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上杉謙信の墓 織田信長の墓 |
武田勝頼の墓 |
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| JR安土駅前の信長像 |
宣教師が描いた信長像。 最も実像に近いとされている |
RS2『信長の野望・革新』 |
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| 夕日に映える名古屋(那古野)城。 当城の二の丸で信長は生まれたと伝わる |
信長が稲葉山(金華山)の 山頂に築いた岐阜城 |
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| かつてあの山の上に安土城があった |
宣教師が「これほど豪華な城は欧州にも存在しない」と感嘆した五層七重の 名城・安土城。日本政府は国家予算を投入して早急に再建して欲しい! |
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| この門は奇跡的に消失を免れた | 安土城の天守閣まで405段。往復40分〜1時間かかる | かなり急な箇所もありチビッコには厳しい |
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| 仰天したのは“仏など信じぬ”と言わんばかりに、多数の 石仏が階段に使用されていたこと。踏めと言いたいのか? |
仏が頭を左に横になっているのが分かるだろうか? 神仏を恐れなかった天魔・信長ならでは |
この仏教徒にとって神聖な仏足石は 城の石垣の中に混じっていたという |
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| 二の丸跡にある信長廟入口 |
巨大な信長の墓。この廟には一周忌の法要後に 秀吉が信長の太刀や烏帽子を納めた(2008) |
天守跡から見た下界 |
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| 岐阜市崇福寺の信長父子墓。本能寺の変からわずか 4日後に側室・お鍋が遺品や位牌を送り届けた |
父子の位牌が安置された崇福寺の位牌堂(2008) |
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| 高野山の墓(1994) 墓前には「織田信長公」と目印アリ ※長年場所が不明だったが 1970年に発見された |
同じく高野山(2005)。板の文字が「織田信長墓所」 と変わっている。ここ10年の間に交換されたようだ |
大阪堺市の本源院。公開されていないが、 ここにも信長父子の墓があるという(2003) |
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| 富山県高岡市の瑞龍寺。建物の大半が国宝だ | 信長の分骨墓 | 暴風雨!左奥から信忠、信長側室、信長、前田利家 |
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| 一周忌を行うため秀吉が大徳寺に建立した総見院の信長一族の墓。“総見院”は信長の戒名「総見院 殿大相国一品泰巌大居士」から。毎年秋に特別公開される。左から、秀雄(信雄長男)、信雄(信長次男)、 信長、信忠(信長長男)、秀勝(信長4男)、信高(信長七男)、信好(信長十男)。右写真は信長の墓 |
奥の五輪塔が正室の濃姫(帰蝶)、 手前の岩が側室“お鍋の方”の墓。 お鍋の方はスケートの織田選手の祖先 |
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| 上記の信長一族の墓は、不届き者が台座に登らないように、四隅を猫の看板が守っている。この猫、 目がガラス玉でいかにも「見張ってるぜ〜」とアピール。猫が番人の墓は他に見たことがなく珍しい(2008) |
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| 妙心寺玉鳳院の墓(原則非公開)。長い交渉の末、ついに墓参 &撮影許可を頂く。左が信長父子、右は何と旧敵の武田家! |
奥が長男信忠、手前が信長の墓。 重臣の滝川一益が建立した(2008) |
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| 大事件の舞台となった本能寺。寺名の札に注目。一度全焼したので“火は去れ” という意味合いから、“能”の文字は右側が“ヒ×2”ではなく“去”になっている |
改装前の本能寺本堂。天正17(1589)年、秀吉に よる区画整理で当地に移された(2001年撮影) |
本堂は平成20年5月8日から長期の大改修に 入っている。工事の終了は平成24年4月1日だ |
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| 信長の墓は境内の奥にある※写真の門の背後 (2001) |
立派な信長の墓。三男・信孝が集めた遺骨が葬られたと いう。かつての本能寺は約4万uもの敷地があった(2008) |
隣は本能寺の変で死んだ家臣の合葬墓。 「明智が者と見え申し候」と告げた森蘭丸の名も |
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| 移転前に本能寺があった場所は現在老人ホーム。 その前は小学校だった(スクールゾーンの看板のみ残る) |
大雲院の信長父子の墓(1999)。死の5年後に 正親町天皇の勅命で建立。同寺は信忠の戒名 「大雲院殿三品羽林仙厳大居士」に因んで 名づけられた。斜め前は石川五右衛門の墓! |
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| 京都・阿弥陀寺。本文で書くけど、僕は この寺こそ最も信憑性が高いと考えている |
阿弥陀寺の墓。墓前の石灯籠は天正13年建立(信長3回忌)。 信長の側近だった森家家臣の青木家が寄進したものだ |
墓を拡大。向って右が信長、左が信忠(2005) |
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| 「信長信忠討死衆墓所」 | 2008年の初冬に再訪。周囲は紅葉になっていた | うっすら「総見院…」と判別できる | 墓の側面には「天正十年」とある |
| 幼名吉法師。尾張の那古野(名古屋)城の城主、織田信秀の子。生まれた城は那古野城、勝幡城の2説がある。妹はお市の方(市の娘は豊臣家として散った淀君)。家系は尾張守護代の清洲織田氏の三奉行のひとつ。 1546年、12歳で元服(成人式)して信長を名乗る。14歳の時に美濃の斎藤道三と父が同盟し、その証として道三の娘と結婚。17歳で父が病死、家督を継く。若い頃の信長は服装や行動が奇天烈で、大通りを人の肩にもたれ掛かって栗や柿を手掴みにして食い歩くなど、「大ウツケ(頭がカラッポ)」と世間から呆れられていた。父の葬式に髪を派手な紐で縛り、袴もつけず着流しで現れ、仏前に進み出るといきなりお香を鷲づかみにし、位牌に投げつけて帰る傍若無人さでひんしゅくを買った。 それだけではない。信長は父の病気が回復するであろうと保証した祈祷師・仏僧らを、“虚偽を申し立てた”として寺院に監禁し、外から戸を締め「今や自らの生命に念を入れて偶像に祈るがよい」と言い放ち、鉄砲隊に包囲させ射撃命令を下した。信長は生き残った仏僧を指さし、憤激して言った。「あそこにいる欺瞞者どもは、民衆を欺き、己れを偽り、虚言を好み、傲慢で僭越のほどはなはだしい。予はすでに幾度も彼らをすべて殺害し殱滅しようと思っていたが、人民に動揺を与えぬため、また人民に同情しておればこそ、予を煩わせはするが、彼らを放任しているのである」と。合理的主義者の信長は神仏の存在を全く認めていなかった。 翌年18歳の信長は天下取りに向けて動き出す。まずは自国尾張を統一せねばならない。最初に清須の坂井大膳を攻め、19歳で主家の織田信友を倒し、23歳には野心家だった弟信行を暗殺し、最後は尾張守護代家の岩倉織田氏を滅ぼし25歳で尾張を統一した。 この間、19歳の時に亡き父に仕えていた重臣平手政秀が、信長の素行を諫(いさ)める為に切腹するという事件があった。尾張が統一された時、側近たちは「ここまで強大になるとも知らず平手政秀が自害したのは浅薄でした」とお世辞を言うと、信長は「こうやって弓矢を執れるのは、みな政秀が諫死したおかげだ!わしが自分の恥を悔やんで過ちを改めたからだ!古今に比類ない政秀を、短慮と言う貴様らの気持ちが口惜しいわ!」と顔色を変えて激怒した。 1560年(26歳)、桶狭間で休息中の駿河・今川義元の大軍2万5千を、たった2千の兵で奇襲攻撃し見事に勝利。これによって信長の武勇は全国に広まった。※桶狭間への出陣前、信長は「人間五十年 下天の内を比ぶれば 夢幻のごとくなり 一度生をうけ 滅せぬもののあるべきか」と舞った。 翌々年、今川から独立した三河の徳川家康と同盟。清洲から小牧へと本拠を移し美濃(岐阜)に侵攻する。美濃の斉藤道三は子の義竜に討たれており、既に同盟は廃されていた。33歳、7年をかけて斎藤氏を滅ぼすと、本拠地を尾張小牧から稲葉山城に移し、「天下布武」(武家の政権を以て天下を支配する)の印を使い始める。 34歳、足利義昭を奉じて京都に入り、義昭を15代将軍にして室町幕府を再興するが、事実上の権力は信長にあり、義昭との関係は悪化した。 信長の勢力拡大に不満を持つ将軍義昭は、武田、朝倉、浅井、毛利、三好ら諸大名や、石山本願寺、比叡山延暦寺などの宗教勢力に呼びかけて、信長包囲網づくりを進める。これに対抗して信長は家康に援軍を要請。 1570年(36歳)、浅井&朝倉両軍に近江姉川の戦で勝利すると、両氏に味方した延暦寺を翌年焼き討ちし、僧侶、一般人を問わず男女約4千人を皆殺しにした。38歳、戦国最強と言われた甲斐の武田信玄が京都に進軍を開始、家康の領国へ侵攻してきた。武田軍は強敵で、遠江三方原(みかたがはら)の戦において織田・徳川連合軍は完敗!ところが何と信玄が結核で急死。武田軍は甲斐に引き返し信長・家康は命を繋いだ。 翌年、未決着だった浅井氏を近江小谷(おだに)城で滅ぼし、一気に越前まで進んで朝倉氏も討ち取ると、畿内に戻って、京都宇治で挙兵した将軍義昭を追放して室町幕府を滅ぼした。 1575年(41歳)、三河長篠の合戦では3千挺の鉄砲を用意(当時は海外にもこんな軍隊はない)。信玄の子勝頼が率いる武田騎馬軍を粉砕し、近代戦の幕をきる。これで東国からの侵攻の懸念が消えた。翌年に天下統一の拠点として7重の大天守閣を持つ安土城の造築をスタート。長男信忠に織田家の家督を譲り、自身は安土に移った。43歳、秀吉を中国攻めに出陣させ、西国の雄・毛利氏との対決が始まる。織田軍の勢力拡大と共に朝廷の位は正二位右大臣まで上がったが、もはや覇業に朝廷権力は無用と、1578年(44歳)、全ての官職を返上した。
しかし、信長にとっての最大の敵は戦国大名ではなく、死を恐れぬ一向宗の門徒たちであり、難攻不落の城、総本山・石山本願寺だった(跡地は大坂城になっている)。石山戦争は1570年に始まり、石山から顕如が退去する80年(本能寺の2年前)まで10年間も続いたのだ。この過程で信長は、一向一揆を徹底的に弾圧した。伊勢長島の一揆では男女2万人(!)を焼き殺し、100年続いていた越前の一向一揆を攻撃した際は、農民でも僧侶でも見つけ次第に皆殺しにした。その数、4万人。彼は自身の手紙の中で「府中(福井県武生市)の町は死骸ばかりで空き地もない。見せたいほどだ。今日も山々谷々を尋ね探して打ち殺すつもりだ」と書き記している。鬼も震える冷酷非情。だが他の支配地では領民に善政を行なっており、石山戦争の初期に兄信広と、可愛がっていた弟信興と秀成を失ったことが、狂気じみた残酷さの背景にあることを付け加えておく。最終的には鉄板装甲の巨大軍船を建造して本願寺側の毛利水軍を木津川河口の戦でくだし、大阪湾の制海権を掌握、本願寺の援軍を断ってこれを屈伏させ、畿内を完全に支配した。 1581年(47歳)、京都で軍事パレードの馬揃(うまぞろえ)を挙行し、覇王信長の力を天下に見せ付けた。家臣団の構成は、北国方面・柴田勝家、丹波、丹後方面・明智光秀、関東方面・滝川一益、中国方面・羽柴秀吉、対本願寺戦・佐久間信盛。 そして、運命の1582年があける。この年も快進撃は続いていた。3月に武田領国へ侵攻、甲斐天目山で勝頼にとどめを刺し、関東上野まで本州中央部を支配下に治めた。5月には三男信孝を四国に遠征させる。一方、毛利を攻め落とせないでいた秀吉に、援軍として明智光秀を向かわせた。さらに6月1日、自らも対毛利戦に参戦すべく進軍する途中で本能寺に宿をとった。東の武田は既に滅び、西の毛利と四国の制圧も目前であり、年内の天下統一は時間の問題だった。 ところが!2日未明、1万3千の軍勢に突然襲撃される。信長側は180名。本能寺の境内では若い小姓たちが戦ったが、たちまち数十名が討死。信長は鉄砲の音で部屋を出た。「これは謀反か!攻め手は誰じゃ!」。敵が寺の中に突入して来る。蘭丸が答えた「明智が者と見え申し候!」。“光秀!”火矢が放たれ本能寺は燃え上がる。「是非に及ばず(何を言っても仕方がない)」。信長は数本の弓矢を放ち、弦が切れると槍を手に取ったが、やがて戦うのを止めた。智将・光秀の強さは信長が一番理解している…最も信頼していた部下なのだから。信長は炎上する本能寺の奥の間に入ると、孤独に腹を切った。覇権の夢はついえた。 ※信長暗殺の真の黒幕は誰か?光秀と公家には深い親交があったことから、近年では朝廷と見る意見が多い。延暦寺焼き討ちでは天皇が認定した国師(高僧)が焼かれ、本能寺の変の2ヶ月前にも国師快川和尚が信長の敵を匿った罪で焼き殺されている。国師を殺すと言うことは、天皇を全く恐れていないと言うこと。信長は室町幕府を潰した時に、暦を元亀から天正へ勝手に改暦しており、官位も返上している。光秀謀反の前月には天皇が信長に勅使を送り幕府開設を勧めるが、これも無視された。信長はルイス・フロイスら宣教師から聞いた欧州の絶対王政を目指しており、国王になるつもりだったのだ。その為には天皇を殺し(王は2人もいらない)、朝廷公家を滅ぼす。皇室はこれを阻止せんが為に光秀を利用し信長を葬ったという。 信長は武闘派として知られるが、内政でも様々な改革を推し進めた。経済発展のカンフル剤として課税を免除した楽市・楽座を設定し、流通をよくする為に関所を廃止、政教分離の徹底、検地、刀狩など新政策を次々と実行した。外国文化への好奇心が強く、式典の際はビロードのマントと西洋の帽子を着用し、側近には彌介(やすけ)と名付けた黒人もいた。信長はまた、茶の湯、能楽、鷹狩り、相撲などをよく好んだ。茶の湯は政治にも利用し、千利休&今井宗久らを召抱えて、家臣に茶の湯の開催権や茶器を恩賞として与えた。命令、規律は絶対であり、家臣は信長の一声で飛び散る様に従った。その一方で、秀吉の妻(ねね)へ夫婦喧嘩仲裁の手紙を書くなど、面倒見が良い一面もあった。 ●信長からねねへの手紙 「ねねさん、先日は私に会いに来てくれて有難う。持って来てくれた土産の数々には目を奪われるほどで心から感謝申し上げます。それにしても、あなたはますます美しくなっているので驚きました。にもかかわらず秀吉はあなたのことを不満に思っているとのこと、これは言語道断です。あなたのような素晴らしい女性は何処を探してもいるはずもなく、『禿鼠(はげねずみ、秀吉のこと)』には二度と得ることが出来ないからです。だから、あなたも気持ちをほがらかに、妻としてどっしりと構えて、嫉妬などしない方がいいですよ。秀吉には私から何かと意見を述べてもいいのですが、彼の世話をするのはあなたの役目だということも忘れないように」 ●イエズス会宣教師ルイス・フロイス『日本史』より(信長を身近で見ていた者の非常に貴重な資料!) 彼は中くらいの背丈で、華奢(きゃしゃ)な体型であり、声は高く、極度に戦を好み、軍事的修練にいそしみ、名誉心に富み、正義において厳格であった。彼は自らに加えられた侮辱に対しては懲罰せずにはおかなかった。幾つかのことでは人情味と慈愛を示した。彼の睡眠は短く早朝に起床した。