宙にペンを走らせる仕草を見せ、絞り出すような声で「マンガが描きたいんだよう」と訴えたという。マンガ を愛しまくっていた。 |
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| 1999年 岡本一平&かの子の墓は息子の岡本太郎(左)と向き合っている |
2004年 墓の上に太郎作の母親像が載っている |
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| 雨の夜に墓参したらちょっと怖かった… コレ、写真の角度が悪かったのかな? |
1930年元旦、欧州へ向かう船上にて。 一平(44歳)、太郎(19歳)、かの子(41歳) |
こちらは太郎の墓。見れば見るほど 幸せな気分になってくるッス! |
| 北海道函館生まれ。大正から昭和にかけて活躍し、当時は「総理の名は知らなくても一平の名を知らぬ者はいない」と言われるほどの人気ぶりだったという。東京芸大西洋画科を出て新聞のマンガ記者となり、マンガに解説文を添えた「漫画漫文」というスタイルを確立し、現代マンガの開祖になった。漱石は一平の作品が風刺や皮肉をベースにしながらも、まったく不快感を与える部分がないことを指摘し、「今の日本の漫画家にあなたのやうなものは一人もない」「(文章も)大変器用で面白く書けています」と大絶賛。漱石のエールは一平を大いに奮い立たせ、筆はますます冴え渡っていった。 日頃から一平が「満足できる仕事をしてきたので、死ぬことは凱旋だ」と語っていたことを受け、息子の太郎は葬式の出棺の際に「父の晴の出発だから岡本一平万歳を三唱して下さい」と呼びかけ、参列者は万歳で見送った。非常に感動的な光景だったという。 一平&かの子の墓は仲良く並んでいおり、息子の太郎の墓は両親と向き合う形で建っている。太郎の墓には『午後の日』と呼ばれる彼の彫刻が墓石として置かれ、太郎が両肘をついて両親の墓をニコニコと眺めているように見える。この3人の墓の中心に立つと、何とも言えない温かい空気に包まれる。 一平の墓にも彫像があり、こちらは太郎が制作した母『かの子像』が原型になっている。かの子の墓だけは彼女が信仰していた観音菩薩像が置かれている。一平はかの子を聖観音と思っていた。 岡本家墓域の中央には、川端康成が太郎の著書『母の手紙』に寄せた序文から、岡本家を紹介した文章が刻まれた碑文が建つ。 「岡本一平、かの子、太郎の一家は、私にはなつかしい家族であるが、また日本では全くたぐい稀な家族であった。私は三人をひとりびとりとして尊敬した以上に、三人を一つの家族として尊敬した。この家族のありように私はしばしば感動し、時には讃仰した。一平氏はかの子氏を聖観音とも見たが、そうするとこの一家は聖家族でもあろうか。あるいはそうであろうと私は思っている。家族というもの、夫婦親子という結びつきの生きようについて考える時、私はいつも必ず岡本一家を一つの手本として、一方に置く。この三人は日本人の家族としてはまことに珍しく、お互いを高く生かし合いながら、お互いが高く生きた。深く豊かに愛し敬い合って、三人がそれぞれ成長した。古い家族制度がこわれ、人々が家での生きように惑っている今日、岡本一家の記録は殊に尊い。この大肯定の泉は世を温めるであろう。」 |
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| 一平が描いた漱石の絵。黒猫は“我輩”か? |
墓所の中央には川端康成が 岡本家について記した碑文があった |
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| 「緑の風の中の少女」 | 「わらびを持つ少女」 |
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| 本名は松本知弘(旧姓岩崎) | 「お会いしたかったです!」02年夏、最高の思い出! | ちひろさんスマイル |
| 描かれた子供の表情を見つめているだけで、理由もなく泣けてくる絵本作家なんて、滅多にいるもんじゃない。有名な『あめのひのおるすばん』『ことりのくるひ』も素晴らしいけど、彼女が死ぬ間際に執念で完成させた『戦火のなかの子どもたち』が最も心に残る。立ち尽くす子供の瞳が描かれてるだけで、声高々に反戦を叫んでいないのに、あんなにも胸を締め付けられる本は他にない。彼女は8000点の作品を僕らに残し、55歳で亡くなった。55歳、若すぎるよ…。 ※すぐ近くに尾崎豊のお墓があります。 |
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| 世界の人に愛されるムーミン一家 | 優しい笑顔のヤンソンさん |
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| 5階にヤンソンさんのアトリエがあるとのこと。以前は 見学可能だったが、2009年は残念ながら非公開になってた |
アトリエの建物の正面ドアの近くに、ヤンソンさんを称えるプレートがある (ヘルシンキのデザイン・ミュージアムの隣デス) |
親族が今も部屋を 借りているらしい |
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| ちなみにヤンソンさんのアトリエの徒歩圏内に、映画で有名な 「かもめ食堂」がある。※窓ガラスに日本語で“かもめ食堂”! |
定食の魚料理が美味しい。値段は 控えめなのに量がめっさ多い! |
映画に登場したシナモンロールと “コピルアック”呪文入りコーヒー(笑) |
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| ヤンソンさんは墓地の奥の方に 眠っていた! (2009) |
木々が生い茂り鳥の飛び交う美しい墓地。 墓前にいるだけで気持ちが落ち着く 動画12秒 |
父親はフィンランドの彫刻家ヴィクトル・ヤンソン。墓石の上には玉乗りする 子どもの彫刻があった。墓標にはヤンソン一族の名前が四方に刻まれている |
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| 墓地の周囲を散策すると、赤、白、黄色のチューリップが咲いていた♪ |
「トーベに会いに来たのか〜!」 墓地の陽気な庭師さん |
警戒心が強いリスは人間が近づくと逃げるのに、 この墓地のリスは、なんと指先をクンクンしに きた!そんなリスは他国の墓地で見たことない |
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| 「やっとお会いできました」 しばし、ヤンソンさんに感謝を伝える |
市内のエスプラナーデ公園には父ヴィクトルが彫った 人魚像がある。幼い頃のトーベがモデルとのこと |
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| ヘルシンキ中心部のホテル・ケンプ(KAMP)の1階に、国内最大のムーミン・グッズ専門店がある!360度ムーミン・キャラ。時間を忘れて入り浸ってしまう |
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| ファンの財布には危険な店。その気になれば生活用品のすべてをムーミン・キャラで揃えられるため、気がつけば“ムーミン破産”になりかねない |
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トーベ・ヤンソンはフィンランドの画家、作家。ヘルシンキ生まれ。スウェーデン系フィンランド人であり、スウェーデン語で執筆活動を行なった。父は彫刻家のヴィクトル・ヤンソン。母も画家という芸術家一家。この土壌もあって、弱冠15歳で政治風刺雑誌『ガルム』の挿絵を描く早熟ぶり。初の個展は1943年(29歳)。翌年、『ガルム』の挿絵にムーミンの原型となるキャラクターを載せ始める。
1945年(31歳)、架空の動物ムーミントロールを主人公とするシリーズ第1作、短編小説『小さいトロールと大洪水』で童話作家・挿絵画家としてデビュー。続けて1946年(32歳)、『ムーミン谷の彗星』を刊行する。その後、1948年(34歳)『楽しいムーミン一家』、1950年(36歳)『ムーミンパパの思い出』、1954年(40歳)『ムーミン谷の夏まつり』、1957年(43歳)『ムーミン谷の冬』、1962年(48歳)『ムーミン谷の仲間たち』、1965年(51歳)『ムーミンパパ海へいく』と立て続けに作品を発表した。
1966年、52歳の時に国際アンデルセン賞作家賞(大賞)を受賞し、世界的に広く知られるようになる。この3年後(1969年)に、日本でムーミンが初めてアニメ化。翌1970年(56歳)に、小説としてはシリーズ最後となる『ムーミン谷の十一月』を書き上げ一区切りをつけた。