貪欲でなく、よく決断を秘め、戦術に極めて老練で、非常に性急であり、激昂はするが、平素はそうでもなかった。 彼はほとんど家臣の忠言に従わず、一同から深く畏敬されていた。酒を飲まず、食を節し、人の取扱いは実に率直で、自らの見解に尊大であった。彼は他の大名をすべて軽蔑し、頭の上から話をした。そして人々は絶対君主に対するように服従した。彼は戦運が己れに背いても心気広濶、忍耐強かった。 彼は善き理性と明晰な判断力を有し、神および仏のいっさいの礼拝、尊崇、ならびにあらゆる迷信的慣習の軽蔑者であった。形だけは当初法華宗に属しているような態度を示したが、顕位に就いて後は尊大にすべての偶像を見下げ、若干の点、禅宗の見解に従い、霊魂の不滅、来世の賞罰などはないと見なした。 彼は自邸においてきわめて清潔であり、自己のあらゆることの指図に非常に良心的で、対談の際、だらだらした前置きを嫌い、ごく卑賤(ひせん)の者とも親しく話をした。彼が格別愛好したのは著名な茶の湯の器、良馬、刀剣、鷹狩りであり、目前で身分の高い者も低い者も裸体で相撲をとらせることを甚だ好んだ。何ぴとも武器を携えて彼の前に罷り出ることを許さなかった。彼は少しく憂鬱な面影を有し、困難な企てに着手するに当ってははなはだ大胆不敵で、万事において人々は彼の言葉に服従した。 美濃の国で見た全てのものの中で、最も私を驚嘆せしめましたのは、この国主(信長)が如何に異常な仕方、また驚くべき用意をもって家臣に奉仕され畏敬されているかという点でありました。即ち、彼が手でちょっと合図をするだけでも、彼らは極めて兇暴な獅子の前から逃れるように、重なり合うようにしてただちに消え去りました。そして彼が内から一人を呼んだだけでも、外で百名が極めて抑揚のある声で返事しました。彼の一報告を伝達する者は、それが徒歩によるものであれ、馬であれ、飛ぶか火花が散るように行かねばならぬと言って差支えがありません。都では大いに評価される天皇の最大の寵臣のような者でも、信長と語る際には顔を地に着けて行なうのであり、彼の前で眼を上げる者は誰もおりません。 ●本能寺後、秀吉の信長評 「公は勇将であったが、良将ではなかった。剛が柔に勝つ事はよく知っておられたが、柔が剛を制する事をご存知ではなかった。一度背いた者があると、信長公はその者への怒りがいつまでも収まらず、一族縁者まとめて皆殺しになされた。降伏する者さえも躊躇なく殺すため、信長公への敵討ちはいつまでたっても絶えることがなかった。これは信長公の人間としての器量が狭かったせいであろう。強さや怖さで人に恐れられはしても、敬愛されることはない。例えて言えば信長公は虎や狼のようなもの。人は自分が噛み殺されるのを防ぐために、猛獣を殺そうとするであろう」 ●墓について 信長墓と伝えられるものは阿弥陀寺、大雲院、大徳寺総見院、妙心寺玉鳳院と京都だけで5ヶ所あり、他にも和歌山・高野山(1970年に供養塔を発見)、滋賀・安土城二の丸跡(一周忌の法要後に秀吉が信長の太刀や烏帽子を納めた)、大阪・堺の南宋寺本源院(信忠と共に)、富山・瑞龍寺(前田利長が信長父子の分骨を納めた)、岐阜・崇福寺(信長父子の遺品を側室・お鍋が寺内に埋め位牌を安置)、静岡・西山本門寺(信長と懇意の囲碁名人・本因坊算砂が作らせた首塚がありヒイラギの木が植えられている)など、全国に最低でも15ヶ所以上ある。信長を祀った神社も各地に存在する。 京都市上京区の阿弥陀寺の寺伝(『信長公阿弥陀寺由緒之記録』)によると、信長が帰依したことから親交のあった阿弥陀寺住職・清玉上人は、光秀が本能寺を攻めたと聞いて、20人の僧侶を連れていち早く駆けつけた。表門は明智軍がいたので裏道から入ると、既に本堂に火が放たれ信長は割腹した後だった。境内裏の竹林で十数人の家臣が火を焚いていたので事情を聞くと「絶対に死骸を敵に渡すなという公の遺言だったが、周囲を包囲され遺骸と共に脱出するのは不可能であり、やむなく火葬して隠したうえで各自切腹するつもりだ」と言う。信長の火葬中だったのだ。上人は「ここで自決するより信長公の為に敵と戦って死ぬべきではないか、私に火葬とその後の追悼を任せて欲しい」と提案すると、家臣達は大いに喜んで門前の敵に向っていった。清玉上人は信長の遺骨を法衣に隠し、本能寺の僧侶に紛れて脱出し、阿弥陀寺に帰って遺骨を埋葬したという。その一年後、信長の後継者争いの只中だった秀吉は、自分が喪主となって一周忌を行おうとし、阿弥陀寺側に遺骨を差し出すよう要請。しかし、清玉上人は「織田家を乗っ取ろうとする立ち振る舞いには協力できぬ」とこれを頑なに断った。その結果、秀吉はやむなく大徳寺に新たな塔頭(総見院)を建立し、遺骸の代わりに信長の木像を彫ってこれを盛大に弔った。この後、天下を獲った秀吉は、怒りの報復で阿弥陀寺を移転させ、寺領を60分の1まで削ったという。 ※寺伝以外の記録でも、公卿の山科言経の日記の中で、本能寺の変から約1ヶ月後の7月11日に「阿弥陀寺に参り信長や織田家家臣達を弔った」と記され、さらに9月8日に阿弥陀寺で百ヶ日追善供養が催されことが書き残されている。 ※阿弥陀寺には長男・信忠や家臣団120人の墓もあるが、これは本能寺襲撃から半日たった正午頃、清玉上人が光秀に面会して「織田家家臣は阿弥陀寺の檀家が多いので遺骨を拾わせて欲しい」と説得し、供養の許可を得た事による。上人は二条御所で信忠の骨を拾い、本能寺でも多数の遺骸や遺骨を引き取り丁重に供養したとのこと。
※遺骨は子の信孝によって集めらたとする説もある。※亀丘林幸若『敦盛』(信長が桶狭間合戦の出陣前に舞った)
思えば此の世は 常の住処にあらず
草の葉におく白露 水に宿る月より猶あやし 金谷に花を詠じ 栄華はさきを立って 無常の風にさそはるる 南楼の月を弄ぶ輩も 月に先だって 有為の雲に隠れり 人間五十年 下天の中をくらぶれば 夢幻のごとくなり 一度生を受け 滅せぬ者のあるべきか滅せぬ者のあるべきか 人間五十年 下天の中をくらぶれば 夢幻のごとくなり 一度生を受け 滅せぬ者のあるべきか滅せぬ者のあるべきか ※弟の長益は有楽斎の号で大茶人となった。 |
| 信長は朝廷をないがしろにしていたにもかかわらず、建勲神社の説明文は異常なほど信長への大絶賛。 『贈・太政大臣正一位織田信長公 織田信長公は戦火の巷と化した応仁の大乱に終止符を打ち、民衆を疲弊絶望から救い、伝統文化に躍動の美を与え、新秩序を確立して日本史に近代の黎明を告げ、西洋を動かす力の源を追求し、悠然として東西文化交流を実行した。明治天皇より特に建勲の神号を賜い、別格官幣社に列せられ、ここ船岡山に大主の神として永遠に奉斎されている』 太政大臣は左大臣・右大臣より上位にある最高位の官職。信長は生前に官位を“無用”と返上しているのに、それでもなお死後に太政大臣を贈るとは。しかも建勲神社は御所や二条城を見下ろせる船岡山にある。これほどの朝廷のへりくだり方は、信長のタタリを恐れ、神にすることで裏切りの怒りを封じようとしているとしか思えない。 |
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| 京都市内北部にある建勲神社 | 織田家の家紋・織田木瓜 | 狛犬の台座にも織田木瓜 |
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| 建勲神社の本殿 |
戦国時代は考えられなかった皇室 の菊紋と織田木瓜のツーショット! |
船岡山からは市内が一望できる |

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| あえて謀反者となり「天魔」を討つ! 今こそ光秀を再評価すべし!! |
『信長の野望・オンライン』 智将・光秀ここに見参! |
『戦国無双』版は超イケメン ゲーム史上最高美麗武将 |
坂本城跡の光秀像。 左絵とのギャップが… |
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| 大津市坂本の本墓(2002) | 京都市東山区、光秀の首塚(2005) | 京都市伏見区、光秀の胴塚(2008)※ぶどう農家の木に隣接している |
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| 高野山の墓(1994) | 同じく高野山、白い案内柱が新調されていた(2005) |
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| 光秀が討たれた京都・小栗栖の「明智藪」 (伏見区・醍醐 2008) |
住宅地に接して先が見えないほど藪が生い茂る |
どんな思いでこの道を 敗走したのだろう |
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岐阜・可児(かに)市出身、明智城主の子。明智氏は美濃守護・土岐(とき)氏の分家。幼名桃丸、通称十兵衛。正式名・源光秀。はじめ斎藤道三に仕えた。1556年(28歳)、道三と子・義竜の争いが勃発した際に道三側につき、明智城を義竜に攻撃されて一族の多くが討死した。光秀は明智家再興を胸に誓って諸国を放浪、各地で禅寺の一室を間借りする極貧生活を続け、妻の煕子(ひろこ)は黒髪を売って生活を支えたという。
※煕子は婚約時代に皮膚の病(疱瘡)にかかり体中に痕が残ったことから、煕子の父は姉とソックリな妹を嫁がせようとした。しかし、光秀はこれを見抜き、煕子を妻に迎えたという。当時の武将は側室を複数持つのが普通だった時代に(家康は21人)、光秀は一人も側室を置かず彼女だけを愛し抜いた。 やがて光秀は鉄砲の射撃技術をかわれて越前の朝倉義景に召抱えられた。1563年(35歳)、100名の鉄砲隊が部下になる。射撃演習の模範として通常の倍近い距離の的に100発撃って全弾命中させ、しかも68発が中心の星を撃ち抜くスゴ腕を見せた。1566年(38歳)、13代将軍足利義輝が暗殺され、京を脱出した弟・足利義昭(29歳)が朝倉氏を頼ってくると、光秀は義昭の側近・細川藤孝(※要記憶)と意気投合し、藤孝を通して義昭も光秀を知ることとなる。 ●夢を抱いて信長のもとへ〜この男に賭ける! 義昭は足利幕府の復興を願っていたが、朝倉義景には天下を取る器量も野心もなかったことから、義昭は朝倉氏に見切りをつけて、桶狭間の戦以来、勢いに乗っている織田信長(33歳)を頼ることにした。1567年、義昭に見込まれた光秀は付き従う形で朝倉家を去り、両者の仲介者として信長の家臣となる。天下を狙う信長にとって足利家が手駒になるのはオイシイ話。さっそく翌年(1568)に信長は義昭を奉じて上洛し、14代義栄を追い出して15代将軍義昭を擁立した。40歳の光秀は、義昭の将軍就任を見届けて万感の思いだった。光秀は朝倉家で「鉄砲撃ち」をしていた自分を重用してくれた義昭に深く感謝しており、これで恩が返せたと思った。 こうして光秀は、信長の家臣であり、室町幕府の幕臣でもあるという、実に特殊な環境に身を置くことになった。 光秀は荒くれ者が多い織田氏家臣団の中にあって、和歌や茶の湯をよくした珍しい教養人。京都に入った光秀は、朝廷との交渉役となって信長を支え、積極的に公家との連歌会にも参加して歌を詠んだ。そして秀吉をはじめ重臣4人で京都奉行の政務に当たった。注目すべきは、まだ信長に仕えて2年目の光秀が、織田家生え抜きの古参武将と同等の扱いを受けていること。いかに信長が6歳年上の光秀のことを高く評価していたかが分かる。 しかし、間もなく光秀が苦悩する事態に。1570年(42歳)、信長は義昭のことを最初から操り人形だと思っていたので、『書状を発する場合には信長の検閲・許可を得ること』『天下のことは信長に任せよ』など脅迫的な書状を送り約束させる。信長からの締め付けが強くなるにつれ、義昭は影響力を排して自立したいと熱望するようになり、諸大名に「上洛して信長をけん制せよ」と促した。この呼びかけに応えて浅井・朝倉が挙兵し、本願寺や延暦寺など宗教勢力も反信長勢に回る。 6月、『姉川の戦い』。浅井・朝倉軍VS織田・徳川軍。両軍の死者は2500人を超え、負傷者は数知れず。この凄惨な戦いで姉川は水の色が真っ赤に染まったという。光秀にとって朝倉義景は浪人時代に召抱えてくれた元主君。それも、ほんの3年前の事だ。非情な戦国の世とはいえ、辛い戦いだった(救いだったのは、徳川軍が朝倉軍を担当し、自軍は浅井攻めになったこと)。織田軍は激戦を制し、敵は敗走した。 ※参考…この時点での有名武将の年齢は光秀42、信長36、秀吉34、家康28(若い) 1571年7月、光秀は信長から滋賀郡を与えられ、琵琶湖の湖畔に居城となる坂本城の築城を開始する(信長は築城費に黄金千両を与える)。これは織田家にとって大事件だった。光秀は初めて自分の城を持っただけではない。織田に来て僅か4年の彼が、家臣団の中で初めて一国一城の武将となったのだ(NO.2の秀吉でさえ長浜城を持つのは3年後)。光秀の喜びは計り知れない「織田に来て良かった…」。坂本城は琵琶湖の水を引き入れた美城で、宣教師ルイス・フロイスは後に「信長の安土城の次に天下に知られた名城が明智の城だった」と絶賛している。 ●信長、「天魔」となる
9月、信長の家臣団は思わず耳を疑い、それが“本気”と知って青ざめた…「(中立を守らぬ)比叡山を焼き払え」というのだ。しかも、お堂に火を放つだけでなく、僧侶、一般人、老人も子供も皆殺しにしろという。仏罰を恐れる家臣たちに「叡山の愚僧どもは、魚鳥を食らい、賄賂を求め、女を抱き、出家者にあるまじき輩じゃ」と殺戮を厳命。叡山に顔見知りが多くいた光秀は抗議する「確かに堕落した僧侶もいますが全員ではありません。真面目に修行に励んでいる者もたくさんいます」。信長は完全無視。家臣は信長の命令に逆らえるはずもなく(さもないと自分が斬られる)、織田軍は延暦寺を襲った。最澄による開山から約800年。叡山の寺院は軒並み灰燼と化し、男女約3千人が虐殺され、犬までが殺されたという。この焼き討ちは4日間続いた。諸大名がこれを批判し、武田信玄は「信長は天魔の変化である」と糾弾した。(“なんてことだ…”光秀謀反10秒前) 「信長は何をしでかすか分からん」。将軍義昭はこれ以上信長の権力が巨大化することを危惧し、武力対決への準備を進める。光秀は義昭直属の幕臣として、「今の信長公には絶対に勝てませぬ」と恭順するよう何度も説得したが、衝突は避けられぬことを悟る。同年暮れ、ついに義昭に暇を請い幕府を去った。 1572年、信長が最も恐れていた戦国最強大名・甲斐の武田信玄が動く。上洛を開始した信玄は「三方ヶ原の戦い」で軽く家康をひねり潰し、愛知まで迫る。 1573年(45歳)。正月、義昭はほくそ笑んでいた。「フフ…信長包囲網は完成した。信玄が来れば信長も終わりだ」。事実、信長は絶体絶命だった。東に信玄、西に毛利、南に三好・松永ら大阪勢、北に抵抗を続ける浅井・朝倉、しかも北陸には“闘神”上杉が無傷で控えていた。3月、「信玄接近中」の知らせに舞い上がった義昭は、上洛を待ちきれずに信長へ宣戦布告する。ところが翌月、信玄が病死!7月、義昭が立て篭もる城への攻撃に、光秀も加わるよう命じられた(これは辛い)。大軍に攻められ義昭は降伏。さすがに信長も将軍は斬らなかったが、京を追放した。ここに237年続いた足利政権は終焉を迎えた。光秀が身を粉にして復興させた室町幕府は主君信長の手で滅亡した。(“私の努力は何だったのだ…”光秀謀反9秒前) 8月、信長は3年前の「姉川の戦い」で敗走した朝倉・浅井両氏を完全に滅ぼす。浅井長政は信長の妹お市と結婚しており、長政は妻と娘の茶々(淀君)らを城から脱出させた後、徹底抗戦し自害した。 同年、信長は正親町(おおぎまち)天皇に「元号を変えよ」と前代未聞の要求を突きつけた。信長は自分が天皇より力があることを見せ付ける為に、天皇交代時の神事“改元”を命じたのだ。一人の戦国武将が元号を自由に出来る、朝廷はそんな前例を残したくなかったが、天皇は改元せねば殺される(天皇が死ねば自動的に改元される)と思い震え上がった。そして年号は元亀から「天正」へ改元された。信長は幕府を滅ぼし、この年を元年にしたかったのだろう。 数ヵ月後に天皇は信長に従三位の位を授与すると、信長は官位が低いと激怒した。そしてなんと、正倉院に入って皇室の宝物中の宝物、香木「蘭奢待(らんじゃたい)」を切り取った。信長から届けられた木片を見て、天皇は「不覚にも正倉院を開けられてしまった」と悔しさを記す。天皇は抗議の意味を込めて、その木片を信長と対立している毛利氏に贈った。 ●信長、暴走止まらず…!