同シリーズは広く愛され、既に30カ国語以上に翻訳されている。特に日本では、1972年、1990年と3度にわたってアニメ化されるほど高い人気を呼び、そのアニメが海外で放送されることで新たなファンを生んでいる。1984年、フィンランド国民文学賞を受賞。母国フィンランドでは画家としての評価も非常に高い。
パートナーはムーミン・シリーズの“おしゃまさん”ことトゥーティッキーのモデル、グラフィックデザイナーのトゥーリッキ・ピエティラ。2人は約30年間、夏期になるとバルト海のクルーヴハル島で生活し、そこで数々のムーミン・シリーズが誕生した。2001年にヘルシンキにて他界。享年86歳。 |
●小説『ムーミン谷の十一月』は最高ッス!! ムーミン・シリーズの最終巻。この作品は最終巻なのに、なんとムーミンを始め、パパ、ママ、ミイ、スニフ、スノークのお嬢さん(ノンノン)が出て来ない!主要キャラがみんな旅に出てしまったムーミン谷を舞台に、普段は目立たない脇役達の初冬の生活を描いてるんだ。なんて渋い設定なのか(スナフキンは出てくるよ♪)。登場キャラは皆が孤独で、ムーミン家に暖かさ、優しさを求めてやって来るんだけど、肝心のムーミンたちは留守。皆ションボリ。 その後、がっかりした者同士が集まって共同生活を始めるんだ(ムーミン屋敷の鍵はいつも開いている)。皆、個性的で一癖あるから最初は喧嘩ばかり。でも、ムーミンたちが帰ってくるまでに屋敷を大掃除してあげようという事になってからは、共同作業を通して目に見えない結びつきが生れていくんだ。それぞれが胸に抱えていた問題がゆっくりと浄化され、ムーミン家に元気をもらわなくても一人で立つことが出来るようになる。 ムーミン谷に残っていた住民は、まさしく読者の僕たちだ。ムーミン・ファンはどちらかというと内気でシャイな人が多い。辛いことがあると、ムーミン家に癒されたくて、本のページを開く。ところが、ムーミンを頼ってやって来たら、彼らは留守で登場しない。これに最初は戸惑う。“癒して欲しいのに、どうしたらいいんだろう”。ヤンソンさんはなぜ最終巻でムーミン家を留守にしたのか。おそらく、ヤンソンさんは読者の皆に、「もうあなた達はムーミン家がいなくても、自分の足で歩くことが出来るのよ。自分の力を信じて!」と語りかけているんだと思う。僕はそんなメッセージを受け取った。 大掃除が終わった時の描写が実に良い。「皆は揃ってベランダの前の階段に腰掛けました。夜になると、とても寒くなりました。でも、皆、何となく別れるのが名残惜しくて、それに、今まで皆で一緒に暮らしてきた生活が懐かしくて、寒くなっても立とうとしませんでした」。誰も“さあ解散しようか”って言い出せない。こういうシーンはたまらないッス。
スナフキンは別格として、僕が一番好きなキャラはホムサ。小柄な彼はいつもだぶだぶのコートを着込んでいて、海岸の半分放棄されているボートにひっそりと住み、夜、眠る時には、ちんまりと丸まって、自分で作ったお話を自分に聞かせている。それも毎晩同じ物語ばかり。人見知りなホムサは休みなく降り続く雨の音が大好きで、ちびちび虫(要するに小さな虫)の生態に関心がある。この物静かで孤独なキャラの、一挙手一投足がたまらなく愛おしい。 ムーミン・シリーズを読んでいると、翻訳もアートだとつくづく思う。スウェーデン語の原著を、下村隆一、山室静、小野寺百合子、鈴木徹郎という4人の訳者が翻訳していて、各人がムーミンの世界観に合った日本語をチョイスしている。中でも『ムーミン谷の十一月』を担当した鈴木氏の訳は詩心大爆発。その言い回しは、まるで文字を読むというより音楽を聴いているようだ。雪に閉ざされたムーミン谷の朝は『ほんとに谷間は、とまどうほどひっそりと美しく、静まり返っていました。そして残った人たちは、あまりしょっちゅうは顔が合わない為に、かえって親しみが深まっていきました』。裏山は『この森の中は年中、昼でも暗いのです。木々は枝の置き場もないほど混み合っていて、心配そうにくっ付きあって立っていました』。 寂しい響きの言葉の積み重ねが物悲しさを深める。例えば新書版の238頁。 この頁の15行だけで「割れて」「小さくなって」「どぎまぎ」「ちびちび虫」「引き返して」「屋根裏部屋」「そっと」「ちんまり丸まって」「皆が引揚げて」「あとに残った」「げんなりした」「踏みつけられて」「床に落ちていた」「また雨が降り出して」とこれだけ陰のあるフレーズが出てくる。別頁には「何だか急に、夏なんてずっと遠くへ行ってしまって、一度だって来たことがなかったような気さえします」というのも。そして心地良い 一方、フィリフヨンカの掃除シーンは超爽快。『フィリフヨンカはどんなゴミが隠れている所でも、ちゃんと知っていました。ゴミ屑はふわふわした灰色の固まりになって、方々の隅っこにちゃっかり収まっていました。ころころ転がっていくうちに、大きく太って、髪の毛だらけになり、絶対に見つかりっこないと安心しているゴミというゴミを、フィリフヨンカは片っ端から掃き出しました。愉快愉快。蛾やら、蜘蛛やら、ゲジゲジやら、もそもそ這いずり回っている虫けらどもが、皆フィリフヨンカの大きなほうきにかかって、引っくり返され、そこの所へザーッと石鹸の泡をブクブク立てた、洪水みたいなお湯が流れてきて、すっかり洗い流してしまうのです。バケツに入って次々とドアから表に運び出されていくゴミの山も、ちょっとやそっとのものではありませんでした。人生って、まあ本当に、なんて楽しいんでしょう』…なんか読んでるだけで、部屋をパーッて掃除したくなる! 味わいのある挿絵と心に浸みるストーリー、素晴らしい翻訳で紡がれた『ムーミン谷の十一月』。なんて楽に呼吸ができる世界なのかと、読み終えるのが惜しくて仕方なかった。(*^v^*) ※『ムーミン谷の十一月』(Ama ) |
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| ヘルシンキの地下鉄構内で見かけた「ムーミンワールド」のポスター。夏期限定でオープンするムーミンのテーマパークだ |
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| 島がひとつまるまるムーミン谷になった「ムーミン ワールド」。なんとムーミン屋敷に入れる!(2005) |
日本のアニメが逆輸入されて空前の大ブーム。 「ムーミンワールド」は西海岸ナーンタリにある |
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| 池から聞こえるハーモニカの音色! 哀愁のスナフキンを発見! |
トーベは遺言で海への散骨を希望した。遺灰は 沖合いの海と首都の墓地に分骨された可能性が高い |
| ※特集ページ〜『ようこそムーミン谷へ!』 |
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| 写真は共に、左が弟・ヴィルヘルム、右が兄・ヤコブ |
| 『白雪姫』『赤ずきん』『灰かぶり(シンデレラ)』『ヘンゼルとグレーテル』『ブレーメンの音楽隊』など、ドイツに伝わる民話をまとめる。 この2人は単なる童話作家ではなく優れた民俗学者でもあり、民衆に権力を振りかざす横暴な国王には、弾圧覚悟で抗議文を 送りつける勇気ある兄弟だ。グリムは正確には6人兄弟。兄ヤコブは生涯独身で弟のヴィルヘルム夫妻と同居していた。 |
| 「今日も我らに日々のパンを与えたまえと言った後で、お前はなんて言ったの?」 「お母さん、怒らないでね」 と、小さな女の子は言いました。 「あたし、お祈りしたのよ。パンにバターもたくさん付けてくださいまし、ってね!」 〜アンデルセン/絵のない絵本(第三十三夜) |

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| 1994 墓石が生垣に埋もれ、 発見に膨大な時間を要した |
15年後に再墓参!この時は墓地の中に 彼の墓まで道標があり助かった(2009) |
コペンハーゲン駅から トラム1本で来られる |
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| とてもシンプルな墓標だ |
墓前に黄と赤のバラが供えられてた |
市内のアンデルセン像。子供が 遊ぶチボリ公園を見つめている |
コペンハーゲンの「人形姫」像。シンガポールのマー ライオン、ベルギーのションベン小僧と並ぶ“世界 3大ガッカリ”とされてるけど、結構良いデキと思う |
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| 『不思議の国のアリス』を後世に残す |
アリスのモデルとなったALICE LIDDELL。 この写真はキャロル自身による撮影 |
| ロンドンから鉄道を使って日帰りで行ける。墓地は小高い丘を上るので息切れに |
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| 経済優先の社会に警鐘を鳴らした |