1574年、信長に招かれ正月の宴に参加した重臣達は腰を抜かす。「昨年は浅井・朝倉の討伐、誠に大儀であった。ものども、祝い酒じゃ!」。家臣達の前に並べられたのは、金箔で化粧された黄金色に輝く浅井父子と朝倉義景3人の頭蓋骨!信長はその頭部を割って裏返し、これに酒を注いで呑めと言う。しかも、光秀の前に回されたのは朝倉氏。「どうした光秀、呑めんのか」「こ…これは、そ、それがしの、かつての主君であり…」。信長はこういう悪趣味を強要する一面もあった。“信長公は…狂っている!”。(“この男は危険すぎる…”光秀謀反8秒前) 実際、比叡山の焼き討ち以来、「天魔」「魔王」と呼ばれるほど信長の残虐度は加速し、狂気を帯び始める。特に一向一揆への弾圧は苛烈を極め、同年9月の伊勢長島において、降伏を認める振りをして、投降してきた一向宗徒2万人を柵で囲み、老人、女性、幼児も関係なく、全員を焼き殺した。文字通り騙し討ちである。土地に子孫を残さぬこの作戦は「根切り」と言われた。 ※信長は4年前に伊勢の一向衆に、愛する弟・信興を殺され怨みまくっていた。「姉川の戦い」直後で弟に援軍を送れず、見殺しにしたという自責の念が、この2万人大虐殺に繋がった。 信長最悪の殺戮は越前。この地は100年間も一向宗徒が独立国を作っていたので、住民全員を一揆衆と認定し、農民でも僧侶でも見つけ次第に皆殺しにした。その数は信長に届けられた首の数だけでも12250とされ、総計4万人にのぼるという(うち3万は信長が越後に入って僅か5日間で殺されている)。信長は手紙にこう記した「府中(福井県武生市)の町は死骸ばかりで空き地もない。見せたいほどだ。今日も山々谷々を尋ね探して打ち殺すつもりだ」。 ※越前で発掘された当時の瓦に、こんな言葉が刻まれていた「後世の人々に伝えて欲しい。信長軍は生きたままの千人を、はりつけ、または油で釜ゆでに処した」。(“これは人間のすることではない”光秀謀反7秒前) 1575年5月(47歳)、信長は3千挺の鉄砲を用意して「長篠の合戦」に挑み、信玄の子・勝頼が率いる武田騎馬軍を粉砕。射撃の名手の光秀は大いに武功をあげた。翌月、光秀は丹波国(兵庫・京都の一帯)を与えられ攻略を開始。10月、四国の長宗我部元親から光秀に書状が届く。元親は信長が四国へ攻めてくる前に友好関係を築こうとして、子の命名を信長に求め、「仲介者になって欲しい」と心頼みにしてきたのだ。頼られると弱い光秀は「承知した、安心なされ」。信長は「信」(長宗我部信親)の一字を与え、四国において元親が戦で手に入れた土地を保証すると伝えた。 1576年、信長は安土城に入城(城の石垣には地蔵仏や墓石も混じっており、信長が神仏を全く恐れていないことが分かる)。4月、大坂・石山本願寺の攻略戦(天王寺砦の戦)にて信長は鉄砲で足を撃たれる。石山本願寺は数千丁の鉄砲で武装した堅牢な要塞寺で信長は陥落に10年かかった。光秀も何度か援軍に向かっている。信長が撃たれたのは最前線に立っていた証拠。多くの大名が後方の安全な場所から指示を出していたのとは正反対で、家臣たちはそんな信長にカリスマを感じていた。(“やはり公は他の腑抜け大名とは違う”謀反8秒前に戻る) 1577年、光秀は大和・信貴山城に籠城する松永久秀(ひさひで)を信忠(信長の子)と共に攻略。久秀は2度も信長を裏切っており、普通なら「一族皆殺し」となるはずだが、信長は久秀の所有する名物茶釜「平蜘蛛釜」と交換条件に命を救うという。久秀は主君(三好家)を滅ぼし、将軍(13代義輝)を暗殺し、東大寺の大仏殿を焼き討ちして大仏の首を落とした男。仏罰が当たると言われ「ただの木と鉄の塊に過ぎん」と言いのけた。ルール無用っぷりに信長はウマが合うと思ったのだろう。久秀は信長軍に降伏せず、最期は「信長にこの白髪頭も平蜘蛛釜もやらん!」と平蜘蛛釜に火薬を詰めて首に巻き、釜もろとも爆死、天守閣を吹っ飛ばした。 ●光秀奔走/されど命は救えず
1578年(50歳)、3月に上杉謙信が急死。これで一気に信長は天下取りに近づいた。翌月、信長は「もう朝廷の力など必要なし」と右大臣の官職を放棄。8月、光秀の三女・玉子(ガラシア)が細川忠興に嫁ぐ。忠興は光秀の朝倉時代からの盟友・細川藤孝の息子だ。11月、今度は逆に長女・倫子が離別されて戻って来た。倫子が嫁いだ先は荒木村重の息子。村重は信長配下の勇将だが、彼の部下が攻略中の石山本願寺に裏で兵糧を送っていたことが発覚し窮地に陥った。信長が詫びを聞き入れるとも思えず、「どうせ腹を切らされるなら反逆を」と謀反を起こし籠城した。つまり、村重は自分の裏切りで光秀に迷惑がかかるといけないので、決起の前に息子夫婦を離縁させ倫子を送り返したのだ。光秀は怒る信長を説得し、城を無血開城するなら城内の人間の命を助けるという条件を引き出した。ところが、村重は1年間の籠城後に城を抜け出すと毛利のもとへ逃げていった(毛利にいる足利義昭とも連絡を取っていた)。 信長は村重を対毛利の主要武将として考えていただけに、よりによって毛利へ寝返ったと聞いて激怒。裏切り者への見せしめとして、村重の一族37人を六条河原で斬首、女房衆(侍女)の120人を磔、侍女の子どもや若侍ら512人を4件の家に閉じ込めて焼き殺した。助命を願う者が最後に頼りとしたのは光秀。彼のもとに「拙者の命と妻の命を引き換えに」と荒木方の武将が駆け込むと、光秀は「武士の情けを」と信長に取り次いだが、なんと彼らは夫婦共に処刑され、光秀は絶句した。(“公には慈悲という心がないのか…!”再び謀反7秒前) ※荒木村重はその後自嘲して「荒木道糞(どうふん)」と名乗る。秀吉に拾われ、利休の弟子(利休七哲)となり、最後は真田幸村と共に夏の陣で散る数奇な運命を送った。 1579年、光秀は近畿各地を転戦しつつ、4年越しでついに丹波国の波多野秀治を下して畿内を平定した。しかし払った犠牲は大きかった。波多野氏を降伏させた際、投降後の身の安全を保証する為に自分の母親を人質として相手の城へ入れた。ところが、信長は勝手に波多野氏を処刑してしまう。怒った波多野の家臣達は光秀の母を磔にした。(“母上…申し訳ありませぬ!”光秀謀反6秒前) 同年、信長は家康の妻&長男信康が武田氏と内通していると疑い、家康に殺せと命じてきた。これは嫁(信長の娘)と姑の対立が生んだ悲劇で実際には無実だった。しかし、家康は「魔王」信長の要求に抵抗できず、愛する妻子を殺すことに(この件で「家康は光秀以上に信長を恨んでいた」とする歴史家もいる)。 ●戦国のリストラ断行
1580年(52歳)、10年の長きにわたった「石山合戦」が終結。本願寺11代顕如は寺から退去した。徹底抗戦を訴える長男を絶縁して次男に跡を継がせた結果、本願寺は東西に分裂。戦後処理が一段落すると、信長は家臣団の“リストラ”を断行した。たとえ父の代から仕えていようと、成果を挙げない武将は任務怠慢として織田家を追放した。対象となったのは佐久間信盛父子、林通勝(秀貞)、安藤守就、丹羽右近の5人。林通勝の直接の“罪状”は、24年前に織田家の後継者を選ぶ時に、通勝が弟の信行を支持したこと。家臣たちは「24年も昔のことを理由に通勝殿が…明日は我が身だ」「30年忠勤に励んでも家臣(佐久間)に情をかけぬのか…」と衝撃を受け、戦々恐々となる。(光秀謀反5秒前?) ※なぜ「5秒前“?”」かと言えば、この事件で信長の光秀への高評価がハッキリしたから。例えば本願寺攻めを担当した佐久間父子に突きつけた通告文はこうだ。 ・確かに本願寺は強敵だが、攻めることも調略もせず、無駄に時間を浪費した。 ・私は家督を継いで30年になるが、貴殿の功名を一度も聞いたことがない。 ・ケチで欲が深く、有能な家臣を召抱えないからこうなるのだ。 ・武力が不足していれば、調略するなり、応援を頼むなり、何か方法があろう。 ・それにひきかえ、丹波での明智光秀の働きは目覚しく天下に面目を施し、秀吉の武功も比類なし。池田恒興は少禄にも関らず摂津を迅速に支配し天下の覚えを得た。柴田勝家もまた右に同じ。 ・どこかの強敵を倒してこれまでの汚名を返上するか、討死すべし。 ・いっそのこと父子共ども髪を剃って高野山に移り住め。 注目すべきは光秀が単純に褒められているだけではなく、その順位だ。無数の家臣がいる織田家にあって、光秀は筆頭で称賛され、次に秀吉、恒興&勝家と続いている。信長の光秀に対する評価と信頼は、それほど絶大なものだった。ただしこの書状は信長の自筆で直接佐久間父子に届いているので、光秀は文面を見ていない可能性が高い。(本能寺まであと1年10ヶ月) 1581年(53歳)、正月に光秀は坂本城で連歌会やお茶会を主催している(光秀は本当に連歌が好きで、24回の催行が確認されている)。2月、信長は京都で軍事パレードの馬揃(うまぞろえ)を挙行し、“覇王信長”の力を天下に見せ付けた。信長はわざわざ宮廷の側に430mX110mの大通りを造って、“朝廷など一捻りじゃ”と軍事的圧力をかけた。光秀はこの重要行事の運営を任される栄誉を授かり、見事この任務を全うする。ここにも信長の光秀に対する満幅の信頼が見て取れる。(“信長公は私を認めて下さっている…!”光秀謀反6秒前に戻る) 信長は荒木村重の一族皆殺しから2年を経てなお怒りは収まらず、旧家臣を探し出しては斬っていた。8月、高野山が村重の残党をかくまっていたとして、高野山の僧侶を数百人も虐殺する。(“叡山に続き高野山までも…酷い…”再び謀反5秒前) 同年、一揆の鎮圧で人口10万の伊賀に4万の兵を送り、ここでも大殺戮。 ※参考…この時点での有名武将の年齢は光秀53、信長47、秀吉45、家康39 ●運命の年、1582年〜『神格化宣言』
そして、歴史に残る1582年の幕が開ける。3月(本能寺の3ヶ月前)、光秀は甲斐征討に従軍。武田勝頼は「長篠の合戦」以後も抵抗していた。迫り来る織田軍に対し、武田家重臣の真田昌幸(幸村の父)は群馬の昌幸の城まで撤退して交戦するよう進言したが、勝頼はこれを却下。最期は部下の裏切りにあい自刃した。勝頼をいよいよ追い詰めた時に光秀が感じ入って「我々も骨を負った甲斐があった」と言うと、信長は余程機嫌が悪かったのか「貴様が甲斐で何をしたのか」と激高し、光秀の頭を欄干に打ち付け諸将の前で恥をかかせた。 戦い終わって武田家の墓所・恵林寺の僧が勝頼の亡骸を供養すると、信長はこれに怒って寺を放火し、僧侶150余人を焼き殺した。燃え盛る炎の中で同寺の国師(高僧)・快川紹喜は「心頭滅却すれば火もまた涼し」と言い放って果てたという。(“死者を弔ったから殺すとは鬼の所業だ…”光秀謀反4.5秒前) ※国師は天皇の師。天皇が認定した国師を殺すことは、天皇の権威など全く意に関していないということ。 4月、信長は安土城から琵琶湖の竹生島参詣に向かう。往復100km以上あり、城の侍女たちは信長が一泊してくると思い、皆が緊張感から解放された。ところが信長は疾風の如く参詣を終え日帰りで帰って来た。お城はパニック(原文には「仰天限りなし」とある)。本丸で勤めているはずの侍女が二の丸にいたり、一部の者は城下町でショッピングしたり桑実寺にお参りに行っている。信長の癇癪玉は炸裂。外出した侍女たちを縛り上げて皆殺しにて、彼女達の助命を願った桑実寺の長老まで一緒に斬殺した。(“敵兵を斬るならともかく安土の侍女を…狂気だ”光秀謀反4秒前) 5月7日(本能寺まで26日)、長宗我部元親は引き続き光秀を介して織田家に砂糖や特産品を贈っていたが、信長は元親との約束を撤回して『四国征討』を決定する。総大将は三男・信孝。長宗我部に対して「安心なされ」と言っていた光秀のメンツは丸潰れになった。しかも元親の妻は光秀の重臣・斎藤利三の妹。(“武士に二言なし!”光秀謀反3秒前) ※斎藤利三(としぞう)は元々同じ織田家の稲葉一鉄に仕えていたが、性格が合わず浪人となった。そこを光秀が重臣として迎えると、一鉄は急に利三が惜しくなり、信長に仲介を頼んで取り戻そうとした。「光秀、利三を一鉄に返せ」「私は一国を失っても大切な家臣を手放すつもりはありませぬ」「わしの命令が聞けぬのか!」。信長は立ち上がって光秀の髪を掴むと床の上を引きずり回し、「聞けぬのか!聞けぬのか!」と廊下の柱に何度も頭を打ちつける。「き…聞けませぬ…」。刀を手にかけた信長を「刀はいけません」と周囲が止めに入った。利三はそこまで自分を思ってくれる光秀に感動し、本能寺後も最後まで明智軍に残ったため秀吉に斬首された。
5月12日(あと21日)、信長は自身の誕生日に『神格化宣言』を発布した。イエズス会の宣教師ルイス・フロイスによると、信長は宣教師から聞いた欧州型の絶対王政を目指していたが、この頃には君主を超えて「神」として礼拝されることを望むようになり、自身の神格化を始めたという。キリスト教徒のフロイスはこれを“冒涜的な欲望”と記している。具体的には、安土城内に巨大な石『梵山』を安置して「今よりこの石を私と思って拝め」と諸大名や家臣・領民に強制した。また、安土に信長を本尊とする総見寺を建立して信長像を置き、神仏を拝まず信長を拝めと朝廷にも命じてきた。信長が命じればただの石が神になるのだ。これは朝廷の宗教的権威への挑戦であり、彼は目に見える形で天皇の上位にあると宣言したのだ。
信長は総見寺に“信長を拝めばこんな御利益や功徳がある”と木札を掲げた。内容は「貧しい者は金持ちになり、子宝にも恵まれ、病人はたちまち治って80歳まで長生きする。信長を信じぬ者は来世でも滅亡する。我が誕生日を聖日とし必ず寺に参詣せよ」。信長は「神」だから、国師や比叡・高野山の僧を虐殺しても平気なのだ。 …狂っている。朝廷は信長が自身を「神」と言い出したことから、いよいよ自分たちが滅ぼされると恐れただろう。「神」は2人もいらないからだ。ここに至り、朝廷は光秀に接近し、信長を葬り去るよう命じたと考えるのは容易に想像できる。かつて信長に上洛を促した光秀もまた、「私がこの怪物を育てた以上、この手で始末するしかない」と責任を感じ、自分一人が反逆者の汚名を被ることで「狂気」の幕引きを考えていたのかも知れない。 5月15日(あと18日)、家康が安土城に訪れる。事前に接待役を命じられていた光秀は、手を尽くして山海の珍味を取り寄せ3日間家康をもてなした。そこへ毛利征伐で中国方面に向かった秀吉から援軍要請が入る。現在戦闘中の岡山・高松城の救援で毛利の大軍が上って来るというのだ。信長は「一気に九州まで平らげるまたとない機会」と喜び、光秀を接待役から外して坂本城へ戻し、秀吉の援軍へ向かう準備・待機させた。家康はこの後、「変」の当日まで京や堺の見物で関西にいた。 ※この接待に関しては、入念に準備したのに突然中国遠征を命じられ恨みを抱いたとか、宴に用意した魚が腐っていて、信長が小姓の森蘭丸(17歳)に光秀の頭を叩かせたという説もあり、これを謀反の理由にする歴史家がいるが、自分は否定的。光秀はそんな理由で主君を討つ小物ではない。 5月21日(あと12日)、信長から正式な出陣命令が下る。その内容が光秀や重臣を愕然とさせた。「丹波、山城(京都)、坂本などの領地を召し上げ、代わりに毛利の所領を与える」というものだった。信長にしてみれば「それくらいの意気込みで毛利と戦え」「お前ならすぐに毛利の土地を切り取れる」、そんな激励のメッセージだったのだろう。これまでの重用ぶりを見ても、「武勇を誇る家臣は幾らでも交換がきくが、光秀は光秀であり、代わりはない」と誰よりも認識していたはずだ。しかし信長の横暴ぶりを見続けた光秀は、もう前向きに考えることが出来なかった。領国経営に誠意をもって努めていた兵庫〜滋賀一帯の領地を全て没収し、まだ手に入れてもいない毛利の土地を国とせよは…。(“もはや、公にはついて行けぬ”光秀謀反2秒前) ●あえて謀反者となり「天魔」を討つ 5月28日(あと5日)、坂本城を出陣した光秀は愛宕神社に参詣。建前は対毛利との戦勝祈願。そのまま神社に泊まり、人生最後の連歌会を開いた。光秀は発句をこう詠んだ。 『時は今 雨が下(した)しる 五月哉』 “時”は明智の本家“土岐”氏。“雨”は天(あめ)。つまり「土岐氏が今こそ天下を取る五月なり」。(光秀謀反1秒前) これに出席者の歌が続く。 『水上まさる、庭の松山』西ノ坊行祐(僧侶最高位) “みなかみ”=“皆の神(朝廷)”が活躍を松(待つ) 『花落つる、流れの末をせきとめて』里村紹巴(連歌界の第一人者) “花”は栄華を誇る信長、花が落ちる(信長が没落する)よう、勢いを止めて下さい 『風に霞(かすみ)を、吹きおくる暮』大善院宥源(光秀の旧知) 信長が作った暗闇(霞)を、あなたの風で吹き払って暮(くれ) この連歌会に集まったのは天皇の側近クラスばかり。光秀の謀反は突発的なものではなく、事前に複数の人物が知りエールを送っていた。光秀はこれらの歌を神前に納める。5月29日、信長は中国地方を目指して安土城を出発。有力武将は皆各地で戦闘中であり、信長一行は約150騎と小姓が30人、わずか180名しかいなかった。 6月1日(あと1日)、信長一行は本能寺に到着。なぜ本能寺なのか?信長は当時の三大茶器の2つを所有していたが、この日は本能寺に残りの一つを持つ博多の茶人・島井宗室が来るので、お互いの自慢のコレクションを一堂に会そうというのだ。信長は大量の名物茶器を持ち込んでおり、京都の公家や高僧たち40名が本能寺を訪れた(信長は本能寺へ茶器でおびき出されたようなものだ。三大茶碗の2つを所有していれば、あと1つも見たいだろう)。夜になって囲碁の名人・本因坊算砂が顔を出し、深夜まで碁の腕前を披露した。算砂らが帰った後、本能寺は信長、小姓、護衛の一部の約100人ほどが宿泊した。丸腰も同然だった。 同夜10時頃、光秀は明智左馬助ら重臣に信長を討つ決意を告げる。信長が他将と合流すれば暗殺のチャンスはなくなる。決行は今しかない。彼らは命運を共にすることを血判状で誓った。京を越えていた明智軍1万3千の馬首が東向きに並んだ「敵は本能寺にあり!」。(光秀謀反0.5秒前!) 6月2日『本能寺の変』。桂川を越えた明智軍は、明け方に本能寺の包囲を終えた。前列には鉄砲隊がズラリと並ぶ。14年前、朝倉氏と別れて義昭と信長の仲介者となったことから全てが始まった。以来、幕府が滅びても、母が死んでも、僧侶を斬ってでも、織田氏家臣団のトップとして忠節を尽くしてきた。その自分が主君を討つ。光秀は深く息を吸い、そして叫んだ「撃てーッ!」。“ときの声”があがり、四方から怒涛の一斉射撃が始まった。(ちゅど〜ん!光秀謀反決行!) ※攻撃は6時頃。夏場の6時といえばすっかり明るくなっている。時代劇では夜襲で描かれているが間違いのようだ。
13000対100。本能寺の境内では若い小姓たちが戦ったが、たちまち数十名が討死。信長は鉄砲の音で部屋を出た。「これは謀反か!攻め手は誰じゃ!」。敵が寺の中に突入して来る。蘭丸が答えた「明智が者と見え申し候!」。“光秀!”火矢が放たれ本能寺は燃え上がる。「是非に及ばず(何を言っても仕方がない)」。信長は数本の弓矢を放ち、弦が切れると槍を手に取ったが、やがて戦うのを止めた。智将・光秀の強さは信長が一番理解している…最も信頼していた部下なのだから。信長は炎上する本能寺の奥の間に入ると、孤独に腹を切った。 午前7時、明智軍の別働隊が二条御所を攻め長男信忠を自刃させた(信長の弟・織田有楽斎は脱出)。 本能寺は2時間ほどで鎮火し、信長や蘭丸の遺体が焼け跡から見つかった。謀反人としてのイメージダウンを避ける為に信長の首は晒さず、“遺体未発見”としておき、織田家と縁のある阿弥陀寺の清玉和尚を呼んで丁重に葬るよう頼んだ。(後日、秀吉が再三にわたって阿弥陀寺に信長の遺骸を渡すよう圧力をかけたが、亡骸を手に入れることで政治的に有利な立場を築こうという魂胆が明白なので、最後まで引き渡さなかった) 光秀は権力地盤を固める為に諸将へ向け、ただちに「信長父子の悪逆は天下の妨げゆえ討ち果たした」と、共闘を求める書状を送る。堺にいた家康は動乱の時代が来ることを察し、速攻で自国へ帰った。 ●そして最後の戦いへ
6月3日、遠方の武将達は信長の死を知らず、柴田勝家はこの日も上杉方の魚津城(富山)を落としている。夜になって、毛利・小早川の元へ向かった使者が秀吉軍に捕まり密書を奪われ、「本能寺の変」を秀吉が知ることになる。翌日、秀吉は信長の死を隠して毛利と和睦。勝家もこれを知り上杉との戦いを停止して京を目指す。5日、光秀の次女と結婚していた信長の甥・信澄は自害に追い込まれた。後継者争いの最初の被害者だ。午後2時、俗に言う「秀吉の中国大返し」が始まる(秀吉は“変”から10日で全軍を京都に戻した)。安土城に入った光秀は、信長が貯めた金銀財宝を家臣達に分け与えた。同日、興福寺から祝儀を受ける(仏敵・信長を倒した御礼か)。6日、光秀は上杉に援軍を依頼。7日、朝廷から祝儀を受ける。8日、京へ移動。 6月9日、信長に反感を抱く諸将は多いはずなのに、一向に援軍が現れず光秀は焦り始める。どの武将も秀吉や勝家と戦いたくなかったし、信長が魔王でも「主君殺し」を認めれば、自分も部下に討たれることを容認するようなものだからだ。光秀が最もショックだったのは細川父子の離反。旧知の細川藤孝とガラシアの夫・忠興は、当然自分に味方すると思っていたのが、なんと藤孝は自分の髪を切って送ってきた。細川家存続を選んで親友光秀を裏切った自分に「武士の資格はない」と、頭を剃って出家したのだ(以後、幽斎を名乗る)。忠興はガラシアを辺境に幽閉した。 光秀は最後にもう一度細川父子に手紙を書いた「貴殿が髪を切ったことは理解できる…。この上はせめて家臣だけでも協力してほしい。50日から100日で近国を平定し、その後に私は引退するつもりだ」。引退。光秀は人々の上に君臨する野望や征服欲の為に信長を討ったのではない。ガラシアが後に隠れキリシタンとなった背景には、このように夫と舅が実父を見捨てたことへの、癒されぬ深い悲しみがあった。 10日、光秀が大和の守護に推した筒井順慶も恩に応えず、彼は完全に孤立した。11日、京都南部の山崎で光秀・秀吉両軍の先遣隊が接触、小規模な戦闘が起きる。12日、秀吉の大軍の接近を察した光秀は、京都・山崎の天王山に防衛線を張ろうとするが、既に秀吉方に占領されていた。※天王山は軍事拠点となったことから、以降、決戦の勝敗を決める分岐点を「天王山」と呼ぶようになった。 13日、『山崎の戦い』。秀吉の軍勢は四国討伐に向かっていた信孝の軍も加わり、4万に膨れ上がった。一方、光秀は手勢の部隊に僅かに3千が増えただけの1万6千。光秀は長岡京・勝竜寺城から出撃し、午後4時に両軍が全面衝突。明智軍の将兵は中央に陣する斎藤利三から足軽に至るまで「光秀公の為なら死ねる」と強い結束力で結ばれており、圧倒的な差にもかかわらず一進一退の凄絶な攻防戦を繰り広げた。戦闘開始から3時間後の午後7時。圧倒的な戦力差が徐々に明智軍を追い詰め、最後は三方から包囲され壊滅した。「我が隊は本当によくやってくれた」光秀は撤退命令を出し、再起を図るべく坂本城、そして安土城を目指す。堅牢な安土城にさえたどり着ければ、勝機は残されていた。“あの城で籠城戦に持ち込み戦が長期化すれば、犬猿の仲の秀吉と勝家が抗争を始めて自滅し、さらには上杉や毛利の援軍もやって来るだろう…大丈夫!まだまだ戦える!”。 しかし、天は光秀を見放した。同日深夜、大雨。小栗栖(おぐるす、京都・伏見区醍醐)の竹やぶを13騎で敗走中だった光秀は、落武者狩りをしていた土民(百姓)・中村長兵衛に竹槍で脇腹を刺されて落馬。長兵衛はそのまま逃げた。光秀は致命傷を負っており、家臣に介錯を頼んで自害した。その場で2名が後を追って殉死。 14日朝、村人が3人の遺骸を発見。一体は明智の家紋(桔梗、ききょう)入りの豪華な鎧で、頭部がないため付近を捜索、土中に埋まった首級を発見したという。安土城を預かっていた明智左馬助(25歳、光秀の長女倫子の再婚相手、明智姓に改姓)は、山崎合戦の敗戦を知って坂本城に移動する。秀吉は三井寺に陣形。 15日、坂本城は秀吉の大軍に包囲される。「我らもここまでか」左馬助や重臣は腹をくくり、城に火をかける決心をする。左馬助は“国行の名刀”“吉光の脇差”“虚堂の名筆(墨跡)”等を蒲団に包むと秀吉軍に大声で呼びかけた。「この道具は私の物ではなく天下の道具である!燃やすわけにはいかぬ故、渡したく思う!」と送り届けさせた。「それでは、光秀公の下へ行きますぞ」左馬助は光秀の妻煕子、娘倫子を先に逝かせ、城に火を放ち自刃した。 光秀の首はこの翌々日(17日)に本能寺に晒され、明智の謀反はここに終わった。 光秀は夜明け前の無防備な信長を急襲したことから卑怯者と呼ばれ、「主君殺し」と非難されることも少なくない。雑誌の“好きな英雄ベスト”を見ても、信長が1位になることは多々あれど、光秀がベスト10に入ることは少ない(32位というのも見たことがある…)。しかし領国では税を低く抑えるなど善政を敷いて民衆から慕われ、歌を詠み茶の湯を愛する風流人であり、また生涯の大半の戦で勝利し自身も射撃の天才という、文武両道の名将だった。側室もなく妻一人を愛し、敗将の命を救う為に奔走する、心優しき男。織田家だけでなく、朝廷からも、幕府からも必要とされた大人物だった。物静かで教養人の光秀は、エネルギッシュで破天荒な性格の信長にとって、退屈で面白くない男であったハズ。それでも家臣団のトップとして重用するほど、才覚に優れた英傑だったのだ。※僕は光秀の下の近江坂本で暮らしたかった。 ●通説の6つの謀反理由を光秀ファンとして検証 ・『野望説』…光秀が天下を取りを狙った。→細川父子への手紙のように、一連の光秀の言動から考えて野望はあり得ない。却下。 ・『恐怖心説』…重臣・佐久間信盛のリストラをきっかけに、結果を出さねば追放されると不安になった。→武勲挙げまくりの光秀と比べること事態がおかしい。却下。 ・『四国説』…本能寺急襲が四国遠征軍の出港予定日という点に注目。光秀は長宗我部の仲介となって信長と交渉していたので、侍の筋を通す為に謀反したというもの。事実、四国遠征は中止になった→複数原因のひとつとして採用 ・『積年の恨み説』…人質となった母の死、丹波・近江などの領地没収の他、細かいことでは、髪が薄いことを「きんかん頭」とオチョクられた、酒が呑めずに断ると「ならばこれを呑め」と口に刀を突きつけられた、公衆の面前で髪のマゲを掴まれ引きずられた、等々枚挙に暇なし。→恨んで当然。 ・『足利義昭黒幕説』…かつての主君・義昭の指令。→義昭に長年仕えていた細川藤孝が味方になっていない。却下。 ・『朝廷黒幕説』…皇室が滅ぼされると思った朝廷から指令→光秀は連歌会や茶会で公家と親交が深く、実に説得力あり。これが事実なら、暗殺後に朝廷がバックにいることを書けばもっと味方が増えたのに、謀反の汚名を朝廷に着せない為に、一言も書かなかったことになる。天晴れというほかない。 この朝廷黒幕説は、家康、秀吉の“見てみぬふり”説も生んでいる。朝廷と光秀が暗殺を企てている事を知り、両者はすぐに行動をとれるよう準備していたというのだ。信長の死で誰が一番得をしたのか?後に天下人になったこの2人だ。信長がいる限り、家康も秀吉も天下を取れずに死んでいたのは確か。“信長の仇・明智を討った家臣”秀吉の発言力は格段に強まった。家康には信長に妻子の命を奪われた恨みがある。家康は事件当日に早くも信長の死を知っており、秀吉も翌日に気づいてる。そして家康は三河へ、秀吉は京都へすぐに戻った。幾らなんでも手際が良すぎる。 じゃあ、光秀は利用された挙句に殺されたのか?僕は絶対に死んでないと思う。光秀の死をめぐる秀吉側の記録は矛盾だらけだ。 ●光秀、生き延びたり〜第2の人生「天海」
・大雨の闇夜の竹やぶで、光秀の顔も知らぬ土民・中村長兵衛が、どうやって馬で移動する彼を本人と認識したのか?また、頭の切れる光秀が、追っ手対策の影武者を用意しておらぬハズがなく、それを土民が見抜けるのか? ・長兵衛はどうやって13人の家臣に気づかれずに接近し、正確に一撃で光秀の脇腹を竹槍で刺せたのか? ・しかも、その後の寛永年間の調査で、百姓「中村長兵衛」を知る村人は小栗栖にいなかった。村の英雄のはずでは? ・秀吉が光秀の首を確認したのは4日後。6月(新暦では7月)の蒸し暑さの中で顔が判別できたのか? ・明智本家の地盤、岐阜・美山町には影武者「荒木山城守行信」が身代わりなったと伝承されている。 ・殉死したと伝えられている2人の家臣は、生きていて細川家に仕えている(当時の家伝に名前あり)。一人なら何かの偶然としても二名ともというのはおかしい。しかも細川は光秀の親友だ。 ・光秀が討たれた小栗栖は天皇の側近の領地。領主の公家は生き残った明智一族の世話をするほど光秀と親しい。この土地ではどんな工作も可能だ。 では死んだのが影武者として、光秀はどうなったのか?実は出家して「南光坊天海」と改名し、徳川家の筆頭ブレーンになったという。これを単純にトンデモ話と笑い飛ばせない奇妙な一致が多々あるのだ。 ※南光坊天海…家康、秀忠、家光の三代に仕えた実在の天台宗僧侶。比叡山から江戸へ出た。絶大な権力を持ち将軍でさえ頭が上がらず「黒衣の宰相」と呼ばれた。様々な学問に加え陰陽道や風水にも通じていたことから、将軍家の霊廟・日光東照宮や上野の寛永寺を創建し、江戸の町並み(都市計画)を練るなどして、107歳の長寿で他界した。 ・家康の墓所、日光東照宮は徳川家の「葵」紋がいたる所にあるけれど、なぜか入口の陽明門を守る2対の座像(木像の武士)は、袴の紋が明智家の「桔梗」紋!しかもこの武士像は寅の毛皮の上に座っている。寅は家康の干支であり、文字通り家康を“尻に敷いて”いる。また、門前の鐘楼のヒサシの裏にも無数の桔梗紋が刻まれている。どうして徳川を守護するように明智の家紋が密かに混じっているのか。 ・日光の華厳の滝が見える平地は「明智平(だいら)」と呼ばれており、名付けたのは天海。なぜ徳川の聖地に明智の名が?(異説では元々“明地平”であり、訪れた天海が「懐かしい響きのする名前だ」と感慨深く語ったと伝わる)
・2代秀忠の「秀」と、3代家光の「光」をあわせれば「光秀」。 ・天海の着用した鎧が残る。天海は僧兵ではなく学僧だ。なぜなのか。 ・年齢的にも光秀と天海の伝えられている生年は数年しか変わらない。 ・家光の乳母、春日局は光秀の重臣・斎藤利三の娘。斎藤は本能寺で先陣を切った武将であり、まるで徳川は斉藤を信長暗殺の功労者と見るような異様な人選。まして家光の母は信長の妹・お市の娘。謀反人の子を将軍の養育係にするほど徳川は斉藤(&光秀)に恩があったのか。※しかも表向きは公募制で選ばれたことになっている。 ・強力な物的証拠もある。比叡山の松禅院には「願主光秀」と刻まれた石灯籠が現存するが、寄進日がなんと慶長20年(1615年)。日付は大坂冬の陣の直後。つまり、冬の陣で倒せなかった豊臣を、夏の陣で征伐できるようにと“願”をかけたのだ。※この石灯籠、移転前は長寿院にあり同院に拓本もある。 ・家康の死後の名は「東照大権現」だが、当初は“東照大明神”とする動きがあった。天海は「明神」に猛反対し「権現」として祀られるようになった。秀吉が「豊国大明神」であったからだ。 ・そして極めつけ。光秀が築城した亀山城に近い「慈眼(じげん)禅寺」には彼の位牌&木像が安置されているが、没後に朝廷から贈られた名前(号)が「慈眼大師」。※大師号の僧侶は平安時代以来700年ぶり。空前絶後の名誉。“大師”とは“天皇の先生”の意。つまり、信長を葬った光秀は朝廷(天皇)の大恩人ということ。 天海の墓は日光が有名だが、実は滋賀坂本にもある。光秀の妻や娘が死んだ坂本城があった場所だ。しかも天海の墓の側には家康の供養塔(東照大権現供養塔)まで建っている。明智一族の終焉の地に、天海の墓と家康の供養塔…実に意味深だ。
これらには反論もある。例えば「天海の鎧は大坂の陣で着用したのだろう」や「桔梗紋は他にも太田道潅や加藤清正らが使っている」と言うように。しかし、道潅の桔梗は花弁が細い“細桔梗”であり同じ桔梗でも形が全然違うし、第一光秀以外の桔梗紋の武士が「寅」の上に座って許されるハズがない。一つ二つの一致なら「偶然に決まってる」と笑えるが、土民に竹槍で刺された話から死後の「慈眼大師」の命名まで見渡すと、光秀死亡説の方がトンデモ話に見えてくる。諸文献の反論も「きっと」「だろう」ばかりで、全ての疑問に明快に反証しているものはない。 山崎合戦後に比叡山に出家したのも合点が行く。信長を倒す為とはいえ、秀吉の攻撃が速過ぎて、一族、家臣の多くが死んでしまい、その霊を供養したかったのだろう。また比叡山の方も、天魔・信長を討ってくれた「英雄」を手厚く迎えたという(光秀が石灯篭を寄進したのは彼が世話になった寺)。時が流れて“天海”が江戸で初めて家康と会った時の記録も意味深だ「初対面の2人は、まるで旧知の間柄の如く人を遠ざけ、密室で4時間も親しく語り合った。大御所が初対面の相手と人払いして話し込んだ前例がなく、側近達は“これはどういうことか”と目を丸くした」。 ※天海が関東を活躍の場に選んだのは顔が知られてないから。晩年の秀吉は甥・秀次の一族を幼児まで皆殺しにしたり朝鮮侵略を行なうなどトチ狂っていたので、天海は信長の悪夢が甦り「早く豊臣を滅ぼし家康に天下を任せよう」と徳川政権の基盤確立に奔走したのだ。 ![]() 『家康・家光・天海 御影額』…秀忠がいないのに天海がいる!どれほど徳川にとって重要人物かが分かる。 ●墓 光秀や左馬助の墓は滋賀坂本の西教寺にある。ちなみに天海の墓も歩いていける場所にある。光秀の墓は高野山や明智と縁のある岐阜・山県市にもあり、さらに首塚が京都・知恩院の近くにある。これは小栗栖で討たれた時の遺言「知恩院に葬ってくれ」を受けたのだろう。 ※『明智軍記』が光秀の死から百年後に書かれていることを理由に、光秀の母の死、近江・丹波の召し上げ、家康接待事件、武田征伐での欄干事件などを“創作”とする意見もあるが、『明智軍記』には事実も書かれており、「絶対に事実ではない」と断言できるもの意外は採用した所存。また「叡山焼き討ち」に関しても、“光秀が周辺土豪に根回しをした書状があるから反対説は嘘”という歴史家がいるけど、根回し(事前通告)をせねばさらに事態が混乱する訳で、それをもって「反対してない」と決め付けるのはどうか。 ※光秀の天下は12日間(三日天下ではない)。 ※坂本龍馬の生家には「坂本城を守っていた明智左馬助の末裔(土佐まで落ち延びた)が坂本家」との伝承が伝わるという。坂本家の家紋は明智と同じ桔梗紋。 ※フロイスいわく、信長は毛利を平定し日本66カ国を支配した後は、「一大艦隊を編成して中国大陸を征服し、自分は日本を出てこの国は子に与える」と言い放っていた。戦争は日本で終わらない…光秀でなくとも、戦続きで疲れ切った家臣達は、目の前が真っ暗になっただろう(これも謀反の原因に加えて良いかもしれない)。 |