墓地へ入った瞬間、無意識に深呼吸をした!ここは森林墓地と呼ばれており、天に向かって木々が 生い茂っている。右写真では樹木の間から墓石がいくつか見えているが、指摘されなければ墓地だと 分からないと思う。そこいらじゅうにリスが走り回っているし、こんなに酸素が多い墓地は他にない! |
| エンデもここならゆっくりと落ち着ける と思う。時間泥棒もやって来ない |
本の形をした墓石を、フクロウ、亀、ユニコーン、カタツムリが読んでいた。ファンタジーを感じる良い墓だ。 『はてしない物語』の翻訳者、佐藤真理子と結婚。父はシュールレアリスム画家のエドガー・エンデ |
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| 「う…美しい」。墓地への道すがら。英国は平地が 多いのでスカッと視界がひらけている |
フギャ!あの中から探し出すのか。大変だ… |
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| なんて親切な墓地!要所要所に「トール キンの墓はこっち」という矢印があった |
こんなのがたくさんあった! |
うお、あのすごい人だかりはもしや!? |
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| 「トールキンだ!」しかし、ちょうど日陰に なっていたので太陽が移動するのを待つ |
30分後、完全に墓石に陽が当たるようになった! 「はじめまして、トールキンさんッ!」 |
右側から見るとバラがいっぱい。見る 角度で墓の印象が全然変わってくる |
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| この写真は海外の墓サイトにアップされて いた2001年当時の墓。僕は彼の背後に ある黒い墓石を目印にしてたんだけど--- |
今回行ったら倒れていた!もしトールキン の墓への案内板がなく、写真だけを頼りに 探していたら、何時間かかっても見つから なかっただろう(こ〜ゆ〜ことはよくある) |
| ●サイト読者のNIKEYさんから以下のような情報を頂きました!トールキンの言葉にグッときました! ---------------------------------------------------------------- 「ファンタジーは逃避である」という意見に対して、ゲド戦記の作者ル=グウィンは1974年のエッセイ「エスケープ・ルート」において、トールキンの言葉を「最上の答え」として引用した→ 「文芸批評の埒外にあってこの言葉を用いるときに、この言葉に軽蔑や憐憫の響きを込めることにおいては、通常『逃避』はとても実用的であり、英雄的なものですらあることははっきりしている。実生活においては、逃避が成功すればするほど悪く思われるように見受けられる。我々は、明らかに言葉の誤用に、また同時に思考の混乱に直面しているのである。 もし、ある兵士が牢獄の中にいることに気づき、脱獄して家に帰ろうと試みたからといって、どうしてその人が軽蔑されなければならないのだろうか?『逃避』という言葉をこのように用いる批評家たちは、言葉の選択を過ったのだ。ヒトラーの支配した国家社会主義ドイツであろうと、国家支配の悲惨な状況から逃げることに『逃亡』のレッテルをはりつけ、その体制を批判しただけでそれを反逆とよんだかもしれない。 金貸し連中、無知蒙昧の輩、権力の追従者たちはわれわれ全てを牢獄に閉じ込めている。我々が意識と魂の自由を何よりも重んじるのなら、我々が自由を求めるパルチザンであるのなら、逃亡は明白なる義務であり、できるだけ多くの人を伴って逃亡すべきである。」 |

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| ここに世界中の墓マイラーの間で話題 が沸騰している“あの”墓があるという |
児童文学の作家ゆえか、子ども たちが墓所を教えてくれた |
ゴゴゴゴゴ…見えてきたぞ… |
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| バンッ! | ドンッ! | ズギュゥゥゥウン! |
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| 「ドリャー!バゴーン!」 お墓から出てきているーッ! |