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| なぜ徳川家の聖地・東照宮を入口(陽明門)で守る武士の着物に、明智家の桔梗紋が入っているのか!? しかも家康の干支の「寅」の上に座っている!これほどの権力を持つ桔梗紋の人物とは!? |
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| 織田木瓜(もっこう) | 拡大! | 明智の桔梗紋 |
| 1.天下を統一した徳川を“見守る”という形でかつての主君・信長を復活させることで、本能寺の赦しを得ようとしていた。 2.木瓜紋は日本神話の荒神スサノオノミコトの神紋(織田家は神官出身)。神威を借りて家康の廟を守護している。 3.唐では木瓜紋が官服に用いられていた。つまり織田や明智とは無関係に、従者が身につける紋様として普及していた。 |
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| 「森蘭丸源長定墓」 |
森三兄弟。左から蘭丸(成利)、力丸(長氏)、坊丸(長隆)。 名前が刻まれた台座は後世に作られたもの |
三兄弟の正面には信長&信忠の墓所がある! 側近中の側近として、死してなお仕える三兄弟 |
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| とても温厚そうな謙信像 | RS2『信長の野望・革新』 | RS2『戦国無双2』 | 上越市春日山の謙信像 |
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| 1994 高野山の謙信廟は改修中だった | 2005 改修完了。ライバル・信玄と謙信の墓はすぐ近く |
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| こちらは山形県米沢市の上杉家廟所(2007) | 歴代藩主の墓がズラリと並ぶ |
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| その中心に眠るのが謙信! | 奥の方に見える墓石 |
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| 春日山・林泉寺の重厚な山門。謙信の祖父・長尾能景が建立した長尾氏の菩提寺だ | 「謙信公御墓所入口」の石柱。ここを登っていく |
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| 「上杉謙信公の御墓」 周囲は苔むしておりワビ・サビを感じる墓だ |
後方の巨大五輪塔は後世のものだろう。墓前に 1本だけ日本酒が置かれていたのが渋かった |
「川中島戦死者供養塔」 謙信の墓の近くにあった |
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| 大城郭の春日山城跡から領地を見渡す謙信像 | 春日山城跡の春日山神社 | 神社本殿には大河で謙信を演じたGacktが |
| 越後守護代・春日山城主(新潟・上越市)、長尾為景の子。自ら毘沙門天(びしゃもんてん、仏法の守護神・四天王の中で最強)の転生と信じて「毘」を旗印とし、比類ない勇猛さから「越後の龍」と呼ばれた。名前は長尾景虎(平景虎)→上杉政虎(藤原政虎)→上杉輝虎→上杉謙信(出家後)と次々変わった(虎は寅年生まれから)。 幼児期にわんぱくが過ぎて寺に預けられると、力試しに墓石を倒すなど寺でも手に負えず、住職は「この子は僧には向いてません」と手紙を書いて嘆いた。そんな6歳の折に父が病没。彼は子どもながらに親に迷惑を掛けっ放しだったと反省し、心を入れ替え、その後は僧侶になるべく修行に励んだ。父の没後、兄・晴景が家督を継いだが求心力に欠け、重臣の中から謀反・反乱が相次ぎ、謙信は武将として城に呼び戻された。若い謙信をなめていた家臣たちは、13歳にして見事な采配で反乱を治め、初陣を飾った彼を見直した。その後も戦場に出ては謙信が大活躍するので急速に人望が高まり、周囲の画策もあって18歳の時に兄から家督を譲られ、1550年、20歳にして越後の国主となった。 謙信の武門の名声と共に、義を重んずる人柄・人徳が諸国に伝わると、彼を頼って逃げて来る武将も出てくる。謙信の戦は「頼ってきた武将の領地を奪い返してあげる」という戦いが大半。一般の大名のように領土拡大の野心から武器を取ることがない稀有な存在だった。そして1553年(23歳)、甲斐の武田信玄の信濃侵攻で、領土を奪われた村上氏、高梨氏らの援軍として、川中島(長野市南部)で武田軍と向かい合った。 ●川中島の戦い〜謙信は12年間に5回信玄と対決した 1553年第1回(23歳、信玄32歳)…信濃・高梨氏が信玄の侵略を受け謙信に応援を要請。信玄は直接対決を避け、小競り合いの後に両軍撤退。 1555年第2回(25歳)…武田軍と上杉軍は犀川を挟み3キロの地点で向き合う。先に渡河すると矢の雨が降るので、両軍は4ヶ月も向き合う持久戦となった。兵糧も馬鹿にならず、信玄は駿河の今川義元に仲介を求め両軍撤退。 1557年第3回(27歳)…冬のうちに武田軍が上杉方の城を攻略。冬は雪で援軍を出せない謙信は「姑息なことを!」と怒り心頭。春になって南下すると、武田軍は戦わずに撤収した(“冬期はこっちが優位なんだぜ”とアピールする信玄の心理戦か)。 1561年第4回(31歳、信玄40歳)…この4回目が一般に「川中島の戦い」と言われる激戦。上杉軍1万3千、武田軍2万人が総力戦を行なった。信玄は海津城を本拠とし、謙信は妻女山(さいじょさん)に陣を張った。9月9日夜、信玄は軍を二手に分け、別働隊1万2千に妻女山を奇襲させた。彼の作戦は、奇襲に驚いて上杉軍が下山してきた所を、麓から本隊8千で挟撃するというもの(キツツキ作戦)。だが謙信は信玄の策を見抜き、奇襲を受ける前に先手を打って下山した。しかも、武田軍をあざむく為にかがり火を多く焚き、まだ山中にいると思わせて。この時の上杉軍の統率のとれた行動は特筆に価する。1万3千もの兵が完全に気配を消して移動したのだ(渡河までしてる)。謙信は全軍に会話を禁止させ、全ての馬に薪を噛ませて嘶(いなな)けぬようにした。 翌朝、武田軍は仰天した。川中島名物の濃霧が晴れると、上杉軍が武田軍本隊の目の前にいるではないか。上杉側も霧の中の移動だったので、目の前が敵本陣とは思っていなかった。戦場は大混戦になる。 武田側は軍を分割したことが裏目になり(別働隊はまだ山中)、武田軍ナンバー2の副将・武田信繁(信玄の弟)をはじめ、山本勘助らが戦死。さらには謙信が武田の本陣に突入し、謙信が馬上から信玄を3度斬りつけ、信玄が軍配団扇で防ぐという、大将同士の一騎打ちまで起きた。戦の後に軍配を調べると刀傷が7箇所もあったという(『上杉家御年譜』)。武田軍が崩壊寸前になった時に別働隊が戻って来て参戦。ギリギリで形勢は逆転し、謙信は退却した。この時代、戦いが不利となれば即撤退、或は和睦したものだが、霧によって乱戦になったことで死傷者の数が爆発的に増え、戦闘に参加した両軍3万3千のうち2万7千、実に7割の兵が死傷(死者約6千)する凄絶な戦いとなった。 1564年第5回…両軍が2ヶ月間対峙、後に撤退した。足掛け12年にわたった因縁の対決はこれが最後になった。 謙信の太刀を軍配で受ける信玄(川中島)この間の出来事として記しておきたいのは、第2回川中島合戦後の謙信の出家宣言。信玄との対決だけでもヘトヘトになのに、家臣の内輪もめや反乱が続くので、26歳の彼は俗世が嫌になり、突然「私はもう城を出て僧侶になる!」と越後を去って、和歌山の高野山に入ってしまった。仰天・動揺したのは家臣たち。謙信が去れば隙を狙って他国が攻めて来るだろう。内輪もめしている場合じゃない。「もうワガママ言いません、喧嘩もせず皆で従います」と誓約書を書いて説得し、城に帰って来てもらった。この一件は“国主より一介の僧侶がいい”という謙信の権力への無欲さを示すものであり、家臣団は「我らが全力で殿を支えよう」と結束が強くなった。31歳、強敵・北条氏康に追われた関東管領・上杉憲政(謙信の養父)の為に、大軍で小田原城を攻めた。この時の働きで彼が関東管領職を継ぐ事になり、姓が長尾から上杉に変わった。 川中島で謙信との対決にコリゴリした信玄は、ターゲットを信濃から駿河・今川氏に変え戦闘を開始する。この時、今川勢は武田側に塩が入らぬよう「塩止め」を行なった。謙信が武田側に送った文面が素晴らしい。 「近隣の諸将(今川と北条)は貴殿の領国に塩を入れるのを差し止めていると聞きました。これは真に卑怯千万な行為です。正面から貴殿と戦う力がないからでしょう。私は何度でも運を天に任せて貴殿との決着を戦いによって決めようと思っていますので、塩はどんなことをしてもお届けしましょう。手形で必要なだけお取り寄せ下さい。もし(塩売りが足元を見て)高値で送るようなことがありましたら、重ねておっしゃって下さい。厳重に処罰いたします」 この約束通り、後日、越後から武田側に莫大な量の塩が送られた、これが「敵に塩を送る」の故事となった。 ※出家騒動に見られるように謙信の仏門への思いはかなり本気で、青年時代は曹洞宗・林泉寺で禅を学び、上洛した際は臨済宗・大徳寺に参禅し、後年は高野山の金剛峰寺で灌頂(かんじょう、師が免許皆伝を認めた弟子の頭上に水を注ぐ重要な仏教儀式)を受け、大僧都の位階を授かっている。 ●信長と対抗 1570年(40歳)、巨大な武田勢と対抗する為に、謙信はこれまで戦ってきた北条氏康と和睦し、氏康の七男・氏秀を養子として迎えた。謙信は氏秀を寵愛し自身の幼名・景虎の名を与え厚遇した。翌年、北条氏康が他界して同盟が無効になったので、謙信は次に織田信長と手を結び信玄と対抗した(42歳)。同年、戦国最強の武田騎馬軍が京へ向かって進軍を開始、家康を蹴散らして突き進んだ。ところが翌1573年(43歳)、長年の宿敵・信玄があっけなく病没する。この結果、織田信長の方が危険になった。一方、信長は信玄と引き分けた謙信を恐れており、自分には謙信と争うつもりがないことをアピールする為に、狩野永徳が描いた『洛中洛外図屏風』を贈るなど同盟維持に努めた(この屏風は現在国宝になっている。屏風中央下の室町幕府の将軍邸前には、今まさに到着せんとする謙信の一行が描かれており、それは信長からの“謙信と共に天下を治めたい”とするメッセージだった)。 1576年(46歳)、巨大化する信長の権勢を恐れた15代将軍足利義昭は、諸国に信長討伐を呼びかけており、信玄亡き後、唯一信長と互角に対抗できる謙信に、しきりに決起(上洛)を要請した。上杉家は多年にわたって室町幕府に仕えており、義を大切にする謙信はついに京都を目指す決心をした。謙信は信長との同盟を破棄し、一向一揆で謙信を悩ませてきた本願寺顕如と和睦する。本願寺にしても、仏法を大切にする謙信より、神も仏も関係ない信長の方が脅威だった。 謙信はまず上洛ルートにあって織田家に従属する能登・七尾の畠山氏を2万の兵で攻めた。翌1577年(47歳)、籠城戦を続ける畠山氏は信長に援軍を求め、信長は柴田勝家を総大将にした先発隊1万8千を送り、その後に自らも大軍を率いて北上した。ところが長期の籠城で七尾城は伝染病が蔓延し、畠山氏は病死。落城したことを知らずに進軍していた先発隊は、途中で勝家と秀吉が喧嘩になって、秀吉が戦列から離れ動揺する。 加賀に入って落城を知った勝家は、撤退の途中に手取川(石川県南部)の側で陣を張った。上杉軍はまだ遠くにいると思って、戦の用意もせず油断していたところ、長距離を馬で駆け抜けてきた上杉精鋭騎馬軍団が夜襲をかけた。慌てた織田勢は滝川一益隊、丹羽長秀隊と総崩れになり、手取川を敗走する時に、そこでは討たれ、ここでは人馬が流されるなど、2千名の死傷者を出したという。快勝した謙信は加賀国の大半を信長から奪った。※後続の信長も追撃を受け、負傷しながら側近数十騎と共に美濃まで逃げ帰ったという説もある。 現在の手取川1578年1月、関東の北条氏征伐、そして信長への総攻撃を開始する為、謙信はいったん越後に戻って支配下の全領国に動員をかけた。3月、万全の態勢が整い、いよいよ出陣が迫ってきたその矢先、居城の春日山城にて脳卒中で倒れ、昏睡状態のまま5日後に他界した。信玄と同様、あとほんの少し生きていたら歴史を変えたであろう無念の死であった。享年47歳。 ※謙信は梅干を酒の肴にして、毎日ドンブリ鉢で酒を呑む超酒豪で高血圧だった(北陸は酒が美味しいもんね)。 ※辞世の句は「極楽も 地獄も先は 有明の 月の心に 懸かる雲なし」。 「毘」「龍」の軍旗が京の都をはためく事はついになかった。●とにかく謙信はカッコイイ 戦国武将たちは、ある時は「家」を守る為に、またある時は領土を求める野心や名声欲から戦った。しかし、上杉謙信は違った。誤解を恐れずに言うならば、謙信“だけ”が違った。彼が戦場に立つのは『正義感』のため。川中島の戦いも、関東への出兵も、信玄の侵略や北条の圧力で逃げてきた者を助けるという「正義の実現」の為の戦いだった。 領土獲得戦争は農民を苦しめるだけと心から憎んだ。仏教に通じ、深い信仰心から、戦場でも兜を被らず僧侶の姿だった。悪鬼を調伏する毘沙門天を崇拝し、戦場で「毘」の旗をはためかせた。相手が戦国最強の信玄であろうと関東の覇者北条であろうと、謙信は正義の鉄槌を下す為に出陣してゆく。しかもそれは、相手を全滅させる為ではなく、不当な支配をさせぬよう追い払う為。 川中島で1万3千の大軍を、夜闇のなか神の如き統率力で武田勢に気づかせず渡河させた。末端の兵まで完璧に指示が行き届いているのだ。優れた洞察力で敵の行動の先を読み、稲妻のように素早く軍を動かし、「車懸かりの陣」のような各種戦術を駆使し、多くの戦場で勝利を手に入れた。 謙信が国主となった約30年間、越後の領土はほとんど増えていない。人助けの戦は勝っても家臣たちに莫大な恩賞が待っているわけではない。それでも家臣が「謙信の為ならいつでも死ねる」と従ったのは、間違いなく彼のカリスマに依るものであり、それを育んだのが、宿敵でも窮地の時は塩を送り、命乞いをした者は決して殺さぬ深い慈悲の心と、敵をも感動させる謙信の「人間」の大きさだろう。 謙信の人徳は、強敵たちの言葉が雄弁に語っている。北条氏康は言う「あの男は一旦恩を受けると骨になっても義理を通す。若い武将の手本にさせたい」。そして武田信玄は息子・勝頼へ次の遺言を残した「上杉謙信とは和議を結べ。謙信は男の中の男、真(まこと)の武将だ。困った時は奴を頼って、必ず甲斐を存続させろ。あの男は自分を頼る相手を決して見放すことはできない。上杉謙信とはそんな男だ」。 謙信は仏法を重んじたので高野山の墓が正式で、後に新潟・上越市の春日山林泉寺に分骨され、そこから山形・米沢市の上杉家廟所に移されたという。故に謙信から8代目までは高野山へ納骨に来ていたらしい。別の説では、謙信の遺骸は甲冑をつけ甕(かめ)に密封され、新潟・上越市(春日山)から会津若松を経て米沢城へ移され、明治9年に今の上杉家廟所に移葬されたという。
※戦国トリビア。当時の合戦は、兵士の大半が農民なので、田植えが終わった頃に開戦し、遅くとも稲刈りには終わっている。っていうか、終わらせないと翌年の戦の兵糧が手に入らない。 ※越後は米の大産地であり、水田の少ない甲斐と違って、他国を侵略する必要がなかった。これは謙信の幸運だった。 ※ゲーム『信長の野望』に出てくる謙信は、戦闘力98、采配100の史上最強大名! ※謙信は「生涯不犯」を貫き結婚しなかった。新井白石は「軍神の加護を得る為に色欲を断った」としているが、昔から男色説、女性説の諸説が囁かれている。男色説の根拠は「京都関白の娘・絶姫が男装して義経の舞を観せると身を乗り出して夢中になったのに、それが女性と分かった瞬間、興醒めして帰ってしまった」「12歳から14歳の美少年ばかり集めた少年親衛隊を創設した」云々。主な女性説は「スペイン国王宛に書かれた手紙に“景勝(謙信の甥)の叔母”と記載されている」「当時の歌に“(謙信は)男も及ばぬ大力無双”という歌詞がある」「遺品の着物に赤色が多く男物に見えない」「1ヶ月ごとに腹痛になり合戦中に兵を引いて部屋に篭った」「謙信の死因を婦人病“大虫”と記載する文献が実在する」等々。 ※謙信の死後、養子の景勝(謙信の姉の子)と景虎(北条氏康の子)が後継者の座を巡って2年間激しく争い、最終的に「御館(おたて)の乱」で景虎が討死した。この内乱で重臣が離反し、信長は能登・加賀・越中など北陸地方を奪い返した。上杉氏は謙信没後3年で大きく衰退する。その後、景勝と直江兼続が奮闘して120万石を要するまで復興したが、関ヶ原の戦いで西軍になったので、一気に30万石へ減封された。 |
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ちなみに林泉寺の墓地には“風流大名”(好色大名)、榊原政岑(さかきばらまさみね)も眠っている。享保の改革の真っ最中に倹約令を無視して新吉原の遊女・高尾太夫を1800両で身請け、彼女のために3000両の豪華酒宴を開き、将軍吉宗を激怒させた。政岑は姫路から越後高田に懲罰転封され、その後は一変して倹約、新田開墾、灌漑工事、貧農の援助など、領民のために善政を行ない暗君から名君となったが29歳で病没した。
※姫路藩主の頃、神社の祭礼に浴衣姿で参加することを民衆に許したことが「ゆかた祭り」の起源となった。 |
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| JR甲府駅前の武田信玄公像。ドッシリとして非常に存在感がある(2008) |
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| 長谷川等伯筆の信玄 | 信玄の自画像(典厩寺) | RS2『信長の野望・革新』から | 軍旗「風林火山」 |
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| 武田ファンの聖地・恵林寺 | 風林火山の軍旗がはためく(快川国師の書) | 境内には父・信虎の墓もあった |
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| 信玄公墓所! | 大きな墓が待っていた!夫婦墓や親子墓に見えるけど、 どちらも信玄の墓!最初から2タイプ作られたらしい |
右は五輪塔、左は宝篋印塔で、形が違う。 同じ人間の墓が並ぶのは珍しいなぁ |
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| 信玄廟の背後には武田家臣団の供養塔が建つ | 山県昌景、馬場信房、内藤昌豊、高坂昌信など全員集合! | 甲府市・円光院に眠る三条夫人(信玄正室) |
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| 「疾(と)きこと風の如く、徐(しず)かなること林の如し、侵掠(りゃく)すること火の 如く、動かざること山の如し」 火葬塚の前には風林火山の旗がたなびいている |
甲府市岩窪町の火葬塚。 ここで荼毘に付された |
| この墓所は土屋昌次(武田二十四将の1人)の邸宅跡にある。記録では信玄の遺言通り3年間死を秘し、土屋氏の邸内で火葬した後、3年後に恵林寺に改葬したという。約200年後の江戸中期(1779年)に甲府代官が発掘したところ、地中の石棺に信玄の戒名と命日が刻まれていたという。驚いた代官は元通りに埋め、墓域を整備したと伝えられる。 |
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| 父・信虎が武田家の菩提寺とした大泉寺(甲府市) | 墓はこの墓所のお堂の裏手にあり死角にある | 右奥から信玄、信虎、勝頼の墓が3代並ぶ |
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| 1994 高野山にある分骨墓 | 2005 高野山再び。左が信玄、右が勝頼 |
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| こちらは京都妙心寺玉鳳院の墓。手前の4基が武田家、奥の 2基はなんと宿敵の織田信長父子!(信長は左から2番目) ※通常非公開 |
信玄は右から2番目。3番目が勝頼だ。織田家と 墓が並ぶとは夢にも思わなかっただろう(あっちで 豪快に酒を酌み交わしているかも知れないね) |
| 本名晴信、出家して信玄と号した。源氏。1541年、あまりに残虐な性格で家臣の支持を失った父・信虎を駿河へ追放し、20歳にして甲斐国の当主となった。信虎が追い出された事を領民は「百姓も侍も出家も、男も女も、限りなく喜び満足した」と記録している。翌年から隣国・信濃へ侵攻を開始、着々と領地を拡大していく(一日で36個の城を落としたこともあったという)。1553年(32歳)、生涯のライバルとなる越後の上杉謙信(信玄より9歳年下)と、川中島(長野市)で最初の戦が行なわれる。38歳で出家し晴信は信玄と改名した。 ●川中島の戦い 「川中島の戦」は計5回行なわれ、どれもが武田軍に侵攻された国から、救援要請を受けた上杉軍が出撃するパターンだった。最も有名なのが1561年(40歳)の第4次合戦で、武田軍2万人、上杉軍1万3千が総力戦を行なった。信玄は海津城を本拠とし、謙信は妻女山(さいじょさん)に陣を張った。9月9日夜、信玄は軍を二手に分け、別働隊1万2千に妻女山を奇襲させた。彼の作戦は、この攻撃に驚いて下山してきた上杉軍を、下から本隊8千で挟撃するというもの(キツツキ作戦)。だが謙信は信玄の策を見抜き、奇襲を受ける前に下山した。しかも、武田軍をあざむく為にかがり火を多く焚き、まだ山中にいると思わせて。翌朝、武田軍は仰天した。川中島名物の濃霧が晴れると、上杉軍が武田軍本隊の目の前にいるではないか。上杉側も霧の為に予定より接近し過ぎ、戦場は大混戦になる。 武田側は軍を分割したことが裏目になり(別働隊はまだ山中)、武田軍ナンバー2の副将・武田信繁(信玄の弟)をはじめ、山本勘助らが戦死。さらには謙信が武田の本陣に突入し、謙信が馬上から信玄を3度斬りつけ、信玄が軍配団扇で防ぐという、大将同士の一騎打ちまで起きた。この軍配を後で調べると7つも刀傷があったという(『上杉家御年譜』)。武田軍が崩壊寸前になった時に別働隊が戻って来て参戦。ギリギリで形勢は逆転し、謙信は退却した。この時代、戦いが不利となれば即撤退、或は和睦したものだが、霧によって乱戦になったことで死傷者の数が爆発的に増え、戦闘に参加した両軍3万3千のうち2万7千、実に7割の兵が死傷(死者約6千)する凄絶な戦いとなった。 ※戦死した弟・信繁は「我が隊は玉砕覚悟で敵を防ぐゆえ援軍無用。兄の勝利を願う」と伝令を送り散っていった。信玄は弟の遺体にすがって泣き崩れ、家臣の真田昌幸は敬慕の念から次男の名を信繁(後の真田幸村)と名づけた。武田軍は戦に勝ったが、もし信繁が生きていれば、後の武田氏の早期滅亡は防げたと言われている。 その後、信玄はターゲットを変えて飛騨や西上野へと侵攻。桶狭間の戦いで今川義元が信長に討たれると、今川氏との同盟を破棄して駿河を支配した(47歳)。翌年からは北条氏の小田原城を攻める。信玄は甲斐領主となって30年で、信濃、駿河、上野、遠江他の広域を支配するようになった。この頃、信長は京都に入って権力を急速に強化しており、室町幕府最後の15代将軍・足利義昭が信長の圧力を嫌って「信長討つべし」と諸国に発令。信玄は信長包囲網の中心勢力として動き出す。 一方、信長は信玄を心から恐れていた。彼は「信玄だけは敵に回したくない」と、年7回も使者を出して機嫌を伺ったり、信玄好みの南蛮頭巾など贈り物を沢山届けた。さらには長男・信忠と信玄の娘との婚姻を希望するなど、良好な関係を維持するよう苦心した。 1572年10月(51歳)。ついに信玄は念願の天下取りに動く。彼は戦国最強の武田騎馬軍3万を率いて京へ進軍を開始した。甲斐不在時の根回しも充分。後方の北条氏とは婚姻関係を結び、謙信に対しては本願寺顕如(信玄夫人の妹の夫)に上杉領で一向一揆を起こしてもらった。背後の憂いを断った、満を持しての決起だった。 武田軍は破竹の勢いで京都への進路上にある徳川の城を落としながら前進する。ただし、あくまでも目的は上洛であり、家康の居城・浜松城を無視して、その側を通り過ぎた。この時、家康は30歳。信玄は家康を子ども扱いしており、彼は葛藤する。武田の巨大な軍勢に勝てるわけがない。だが、このまま何もせず素通りさせては、諸大名から腰抜け呼ばわりされ、家臣からも馬鹿にされる。ここはもう運を天に任せて戦うしかない。「者ども出陣の用意を!」家康は背後から武田軍を追いかけた。 ●三方ヶ原の戦い 12月22日午後3時、静岡の三方ヶ原(みかたがはら)。徳川家康・信長(援軍)の連合軍1万VS武田軍3万の戦いの火蓋が切って落とされた。といっても、実力差は歴然としており、信玄が総攻撃の号令を出し、家康本陣へ勝頼軍(信玄の息子)や猛将・山県昌景が突撃すると、援軍の織田勢は逃げ、アッという間に連合軍は総崩れになった。「殿、早くお逃げ下さい!」本陣を突かれた家康の家臣が馬を用意して退却を促す。“これほど歯が立たんとは…!”敵は殺到しており悔やんでる暇はない。家康は浜松城へ向けて一目散に敗走した。城までは7キロ。すぐに追撃部隊が迫って来た。家康の後方では家臣たちが彼を逃がす為に壁となって倒れていく。 間一髪で浜松城へたどり着いた家康は、奇策を命じる。城兵に門を開けっ放しにしてかがり火を焚けと言うのだ。家康を追ってきた武田軍の山県隊と馬場隊は、「なぜ我らが来るのを知りながら城門を開放しているのか。これは罠に違いない」と突入をためらった。そこへ家康軍本隊が引き上げてきたので、追撃部隊は撤収した。命からがら逃げ帰った家康は、すぐに絵師を呼び、怯えきった自分の姿を描かせた。そして自戒の意味を込めて死ぬまで側に置いていたという。 ※普通の武将なら勝ち戦の後に誇らしげな姿を描かせるところ、家康は敗北時の悲惨な姿を描かせた。この辺り、やはり家康は並ではない。この後、若き家康は諸大名から“あの信玄と戦った男”として称えられた。ただし、家康は三方ヶ原の敗走時にあまりの恐怖から脱糞してしまい、家臣に「これは腰に付けていた焼き味噌をこぼしたのじゃ!」と言い訳する場面もあった(笑)。 武田軍は翌1573年1月、三河(愛知)に進攻する。ここまで来れば都までもう一息。片や信長は気が気でない。信長は和睦を申し込んだが、信玄は当然これを拒否。武田の天下は時間の問題だと誰もが思っていた。だがしかし!2月に入って信玄は病に伏してしまう。進軍はストップ。翌月になっても病状は改善せず、無念の撤退を開始する。そして4月12日、甲斐へ戻る途中に長野・阿智村(駒場)で息を引き取った。病名は結核とも、胃癌とも言われている(徳川方の狙撃説もアリ)。享年51歳。 戒名は法性院機山信玄。辞世の句は「大ていは 地に任せて 肌骨好し 紅粉を塗らず 自ら風流」。 信玄は勝頼へ次の遺言を残した。「敵に攻め込まれぬよう、影武者を立てわしの死を3年は隠せ。その間に兵を訓練し防御を固め、必ず天下を取れ。上杉謙信とは和議を結べ。謙信は男の中の男、真の武将。困った時は奴を頼って、必ず甲斐を存続させろ。あの男は自分を頼る相手を見放すことはできない。上杉謙信とはそんな男だ」。 その謙信は、食膳に向かっている時に信玄の訃報を聞き、思わず箸を落とした。「公は長年の宿敵ではあったが、稀に見る名将だった。惜しい武将をなくしたものよ」と静かに男泣きしたという。謙信はライバルの為に3日間喪に服し、城内での音楽等を禁止した。謙信の家臣達が「今こそ武田を攻め込む好機ですぞ」と主張すると「まだ20代の若い勝頼を突くのは大人げない」とこれを退けた。※謙信は5年後に他界した。 ●『風林火山』〜究極の戦の達人 「甲斐に敵を入れるなどあり得ぬから城など不要じゃ」と、信玄は城を一つも造らなかった。また「人こそがまことの城なのだ」とも考えていた。「人は城、人は石垣、人は堀。情けは味方、仇(あだ)は敵なり」と言い、情けこそが民を繋ぎ国を守るとした。そして言葉通りに堀がひとつあるだけの館に住んでいたので「お館さま」と呼ばれていた。実際、信玄の存命中に隣国が侵入したことは一度もなく、戦闘は常に武田からの攻撃だった。初陣から最後の三河国野田城の合戦まで、信玄の戦績は72戦49勝3敗20引分け。生涯の「勝率&分け率」は実に9割5分8厘!神懸った数字だが、これを実現したのが信玄だ。敗戦は30歳頃に戦った信濃・村上義清軍が最後。それ以後20年以上負けていない。これは彼が“戦って勝利を掴む”のではなく、完璧な計略と工作で、“勝つことが決定した後に戦った”からだ。 武田騎馬隊が戦場でひるがえした軍旗に刻まれた文言は『其疾如風 其徐如林 侵掠如火 不動如山』、略して『風林火山』。古代中国の兵法書『孫子』(B.C.480)を熟読した信玄が、同書から選んだ言葉だ。「疾(と)きこと風の如く、徐(しず)かなること林の如し、侵掠(しんりゃく)すること火の如く、動かざること山の如し」の意。また連戦連勝の信玄は自らに驕りが生じないように「軍勝五分をもって上となし、七分をもって中となし、十分をもって下と為す。五分は励を生じ七分は怠を生じ十分は驕を生じるが故。驕を生じれば次には必ず敗るるものなり。すべて戦に限らず世の中の事この心掛け肝要なり」と己を戒めた。 ●戦もスゴイが内政もスゴイ! 風林火山の軍旗や「甲斐の虎」の呼び名から、信玄は戦ばかりしている武闘派のイメージがあるけど、他の大名に先駆けて26歳で法令集『甲州法度之次第』(喧嘩両成敗、土地売買の禁止等)を制定して領内の秩序を維持し、「甲斐国の最大の敵は自然災害である」と、頻繁に氾濫する暴れ川・釜無(かまなし)川に堤防(信玄堤)を築く治水工事を行なって甲府盆地を洪水から救い、検地を行ない新田を開墾して米を増産した。また、金山を開発して日本初の金貨(甲州金)を製造、貨幣経済を発展させ、甲府に城下町を建設した。さらには、積極的に道路を建設し宿駅伝馬制など交通網を整備するなど、後世に徳川幕府が見本とするほど内政に手腕を発揮した。 信玄はまた、仏教を熱心に学び、書、絵画、詩歌もよくした。特に歌集『武田晴信朝臣百首和歌』が伝わるほど、こよなく和歌を愛した文武両道の人だった。最後に信玄の和歌を2首紹介! ・「うちなびく水かげ草の露のまも 契はつきぬ星合のそら」 “風に揺れる水辺の草から露が落ちるように儚く短い時間だった。七夕(星合)の夜明けと共に2人の時は終わってしまうのか” ・「霞より心もゆらぐ春の日に 野辺のひばりは雲になくなり」 “霞が漂い心がまどろむ春の光の中、野原のひばりが雲の間に消えて行ったよ” ※信玄の没後、勝頼は「父は病気で隠居した」ことにして、3年後に葬儀を盛大に行なった(もうとっくにバレていたけど)。 ※信玄の本墓は山梨県の恵林寺(塩山市)。墓は他にも大泉寺、愛知県福田寺、京都妙心寺、長野県の長岳寺、竜雲寺にあり、終焉の地の長野県下伊那郡根羽村横旗には供養塔が建つ。 ※戦国トリビア。この時代は大半の大名が夜の相手(衆道)の美少年を連れていた。有名なのが信玄の小姓・高坂昌信(16の時に信玄に一目惚れされた)。信玄は他の少年との浮気がバレ、嫉妬してスネた昌信にこんな手紙を書いている--「浮気して本当にすまなかった。でも何もなかったんだ。信じて欲しい。嘘なら神罰でも何でも受ける。愛してるのはお前だけだ」。織田信長と前田利家・蒲生氏郷・森蘭丸、秀吉と三成、家康と井伊直政、上杉謙信と直江兼続も、その関係と言われている。 ※信玄の黒歴史(1)…調べててビビッたのが1547年、26歳の時の東信濃・志賀城攻め。若さゆえの非情さか、信玄は攻防戦の過程で捕らえた3千人を処刑し、夜間の内に全員の首を棚に掛け並べた。夜が明けて、城内の敵兵が見たもの…それは友軍の首が城の四方を取り囲んでいる地獄絵だった。敵は震え上がって戦意を喪失。降伏後、男たちは鉱山に送られ、女性や子どもは全員が売り飛ばされた。逆らう者は容赦しないという見せしめとはいえ、くわばらくわばら…。(信長なら普通の数字だけど)//信玄の黒歴史(2)…今川氏の駿河へ信玄が侵攻しようとした時、これに反発したのが信玄の長男・武田義信。彼は今川義元の娘婿だったので駿河侵攻を企む父を批判した。だが甲斐は海に面しておらず、信玄はどうしても海沿いの領土が欲しかった。彼は義信に謀反の嫌疑をかけて幽閉し、ついには我が子を自害に追い込んだ。 ※信玄の菩提寺・恵林寺は、織田に敗れた嫡子・勝頼の亡骸を引き取り供養を行った。信長はこれに怒って寺を放火し、僧侶150余人を焼き殺す。燃え盛る炎の中で同寺の高僧・快川紹喜は「心頭滅却すれば火もまた涼し」と言い放って果てたという。 「夏山の遠きこずえの涼しさを野中の水の緑にぞ見る」(勝頼) |