ベキベキベキベキッ! | この角度が、最も今まさに墓から 出てきている感じがする |
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| 真横に来るとヴェルヌのデカさが分かる |
巡礼者はみんな息を呑んで見入っていた。 「アイム・ノット・デッド・イエット」、こう呟く青年もいた |
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SFの父。フランス西部の港町ナント生まれ。港には世界中から船乗りがやって来るため、彼らの冒険談を聞いたヴェルヌは、少年時代から世界への好奇心を育んでいた。11歳の時、初恋の女性にサンゴの首飾りを買うために、こっそりとインド行きの帆船に水夫見習いとして乗り込むが父に見つかってしまう。ヴェルヌは「もうこれからは夢の中でしか旅行はしません」と誓ったという。1848年(20歳)、弁護士の父の希望でパリ大学法学部に入ったものの、文豪デュマ(父)と面識を持ったことがきっかけで劇作家を目指すようになる。1858年(30歳)、友人のフェリックス・ナダールが気球からの写真撮影に成功すると、これに刺激を受けて1863年(35歳)に冒険小説『気球に乗って五週間』を発表する。作品は大きな話題を呼び、彼は一躍流行作家となった。そして様々な科学知識を盛り込んだ『既知および未知の世界への驚異の旅』シリーズを約40年にわたって刊行する。代表作は、1864年(36歳)の『地底旅行』、1870年(42歳)の『海底二万里』、1873年(45歳)の『八十日間世界一周』など。これらの空想冒険小説には、潜水艦(ノーチラス号)、宇宙旅行、映画、ヘリコプター、空調設備、誘導ミサイルといった“未来”の科学技術が、驚異的なほど的確に予測されている。
1883年(55歳)、アミアン市会議員に当選。22年後に他界するまで議員を務めた。『海底二万里』に登場するネモ船長がイギリスの圧政の犠牲者であるように、ヴェルヌは権力によって虐げられた人々への共感を表明した。1886年(58歳)、発狂した甥がヴェルヌを銃撃するというショッキングな事件が起き、彼は深く心を痛める。1888年(60歳)、『十五少年漂流記』を発表。死の直前まで作品を発表し続け、1905年に77歳で死去。彼の作品は各国で翻訳され、日本においても明治維新後に初めて翻訳された仏文学は『八十日間世界一周』(明治11年)だった。人々はヴェルヌが描き出した、科学進歩がもたらすバラ色の明るい未来世界に希望を見出した。
※ヴェルヌとH・G・ウェルズの2人をSFの開祖とする意見がある。でも、ヴェルヌの方が38年も先に生まれており、2人を同列に語るのはちょっと違和感がある。 ※映画製作の先駆者メリエスの「月世界旅行」(1902)など、ヴェルヌの小説が映画黎明期にはよく映画化された。 ところで、あのゾンビ墓というか、異様な造形の墓は、本人の遺言によるものなのか、遺族の考案なのか。甥の銃撃事件や親しい編集者が先立ったことで、晩年はかなり悲観主義になっていたらしいけれど…。 【ヴェルヌの墓について、サイト読者のSさんから詳しい情報を頂きました!】
1927年(没後22年)にヴェルヌの姪ALLOTTE DE LA FUYE M.が書いた『Jules verne sa vie son oeuvre(ジュール・ヴェルヌ その生涯と作品)』という本がある。フランス語版のみで既に絶版。Sさんは古書店で購入されたとのこと。 ●内容の要約 1905年にヴェルヌが他界した際、伝記作家のCharles Lemireが葬儀を行った。棺はアミアンのMadeleine墓地に埋葬され、ヴェルヌの息子Michel Verne(1925年没)がアミアンの彫刻家Albert Rozeに墓石の制作を依頼する。この時、Michelとヴェルヌ夫人Honorine du Fraysne de Viane(1910年没)は、『Vers l’Immortalite et l’Eternelle Jeuness(不死と永遠の若さに向かって)』という言葉を墓石に刻むことを希望した。彫刻家はその文言をコンセプトに、地面から半身を出した墓を制作したものと考えられる。現在(1927年)、同墓地はプラタナスとブナの高い木々に守られており、ヴェルヌ夫妻が並んで眠っている。 ※墓地の公式HP http://www.lesamisdelamadeleine.com/ ちなみに、他界2年後(1907年)に、ヴェルヌのファンらが募金をして、墓石を彫ったRoze氏にモニュメントの制作を依頼している。完成した作品は、上部にヴェルヌの上半身、台座の足下に若い3人の読者が座り、彼らが『驚異の冒険』を読んでいるというもの。本作は1907年の展示会に出品され、後に公園散歩道に面したヴェルヌお気に入りのベンチ近くに設置された。1925年、モニュメントは大型ハリケーンで無残に破損したが、後に修復されている。2011年現在、ヴェルヌの家から200mの所にある広場に建つ。 ※モニュメントの画像 http://www.julesverne.ca/jvmonu.html |
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| 小川未明(小平霊園) | 浜田広介(ひろすけ)※本名は廣助 | 春秋苑の坪田譲治 |
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| 大人のための感動絵本! | シルヴァスタインはシカゴに眠っている |
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| 親族と並ぶ。手前の一番右がシルヴァスタイン | シルヴァスタイン家 | 墓石にダビデの星。ヘブライ語で何か書かれていた |
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| ハルク参上! |
“ザ・キング”と呼ばれた彼の墓には「王冠」が!右上の本の表紙は『ファンタスティック・ フォー』のリーダー(リード・リチャード)と、インビジブルガール(スー・ストーム) |
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| ボブ・ケーンがデザインしたバットマンの敵キャラは外見が実にユニーク | 今も子供から大人まで大人気(オクラホマにて) |
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| 2000 | 2009 |

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| すごい存在感 |
護国寺の山門。大山倍達もここに永眠している |
護国寺は広大。目印はこの煙突。近くに 先生の墓がある(墓地の下段一番奥) |
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| この五輪塔が梶原先生の墓!本名の高森で眠っている |
「高森家」の 名刺受け |
『吾が命 珠の如くに慈しみ 天命尽くば 珠と砕けよ』とある |
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漫画原作者。高森朝雄(あさお)とも。本名は高森朝樹(あさき)。浅草生まれ。1966年(30歳)、漫画『巨人の星』の原作を担当し大きな話題を呼ぶ。翌年に『柔道一直線』、続いて1968年(32歳)に『タイガーマスク』、『あしたのジョー』(高森朝雄名義)を発表、すべてがヒット作となった。1971年(35歳)、極真空手の大山倍達の半生を描いた『空手バカ一代』によって、日本に空手ブームを巻き起こす。同年『侍ジャイアンツ』を発表。1973年(37歳)に『愛と誠』、1976年(40歳)になると映画界に進出し、格闘技映画『地上最強のカラテ』を制作した。
飛ぶ鳥を落とす勢いで活躍した梶原だったが、一方で私生活は荒れ果てていく。アルコール依存、暴食で内臓はボロボロになり、傷害事件、恐喝事件を起こすなど自己破滅的な日々を繰り返した。暴力団との付き合いが明るみに出ると、各雑誌からいっせいに連載を打ち切られた。晩年はヒット作に恵まれないまま、1987年に50歳の若さで病没。他界後、“梶原一騎”の名前はマスコミ界のタブーとなったが、90年代後半から作品の再評価が始まっている。
実在するスポーツ選手と架空のキャラを絡めたり、“魔球”を導入するなど、ドラマチックで破天荒なストーリーが若者の高い支持を集めた。護国寺の墓地にて本名の高森朝樹で眠っている。墓碑には太く短く生きた梶原らしい一文が、自筆で次のように刻まれている--『吾が命 珠の如くに慈しみ 天命尽くば 珠と砕けよ』。 |
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