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| 駅名だけでテンションがあがる! | 臨場感たっぷりに第4次川中島合戦を解説 | 1561年の激戦地、川中島八幡原(はちまんばら) |
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| 軍配で謙信の刀を受ける信玄 | 上杉謙信が名馬・放生(ほうしょう)を駆り武田本陣を急襲! | 謙信は顔が毘沙門天と化していた! |
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| 「三太刀七太刀之跡」 信玄が謙信から受けた刀は 三太刀なのに、なぜか軍配には 7箇所も傷があったという |
本陣に斬り込んだ謙信をみすみす 取り逃がした悔しさから、武田軍の 原大隅が槍を突き刺したと伝わる石 (真ん中に穴が開いている!) |
「甲越直戦地」と刻まれた首塚。第4次川中島合戦は濃霧のために両軍が接近しすぎ、一度の 戦で6千余人が死ぬという未曾有の激戦となった。合戦後、武田側の海津城主・高坂弾正は、 付近の戦死者を敵味方の区別なく集めて手厚く葬った。これを知った謙信はいたく感激し、 武田で塩が不足すると「我信玄と戦うもそれは弓矢であり、魚塩にあらず」と塩を送り、 埋葬の恩に報いた。昔は多くの首塚があったが、現存する大きな塚は2箇所を残すのみだ |
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| 川中島の典厩寺は、両軍戦死者の追善供養を 目的とした寺。ゆえに武田と上杉の両軍旗が並ぶ |
典厩寺に眠る信玄の実弟・武田信繁の墓。信繁は謙信さえ 一目置く文武両道の将だが、信玄を守って壮絶な死を遂げた |
「信繁公の首清め井戸」 敵から 信繁の首を奪還して清めた井戸 |
ちなみに典厩寺には日本最大 となる5mの閻魔像がいる |
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| 「胴合橋」 勘助の家来が敵から勘助の首を奪い返し 胴と首を合わせた場所。生々しい名前っすね(汗) |
武田軍が本陣を築く為に渡った千曲(ちくま)川 |
千曲川の堤防沿いの、えっ、こんなとこに!? というような場所に墓がある |
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| 墓所には記帳コーナーや無人の売店があった |
大河ドラマで墓参者が激増した |
「山本道鬼居士墓」 |
こちらは「キツツキ戦法」で別働隊を 指揮した高坂弾正(長野市松代町) |
| 甲斐武田の軍学書『甲陽軍鑑』(高坂昌信)に記された名軍師。武田二十四将&武田五名臣の一人。出家後の名は道鬼斎。出身は現・愛知県豊川市牛久保町とも、静岡県富士宮市山本とも言われる。色黒で顔は醜く、片眼(隻眼)で足が不自由という異形の容貌だったという。26歳で武者修行に出た勘助は10年にわたって全国を巡り、用兵術や築城術など兵法を極めていった(天文にも長けた)。37歳の時に今川義元に仕官を願ったが、義元は勘助の外観に抵抗を感じて登用しなかった。1543年(50歳)、ようやく兵法家としての名声が伝わり始め、築城の達人を求めていた当時22歳の甲斐国主・武田信玄(晴信)から知行100貫という破格の待遇で招かれた。初対面の際に勘助の才に惚れた信玄は知行を200貫に倍増する。武田の旧臣からは勘助への妬みや誹謗があったが、登用直後から信濃国で九つの城を落とすなど大手柄をあげて周囲に認められた。信濃国・村上義清との激戦では、勘助の機転(陽動作戦)で敗北寸前の状況から大逆転し、この功績で勘助は足軽大将に抜擢された(知行も800貫に)。勘助は築城でも求められた才を発揮し、高遠城、小諸城、海津城を築き、特に海津城城主の高坂昌信は居城を「武略の粋が極められている」と絶賛した。また、信玄は勘助の意見を受けて国内法となる「甲州法度之次第」を制定し領内の秩序を維持した。 1561年の第4次川中島の戦いにおいて、勘助は軍を二手に分けて上杉軍を背後から突く「キツツキ戦法」を立案。しかし、謙信はこの策を見抜いて先に兵を動かし、武田の本陣へ「車懸りの陣」(回転陣形)で襲いかかった。武田軍は二手に分かれていたので本隊の兵力が上杉1万3000に対して8千しかなく窮地に追い込まれる。謙信の猛攻を受けて武田側は信玄の弟で人格者の名将・武田信繁が討死し、多くの武将が散っていった。勘助は責任を取って敵に突撃し、獅子奮迅の戦いを見せて13騎を倒したが、上杉の柿崎景家隊から無数の槍で攻め立てられて落馬し、ついに坂木磯八の手で首を取られた。それから14年後に、勘助の子・勘蔵も長篠の戦いで家康本陣に単騎で突撃して戦死する。 「山本道鬼居士」と刻まれた勘助の墓は川中島古戦場に近い千曲川の土手下に建つ(松代町柴)。この墓は信玄に出会うまでの勘助の人生の如く放浪している。当初の墓は千曲川の川辺にあったが洪水の被害を受け、1624年に千曲川沿いの松原に移され、さらに1739年に“寺に葬ってやらないと可哀相”と松代藩真田氏家老が私財を投じて、信玄ゆかりの阿弥陀堂境内(現在地)に遺骨と共に移された。その阿弥陀堂もまた昭和初期の堤防工事で移転し、今は勘助の墓だけがポツンと残っている。墓石の左右と背後には勘助の経歴が彫られている。生誕地の愛知県豊川市にも遺髪墓が建つ。 ※戦国期の文献では『甲陽軍鑑』にしか名前が登場しないことから架空の人物と疑われてきたが、近年(1969年)、北海道で発見された武田信玄書状に「山本菅助」の名があり実在説が有力に。信玄が他国領主へ宛てて書いた文面には「作戦の詳細は山本勘助が口上でお伝えします」とあり、勘助が信玄から大きな信任を得ていたことが伺える。 ※海軍大将の山本五十六は勘助と同じ家系とのこと。 ※勘で山をはる「ヤマカン」は“山”本“勘”助からきているという説がある。 |
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| JR甲斐大和駅のホームにて(2008) |
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| 甲斐大和駅にはロッカーがない、 タクシーもない、バスは4時間に1本… |
全荷物を背負って歩くしかない! すぐ横を空荷のダンプが猛スピードで突っ切る |
秘境に行くのか… |
だんだん景色が変わってきた |
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| 川辺に追悼碑が。勝頼や夫人が自害した後に、 夫人の侍女16名が側の川で殉死したらしい… |
木に隠れてるけど下に川がある。 徐々に終焉の地の悲壮感が漂ってきた |
景徳院前の「首洗い池」 生々しすぎるぜ |
ここにあった首洗い池で勝頼 の首を洗った。武田の家紋入り |
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| 歩くこと約45分、ついに 景徳院の山門に到着! |
境内の外れにあった「没頭地蔵尊」。別名“首無し地蔵”。その名の通り、お地蔵さんの 首がありません…。ここに勝頼、北条夫人(19歳)、信勝(16歳)の体を葬ったとのこと |
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| 境内の「生害石」。この場所で勝頼は自害した。新羅三郎義光以来、28代495年の 武田家の歴史がここに終わりを告げた※“生害石”なんて見たのは初めて |
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| 勝頼の墓は1775年に200年遠忌として建立された。 後で紹介する法泉寺が首塚なら、こちらは胴塚になる |
左から信勝、勝頼、北条夫人。過去に2度 火災に包まれ、墓石はヒビだらけだ |
上部がかなり破損して いた。これは可哀相 |
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| 甲府市、法泉寺の墓。同寺第3世快岳禅師が京都から勝頼の首を運び出し、密かにここへ埋めて目印に 山桜を植えたという。この山桜は甲府近郊に自生するものとは異なる種類で、奈良吉野山の桜と同種のものだ |
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| 織田軍は勝頼を供養した恵林寺の僧侶を この山門に集めて焼き殺し、全山に火を付けた |
炎の中で快川国師は「滅却心頭火自凉」(しんとう めっきゃくすれば、ひおのずからすずし)と辞世 |
快川(かいせん)国師ら僧侶約150人の骨を埋葬。 信長は比叡山といい僧侶に容赦がない(2008) |
| 信玄の後継者となった勝頼は、父が落とせなかった高天神城を落とすなど、父の時代よりも領地を広げた実力者であり、信長をして「勝頼は表裏をわきまえた武将であり、油断ならぬ敵である」と言わしめた男。しかし常に父と比較され叩かれるので、もっと大戦果をあげて古参の家臣に認められたいと功を焦った。この血気は信玄の死から2年後の『長篠の戦い』(1575)で裏目に出た。織田・徳川連合軍が“馬防柵”を作って待機する光景に、「あんな陣形は見たことがない。何かの策略であり戦は延期しましょう」と重臣達が提案するのを「臆病者!」と怒り、3千人の鉄砲隊(千人が三段になって発砲した)に向かって無謀な突撃命令を繰り返し、武田騎馬軍1万5千のうち、生還者が僅か3千という壊滅的な打撃を受けた。 この戦で信玄時代の名将たち(山県昌景・馬場信房・内藤昌豊・真田信網・原昌胤他)がことごとく戦死した。彼らは「このまま自分の目で武田家滅亡を見るよりも、いま華々しく散って信玄殿の御恩に報いよう」と互いに酒を酌交わして出撃した(鎧兜が赤一色という“赤備え”の山県昌景隊は、全滅するまで13回も突撃を繰り返した。山県は17発も弾を浴びていたという。彼は三方ヶ原の戦で、家康をして「さても山県という者、恐ろしき武将ぞ。危うく命を落とすところであった」と言わしめた男)。 勝頼はこの後も7年間生き延びたが、最期は織田・徳川連合軍の攻勢で山中を逃亡し一族と共に自害した。 自害する直前に、勝頼は嫡男・信勝に家督を相続させる儀式を行なった。本来であれば他の大名や公卿が列席する前で行なうものだが、最後まで生き残った数名の家臣を前に家督継承を宣言した。まだ16歳だった信勝は家督を継ぎ成人となり、武田家最後の当主として旅立った。 ※勝頼の亡骸は信玄の菩提寺・恵林寺が引き取り供養を行った。同寺の高僧・快川紹喜(かいせんじょうき)は、信長に敵対した近江の六角義賢(佐々木承禎/しょうてい)を匿い逃亡させたことがあり、怒った信長は信忠に命じて恵林寺全山を焼き払い、僧侶150余人を山門に集めて焼き殺した。燃え盛る炎の中で快川国師はこう辞世の句を詠んだ--「心頭滅却すれば火もまた涼し」。 「夏山の遠きこずえの涼しさを野中の水の緑にぞ見る」(勝頼) |
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| 1570年6月28日、激戦の地となった姉川 |
浅井・朝倉連合軍1万8千人と織田・徳川連合軍2万9千人が激しくぶつかり 姉川は川面が赤く染まったという。川岸には“血川”という地名まであった |
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| 徳勝寺の長政の墓 | 浅井三代が並ぶ。左から長政、祖父の亮政(初代当主)、父の久政 | すぐ背後は巨大マンション |
| 浅井家初代亮政(長政の祖父)が築いた領地を二代・久政が六角氏に奪われたので、浅井家の重臣は弱腰の久政を追放し、1560年、まだ15歳の長政を当主にたてた。長政は六角氏を抑えて領地を奪還し、浅井の名誉を挽回。1968年(23歳)、織田信長の妹で美しいお市を妻にむかえて信長と同盟を結ぶ。元々、浅井は朝倉と同盟関係だったが、織田と朝倉は不仲だったことから、長政は信長に対して「織田は朝倉に進軍せず」と約束させた。織田と結んで勢いに乗る長政は六角氏を完全に駆逐し、近江の大半を支配する。しかし、信長が約束を破って朝倉を攻め始めると、長政は朝倉との義理を重んじてこれを支援、信長と対立する。1570年(25歳)、姉川の戦いで、浅井・朝倉連合軍は織田・徳川連合軍に敗北。この戦いで浅井軍が織田軍の備え13段のうち11段まで崩す猛攻を見せたにもかかわらず、側面の朝倉があまりに弱かった為にそこから突かれ敗れたのであった。 それから3年ほど、武田信玄や宗教勢力と組んで信長に対抗し続けるが、1673年(28歳)、居城の小谷城が信長の包囲攻撃を受け、妻子を脱出させた後に自害した。信長にとって長政は妹の夫であり、新たに領地を与えるという破格の降伏勧告を出したが、長政は名誉を重んじて腹を切った。翌年の正月に、信長は長政、久政、朝倉義景の頭蓋骨に金箔を施し、割って裏返すと酒を注いで呑んだと伝えられている。 ※お市は深く長政を愛しており、共に死ぬと言ってきかなかったのを、長政が説得して脱出させた。ちなみに長政の長女は後に秀吉の側室となるあの茶々=淀君だ。また、3女は徳川秀忠の妻となった。 |
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| 福井駅からバスで約30分。一乗谷朝倉氏遺跡の入口 | 朝倉義景の墓。北陸は豪雪の為か石廟が多い | 林の中に墓所がある |
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| 一帯はめちゃくちゃ自然が豊か | 付近に武家屋敷が復元され見学可能 | この広大な面積に朝倉義景の館があった |
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越前の戦国大名。朝倉孝景の子。1548年に父が他界し、15歳で家督をつぐ。1565年(32歳)、京都で松永久秀による“将軍殺し”(足利義輝死亡)が起き、逃れてきた足利義昭を一乗谷に迎えた。義昭は義景に上洛を促すが非協力的なので、家臣の明智光秀と共に織田信長の元へ去ってしまう。上洛に成功した信長が義景に従属を求めてきたが、義景はこれを拒否したことにより信長の最初のターゲットとなる。その後、信長に対抗するために、浅井長政、本願寺、武田信玄などと協力して信長包囲網を築くが、1570年(37歳)に近江の姉川の戦で織田・徳川連合軍に大敗。1573年にはついに本拠地一乗谷を信長に侵攻され、逃亡先の賢松寺(福井県大野市)で自害した。享年39歳。武将としては何度も信長に勝つ好機を逃すトホホぶりをさらけ出したが(あまりのヘタレさに家臣は逃げ、武田信玄はマジギレ)、一乗谷に京風の文化の城下町を築くなど、文化人としては高く評価されている。
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| あの日、今川軍が本陣をはっていた高徳院 | 名古屋市からも近い桶狭間古戦場公園。高徳院の前にある | 義元が戦死した場所を示す石柱 | |
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| 古戦場の片隅にある義元の墓。 1876年まで墓石がなく塚だけだった |
『今川治部大輔義元墓』 きれいな花が供えられていた |
300忌に建立された供養塔。仏式 の戒名が彫られている(高徳院) |
浄土宗の高僧徳本行者が今川・ 織田両軍の戦死者を弔った小塔 |
| 駿河今川家第9代当主。1536年に17歳で家督を相続。武田・北条との婚姻関係による同盟、軍事組織の改革、産業をおこしての領国経営、外征の成功という多方面に才を発揮して、今川氏を東海一の大勢力に成長させた。しかし、1560年(41歳)に2万2千の大軍を率いて尾張に侵攻した際、桶狭間の陣中で休息中に信長の兵3千人の奇襲を受けて討ち取られた。義元の死後、名門今川氏は急速に衰退し、他界からわずか8年後に滅亡したのでおじゃる。 |
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| JR津久見駅前の宗麟像 | 戦国の十字軍を率いて地上の天国を築こうとした(宗麟公園) |
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| 戦国武将の墓とは思えないモダンな美しさ! こんな墓の大名は見たことがない |
十字架入りの棺には宗麟の名前の他に 洗礼名「ドン・フランシスコ」も刻まれている |
キリシタン弾圧を恐れて作られた 仏式の墓。葬式も仏式にやり直した |
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| この角度からだと仏式墓と洋式墓の両方が見える! |
菩提寺の京都大徳寺・瑞峯院の 枯山水は十字架の形を作っている |
こちらは瑞峯院にある大友夫妻の墓。 “瑞峯院”は宗麟の戒名だ |
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キリシタン大名。本名大友義鎮(よししげ)。洗礼名はザビエルにあやかったドン・フランシスコ(普蘭師司怙)。一時は九州6カ国を支配し、幕府より守護職・九州探題職を任ぜられるなど、九州最強の大名だった。宗麟は貿易目当てで教会を保護していたが、ミサ曲で感動したことをきっかけに熱心なキリシタンとなり、領地に無鹿(ムジカ=ミュージック)という地名まで付けた。しかし、キリシタン王国の理想郷建設を目前とした1578年(48歳)に、薩摩の島津義久に日向(耳川の戦い)で大敗し、龍造寺軍や秋月軍の侵攻も受けて一気に衰退していった。家臣団も反キリスト者と宗教対立が起き分裂。最期は豊後1国を維持するのが精一杯だった。
宗麟の葬儀はキリスト教式に行われたが、秀吉がキリシタン弾圧を始めた為に、子の義統は仏式の葬儀をやり直し、墓も仏式に改めた。1977年、大分市長の発案で新たにキリスト教式の墓に改葬された。
※日本で初めて大砲(国崩し)を使ったのは宗麟。火薬も自分達で作った。
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| なんと400年以上も歴史がある墓地! |
最凶のワルだが憎めない |
戒名は『妙久寺殿祐雪大居士』 |
後世の平蜘蛛釜(by楽天) ※本当に蜘蛛が這いつくばった様だ |
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北条早雲、斎藤道三と並ぶ日本三大梟雄(きょうゆう)。父も出生地も不明。1540年(30歳)、三好長慶(ながよし)に仕えると実務家として手腕を振るい、1553年に長慶の畿内制覇を実現させる。信頼を得た久秀は長慶の娘と結婚。1559年(49歳)、長慶の任命で大和国信貴山城に移り、翌年には大和一国を統一した。1562年(52歳)、多聞山城を築城し居城とする。一方、三好長慶には3人の弟がいたが、十河一存(そごうかずまさ)、実休と相次いで死に、嫡男・義興(よしおき)まで先立つなど、度重なる不幸で衰弱する(実休以外は久秀の謀殺とも言われている)。さらに久秀は、残った長慶の弟・安宅冬康(あたぎふゆやす)を葬るべく、“冬康に謀反の疑いあり”と長慶に吹き込み、まんまと冬康を自害に追い込んだ。こうして久秀は三好家の家臣でありながら、主家を上回る権力を持つようになる。1564年(54歳)に長慶が他界すると、久秀は長慶の幼い養子・義継の後見人となった。1565年(55歳)、久秀は三好一族の有力者3人“三好三人衆”と共に、なんと室町13代将軍・足利義輝を攻め滅ぼした。その後、三好三人衆と対立し、1567年に三好三人衆が陣をはった東大寺を大仏ごと焼き払った。
1568年(58歳)、信長が上洛すると抵抗せずに天下の名茶器「九十九髪茄子」を差し出し、大和一国の支配を任される。浅井長政の裏切りで信長が死にかけた時は、撤退の道を確保して信長を救った。しかし、信玄・毛利など信長包囲網が固まり出すと、1573年(59歳)に15代将軍・足利義昭と同盟して信長を裏切った。ところがすぐに信玄が病死し、義昭が京を追われて室町幕府が滅亡したことから、久秀は多聞山城を差し出して信長に降伏せざるを得なかった。しばらくは織田軍の一角として石山本願寺の攻略戦に参加していたが、1577年(67歳)に上杉・毛利ら反信長勢と連携して再度反逆し、大和信貴山城に立て籠もった。信長は嫡男・信忠を総大将に冠した大軍で信貴山城を包囲させる。 信長は裏切り者は一族ごと抹殺する男だが、二度も久秀が裏切っているにもかかわらず、久秀の所有する名物茶釜「平蜘蛛釜」と交換に命を救うという異例の条件を提示した。ところが久秀はこれを拒絶。その結果、人質として信長のもとにいた久秀の息子2人は処刑された。やがて城攻めが始まると、「信長にこの白髪頭も平蜘蛛釜もやらん!」と平蜘蛛釜に火薬を詰めて首に巻き、釜もろとも爆死。信貴山城の天守閣は吹き飛んだ。前代未聞の衝撃的な最期だった。享年68歳。 主君(三好家)を滅ぼし、将軍(13代義輝)を暗殺し、東大寺を焼き討ちして大仏の首を落とした秀久。仏罰が当たると言われ「ただの木と鉄の塊に過ぎん」と言いのけた。久秀に対する信長の寛容さは、比叡山を焼いた自分とルール無用っぷりが似ていて、どこか共感したのかも知れない。信長は久秀を家康に紹介する際、こう語ったという--「この老人は全く油断ができない。彼の三悪事は天下に名を轟かせた。一つ目は三好氏への暗殺と謀略。二つ目は将軍暗殺。三つ目は東大寺大仏の焼討である。常人では一つとして成せないことを三つも成した男よ」。 墓は400年以上も歴史を持つ旧本圀(ほんこく)寺・妙恵会墓地。本圀寺の檀徒だった久秀は、松永家の祖先の菩提のために、本圀寺の墓地としてこの土地を寄付。久秀の屋敷跡がそのまま墓地となった。 ※久秀は1566年(56歳)に三好三人衆と戦っていた頃、日本で最初に「クリスマスだから」と休戦を命じた変わった記録を持つ。また、千利休の師匠・武野紹鴎(じょうおう)から茶を学んでおり、連歌もよくした教養人でもあった。 ※久秀が爆死したのは、偶然にも10年前に彼が大仏を焼いた時と同じ10月10日だった。
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| 『毛利元就公霊所』 | 大きな五輪塔の毛利元就夫妻の墓(手前が元就) | 毛利元就像 | 夫妻の側には無数の毛利家のお墓 |
| 安芸郡山(広島県吉田町)を本拠とし、中国地方のほぼ全てを制圧した名将。稀代の策略家。兄・興元や兄の子が早く他界した為、1523年に26歳で家督を継ぐ。その頃の中国地方は、大内氏と山陰の尼子氏が2分。国人領主の元就は尼子晴久と大内義隆の両陣営を上手く渡り歩きながら、次男の元春を吉川(きっかわ)氏へ、そして三男の隆景を瀬戸内の小早川氏へ養子入りさせ、安芸と備後(びんご)で勢力を拡大させた。陶晴賢(すえはるかた)が大内義隆を滅ぼすと、1555年(58歳)に厳島へ晴賢軍をおびき出し、奇襲攻撃でこれを殲滅、大内氏の領国を支配下に入れた。続いて1566年(69歳)には尼子氏を滅亡させ、最終的に中国地方10カ国と北九州・四国の一部までを支配する巨大大名となった。長男の隆元が死んだことから(享年40歳)、孫の輝元に当主を継がせ、元就は74年の生涯を閉じた。家紋は一文字三星紋。 墓所は非公開の大徳寺よりも、広島県安芸高田市の吉田郡山城跡(大通院跡)が公開されており有名。 「1本の矢は簡単に折れるが3本が束になると折れにくい」という有名な逸話『三矢の訓』は、元就が息子達3兄弟に結束を説いたもの。子ども達はこの教えをよく守り、長男隆元の死後も次男の吉川元春と三男の小早川隆景が「毛利両川」(りょうせん)と呼ばれるほどの結束を見せて毛利本家を守った。 |
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| 荘厳な雰囲気に圧倒される | 歴代の毛利家・萩藩主たち | 重臣が献上した石灯籠の数はなんと500基! |
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| 墓前の亀趺(きふ、亀型の台石)に故人の行跡を刻んだ碑文があった(亀の顔は全部違う!) |
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| 左から骭ウ、吉川元春、小早川隆景の毛利三兄弟 | 謎の急死を遂げた |
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名将・毛利元就の嫡男で、『三本の矢』の逸話に登場する毛利三兄弟の長男(次男・吉川元春、三男・小早川隆景)。1546年に23歳で家督を相続。教養人で戦を好まなかったが、1555年(32歳)の厳島合戦では、兵の士気を鼓舞するために、暴風雨のなか父元就の制止を振り切り最初に軍船へ乗り込んだという。この戦での勝利が毛利氏繁栄の土台となった。1563年、尼子氏の攻略のために出雲に向う途中で、備後の和智誠春が用意した宴の後に急死。食中毒か毒殺の可能性が高い。怒った元就は和智誠春を殺害した。骭ウの死を受け、毛利家の家督は骭ウの嫡男・輝元が継いだ(輝元は後に豊臣五大老となる)。幕末の思想家、吉田松陰は骭ウをこう表した「素行は端正で、敵に臨んで勇決する、仁孝に篤き良将であった。その生涯は、まさに平重盛の如く」。
※武将としては珍しく側室を持たず、妻1人を愛し抜いた。「たいした事は起きていないが(部下が)吉田に戻ると言うので手紙を書いた」という戦場から妻に出した手紙も残っている。
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| 左から骭ウ、吉川元春、小早川隆景の毛利三兄弟 | なぜか1人だけ小さい |
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毛利元就の次男で山陰地方の司令官。生涯戦績は76戦64勝12分、つまり一度も敗れたことのない猛将だ。初陣は1540年(10歳)の対尼子戦。1547年(17歳)、父元就は元春を吉川興経の養子に送り込み、3年後に興経を隠居させ元春を吉川氏当主にした。さらに元就は興経と実子を殺害し完全乗っ取りに成功する。そして、1555年(25歳)に厳島の戦いで毛利は歴史的勝利を収め、1566年(36歳)には尼子氏を降伏させ長き戦いに決着を付けた(後に再興軍と戦闘、これも勝利)。1571年に元就が他界すると、まだ18歳だった本家当主・甥の輝元を弟・小早川隆景と共にサポート。織田信長が頭角を現してからは秀吉率いる中国遠征軍と戦った。秀吉との橋津川の戦いに際し、元春は自軍の退路を断つべく橋を落として背水の陣を敷く。最初から死ぬ気100%の兵を“死兵”といい、これにビビッた秀吉は「死兵に当たるべからず」と撤退した。
1582年(52歳)に本能寺の変が起き、秀吉が天下人になると元春はこれを嫌って隠居した。1586年、秀吉からの強い圧力を受けて九州攻めに参加するなか小倉で病没。内臓に持病があったが、黒田如水が用意してくれた九州では珍しい鮭の料理を食べ(断り切れなくて?)、病が悪化したという。 墓は大徳寺の他、元春が隠居用に作らせた吉川館に隣接する海応寺跡にもある(広島県山県郡北広島町)。
※吉川晃司は子孫。
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| 『史蹟 蒲池鎮並夫人外百八人/塩塚落城殉難之地』と 石碑にある。義を貫き、悲劇の運命をたどった108人を悼む |
付近に『塩塚城址』の石柱と城オブジェがある |
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筑後十五城no
蒲池鎮並(かまちしげなみ)の妻・玉鶴姫は“肥前の熊”龍造寺隆信の娘。龍造寺隆信は16歳の時に政争に巻き込まれて故郷を脱出した際、蒲池鎮並の父親に助けられており、蒲池氏が龍造寺家再興の恩人であることから、娘の玉鶴姫を嫁がせていた。その後、龍造寺隆信が筑後を攻めた時、妻の父親ということで鎮並も協力したが、龍造寺の残虐な性格とあくなき領土支配欲に「もう、ついていけませぬ」と離反。怒った龍造寺は、鎮並の居城で名城として知られる柳川城を攻撃。だが防御性に優れた柳川城は龍造寺2万の軍勢でも落とせず和睦を結ぶ。
後日、鎮並が島津氏に接近したことで危機感を抱いた龍造寺は、「蒲池と龍造寺との和解の宴を催すので招待したい」と鎮並に伝えた。鎮並は罠を警戒して当初は断っていたが、義父が和解したいと言ってるのを断り続けることも出来ず、重臣たちが「行ってはなりませぬ」と制止するのを振り切って、先鋭部隊の200人を連れ肥前に向かった。鎮並は佐賀城で龍造寺の息子・政家から歓迎されるが、翌日5月29日に鬼父・龍造寺隆信の大軍の襲撃を受ける。200人で必死に反撃するも、最期は全員が討死して鎮並も自決し、34歳で散った(1581年)。龍造寺はさっそく柳川城への総攻撃を開始。家臣に下した命令は、かつて龍造寺を助けてくれた恩人、「蒲池一族の抹殺」だった。さすがにこのメチャクチャな命令には龍造寺の家臣も「戦国の世とはいえ非情すぎる」と絶句し、中には龍造寺四天王の百武賢兼のように、攻撃命令に反して最後まで出陣しなかった者もいた。
一方、夫・鎮並の帰りを待っていた玉鶴姫は、自分の父が卑劣な手で夫を殺害したことを知り、龍造寺家には戻らずに鎮並の後を追い塩塚城で自害した。この時、玉鶴姫の侍女108人も命を共にする。 龍造寺隆信の蒲池一族に対する無惨な仕打ちは、龍造寺の人望を一気に落とし、同盟者も不信感を抱いて去っていった。龍造寺は鎮並謀殺の3年後に、島津家久&離反した有馬晴信の連合軍に討ち取られ、龍造寺の兵は主君の亡骸を戦場に放置したまま逃げ去ったという。 |
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| “島津の英主”ここに眠る | 墓前の花立てに島津の家紋 |
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“島津の英主”と称えられる島津氏第15代当主。実父は島津氏の分家でありながら、島津氏の中興の祖となった島津忠良。貴久は本家の第14代島津勝久の子供が早逝したことから12歳で養子に迎えられ、本家の家督を継いだ。その後、この家督継承に不満を持った薩州家の島津実久らが旗揚げして島津家は身内で戦となる。貴久は一時居城を追われるほど窮地に陥るが、1533年(19歳)に初陣を勝利で飾り本格的に反撃を開始。その後も勝ち続けて1550年(36歳)に鹿児島へ入った。それから6年をかけて大隅を攻略して薩摩、大隅両国を統一。1566年(52歳)、長男の義久に家督を譲って隠居。1571年に他界する。享年57歳。
貴久は琉球国王(11代尚元)と条約を結んで諸外国と貿易し経済を活性化させた。種子島氏が銃の国産化に成功し、またポルトガルからも銃を輸入しており、実戦(VS入来院氏)に初めて鉄砲を投入した戦国大名とされている。子供たち4人は全員が優秀で「総領の義久、武勇の義弘、智謀の歳久、兵法の家久」と賞賛されている。 ※お墓の右隣には長男・義久が眠っている。 |
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| 順慶の墓はお堂(重要文化財)の中にある | 格子の隙間から墓(五輪塔)が見える |
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| 「ノラ猫が住みついて困っています。 絶対にエサを与えないで下さい」 |
って、お前のことか〜!(笑) ※守り神に見えなくもない。神社の狛犬ならぬ狛猫か |
墓前はブルボンのお菓子や餅焼き網? に載った賽銭などちょっとしたカオス |
